まのさば Restart 作:雪うさぎ
牢屋敷へ戻るまで、僕たちは殆ど言葉を交わさなかった。
「…………」
重たい扉を、シェリーちゃんが軽々と押し開ける。先ほどまで眩しいほどの陽光に包まれていたせいか、屋敷の中は外へ出る前よりもずっと薄暗く感じられた。
冷たい石造りの床。静まり返った廊下。
ついさっきまで聞こえていた木々の葉擦れや小鳥の声も、この冷たい牢屋敷の中には届かないようだった。
「…………」
隣を見る。シェリーちゃんは、まだ僕の手を握っていた。
森を出てからずっと。僕がもう追いかけないと言った後も、一度も離そうとはしてくれなくて。
「シェリーちゃん」
「……はい」
「もう大丈夫だよ」
「…………」
握られたままの手へ視線を落とす。
「逃げたりしないから」
「……そういうつもりじゃないんですけどね」
シェリーちゃんが小さく呟く。それから少しだけ迷うように指先を動かしたものの。ようやく僕の手を離してくれた。
「ごめんなさい」
「でも。あの時は、ああするしかないと思ったんです」
「……うん」
納得できたわけではない。
どうしてシェリーちゃんが、あそこまでヒロを警戒していたのか。どうしてヒロ自身も、僕から離れようとしていたのか。
まだ何も分かっていない。それでも。
シェリーちゃんの行いに悪意がなかったことくらいは、短い付き合いながらも分かっていて。
「大丈夫。怒ってないよ」
「本当ですか?」
「うん」
「なら良かったです!」
そう告げると、シェリーちゃんの表情がぱっと明るくなった。けれども。いつもの屈託のない笑顔とは違い、その表情には僅かに申し訳なさそうな色が残っていて。
何処か気まずい沈黙が僕たちの間に落ちた、その時だった。
「エマさん!」
「……?」
廊下の向こうから、聞き覚えのある声が響く。
顔を上げると白い修道服を揺らしながら、見覚えのある少女がこちらへ駆けてきていて。
「メルルちゃん?」
「もう……!どこに行ってたんですか!」
小走りで僕たちのところまで来ると、メルルちゃんはほっとしたように胸へ手を当てた。
「医務室に行ってみても、エマさんがいなくて……ずっと屋敷の中を探してたんです!」
「えっと……ごめんね。心配させちゃった?」
「心配しました!」
いかにも怒っていますと言わんばかりに、頬が僅かに膨らむ。
「昨日あんなことがあったばかりなのに……!せめて誰かに一言くらい言ってから出かけてください!」
「う、うん……ごめんなさい」
「絶対にですよ?」
「うん」
怒られているはずなのに。その可愛らしい顔を見ていると、少しだけ胸の中が軽くなった気がした。
ヒロに拒絶された痛みが消えたわけじゃない。それでも、こうして僕を探してくれる人がいることが、少しだけ嬉しく感じられて。
「……心配してくれてありがとう。メルルちゃん」
「……っ」
感謝の言葉と共に笑いかけると、メルルちゃんは一瞬だけ固まった。それから。
「い、いえ……無事ならそれでいいんです」
頬を赤くして、何故か恥ずかしそうに俯いてしまう。そのまま暫く俯いていたメルルちゃんだったけれど。やがて照れを誤魔化すように、小さく咳払いをして。
「そ、その……エマさんは、ちょっと無防備すぎると思います」
「あ……それ分かります!」
そんな事を言い始めて。隣で大人しくしていたはずの、シェリーちゃんまで勢いよく食いついてきた。
「私が連れ出した時も、ほいほいと付いてきてくれましたし!」
「ほとんど強制みたいに連れ出したよね!?」
「でも最終的には付いてきてくれたじゃないですか!」
「それは……その腕を引っ張られてたからで」
「……やっぱり無防備です」
「メルルちゃんまで!?」
思わず声を上げる。
そんな僕にシェリーちゃんが笑い、メルルちゃんも少しだけ口元を緩めていて。さっきまで重たかった空気が和らいだように思えて、小さく息を吐いた。
けれど。
「…………」
ふと。メルルちゃんの視線が、僕とシェリーちゃんの間を行き来して。
「……あの」
「ん?」
どこか言いにくそうに指先を、もじもじと胸元の前で合わせた。
「もしかして……お二人、何かありましたか?」
「え?」
