TS憑依ゼンゼ 作:TS好き
客人が帰ったあとも、屋敷での生活そのものが大きく変わったわけではなかった。
少なくとも、俺にとっては昨日までと何も変わらない。
朝起きて、食事をして、魔法の授業を受ける。授業が終われば書庫へ行き、気になった本を読む。時間が空けば、自室で髪へ魔力を通す練習をする。
そんな毎日の繰り返しだ。
強いて言えば、庭に置かれている魔法の訓練用の的が少し頑丈になったくらいだった。以前のものでは、髪を使った練習をするたびに傷が増えてしまうらしく、いつの間にか厚みのある木材へ交換されていた。
俺としては、壊れないなら何でもいい。
ただ、周囲の反応だけは以前とは少し違っていた。
廊下ですれ違う使用人たちが、以前より丁寧に頭を下げるようになった。魔法教師も授業中に俺の手元や魔力の流れを確認することが増え、家族から魔法について聞かれる機会も明らかに多くなっている。
「ゼンゼ、最近はどんな魔法を練習している?」
「髪」
「……それ以外は?」
「普通の魔法」
「そうか」
そこで会話は終わる。
別に隠しているつもりはない。本当に髪の研究と普通の魔法の練習しかしていないからだ。
ただ、最近は質問の内容が少し変わってきた。
「何か欲しい魔導具はあるか?」
「特にない」
「本は?」
「欲しい」
「どんな本がいい?」
「魔法の本」
「……分かった」
なぜか、家族は妙に嬉しそうな顔をする。
欲しいものを聞かれたから答えただけなのだが、どうやら俺が魔法の本を欲しがること自体に、何かしらの意味を感じているらしい。
その数日後には、屋敷の書庫に大量の本が追加された。
古い魔導書に魔法史、術式に関する研究書、魔法具の製作方法。さらには北側諸国の魔法使いが書いた研究論文まで揃っている。
ありがたい。
かなりありがたい。
これだけあれば、暇潰しには困らない。
ただし、一つだけ問題があった。
難しい。
いや、正確には読めないわけではない。文字そのものは問題なく理解できるし、内容も大まかなところまでは追える。
けれど、細かい理論になると途端に難易度が上がる。
原作で見たことのある魔法について書かれていても、実際に理論として説明されるとまるで別物だった。
そもそも、この世界の魔法は現代日本の学問のように、誰が見ても同じ答えに辿り着く形で完全に体系化されているわけではない。
魔法使いがそれぞれの経験や研究を積み重ね、その結果として独自の理論が存在している。そのため、同じ現象を扱っているはずなのに、研究者によって説明の仕方が違うことさえある。
それでも面白かった。
原作では描かれていなかった魔法の理屈を、自分で知ることができるからだ。
例えば、魔力を物質へ定着させる方法。
これは髪の強化に応用できる。
術式を物質へ固定する方法もある。これなら、髪そのものへ魔法を仕込めるかもしれない。
魔法を発動させるための条件を簡略化する研究もあった。
これも使える。
読めば読むほど、試してみたいことが増えていく。
気が付けば、俺は以前よりもずっと長い時間を書庫で過ごすようになっていた。
そして、それを見た使用人たちは、また勝手に話を膨らませていった。
幼いゼンゼ様は、朝から晩まで魔法書を読んでいる。
まだ子供なのに、難解な魔法書を読み解いている。
将来は大魔法使いになるに違いない。
そんな噂が屋敷の中で少しずつ広がっていった。
実際のところ、俺が読んでいる本の半分くらいは理解できていない。
「……分からない」
ある日、意味の分からない理論が何ページも続いたところで、本を閉じた。
説明が難しすぎる。
というより、この魔法を考えた人間は説明が下手すぎないか?
