東の海。
朝。
世界政府の船は、次なる目的地へ向けて海を進んでいた。
その甲板。
トップマン・メフェリア宮は、一枚の紙を真剣な表情で眺めていた。
「…………」
眉間にわずかに皺まで寄っている。
普段の彼女を知る者ならば、何か重大な情報でも書かれているのかと思っただろう。
しかし。
「チーズ焼き……」
違った。
「濃厚ミルクプリン……」
島の観光案内だった。
「生クリームのケーキ……」
ページをめくる。
「……アイスもある」
メフェリアの口元がほんの少し緩んだ。
その隣。
政府役人が別の資料を持って立っている。
「メフェリア宮」
「なに?」
「そろそろ任務の資料もご確認ください」
「見てるよ」
「そちらは観光案内です」
「重要」
「任務の資料をお願いいたします」
「後で」
「到着まで一時間を切っております」
「じゃあ三十分後」
「今です」
「…………」
メフェリアが嫌そうに顔を上げる。
役人も引かない。
ここ数日。
少しずつメフェリアの扱い方を覚えてきていた。
「メフェリア宮」
「分かったよ」
観光案内を置く。
代わりに渡された資料を見る。
今回向かう島。
ベルネ島。
温暖な気候と広大な牧草地を持ち、酪農が盛んな島。
牛や山羊から作られる乳製品が名産。
交易も盛んで、東の海の周辺地域へチーズやバターを輸出している。
そして――。
ラッカ島で押収した密輸組織の記録。
その中に、ベルネ島の名前が存在していた。
「三日後、この島で取引が行われる予定だったようです」
「三日後?」
「はい」
「今日じゃないの?」
「予定より先回りしております」
メフェリアが少し考える。
「じゃあ三日間暇?」
「調査があります」
「…………」
「調査があります」
二回言われた。
「分かってるって」
メフェリアは資料へ目を落とす。
取引相手の名前は記されていない。
ただし。
これまでの帳簿とは違う記述が一つ。
『東の仲介人』
メフェリアがそこを指差す。
「これ?」
「はい」
「名前じゃないね」
「おそらく通称でしょう」
「ふーん」
資料を役人へ返す。
「その人見つければ終わり?」
「そう単純ではありませんが、事件の全容には大きく近づけるかと」
「終わったら自由?」
「…………」
役人が嫌な予感を覚える。
「状況次第では」
メフェリアの目が少し開いた。
「頑張ろ」
「動機については聞かないことにいたします」
「仕事するなら同じでしょ」
それはそうだった。
*
ベルネ島。
船が港へ入る。
メフェリアは甲板から島を眺めていた。
「…………」
緑。
港町の向こうには、なだらかな丘陵地帯が広がっている。
遠くには牧場。
牛。
風車。
マリージョアとも。
これまで訪れた港町とも違う景色だった。
船から降りる。
ふわり。
風が吹いた。
緑色の髪が揺れる。
メフェリアの鼻がわずかに動いた。
「いい匂い」
役人が周囲を警戒する。
「何の匂いでしょうか」
「バター」
「……分かるのですか?」
「多分」
歩き出す。
「メフェリア宮」
「調査でしょ」
役人が少し驚く。
「はい」
「早く行こ」
「……随分と積極的ですね」
「早く終わればいっぱい食べられるから」
やはりそれだった。
*
今回の調査対象。
港の西側にある商会。
表向きは乳製品を扱う貿易商。
しかし密輸記録には、この商会が管理する船の名前が何度も登場していた。
メフェリアたちは商会から少し離れた場所に立っている。
「どうでしょう」
役人が尋ねる。
メフェリアは建物を見る。
「いる」
「何人ほど?」
「いっぱい」
「具体的には」
「数えるの面倒」
「…………」
翡翠色の瞳が細くなる。
見聞色。
そして窮奇として備わった、敵意や悪意を嗅ぎ取る感覚。
「でも」
「はい」
「あそこ」
建物の二階を見る。
「嫌な感じする」
「敵意でしょうか」
「それもあるけど……」
少し首を傾げる。
「中の人、怖がってる」
役人の表情が変わる。
「内部で何か起きていると?」
「多分」
「突入しますか?」
「うん」
即答。
「よろしいのですか?」
「早く終わらせたい」
「……承知しました」
理由は聞かなかった。
*
商会。
正面入口。
ドン。
扉が開く。
「世界政府」
メフェリアが入ってくる。
「動かないで」
倉庫にいた男たちが一斉に振り返る。
「なっ……!」
「政府!?」
数人が武器へ手を伸ばす。
メフェリアがため息をついた。
「また?」
一人が銃を抜いた。
その瞬間。
シュッ。
レイピア。
銃身が真っ二つになる。
「え?」
男が理解するより早く。
メフェリアが懐へ入る。
柄。
鳩尾。
「ぐっ!」
一人。
二人目。
剣が振り下ろされる。
武装色を纏ったレイピアで受ける。
金属音。
そのまま弾き飛ばす。
「こいつ……!」
三人。
四人。
「囲め!」
四方から男たちが迫る。
メフェリアの顔に変化はない。
眠そうなまま。
「面倒……」
次の瞬間。
ドンッ!!
