アビドス高等学校を選んだことに、後悔はなかった。
少なくとも、校門へたどり着くまでは。
自治区の中心部から学校へ続く道には、事前に調べた資料よりも多くの砂が積もっていた。シャッターを下ろしたままの商店、窓が割れた住宅、文字の消えかけた道路標識。その間を縫うように歩いても、すれ違った住民は片手で数えられる程度だった。
アビドスが衰退していることは知っていた。砂漠化によって住民が去り、生徒が減り、学校の存続まで危ぶまれていることも。
それでも、何もしないまま消えていくのを眺めているよりはましだと思った。
この場所を守ろうとしている生徒会長がいるという話も、入学を決める前から聞いていた。小柄で、要領が悪く、何度失敗しても諦めない上級生。名前は梔子ユメ。
本人に会ったことはない。噂だけを頼りに進路を決めたのだから、私も他人のことを言えるほど慎重ではなかったのかもしれない。
そんなことを考えながら校門へ近づいたところで、私は足を止めた。
アビドスの制服を着た女の子が、空に浮かんでいた。
茶色いボブカットの、小柄な少女だった。地面から二メートルほどの高さで身体を揺らしながら、風に飛ばされた紙へ懸命に手を伸ばしている。
目の錯覚を疑ったものの、何度見ても浮いている。事前に確認した学校案内には、空を飛ぶ新入生がいるとは書かれていなかった。
「もう少し……」
少女の指先が紙の端をつかむ。成功したと思った直後、彼女の身体が急に傾いた。
「あ」
間の抜けた声とともに、少女は頭から砂山へ落ちた。
見なかったことにして通り過ぎるか、少しだけ迷った。けれど、制服からして同じ学校の生徒らしい。このまま放置して、あとで救助を頼まれる方が面倒だった。
私は砂山へ近づき、外に出ていた両足をつかんだ。
「引っ張りますよ」
返事はない。
仕方なく力を入れると、砂に埋まっていた上半身が勢いよく抜けた。少女は私の足元へ尻餅をつき、口に入った砂を何度か吐き出した。
「大丈夫ですか」
「うん。ちょっと着地に失敗しただけ」
それを大丈夫とは言わない。
少女は砂まみれの顔を袖で拭うと、地面に落ちていた紙を拾った。どうやら入学案内らしい。私が持っているものと同じだった。
「飈ニナ。今日から一年生だよ」
ニナはそう名乗り、嬉しそうに手を差し出した。
「……小鳥遊ホシノです。私も一年生です」
「じゃあ、同期だね」
差し出された手を握ると、ニナは少しだけ目を見開いた。何か珍しいものを見つけたように私の顔を眺めている。
「何ですか」
「ううん。何でもない」
何でもないと言う割には、妙に機嫌がよさそうだった。
私は先ほどから気になっていたことを尋ねた。
「どうして空を飛んでいたんですか」
ニナは不思議そうに首を傾げる。
「わたし、まほうが使えるんだよ」
「魔法?」
「うん。まほう」
言い直したところで、意味は変わらない。
私が疑っていると察したらしく、ニナは私が持っていた入学案内へ手を向けた。彼女の頭上に浮かぶヘイローが淡く輝き、次の瞬間、私の手元から紙が消える。
紙はニナの手に収まるはずだったらしい。
実際には、彼女の頭の上へ落ちた。
「少しずれただけだから、成功だよ」
「……その基準なら、だいたい何でも成功になります」
ニナは頭上の紙を取り、私へ返した。得意そうな顔をしているので、失敗を指摘してもあまり意味はなさそうだった。
入学初日に出会った同期は、かなり変な子だった。
◇
校舎の中は、外から見た以上に静かだった。
人の気配はほとんどなく、廊下の隅には砂が入り込んでいる。使われていない教室には布をかけられた机が並び、窓越しに見える校庭の半分近くは砂に覆われていた。
入学手続きは、職員室前に置かれていた書類へ必要事項を記入するだけだった。新入生用の机は二つしかなく、他の生徒が来る様子もない。
「教室、選び放題だね」
ニナは誰もいない廊下を見回しながら、楽しそうに言った。
「使う人がいないだけです」
「図書室も独り占めできるよ」
「喜ぶところではないでしょう」
