まのさば Restart 作:雪うさぎ
柔らかな寝具に包まれながら、僕はゆっくりと目を覚ました。
「……ん」
薄く瞼を開く。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、白い天井を淡く照らしていた。
「…………」
なんだか。
昨日までとは、随分と身体の感じが違う。
恐る恐る身体を動かしてみても、全く痛くない。次に上半身を起こしてみても、怠い感じも残っていなくて。
「……わ」
思わず声が漏れた。
昨日まで身体の奥に残っていた重苦しさが、まるで嘘みたいに消えている。
身体が軽い。まるで身体に羽根でも生えたみたいで。
「ん~~っ!」
両腕を頭の上まで伸ばして、大きく伸びをした。
固まっていた身体がゆっくりと解れていく感覚が気持ちよくて、そのまま深く息を吸い込み。
「ふぅ……」
勢い良く吐き出す。
(……うん。大丈夫そう)
昨日メルルちゃんにも、身体に問題がなければ今日から医務室を出てもいいと言われていた。
ようやく。ようやく、このベッドから解放される。
(今日は何をしようかな)
まだこの牢屋敷について、知らないことばかりだ。
昨日レイアさんから色々と教えてもらっていたけれど、実際に自分の目で見てみたい場所が沢山あった。
ひとまず――ヒロちゃんがいるらしい懲罰房に行こうかなと考えていると。
「エマさーん!朝ですよー!」
「ひゃあっ!?」
元気溌剌な少女の声が響いて。
――バタンッ!
物凄い勢いで扉が開く。
「おはようございます!」
「…………」
扉の向こうには、満面の笑みを浮かべたシェリーちゃんが立っていて。
肩元で整えられた青色の髪を揺らしながら、琥珀色の瞳をキラキラと輝かせていた。
「シェ、シェリーちゃん……?」
「はい!みんな大好きシェリーちゃんです!」
「う、うん。それは分かるけど……」
何だろう。物凄く元気だ。
というより。
(なんか……遊んでほしくて仕方ない子犬みたい)
そんな失礼な感想が頭を過ぎった瞬間。シェリーちゃんは僕のベッドまで一直線に駆け寄ってきて。
「今日が退院の日でしたよね!」
「え?あ、うん。その予定だったけど――」
「良かったです!」
「わっ」
両手をぎゅっと掴まれた。
「私。今日ちょうど、この謎めいた牢屋敷を探索しようと思ってて!」
「まだ見ていない場所がたくさんありますからね! もしかしたら脱出に繋がる手掛かりが見つかるかもしれませんし、不思議な仕掛けとかが隠されているかもしれません!」
「そ、そうだね」
「そこで!」
ぐいっ。
「エマさんにも一緒についてきて欲しいんです!」
「今から!?」
「もちろんです!」
「ま、待ってシェリーちゃん!」
身体ごと引っ張られ、慌ててベッドの縁を掴む。
「僕、今起きたばっかりだから!」
「大丈夫です!目はしっかり開いてますよ!」
「そういう問題じゃないかも!」
まだ顔も洗っていないし、きっと髪だって寝癖がついてしまっている。
「せ、せめて顔を洗ったりとか……!」
「なるほど!」
「分かってくれた?」
「では40秒で支度してください!」
「ちゃんと話を聞いてたのかな!?」
「えっと……今の言葉で5秒くらいですかね?」
「横暴が過ぎると思うよ!?」
そんなことを言ってしまうも、シェリーちゃんは訂正することもなくニコニコとした笑顔で僕の姿を見守っていて。
結局。
ろくに準備もできないまま慌ただしく顔を洗い、最低限の身なりだけ整えて。僕はシェリーちゃんに引っ張られるようにして、久しぶりに医務室の外へと足を踏み出したのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「まずはこちらです!」
シェリーちゃんが最初に向かったのは、屋敷の2階だった。
ラウンジを抜け、大きな階段を昇る。昨日まではほとんどベッドの上で過ごしていたから、こうして自分の足で屋敷の中を歩くのはなんだか新鮮で。
「身体は大丈夫ですか?」
「うん。全然痛くないよ」
「それは何よりです!」
思わず微笑んでいると、先を歩いていたシェリーちゃんがクルリと振り返ってきて。
「もし痛くなったらすぐに言ってくださいね?お姫様抱っこで運んであげますから!」
「だ、大丈夫!」
「遠慮しなくてもいいんですよ?」
悪戯っぽい笑みで、そんな事を告げてくる。