空気が震えた。
男たちの身体がまとめて吹き飛ぶ。
壁。
床。
机。
数秒。
静かになった。
政府役人たちが入ってくる。
「制圧完了……ですね」
「うん」
メフェリアがレイピアを鞘へ戻す。
「ご飯行っていい?」
「まだです」
「…………」
ものすごく嫌そうな顔をした。
*
二階。
扉を開ける。
そこには数人の男たちが縛られていた。
商会の職員らしい。
「世界政府の方ですか!?」
「た、助かった……!」
役人たちが拘束を解いていく。
メフェリアは部屋を見る。
「誰にやられたの?」
商会の男が答える。
「分かりません……数日前、突然武装した連中が押し入ってきて……」
「何してた?」
「うちの船を勝手に使って、荷を運んでいたようです」
「何の?」
「それが……」
男の表情が曇る。
「箱は絶対に開けるなと言われていましたので」
メフェリアは役人を見る。
「調べて」
「はい」
階下の捜索が始まる。
しばらくして。
「メフェリア宮!」
声が飛んできた。
一階へ降りる。
倉庫。
大量の木箱。
役人が一つを開ける。
「これは……」
武器。
別の箱。
薬品。
さらに別の箱には世界政府の紋章。
「やはり、これまで奪われた物資の一部です」
「ふーん」
メフェリアは興味なさそうに眺める。
その時。
「…………」
一つの箱が目に入った。
他より小さい。
鎖。
鍵。
「これ何?」
「現在確認を――」
メフェリアがレイピアを抜く。
「お待ちください!」
シュッ。
鎖が落ちる。
「開いた」
「メフェリア宮……」
箱を開く。
中には。
一冊の帳簿。
そして一枚の紙。
役人が紙を取る。
目を通す。
表情が変わった。
「……取引予定表です」
「見せて」
メフェリアが覗き込む。
島の名前。
日付。
物資。
金額。
そして何度も登場する文字。
『東の仲介人』
「またこれ」
「はい」
さらにその下。
次回の取引場所。
ベルネ島北部。
旧牧場。
メフェリアが時計を見る。
昼前。
「ここからどれくらい?」
「馬車で一時間ほどです」
「帰ってくるのは?」
「夕刻になるかと」
「…………」
メフェリアの顔が曇った。
「何か問題でも?」
「お昼」
「携帯食を用意いたします」
「嫌」
即答。
「しかし――」
「せっかくこの島来たのに」
「任務です」
「チーズ……」
「任務です」
「プリン……」
「任務です」
「…………」
役人は譲らない。
メフェリアが大きくため息をついた。
「分かった」
「ありがとうございます」
「でも」
「はい?」
観光案内を取り出す。
地図の一点を指差す。
北へ向かう街道沿い。
小さな牧場。
『モーモ牧場 名物・焼きチーズ』
役人が確認する。
確かに通り道だ。
「……三十分だけです」
メフェリアの機嫌が一瞬で直った。
「行こ」
「切り替えが早いですね……」
*
昼。
モーモ牧場。
「…………」
メフェリアは目の前の料理を見ていた。
丸い鉄板。
厚切りのパン。
肉。
野菜。
そして。
たっぷりのチーズ。
熱で溶けたチーズが肉を完全に覆っている。
「どうぞ!」
牧場の女性が笑う。
「うちの名物、焼きチーズ肉!」
メフェリアがフォークを入れる。
持ち上げる。
びよーん。
チーズが伸びる。
「…………」
さらに持ち上げる。
びよーーーーん。
メフェリアの目が少しずつ開いていく。
「伸びる」
「そりゃチーズだからね!」
「面白い」
「遊んでないで冷める前に食べな!」
一口。
「…………!」
濃厚なチーズ。
肉。
焼けた野菜。
パン。
全部が一緒になる。
メフェリアは黙々と食べ始めた。
役人が横から時計を見る。
「メフェリア宮」
「なに?」
「残り二十分です」
「…………」
食べる速度が上がる。
「急がなくても」
「時間ないんでしょ」
「そうですが……」
「おかわり」
「増やすのですか!?」
牧場の女性が豪快に笑う。
「よく食べるねぇ!」
「美味しいから」
「嬉しいこと言ってくれるじゃない!」
追加。
メフェリアは食べる。
そして。
「デザートある?」
役人が顔を覆った。
「あるよ!」
女性が奥へ引っ込む。
戻ってきた。
小さな器。
真っ白なプリン。
上には蜂蜜。
「ミルクプリン!」
メフェリアが一口。
「…………」
二口。
三口。
女性が尋ねる。
「どう?」
メフェリアは真剣な顔で答えた。
「これ」
「うん?」
「マリージョアに持って帰れる?」
「マリー……?」
「なんでもない」
役人が時計を見る。
「メフェリア宮」
「あと五分?」