「そ、その……さっきから少し雰囲気が変というか」
おずおずとした問いだった。
「シェリーさんも、いつもより元気がないように見えますし……エマさんもその……」
そこで言葉を濁しながら。メルルちゃんは心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「……ちょっと悲しそうな気がします」
「あ……」
「そ、その。実は……途中でヒロさんに会ったんです」
思わず言葉に詰まる。隠しているつもりだった。けれど、どうやら上手くできていなかったらしい。少し答えあぐねていると、代わりにシェリーちゃんが口を開いてくれて。
「っ……!」
その名前が出た瞬間。メルルちゃんの身体が、明らかに強張るのが分かった。
「ヒロさんに……?」
「うん」
「大丈夫だったんですか!?」
さっきまでとは比べものにならないほど鋭い声を上げ、メルルちゃんが一歩近づいてくる。僕の身体に異変がないか確かめるように、上から下まで視線を走らせた。
「何もされませんでしたか!?何処か怪我とか……!」
「そ、そんな怪我なんてしてないよ!」
「でも……!」
「本当に大丈夫」
慌てて両手を広げて見せる。
「ほら。どこも何ともないから」
「…………」
メルルちゃんは、それでも心配そうに僕を見ていた。
「ヒロちゃんからは何もされてないよ」
「……本当ですか?」
「うん。むしろ……」
言葉を続けようとして。胸の奥が、ずきりと痛んだ。
「僕に……近づかないでって言ってた」
「…………」
その言葉に、メルルちゃんは黙り込んだ。けれど、その顔に浮かんでいたのは安堵ではなく。まるで何かを恐れているような表情で。
「……やっぱり。2人とも何か知ってるんだよね?」
「ヒロちゃんに起きている……あの現象について」
僕は2人を見比べながら、心の中にあった疑問を投げかけた。
「……そうですね」
その言葉にシェリーちゃんは、小さく息を吐いた。いつもの明るさを抑えた静かな声。
「まだ事実であるかも分からないので、ちゃんと確認してから話したかったんですけど」
そう言って。周囲を一度見回す。長い廊下には今のところ誰の姿もない。それでもシェリーちゃんは、そこで話し始めようとはせず。
「少しだけ長い話になるでしょうし。場所を変えましょうか」
そんな事を言って。僕たちは落ち着いて話をするためにラウンジへと向かったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「――魔女化?」
人気のないラウンジ。僕たちは三人で、向かい合うようにソファへ座っていた。
「はい」
メルルちゃんが小さく頷く。
「ゴクチョーさんが最初に言っていましたよね。私たちは将来的に……『魔女』という存在になる可能性が高いから、ここへ集められたって」
「うん……」
覚えている。忘れられるはずがない。
突然ここへ連れてこられて。僕たちは将来、人を殺す『魔女』になる可能性があると告げられた。
「これは、あの説明の続きとして話されていたことなのですが……」
「私たちは――ある日突然『魔女』に変貌するというわけじゃないらしいんです」
「……突然じゃない?」
「はい」
今度はシェリーちゃんが口を開いた。
「少しずつ。段階を踏むように変わっていくそうです」
「…………」
「そして。その過程で現れる特徴的な症状が――」
一瞬。シェリーちゃんが言葉を止める。
「殺人衝動です」
「……え」
空気が僅かに冷えたような気がした。
「殺人……衝動?」
「周りの人間を殺したい……と思うようになるそうです」
「最初のうちは、まだ自分で抑えられる程度かもしれません。しかし『魔女化』が進行するほど、その衝動は強くなっていき……」
メルルちゃんが、ぎゅっと膝の上で両手を握り締める。
「……最終的には」
「理性そのものを失い。周りにいる人を、ただ殺して回るだけの……本当の『魔女』になってしまうみたいです」
言葉が出なかった。
頭の中に。森で見たヒロちゃんの姿が浮かぶ。
『君は二度と私に近づくべきではない』
苦しそうな顔。僕を見ようともしなかった赤い瞳。
(……だから?)
