第10話 死にたくないよ
二十二歳と三か月。
予定していた日を迎えても、フクリは朝一番に『転生(死にたくないよ)』を作ろうとはしなかった。
薄い布団の上で目を覚まし、しばらく天井を眺める。
町の安宿。
壁の向こうから聞こえる宿泊客の足音。
通りを走る荷車の音。
鼻につく、古い木材と朝食の匂い。
昨日までと何も変わらない朝だった。
自分の使用可能メモリは、千へ届いている可能性が高い。
だが、まだ『容量判定(メモリー・ジャッジ)』では確認していない。
『0.1%の積み重ね(複利)』が一日分のメモリを増加させる基準は、能力を完成させた時刻だった。
十一歳と六か月。
森の中で初めての念能力を完成させたのは、日が沈んだ後だった。
つまり、千メモリへ届くのも今夜になる可能性が高い。
「最後まで待つか」
フクリは布団から起き上がった。
四年九か月待った。
正確には、念へ目覚めてからもっと長い時間をかけている。
あと半日を惜しむ必要はなかった。
◇
顔を洗い、仕事へ向かう支度を整える。
手袋。
仕事道具。
水筒。
昼食。
忘れ物がないか、いつもより念入りに確かめた。
今日は能力を作る日だから仕事を休む、という選択もあった。
だが、部屋で一日中メモリのことばかり考えていれば、落ち着かなくなるのは目に見えている。
普通に働く。
普通に食事をする。
普通に一日を終える。
その後で能力を作る。
その方が自分らしい。
宿を出ると、朝の空気は少し冷たかった。
町の通りには、仕事へ向かう人々が歩いている。
店の戸を開ける者。
荷車へ商品を積む者。
眠そうな顔で歩く作業員。
誰も、フクリが今夜どれほど大きな念能力を作ろうとしているか知らない。
知らなくていい。
力は、誰かへ見せるためのものではない。
◇
その日の現場は、町外れに建てられている大きな倉庫だった。
高い足場へ上る作業は少ない。
重い資材も、ほとんど昨日までに運び終えている。
フクリは数日前から、できるだけ危険の少ない仕事へ回してもらえるよう現場監督へ頼んでいた。
理由は、身体の調子を整えたいからとだけ伝えている。
「今日は妙に慎重だな」
同僚が、床へ落ちていた釘を拾うフクリを見て言った。
「いつも慎重ですよ」
「今日は特にだ。床の釘を一本ずつ数えてるみたいだぞ」
「踏んだら痛いでしょう」
「そりゃ痛いけど」
フクリは曲がった釘を道具箱へ入れた。
今日は死にたくない。
もちろん、昨日も明日も死にたくない。
だが、今日に限っては、普段以上にその思いが強かった。
屋根から何か落ちてくるかもしれない。
荷車が横転するかもしれない。
誰かが道具の扱いを誤るかもしれない。
帰り道で事故に遭う可能性もある。
食事へ毒が入っているかもしれない。
考え始めると、危険はいくらでも思いついた。
「落ち着け」
小さく呟く。
今日だけ世界中の事故が自分を狙うわけではない。
二十二年間生きてきた。
その間、危険がまったくなかったわけではない。
それでも、確認し、避け、時には運にも助けられて、ここまで来た。
慎重であることと、怯えて動けなくなることは違う。
フクリは一度ゆっくり息を吐き、作業へ戻った。
◇
昼休み。
作業員たちと並んで座り、持ってきた弁当を食べる。
味は悪くない。
だが、何を食べているのか意識しなければ分からなくなるほど、頭の中は『転生』の設計で埋まっていた。
身体的死亡。
思考的死亡。
記憶の引き継ぎ。
念能力の引き継ぎ。
男性という性別。
フクリという名前。
転生先は選べない。
必ず出生直後の状態から始まる。
身体能力も、オーラ量も、新しい肉体へ依存する。
死亡から転生までの時間は分からない。
条件に抜けはない。
何度も読み直した。
『容量判定』でも、九百メモリで成立することを確認している。
それでも不安は消えなかった。
「今日、何かあるのか?」
向かいに座っていた作業員が尋ねた。
「どうしてですか」
「ずっと難しい顔をしてるから」
「少し考え事をしてます」
