TS憑依ゼンゼ 作:TS好き
目を覚まして最初に思ったのは、知らない天井だということだった。
見たことのない部屋だった。寝ているベッドは妙に大きく、家具も明らかに高そうなものが揃えられている。壁際には本棚まで置かれており、窓の外には手入れの行き届いた庭が見えたが、そんなものをのんびり眺めている余裕はなかった。さっきから身体に感じている違和感のほうが、よほど気になっていたからだ。
まず、身体が小さい。
寝台から降りてみると、それが嫌でも分かった。床がやけに遠く感じるうえ、手も足も自分が知っているものよりずっと小さい。身につけている服も妙に大きく感じるため、どうやらかなり幼いらしい。
部屋の中を見回して鏡を見つけると、身体の違和感がさらに分かりやすい形で突きつけられた。
鏡の中に、銀色の髪をした少女が映っている。
幼い顔立ちで、表情はほとんどない。肩どころか腰を越え、足元に届きそうなほど長い髪が背中から流れている。見た目だけなら、どこかの貴族の子供にしか見えないだろう。
けれど、この髪を知っている人間なら、きっと別の感想を抱く。
……これ、ゼンゼじゃん。
さすがに間違えようがない。
『葬送のフリーレン』に登場する一級魔法使い、ゼンゼ。大陸魔法協会に所属し、ゼーリエの弟子の一人でもある。幼く見える容姿をしているものの実年齢は不明で、フリーレンと同じくらいの身長だったはずだ。
自分が知っているゼンゼは、一級魔法使い試験の試験官を務めていた。足元まで届くスーパーロングヘアを自在に操り、その髪を武器として使う魔法によって、岩石すら切断するほどの威力を発揮していたはずだ。
そして今、その髪が自分の背中から生えている。
……いや、待て。
本当にゼンゼなのか?
鏡に近付き、改めて顔を見る。少なくとも、知っているゼンゼの幼い頃だと考えれば納得できる外見だし、この髪の長さまで一致している。何より、この世界に魔法が存在しているという時点で、単なる偶然で片付けるには無理がある。
どうやら、本当に憑依したらしい。
こういうときって、普通はもっと混乱するものなんだろうか。
いや、もちろん混乱はしている。ただ、前世の自分について考えようとすると、そこだけが妙に曖昧になる。名前も、住んでいた場所も、家族がいたのかどうかさえ思い出せない。というより、思い出そうとした瞬間に何もなくなる。まるで最初から、その部分だけ綺麗に切り取られているような感覚だった。
それなら、それでいい。
前世がどうだったかなんて、今の状況では大した問題じゃない。今さら思い出せないものを無理に考えたところで、何かが変わるわけでもない。
重要なのは、ここが『葬送のフリーレン』の世界で、自分がゼンゼになっているということだ。
そして、原作については最新刊まで知っている。
これはかなり大きい。
少なくとも、何が起こるのか分からない世界へ完全な手探りで放り出されたわけではない。もちろん、自分が存在している時点で原作と同じ未来になる保証なんてないし、これから先の歴史が多少なりとも変わる可能性は十分にある。
それでも、魔族がどういう存在なのか、魔法使いの世界にどういう人物がいるのか、これから先に何が起きる可能性があるのか。そのあたりを知っているだけでも、生存率はかなり違ってくる。
なら、やることは一つだ。
強くなろう。
別に世界を救いたいわけじゃない。英雄になりたいわけでもなければ、原作の展開を全部再現したいわけでもない。
単純に、死にたくない。
この世界、普通に危険すぎる。
魔物ならまだしも、魔族までいる。しかも、人間と同じような言葉を使い、人間によく似た姿をしているくせに、本質的にはまったく別の生き物だ。原作を読んでいるからこそ、その危険性は嫌というほど知っている。
原作キャラだからって何とかなる、なんて都合のいい保証もない。
だったら、最初から強くなっておけばいい。
幸い、ゼンゼには才能がある。
これは原作でもゼーリエから評価されている部分だし、将来的には一級魔法使いにまでなる。しかも、ただ魔法が使えるというだけではない。髪を使った魔法を極限まで鍛え上げ、攻撃にも防御にも利用している。あの髪は人体を貫くどころか、岩石まで切断するほどの威力を持っている。
改めて鏡を見る。
まだ幼い少女の背中から、足元まで届きそうなほど長い髪が伸びていた。
……これ、ちゃんと手入れできるのか?