あれは。僕を嫌っていたからじゃなくて。もしかして。
「ヒロちゃんに……その症状が出てるってこと?」
「断言はできません」
シェリーちゃんが答える。
「でも、その可能性は高いと思っています」
「…………」
「看守さんを襲おうとした時のヒロさんは、明らかに普通じゃありませんでした」
「で、でも……それは!」
「分かっています」
シェリーちゃんが僕の言葉を遮る。
「ヒロさんは元々、とても正義感が強い人なんですよね?」
「……うん」
「だから。単純に怒っていただけだった可能性もあります」
「……だからこそ余計に判断が難しいんです」
シェリーちゃんが少し眉を下げる。
「魔女化って、突然その人が別人になっちゃうわけじゃないとの事でしたし」
「……つまり。その人が元々持ってる感情が、人を傷つける方向に強く出やすくなるってこと?」
「たぶん。そんな感じだと思います」
確かに。看守のやり方が許せなかったとしても、いきなり襲いかかるなんて、普段のヒロからは考えにくい。
「……それに」
メルルちゃんが続けた。
「その『魔女化』の進行は、どうやら精神的な負担が大きいほど進みやすいみたいなんです」
「おそらくストレスやトラウマの発露など……そういったものが原因で爆発的に進行が進むのだと思います」
「…………」
胸がざわつく。今思い出してみると。
ヒロは初めて此処で目覚めた時から、ずっと怒っているように感じられた。
自分たちが不当に閉じ込められたこと。それが生涯にわたって続くこと。あまつさえ罪を犯していないのに『魔女』だと決めつけられたこと。
きっとヒロちゃんにとっては、その何もかもが許せないことばかりだった。
(……それが原因で?)
だから。あんな風になってしまった?
「…………」
そこでふと。頭の中に一つの疑問が浮かぶ。
(……でも)
もし『魔女化』が進むことで、本当に人を殺して回るようになるのなら。
(どうして……僕たちを生かしてるんだろう)
この牢屋敷には、『魔女』になる可能性が高い少女たちが、こうして一箇所に集められている。
けれど。
もし僕たちが本当にそこまで危険な存在になるのなら。一番手っ取り早いのは――最初から■■してしまうことのはずなのに。
「…………」
そう考えてしまった瞬間。背筋が寒くなった。思わず首を横に振る。
(……今はいい)
そのことを考えるのは、少なくとも今じゃない。
今考えるべきなのは、もっと別のことで。
「じゃあ」
僕は顔を上げた。
「ヒロちゃんが魔女にならないようにすればいいんだよね」
「……え?」
メルルちゃんが目を瞬く。
「魔女化が進んでるなら。それを止める方法を探そうよ」
「エマさん……」
「まだ完全に魔女になったわけじゃないんでしょ?」
「それは……はい」
「だったら、まだ間に合うよ」
自分に言い聞かせるように。僕は言葉を続ける。
「ヒロちゃんだって。自分が危ないかもしれないって分かってるから、僕から離れようとしたんだと思う」
「…………」
「だったら……まだ助けられる。だから何か方法を探そう!」
シェリーちゃんとメルルちゃんを真っ直ぐに見つめる。
「僕1人じゃ分からないけど。3人なら何か思いつけるかもしれない」
「…………」
2人が顔を見合わせる。そして。
「……そうですね」
最初に頷いたのは、メルルちゃんだった。
「正直に言うと……ほんの少し怖いです」
「メルルちゃん……」
「でも。ヒロさんが苦しんでいるのなら……私も出来るだけ助けになりたいです」
「私も助けになりますよ!もしヒロさんが『魔女』になったら、とっても大変ですし!」
「……!ありがとう。メルルちゃん!シェリーちゃん!」
2人とも頷いてくれたことで、少しだけ心強くなる。
あとは具体的に何ができるのかだ。