「お前、いつも考え事してるな」
「考えずに失敗するよりいいでしょう」
「考えすぎて失敗することもあるぞ」
もっともな意見だった。
フクリは弁当へ視線を落とす。
「今日が終われば、少し落ち着くと思います」
「何だ。結婚でもするのか?」
「しません」
「即答かよ」
周囲から笑い声が起きた。
フクリも少しだけ笑った。
他人と普通に話していると、自分が必要以上に構えていたことに気づく。
今夜起きるのは、世界を揺るがす事件ではない。
一人の男が、宿の一室で念能力を一つ作る。
ただそれだけだ。
町の人々は変わらず生活する。
父と母も、ジャポンの村でいつもの一日を過ごしている。
大げさに考えすぎる必要はない。
◇
仕事を終えたフクリは、いつもよりゆっくり宿へ戻った。
急がない。
走らない。
道を渡る前に左右を見る。
人通りの少ない道を選ぶ。
途中で食事を買い、部屋へ持ち帰った。
扉を閉め、鍵をかける。
窓。
床。
壁。
天井。
不審な物がないか確認する。
念能力者が潜んでいたとしても、今のフクリでは完璧に見抜けない。
それでも、できる範囲の確認を省く理由はない。
食事を取り、水を飲む。
身体を洗う。
少し時間を置き、胃が落ち着くのを待つ。
それから布団へ横になった。
周囲は安全。
扉と窓も閉じている。
フクリは絶へ入った。
身体から漏れ出していたオーラが閉じる。
外気の冷たさを感じやすくなるため、布団を肩まで掛けた。
肉体が静かな休息状態へ入る。
仕事で溜まった疲労が、少しずつ和らいでいく。
今夜は長い時間、練と集中を維持することになる。
能力開発そのものに痛みはない。
メモリを切り離すことも、肉体を傷つける行為ではない。
だが、複雑な能力を形にするには、オーラと精神力を長時間使う。
疲れた状態で始めれば、設計を正確に刻めない可能性がある。
能力作成は、痛みへ耐える行為ではない。
集中を切らさず、完成した設計を最後まで保つ作業だった。
◇
一時間ほど絶で休んだ。
眠ってしまう前に目を開ける。
身体の重さは、かなり和らいでいた。
水を少し飲む。
外はすでに暗い。
『0.1%の積み重ね』を完成させた時刻が近づいている。
フクリは机の前へ座り、引き出しの奥から封筒を取り出した。
中には、何度も書き直した『転生』の設計書が入っている。
紙を机へ広げる。
条件を、一つずつ読む。
念能力③
『転生(死にたくないよ)』
* 身体的死亡、または思考的死亡が成立した時に自動発動する。
* 身体的死亡とは、現在の肉体で生命活動を継続できず、回復の可能性が完全に失われた状態を指す。
* 思考的死亡とは、記憶、自我、人格が不可逆的に失われ、現在のフクリとして思考を継続できなくなった状態を指す。
* 一時的な仮死、気絶、意識喪失、治療可能な記憶障害では発動しない。
* 転生後も、過去の人生で得た記憶をすべて引き継ぐ。
* 記憶が戻る時期は選べないが、新しい肉体が安全に受け入れられる段階へ到達した時、必ず完全に回復する。
* 習得済みの念能力をすべて引き継ぐ。
* 引き継いだ念能力は、新しい肉体の成長度、オーラ量、念の習得状態によって使用を制限される。
* 性別は男性として引き継ぐ。
* 転生後の個人名は、必ず「フクリ」となる。
* 転生先の家族や周囲は、その名前を自然なものとして受け入れる。
* 家名、姓、称号は転生先に依存するが、能力上の本名は常に「フクリ」として固定される。
* 転生先の世界、時代、地域、家系、種族、容姿は選択できない。
* 転生先は、自我と記憶を保持できるだけの知性を持つ生命に限られる。
* 新しい肉体の身体能力、オーラ量、才能は引き継がず、転生先の肉体に依存する。
* 必ず赤ん坊、またはその種族における出生直後の状態から始まる。
* 死亡から転生までの時間は指定できない。
* 死亡から転生までの期間、意識および時間感覚は保持されない。
* 必要メモリは九百。
何度読んでも、都合のいい能力ではない。