自分にしか分からない言葉で書いてあるような研究書もある。
それでも、少しずつ知識は増えていた。
そしてまたある日、書庫で一冊の本を読んでいたときだった。
ふと、一つの考えが浮かんだ。
髪へ魔法を掛けるだけではなく、髪そのものを魔力の通り道にしてしまえばいい。
普通の魔法使いは、魔力を身体から放ち、術式を構築して魔法を発動させる。
なら、その「放つ」という部分を髪に置き換えればどうなるだろう。
髪の一本一本を魔力の導線として使い、先端で術式を構築する。
そうすれば、髪を伸ばした先から魔法を発動できる。
手を使う必要もない。
距離を取ったまま魔法を使うこともできる。
「……面白い」
思わず呟いた。
考えれば考えるほど、使い道が増えていく。
その日の夜、俺はすぐに自室で試してみることにした。
部屋の中央に立ち、長い髪の一本を指先でつまむ。
身体の中にある魔力を意識し、それを髪へ流していく。
魔力は一本の髪を伝わり、ゆっくりと先端へ集まっていった。
そこへ簡単な術式を組み込む。
小さな光を生み出すだけの、単純な魔法だ。
発動。
髪の先で淡い光が生まれ、数秒後には消えた。
「できた」
思わず髪を見つめる。
威力はない。
持続時間も短い。
けれど、確かに成功している。
これなら応用できる。
攻撃魔法を髪の先端から放つ。
拘束魔法を髪へ仕込む。
探知魔法を固定して、髪そのものを感知装置にする。
遠くまで伸ばした髪の先から魔法を使う。
可能性を考えていくと、いくらでも思いついた。
もちろん、今の魔力では一つの術式を維持するだけで精一杯だった。
それでも十分だ。
原作のゼンゼが使う髪は、それだけでも強力な武器になる。
なら、そこへ別の機能を追加すればいい。
髪を武器にする。
髪を盾にする。
髪を魔法の媒体にする。
そして最終的には、髪そのものを魔法陣のように扱う。
そうすれば、普通の魔法使いとはまったく違う戦い方ができる。
問題は、今の髪の長さだった。
まだ幼い身体だから、原作のゼンゼほど長くはない。
それでも普通の子供よりは十分に長く、足下のあたりまで伸びている。
家族からは何度か「手入れが大変だから切ってはどうか」と言われていた。
もちろん、断った。
切る理由がない。
俺は未来を知っている。
この髪は武器になる。
それなら、今のうちから伸ばしておいたほうがいい。長ければ長いほど、届く範囲も広がるし、使い方の選択肢も増える。
ただし、手入れは本当に面倒だった。
毎朝、使用人が髪を整えてくれる。
梳かして、絡まりをほどいて、洗って、乾かす。
それだけでかなりの時間が掛かる。
俺自身は髪の美しさに興味があるわけではない。
必要だから手入れをする。
それだけだ。
ある日の朝、いつものように髪を整えてもらっていると、使用人がふと口にした。
「ゼンゼ様は、本当に髪がお好きなんですね」
「別に」
「そうですか?」
「武器になるから」
使用人の手が止まった。
「……武器、ですか?」
「うん」
「髪が?」
「うん」
しばらく沈黙が続いた。
やがて使用人は困ったように笑いながら、再び髪を梳き始める。
「ゼンゼ様は、時々とても変わったことをお考えになるのですね」
「そう?」
「はい」
また言われた。
最近、本当によく言われる。
別に変なことを言っているつもりはない。
この世界では髪を武器にして戦う魔法使いが珍しいのかもしれないが、未来の自分は普通にそうしている。
だから俺にとっては、そこまで特別な発想ではなかった。
そんな日々を過ごしていた、ある日のことだった。
屋敷に新しい魔法使いがやってきた。
以前の客人とは別の人物だった。
家族から紹介されたのは、王国で魔法研究に携わっているという女性だった。
「こちらは、王国で魔法研究をしている方だ」
「初めまして、ゼンゼさん」
「初めまして」
軽く頭を下げる。
女性は穏やかな笑みを浮かべていたが、俺を見る目には少しだけ興味が混じっていた。
「噂は聞いています」
「何の?」
「ゼンゼさんが、とても優秀な魔法使いだと」
……もう噂になっているのか。
「そう?」
「ご自分では、そう思わないんですか?」
「思わない」
即答すると、女性は少しだけ笑った。
「謙虚なんですね」
「違う」
「え?」
「まだ弱いから」
未来の自分を基準にすれば、今の俺は弱すぎる。
魔力も少ない。
使える魔法も少ない。
髪もまだ原作より短い。
経験だってない。
こんな状態で天才だと言われても、正直なところ困る。
女性は何とも言えない顔になった。
「……なるほど」
また何か勘違いされた気がする。
しかし、わざわざ訂正するのも面倒だった。
「魔法を見せてもらってもいい?」
「いいよ」
案内された庭へ出る。
以前より頑丈になった木製の的が並んでいる。
俺はその前に立つと、髪を一本持ち上げた。
魔力を流す。
髪を強化する。
さらに術式を組み込み、ゆっくりと伸ばしていく。
狙いを定めた先端が、木製の的へ突き刺さった。
以前より深く入っている。
少しは強くなったらしい。