「……魔女化がストレスで進むなら」
シェリーちゃんが少し考え込む。
「単純にストレスを軽くしてあげるのが良いんでしょうか?」
「たぶんそうだよね」
その言葉にメルルちゃんは顔を上げた。
「そういえば……私……ストレスを軽減するハーブなら幾つか知ってます!」
「えっと……ハーブ?」
「はい。落ち着く香りのものとか、眠りやすくなるものとか……」
「すごい!」
「でも。此処にあるかどうかは……」
「森にありそうじゃないですか?」
シェリーちゃんが口を挟む。
「沢山植物が生えていましたし!」
「確かに……探してみる価値はありそうだね」
「はい!」
僕の言葉にメルルちゃんが嬉しそうに頷いた。
「えっと……他には」
「アニマルセラピーとかどうですかね?」
「アニマルセラピー?」
「動物さんと触れ合うやつです!」
シェリーちゃんが胸を張る。
「可愛い動物を撫でていると癒やされると言いますし!」
「それは……まぁ確かに」
想像してみる。ヒロちゃんが。膝の上に猫を乗せて撫でている姿。
「……」
なんだか意外と似合う気がした。
「たぶん森の中を探せば、可愛い動物くらいはいるでしょうから。そいつを捕まえてくればいいと思います!」
「……急に発想が力技になったね」
「そうですか?」
「野生の動物を捕まえるなんて出来るかな……?」
「大丈夫だと思います!」
シェリーちゃんが自信満々に頷く。
「わたし猫とタメを張れるくらいには速いので!」
「何の自慢なの!?」
「安心してください!捕まえられますよ!」
「猫って思ってる以上に速いと思うけど……?」
「だからタメなんです!」
「勝ってはいないんだ……」
「で、ですけど」
メルルちゃんが少し困ったように笑う。
「その……野生の動物を勝手に捕まえて飼うのは……ちょっと可哀想だと思います」
「むぅ」
「まぁ……そうだね。捕まえても餌を手に入れられるか分からないし、お世話方法も牢屋敷のスマホじゃ調べられないから」
「ですよね。なので見て触るだけが良いのかなと思います」
「なるほど!」
シェリーちゃんが手を打った。
「つまりヒロさんを森へ連れ出して、可愛い動物を探せばいいんですね!」
「それなら良いのかな……?」
「そうなると……今度はヒロさんが来てくれるかが問題だと思います」
「…………」
3人揃って黙り込む。
「まあ……」
シェリーちゃんが頬を掻いた。
「そこについては後で考えましょう!」
「後回しなんだね……」
「まずは1つずつです!」
そんな間の抜けた会話をしているうちに。 胸の中に渦巻いていたものが、ほんの少しだけ小さくなっていた。
話された時は少し絶望的だと感じていた状況。けれども何もできないわけじゃない。まだ僕にも出来ることはあるのだと分かって。胸の中が少し希望で満ちていくのが分かった。
「じゃあ明日」
僕はメルルちゃんを見る。
「一緒に探してみようか。ハーブ」
「……いいんですか?」
「もちろん」
メルルちゃんの顔が、ぱっと明るくなる。
「じ、じゃあ。明日は一日中、私と一緒にいてくれるんですね」
「え?」
「いや……そ、その。ハーブを探してる間だけのつもりだったんだけど」
「……そうですよね」
何故か少しだけ残念そうな顔をされた。
「でも。約束ですからね?」
「うん。約束」
差し出された小指へ。僕も自分の小指を絡める。
「絶対ですよ」
「分かってるって」
「エマさんは直ぐに誰かについていちゃいそうですから」
「そこまで信用ないの……?」
「無いです」
「即答!?」
そんな僕を見て。シェリーちゃんが楽しそうに笑い、僕も微笑み返して。 それから僕たちは少し日が落ちてくるまで、明日のことを話し合ったのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それから。