転生先は選べない。
次も人間とは限らない。
平和な世界へ生まれる保証もない。
記憶が戻る時期も選べない。
念能力を持ち越しても、新しい肉体が未熟なら使えない。
今の父と母へ、再び会える保証もない。
今の友人たち。
この町。
ジャポン。
この世界。
死んでしまえば、すべてと別れることになる。
『転生』は、今の人生をやり直す能力ではない。
次の人生へ、自分だけを持ち越す能力だ。
それでも、完全に消えるよりはいい。
今まで積み重ねたものを、無かったことにはしたくない。
最低限残したかったものだけを詰め込み、それ以外を切り捨てた。
フクリは、この設計に納得していた。
◇
能力を作る前に、『容量判定』を使う。
紙へ手を近づける。
僅かなオーラが流れ、文字が浮かび上がった。
現在使用可能メモリ:一〇〇〇
フクリは、しばらく数字を見つめた。
千。
上限。
十一歳と六か月で『0.1%の積み重ね』を作ってから、およそ十年九か月。
途中で我慢できなくなり、『容量判定』へ二百メモリを使用した。
そのせいで増加速度は一度落ちた。
到達時期も遅れた。
それでも。
ようやく、本来持っていた最大量へ戻った。
「届いた」
声が僅かに震えた。
最初の能力を完成させた時のような、弾ける喜びではない。
長く待ちすぎたせいか、数字が現実のものとしてまだ身体へ馴染んでいなかった。
表示は続く。
最低保持メモリ:一〇〇
『転生(死にたくないよ)』必要メモリ:九〇〇
作成後使用可能メモリ:一〇〇
作成可能
条件は揃った。
九百を使えば、残るのは百。
『0.1%の積み重ね』を維持できる最低量ぴったり。
余裕はない。
作成直後は、新しい能力を一つも作れなくなる。
手元を照らす小さな光の能力さえ作れない。
また百から積み上げ直す。
それでも、このために待ってきた。
◇
フクリは、すぐに能力作成を始めなかった。
椅子へ座ったまま目を閉じる。
最後に、自分へ問いかける。
本当に必要か。
今の自分は、積極的に危険へ近づくつもりはない。
ハンターになる予定もない。
賞金首や魔獣と戦う気もない。
ならば、死んだ後にしか役立たない能力へ、九百メモリを使う必要はないのではないか。
危険予知。
治療。
瞬間移動。
防御。
隠密。
九百メモリあれば、いくつもの生存能力を作れる。
それらを組み合わせれば、死ぬ可能性そのものを大きく下げられるだろう。
転生は、死んだ後の保険。
生きている間には、何の助けにもならない。
今の人生を守るなら、別の能力へ投資する方が合理的かもしれない。
この疑問は、今日初めて浮かんだものではない。
何度も考えた。
そのたびに、同じ答えへ戻った。
どれほど能力を増やしても、絶対に死なない保証はない。
病気。
事故。
災害。
念能力。
自分の知らない生物。
今の自分より、遥かに強い者。
どれだけ慎重でも、避けきれないものは存在する。
ならば、最後の保険が必要だった。
死ぬ前の備えも作る。
だがその前に、死んだ後の備えを完成させる。
『転生』を作った後、またメモリを増やせばいい。
十年でも。
二十年でも。
今後の人生が何十年、何百年と続く可能性を考えれば、最初に土台を作る方がいい。
◇
「怖いな」
フクリは呟いた。
九百メモリを失うことが怖いわけではない。
そのメモリは、また時間をかければ増える。
怖いのは、能力が発動する時を具体的に考えることだった。
自分が死ぬ瞬間。
身体が壊れる。
思考が消える。
父と母を残す。
今の人生が終わる。
『転生』を作るということは、自分の死を条件として、オーラへ刻み込むことでもある。
これまでは、ただ死にたくないと願っていた。
だが能力として完成させるには、どの状態を死と認めるのか、はっきり受け入れなければならない。
身体的死亡。
思考的死亡。
回復不能。
現在の自分の終わり。
考えるだけで胸が重くなる。
「怖くていい」
最初の能力を作った時も、怖かった。
元々持っていたメモリの九割を、一つの能力へ変える。
