風が吹いた。
古びた牧場の柵が軋み、伸び放題になった草が波のように揺れる。
メフェリアと男は、互いに剣を構えたまま動かなかった。
距離は十歩ほど。
男は長い外套をまとい、顔の下半分を布で隠している。腰から抜いた剣は片刃で、使い込まれた跡があった。
その立ち姿に隙はない。
メフェリアは細いレイピアの切っ先を向けたまま、男を見ていた。
「…………」
強い。
見聞色を使わなくても分かる。
ラッカ島やベルネ島で相手にした者たちとは、明らかに違った。
男が先に動いた。
一歩。
地面を蹴る。
速い。
一瞬で間合いが消え、剣が横薙ぎに振るわれた。
メフェリアはレイピアで受ける。
甲高い音。
火花が散った。
「……!」
後ろで見ていた政府役人たちが息を呑む。
男は止まらない。
刃を滑らせ、角度を変える。
二撃目。
メフェリアは身体を逸らす。
三撃目。
レイピアで弾く。
四撃目。
頬のすぐ横を刃が通り過ぎた。
緑色の髪が数本、宙を舞う。
男が距離を取る。
メフェリアは自分の髪を見る。
「…………」
それから男を見た。
「髪切れた」
「戦ってる最中に気にすることか?」
「気にするよ」
「そうかよ」
男が再び踏み込んだ。
剣が振り下ろされる。
メフェリアは半歩ずれてかわし、そのまま懐へ入った。
レイピアを突く。
男が剣で受ける。
金属音。
今度は男の身体が後ろへ滑った。
「……重いな」
「そう?」
「その細い剣で出す威力じゃない」
メフェリアは自分のレイピアを見る。
「普通だと思うけど」
「お前の普通を基準にするな」
「よく言われる」
男の目がわずかに細くなった。
次の瞬間。
再び二人が動いた。
剣とレイピアがぶつかる。
一度。
二度。
三度。
乾いた金属音が、人気のない牧場に連続して響く。
男の剣は速い。
そして正確だった。
メフェリアの首。
肩。
手首。
確実に動きを止められる場所を狙ってくる。
だが。
届かない。
メフェリアは最小限の動きで刃をかわし、受け流していく。
男が低い姿勢から斬り上げる。
レイピアで受ける。
その瞬間。
男が蹴りを放った。
「……!」
メフェリアは腕で受けた。
衝撃。
小柄な身体が数歩後ろへ滑る。
「メフェリア宮!」
役人が声を上げる。
「大丈夫」
メフェリアは受けた腕を見る。
少し痛い。
久しぶりだった。
東の海へ来てから、まともに攻撃を受けたのは。
男が剣を構え直す。
「余所見する余裕があるのか?」
「あるよ」
「そうか」
男が踏み込む。
「なら、これはどうだ」
速度が上がった。
「…………」
メフェリアの瞳が細くなる。
猫のような縦長の瞳孔。
振り下ろされる剣。
今度は避けない。
レイピアを合わせる。
ガァン!
先ほどまでとは違う、重い音が響いた。
男の腕が跳ね上がる。
「な――」
メフェリアはそのまま懐へ踏み込んだ。
柄を男の腹へ叩き込む。
「ぐっ!」
身体が折れる。
続けて蹴り。
男が後方へ飛ぶ。
地面を転がり、古い柵へ激突した。
木材が砕ける。
「…………っ」
男はすぐに立ち上がった。
口元を拭う。
血が滲んでいる。
「なるほどな」
メフェリアが首を傾げる。
「なに?」
「神の騎士団ってのは、全員こんななのか?」
「知らない」
「仲間だろうが」
「強い人多いよ」
「……そういう意味じゃない」
男がため息をついた。
メフェリアはレイピアを構え直す。
その顔には、先ほどまでの眠そうな雰囲気が少しだけ薄れていた。
「まだやる?」
「当然だ」
男も剣を構える。
「ここで捕まるわけにはいかない」
「じゃあ逃げれば?」
「追うだろ」
「うん」
「なら同じだ」
「そっか」
短いやり取り。
次の瞬間。
二人は同時に地面を蹴った。
刃が交差する。
男が剣を振るう。
メフェリアは身体を沈める。
頭上を刃が通過する。
そのまま一歩。
男の懐。
レイピアを持っていない左手が、男の胸元へ触れた。
「…………!」
男の表情が変わる。
離れようとした。
遅い。
ドンッ!
