まのさば Restart 作:雪うさぎ
暗闇の中。
トクン。トクンと規則正しい音が聞こえていた。
「…………」
何の音だろう。
まだ半分眠ったままの頭で、ぼんやりとそんなことを考える。
トクン。トクン。
ゆっくりと時を刻むような音。
その音を聞いているだけで、不思議なくらい安心する。気を抜けば、もう一度眠ってしまいそうなくらい心地良かった。
「……ん」
それでも。どうにか重たい瞼を持ち上げると。
「…………?」
頬に、ひんやりとしていながらも柔らかな感触が触れていて。
何だろうと思いながら、ほんの少しだけ顔を上げてみる。
「……あ」
すぐ目の前にあったのは、ミリアさんの寝顔だった。
長い睫毛に縁取られた瞼を閉じたまま、随分と幸せそうな笑みを浮かべていて。
そこでようやく。自分がミリアさんの胸元に抱き寄せられたまま眠っていたことに気づいた。
(これって……心臓の音なのかな?)
トクン。トクン。
耳を澄ませれば、やっぱり聞こえてくる。
ゆっくりと。けれど確かに繰り返される鼓動。これ以上ないくらい分かりやすい命の証で。
「…………」
何となく。その音に、もう少しだけ耳を傾けてみた。
(何だか……すっごく落ち着くかも)
僅かに上下する身体。頬の近くに感じる温度。静かな寝息。
本当なら特別でも何でもないはずなのに。そんな当たり前なことが、どうしようもないくらいに愛おしく思えてしまう。
(ヒロにも……こうやって聞かせてあげたら、少しは安心してくれるのかな)
そんなことを思わず考えて。
(……って。何考えてるんだろう僕!?)
一気に眠気が吹き飛んでしまった。
そもそもヒロの場合、近づこうとした時点で怒られると思う。ましてや抱き締めて、心臓の鼓動を聞いてもらおうだなんて。
(ぜ、絶対許してくれないし……かなり恥ずかしいかも!)
想像しただけなのに、急に顔が熱くなる。
そんな想像を慌てて頭の隅へ追いやった、その次の瞬間だった。
「ん……ぅ……」
「……!」
不意に。
背中へ回されていた腕に、きゅっと力が入った。
「わっ……」
反射的に身体を強張らせる。どうやらミリアさんが目を覚ましかけているらしく。
「……ん」
長い睫毛が微かに震えて。ゆっくりと瞼が持ち上がる。
けれども。その奥から覗いた碧色の瞳には、たっぷりと眠気が残っていて。
「ミ、ミリアさん……?」
「…………」
しばらく。ミリアさんは、僕の顔をぼんやりと眺めていた。
まだ夢と現実の区別もついていないような、ふわふわとした表情。
「えまちゃんだぁ……」
「え?」
そしてミリアちゃんは。
ふにゃり。初めて会った時の雰囲気からは想像もつかないほど、無防備な笑顔を浮かべた。
「かわいい……すき」
「……っ!?」
思わず声を上げそうになり、慌てて口元を押さえる。
(す、好き!?)