原作で本人が髪の手入れを「地獄」みたいに言っていた理由が、少し分かった気がする。
長すぎる。
しかも将来的には、これにさらに魔法を掛けることになる。攻撃用に強化し、防御にも使い、場合によってはそれ以外の用途まで考えることになるだろう。
いや、普通に考えて面倒だろ。
岩を切断できる髪を作るより、毎日絡まった髪をほどくほうが嫌じゃないか?
そんなことを考えていると、扉が軽く叩かれた。
「ゼンゼ様、お目覚めでしょうか」
女性の声だった。
「起きてる」
自然に返事が出た。
すると扉が開き、落ち着いた服装の女性が入ってくる。年齢までは分からないが、使用人なのはすぐに分かった。こちらへ一礼すると、慣れた手つきで部屋を整え始める。
「おはようございます、ゼンゼ様」
「おはよう」
「本日のご予定ですが、朝食後に魔法のお勉強がございます。その後、午後からは礼儀作法の先生がいらっしゃる予定です」
礼儀作法。
なるほど。やっぱり、かなりいいところの家なんだな。
原作でユーベルが「いいところの家柄」と推測していたのも納得できる。少なくとも使用人を雇い、幼い子供に魔法の教師と礼儀作法の教師まで付けられる程度には裕福な家らしい。
それなら、環境としては最高だ。
食事の心配はない。住む場所もある。そのうえ、魔法を学ぶ環境まで最初から用意されている。
あとは、自分が勝手に強くなればいい。
「……分かった」
短く返すと、使用人が少しだけ目を細めた。
何だろう。
「何か?」
「いえ……本日はずいぶんと落ち着いていらっしゃいますね」
「そう?」
「はい。いつもなら、魔法のお勉強の日はもう少し嬉しそうにされますので」
そう言われても困る。
そもそも今の自分は、昨日までのゼンゼではない。元のゼンゼがどんな子供だったのかも知らなければ、普段どう振る舞っていたのかも分からない。
下手に喋ればボロが出る可能性がある。だったら、基本的には口数を少なくしておいたほうが安全だろう。
「魔法の勉強、嫌いになったわけじゃないよ」
とりあえず、それらしいことを言っておく。
使用人は安心したように頷いた。
「それならよろしいのですが」
そう言いながら、使用人がこちらの長い髪へ視線を向ける。どうやら別のことを思い出したらしい。
「本日は髪のお手入れもございますので、魔法のお勉強の後にお時間をいただきます」
「……どれくらい?」
「二時間ほどかと」
長い。
魔法の勉強より長いじゃないか。
思わず自分の髪を見る。
……こいつのせいか。
いや、将来的には武器になるんだから文句を言うつもりはない。ないけど、二時間は普通に嫌だ。
「自分でやるのは?」
「お一人では難しいかと」
「そう」
まあ、そうだろうな。
これだけ長ければ後ろまで手が届かないし、今は身体そのものが幼い。自分一人でどうにかできるとは思えない。
諦めて頷くと、使用人が少し意外そうな顔をした。
「……素直でいらっしゃいますね」
「何か問題ある?」
「いえ、ありません」
どうやら、元のゼンゼはもう少し抵抗していたらしい。
まあ、知らん。
今は髪を武器にするための投資だと思って我慢しよう。
それから朝食のために部屋を出た。
廊下を歩きながら、周囲をそれとなく観察する。屋敷はかなり広く、自分の部屋から食堂まで移動するだけでもそれなりの距離がある。途中ですれ違う使用人たちは、こちらの姿を認めるたびに頭を下げていった。
これは本当に名家らしい。
こういう環境なら、原作のゼンゼが「裁縫なんてやったことがない」と言っていたのも納得できる。そもそも、自分でやる必要がないのだろう。
やがて食堂へ入ると、すでに何人かが席についていた。
家族だろうか。
こちらへ視線が集まり、そのうちの一人が少しだけ笑う。
「おはよう、ゼンゼ」
「おはよう」
……名前が分からない。
困った。
家族の顔と名前くらいは知っているふりをしないとまずいが、だからといって「あなた誰?」と聞くわけにもいかない。
どうする?
