『『Devil May Cry』』
――ある日のこと。
デビルメイクライ事務所には、いつもとは少し違った静けさが漂っていた。
ダンテは依頼を受けて出かけており、現在この事務所にいるのはバージルただ一人。もっとも、本人は店番をしているという自覚があるのかないのか、右側に設けられた自分の区画で椅子に座り、いつものように本を読んでいた。
ページをめくる音だけが室内に響いている。
ダンテがいないからといって、特に何かをするわけでもない。客が来れば対応する。来なければ読書をする。それだけだった。
そんな時――。
――カラン。
事務所の扉に取り付けられたベルが鳴った。
「失礼する」
聞き慣れた声に、バージルは本から顔を上げる。
そこに立っていたのは、青緑色の羽織を纏った狐耳の女性――星見雅だった。
「……またお前か」
「うむ。また来た」
「見れば分かる」
雅は特に気にした様子もなく事務所へ入っていく。そして迷うことなく右側、バージルの区画へと足を踏み入れた。
「…………」
バージルはそれを止めない。
すでに何度も繰り返されている光景だった。
雅は最近、頻繁にこの事務所へ顔を出すようになっていた。表向きの理由はいくつかある。ダンテから悪魔について話を聞くため。そして――何よりも、バージルと剣を交えるためだ。
そんな雅の視線が、壁へ向いた。
そこには数本の刀が飾られている。どれも鞘に収められているものの、見る者が見れば分かる。ただ飾っているだけではない。一本一本が丁寧に手入れされ、刀身だけでなく、柄、鍔、鞘に至るまで隅々まで整えられていた。
雅の狐耳が、ぴくりと動く。
「……いい刀だな」
バージルはページをめくりながら答えた。
「分かるか」
「ああ。いずれも相当な業物と見える」
「コレクションだ」
「ほう」
雅の目が僅かに輝いた。
「お前も刀を集めるのか?」
「俺は刀を好んでいるだけだ。使うための物もあれば、鑑賞するための物もある。ただし、コレクションだからといって手入れを怠ることはない」
バージルは本を閉じ、壁に飾られた刀へ視線を向ける。
「道具は使わずとも、常に最良の状態に保っておく。それが持ち主の責任だ」
「……なるほど」
雅は深く頷いた。その表情は、明らかに嬉しそうだった。
「分かっているではないか」
「当然だ」
バージルは淡々と答える。
「愚弟とは違う」
「…………」
雅の耳がぴくりと動いた。
「ダンテか?」
「ああ」
「なるほど。確かに、あの男は剣の手入れなど細かく気にしなさそうだ」
「実際に気にしていない」
「……想像がつく」
二人の脳裏に、ソファーで寝転がりながらピザを食べるダンテの姿が浮かぶ。
「まったく……」
バージルは呆れたように息を吐いた。
「奴に刀を預ければ、次に見た時にはビリヤード台の横に転がっているだろう」
「それは……非常にありそうだな」
「だろう?」
珍しく、二人の意見が一致した。
雅は再び壁を見る。その視線は、完全に刀へ釘付けになっていた。
実のところ、雅は無類の刀剣コレクターだった。自分の所有する刀剣を集め、いつか棚をコレクションで埋め尽くす。それが彼女の密かな夢でもある。
だからこそ、目の前に並ぶ刀の数々は、雅にとってまさに宝の山だった。
「…………」
しばらくの間、雅は黙って刀を眺めていた。その狐耳は、先ほどから僅かに動き続けている。
バージルはそんな雅の様子を横目で見ていた。
「……欲しいのか?」
「…………」
雅が振り返る。
「欲しい」
即答だった。
「素直だな」
「刀剣を前にして欲を隠す意味がない」
「なるほど」
バージルは椅子から立ち上がり、壁に飾られた刀を見渡した。
「ならば、一つ条件を出そう」
「条件?」
「ああ。どうせ今日も修行の誘いだろう?」
「…………」
図星だった。
雅は僅かに目を逸らす。
「……否定はせぬ」
「やはりな」
バージルは小さく息を吐く。
「ならば話は早い。俺に指一本でも触れることができれば、ここに飾ってある刀を一本だけ、お前にやる」