衝撃が走った。
男の身体が大きく吹き飛ぶ。
地面を何度も転がり、牧場の壁へ叩きつけられた。
「がっ……!」
剣が手から離れる。
メフェリアはゆっくり近づいた。
男は起き上がろうとしたが、身体に力が入らない。
目の前でメフェリアが止まる。
レイピアの切っ先が向けられた。
「終わり?」
「…………」
男は自分の剣を見る。
数歩先。
届かない。
しばらくして、力を抜いた。
「……ああ」
メフェリアもレイピアを下ろした。
「じゃあ捕まえるね」
「普通、もう少し何か聞かないのか?」
「捕まえてから聞けばいいでしょ」
「…………」
男は妙な顔をした。
「合理的なのか適当なのか分からんな、お前」
「よく言われる」
政府役人たちが近づいてくる。
男の剣を回収し、手を拘束する。
その間、メフェリアは壊れた柵の近くに落ちていたものへ目を向けた。
小さな革袋。
先ほど吹き飛ばされた際に、男の外套から落ちたらしい。
「これ何?」
拾い上げる。
「メフェリア宮、お待ちください」
役人が受け取った。
中を確認する。
数枚の紙。
硬貨。
そして。
一枚の小さな札。
役人の表情が変わった。
「これは……」
「なに?」
メフェリアが横から覗き込む。
札には鳥を模した紋章と、一つの数字が刻まれていた。
「見覚えが?」
「いえ。ただ、こちらを」
役人が紙を一枚取り出す。
簡単な取引記録だった。
日時。
荷の量。
金額。
その下に。
一つの地名。
「ローグタウン……」
メフェリアが読む。
役人が頷いた。
「二日後の日付です」
「取引?」
「おそらく」
メフェリアは拘束された男を見る。
「そこで誰と会うの?」
男は答えない。
「東の仲介人?」
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
男の目が動いた。
メフェリアはそれを見逃さなかった。
「そうなんだ」
「……何も言ってないぞ」
「顔に出た」
「…………」
男が黙る。
役人が紙を確認していく。
「メフェリア宮。どうやら、この男はローグタウンで何者かと接触する予定だったようです」
「東の仲介人?」
「可能性は高いかと」
ようやく。
次の道が見えた。
メフェリアは少し考える。
「じゃあ次、ローグタウン?」
「はい。ただし、この男への尋問と、商会から押収した資料の確認が必要です。出航は早くても明日の朝になるでしょう」
「そっか」
メフェリアは空を見る。
まだ午後。
日が沈むまでは時間がある。
「…………」
何かを思い出した。
「メフェリア宮?」
「今日もう仕事ない?」
「確認作業は我々が行いますので、ひとまずは」
「ほんと?」
役人は嫌な予感を覚えた。
「……何をなさるおつもりでしょうか」
メフェリアは答えなかった。
代わりに。
懐から取り出す。
ベルネ島の観光案内。
丁寧に折り畳まれていた。
開く。
指を滑らせる。
そして。
ある場所で止まった。
「ここ」
役人が見る。
港町。
『ベルネ牧場直営店 濃厚ソフトクリーム』
「…………」
「行っていい?」
役人は空を見た。
次に時計を見る。
最後に、メフェリアを見る。
期待している。
非常に分かりやすく。
「……船へ戻る時間までには、必ずお戻りください」
「うん」
即答。
「それから、護衛を――」
「行ってくる」
「お待ちください!」
メフェリアはすでに歩き始めていた。
先ほどまで強敵と剣を交えていた人物とは思えないほど、足取りが軽い。
拘束された男が、その後ろ姿を見る。
「…………」
そして役人を見る。
「あれ、本当に神の騎士団なのか?」
役人は少しだけ考えた。
「間違いなく」
「そうか……」
男は納得できていない顔をしていた。
*
夕方。
ベルネ島の港町。
「…………!」
メフェリアは白いソフトクリームを食べていた。
一口。
濃厚なミルクの甘さ。
もう一口。
「美味しい」
今日一番満足そうな顔だった。
その横では、同行させられた政府役人が時計を確認している。
「メフェリア宮」
「なに?」
「あと十五分です」
「分かってる」
「先ほども同じことを仰っていました」
「まだ十五分あるよ」
「そういう問題では――」
メフェリアの視線が止まった。
役人もその先を見る。
店頭の看板。
『数量限定 チーズタルト』
「…………」
「メフェリア宮」
「まだ十五分」
「…………」
役人は何も言えなかった。
翌朝。
世界政府船はベルネ島を離れる。
次なる目的地は、ローグタウン。
海賊王ゴールド・ロジャーが生まれ。
そして。
処刑された町。
だが。
今のメフェリアが知っているのは。
そこに『東の仲介人』へ繋がる手掛かりがあるということだけだった。
そして同じ頃。
東の海のどこかでは。
一人の少年を乗せた小舟が、波に揺られながら進んでいる。
二人はまだ。
互いの存在すら知らない。
それぞれの航路が交わる日は。
まだ少し先のことだった。