この間も怪我が治った僕を軽々と抱き上げていたし、おそらくシェリーちゃんにとっては僕の体重は重くもなんともないのだとは思う。
けれども、そんな所を牢屋敷の少女たちの前でやられたら恥ずかしくて死んでしまうので。
「本当に大丈夫だから!」
僕は強い口調で断り、少しだけ歩く速度を上げた。
「えー。残念です」
背後から楽しそうな声が聞こえてくる。
どうやら本気で抱き上げるつもりだったらしい。
そんなシェリーちゃんから逃げるように廊下を進んでいると、やがて突き当たりに1枚の扉が見えてきた。
「ここです!」
追いついてきたシェリーちゃんに促されるまま、扉を開く。
「わぁ……」
思わず小さく声が漏れた。
中には天井近くまで届きそうな本棚が整然と並んでいた。
壁という壁が本で埋め尽くされ、古い紙と木の匂いがほのかに漂っている。牢屋敷の中にいることを忘れてしまいそうなほど、静かで落ち着いた空間だった。
「すごいね……」
「でしょう?」
何故だかシェリーちゃんは、まるで自分の部屋でも紹介しているように得意げに胸を張った。
「ただ、一つ問題がありまして」
「問題?」
「ほとんど読めないんですよね」
「え?」
近くの本棚から一冊抜き取って見せてもらう。
「…………」
そこに書かれていたのは、今まで見たことのない文字だった。
アルファベットはもちろん、アブジャドのような音素文字とも違う。曲線と角ばった線が入り混じった、まるで見当のつかない文字が頁いっぱいに並んでいる。
「本当だ……」
「こんな本ばっかで、読めそうな本を探すだけでも大変なんですよ」
そう言って、シェリーちゃんが肩を竦める。
その向こうに――ふと、人影が見えた。
「……?」
本棚の隙間から覗くようにして、一人の少女が机に向かっている。
僕たちの話し声など気にも留めていない様子で開いた本へ視線を落としながら、黙々とページを捲っていた。
「あ」
その姿には見覚えがあった。
夜の蝶を思わせるような、黒を基調とした艶やかな衣装。どこか妖艶な雰囲気を纏ったその少女は、昨日レイアさんの端末で見せてもらった人物と同じで。
(……確か)
「宝生マーゴさん?」
名前を呼ばれたことに気づいたのだろう。
少女――マーゴさんが、ゆっくりと本から顔を上げた。
「……どなたかしら」
「あ、えっと……僕は桜羽エマと言います。こっちは――」
「橘シェリーです!」
僕より早く、シェリーちゃんが元気よく名乗る。
「初めまして、マーゴさん!」
「……そうなの」
マーゴさんは僕とシェリーちゃんを交互に見つめてから、僅かに目元を和らげた。
「私は宝生マーゴ。よろしくね」
「うん。よろしくお願いします」
静かな声だった。
少し気怠げで、大人びていて。この図書室の落ち着いた空気によく馴染んでいる。
マーゴさんは僕たちへ一度だけ視線を向けると、すぐに手元の本へと目を戻してしまう。
「何をしてるんですか?」
けれども。そんな様子など気にすることなく、シェリーちゃんが躊躇なく尋ねた。
「あら。見れば分かるでしょう?」
「読書です!」
「正解」
「じゃあ……今は何の本を読んでるんですか?」
「はぁ……そこまで聞くのね」
少し呆れたように言いながらも、マーゴさんの表情は決して嫌そうではなかった。
「退屈しのぎよ。ついでに、ここに連れてこられた理由とか。この場所の歴史とか……何か役に立ちそうな情報がないか探しているの」
ぱらり。細い指がページを捲る。
「もっとも読める本自体が少ないから、大した成果はないけれど」
「なるほど!」
その言葉を聞いた途端、シェリーちゃんの瞳がぱっと輝いた。
どうやら単なる読書ではなく牢屋敷の謎に繋がるかもしれないと聞いて、一気に興味を惹かれたらしい。
「私の名探偵としての勘が告げています!やっぱり此処には何かありそうです!」
「そうだといいけれど」
「そうだね。僕も……ちょっとだけ探してみようかな」
僕も少し興味が湧いて、近くに積まれていた本へと手を伸ばしてみる。
手にとったのは、随分と古びた本だった。黒ずんだ表紙には何も書かれていない。
(まぁ……何か書かれていたとしても、読めるのかは怪しいけど。
「……ひとまず。中だけでも見てみようかな」
ぱらり。
「……?」
1ページ目を開いた。けれど、そこには何も書かれていなくて。
(白紙……?)
