まのさば Restart 作:雪うさぎ
図書室を出てメルルちゃんの部屋へと向かっている途中。僕の頭の中には、さっきの出来事が何度も浮かんでは消えていた。
ミリアちゃんの真っ赤になった顔。身体越しに伝わってきた、あまりにも速い鼓動。そして――。
『そういうことは……あんまり軽はずみに言わない方が良いと思うな』
という言葉。
何となく聞き返してはいけないような気がして、そのまま有耶無耶になってしまったけれども。
(今度会ったら……ちゃんと謝った方がいいかな)
そんなことを考えながらも、僕は薄暗い地下の廊下を進んでいく。
「…………」
もうすぐ夕方だからなのか。あるいは地下だからなのか。監房の並ぶ廊下には人気がなく、僕の足音だけが小さく響いていた。
その途中で僕は。何気なく、1つの監房へと視線を向けて。
「……え?」
思わず足が止まってしまった。
「…………」
そこは僕が初日にいた部屋だった。今は僕が規則を破って外で寝るようになったせいで、ヒロしかいなくなったはずの部屋。
「ヒロ……ちゃん?」
その監房の中心で――ヒロちゃんは冷たい床の上に横たわっていた。
「…………」
片方の手首には物々しい手枷。そこから伸びる鎖は、どうやら鉄格子に固定されているようだった。
石畳の床の上には、ヒロのベッドから持ってきたらしい毛布が敷かれている。
胸が僅かに上下しているので、少なくとも生きてはいたものの。ヒロは毛布の上で目を閉じたまま、まるで寒さに耐えるかのように小さく身体を丸めていて。
「…………」
頭の中が真っ白になった。
次の瞬間。
全身を流れていた血が、一気に冷たくなっていくような感覚に襲われて。
「……っ」
胸の奥に冷たいものが、ゆっくりと広がっていく。
今すぐ駆け寄って、何があったのか確かめたかった。
けれど。何も分からないまま動くのは駄目だ。
どうしてヒロがこんな状態になっているのか。まずは、それを確かめなければならない。
僕は一度だけ、大きく息を吸って。出来るだけ感情を切り離すように努めながらも、冷静に監房の中へ視線を巡らせた。
(……ベッドが滅茶苦茶にされてるわけじゃない)
少なくとも嫌がらせなどは受けていないようで。物が壊されていたり、部屋に水が撒き散らされたりした痕跡は見当たらなかった。
「……?」
ただ少しだけ妙なモノを見つける。
僕が以前使っていたベッド。その布団が妙に膨らんでいた。
(……人が寝てるみたい)
まるで誰かが中にいるような、人が横たわっているかのような不自然な膨らみ。
でも。見つけられた異常はそれくらいで。今度は床に寝ているヒロの観察を始めた。
「…………」
まず手枷を嵌められた手首と、その周辺を眺める。
鉄格子越しで細かいところまでは分からなかったものの。拘束から逃れようと無理矢理引っ張ったり、暴れたりしたような傷は見られず。
指先の爪も綺麗で何かを強く引っ掻いたような跡も、何かが爪の間に挟まっている様子もなかった。
(乱暴を働かれた……わけではないのかな?)
続いて衣服を見つめる。
少なくとも見える範囲では、制服に大きく乱れた様子はなかった。引っ張られて伸びている場所もなければ、破れているようにも見えず。
襟元も袖口も。特に不自然なところはなくて。胸の奥に溜まっていた怒りが、少しずつ別の感情へ形を変えていくのが分かった。
「……おかしい」
違和感と疑問が、同時に頭をもたげ始める。
もし誰かに襲われて、無理矢理こんな状態にされたのなら。抵抗した痕跡が、もう少しくらい残っていてもおかしくないはずだ。
それなのに僕が見た限り、そういった痕跡が全く見当たらない。
「…………」
だとしたら。そもそもヒロは誰かに拘束されたわけではなく。
(自ら望んで拘束されてる……?)
そんな信じがたい考えが、結論として頭の中に浮かんで。
『……どうして!?』
思わずそう叫びそうになった。けれども。
喉から漏れたのは、声とも呼べないような掠れた音だけで。口の中に、微かに鉄のような味が広がっていく。
(もしかして……みんなを守るために?)
もし『魔女化』が進行するにつれて、誰かを傷つけたいという衝動が強くなっていくのなら。そんな自分を鎖で繋いで、誰にも近づけないようにするのは、きっと一番正しい方法なのだろう。
でも。その方法には。
ヒロ自身がどうなるのかなんて、全く考えられていない。
誰かを守ることだけを考えて。自分がどれだけ辛い思いをするかなんて、最初から考慮の外に置いてしまっているようで。
「…………」
胸が苦しかった。
怒りなのか。悲しさなのか。自分でもよく分からない。
ただ。どうしたらいいのだろう。そんな疑問ばかりが頭の中を埋め尽くしていて。
(こんなに苦しんじゃうくらいなら……もういっそのこと)
無意識に視線が床へ落ちる。
そこには、少し大きなガラスの破片が落ちていて――。
「……っ」
全身に怖気が走った。
(……今。僕は何を……考えたの?)