ニナは校内にあるものすべてが珍しいらしく、教室を一つ通り過ぎるたびに中をのぞいた。音楽室で古い楽器を見つければ足を止め、図書室へ入れば本棚の前から動かなくなる。
気づくといなくなっているので、私は何度も来た道を戻ることになった。
「勝手にいなくならないでください」
図書室の隅で本を読んでいたニナへ声をかけると、彼女は悪びれることなく顔を上げた。
「ホシノちゃんが見つけてくれると思って」
「今日会ったばかりの人を信用しすぎです」
「でも、見つけてくれたよ」
それは結果論だと言おうとしたものの、ニナはすでに本を閉じて私の隣へ並んでいた。
校内を一通り確認したあと、私たちは自治区の中心部へ向かった。学校の現状を把握するなら、周辺の様子も見ておく必要がある。
広場へ近づくと、手書きの資料を抱えた上級生が、通行人へ必死に声をかけているのが見えた。
「アビドス自治区の治安維持活動について、少しだけお話を聞いてもらえませんか? あ、すぐに終わりますから!」
私より明らかに背が高く、発育のいい体つきの少女だった。淡い青緑色の髪は腰のあたりまで長く伸び、歩くたびに背中で揺れている。抱えた資料を風にさらわれると、彼女は長い髪を乱しながら、慌てて紙を追いかけ始めた。
「知ってる人?」
隣に立ったニナが尋ねた。
「会ったことはありません」
「でも、名前は知ってるんだ」
私が答える前に、近くの商店から銃声が響いた。
武装した不良生徒が数人、店の商品を抱えて外へ出てくる。店主が止めようとしているが、銃口を向けられて動けなくなっていた。
ユメ先輩は飛ばされた資料を放り出し、不良たちの前へ出た。
「それ、ちゃんとお金を払わないと駄目だよ!」
「邪魔すんな!」
当然のように無視され、銃口が彼女へ向く。
私は考えるより先に前へ出ていた。構えられていない先輩の盾を奪い取るように、銃撃を遮る位置に身体を入れ、盾を構える。着弾の衝撃が腕へ伝わったが、耐えられないほどではない。
「一年生?」
ユメ先輩が驚いた声を上げる。
「無断ですが盾を拝借させていただきます。話はあとです。先輩は右をお願いします」
「う、うん!」
ユメ先輩の返事を聞くと同時に、私は正面の相手へ距離を詰めた。
敵の数は五人。装備は統一されておらず、連携も甘い。こちらは初対面の上級生と、まほうを使えると言い張る同期が一人。
ニナが戦えるかどうかは分からない。少なくとも、砂山へ頭から落ちる程度には飛行が不安定だった。
「ニナは下がって――」
言い終える前に、背後から彼女の姿が消えた。
砂の上には足跡だけが残っている。
透明になったらしい。
足跡は不良たちの背後へ回り込み、一人が腰につけていた予備弾倉の前で止まった。淡い光が瞬き、弾倉が消える。別の相手が持っていた小さな部品も、次々と地面へ移された。
「何だ、これ!」
武器が使えなくなった不良たちが混乱する。
その隙に私は正面の二人を制圧し、ユメ先輩が残りを追い払った。
戦闘が終わると、ニナの姿が少しずつ戻った。最初に髪だけが現れ、次に制服と身体が輪郭を取り戻す。
「今のは役に立ったでしょう?」
ニナは私の方を見ながら尋ねた。
「足跡が全部見えていました」
「でも、格好よかった?」
「危なかったです」
期待していた答えではなかったらしく、ニナは少しだけ口を尖らせた。
店主へ商品を返していると、ユメ先輩が駆け寄ってくる。
「二人とも、最近入学してくれた一年生だよね?」
「小鳥遊ホシノです」
「飈ニナ。まほうが使えるよ」
「まほう!?」
ユメ先輩の目が輝いた。
「先輩、そこに食いつかないでください」
「あ、ご、ごめんね。えっと、私は梔子ユメ。アビドスの生徒会長だよ」
知っています、と口にしそうになり、私は飲み込んだ。
ユメ先輩は学校と自治区を守るため、治安維持活動を続けていると説明した。現在の生徒会員は彼女一人で、巡回も住民からの相談も、可能な限り一人で対応しているらしい。
「一人でやってるんですか」
「うん。今は私しかいないから」
「危険すぎます」
「でも、誰かがやらないと」
ユメ先輩は困ったように笑った。
