水族館へ行ってから、しばらく経った頃だった。
その日は地域ボランティアの一環として、学校の近くに残されていた古い掲示板を清掃していた。表面は日焼けして白く濁り、下半分は砂に埋まっている。金属製の枠も腐食しており、少し力を加えただけで壊れそうだった。
「ユメ先輩、そこを無理に引っ張らないでください。枠ごと外れます」
「だ、大丈夫だよ。少し動かすだけだから」
そう言いながら、ユメ先輩は砂へ埋まった掲示板を両手で揺らした。淡い青緑色の長い髪が背中で大きく揺れる。体格だけを見れば私よりずっと頼りになりそうなのに、やっていることは壊れかけた設備への最後の一押しだった。
「先輩の少しは信用できません」
「じゃあ、ホシノちゃんも手伝って?」
「だから、動かさずに砂を掘るんです」
スコップを差し込み、掲示板の周囲から少しずつ砂を取り除く。ニナは表面に積もった砂を雑巾で拭いていたが、途中で手を止めると、掲示板の隅を指差した。
「何かあるよ」
砂の下から、紙の端がのぞいていた。
ユメ先輩がすぐに手を伸ばそうとしたので、私はその腕を押さえた。
「破れます。周りから掘りましょう」
「う、うん。そうだね」
三人で慎重に砂を取り除くと、色褪せた一枚のポスターが姿を現した。紙は乾燥して脆くなっていたものの、中央に書かれた文字はまだ読み取れる。
『第177回アビドス砂祭り』
ポスターには、屋台や装飾で彩られた通りと、大勢の住民たちが描かれていた。現在のアビドスからは想像もできないほど人が多く、広場の端まで笑顔で埋まっている。
「お祭り、あったんだ」
ニナがポスターをのぞき込む。
ユメ先輩は何も答えず、紙の表面に残っていた砂を指先でそっと払った。嬉しそうにも、寂しそうにも見える表情だった。
「先輩は知ってたんですか」
「話には聞いたことがあるよ。でも、こんなポスターが残ってるとは思わなかった」
「第177回ってことは、ずっと続いてたんだね」
「そうみたいだね」
ユメ先輩はポスターから目を離さなかった。
その時点で、嫌な予感はしていた。
◇
ポスターを生徒会室へ持ち帰ると、ユメ先輩はすぐに過去の資料を探し始めた。
書棚の奥から出てきたのは、砂祭りの写真、当日の進行表、出店者一覧、警備計画、収支報告。保存状態はよくなかったが、かつての砂祭りが地域全体を巻き込んだ大きな行事だったことは分かった。
商店街の屋台。
学校の生徒による催し。
砂を使った彫刻。
音楽や踊り。
遠方から来た客向けの案内所。
今のアビドスには存在しないものばかりだった。
「これだけ人が来てくれたら、商店街にもお客さんが戻ってくるかもしれないよ」
机いっぱいに資料を広げながら、ユメ先輩が言った。
「過去と同じ規模を想定しているなら無理です」
「ま、まだ何も言ってないよ?」
「顔に書いてあります」
必要な人員も資金も、現在のアビドスにはない。以前の祭りをそのまま再現しようとすれば、準備だけで学校の資金がなくなる。
私が問題点を説明すると、ユメ先輩は露骨に肩を落とした。
「そっか……。やっぱり難しいよね」
少し言いすぎたかもしれないと思った直後、ユメ先輩は別の資料を持ち上げた。
「じゃあ、小さく始めるのはどうかな」
「小さく?」
「昔と同じにはできなくても、今いる人たちだけでできる形なら。屋台も少しだけにして、遠くから大勢呼ぶんじゃなくて、まずは残ってるみんなに集まってもらうの」
資料を見ながら、ニナが口を開いた。
「写真の人たち、みんな笑ってるね」
「そうだね」
ユメ先輩は写真へ視線を落とし、静かに笑った。
「もう一度、こんなふうにできたらいいな」
「やろうよ」
ニナは迷わなかった。