「……」
女性が黙っている。
「どう?」
「これは……髪を魔法の媒体として使っているのですか?」
「そう」
「誰かに教わったんですか?」
「自分で考えた」
その瞬間、女性の表情が変わった。
「……自分で?」
「うん。まだ研究中だけど」
「研究……」
「もっと強くできると思う」
「これ以上?」
「うん」
原作では、もっと強い。
岩石を切断するほどの威力を持つ。
防御魔法すら突破する。
なら、今の段階で満足する理由はない。
俺は髪を数本まとめた。
それぞれへ魔力を流し、先端へ術式を組み込む。
次の瞬間、髪の先から小さな光が飛び出し、木製の的へ命中した。
女性の目が見開かれる。
「……髪の先から魔法を?」
「うん」
「そんなことが……」
「できた」
庭に沈黙が落ちた。
女性だけではない。
少し離れたところにいた家族も、使用人たちもこちらを見ている。
……何だ、この空気。
俺としては、簡単な魔法を髪の先から発動させただけだ。
けれど、周囲の反応を見る限り、どうやら普通ではないらしい。
女性はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「ゼンゼさん」
「何?」
「あなたは、自分がどれほど凄いことをしているのか分かっていますか?」
「分からない」
正直に答える。
女性は少し困ったように笑った。
「……そうですか」
それから、なぜか優しい目で俺を見る。
「それなら、そのままでいいのかもしれませんね」
何を言っているのかは、よく分からなかった。
ただ、これ以上聞いても面倒そうだったので、俺は黙って髪を戻した。
その日の夕方。
女性が帰ったあと、家族が妙に嬉しそうな顔をしていた。
「ゼンゼ」
「何?」
「今日の魔法、凄かったな」
「そう?」
「ああ」
「まだ弱いよ」
「それでもだ」
家族は笑っていた。
その表情を見ながら、俺は少しだけ考える。
もしかすると、この家は自分が思っていた以上に、魔法使いとしての教育に力を入れているのかもしれない。
屋敷には使用人がいる。
専属の魔法教師もいる。
大量の魔導書を揃えられるだけの書庫があり、必要なら外部から魔法使いを招くこともできる。
そして、俺が魔法の研究をしていても止められるどころか、むしろ環境を整えてくれている。
かなり裕福な家なのだろう。
原作でユーベルが「いいところの家柄」と推測していたのも納得できる。
少なくとも、普通の家ではない。
だからといって、家柄そのものには興味がなかった。
金があるなら本を買ってもらえる。
魔法を教えてもらえる。
研究する場所もある。
それなら、それで十分だ。
むしろ、この環境は利用できるだけ利用したほうがいい。
そんなことを考えながら、その夜、窓の外を眺めていた。
静かな庭が月明かりに照らされている。
ふと、未来のことを思い出した。
ゼンゼ。
一級魔法使い。
ゼーリエの弟子。
そして、魔法使い試験の試験官を務めるほどの実力者。
原作で描かれていた未来のゼンゼは、足元まで届くほどの長い髪を自在に操り、それを強力な武器として使っていた。
今、自分が育てているのも同じ髪だ。
同じ身体。
同じ魔法の才能。
けれど、中身だけは違う。
原作のゼンゼがどんな幼少期を過ごしたのか、俺は知らない。
どんな経験をして、どんな考え方を身につけて、あの魔法へ辿り着いたのかも知らない。
なら、これからどうなるのだろう。
原作と同じ道を進むのか。
それとも、俺が余計なことをするせいで、まったく違う道へ進むことになるのか。
少しだけ興味が湧いた。
ただ、一つだけ確かなことがある。
この世界では、魔法が強ければ強いほど、生き残れる可能性は高くなる。
魔族がいる。
魔物もいる。
原作を知っているからこそ、その危険性はよく分かっている。
なら、強くなればいい。
それだけだ。
ベッドへ入り、長い一日を終える。
明日も魔法の授業がある。
明日はもう少し髪を強くする。
その次は新しい術式を試す。
さらにその次は、髪そのものへ魔法を固定する方法を考える。
やることはいくらでもある。
そう考えているうちに、自然と眠気がやってきた。
目を閉じる。
この頃の俺は、まだ知らなかった。
今、自分が積み重ねている小さな研究が、やがて一人の魔法使いとしての戦い方そのものを決定づけることになるなんて。
そして何より、自分が「天才」と呼ばれるようになった理由の大半が、生まれ持った才能だけではないことも。
未来を知っている。
原作でゼンゼが何をしていたのかを知っている。
どんな魔法を使い、どこまで強くなったのかを知っている。
つまり俺は、普通の子供よりずっと有利な場所から始めている。
周囲がどれだけ「才能」だと褒めても、本人だけはそのことを知っていた。
だからこそ、俺は自分を天才だとは思わない。
ただ、未来を知っている分だけ、他の人より少し先を歩いているだけだ。
――それが、いつか誰にも説明できないほどの「才能」として扱われることになるとは、この時の俺はまだ知らなかった。