夕食を終え、夜も随分と更けてきた頃。
「ではエマさん! また明日です!」
「おやすみなさい。エマさん」
「うん。二人とも、おやすみ」
夜の準備を終えて、シェリーちゃんとメルルちゃんに別れを告げた。廊下の向こうへ遠ざかっていく二人の背中を最後まで見送ってから。
「…………」
僕も自分の部屋へ向かって歩き始める。昨日はずっと医務室でにいたけれど、身体の傷はすっかり治っている。
だから元の監房に帰っても何の問題もなくて、逸る気持ちを抑えながら廊下を急いでいた――その時だった。
「やぁ。良い夜だね」
「わっ!?」
突然。背後から声をかけられて、思わず肩を跳ねさせながら振り返る。
「レ、レイアちゃん?」
「そんなに驚かなくてもいいだろう?」
そこには、いつもの穏やかな笑みを浮かべたレイアちゃんが立っていた。僕の反応が面白かったのか、くすりと楽しそうに笑って。こちらへと近づいてくる。
「すっかり元気になったようだね」
「うん。もう身体も痛くないし、すっかり元通りだよ」
「それは何よりだ」
レイアちゃんは安心したように目を細める。そして。
「それじゃあ。さっそく御礼しに来てくれたのかな?」
「お礼?」
一瞬、何のことか分からなかった。けれども。
「……!」
すぐに思い出す。
昨日。医務室を出ていく直前。
『お礼は、元気になってからで構わないよ』
そう言って、僕の額に柔らかな感触を落としてきたことを。
「~~っ!」
思い出した途端、ぶわっと顔が熱くなって。反射的に顔を隠してしまう。
「どうしたんだい?」
「な、何でもないよ!」
「そうかい?」
「…………」
いかにも心配そうな声音。けれどもレイアちゃんの口元は、絶対に分かっていると確信できるくらいに楽しそうに緩んでいた。
①
「そ、それじゃあ!」
「うん?」
「……その牢屋敷の外に行ってみるのはどうかな?」
「外?」
「うん。今日、シェリーちゃんと少しだけ行ってみたんだけど。すごく綺麗だったんだ」
今日見た景色を思い出す。
どこまでも広がる森。色鮮やかな花畑。透き通るほど綺麗だという湖。
その途中で起きたことまで思い出してしまい、僅かに胸の奥が痛んだけれど。それでも、あの景色そのものが綺麗だったことに変わりはなくて。
少し気を取り直すように、僕は言葉を続けた。
「森とか。花畑とか。湖もあるみたいで……」
「なるほど」
レイアちゃんが顎へ指を添える。
「お礼として、私を外へ連れ出してくれるというわけか」
「う、うん。嫌じゃなければ」
「うーん」
レイアちゃんは少し考えるように視線を上へ向けてから、ふっと口元を緩めた。
「悪くない提案だね」
「本当?」
「ああ」
レイアちゃんが微笑む。
「君と2人で美しい景色を見るというのは、なかなか魅力的だ」
「2人でって決めたわけじゃ……」
「違うのかい?」
「……別に違わないけど」
「ふふっ」
また楽しそうに笑われた。
「けれども私は――」
一歩。さらに距離を詰めて、レイアちゃんは悪戯っぽい微笑みを浮かべる。
「もっと別のことがいいかな」
「えっと……?」
その表情に思わず身構えるも。そんな僕の反応がおかしかったらしく、レイアさんは小さく肩を揺らしていた。
「そんなに警戒しなくても、今ここで何かするつもりはないよ」
「そ、その『今ここで』って、どういう意味なのかな?」
「言葉の綾だよ」
「絶対違うよね!?」
「さて」
さらりと流された。
「ところで話は変わるけれど」
「エマ君は、今日どこで眠るつもりなのかな?」
「え?」
「昨日までは医務室だっただろう?」
「ああ……」
言われて、自分の腕へ目を落とす。昨日まで残っていた傷は、もう綺麗に消えていて。