けれど当の本人は、そんな僕の動揺など知る由もないらしく。
「えまちゃん……」
まだ寝ぼけた表情のまま、嬉しそうに僕を見つめていた。
「え、えっと……」
どう返せばいいのか分からない。とりあえず。
「お、おはよう。ミリアちゃん」
「うん」
ミリアちゃんが、またふにゃっと笑う。
「……おはよー。えまちゃん」
「…………」
(寝起きだと随分違うんだ……)
普段のおどおどした様子とも。レイアちゃんへ怒っていた時とも違う。
まるで警戒心が何処かへ飛んでったみたいで、とても幼く思えた。
「……ん」
そんなことを考えていると。ミリアちゃんは僕から腕を離し、もぞもぞと身体を起こした。
「……?」
それから。まだ半分眠ったような顔のまま、おもむろに自分の服へ手をかけ始めた。
何をしているんだろう。
まだ寝起きだったせいか、その意味が直ぐには分からなくて。ぼんやりと数秒ほど眺めてから――ようやく。ミリアちゃんが何をしようとしているかに気づいて。
「ちょ、ちょっと……!?」
「ん……?」
その手を慌てて止めた。
「何してるのかな!?」
「うん……?起きたし……着替えなきゃ」
いまだに目が覚めきっていないのだろう。ミリアちゃんは眠たげな顔のまま不思議そうに首を傾げていて。
「その……す、すぐ隣に僕がいるからね!?」
「……」
そう叫ぶと。ミリアちゃんは何度か瞬きをして。
「……あ」
どうやら。ようやく頭が目を覚ましたらしく。
半開きだった瞳が開かれ、ようやく理性の色を取り戻して。
「~~っ!?」
ミリアちゃんの顔は一気に真っ赤になった。
それから数秒。何が起きたのか確かめるように、ミリアちゃんは自分の服と僕の顔を交互に見つめて。
「み、見てないよね……?」
「えっ?」
乱れかけた服を慌てて押さえながら、おずおずとした視線がこちらへ向けられる。
「だ、大丈夫! 何も見えてないよ!」
そんな彼女から視線を逸らしながら、必死に答えると。
「ほ、本当に……?」
「本当だよ!」
「……よかったぁ」
心の底から安心したように、ミリアちゃんは大きく息を吐いて。背中を向けるように身体の向きを変えると、乱れてしまった服をいそいそと直し始めた。
「…………」
「…………」
何となく気まずい。
ついさっきまであんなに無防備に抱き締められていたせいもあって、余計にどう声を掛ければ良いのか分からなくなってしまう。
「……ご、ごめんね。寝ぼけちゃってて……」
「あ、ううん。別に大丈夫だよ」
「おじさん。朝は弱いんだよね……」
「そうみたいだね」
「……忘れてほしいかも」
「努力するね」
「そこは絶対忘れるって言ってよぉ……」
情けない声を出しながら、ミリアちゃんは肩を落とした。
「ご、ごめん」
「もう……」
けれども。その声には怒っている様子はなくて。
服を整え終えたミリアちゃんが振り返る頃には、頬にはまだ赤みが残っていたものの、いつもの少し控えめな表情へ戻っていた。
「それにしても……エマちゃん起きるの早いんだね」
「そうかな?」
「うん。おじさん、もうちょっと寝てたかった……」
「まだ寝てもいいと思うよ?」
「でも朝ご飯もあるし……」
そう言いながら、ミリアちゃんが眠たそうに目元を擦る。
「レイアちゃんは……?」
「まだ寝てるのかな」
2人揃って、そっと上段を見上げる。
「…………」
けれど。わざわざ起こすのも何だか悪い気がして。
「じゃあ。僕はそろそろ行こうかな」
「……もう行っちゃうの?」
「うん。食堂にも行かなきゃだし」
「そっか……」
もう出かける事を告げると。
ミリアちゃんはそう小さく呟き、ほんの少しだけ名残惜しそうに目を伏せていて。
「けど……また今度。ゆっくり話そうよ」
「……いいの?」
「もちろん」
そう約束すると。
「……えへへ」
ミリアちゃんは、また嬉しそうに笑ってくれた。
「じゃあ。またね。エマちゃん」
「うん。またね、ミリアちゃん」
ベッドから降りて、監房の出口へ向かう。そのまま扉へ手をかけようとして。
「――あ、そうだ……エマちゃん!」
「?」
背後から呼び止められて、扉に伸ばしかけた手を止めて振り返る。
「どうしたの?」
「その……」
ミリアちゃんは何故か急にもじもじし始めて。