二人の視線が私へ向く。
「まず、必要な予算と人員を計算してください」
私がそう答えると、ユメ先輩の顔が明るくなる。
「手伝ってくれるの?」
「実現可能か確認するだけです。無理なら止めます」
「うん。それでも十分だよ」
放置すれば、二人だけで無謀な計画を始める。最初から関わっておく方が、被害を小さくできるはずだった。
少なくとも、そのときはそう考えていた。
◇
最初に行ったのは、住民への聞き取りだった。
かつての砂祭りを知る人たちは、古い写真を見せると懐かしそうに目を細めた。昔はどの店が何を出していたのか、誰が祭りの音楽を担当したのか、どの年に砂像が崩れて騒ぎになったのか。話し始めると、記憶は次々に出てくる。
しかし、祭りを復活させたいと伝えた途端、反応は慎重になった。
「今さら人が集まるのかい」
「準備する人間だって残ってないだろう」
「また砂嵐が来たら、全部駄目になる」
どれも正しい意見だった。
ユメ先輩は無理に説得しようとはせず、昔どんな役割を担当していたのか、何が楽しかったのかを一人ずつ尋ねていった。
ニナは隣で、住民たちの話をノートへ書き留める。出店内容や必要な道具だけでなく、誰と一緒に参加したのか、どんな失敗をしたのかまで細かく記録していた。
「そこまで書く必要がありますか」
「必要だよ」
「予算にも進行にも使いません」
「でも、お祭りをやりたい理由にはなるでしょう?」
ニナは顔を上げずに答えた。
私はそれ以上何も言わなかった。
聞き取りを続けるうちに、少しずつ協力者が現れた。昔屋台を出していた店主が、設備の一部ならまだ使えると言った。倉庫に装飾を保管していた老人は、修理すれば提供すると約束してくれた。
最初は無理だと言っていた住民も、過去の思い出を語るうちに、「小さなものなら」と言い始める。
全員が祭りそのものを望んでいたわけではない。
けれど、同じ場所に集まり、昔の話をすることを嫌がる人はいなかった。
◇
計画は、以前の砂祭りを完全に復活させるものではなく、地域住民を中心とした小規模な催しにまとまった。
会場は、現在も人が暮らす区域に近い広場。開催期間は一日のみ。屋台の数も限定し、遠方から大勢の観光客を呼ぶことは考えない。
ユメ先輩は住民や店舗との交渉。
私は予算、警備、避難経路、天候の確認。
ニナは記録と装飾、案内物の作成を担当する。
「ニナに装飾を任せて大丈夫ですか」
「どうして?」
「まほうで何とかしようとして、途中で倒れるからです」
「倒れないくらいにするよ」
「自分でその判断ができていないと言ってるんです」
ニナは不満そうに頬を膨らませた。
ユメ先輩は私たちを見て、小さく笑う。
「じゃあ、ホシノちゃんにニナちゃんの監督もお願いしようかな」
「仕事を増やさないでください」
「ホシノちゃんが見てくれるなら安心だね」
ニナはなぜか嬉しそうだった。
会場の清掃が始まると、予定以上に作業が増えた。放置されたごみを片づけ、積もった砂を除去し、壊れた柵を補修する。最初は三人だけだったが、住民たちも少しずつ集まり、作業へ加わった。
ニナは空を飛び、高い場所に残った照明や看板を確認した。古くなった紐や、小さな留め具を瞬間移動させて装飾を取りつける。
手の届く高さの旗までまほうで結ぼうとしたので、私はニナの手をつかんだ。
「それは普通に取りつけられます」
「まほうの方が早いよ」
「まほうを使って倒れたら、運ぶ時間が増えます」
「でも、まほうの方が格好いいでしょう?」
「誰に見せるんですか」
ニナは一瞬だけ黙り、私を見た。
「みんなに」
「だったら、倒れないところまでにしてください」
「うん」
返事だけは素直だった。