顔から血の気が引く。
ただヒロを助けたかった。苦しんでほしくないと思っていたはずなのに。
ほんの一瞬だけ。
もうヒロが苦しまないように――全てを終わらせてしまうことを考えてしまっていて。
(違う……!)
自分の中に生まれてしまった考えが怖くて。何かに縋るように、僕は震える手を制服のポケットへ入れた。
すると。指先に柔らかな布の感触が触れる。
「……あ」
取り出してみると、それはメルルちゃんから貰った匂い袋で。
「……すぅ……」
縋るように顔へ近づけて息を吸い込むと、鼻いっぱいに優しい香りが広がって。ほんの少しだけ、呼吸が楽になったのが分かった。
「…………」
もう一度。ゆっくりと息を吸う。
さっきまで頭の中を埋め尽くしていた恐ろしい考えが、少しずつ遠ざかっていくような感じがして。
ほんの少しだけ落ち着きながら、僕は再び鉄格子の向こうにいるヒロへと視線を戻した。
「…………」
手の中の匂い袋を見る。
メルルちゃんが僕のために作ってくれた、とても大切なもの。
今はないものの。ヒロの分は用意しているところで。今これを渡したところで、ヒロの苦しみが全部なくなるわけではない。それでも。
(少しでも……楽になってくれたら)
一瞬だけ迷ったものの。僕は鉄格子の隙間から腕を伸ばし、そっとヒロの隣に匂い袋を置いて。
「……ごめん」
逃げるように背を向けると。僕はメルルちゃんの部屋へ向かって、薄暗い廊下を走り出したのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「エマさん……!」
メルルちゃんの部屋に着くと、待ちわびていたような声が僕を出迎えた。
「そ、その……おかえりなさい!」
「……ただいま」
部屋の中は廊下より暖かくて。
明かりも。メルルちゃんの弾んだ声も。嬉しそうな表情も。ついさっきまでいた場所とは、まるで別世界みたいだった。
「…………」
「エマさん?」
「……ううん。何でもないよ」
心配そうに首を傾げるメルルちゃんへ、慌てて笑みを作ってみせる。
けれど。彼女の姿を見ているうちに、先ほどした選択が急に申し訳なく感じられて。
「……あのさ。メルルちゃん」
「はい?」
「その……ごめん」
「え?」
「貰った匂い袋なんだけど……他の人に渡しちゃった」
「…………」
そう謝ると。メルルちゃんは突然のことに目を丸くしていた。
「勝手に渡しちゃって……ごめん」
「だ、大丈夫です!」
「……え?」
「本当に大丈夫ですから!」
あの選択自体に後悔はない。
それでも。僕のために作ってくれたものを勝手に渡してしまったことが申し訳なくて、もう一度謝ろうとすると。メルルちゃんは慌てたように首を振って。
「その匂い袋は……早くエマさんに渡したくて、とりあえず作ったものなんです」
「とりあえず?」
「はい。そのままだと、すぐ香りも弱くなっちゃいますし……」
そう言ってから。メルルちゃんは少し恥ずかしそうに頬を赤くした。
「だから今度は、ちゃんとした物を贈らせてください!」
照れくさそうに笑うメルルちゃんを見て、胸につかえていたものが少しだけ軽くなって。
「ありがとう。メルルちゃん」
ようやく自然な笑みを浮かべる。
とはいえ。ヒロのことも。さっき自分が考えてしまったことも。メルルちゃんに打ち明ける気にはなれなくて。
「……あのさ。今日はいろいろあったから、僕もう寝るね」
「え……」
そう告げると。メルルちゃんの表情に、すぐさま心配そうな色が浮かんだ。
「大丈夫。ちょっと疲れただけだから」
「……そうですか?」
「うん」
「…………」
メルルちゃんはまだ何か言いたそうだったけれど、最後には小さく頷いてくれて。
「……分かりました」
「ありがとう」
そのままベッドへ潜り込んで。
「おやすみ。メルルちゃん」
「……おやすみなさい。エマさん」
「…………」
目を閉じる。
けれど。すぐに眠れるはずもなかった。
瞼の裏に浮かんでくるのは、冷たい床の上で丸くなっていたヒロと。その近くに落ちていた、あの鋭いガラスの破片で。
「…………っ」
手の指が勝手に布団を強く握り締めた。
それでも僕は何も考えないように。何も思い出さないように。ただひたすら目を閉じ続けて。
そうしているうちに。いつの間にか僕の意識は、深い眠りの中へと沈みこんでいったのだった。