失敗すれば、何も残らない可能性があった。
その恐怖を認めたうえで能力を作った。
恐怖は邪魔ではなかった。
覚悟の重さになった。
今回も同じだ。
死を恐れないふりをする必要はない。
死が怖いからこそ、この能力を作る。
生きたいという思いが強いからこそ、九百メモリを使う。
死への恐怖そのものも、能力を形作る誓約の一部になる。
◇
フクリは立ち上がり、部屋をもう一度確認した。
扉。
鍵。
窓。
灯り。
水。
周囲の気配。
能力作成そのものに痛みはない。
だが、長時間の練と集中によって、強い疲労が出る可能性がある。
『0.1%の積み重ね』を作った時も、『容量判定』を作った時も、終わった後はひどく消耗した。
今回は九百メモリ。
規模としては、最初の能力と同じ。
途中で集中が切れる可能性もある。
寝台の近くへ、厚い布を敷く。
疲れて身体を横にしても、頭を打たない場所。
水は手の届く位置へ置く。
気分が悪くなれば中止する。
設計を崩したまま無理に完成させるくらいなら、別の日へ延期する。
メモリを使うと決めたからといって、命まで賭けるつもりはない。
まだ『転生』は完成していない。
今死ねば、本当に終わる。
◇
フクリは床へ座り、目を閉じた。
まず纏。
身体から流れ出すオーラを、自分の周囲へ留める。
次に練。
身体の奥から、普段より多くのオーラを生み出す。
何年修行しても、練は得意ではない。
一気にオーラを増やそうとすると、肩や首へ余計な力が入る。
呼吸も乱れる。
だから、急がない。
ゆっくりとオーラを増やす。
身体の力を抜く。
呼吸を保つ。
頭の中で、能力の条件を一つずつ確認する。
死亡時に自動発動。
記憶を引き継ぐ。
念能力を引き継ぐ。
男性として生まれる。
名前はフクリ。
転生先は選ばない。
赤ん坊から始める。
身体能力もオーラ量も、新しい肉体へ委ねる。
転生までの空白は認識しない。
条件のすべてを、形として保つ。
能力を作ることは、痛みに耐えながら無理やり力を押し込む作業ではない。
設計図どおりに、オーラとメモリを組み立てる作業だ。
少しでも曖昧になれば、意図していない機能が入り込む可能性がある。
焦らない。
丁寧に。
能力を自分の中へ作っていく。
◇
使用可能メモリへ意識を向ける。
千。
上限まで満ちた余白。
そこから九百を切り離す。
『0.1%の積み重ね』を作った時とは少し違う。
あの時は、生まれつき持っていたメモリの九割を、能力そのものへ変えた。
今回は、『複利』によって増やした使用可能メモリを使う。
使用しても、能力①が残る限り、再び増やすことができる。
それでも、九百は大きい。
何年も待って得た余白が、一つの能力へ変わる。
「使う」
フクリは声に出した。
メモリが動き始める。
十。
五十。
百。
能力の骨組みが作られていく。
死亡を認定する仕組み。
現在の人格を保持する仕組み。
記憶を次の肉体へ運ぶ仕組み。
念能力を失わないための仕組み。
性別と名前を固定する仕組み。
転生先を選ばず、条件に合う生命へ結びつく仕組み。
一つ一つが複雑だった。
『容量判定』とは比べものにならない。
完成した設計が頭の中にあっても、形にするには大量の集中力とオーラが必要になる。
◇
二百。
三百。
四百。
痛みはない。
ただ、長時間の練によって身体が少しずつ重くなっていく。
呼吸にも僅かな疲れが混じる。
額へ汗が浮かび、頬を伝った。
頭の中へ、薄い霧がかかったような感覚がある。
まだ危険な状態ではない。
意識は明瞭。
能力の設計も崩れていない。
フクリは続けた。
◇
五百。
能力の中心へ、記憶を持ち越す仕組みが作られる。
今の人生。
前世。
六歳で戻った記憶。
父。
母。
村。
学校。
工事現場。
念へ辿り着くまでの五年。
能力を作るために待った時間。
そのすべてを、次へ持ち越す。
能力が一つ一つの記憶を保存するわけではない。
死亡した時点における、フクリという人格全体。
記憶。
