第1話 もう一度の人生
第1話 もう一度の人生
ジャポン国。
世界地図の東に位置する、海に囲まれた島国。その中でも大きな町から遠く離れた山あいに、小さな村があった。
村には田畑と森が広がり、中央を細い川が流れている。家の数はそれほど多くない。住人のほとんどは互いに顔を知っていて、子供が悪さをすれば、その日のうちに親の耳へ届くような場所だった。
そんな村で、一人の男の子が生まれた。
名前はフクリ。
木工職人の父と、家事をしながら畑仕事を手伝う母の間に生まれた、一人息子だった。
何か特別な出来事が起きたわけではない。
空が割れたわけでもなければ、神のお告げがあったわけでもない。生まれた赤ん坊が大人の言葉を話すこともなく、見たことのない文字を書き始めることもなかった。
フクリはよく泣き、よく眠り、よく母に甘えた。
どこにでもいる、普通の子供だった。
◇
「フクリー! 朝ご飯できたよー!」
「はーい!」
母の声が聞こえ、フクリは寝床から勢いよく飛び起きた。
まだ少し眠かったが、台所から漂ってくる匂いが鼻に届いた途端、眠気はすぐに消えた。廊下を走って居間へ入ると、小さな食卓の上に朝食が並んでいた。
炊きたての白いご飯。野菜の入った味噌汁。小さな焼き魚と、母が畑で育てた漬物。
決して豪華な食事ではない。それでも、フクリにとっては十分なごちそうだった。
「いただきます!」
「走ったら危ないって、いつも言ってるでしょう」
「転んでないから大丈夫!」
「転んでからじゃ遅いのよ」
母は呆れたように言いながらも、口元には笑みを浮かべていた。
向かい側では父が味噌汁をすすっている。大きな体に太い腕。日に焼けた手には、小さな傷や固いまめがいくつもあった。
父は村の木工職人だった。
椅子や机、棚や箪笥、農具の柄から家の扉まで、木で作れるものなら大抵のものを作った。村人から修理を頼まれることも多く、朝から晩まで工房にいる日も珍しくない。
「今日は父さん、昼まで仕事だ」
「早く帰ってくるの?」
「ああ。注文してもらってた棚が完成したからな。届けたら終わりだ」
「僕も行きたい!」
「重い物を運ぶだけだぞ」
「それでも行く!」
フクリが身を乗り出すと、父は笑いながらその頭を撫でた。
「じゃあ朝飯を食べたら手伝え。ただし、刃物には触るなよ」
「分かってる!」
「前もそう言って、鉋に触ろうとしただろう」
「あれは見るだけだったよ」
「手を伸ばしてたでしょう」
母に言われ、フクリは黙ってご飯を口へ運んだ。
父と母が笑う。
フクリも少し遅れて笑った。
こうした何でもないやり取りが、この家では毎日のように繰り返されていた。
◇
家の隣には、父の工房があった。
中へ入ると、いつも木の香りがした。壁には鋸や金槌、鉋といった道具が並び、床には細かな木くずが落ちている。
フクリはこの場所が好きだった。
何もなかった木の板が、父の手によって少しずつ形を変えていく。荒かった表面が滑らかになり、何枚もの板が組み合わさって、最後には立派な家具になる。
その変化を見るのが楽しかった。
「そこを持ってくれ」
「ここ?」
「ああ。指を挟むなよ」
父と二人で小さな棚を荷車へ積む。フクリが持っている側はほとんど父が支えていたが、それでも本人は立派に手伝ったつもりだった。
「重い……!」
「まだお前には早かったか?」
「平気!」
腕が震えていたが、意地でも手を離さなかった。
無事に棚を積み終えると、父がフクリの頭に手を置いた。
「助かったぞ」
「本当?」
「ああ。一人よりずっと早く終わった」
それが父なりの優しさだと、幼いフクリはまだ知らない。
ただ褒められたことが嬉しくて、胸を張った。
「僕、大きくなったら父さんの仕事を手伝う!」
「そうか。じゃあ父さんより上手くならないとな」
「なれるよ!」
「簡単じゃないぞ」
「いっぱい練習する!」
父は少し目を細めた。
「そうだな。毎日少しずつやれば、そのうちなれるかもしれない」
フクリは大きく頷いた。
その言葉も、やがて忘れてしまうような、ごく普通の会話だった。
少なくとも、その時は。
◇
昼前に仕事が終わると、フクリは友達と村の外へ遊びに出た。
村のすぐ近くには森がある。大人たちからは、あまり奥まで行くなと言われていたが、入り口付近は子供たちの遊び場になっていた。
「フクリ! あっちに大きな虫がいた!」
「どこ!?」
「逃げた!」
「じゃあ探そう!」
三人ほどの子供たちと草むらをかき分け、木の根元を覗き込む。小さな虫を見つけるたびに騒ぎ、珍しくもない蝶を追いかけて転び、服を泥だらけにした。
川へ行けば、靴を脱いで浅瀬に入った。
「魚いた!」
「捕まえて!」
「そっちに行った!」
両手で水をすくっても、魚は簡単に逃げていく。それでも子供たちは諦めず、何度も水を跳ねさせた。
やがて一匹の小魚を追い詰め、フクリが両手で捕まえた。
「捕まえた!」
「見せて!」
「小さいな!」
「小さくない!」
友達と言い合いながら、水の入った木桶に魚を入れる。
しばらく眺めた後、フクリは魚を川へ戻した。
「逃がすの?」
「家で飼えないから」