もう1枚ページを捲った。
やっぱり何もなく、さらに1枚捲る。
「…………?」
何の本なんだろう。そう思いながら、もう一度だけページを捲って。
「…………え」
そこで。思わず手が止まってしまう。
さっきまで確かに真っ白だったはずのページ。その中央に。
『たすけて』
そう書かれた赤黒い文字が、滲むように浮かんでいて。
「――っ!?」
ばたんっ!反射的に本を閉じた。
「どうしたんですか、エマさん?」
「な、なんでもない!」
目ざとく僕の様子に気付いたのか、すぐ隣からシェリーちゃんの声が飛んでくる。
「なんでもない人は、そんな凄い勢いで本を閉じなくないですか?」
「ほ、本当に何でもないから!」
「……絶対何かありましたよね?」
「ないよ!」
「見せてください!」
「だ、駄目!」
思わず目を逸らしながら告げると、シェリーちゃんがぐいっと身を乗り出してきて。僕は咄嗟に本を胸元へ抱え込んだ。
「絶対何かありましたって!」
「何もないってば!」
「その反応は何かある人の反応ですよ!」
「いや!これは絶対に見なくていいやつ!」
「見ても見なくても、そこに書かれてる内容は変わらないんですから、見た方がお得じゃないですか?」
「何がお得なのかな!?」
というより。あんなもの、もう開きたくないというのが、僕の偽らざる本音だった。
「と、とにかく駄目!」
「う~!そんなに拒否されると、逆に気になっちゃいます!」
ぐいぐい迫ってくるシェリーちゃん。必死に本を守る僕。
「…………」
「あ」
そんな時。ふと視線を感じた。
恐る恐るそちらを見ると、マーゴさんが本から顔を上げていた。
僕たちの騒ぎを止めるでもなく。ただ少しだけ、迷惑そうな目をしていて。
「…………」
「…………」
「ご、ごめんなさい……」
はっと我に返り、身体を縮こまらせる。
「図書室だもんね……」
「別に静かにしろとは言わないけれど」
マーゴさんは淡々とそう言って。
「もう少し音量を落としてくれると助かるわ」
「す、すみません……」
「はーい!」
僕とは対照的に、シェリーちゃんは全く堪えていないようで。これ以上ここにいたら、絶対また本を奪おうとしてくる。
そう確信した僕は。
「ほ、ほら、シェリーちゃん!次の場所行こう!」
「えー!」
「マーゴさんも調べ物してるんだから、邪魔しちゃ悪いよ!」
抵抗するシェリーちゃんの手を無理やり掴んで歩き始めた。
「ふふっ……」
そのまま出ようとすると、背後で僅かに笑う声が響く。
「まぁ……いいBGMにはなるし。もう少しくらい居ても構わないけれど」
「マーゴさん!?」
「ほら!許可が出ましたよ、エマさん!」
「それとこれとは話が別だよ!」
思わぬ横やりに驚くも、僕は慌てて本棚に本を押し戻して。
「これでもう見られないからね!」
「あ―!横暴です!」
「さっき僕に40秒で支度しろって言った人には言われたくないよ!」
最後まで諦めようとしないシェリーちゃんの手を、強引に引っ張りながら。
「それじゃあ、マーゴさん。またね!」
「……ええ。また暇な時にでも来るといいわ」
「うん!」
「今度こそ、あの本も見せてもらいますからね!」
「それは駄目!」
僕は今度こそ足早に図書室を後にしたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「エマさんの意地悪」
「ご、ごめんってば」
「絶対面白そうな本でしたのに」
「全然面白くないよ!」
「それを確かめるのも探偵の役目です!」
「探偵って……本当にそういう仕事なのかな……?」
頬を少し膨らませたまま。
シェリーちゃんが次に向かったのは、図書室からそう離れていない場所にある部屋だった。
「ここは娯楽室です!」
「娯楽室?」
「はい!」
扉を開ける。
「わ……」
今度は先ほどの図書室とは正反対だった。
床には柔らかな赤い絨毯が敷かれていて。大きなソファが幾つも並び、横になって寛げるようになっている。
机の上にはチェスやカードゲーム。棚には沢山のフィルムが並んでいて、部屋の奥には巨大な白いスクリーンまで備え付けられていた。
「なんだか……普通に楽しそうな場所だね」
「牢屋であることを忘れてしまいそうですよね」
「うん」
どうしてこんな場所まで用意されているのだろう。
少し不気味でもある。
けれど。
「…………」
「…………」
既にこの場所を満喫している人もいるようだった。