ニナは住民から聞いた思い出をもとに、現在の祭りの装飾を考えた。古い写真をそのまま再現するのではなく、今も残っている店や住民の名前を旗や案内板へ書き込む。
花を飾りたいと言い出したときは、砂漠では準備できないと考えた。
ところが、住民の一人が鉢植えと土を提供し、別の住民が水を分けてくれた。ニナがまほうを使うと、植えられていた小さな植物がゆっくりと枝葉を伸ばした。
以前、集会所の枯れた花壇ではすぐにしおれてしまった。
今回は違う。
土と水のある鉢の中で、植物はそのまま生き続けている。
「ホシノちゃん、見て」
「見えています」
「ちゃんと育ったよ」
「土と水を用意した人たちのおかげです」
「まほうも少しは役に立ったでしょう?」
私は鉢の状態を確認した。無理に引き伸ばされた様子はなく、葉も健康に見える。
「今回は、役に立っています」
そう答えると、ニナは想像していた以上に嬉しそうに笑った。
近くで作業していたユメ先輩が、なぜか面白そうな顔で私たちを見ている。
「何ですか」
「ううん。仲がいいなって思って」
「作業の確認をしていただけです」
「そういうことにしておくね」
何が言いたいのか分からなかった。
◇
祭りの準備が進むにつれ、住民たちの表情も変わっていった。
倉庫に眠っていた屋台道具が持ち込まれ、古い装飾が修理される。昔の祭りで起きた失敗や騒動を、住民たちは笑いながら話した。
ユメ先輩は準備会場を歩き回り、一人ずつに何度も礼を言っていた。
その姿を見ているうちに、先輩が砂祭りにこだわった理由が少しだけ分かった。
祭りを開けば、すぐに大勢の人が戻るわけではない。借金が減るわけでも、砂漠化が止まるわけでもない。
それでも、ここに残った人たちが同じ場所へ集まる理由にはなる。
かつてのアビドスを懐かしむだけでなく、今のアビドスで何かを始める理由になる。
だからといって、危険性が消えるわけではなかった。
費用は予定より増えている。借りた機材も多く、天候が崩れれば損失が発生する。私は毎日、予算と気象情報を確認した。
「ホシノちゃんは心配性だね」
ユメ先輩が私の手元をのぞき込む。
「誰かが心配しないと、先輩は何も心配しないでしょう」
「私もちゃんと心配してるよ」
「心配した結果、仕事を増やしてくるのをやめてください」
隣でニナが笑った。
住民たちも、いつの間にか私たちのやり取りを当然のように受け入れていた。
開催日が近づく頃には、広場は小規模ながら祭りの会場らしい形になっていた。
夕方、作業を終えた私たちは、並んだ屋台や装飾を会場の端から眺めた。
「当日、三人で写真を撮ろうよ」
ユメ先輩が会場中央を指差す。
「水族館のときみたいに?」
ニナが尋ねる。
「うん。今度はアビドスで」
ニナはすぐに私を見る。
「ホシノちゃんもね」
「当日の状況次第です」
「絶対だよ」
「警備に問題がなければです」
ニナはそれを了承と判断したらしく、鞄から水族館で撮った写真を取り出した。中央で笑うニナと、その両側で彼女を支えている私とユメ先輩。
写真を持ち歩いているらしい。
私も学生証と一緒に保管しているが、それを言う必要はなかった。
◇
開催前日、気象情報に砂嵐の可能性が表示された。
「延期した方がいいです」
私は生徒会室で資料を広げ、ユメ先輩とニナへ伝えた。
予報では、砂嵐は自治区の外縁部を通過する。会場付近への影響は小さいとされていたが、予測経路には幅があった。
ユメ先輩も住民の安全を優先することには同意した。
ただ、すでに食材や物資は準備され、会場の設営も終わりかけている。簡単に日程を変更できる状況ではない。
「明日の早朝に、もう一度情報を確認しよう」
ユメ先輩が言った。