「お、おじさん……起きた時に変なこと言ってないよね……?」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間。扉へ伸ばしていた僕の手が、ぴたりと止まった。
『えまちゃんだぁ……』
『かわいい……すき』
「…………」
しっかり覚えている。
むしろ。思い出しただけで、なんだか頬が熱くなってくるくらいには。
「エ、エマちゃん?」
「……ううん」
少しだけ迷ってから。
「特に言ってなかったかな」
「……本当?」
「うん」
「そっかぁ……よかった」
明らかに安心した様子で、ミリアちゃんが胸を撫で下ろす。
「…………」
その様子を見るに。どうやら本当に何も覚えてないようだったけど。
「じゃあ、今度こそ行ってくるね」
「うん。いってらっしゃい」
あんなことを言われて、すっごくドキドキしていたのが少しだけ悔しくなって。
扉を開けたところで足を止めると、その隙間からもう一度だけミリアちゃんを覗き込んだ。
「ミリアちゃん」
「ん?」
「……僕も大好きだよ!」
「…………」
満面の笑みでそう告げて。
「じゃあね!」
「あ、ちょ……エマちゃ――」
返事を聞くより先に、僕は鉄格子を閉じて勢い良く走り始めたのだった。
「…………」
地下の廊下を駆け抜け、そのまま階段を上っていく。やがて薄暗かった景色は開け、辺りは見慣れた玄関ホールへと変わっていた。
どうしてだろう。
「……ふふ」
勝手に頬が緩んでしまう。
昨夜まで話したこともない女の子で、たった一晩一緒にいただけのはずなのに。
(今度あった時は……どんなことを喋ろうかな)
頭の中は次に会う時のことでいっぱいで。とても幸せな気分になりながら、僕は少しだけスキップしながら食堂へと向かったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
食堂へ着く頃には、さっきまで緩みっぱなしだった頬もようやく落ち着いていて。
「……あ」
いつもの表情で中へ入ると、すぐに見覚えのある二人の姿が目に入った。
「おはよう!メルルちゃん。ハンナちゃん」
「……エマさん!」
「おはようございます。お先に頂いていますわ」
メルルちゃんがぱっと顔を明るくして、ハンナちゃんも軽く手を上げる。そんな二人の前には朝食らしいトレーが置かれていて。
「…………」
その中身を見た瞬間。
さっきまでの良い気分が、ほんの少しだけ萎む。そこに載っていたのは。この前食べたものと全く変わらない、何とも形容し難い色をしたゲル状の何かで。
「……またこれなんだ」
「ええ」
ハンナちゃんは心底うんざりしたようにスプーンを持ち上げて。
「やっぱり……すっごく不味いですわね」
「……そうだね。こういうことは、あんまり言いたくないんだけど……流石に酷すぎる味だと思うな」
僕も空いている席へ座りながら、同じようにトレーを受け取る。
「え、えっと……私も」
そんな僕たちの声を聞いていたのか、近くにいたメルルちゃんは申し訳なさそうに視線を落としながら。
「これは……人間の食べ物じゃないかなって……」
「そ、そんなことは……あるかもしれないけど」
「否定できないですわね」
そんな事まで口にしていて。正直。全く気は進まなかったものの。
他に食べるものがあるわけでもないので、仕方なくスプーンで掬って口へ運び始めたのだった。
「……うっ」
やっぱり不味い。薄いとか濃いとか、もはやそんな次元では表せないような、何とも言えない味が口いっぱいに広がる。
「本当に人間の作ったものなのかなコレ……?」
あんまり過ぎる味に、そんな疑問が思わず口から零れる。
「……そういえば」
しかし。そんな僕の独り言を聞いたハンナちゃんは、何か思い当たったようにピタリとスプーンを止めていて。
「作っている方も見たことありませんし……もしかしたら看守が作っているのかもしれませんわね」
「看守が?」
「ええ。この食事は、いつも看守さんが用意していますもの」
「なるほど……」
言われてみて、料理をしている看守の姿を少しだけ想像してみる。
あの巨大な看守が無言で鍋の前に立ち、よく分からない材料を次々と放り込みながら、大きな匙でぐるぐるとかき混ぜている姿。