その言葉を聞いて、私は彼女の存在を知ったときのことを思い出した。衰退する学校を一人で守ろうとしている生徒会長。噂は大げさなのかもしれないと思っていたが、実際には想像していた以上に無茶な人だった。
だからこそ、放っておけない。
私はそれを口には出さず、倒した不良たちが落としていった武器を拾った。
「少なくとも、今日の後始末までは手伝います」
「本当? ありがとう、ホシノちゃん!」
「まだ名前を教えたばかりなんですが」
「じゃあ、ホシノさん?」
「……好きにしてください」
その横で、ニナが私とユメ先輩を交互に見ていた。
「三人になったね」
何が、とは聞かなかった。
◇
今日だけのつもりだった。
少なくとも最初は。
けれど、ユメ先輩は困っている人を見つけるたびに足を止め、そのたびに私たちへ手伝いを頼んだ。商店の警備、砂に埋もれた荷物の運搬、壊れた設備の確認。報酬が出る仕事もあれば、礼を言われるだけの仕事もある。
依頼の危険性や必要な人員を確認せず引き受けるので、私は毎回、ユメ先輩が持ち帰った内容を最初から調べ直すことになった。
「今回だけですからね」
「ホシノちゃん、前もそう言ってたよ」
ニナに指摘され、私は依頼書から顔を上げた。
「ニナは黙っていてください」
「うん。でも、たぶん次も手伝うと思う」
「どうしてそう思うんですか」
「ホシノちゃん、ユメ先輩のことを放っておけないみたいだから」
「危険な仕事を一人でされると、あとから被害が増える可能性があるだけです」
「そうなんだ」
ニナは納得したように頷いた。まるで信じていない顔だった。
彼女自身も、頼まれたことを断らなかった。高い場所にある看板を確認するときは空を飛び、狭い隙間へ落ちた部品は瞬間移動で取り出す。姿を消して逃げた小動物を探したこともあるが、砂の上に足跡が残るので、かえって住民の子供たちに追いかけ回されていた。
便利ではある。
ただし、まほうを使うたびにニナは目に見えて疲れた。飛行を続ければ息を切らし、何度も瞬間移動を使えば足取りが重くなる。
ある日の巡回では、学校へ戻る途中で突然立ち止まった。
「どうしました」
「ちょっと眠い」
答えた直後、ニナはその場へ座り込み、壁にもたれたまま目を閉じた。
「ここで寝ないでください」
肩を揺らしても反応がない。
ユメ先輩は心配そうに額へ手を当てた。
「まほうを使いすぎたのかな」
「分かっているなら、止めてください」
「ご、ごめんね。でも、私が気づいたときにはもう……」
私はため息をつき、ニナの前へ背を向けてしゃがんだ。
「ホシノちゃんが運ぶの?」
「ここへ置いて帰るわけにはいかないでしょう」
「えへへ。ホシノちゃん、優しいね」
「先輩も荷物を持ってください」
ニナを背負って歩き出すと、途中でわずかに身じろぎした。
「ホシノちゃん」
「起きたなら歩いてください」
「まだ歩けない」
「だったら黙っていてください」
「ホシノちゃん、強いんだね」
ニナの声は眠気でぼんやりしている。
「ニナが勝手に倒れただけです」
「助けてくれたから、優しくもあるね」
「降ろしますよ」
「それは困る」
それきりニナは静かになり、学校へ着くまで起きなかった。
◇
ユメ先輩から借金の話を聞かされたのは、彼女の手伝いを始めてしばらく経った頃だった。
生徒会室へ招かれた私たちの前に、ユメ先輩は大量の書類を並べた。返済計画、利息、担保、過去の契約。学校の経営状況が悪いことは知っていたが、記載されていた金額は私の想像を大きく上回っていた。
「どうして、こんなことになるまで放っておいたんですか」
「私が生徒会長になる前から積み重なっていた借金も多くて……。でも、ちゃんと返していかないと、学校も自治区もなくなっちゃうから」
ユメ先輩はそう言って、無理に笑った。
この額を一人で返せるはずがないことは、本人にも分かっている。それでも、諦めるという選択肢だけは持っていないらしい。
隣では、ニナが書類に並ぶ数字を指で追っていた。
「これ、どれくらい働いたら返せるの?」
「簡単には返せません」
「百回くらい?」