「危険がありそうなら、その時点で中止する。準備は続けるけど、避難の用意もしておこう」
私は頷いた。
避難経路を確認し、屋外の装飾を補強する。借りた機材はすぐに屋内へ運び込めるよう配置を変えた。
ニナは、祭りのために育てた鉢植えを何度も気にしていた。
「植物より、自分の避難を優先してください」
「分かってるよ」
「本当に分かってますか」
「うん」
返事をしても、ニナの視線は植物に向いたままだった。
◇
開催当日の早朝。
空の色が変わった。
地平線の向こうが濁り、観測情報が急速に悪化する。予想されていた経路から外れた巨大な砂嵐が、会場のある区域へ近づいていた。
祭りは中止。
準備していた住民たちを、すぐに避難させる。
「ユメ先輩は避難所で人数確認を。ニナは逃げ遅れた人がいないか、近くの建物だけ見てください。遠くへは行かないで」
「ホシノちゃんは?」
「外周を確認します」
「一人で?」
「すぐに戻ります」
それ以上話している時間はなかった。
風が強まり、砂が視界を覆い始める。屋台の布が激しくはためき、固定していた装飾の一部が飛ばされた。
私は広場の外側を回り、残っている住民がいないか確認した。
ユメ先輩は避難所の入口に立ち、住民を誘導している。大きな声で名前を呼び、人数を確認しながら、最後まで中へ入ろうとしない。
ニナは飛行と瞬間移動を繰り返していた。
人間そのものを移動させることはできない。それでも、薬や通信機を必要な場所へ送り、高い場所から避難経路を示している。
風にあおられ、ニナの身体が大きく傾いた。
「ニナ、降りてください!」
「あと一人いる!」
建物の陰から、足の悪い老人が姿を現す。ニナはすぐに地面へ降り、その人の腕を支えた。
私は反対側から肩を貸し、三人で避難所へ向かった。
途中、ニナが会場の端を見た。
植物の鉢が倒れ、砂へ埋もれかけている。
ニナがそちらへ向かおうとする。
私は腕をつかんだ。
「放っておいてください」
「でも」
「人の避難が先です」
ニナは一度だけ鉢植えへ視線を戻した。
その後は何も言わず、老人を支えて避難所へ入った。
全員が中へ入った直後、砂嵐が会場を飲み込んだ。
◇
人的被害は出なかった。
それだけを考えれば、避難は成功だった。
けれど、砂嵐が去った後に残っていた光景を見れば、それで十分だと簡単には思えなかった。
屋台は倒れ、装飾は破れ、借りた機材の一部が砂に埋もれている。集めた食材や物資も、多くが使えなくなっていた。
何日もかけて整備した会場は、一晩どころか数時間で元の荒れ地へ戻っている。
ニナは、折れて砂に埋もれた植物の前へしゃがみ込んだ。
ヘイローが淡く光る。
折れた茎がわずかに伸びたものの、元には戻らない。根元の土も乾き、葉はすぐに力を失った。
ニナの呼吸が苦しくなる。
「もう無理です」
私は肩をつかんだ。
「でも、少しなら」
「駄目です」
ニナは手を下ろした。
「守れなかったね」
ユメ先輩が隣へしゃがみ、ニナの背中へ手を置いた。
「誰も怪我をしなかった。それだけで十分だよ」
「でも、みんなで作ったのに」
「また作れるから」
ユメ先輩は笑った。
住民たちへも、同じように笑顔で謝り、片づけの指示を出している。
誰よりも落ち込んでいるはずなのに、表へ出そうとしなかった。
住民たちは、私たちの責任ではないと言ってくれた。自然災害だから仕方がない。またできるときにやればいい。
それでも、借りた物が壊れた事実も、準備に使った資金が失われた事実も消えない。
一日かけて最低限の片づけを終える頃には、日が暮れていた。
予定では、祭りの明かりが灯り、住民たちが集まっていた時間だった。