「…………」
雅の動きが止まった。
「……何?」
「聞こえなかったか?」
「いや、聞こえた。今、ここにある刀を一本、私にくれると言ったな?」
「そうだ」
「好きなものを?」
「一本だけだ」
「……本当に?」
「俺が嘘をつくように見えるか?」
「見えぬ」
雅の目が、明らかに輝いた。
「ならば――」
腰に佩いた妖刀・骸討ち・無尾へ手を添える。
「受けて立とう」
バージルはその姿を見て、僅かに口元を上げた。
「そう来なくてはな」
「……だが、選ぶのは触れた後だ」
「無論だ」
「それに――」
バージルの目が鋭くなる。
「俺は手加減しない」
雅の表情から笑みが消える。代わりに、静かな闘志が宿った。
「望むところだ」
こうして、二人の修行の場所が決まった。
――――
場所は変わり、新エリー都の郊外。
人の姿はほとんどない。周囲には荒れた道路と、長い年月を経て風化した建物が並んでいる。ホロウからも離れており、万が一激しい戦闘になったとしても、市民に被害が及ぶ可能性は低い。
その場所に――雅とバージルは向かい合って立っていた。
「…………」
雅は静かに息を吐く。
右手は腰に佩いた骸討ち・無尾へ。対するバージルもまた、閻魔刀の柄へ手を添えている。
風が吹き、青緑色の羽織とバージルのコートが揺れた。
「星見雅」
「何だ」
「お前の実力は、ダンテから聞いている」
「ほう」
「この世界では相当な剣士らしいな」
「……評価してくれるのか?」
「事実を言っているだけだ」
バージルは閻魔刀へ視線を落とす。
「だが、俺に触れることが目的ならば、その程度の評価に意味はない」
「無論だ。私が求めるのは勝利ではない」
「…………」
「お前の剣を知ることだ。そして、自らの剣を高める」
その言葉に、バージルの目が僅かに細くなる。
「なるほど。それならば、俺も遠慮する必要はないな」
「最初からそう言っている」
二人の間に沈黙が落ちる。
風が吹く。草木が揺れる。
その場所に立つのは、二人の剣士。
一人は、青い羽織を身に纏った狐のシリオン――星見雅。
そしてもう一人は、長い青いコートを纏い、片手に日本刀を持った男――バージル。
互いに数メートルの距離を取り、向かい合っている。
「…………」
雅は静かに目を閉じた。
呼吸を整える。意識を研ぎ澄ます。
目の前にいる男。その存在だけで分かる。
――強い。
これまで彼女が出会ってきた剣士とは、明らかに何かが違う。構えられてすらいない。ただ立っているだけ。それなのに、まるで巨大な山を前にしているような圧力があった。
「……バージル」
「何だ」
「先ほどの約束、忘れてはいまいな?」
「ああ」
バージルは閻魔刀へ手を添える。
「俺に指一本でも触れることができれば、この事務所に飾ってある刀の中から好きな一本を選べ」
雅の狐耳がぴくりと動く。
「……実に良き条件だ」
「そうか?」
「無論。我が家に伝わる刀剣を含め、私は刀というものを愛している」
「知っている」
「……何?」
「事務所に来るたび、俺の刀を眺めているだろう」
「…………」
雅が黙る。
図星だった。
「お前があの刀を見る目は分かりやすい」
「……そうか」
「ああ。だからこそ、今回の条件を提示した」
雅はゆっくりと刀の柄へ手を伸ばした。
「なるほど」
口元に僅かな笑みが浮かぶ。
「ならば――遠慮なく頂こう」
「やってみろ」
その瞬間、空気が変わった。
雅の表情から、普段の穏やかさが消える。戦士の顔だ。
そしてバージルもまた、静かに腰を落とした。
「――参る」
「来い」
同時だった。
――カチャッ!!
二人の刀が同時に鞘から抜かれる。
青い閃光と銀色の軌跡が交差し――。
ズンッ!!
大地が震えた。
雅が一瞬で間合いを詰め、振り下ろす。
「――ッ!」
速い。
しかしバージルは一歩だけ身体を横へずらした。刃が空を切る。
雅は即座に刀を返し、横薙ぎへ繋げる。それすらも、バージルは閻魔刀で受け流した。
――キィンッ!