「……確かに料理が出来るとは、とても思えないけど」
「それ以前に……私たちと同じ味覚があるのかすら怪しいような……?」
そんな僕たちのやり取りに。メルルちゃんは、ますます不安そうな表情で呟いていて。
「…………」
「…………」
「…………」
僕たちは3人揃ってトレーへ視線を落としたのだった。
なんだか。さっきより余計に食べるのが怖くなってきた気がする。それでも他に選択肢がないせいか、僕たちの食べる手は結局止まらなくて。
気づけば。
「……あれ」
いつの間にかトレーの中身は殆ど無くなっていたのだった。
「結局食べれちゃう辺りが。一番嫌ですわね」
「……分かるかも」
少し微妙な気持ちを抱えながらも。
どうにか朝食を平らげたところで、ふと一つ気になることを思い出した。
「そういえば……」
僕は食堂の中を見回した。
「シェリーちゃんはどうしたの?」
「……置いてきましたわ」
「置いてきたの!?」
あまりにもあっさり言われて、思わず聞き返す。
「仕方ないでしょう?」
ハンナちゃんが少しだけ眉を寄せた。
「あの娘と食べてると、何故かニコニコしながら食べさせようとしてくるから……全く自分のペースで食べられませんの」
「……な、なるほど」
そう言われてみると、なんとなく光景が想像出来てしまった。
『はい。ハンナさん! あーんです!』
満面の笑みを浮かべながら、あの謎の食べ物を載せたスプーンを差し出してくるシェリーちゃんに。それをグイグイと頬へ押し付けられるハンナちゃん。
「…………」
そういえば。僕が初めてこれを食べた時も、同じように食べさせられたのだったか。
思い返していると。ハンナちゃんは息を吐きながら、少し呆れたような表情を浮かべる。
「1人でいたら何をしでかすか分かりませんし……もう知らない仲でもないので。これを食べ終わったらすぐに迎えに行くつもりですわ」
けれど。その表情は本気で嫌がっているようには見えなくて。
「ふふっ」
「何ですの?」
「ううん。何でもない」
思わず口元に笑みが浮かんでしまった。
「シェリーちゃんをよろしくね!」
「……はぁ」
そんな僕の言葉に、何故かハンナちゃんは小さく溜息を吐いていて。
「シェリーさんの助手の貴方にこそ、隣にいて欲しいのですけど」
「え?」
「何でもありませんわ」
よく聞こえなくて聞き返したものの、ハンナちゃんはぷいっと顔を逸らしてしまって。
そのまま視線は、僕の隣に座るメルルちゃんへと向けられた。
「……それより。今日はエマさんと用事があるのでしょう?」
そう。今日は自由時間に、メルルちゃんと一緒にハーブを探しに行く約束をしている。
隣を見ると。メルルちゃんも、どこかそわそわした様子で僕のことを見つめていて。
「でしたら……あいつが来る前に、さっさと行ってらっしゃいな」
ハンナちゃんは僅かに微笑みを浮かべると、空になった僕たちのトレーを徐に手にとった。
「えっと……あいつって?」
「シェリーさんですわ」
「やっぱり」
「見つかったら絶対ついてきますもの」
「……否定出来ないかも」
むしろ。
『面白そうですね! 私も行きます!』
と言いながら、何の躊躇いもなく同行してくる姿が簡単に想像できてしまう。
「でしたら……遠慮なく」
「うん?」
それも悪くはないかなと思っていると、不意に手が引かれる感触がして。
「……あ」
視線を落とすと、メルルちゃんが控えめに僕の手を握っているのが見えた。
「…………」
その仕草はまるで早く行こうと催促しているようで。
「ふふ」
「……な、何ですか?」
「ううん。何でもないよ」
思わず笑みを零しながら立ち上がり。
「それじゃあ」
僕はハンナちゃんへ振り返った。
「ちょっと行ってくるね。ハンナちゃん!」
「ええ」
ハンナちゃんが軽く手を振る。
「お気をつけて」
「うん!」
「……エマさん」
「ん?」
隣から呼ばれて振り向く。メルルちゃんはまだ僕の手を掴んだままで。
「行きましょう」
「うん」
その手を握り返し。そっと指を絡めると。
「行こう。メルルちゃん」
「……はい!」
メルルちゃんの顔は、ぱっと嬉しそうに綻んで。
僕は幸せそうな彼女の手を引きながら、まっすぐに牢屋敷の外へと向かったのだった。