今は、壊れた屋台と砂だけがある。
ユメ先輩は、会場の中央に立っていた。
そこは、三人で写真を撮るはずだった場所だ。
私は声をかけることができなかった。
計画を始める前なら、危険性を指摘できた。けれど、今さら「だから言った」と口にしても意味がない。
ニナが私とユメ先輩の手を取った。
「二人に、見せたいものがあるの」
◇
「空へ行く?」
ユメ先輩が聞き返した。
「うん。今じゃないと、見られないから」
「駄目です」
私は即座に反対した。
「一人で飛ぶだけでも疲れるでしょう。避難中に何度まほうを使ったと思ってるんですか」
「今日は、そんなに使ってないよ」
「数えられないくらい使った人が言わないでください」
ニナは私の手を離さなかった。
「少しだけだから」
「少しで済まなかったらどうするんです」
「落とさないよ」
「落ちるのはニナの方です」
ユメ先輩も止めようとしたが、ニナは珍しく譲らなかった。
「お願い。二人に見てほしいの」
その顔を見て、私は強く断れなくなった。
「危険だと思ったら、すぐに降りてください」
「うん」
「絶対にです」
「分かった」
ニナのヘイローが輝く。
足元から風が巻き上がり、私たち三人の身体が地面から離れた。
ニナは私とユメ先輩の手を握り、二人を引き上げるように飛ぶ。飛行は安定しておらず、高度が急に変わるたびに身体が揺れた。
「落としたら許しません」
「落とさないよ」
「だから、ニナが落ちそうなんです」
息を切らしながらも、ニナは上昇を続ける。
砂嵐が空気中の砂塵を運び去ったことで、頭上には無数の星が見えた。
地上の明かりが少ないアビドスでは、その一つ一つがはっきりと見える。壊れた祭りの会場も、砂に覆われた道路も、空からは暗くてよく分からない。
目に入るのは、星空だけだった。
ユメ先輩が小さく息を漏らした。
「奇跡みたいだね」
「まほうだよ」
ニナが笑う。
二人につられて、私も少しだけ笑った。
祭りの代わりにはならない。失った物資も、増えた負担も消えない。
それでも、その瞬間だけは、地上で起きたことを忘れてもいいと思えた。
ニナが私を見る。
星空ではなく、私の反応を確かめるような視線だった。
「きれいでしょう?」
「……そうですね」
私が答えると、ニナは満足そうに笑った。
◇
着地した直後、ニナの足から力が抜けた。
倒れる前に身体を受け止める。ニナは意識を失っており、呼びかけても反応がなかった。
ユメ先輩と一緒に学校へ運び、ベッドへ寝かせる。
しばらくするとニナは目を覚ましたが、身体に力が入らないらしく、上半身を起こすこともできなかった。
私は水を渡しながら、できるだけ声を抑えた。
「何度、使いすぎるなと言えば分かるんですか」
「でも、二人とも少し笑ってくれたよ」
「そのために次の日まで動けなくなったら、意味がないでしょう」
「意味はあったよ」
ニナは弱々しく笑う。
私は以前から疑問に思っていたことを口にした。
「何でそんなに人のために頑張れるんですか」
まほうを使えば疲れる。何度も使えば倒れ、翌日まで起き上がれないこともある。
それでも、ニナは誰かに頼まれるたびに使おうとする。
「人が悲しいより、笑ってる方がいいから」
「それでニナが倒れたら、周りが心配します」
「でも、ホシノちゃんが助けてくれるでしょう?」
「そういう問題ではありません」
ニナは私の顔を見ながら続けた。
「それに、まほうで誰かを助けるのって、格好いいから」
「格好をつけるために倒れないでください」
「うん」
ニナは笑った。
返事だけを聞けば、まったく反省していなかった。
◇
数日が経っても、砂祭りの後始末は終わらなかった。