経験。
考え方。
それらを一つの情報として保持する。
新しい肉体が安全に受け入れられる時まで眠らせる。
いつ戻るかは選べない。
それでも必ず戻る。
◇
六百。
念能力の持ち越し。
『0.1%の積み重ね(複利)』
『容量判定(メモリー・ジャッジ)』
そして、今作っている『転生(死にたくないよ)』
これらを次の人生へ運ぶ。
今後、さらに新しい能力を作れば、それらも引き継ぐ。
新しい身体のオーラが少なければ、能力は十分に使えない。
精孔が開いていなければ、眠った状態になる。
肉体が耐えられない能力も使用できない。
それでも能力そのものは失われない。
人生を重ねるほど。
能力を増やすほど。
『転生』の価値も増していく。
◇
七百。
性別。
男性。
転生先の種族が、人間と同じように男女へ分かれているとは限らない。
それでも、男性に相当する性が存在する生命へ転生する。
その分類が複雑であっても、能力が最も近いものを選ぶ。
性別という条件を外せば、能力はもっと軽くできた。
だがフクリは残した。
現在の自分が男性であることも、自分を構成する一部だと思っていた。
◇
八百。
名前。
フクリ。
どの世界へ生まれても。
どのような言語を使う種族でも。
転生先の家族は、自然な形でその名を与える。
音や文字が完全に同じでない可能性はある。
それでも能力上、本人が認識する名前はフクリとなる。
父と母が付けてくれた名前。
前世の記憶を取り戻した後も使い続けた名前。
前世の自分と、今世の自分が一つになった存在。
その名前を、次の人生へ持っていく。
フクリは一瞬、両親の顔を思い浮かべた。
今の父と母は、次の人生にはいないかもしれない。
別の両親から、同じ名前を受け取る。
不思議な感覚だった。
だが、嫌ではなかった。
◇
八百五十。
身体の重さが強くなった。
長い時間、練を維持している。
オーラも、集中力も消耗している。
痛みはない。
能力を作るために身体が傷ついているわけでもない。
ただ、長時間考え続け、力を使い続けた時のような疲労が積み重なっている。
呼吸を整える。
肩へ入った力を抜く。
能力の形を確認する。
まだ崩れていない。
意識もはっきりしている。
中止する必要はない。
フクリは、さらにメモリを流した。
◇
八百八十。
転生先を選ばないという制約が固定される。
世界。
時代。
地域。
家系。
種族。
容姿。
選べない。
安全な家庭を求めない。
裕福な家を求めない。
強い肉体も。
優れた才能も。
膨大なオーラも求めない。
ただ、自分が次へ続くことだけを望む。
これほど大きな能力を九百メモリへ収められた理由。
発動条件が死であること。
生きている間は何の効果もないこと。
転生先への自由をほとんど捨てたこと。
自分の意思では発動できないこと。
それらすべてが、重い誓約と制約になっている。
◇
八百九十。
あと十。
身体はかなり疲れていた。
汗で服が肌へ張りついている。
呼吸にも重さがある。
目を閉じていても、意識が少しずつぼんやりし始めているのが分かった。
だが、危険な状態ではない。
自分の名前も。
場所も。
作っている能力の条件も分かる。
身体を動かすこともできる。
フクリは焦らなかった。
残り十を一気に流さない。
一つずつ。
設計の形を確認しながら、丁寧に収める。
八百九十一。
八百九十二。
数字が見えているわけではない。
それでも、残っているメモリの量は感覚で分かる。
八百九十五。
八百九十八。
八百九十九。
最後の一メモリ。
フクリは、完成しかけた能力へ意識を向けた。
「死にたくない」
格好のいい誓いではない。
世界を救う言葉でもない。
ただの本音だった。
「俺は、生きたい」
最後の一メモリが、能力へ流れ込んだ。
◇
身体の内側で、巨大な仕組みが静かに固定された。
光は出ない。
音も鳴らない。
痛みもなかった。
外の世界には、何の変化もない。
それでもフクリには、はっきりと分かった。
能力が完成した。