部屋の奥。大きなソファの上に、2人の少女が既に座っていた。
(あれは……)
夏目アンアンちゃん。それから佐伯ミリアちゃん。
2人とも。今は巨大なスクリーンへ釘付けになっているようで。
『――――!!』
「ひっ……!」
「っ……!」
突然画面の中で何かが起こり。2人の肩が同時に跳ねた。
「…………」
「…………」
ぎゅう。どちらからともなく身を寄せ合っていて。
「……怖いなら見なければいいのに」
思わず小声で呟いてしまう。
「怖いからこそ見たくなるんですよ!」
「シェリーちゃんもそっち側なんだ……」
そう小声で返してきた彼女に僅かな距離感を覚えながら、僕は少しだけ近くの机を見てみた。
そこには1つのケースが置かれていた。
表紙いっぱいの不気味な絵。そこにはおどろおどろしい文字で――『SAW』と大きく書かれていて。
「…………」
僕は思わず、そっと視線を逸らした。
「面白いですよね!私は1が不朽の名作だと思ってます!」
「普通に見たことあるんだ!?」
「ぜひ。お二人に感想を――!」
「待って」
扉の隙間から見るのをやめ、中に行こうとした彼女の袖を掴んだ。
「はい?」
「その今は……やめておこう」
「どうしてです?」
見ていると。2人は画面の中へ夢中になっているのが分かった。確かに怖がってはいる。
でも。同時に何処か、とても楽しそうに見えて。
「せっかく2人で楽しんでるみたいだし。邪魔したくなくないんだ」
「…………」
その言葉にシェリーちゃんは2人を見た。
「なるほど」
少し考えていた様子だったが、すぐに決断したようで。
「確かに探偵たるもの、時には空気を読むことも必要ですよね」
「探偵じゃなくても必要だと思うな」
「では静かに退散しましょう!」
「うん」
僕たちは音を立てないよう、そっと扉を閉める。
閉める寸前に、もう一度だけ中を見てみると。
『――!』
「ひゃっ。ち、ちょっと、おじさんに抱きつきすぎじゃないかな!」
「うるさい。怖いのだから仕方ないだろう」
「だからって顔までくっつけなくても……!」
とても楽しそうで。
「楽しそうですね」
「うん」
特に声をかけることもなく、静かに娯楽室を後にしたのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……うーん」
娯楽室を出たところで、シェリーちゃんが腕を組んだ。そのまま廊下の真ん中で、難しい顔をしながら首を傾げている。
「どうしたの?」
「次は何処へ行こうかなと思いまして」
「まだ行くんだね」
「もちろんです!」
「そ、そっか」
即答だった。
本当に元気だ。少しくらい見習った方がいいのかもしれない。
「図書室。娯楽室……他には……」
ぶつぶつと呟きながら考えること、しばらく。
「あ!」
「わっ」
突然、シェリーちゃんが勢いよく顔を上げた。
「決めました!」
次の瞬間には、また僕の手がぎゅっと掴まれていて。
「最後は外に行きたいです!」
「昨日少し見て回ったんですけど、ちゃんと見てない場所があるんですよ!」
「そっか」
屋敷の外。
そういえば昨日、レイアさんからも自由時間なら庭や湖の辺りまで歩いて構わないと聞いていた。
僕自身、ずっと医務室にいたせいで外は殆ど見れていないので。
「じゃあ、行ってみようか」
「はい!」
元気な返事に促されるように、僕たちは再び1階へと降り玄関へ向かって歩き始めた。
けれども――。
「…………っ」
その途中。廊下の向こうに見えたものに、思わず足が止まってしまう。
「エマさん?」
「…………」
大きな黒い影。
僕たちよりも遥かに背が高く、頭から足元まで巨大な黒い衣に包まれた看守の姿があって。胸の奥が、きゅっと縮み上がるのが分かった。
反射的に一歩後ろへ下がりそうになる。
大きな手がヒロちゃんへ伸びた光景。その間へ飛び込んだ瞬間。身体を襲った衝撃――そして意識を失う直前に感じていた、死が近づいてくる感覚。
「…………」
傷はもう痛くない。身体だって、さっきまで元気に歩き回れていた。
それなのに。
まるで身体のどこかだけが、あの時のことをまだ覚えているみたいで。
(……怖い)
そう思った。しかし。
「……?」
次の瞬間、僕は別の意味で目を瞬いてしまう。
看守のすぐ隣。そこで1人の女の子が、何やら変なことをしているのが見えた。
(……ナノカちゃん?)