しばらく考えた末、まあ、黙っていればいいかという結論に落ち着いた。
幸い、ゼンゼは口数が少ない。
原作の未来を考えれば、今から寡黙な性格だと思わせてしまっても、それほど不自然ではない。むしろ、そのほうが自分にとっては都合がいい。
席につくと、目の前には朝食が並べられていた。
食事そのものは普通に美味そうだ。
こういう世界の貴族食というと、もっと見たことのない料理ばかり出てくるのかと思っていたが、並んでいるのはパンや肉、野菜など、意外と普通のものだった。
一口食べてみる。
普通に美味い。
よかった。
異世界転生で食事が全部まずい、なんていう地味に嫌な展開じゃなくて本当によかった。
「今日は魔法の勉強だったな」
向かい側から声がする。
「うん」
「先生も楽しみにしているそうだ」
先生。
今度はちゃんと覚えておこう。
「そう」
「ゼンゼは本当に魔法が好きだな」
そう言われて、少し考える。
好きかどうかは正直よく分からない。ただ、強くなるためには必要だ。
「嫌いじゃない」
そう答えると、相手は嬉しそうに笑った。
なるほど。
周囲から見れば、魔法が好きで口数の少ない子供らしい。
別に訂正する必要もない。むしろ、そのほうが都合がいい。
食事を続けながら、頭の中ではこれからの計画を組み立てていく。
まずは魔力を把握する。それから魔力操作を覚え、その先で髪へ魔力を通してみる。
原作のゼンゼが、どの時点から髪を武器として使い始めたのかまでは知らない。だったら、自分はできるだけ早い段階から試しておけばいい。
ただし、いきなり髪を硬くするような真似はしない。魔力の流し方すら分からない状態で適当にやれば、髪そのものを傷める可能性もある。
まずは基礎だ。
魔力を感じる。
その次に、自在に動かせるようにする。
この世界の魔法はイメージが重要だということも知っている。知識としては理解しているが、実際に自分の身体で魔法を使ったことはまだない。
つまり、今日が自分にとって初めての魔法ということになる。
そう考えると、少し楽しみだった。
朝食を終えると、予定通り書斎へ向かう。使用人に案内されながら屋敷の中を歩いていくと、やがて目的の部屋へ到着した。
書斎には、すでに一人の男が待っていた。
魔法の教師らしい。
年齢は中年くらいに見える。こちらの姿を確認すると立ち上がり、軽く頭を下げた。
「おはようございます、ゼンゼ様。本日から魔力操作の基礎を――」
「先生」
「はい」
「魔力って、どうやって感じるの?」
質問すると、男が少し驚いたように目を見開いた。
「……すでにご存じなのでは?」
「知識としては知ってる。でも、実際に感じたことはない」
これは本当だ。
少なくとも、自分には魔力を感じた経験なんてない。
教師は少し考えてから、椅子へ座るよう促した。
「では、まず魔力について説明しましょう」
そこから始まった説明は、知識として知っている内容がほとんどだった。
魔力は身体の中に存在し、意識することで感知できること。術式を構築する際には、魔力を一定の形へ整える必要があること。そして、魔法によって消費される魔力量には個人差があり、鍛錬によって操作精度を高められること。
知っている。
ほとんど全部知っている。
けれど、実際に人から説明され、自分の身体で試そうとしてみると、知識として理解していたときとは少し感覚が違った。
知っていることと、実際に扱えることは別物なのだ。
「では、目を閉じてください」
言われた通り、目を閉じる。
「身体の中にあるものを探すような感覚で構いません。無理に動かそうとする必要はありません」
ゆっくり呼吸しながら、身体の内側へ意識を向ける。
最初は何も感じなかった。
それでもしばらく集中していると、胸の奥に何かが存在しているような感覚が少しずつ浮かび上がってくる。
熱いわけでもない。
冷たいわけでもない。
ただ、そこに何かがある。
これが魔力か。
思っていたより分かりやすい。
その感覚を意識しながら、ほんの少しだけ動かしてみる。
すると、身体の中で何かが流れた。
その瞬間、教師の声が止まった。
目を開けると、こちらを見つめている教師と目が合う。
「……今、何をしました?」
「動かしただけ」
「どうやって?」
「どうって……動かそうと思ったから」
教師が黙り込む。
……何だ?
もしかして、これって難しいのか?
「もう一度できますか?」
「たぶん」
再び目を閉じ、さっき感じた場所へ意識を向ける。今度は少しだけ強く動かしてみると、魔力が先ほどよりも明確な感覚を伴って身体の中を流れていった。
目を開ける。
教師は、先ほどよりも驚いた顔でこちらを見ていた。
「……驚きました」
「そう?」
「はい。普通、最初からここまで明確に魔力を認識することはありません」
そうなのか。
でも、原作のゼンゼって才能があるんだよな。
なら、このくらいは普通じゃないのか?