「もう治ったし。今日は元の部屋に戻ろうかなって思ってるけど」
「…………」
そう正直に話すと、レイアちゃんの笑みが僅かに薄くなる。
「なるほど」
「?」
「つまり」
静かな声で。
「今夜はヒロ君と同じ部屋で眠るつもりなんだね」
「…………」
その指摘に思わず言葉に詰まってしまう。
そう。僕とヒロちゃんは、同じ監房を割り当てられている。
そして牢屋敷の規則では就寝時間までに、囚人たちは決められた監房に戻らなければならない。
僕が元の部屋へ戻るということは――当然そこには。
「……そう、なるね」
「…………」
「でも」
何故だろう。責められたわけでもないのに、まるで言い訳をするように言葉が口をついて出た。
「ヒロちゃんだって……1人になったら辛いと思うから」
「エマ君」
「今日だって、自分から森に行ってたんだよ」
「……」
「きっと他の人に迷惑をかけないように……ずっと1人だったんだ」
胸が痛む。あんな状態のヒロちゃんを残したまま。僕は結局、夜まで何もしてあげられなかった。
「だから。せめて眠る時くらいは……誰かが隣にいないと」
「エマ君」
穏やかな声だった。
けれど、その響きには、僕の言葉を止めるだけの静かな強さがあって。
「私は心配なんだ」
その言葉に顔を上げる。レイアちゃんは、もう笑っていなかった。
「君が優しいことは知っている」
「そして。ヒロ君を一人にしたくないと思っていることも分かるよ」
「だったら……」
「でも」
静かに言葉を重ねられる。
「もし今夜――」
レイアちゃんの声が、僅かに低くなる。
「ヒロ君が君を殺したら……どうする?」
「…………」
その言葉に思わず息が止まった。
「そんな……」
「ないと言い切れるかい?」
「…………」
答えられなかった。
「今日。君は魔女化について聞いたんだろう?」
「……よく知ってるね」
「シェリー君から少しね」
「…………」
「ヒロ君自身が、君へ近づくなと言ったそうじゃないか」
「それは……そうだけど」
「おそらく彼女も、自分が何をしてしまうか分からないんだろう」
「…………」
「なら」
レイアちゃんが静かに僕を見つめた。
「その意思を尊重してあげるべきじゃないかな」
「でも……ヒロちゃんが辛いなら」
ぎゅっと拳を握る。
「――自分が危険な目に遭ってでも傍にいると?」
「…………」
答えなかった。だけど。きっと、その沈黙だけで十分だったのだと思う。
「君らしい答えだ」
レイアちゃんの顔を見る。
その表情は悲しそうに見えた。なのに何故か、ほんの僅かに微笑んでいるようにも見えて。
「でもね。エマ君」
一歩。さらに距離を詰められた。
「これは君だけの問題じゃない」
「……え?」
「もしヒロ君が君を殺してしまったら……ヒロ君はどうなる?」
その言葉が。重く胸の奥へ落ちた。
「この牢屋敷で殺人を犯した人間が、何の罰も受けずに済むとは思えない」
「ましてや魔女化して他の囚人を殺したとなれば」
その先は。言われなくても分かった。
「……ヒロちゃんまで」
「ああ」
レイアちゃんが静かに頷く。
「おそらく無事では済まないだろうね」
「…………」
その言葉に何も言い返せなかった。
「君はヒロ君を守りたいんだろう?」
「……うん」
「なら」
今度は、とても優しい声だった。
「離れることも、彼女を守る方法の一つだよ」
「…………」
そんなこと考えていなかった。どんな状態であれ、ヒロの傍にいればいいと思っていた。
嫌われても。拒絶されても。僕が傍にいることで、ヒロが少しでも一人で苦しまなくて済むのなら。ずっと隣にいればいいと。
だけど。
僕が傍にいることそのものが。ヒロちゃんを追い詰めてしまうのなら。もし僕を傷つけてしまったことで、ヒロちゃんまで取り返しのつかないことになるのなら。