その姿には見覚えがある。昨日レイアさんの端末で見せてもらった少女――黒部ナノカちゃん。
黒い軍服のような衣装を身に纏い、背中にも大きな銃を背負っていて、どこか近寄りがたいクールな雰囲気の女の子だったのけれど。
「…………」
そんなナノカちゃんが。何故か看守に抱きついていた。
「……え?」
思わず瞬きをする。見間違いかと思った。けれど何度見ても、その抱きついている様子に変わりはなくて。
(……何してるんだろう)
困惑している僕の横から。
「何してるんですか?」
「シェリーちゃん!?」
何の躊躇もなく、ずんずんとシェリーちゃんが近づいていった。
「…………」
声に気づいたのか。ナノカちゃんがゆっくりと此方を振り返り。僕たちの姿を認めると、少しだけ嫌そうに眉を寄せた。
「……別に」
「看守さんに抱きついてますよね?」
「…………」
その言葉にナノカちゃんは沈黙するも。
「……貴方達には関係ない」
そう言って、すっと視線を逸らした。
「特に理由なんてないわ」
「そうなんですか?」
「……そうよ」
妙に素っ気ない声だった。そしてナノカちゃんは、まるで何事もなかったように看守から離れようとして――。
シェリーちゃんは何故かパッと顔を輝かせた。
「――分かりました!ぎゅっと抱きついて、動きを封じようとしてるんですね!」
「……は?」
「お手伝いします!」
「待ちなさ――」
そうナノカちゃんが言い切るより早く。
「えいっ!」
「わっ!?」
シェリーちゃんまで勢いよく看守へ抱きついた。結果。
「…………」
ナノカちゃんが看守とシェリーちゃんの間に挟まれてしまって。
「……離れて。暑苦しい」
ナノカちゃんは心底迷惑そうな顔をしていた。
「でも……まだ完全には動きを封じられていませんよ!」
「そもそも封じようとしてないの」
「……そうなんですか?」
「そう言おうとしたでしょう」
「それは失礼しました!」
そう言いながらも、何故かシェリーちゃんは看守から離れない。
「……なら、離れてくれる?」
「あ、そうでした!」
「…………」
そんな二人のやり取りを眺めながら、ふと気づく。
看守は、その間ずっと何も言わなかった。というより。
(……なんでされるがままなんだろう)
シェリーちゃんとナノカちゃんの二人にくっつかれたまま、看守は微動だにしていない。振り払おうともしない。
「…………」
なんでだろう。
ついさっきまで、姿を見ただけで身体が強張るくらい怖かったはずなのに。
巨大な黒い異形に、小さな女の子が二人もくっついている。そんな光景を見ていると。
(……少しだけ、怖くなくなったかも)
恐る恐る、一歩だけ前へ踏み出す。
看守は動かない。もう一歩だけ進んでみる。
「…………」
近づいてみると、やっぱり看守はとても大きかった。見上げなければ顔の辺りすら見えないほどで。
怖い。胸の奥が少しだけざわざわする。
でも、ついさっきまでみたいに逃げ出してしまいたいほどではなかった。
「…………」
そんな看守を見上げていると。
「あ……!」
シェリーちゃんの顔が、また何かを思いついた時のものへ変わった。
(……なんだか嫌な予感)
「そういえば!」
「……今度は何」
ナノカちゃんも同じことを思ったのか、警戒するような目を向ける。
けれどもシェリーちゃんは全く気にせず。
「看守さんの、この服の中ってどうなってるんですかね?」
「…………」
「…………」
そんな事を言い放って。廊下に妙な沈黙が落ちた。
シェリーちゃんが、興味津々といった様子で看守の黒いフードを見上げる。