「これくらいなら、できる人は多いんじゃない?」
何気なく尋ねると、教師は少しだけ困ったような顔をした。
「……少なくとも、私がこれまで教えた子供の中にはいませんでした」
そう言われても、いまいち実感が湧かない。
未来のゼンゼを知っているせいで、自分の基準そのものがおかしくなっているのだろう。
この時点では、まだそのことに気付いていなかった。
教師の側からすれば、幼い少女が初めての魔力操作でここまで正確に魔力を感知し、さらに二度目には自分の意思だけで流れまで作っている。それだけでも十分に異常なことだった。
しかも本人には、その異常さを理解している様子がない。
まるで「これくらい普通だろ」とでも言いたげな顔で、何事もなかったように座っている。
その姿を見た教師は、ある一つの結論へと辿り着いた。
この子は、自分がどれほど優れた才能を持っているのか理解していない。
そう考えると、教える側としても慎重にならなければならない。
「ゼンゼ様」
「何?」
「一つ、お願いがあります」
「うん」
「今後、魔法について何か新しいことを試す場合は、必ず私に相談してください」
「分かった」
素直に返事をする。
ただ、内心では別のことを考えていた。
いや、髪魔法の研究くらいは自分でやりたいんだけど。こっそりやればバレないか。
とはいえ、危ないことをするつもりはない。……たぶん。
そんなことを考えているとは知らず、教師は少し安心したように頷いた。
その日の魔法の授業は、そこで終わりにはならなかった。
魔力を感じ取り、それを動かし、一定の量を保ったまま身体の中を巡らせ、最後には指先まで流す。教師が用意した簡単な課題を一つずつ試していくたびに、こちらは特に苦労することなく成功させていった。
難しいと言われた課題も、実際にやってみればできてしまう。
どうしてできるのかと聞かれても、自分でも上手く説明できなかった。ただ、魔力をこう動かせばいいという感覚だけは、なぜか最初から分かっている。
おそらく、原作知識が原因なのだろう。
漫画やアニメで魔法を見てきた経験が、無意識のうちにイメージへ影響しているのかもしれない。
本人としては、それほど大したことをしているつもりはなかった。
未来の自分は一級魔法使いになる。
そう知っているからこそ、この程度ならできて当然だと思っていた。
けれど、周囲からの評価はまったく違った。
授業が終わる頃には、教師がかなり真剣な顔をしていた。
「ゼンゼ様」
「何?」
「……これから先、かなり厳しい鍛錬をお願いすることになるかもしれません」
「別にいいよ」
強くなれるなら、そのほうがいい。
「それと、可能であれば魔法について学ぶ時間を増やしたいと思っています」
「どれくらい?」
「今の倍ほどを」
「分かった」
即答すると、教師は少し驚いたようだった。
だが、こちらとしてはむしろありがたい。早く強くなれるなら、そのほうがいいし、何より魔法を覚えていくこと自体が普通に面白い。
知らない技術を一つずつ身につけていく感覚も楽しいし、未来を知っているからこそ試してみたいことも山ほどある。
特に気になっているのは、やはり髪だった。
これをどうやって武器にするか。
それを考えるだけで、少し楽しくなってくる。
ただし、その日のうちに髪へ魔力を通すことはしなかった。
焦って失敗するのは嫌だ。
まずは基礎を覚える。魔力の量を把握し、操作精度を高め、魔法の構築方法を理解する。そのうえで、髪の強化へ進む。
順番を守ったほうがいい。
そう考えていると、書斎の扉が開いた。
「ゼンゼ、終わった?」
朝食のときにいた、家族らしい人物が顔を出す。
「終わった」
「どうだった?」
「普通」
そう答えると、教師が微妙な顔をした。
何だろう。
「普通じゃなかったです」
教師が訂正する。
家族はこちらを見たあと、今度は教師へ視線を向けた。
「……そうなの?」
「はい」
そこから、魔力を感じるまでの速さが異常だったこと、操作も正確だったこと、年齢を考えれば非常に優秀であることなどの説明が始まった。
聞いているうちに、なんだか大げさだなと思う。
別に、そんなに凄いことをしたつもりはない。
とはいえ、わざわざ口を挟むのも面倒なので黙って聞いていると、家族はしばらくこちらを見つめたあと、少しだけ笑った。
「さすがゼンゼだな」
……何が?
思わず聞き返しそうになったが、やめておいた。
この時点で、最初の勘違いが生まれていた。
自分としては、未来を知っているから普通に魔力操作を覚えただけ。それだけのことだった。
けれど周囲から見れば、幼い頃から魔法の才能を見せる無口な少女であり、しかも本人はそれを褒められても大して喜ばない。
そうなると、「自分の才能を自覚していない天才」という印象が、ますます強くなっていく。
もちろん、本人にはそんなつもりなどまったくない。
ただ、強くなりたいだけだった。
そして、その日の午後。
予定通り、髪の手入れが始まった。
椅子に座ると、背中へ長い髪を流され、使用人が何本もの櫛を用意する。
一本、二本、三本。
……多くない?