「時間です」
「…………」
メフェリアがプリンを見る。
「もう一個」
「時間です」
「食べながら行く」
「それなら構いません」
「三個」
「一個です」
「二個」
「一個」
メフェリアが役人を見る。
役人も見る。
沈黙。
「…………二個」
役人が負けた。
*
午後。
ベルネ島北部。
旧牧場。
メフェリアは歩いていた。
片手には二個目のミルクプリン。
「美味しい」
「まだ召し上がっていたのですか」
「大事に食べてた」
目の前。
廃墟となった牧場。
風車は止まり。
柵は壊れ。
人が生活している様子はない。
役人が周囲を見る。
「取引予定は三日後です。さすがに今日は誰も――」
「いるよ」
メフェリアが言った。
役人が止まる。
「何人ですか?」
「一人」
「一人?」
「うん」
最後の一口。
プリンを食べ終える。
容器を役人へ渡す。
「奥」
メフェリアの表情が少し変わる。
「どうされました?」
「…………」
見聞色。
一人。
間違いない。
ただ。
これまで戦ってきた連中とは、少し違う。
気配に乱れがない。
こちらが近づいていることにも、おそらく気づいている。
それでも逃げない。
「強そう」
役人の顔色が変わった。
東の海へ来てから。
メフェリア自身が相手をそう評価したのは初めてだった。
レイピアへ手を置く。
廃牧場の建物。
暗闇。
その奥から。
声がした。
「予定より随分早いな」
男の声。
メフェリアは立ち止まる。
「誰?」
「…………」
返事はない。
「聞いてるんだけど」
「世界政府の人間に名乗る義理はない」
「そう」
メフェリアは首を傾げる。
「じゃあいいや」
「……聞かないのか?」
「言いたくないんでしょ?」
暗闇の向こうから。
小さな笑い声。
「妙な女だ」
「よく言われる」
そして。
一人の男が姿を現した。
長い外套。
腰には剣。
顔の一部を布で隠している。
男の視線がメフェリアの服装へ向く。
そして。
一瞬だけ。
表情が変わった。
「……なるほど」
メフェリアが目を細める。
「なに?」
「まさか、こんな場所にまで出てくるとはな」
「何が?」
男が答える。
「神の騎士団」
政府役人の表情が変わった。
「……!」
メフェリアも。
ほんの少しだけ。
目つきが変わる。
「知ってるんだ」
男は答えない。
メフェリアは男を観察する。
神の騎士団。
その存在は、世界中の誰もが知るような組織ではない。
特に。
こんな東の海で。
一目見ただけで所属を言い当てる人間は珍しい。
「あなた」
メフェリアが尋ねる。
「世界政府の人?」
「違う」
「元政府?」
「違う」
「じゃあ何で知ってるの?」
「答えると思うか?」
「…………」
メフェリアは少し考えた。
「思わない」
「なら聞くな」
「一応聞いただけ」
男の手が腰へ伸びる。
剣の柄を握る。
「こちらも聞こう」
「なに?」
「神の騎士団が、何故こんな事件に出てきた」
メフェリアが答える。
「任務だから」
「それだけか?」
「あと」
一拍。
「チーズ」
男が黙った。
「…………何?」
「この島、チーズ美味しいよ」
「…………」
役人が額を押さえた。
男は数秒ほど完全に言葉を失っていた。
「……ふざけているのか?」
「別に」
メフェリアは本気だった。
男が剣を抜く。
「まあいい」
刀身が陽光を反射する。
「ここまで来られた以上、帰すわけにはいかん」
メフェリアがそれを見る。
「そう」
腰のレイピアへ手を伸ばす。
ゆっくり抜く。
「じゃあ」
細い刀身が男へ向けられる。
「捕まえてから聞く」
「できるものならな」
風が吹いた。
牧草が揺れる。
二人の剣士が向かい合う。
男は知らない。
目の前の小柄な少女が。
どれほど異常な存在なのか。
そして。
メフェリアも知らない。
この男が。
何者なのか。
ただ一つ。
分かることがある。
「…………」
メフェリアの瞳が猫のように細くなる。
久しぶりに。
少しだけ。
面倒ではなさそうだった。
*
同じ頃。
東の海。
遥か離れた海域。
一隻の小舟が波の上を進んでいた。
乗っているのは一人。
麦わら帽子を被った少年。
モンキー・D・ルフィ。
十年間待ち続けた日。
少年はついに海へ出た。
目指すは――。
海賊王。
この瞬間。
世界を大きく変える冒険が始まった。
だが当然。
メフェリア宮はそんなことを知らない。
彼女が今考えていることは。
目の前の男を片付けること。
それから。
帰りにもう一度。
あのミルクプリンを食べること。
その二つだけだった。