「これだけ大きいですし……中身がどうなってるのか気になりません?」
「…………」
「ちょっとだけ見てみましょうか」
そう言って。
黒いフードの裾へ手を伸ばした。
「や、やめなさい!」
「わっ!?」
次の瞬間。ナノカちゃんが、今までとは比べものにならない速さでシェリーちゃんの腕を掴んだ。
「なんですか?」
「そんなの絶対駄目!」
「少しくらいいいじゃないですか!」
「いやよ!」
「どうしてです?」
「な、何でって……」
ナノカちゃんが一瞬だけ言葉に詰まる。
「……そんなの」
僅かに頬を赤くしながら。
「わ、私だって見たことがないのに!」
「…………」
「…………」
しん。
「……っ」
その言葉に今度こそ。廊下が完全に静まり返った。
「……今のは忘れなさい」
ナノカちゃんが、すっと顔を背ける。
「なるほど!」
「何がなるほどなのよ」
「ナノカさんも気になってるんですね!」
「違うわ」
「なら一緒に見ましょう!」
「どうしてそうなるの!?」
再び看守のフードへ手を伸ばそうとするシェリーちゃん。
「とにかく駄目なの!」
それを必死に止めるナノカちゃん。
「えー!」
「…………」
僕はそんな二人を見比べながら、首を傾げる。
(……よく分からないけど)
こういうのは。あれだろうか。
(マスコットの中身を見ちゃいけない……みたいな……?)
子供の夢を壊さないために、中に誰が入っているのか確かめてはいけない。
きっと、そういう理由なのかもしれない。
「…………」
改めて看守を見上げる。
真っ黒で。大きくて。不気味で。どう見ても可愛いマスコットという感じには見えないけれど。
(……看守ってマスコットなのかな)
やっぱり、ちょっと違う気がした。
「エマさん!」
「え?」
「エマさんも気になりますよね!?」
「えっと……」
「ほら!」
シェリーちゃんが、明らかに味方を求める目で僕を見る。
「気になりますよね!?」
「…………」
少し考えて。
「僕は……見ない方がいいと思うな」
「えー!」
「ほら。やっぱり私が正しいじゃない」
ナノカちゃんが、少しだけ得意げに胸を張った。
「なんというか……勝手に服の中を覗くのは良くないと思うし」
「でも人間じゃないですよ?」
「そ、それでもダメじゃないかな……?」
看守を見る。相変わらず何も言わない。
とはいえ。
「こうして嫌がる人もいるし……やめといた方がいいと思うな」
「むぅ……」
シェリーちゃんが不満そうに頬を膨らませる。
「ほら、シェリーちゃん」
「はい?」
「外に行くんでしょ?」
「…………」
「あ」
どうやら本来の目的を完全に忘れていたらしい。
「そうでした!」
ぱっと表情が明るくなる。
切り替えが早い。
「それではナノカさん!看守さん!また後で!」
「…………」
「……えっと」
僕も二人へ軽く頭を下げる。
「迷惑かけてごめんね。それじゃあ……また!」
「……ええ。また」
ナノカちゃんが小さく返事をした。
「…………」
そのまま歩き出して。少しだけ進んだところで、僕は一度だけ振り返る。
看守は相変わらず、そこに立っていた。
巨大で。真っ黒で。やっぱり少し怖い。
けれど。
(……さっきよりは大丈夫かも)
胸の奥に残っていた硬いものが、ほんの少しだけ解れたような気がして。
「エマさーん!置いていきますよー!」
「あ、待って!」
前方から聞こえた声に慌てて駆け出す。
こうして。なんとも妙な寄り道を挟みながらも。僕たちは今度こそ、屋敷の外へと足を向けたのだった。