「む……!」
雅の目が細くなる。
重い。だが、それ以上に――正確だ。
最小限の動きだけで、こちらの攻撃を無力化している。
雅はすぐに距離を取った。
「どうした?」
「……いや」
雅は刀を構え直す。
「先ほどの一振り――茶碗を砕く木槌と思へば……黒板を伝う白墨が如し」
一瞬、バージルが眉を動かす。
「何を言っている」
「手応えがない、ということだ」
「なるほどな」
バージルは納得した。
「だが、お前の太刀筋は悪くない」
「……!」
雅の耳が僅かに動く。
「ただし――」
バージルが刀を構える。
「力みすぎだ」
「…………」
「お前は相手を斬ろうとしている」
「当然だ。剣とは斬るためのもの」
「違う」
バージルは即答した。
「剣とは、相手より先に自分の意思を通すものだ。斬撃そのものに意識を置きすぎている」
雅は黙って聞いている。
「お前は強い。だが、強いが故に自分の技術を信じすぎている。それでは、俺には届かん」
雅の目が鋭くなる。
「……随分と大きく出る」
「事実だ」
「ならば――」
雅が刀を握り直す。
「その事実、覆してみせよう」
「来い」
再び――二人の姿が消えた。
――ズガァンッ!!
刃と刃がぶつかる。
雅が連続で斬り込む。上段、袈裟、横薙ぎ、逆袈裟、突き。そのすべてを、バージルは閻魔刀一本で受け流していく。
――キィン!
――ガキィン!
――キィィン!
火花が散る。
「――ッ!」
雅は一歩踏み込み、さらに一撃を放つ。バージルは刀を傾け、雅の刃を滑らせた。
「――そこだ」
「!」
バージルが一歩踏み込む。
閻魔刀の峰が、雅の肩へ迫った。
しかし雅は身体を捻る。紙一重で峰が羽織を掠め、そのまま回転して斬り返した。
――ガキィン!
今度はバージルが受けた。
「ほう」
初めて、バージルの口元が僅かに上がる。
「今のは良い」
「……そうか」
「だが――まだ遅い」
バージルの姿が消えた。
「――!」
雅が振り向く。
そこにはすでに、閻魔刀を振り抜こうとしているバージルがいた。
雅は咄嗟に刀を構える。
――ガァンッ!!
凄まじい衝撃が走り、雅の身体が地面を滑る。
「ぐっ……!」
しかし、倒れない。
雅は踏み止まり、呼吸を整えた。
「まだ立つか」
「当然だ」
雅は静かに答える。
「修行とは、己の限界を知るために行うものではない。限界を越えるために行うものだ」
バージルはしばらく雅を見つめた。
そして――。
「……なるほど」
閻魔刀を構え直す。
「ならば、越えてみろ」
「承知した」
二人の間に、再び静寂が落ちる。
雅は深く息を吸い、目を閉じる。
そして刀を構える。
今までとは違う。
力を抜く。肩の力を抜き、腕の力を抜く。残すのは呼吸だけ。
バージルはそれを見ていた。
「……そうだ」
小さく呟く。
「それでいい」
雅が目を開く。
狐の耳が立った。
「――参る」
次の瞬間、雅が地面を蹴った。
――ドンッ!!
一瞬で距離が消える。
刀が閃く。
バージルも閻魔刀を振る。
――キィィィン!!
刃と刃が交差した。
そして――。
雅の身体がバージルの横をすり抜ける。
「…………」
バージルが振り返る。
雅もまた振り返った。
二人は背中合わせになっていた。
静寂。
風が吹き、雅の羽織とバージルのコートが揺れる。
雅がゆっくりと刀を下ろす。
「……今のは」
「ああ」
バージルも刀を鞘へ戻す。
「悪くない」
「…………!」
雅の目が僅かに見開かれる。
「つまり――」
「触れてはいない」
「…………」
「だから刀は渡さん」
「…………」
雅の狐耳が、ぺたんと下がった。
「……むぅ」
その反応を見て、バージルが僅かに笑う。
「だが――」
「?」
「次は触れられるかもしれんな」
雅が顔を上げる。
「……本当か?」
「ああ」
「ならば――」
雅の目が輝いた。
「明日も頼む」
「……好きにしろ」
「明後日も」
「勝手にしろ」
「その次も」
バージルが呆れたように雅を見る。
「……お前、刀が欲しいだけではないだろうな?」
雅は真顔で答えた。
「無論だ。修行も目的だ」
「……そうか」
「そして刀も欲しい」
「やはりそれが本命か」
バージルは呆れたように息を吐いた。
だが、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
こうして――。
青い悪魔と、虚狩り。
二人の奇妙な修行の日々が始まった。
そしてダンテが事務所へ帰ってきた時――そこに待っていたのは、以前にも増して事務所へ通うようになった星見雅の姿だった。
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