これ、本当に毎日やるのか。
最初の数分はまだよかった。ところが、絡まった場所を見つけるたびに少しずつ髪をほどいていく作業が続き、時間が経つにつれてじわじわと疲労が蓄積していく。
痛い。
普通に痛い。
しかも、長いせいでなかなか終わらない。
十数分経っても終わらず、三十分経ってもまだ続き、一時間が過ぎても終わる気配がない。
……何でこんな髪にしたんだ、未来の自分。
いや、武器にするからなんだろうけど。
もっと短くてもよくない?
そんなことを考えていると、使用人がこちらを気遣うように顔を覗き込んだ。
「お疲れですか?」
「……少し」
「申し訳ありません」
「別にいい」
本当に別にいい。
この髪が強くなるなら、我慢する価値はある。将来の自分がこの手入れを「地獄」と呼んでいたのも、今なら完全に理解できた。
それからさらにしばらくして、ようやく髪の手入れが終わった。
鏡を見ると、髪は綺麗に整っている。
綺麗にはなっているけど、疲れた。
……この時間を魔法の鍛錬に使えないかな。
そんなことを考えながら部屋へ戻り、扉を閉める。
誰もいない。
それなら、少しくらい試してもいいだろう。
鏡の前に立ち、自分の髪を一本つまむ。さっき教わった感覚を思い出しながら、身体の中にある魔力を意識して指先へ流し、そのまま髪へ送り込んでみる。
……入った。
ほんの少しだけだが、確かに魔力が髪へ流れ込んだ感覚があった。
髪そのものが変化したような感じはない。
当然だ。
そんな簡単に強化できるなら、誰も苦労なんてしない。
それでも、魔力が髪の一本へ通ったことだけは分かった。
なら、ここからだ。
まずは一本だけに集中して、さらに魔力を流してみる。
すると、髪がわずかに硬くなった。
気のせいかと思ったが、指で触れてみると、確かに先ほどとは感触が違う。
もう一度、今度は少しだけ強く魔力を流す。
すると、また髪が硬くなった。
なるほど。
これならいける。
思わず笑いそうになった。
まだ身体は幼く、魔法についてもほとんど知らない。それでも、原作のゼンゼが使っていた髪魔法へ、自分なりの方法で近付くことはできそうだった。
もちろん、今のところは一本だけ。それも、ほんの少し硬くなった程度に過ぎない。
岩石を切るどころか、紙を切れるかどうかすら怪しい。
まあ、最初なんだからこんなものだろう。
問題は、この先どうするかだ。
ただ髪を硬くするだけでは面白くない。
未来のゼンゼは、髪そのものを強力な武器へと仕上げている。なら、自分はそこからさらに発展させればいい。
髪の一本一本へ別々の魔法を掛ける。硬度を変えながら柔軟性を残し、魔力を流す方向まで変えられるようにする。必要なら、髪そのものを魔法の媒体として扱うこともできるかもしれない。
考え始めると、いくらでも案が浮かんでくる。
こういう研究は嫌いじゃない。
むしろ好きだ。
ただ、これを他人に見られたらどうなるかは少し気になる。
今日の魔力操作だけでも「異常な才能」とまで言われたのだ。ここで髪の強化まで始めたと知られたら、さらに面倒なことになるかもしれない。
だったら、隠れてやればいい。
幸い、自分はゼンゼだ。
口数が少なくても不自然ではないし、部屋にこもっていても「魔法の勉強をしている」と思われるだろう。
これはかなり便利な性格だな。
原作のゼンゼには悪いけど、ありがたく利用させてもらおう。
そう考えながら、もう一度、一本の髪へ魔力を通す。
今度は先ほどより少しだけ強く、しかし髪を傷めないよう慎重に魔力を送り込んでいく。
髪が硬くなる。
まだ弱い。
それでも、確実に変化している。
この日から、幼いゼンゼの秘密の鍛錬が始まった。
本人としては、将来死なないための準備をしているだけだった。
けれど、数日も経つと使用人たちの間では「最近のゼンゼ様は一人でいる時間が増えた」と話題になり、一週間もすれば魔法教師が「私には理解できない速度で成長している」と頭を抱えることになる。
さらに、その話を聞いた家族までが「やはりゼンゼには類い稀なる才能がある」と確信し、本人が何も知らないところで、屋敷の中には一つの評判が広がり始めていた。
――ゼンゼ様は、幼くもすでに天才だ。
実際のところ、本人は天才というより、未来を知っているだけなのだが。
そして本人には、そのことを説明するつもりなど一切なかった。