翌朝。
ベルネ島の港に、出航を告げる汽笛が響いた。
世界政府船がゆっくりと岸を離れていく。
甲板に立つメフェリアは、遠ざかっていく島を眺めていた。朝の風に緑色の髪が揺れる。その一部だけが、昨日の戦いでわずかに短くなっている。
「…………」
メフェリアはそこを指で摘まんだ。
やっぱり気になる。
傷なら放っておいても消える。けれど、切られた髪は戻らない。
「メフェリア宮」
後ろから役人に声をかけられた。
「なに?」
「間もなく昨日の男への尋問を始めます。可能であれば、お立ち会いいただきたいのですが」
メフェリアは少し考えた。
「長い?」
「できる限り手短にいたします」
「じゃあ行く」
甲板を離れようとして、もう一度だけ髪を触る。
役人もそれに気づいた。
「やはり気になりますか?」
「うん」
「それほど目立たないと思いますが」
「私には分かる」
「左様ですか……」
メフェリアは少しだけ不満そうな顔をしたまま、船内へ入っていった。
*
船内。
昨日捕らえた男は、椅子に座らされていた。
両手には手錠。武器はすべて取り上げられている。
メフェリアが部屋へ入ると、男が顔を上げた。
そして。
視線が彼女の髪へ向く。
「まだ気にしてるのか?」
「気にしてる」
「数本だろ」
「切ったのあなたでしょ」
「戦いだったんだから仕方ないだろ」
「謝って」
「……何でだよ」
「髪切ったから」
男が黙った。
役人も黙った。
数秒の沈黙。
男が深いため息をつく。
「……悪かった」
「うん」
メフェリアは満足した。
「では、始めてもよろしいでしょうか」
役人が尋ねる。
「いいよ」
「お前が仕切るんじゃないだろ……」
男が呟いたが、メフェリアは気にしなかった。
尋問が始まった。
名前。
所属。
ベルネ島の商会との関係。
男は自分の素性については頑として口を割らなかったが、押収した資料を突きつけられると、密輸についてはいくつか認めた。
ベルネ島の商会を占拠したのも彼らの一味。
政府から奪われた物資を運び、指定された場所へ届ける役割を担っていた。
「誰に渡してたの?」
メフェリアが尋ねる。
男は答えない。
「東の仲介人?」
わずかな沈黙。
「……そう呼ばれている男がいる」
役人が身を乗り出す。
「名前は?」
「知らん」
「顔は?」
「会ったこともない」
メフェリアが首を傾げた。
「じゃあ、どうやって取引するの?」
「向こうから連絡役が来る」
「その人がローグタウンにいる?」
男は黙った。
役人が机の上へ一枚の紙を置く。
昨日、男が持っていた革袋から発見した取引記録。
二日後。
ローグタウン。
「この予定について説明していただきましょう」
「…………」
男は紙を見る。
しばらく黙っていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「そこで連絡役と会う予定だった」
「誰?」
「知らん」
「また?」
「本当に知らないんだ。毎回違う人間が来る」
メフェリアは少し考える。
「じゃあ、その人を捕まえれば東の仲介人まで行ける?」
「運が良ければな」
「そっか」
メフェリアは役人を見る。
「じゃあローグタウンで決まりだね」
「はい」
今のところ、それ以上の手掛かりはない。
メフェリアは椅子から立ち上がった。
「終わり?」
「ひとまず、メフェリア宮にお立ち会いいただく必要はございません」
「じゃあ行ってくる」
「どちらへ?」
「朝ご飯」
「……まだ召し上がっていなかったのですか?」
「これあるって言われたから先に来たの」
そう言い残して、メフェリアは部屋を出ていった。
男がその背中を見送る。
「…………」
役人は何事もなかったように資料を整理している。
男が尋ねた。
「いつもあんな感じなのか?」
役人の手が止まった。
少し考えてから。
「……概ね」
「そうか」
男はそれ以上聞かなかった。
*
同じ頃。
赤い土の大陸、その頂。
聖地マリージョア。
白亜の建物が並ぶ街には、東の海とはまるで違う静けさがあった。
美しく整えられた庭園。
白い石で舗装された道。
その向こうには、巨大なパンゲア城が聳えている。
城内。
神の騎士団が使用する区画の一室。
フィガーランド・シャムロック聖は、一人で机に向かっていた。
手元にあるのは、東の海から届いた報告書。
ラッカ島。
ベルネ島。
押収された世界政府の物資。
そして、東の仲介人。
順番に目を通していく。
やがて、ある一文で視線が止まった。