「もっとです」
「千回?」
「たぶん、それでも足りません」
ニナはしばらく数字を眺めたあと、顔を上げた。
「じゃあ、できるところからやろう」
「金額を理解してませんよね」
「よく分かってないよ」
あまりに素直に認められ、私は次の言葉を失った。
「でも、返さないとユメ先輩も、ここに住んでる人も悲しいんでしょう?」
「それは……そうだけど」
「だったら、何もしないよりはいいと思う」
ユメ先輩の表情がわずかに緩んだ。
現実を理解しない楽観論で解決する問題ではない。けれど、だからといって私もアビドスを見捨てるつもりはなかった。
そのために、この学校を選んだ。
私は借金の書類を手元へ引き寄せた。
「まず、収入と支出を全部整理します。それから、返済に回せる額と必要な活動費を分けてください」
ユメ先輩が驚いたように私を見る。
「手伝ってくれるの?」
「そのために来たようなものですから」
言ったあとで、少しだけ口が滑ったと思った。
ニナは何も言わなかったが、嬉しそうに笑っている。
その日のうちに、私とニナは正式にアビドス生徒会へ加わった。
ユメ先輩が生徒会長。私は副会長。ニナは書記。
ニナは文字がきれいで、聞いた内容を整理して文章にすることも得意だった。ただし、会計には触らせないことにした。
「どうして?」
「借金の桁を途中で諦めたからです」
「でも、全部読めたよ」
「読めても計算できなければ意味がありません」
三人で最初に行った会議では、返済資金を稼ぐ方法を考えた。
ユメ先輩は砂漠観光、農業、空き教室の貸し出しなど、思いついた案を次々と口にした。私は初期費用や需要を確認し、一つずつ問題点を指摘していく。
ニナは、砂に顔を描いて土産として売る案を出した。
「かわいかったら買ってくれるかも」
「買いません」
「ホシノちゃんの顔も描くよ」
「もっと売れません」
最終的には、近隣店舗でのアルバイト、住民からの依頼、指名手配犯の確保など、確実に報酬を得られる仕事から始めることになった。
ユメ先輩が仕事を探し、私が内容と危険性を確認する。ニナは予定と依頼事項を記録する。
一人しかいなかった生徒会室に、三人分の机が並んだ。
◇
借金返済のための仕事は、派手なものばかりではなかった。
商店の品出し、倉庫整理、道路に積もった砂の除去、荷物の護衛。報酬は少額で、返済額全体から見ればほとんど変化がない。
それでも、仕事がうまくいった日は、ユメ先輩が柴関ラーメンへ連れていってくれた。
「大半は返済に回すけど、働いた日の食事くらいは必要経費だよ」
「毎回ではありませんからね」
「うん。毎回じゃなくて、時々ね」
ニナは長い時間メニューを眺めた末、塩ラーメンを選んだ。一口食べると、目を見開いて箸を止める。
「これ、好き」
「そんなにですか」
「うん。あったかくて、やさしい味がする」
ユメ先輩は自分の器から具を一つ取り、ニナのラーメンへ移した。
「今日は頑張ったからね」
「ありがとうございます」
ニナが嬉しそうに笑う。
少し迷ってから、私も自分の器に入っていた具を一つ渡した。
「食べきれないだけです」
「ホシノちゃんも、ありがとう」
「だから、食べきれないだけです」
「うん」
ニナは頷いたが、やはり信じていない顔をしていた。
それから、仕事が成功した日は三人で柴関ラーメンへ行くことが、曖昧な約束になった。
◇
仕事や巡回を優先した結果、私とニナは授業の課題を溜めるようになった。
私の場合、提出物が遅れただけで内容に問題はない。ニナの場合は、提出しても内容に問題があった。
返却された数学の答案には、数式の横へ独自の説明が書かれている。
『この数字は一人にした方が落ち着く』
『反対側へ移ると符号が変わる』
『分からない』
放課後、生徒会室でニナの勉強を見ることになった。
「まず、この式の未知数を求めます」
「どうして?」
「それが問題だからです」
「この人、名前も分からないんでしょう?」
「……どうやって試験に合格できたんですか?」
「こうね、ビビッて来たの」
「……」