「食べればいいのに」
「小さすぎるよ」
魚が水の中へ消えていくまで、フクリはじっと見ていた。
理由をうまく説明できたわけではない。ただ、せっかく生きているのだから、このまま泳いでいた方がいいと思った。
◇
「フクリー! 帰ってきなさーい!」
夕方、森の方角まで母の声が響いた。
「いま帰るー!」
フクリは友達に手を振り、家へ向かって走った。
玄関へ入ると、母が泥だらけになった服を見て眉をひそめる。
「またそんなに汚して」
「川で魚を捕まえた!」
「魚より先に服を洗わないとね」
「魚は逃がしたよ」
「なら、捕まえなくてもよかったんじゃない?」
「捕まえたかったの!」
母は仕方なさそうに笑い、フクリの頭についた葉を取った。
「先に体を拭いてきなさい。ご飯はそれから」
「はーい」
家の中には夕食の匂いが広がっている。工房から戻った父も、すでに食卓へ座っていた。
この日は三人で鍋を囲んだ。
「今日は何をして遊んだ?」
「魚捕まえた!」
「大きかったか?」
「これくらい!」
フクリは両手を大きく広げる。
「そんなに大きい魚が、あの川にいるのか?」
「本当はこれくらい」
今度は指を少しだけ開いた。
「ずいぶん小さくなったな」
父が笑い、母も笑う。
フクリは少し恥ずかしくなりながらも、一緒に笑った。
家は小さかった。
雨の日は屋根を打つ音が大きく、冬になると床から冷たい空気が上がってくる。父の仕事が少ない月には、食卓のおかずが一つ減ることもあった。
それでも、フクリは自分が貧しいとは思わなかった。
父がいて、母がいる。
毎日ご飯を食べ、友達と遊び、夜になれば安心して眠れる。
それ以上のものが必要だとは思わなかった。
◇
季節はゆっくりと巡った。
春になると、村の道沿いに小さな花が咲いた。母と一緒に山菜を採り、父の作った籠へ入れた。
夏には森で虫を追いかけ、川で泳いだ。遊びすぎて日に焼け、母に風呂で背中を洗われるたび痛がった。
秋には木の実を拾った。食べられるものと食べられないものの区別を父から教わったが、何度聞いても忘れた。
冬には雪が積もった。友達と雪玉を投げ合い、指先が赤くなるまで遊んだ。
四歳。
五歳。
フクリは普通の子供として育っていった。
前世の記憶などなかった。
自分が別の世界から来たなどと考えたこともない。
ジャポンの山あいに生まれた、木工職人の息子。
それが、フクリのすべてだった。
◇
六歳の誕生日。
朝から母が少し豪華な料理を作り、父もいつもより早く仕事を切り上げた。
食卓には魚の煮付けと、フクリの好きな甘い卵焼きが並んでいる。中央には母が焼いた小さな菓子も置かれていた。
「六歳、おめでとう」
「おめでとう、フクリ」
「ありがとう!」
食事の後、父が工房から細長い物を持ってきた。
「ほら、誕生日の贈り物だ」
長い木の柄。その先には丸い枠が取り付けられ、丈夫そうな網が張られていた。
手作りの虫取り網だった。
「これ、僕の?」
「ああ。前に欲しいって言ってただろう」
「ありがとう、父さん!」
フクリは受け取ると、嬉しそうに何度も眺めた。柄は子供の手にも握りやすい太さで、木の表面は丁寧に磨かれている。先端の網も、市場で売られている物より少し深く作られていた。
「簡単には壊れないように作った。ただし、木を叩いたりするなよ」
「しないよ!」
「お前は何でも振り回すからな」
「虫を捕まえるだけ!」
父と母が顔を見合わせて笑う。
その日は、もらったばかりの虫取り網を持って森へ出かけた。
狙いは、友達が見たという大きなカブトムシだった。
何本もの木を見て回り、草むらへ網を振り、蝶を追いかけた。結局、目当てのカブトムシは見つからなかったが、小さな甲虫と綺麗な羽を持つ虫を捕まえた。
夕方には、捕まえた虫をすべて逃がした。
持って帰れば母が嫌がると思ったし、小さな籠の中へ閉じ込めておくのも少しかわいそうだった。
空になった虫取り網を肩へ担ぎ、フクリは家へ帰った。
◇
夜。
布団へ入り、目を閉じる。
隣の部屋から、父と母の話し声が聞こえてきた。
「フクリも、もう六歳か」
「あっという間だったね」
「ついこの間まで、抱かないと寝なかったのにな」
「今でも怖い夢を見たら来るけどね」
「聞こえてるよ!」
フクリが布団の中から声を上げると、隣の部屋が静かになった。
少しして、父が笑う声が聞こえる。
「早く寝ろ」
「はーい」
フクリは布団を鼻の辺りまで引き上げた。
窓の外では虫が鳴いている。遠くから川の流れる音も聞こえた。
父と母がいる。
明日になれば、また友達と遊べる。
森へ行き、川へ行き、父にもらった虫取り網で、今度こそ大きなカブトムシを捕まえる。
そんなことを考えているうちに、瞼が重くなっていった。
この家が好きだった。
父が好きだった。
母が好きだった。
この村が好きだった。
ずっと、この毎日が続けばいい。
子供ながらに、フクリはそう願っていた。
……その頃の俺は、まだ知らない。
ここが、人の命が紙切れより軽く扱われることもある世界だということを。
そして、自分が生まれたこの世界が――
HUNTER×HUNTERの世界だということを。