壊れた機材の修理費、使えなくなった物資、借りた道具の補償。準備に使った費用だけでなく、新しい支出まで発生している。
私たちが借金返済のために積み上げてきた金額の一部が、後始末で消えていった。
砂祭りの準備中に見た住民たちの笑顔を、無駄だったとは思わない。
それでも、同じことをもう一度行えば、次は人的被害が出るかもしれない。砂嵐を予測できなかったというだけで、責任がなくなるわけでもない。
生徒会室へ戻ると、ユメ先輩が祭りの資料を整理していた。
机の上には、第177回砂祭りのポスターも置かれている。
「いつか、またやりたいね」
ユメ先輩はポスターを見ながら言った。
私は手にしていた書類を置く。
「まだ、そんなことを言ってるんですか」
ユメ先輩の表情が固まった。
「今すぐじゃないよ。今度はもっと安全にできるように考えて、それから――」
「また全部なくなったら、どうするんです」
「同じことにならないように準備するよ」
「今回も準備はしました」
私は机に積まれた損害の書類を指した。
「先輩がやりたいと言えば、住民の人たちは協力してくれます。だからこそ、失敗したときに負担するのは先輩だけじゃないんです」
「分かってるよ」
「分かってる人が、数日後にまたやりたいなんて言いますか」
声が強くなっていることには気づいていた。
それでも、止められなかった。
ユメ先輩がまた計画を始め、また無理をし、今度こそ取り返しのつかないことになるのが怖かった。
その感情を言葉にできず、私は費用や危険性の話ばかりを続けた。
「だからって、もう何もしないの?」
ユメ先輩の声も強くなる。
「誰もそんなことは言ってません」
「ホシノちゃんは、いつも無理だって言うよ」
「無理なことを無理だと言ってるだけです」
「それじゃ、何も変わらないよ」
「何かをするたびに損失を増やすよりはましです」
言った瞬間、ユメ先輩の顔が傷ついた。
引き返せばよかった。
けれど、ユメ先輩はポスターを手に取り、私へ向けた。
「昔できたなら、もう一度できるかもしれないでしょう?」
「昔と今は違います」
「でも、ここに人がいたことは本当だよ。このお祭りを楽しみにしてた人たちがいたことも」
「だからって、この紙一枚で人が戻ってくるわけじゃありません」
私はユメ先輩の手からポスターを取ろうとした。
ユメ先輩も離さなかった。
古い紙が乾いた音を立てる。
中央から、大きく裂けた。
私もユメ先輩も動きを止めた。
「……そう」
ユメ先輩の声が低くなる。
「ホシノちゃんにとっては、その程度なんだね」
「違います」
「何が違うの?」
答えられなかった。
破るつもりはなかった。
祭りの思い出も、先輩の夢も否定したいわけではなかった。
それでも、手の中ではポスターが破れている。
「やめよう」
ニナが私たちの間へ入った。
私もユメ先輩も、すぐには言葉を止められなかった。相手の言葉へ反応し、さらに言い返そうとする。
「二人とも、やめて」
ニナの声が震えていた。
顔を見ると、泣いていた。
どちらかを責めているわけでも、怒っているわけでもない。ただ、私とユメ先輩が喧嘩していることが悲しいのだと分かった。
「二人が喧嘩するの、やだ」
それだけだった。
私は、それ以上何も言えなくなる。
ユメ先輩も黙った。
ニナの涙によって言い争いは止まったが、何も解決していない。
ユメ先輩は破れたポスターを持ち、生徒会室を出ていった。
ニナはその背中を追おうとして、足を止める。
私も動けなかった。
三人の間に、初めて埋められない沈黙が残った。
◇
翌日、ユメ先輩は普段どおりに振る舞おうとしていた。
私も必要な連絡だけは行う。