「…………」
視線が自然と下へ落ちた。冷たい石造りの床しか見えなくて。
「……分かった」
ようやく。小さな声を絞り出す。
「今日は……ヒロちゃんの部屋に戻らない」
口にした瞬間。胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
「……そうか」
不意に。頭に温かな感触が触れる。
「レイアちゃん?」
「良い子だね」
「……子供扱いしないでよ」
「これは失礼」
そう言いながらも。
レイアちゃんの手は、僕の頭から離れなくて。指先がゆっくりと髪を撫でていく。
「でも。よく決断したね」
「…………」
「君にとっては、とても辛いことだろうから」
その言葉に、また少しだけ俯いてしまう。
「それじゃあ、全ての準備は私がしておく」
「……準備?」
俯いたままの僕を見つめて、レイアちゃんは少しだけ間を置く。
「だからエマ君には今夜――私の部屋へ遊びに来てほしいな」
「…………」
数秒遅れて、その言葉の意味が頭に染み込んでくる。
「え、えっと……?」
思わず顔を上げる。
けれども。その瞬間。ふと頭を過ったことがあった。
「ちょ、ちょっと待って!」
昼間、端末で確認した生活規則を思い出す。
「僕たちは就寝時間になったら、自分の部屋に戻らなきゃいけないんだよね……?」
「ああ。そう書いてあるね」
「だったら駄目じゃない……?」
「ふふっ」
「何で笑ってるのかな!?」
「いや。君は本当に真面目だなと思ってね」
「規則だよ!?」
「分かっているとも」
「じゃあ……!」
「だから」
レイアちゃんは人差し指を立てて、そっと僕の唇の前へ寄せた。
「そこは私に任せておいて」
「…………」
「大丈夫」
レイアちゃんは、まるで何の不安もないように笑っていて。
「君は何も心配しなくていいよ」
「でも……」
「エマ君」
また。ぽんと頭に優しく手が置かれた。そのまま髪を撫でられてしまうと、何故だか反論する言葉さえ出てこなくなってしまって。
「……良い子だね」
甘さを帯びた声が、すぐ近くで囁かれる。
「それじゃあ全ての準備は私がしておくから」
レイアちゃんが僅かに身を屈め、僕と目線を合わせる。
「エマ君はそのまま、私の部屋においで」
「……うん」
結局、僕はそれ以上何も言えないまま、小さく頷いた。その直後。
「――っ」
再び額に。柔らかな感触が触れる。
「……!」
ほんの一瞬。触れるだけの口づけ。
けれど。
昨日の記憶まで一気に蘇って、顔が一瞬で熱くなってしまう。
「ま、また……おでこに!」
「ふふっ」
身体を離したレイアちゃんは、僕の反応を楽しむように満足げに笑っていて。
「それじゃあ、また後で」
「ちょ、レイアちゃん!」
止める間もなく。レイアちゃんはひらひらと片手を振りながら、廊下の向こうへ歩いていってしまった。
「…………」
1人。その場へ取り残されて、そっと額へ手を当てる。
「また……されちゃった」
そこだけが。妙に熱い。
「…………」
けれども。胸の中に残っているのは、恥ずかしさだけじゃなかった。
(……ヒロちゃん)
今夜。僕はヒロの隣にはいない。たったそれだけのことを考えるだけで。胸の奥が静かに痛んだ。
「…………」
今からでも戻れば。そんな考えが一瞬だけ頭を過る。
でも、それでは意味がない。ヒロを守るために。ヒロが取り返しのつかないことをしてしまわないために。
少なくとも今夜は離れなければならない。
「……うん」
自分へ言い聞かせるように小さく頷く。
それから一度だけ、僕たちの監房がある方角を振り返りかけて。ゆっくりとかぶりを振る。
そして。
まだ僅かに熱の残る額を押さえながら、僕はレイアさんの部屋へと向かったのだった。