説明を重ねるほど、ニナの理解は別の方向へ進んでいく。
その一方で、国語や歴史は私よりも成績がよかった。文章の読解が早く、記述問題では必要な情報を整理して書ける。
私がニナの答案を直している間に、彼女は机の上に置いてあった私の作文を見つけた。
「私がこの学校を選んだ理由」
課題の題を読み上げられ、私は答案を取り上げようとした。
「勝手に見ないでください」
「一行しか書いてないよ」
私が書いたのは、『アビドスを立て直すため』という一文だけだった。
内容としては十分なはずだが、ニナは不満そうだった。
「ホシノちゃん、アビドスを助けるために入ったの?」
「そう書いてあるでしょう」
「どうして助けたいと思ったの?」
「次はニナの作文を見せてください」
話をそらすと、ニナは素直に自分の答案を差し出した。
冒頭には、大きな字でこう書かれている。
『アビドス高等学校の案内を見たとき、ビビッと来ました。だから入学しました。』
「理由、それだけですか」
「うん。ビビッと来たから」
「進路をそんな感覚で決めたんですか」
「ホシノちゃんは違うの?」
ニナは急かすことなく、私の返事を待っている。逃げるように答案へ視線を戻したものの、これ以上ごまかす方が面倒だった。
「アビドスが少しずつ衰退していることは、入学前から知っていました」
住民が減り、店や公共施設が閉鎖され、生徒がいなくなっている。このままでは自治区そのものが消えるかもしれない。
そして、そんなアビドスを守ろうとしている生徒会長がいるという話も聞いていた。
「助けになれると思ったんです」
「ユメ先輩の?」
「アビドスのです」
すぐに訂正したが、ニナは口元を緩めた。
「でも、ユメ先輩のことも助けたかったんだね」
「違います」
「違わないと思う」
「ニナには分かりません」
「分かるよ。わたしも、二人が困ってたら助けたいから」
反論しようとしたが、適切な言葉が見つからなかった。
ニナは私の作文を指差す。
「でも、これだけだと短すぎるよ。どうしてアビドスを助けたいのかも書いた方がいいと思う」
「そこまで書く必要がありますか」
「読んだ人には、ホシノちゃんの頭の中は見えないから」
正論だった。
私は少し迷ったあと、一行目の下へ文章を書き加えた。
『衰退していく自治区を、このまま見過ごしたくなかった。また、アビドスを守ろうとしている生徒会長の力になりたいと考えた。』
書き終わると、ニナがすぐに答案をのぞき込んだ。
「やっぱりユメ先輩を助けたかったんだ」
私は無言で作文を裏返した。
「次はニナの数学です」
「作文はもういいの?」
「ニナの入学理由は、どう直しても『ビビッと来た』以上にはならないでしょう」
「ちゃんとした理由だよ」
「進路指導の先生は泣いたでしょうね」
「笑ってたよ」
「困って笑っていたんです」
勉強会が終わり、生徒会室を出るとき、ニナが廊下で振り返った。
「ホシノちゃんがアビドスに来てくれて、よかった」
「どうしてニナが言うんですか」
「わたしがビビッと来たの、間違ってなかったから」
「意味が分かりません」
ニナは説明せず、私の少し前を歩いていく。
守るべき自治区。
放っておけない生徒会長。
何を考えているのか分からない同期。
入学前に想定していたよりも、気にかけなければならないものが増えていた。
◇
私たちは借金返済だけでなく、地域のボランティア活動も続けた。
道路のごみ拾い、砂に埋まった標識の掘り起こし、使われていない公共施設の清掃、高齢の住民の荷物運び。直接報酬が出ない仕事も多く、最初の頃は返済を優先するべきだと考えていた。
けれど、学校は自治区から切り離されて存在しているわけではない。住民とのつながりを維持すれば、食料を分けてもらえることも、新しい仕事を紹介されることもある。
何より、ユメ先輩にとっては借金を返すことだけが目的ではなかった。
ここに残っている人たちが、これからも暮らせる場所を守りたいのだろう。
ニナは住民の名前をすぐに覚えた。子供たちとは姿を消すまほうを使ってかくれんぼをし、老人が落とした小物は瞬間移動で拾い上げる。