ニナは私とユメ先輩の間を行き来し、二人分の飲み物を用意したり、同じ机で作業できるよう書類を並べたりした。
それでも、会話は続かなかった。
ユメ先輩は、破れたポスターをテープで修復していた。継ぎ目ははっきりと残っているが、捨てるつもりはないらしい。
私はその作業を見ていたが、謝れなかった。
謝れば、ユメ先輩の計画をすべて認めることになるような気がした。
本当は、そういう問題ではない。
分かっていても、言葉が出なかった。
砂嵐の後、自治区外縁部の定期巡回が必要だった。標識や観測装置、通信設備が破損していないか確認しなければならない。
通常なら、複数人で行う仕事だ。
ユメ先輩は、一人で行くと言った。
「ホシノちゃんは、損害の整理をお願い」
「別の日でもいいでしょう」
「巡回は予定どおりにやらないと」
表面上は穏やかだが、学校から離れたがっていることは分かった。
一緒に行くと言いかける。
昨日の言い争いが頭に残り、言葉が止まった。
「……分かりました」
私はそう答えてしまった。
ユメ先輩は一瞬、何かを待つように私を見た。
結局何も言わず、装備を持って生徒会室を出ていく。
その背中を見送ったあと、胸の奥に嫌な感覚が残った。
「一人で大丈夫かな」
ニナが窓からユメ先輩の姿を見ている。
「定期巡回は何度も行っているはずです」
「でも、今日はいつもと違うよ」
「ニナが追いかけた方が危険です」
ユメ先輩は普段から、砂漠では感情で動かないようニナへ教えていた。心配だからと準備もなく追いかければ、遭難者が増えるだけだ。
ニナも理解しているらしく、すぐには動かなかった。
それでも落ち着かない様子で、何度も時計と窓を確認する。
私が通信対応をしている間に、ニナは席を立った。
「少し、外を見てくるね」
私は書類から目を上げる。
「遠くへ行かないでください」
「うん」
ニナは笑って、生徒会室を出た。
しばらくしても戻ってこなかった。
通信機で呼び出しても、返事がない。
位置情報を確認すると、ニナの端末は自治区の外へ向かっている。ユメ先輩の巡回路と同じ方向だった。
「ニナ……」
二人へ通信を送る。
返ってくるのは、激しいノイズだけだった。
砂嵐の影響で設備が故障している可能性はある。
それでも、胸に残っていた嫌な感覚が急速に強くなる。
私は必要な装備を集め、二人の追跡準備を始めた。
◇
私は、一人になりたかった。
砂嵐の後、外縁部の標識や観測装置を確認する必要があったのは本当だ。でも、今日でなければならない仕事ではなかった。
ホシノちゃんと顔を合わせたまま、何事もなかったように振る舞うことが苦しかった。
ニナちゃんを泣かせたことも。
ホシノちゃんに、あんな言葉を言わせてしまったことも。
破れたポスターを見ても、何も言えなかったことも。
私は生徒会長なのに、全部から逃げるように砂漠へ来てしまった。
ホシノちゃんが「分かりました」と答えたとき、本当は止めてほしかった。
自分から一人で行くと言っておいて、そんなことを考える自分が嫌になる。
巡回路を進んでいると、後ろから私を呼ぶ声が聞こえた。
「ユメ先輩!」
振り返ると、ニナちゃんが息を切らして走ってくる。
「どうして来たの?」
思わず強い声が出た。
ニナちゃんは立ち止まり、肩で息をしている。飛んで追いつこうとしたのか、顔色もよくなかった。
「ユメ先輩が心配だったから」
「一人で砂漠に来たら駄目だって、何度も言ったよね」
「でも、ユメ先輩も一人で来たよ」
何も言い返せなかった。
「私は定期巡回だから」
「本当に、それだけ?」
ニナちゃんは、責めるような声ではなかった。
だからこそ、ごまかすことができない。
「……ごめんね」
私は自分も感情で行動していたことを認めた。