『ベルネ島北部にて武装組織と交戦。メフェリア宮に負傷なし』
その下。
『敵一名を拘束。ローグタウンにて次回接触予定あり』
「…………」
順調だった。
少なくとも、任務に関しては。
シャムロックは次の紙へ目を移す。
今回の行程について記された報告だった。
その途中。
妙な一文がある。
『ベルネ島移動中、本人の希望により牧場へ立ち寄り。任務への影響なし』
シャムロックの目が止まった。
「…………」
さらに下。
『現地名産品の確認』
焼きチーズ肉。
ミルクプリン。
しばらく。
部屋には静寂だけが流れた。
「……何をしているんだ、あいつは」
当然、返事はない。
シャムロックは報告書を眺める。
想像するまでもなかった。
本人に聞いたところで、おそらく大した答えは返ってこない。
『通り道だったから』
せいぜい、その程度だろう。
昔からそうだった。
気になるものを見つければ、すぐそちらへ行く。
自由に動き。
好きなことをして。
そのくせ、やるべきことだけは妙に早く片付けてしまう。
だから余計に扱いづらい。
シャムロックは小さく息を吐いた。
「まあいい」
任務そのものに支障はない。
それどころか、想定より早く手掛かりへ辿り着いている。
シャムロックは報告書の最後を見る。
次の目的地。
ローグタウン。
海賊王ゴールド・ロジャーが処刑された町。
その名を見た瞬間。
シャムロックの表情から、わずかな呆れが消えた。
東の仲介人。
政府から奪われた物資。
それらが何のために動かされているのかは、まだ分からない。
だが。
少なくとも、糸は繋がり始めている。
「ローグタウンか」
シャムロックは報告書を閉じた。
追加の指示を出す必要はない。
今はまだ。
メフェリアに任せておけばいい。
椅子の背へ身体を預ける。
そのまま別の書類へ手を伸ばそうとして。
止まった。
視線が。
先ほど閉じた報告書へ戻る。
「…………」
ベルネ島。
牧場。
焼きチーズ肉。
ミルクプリン。
数秒。
「……そんなに美味いのか?」
小さな呟き。
直後。
シャムロックの眉間に皺が寄った。
何を考えている。
メフェリアに影響されたわけでもあるまい。
報告書を脇へ押しやり、今度こそ別の書類を手に取った。
*
昼過ぎ。
東の海。
世界政府船は穏やかな海を進んでいた。
甲板。
メフェリアは椅子に座っている。
その手には、一冊の本。
『ローグタウン観光案内』
「…………」
ページをめくる。
海賊王の処刑台。
武器屋。
衣料品店。
飲食店。
市場。
「いっぱいある」
隣に立っていた役人が、嫌な予感を覚えた。
「メフェリア宮」
「なに?」
「我々は観光へ向かうのではございません」
「知ってるよ」
「では、なぜ観光案内を?」
「任務しながら見ればいいでしょ」
「…………」
役人は反論しようとした。
だが。
ベルネ島でも、実際に任務への支障は出ていない。
むしろ予定より早く手掛かりを発見している。
「仕事はちゃんとするよ」
メフェリアが言った。
「その代わり、終わったら自由でしょ?」
「……状況次第では」
「またそれ」
メフェリアはページをめくった。
しばらく眺めていると。
ある場所で手が止まる。
「処刑台」
「はい」
「ロジャーが死んだところ?」
「その通りです」
メフェリアは掲載されている写真を見る。
「見てみたい」
役人は少し意外そうな顔をした。
これまで彼女が積極的に興味を示した場所といえば、食べ物に関係する場所が多かったからだ。
「海賊王にご興味が?」
「少し」
写真を見つめる。
ゴールド・ロジャー。
世界中の海賊を海へ駆り立てた男。
マリージョアでも、その名を知らない者はいない。
「どんな人だったのかなって」
「凶悪な海賊です」
「それだけ?」
役人が少し言葉に詰まった。
「……少なくとも、世界政府としてはそういう認識です」
「ふーん」
メフェリアはもう一度、写真を見る。
会ったこともない。
もうこの世にもいない。
それでも。
たった一人の死が、今も世界を動かしている。
少しだけ。
不思議だった。
「ローグタウンまでどれくらい?」
「明日の午後には到着する予定です」
「そっか」
メフェリアは観光案内を閉じた。
椅子の背にもたれ、青い空を見上げる。
次の町。
次の手掛かり。
東の仲介人。
そして。
海賊王が最期を迎えた場所。
まだ見たことのないものが、そこにはある。
メフェリアは静かに目を閉じた。
潮風が、少しだけ短くなった緑色の髪を揺らしていく。
ローグタウンまでは。
あと一日。