人を驚かせるためではなく、誰かが少し楽になるためにまほうを使う。
そのたびに、ニナは私の反応を確認するようにこちらを見た。
褒められるのを待っているのだろうと思ったが、使いすぎを注意すると、なぜか少し嬉しそうにする。よく分からない。
ある日、私たちは古い集会所の清掃を頼まれた。
入口には枯れた花壇があり、長い間、何も育っていないらしい。
ニナは花壇の前へしゃがみ込み、砂の上に手を置いた。
「何をするんですか」
「少しだけ、試してみる」
ニナのヘイローが淡く輝いた。
乾いた砂がわずかに盛り上がり、小さな芽がいくつも地表へ顔を出す。ところが、伸び始めた芽はすぐに力を失い、その場へ倒れた。
ニナはもう一度手を伸ばそうとした。
「やめてください」
「でも、もう少しなら」
「ここには水も、まともな土もありません。生やせても育ちません」
ニナは手を下ろし、しおれた芽を見つめた。
「まほうだけじゃ、駄目なんだね」
「何でもできるわけではないんでしょう」
「うん。できないことの方が多いよ」
残念そうではあったが、自分の力を恥じている様子はなかった。
集会所を管理している老人が、古い紙袋を持ってきた。中には、かつてアビドスで育てられていた植物の種が入っているという。
「植える場所がなくなってから、ずっと置いたままなんだ。いつか育てられる場所ができたら、使っておくれ」
ニナは両手で袋を受け取った。
「そのときは、みんなで植えようね」
その「いつか」が本当に来るとは、私には思えなかった。
それでも、否定する必要はないと判断した。
ニナは袋に日付と老人の名前を書き、自分の鞄へ大切そうにしまった。
◇
入学から数か月が経つ頃には、三人とも疲労が目立ち始めていた。
ユメ先輩は新しい依頼を見つけるたびに持ち帰り、ニナは頼まれると断れずにまほうを使う。私は二人が増やした仕事の危険性と費用を確認し、返済計画を修正する。
ある日の午後、ニナは授業中に眠り、ユメ先輩も生徒会室で書類を持ったまま机へ突っ伏した。
私は一人で借金の数字を確認した。
返済しても、元金はほとんど減っていない。
これだけ働いても、状況は目に見えるほど改善しない。それでも止めれば、さらに悪くなる。
「ホシノちゃん」
声をかけられて顔を上げると、ユメ先輩が目を覚ましていた。
「次の休日、水族館に行かない?」
「遊んでいる余裕があるんですか」
「地域の仕事を手伝ったお礼に、入場券を三枚もらったの。ずっと働き続けるのは、頑張ることとは違うと思うよ」
「一日休んだ間にも利息は増えます」
「そこは忘れよう」
「忘れていい数字ではありません」
ユメ先輩は、眠っているニナへ視線を向けた。
「ニナちゃんも、最近ずっと疲れてるでしょう?」
そのとき、机へ伏せたままのニナが小さく呟いた。
「水族館……」
ユメ先輩が期待するようにこちらを見る。
「……入場券が無駄になる方が損失です」
「えへへ。じゃあ決まりだね」
最初から断れるとは思っていなかったらしい。
◇
休日の朝、ニナは集合時間よりも早く学校へ来ていた。
普段より少しだけ整えた私服を着ており、鞄には住民からもらった種の袋が入っている。なくしたくないものは持ち歩くことにしているらしい。
ユメ先輩は、水族館の案内図へ大量の印をつけていた。
「大水槽を見て、特別展示に行って、そのあとショーを見て、昼食を食べてからお土産を――」
「予定を詰め込みすぎです」
「せっかく行くんだから、全部見たいなって」
「見られなかったところは、次に来ればいいよ」
ニナが言うと、私は彼女を見た。
「次がある前提なんですね」
「ないの?」
すぐには答えられなかった。
「……まず、今日の予定を終わらせてから考えてください」
ニナはそれを肯定と受け取ったらしく、嬉しそうに頷いた。
水族館へ着くと、彼女は普段以上に落ち着きがなくなった。
水槽から水槽へ移動し、魚の名前や説明を一つずつ読む。生態や逸話はすぐに覚えるのに、水圧や浮力の説明になると首を傾げた。
「どうして、水の中だと身体が軽くなるの?」