ニナちゃんは首を横に振る。
「一緒に帰ろう」
「うん」
巡回を中断し、学校へ戻ることにした。
来た道を引き返したはずだった。
けれど、標識が記憶と違う方向を示している。
砂嵐で向きが変わったのかもしれないと思い、携帯端末で位置を確認する。表示された現在地は安定せず、地図上を何度も飛び回った。
通信にも激しいノイズが入る。
「さっき、ここ通ったかな」
ニナちゃんが周囲を見回した。
似た景色が続く砂漠では、目印がなければ判断が難しい。来たときの足跡を探したものの、風はほとんどないのに跡が消えている。
「一度、落ち着いて位置を確認しよう」
そう言ったとき、通信機から弱い声が聞こえた。
『助けて……』
生徒らしき声だった。
何度も途切れながら、救助を求めている。
発信地点は、巡回路から少し外れた場所に表示されていた。
学校へ戻ることを優先するべきだった。
けれど、本当に誰かが遭難している可能性を無視することもできない。
「助けに行く?」
ニナちゃんが尋ねる。
「短時間だけ確認しよう。誰もいなかったら、すぐ戻るよ」
私はそう決めた。
救難信号の示す場所へ着いても、そこには誰もいなかった。
砂と岩があるだけで、人が通った痕跡すら見当たらない。私が端末の表示を確認していると、通信機から先ほどとは違う声が流れた。
『クク……予定から外れた駒が二つ。いやァ、盤面とはこうでなくてはな!』
「誰ですか」
返事の代わりに、湿った笑い声が聞こえた。
『小生のことなど、今はどうでもいい! 重要なのは――そちらの少女だ!』
ニナちゃんが私の腕をつかむ。
『コデックスにも記載のない異能……“まほう”だったか? 実に興味深い。空を飛び、物体を移し、生命の成長にまで干渉する! そのようなルール外の力が、どうして今まで盤面へ現れなかった?』
「ニナちゃんに、何をするつもりですか」
『何をする? 何も! 小生はただ、観測のための盤面を整えただけだよォ!』
私は通信機の電源を切った。
それでも声は途切れず、今度はニナちゃんの端末から流れ始める。
『さあ、見せてくれたまえ! 貴様の“まほう”が盤面を覆すチートなのか、それとも子供だましにすぎないのかを!』
ニナちゃんが端末を砂へ投げ捨てた。
『だが、力の価値とは平穏の中では測れない。逃げ道を奪われ、守るべき者を失い、それでもなお不可能を覆してこそ――奇跡と呼ぶに値するのだッ!』
地面が揺れた。
最初は小さな振動だったが、やがて立っていることさえ難しいほど強くなっていく。砂の一部が崩れ、地面に開いた巨大な穴へ流れ込んだ。
「ニナちゃん!」
私はニナちゃんの手をつかみ、その場から離れた。
遠方の砂丘が、不自然に持ち上がっていく。地形そのものが動いているように見えたが、すぐにそうではないと分かった。
砂の下から、巨大な機械の身体が現れる。
長大な装甲に覆われた、人の兵器とは比較にならない巨体。地中から響く駆動音だけで、足元の砂が絶えず震えている。
アビドス周辺で観測されたという報告を思い出した。
デカグラマトンの預言者。
ビナー。
私たちは偶然ここへ迷い込んだのではない。
あの声の主によって、ビナーの進路へ誘導されたのだ。
巨大な頭部が、ゆっくりとこちらへ向けられる。砲口へ光が集まり、周囲の空気が焼けるように熱くなった。
私はニナちゃんの手を強く握る。
「逃げるよ」
「うん」
砂へ投げ捨てた通信機から、男の歓声が響いた。
『さあ、ゲームを始めよう! 逃げるか、守るか、あるいは共に潰されるか――貴様らの選択を、小生に見せてみろッ!』
私はニナちゃんを引いて走り出した。
背後で、砂漠を白く染める光が放たれた。