「浮力が働くからです」
「どうして?」
「液体中の物体には、押しのけた液体の重さと同じだけ上向きの力が――」
「難しい」
「説明させたのはニナでしょう」
ユメ先輩は私たちのやり取りを見ながら、楽しそうに笑っていた。
大水槽の前で、ニナは長い間立ち止まった。
青い水の中を、大小さまざまな魚がゆっくりと行き交っている。地上の混雑や砂漠の暑さとは無関係に、静かな世界が水槽の向こう側へ広がっていた。
「魚って、飛んでるみたい」
「泳いでいるんです」
「でも、地面に足をつけてないよ」
「そういう意味なら、そうですね」
ニナは魚から私へ視線を移した。
「今度、一緒に飛ぶ?」
「遠慮します」
「ユメ先輩も一緒に」
「もっと遠慮します」
少し離れた場所で、ユメ先輩が肩を震わせている。笑っているらしい。
ニナは再び水槽へ向き直り、しばらく魚を目で追ったあと、突然尋ねた。
「ホシノちゃん、入学したこと、後悔してる?」
何の前触れもない質問だった。
「どうしてですか」
「最初、学校を見たとき、難しい顔をしてたから」
「問題がなくなったわけではありません」
借金も、人手不足も、砂漠化も解決していない。私たちが入学したことで、状況が劇的に変わったわけでもない。
それでも、退学したいとは思わなかった。
「わたしは、来てよかったよ」
ニナは水槽を見たまま言った。
「ホシノちゃんとユメ先輩に会えたから」
私はすぐに返事をしなかった。
言葉にすれば、大げさになる気がした。
「……そうですか」
「うん」
ニナはそれ以上を求めず、私と並んで魚を見続けた。
そのあと、職員から三人で写真を撮ることを勧められた。
私は断ろうとしたが、ユメ先輩とニナに両側から腕をつかまれた。
「せっかくだから撮ろうよ、ホシノちゃん」
「記録なら、会場の写真だけで十分です」
「三人で来た記録だよ」
撮影直前、ニナが魚を近くで見ようとして前へ出すぎた。ユメ先輩が肩を引き、私が服をつかむ。
その瞬間にシャッターが切られた。
出来上がった写真には、中央で笑うニナと、その両側で彼女を支える私とユメ先輩が写っていた。
私は笑っていない。
けれど、捨てるほど悪い写真でもなかった。
写真は三人分印刷された。
「来年も撮ろうね」
ニナが自分の写真を見ながら言う。
「そのときは、もっと生徒が増えてるかもしれないね」
ユメ先輩が続けると、ニナは嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、みんなで撮ろう」
二人の視線が私へ集まる。
「来年の話をする前に、今年を何とかしてください」
約束はしなかった。
ただ、来年はないとも言わなかった。
◇
夕方、私たちはアビドスへ戻った。
ニナは疲れたらしく、生徒会室の机へ座るとすぐに眠った。ユメ先輩も隣の机で書類を持ったまま目を閉じている。
私は二人へ毛布をかけ、一人で借金の書類を開いた。
返済額は、全体から見ればわずかしか減っていない。アビドスを取り巻く状況は、私たちが入学した日からほとんど変わっていなかった。
それでも、生徒会室には三人分の机と鞄がある。
ニナの鞄からは、住民にもらった種の袋が少しだけ見えていた。
私は水族館で撮った写真を取り出した。捨てる理由はない。学生証と一緒にしまい、再び書類へ目を戻す。
校舎の外で、風が吹いた。
古い掲示板に積もっていた砂が崩れ、その下から色褪せた紙の端が現れる。
見えている文字は、一部だけだった。
『第177回――』
まだ、私たちはその存在に気づいていない。
「ホシノちゃん」
声に顔を上げると、ニナが机へ伏せたままこちらを見ていた。
「明日の数学、教えて」
「自分で少しは考えてください」
「考えたけど、数字が仲直りしてくれなかった」
「数字は最初から喧嘩してません」
以前は何の音もしなかった校舎に、ユメ先輩の寝息と、ニナの声と、私のため息が響いていた。
アビドスの未来がどうなるのかは、まだ分からない。
ただ、入学したことに後悔はなかった。
今度は、校門をくぐったあとも。