身体的死亡。
思考的死亡。
そのどちらかが成立した時、次の人生へ自分を運ぶ。
現在の肉体の奥。
二つの既存能力より、さらに深い場所。
そこへ『転生』が根を張っているように感じた。
任意には使えない。
動作確認もできない。
実際に発動するかを確かめるには、一度死ぬ必要がある。
そんな確認をするつもりはない。
それでも、能力が完成したという確信はあった。
「できた……」
安堵した瞬間、集中が切れた。
全身から力が抜ける。
フクリは用意していた布の上へ、ゆっくり身体を横たえた。
倒れたわけではない。
怪我をしたわけでもない。
ただ、長時間の練と能力設計によって、身体も精神もひどく疲れていた。
手を伸ばし、水を少し飲む。
呼吸を整える。
扉。
窓。
周囲の気配。
安全は、能力作成前に確認している。
部屋の外にも異常はない。
フクリは絶へ入った。
全身から漏れ出していたオーラが閉じる。
身体が、静かな休息状態へ移る。
オーラを使い切ったわけではない。
絶へ入れないほど危険な状態でもない。
今必要なのは、さらに纏や練を使うことではなく、消耗した身体を休ませることだった。
絶によって余計なオーラの流出を抑え、疲労の回復を促す。
布団を肩まで掛ける。
疲れがすぐ消えるわけではない。
水。
食事。
睡眠。
それらも必要だ。
だが、何もせず休むよりは回復が早い。
「動かなくていいからな」
完成した『転生』へ、冗談のように声をかける。
今夜も。
明日も。
何十年後も。
できれば一度も使いたくない。
念能力を作ったのに、使わないことが一番の成功。
奇妙な能力だった。
フクリは絶を維持したまま、眠りへ落ちていった。
◇
翌朝。
フクリが目を覚ました時には、すでに日が高くなっていた。
仕事は事前に休みを取っている。
能力作成の翌日に疲労が残る可能性を考え、何も予定を入れていなかった。
身体を起こす。
まだ少し重い。
だが、昨夜よりは明らかに回復している。
絶を使って休んだこと。
十分な睡眠を取ったこと。
その両方が効いていた。
水を飲む。
軽い食事を取る。
再び少し休む。
体調に問題がないことを確かめてから、布団の上へ座った。
『容量判定』を使う。
紙へ文字が浮かび上がる。
能力名:転生(死にたくないよ)
必要メモリ:九〇〇
投入メモリ:九〇〇
作成状態:完成
フクリは長く息を吐いた。
感覚だけではない。
能力②によっても、完成が確認された。
さらに、現在のメモリ状況を表示させる。
現在メモリ上限:一〇〇〇
現在使用可能メモリ:一〇〇
最低保持メモリ:一〇〇
現在作成可能メモリ:〇
現在増加率:一日〇・一メモリ
完全に、最初へ戻った。
『0.1%の積み重ね』を作った直後と同じ百メモリ。
昨日までは、一日一メモリ近く増えていた。
今日からは再び〇・一。
十年近くかけて増やしたものを、一晩でほぼすべて使った。
数字だけを見れば、少し寂しい。
「また百からか」
だが、嫌ではなかった。
むしろ慣れている。
何もないところから、少しずつ増やす。
使ったら、また待つ。
フクリはそうやって、ここまで来た。
そして今回、手に入れたものは大きい。
時間と共にメモリを増やす能力。
能力設計を数字で補助する能力。
死後も自分を次へつなぐ能力。
最初に必要だと考えた三つの土台。
すべてが完成した。
◇
二十二歳と三か月。
フクリは三つ目の念能力、
『転生(死にたくないよ)』
を完成させた。
五年間かけて念へ辿り着いた。
自分のメモリの九割を使い、『0.1%の積み重ね(複利)』を作った。
本来はもっと待つつもりだったのに我慢できず、『容量判定(メモリー・ジャッジ)』を作った。
そして再び長い時間を待ち、千メモリへ到達した。
まだ、戦闘能力は一つもない。
熟練した念能力者と戦えば、簡単に負けるだろう。
纏も。
練も。
凝も。
長く修行してきた割には未熟だった。
身体能力も普通。
武術の才能もない。
唯一、達人級へ近づきつつあるのは絶だけ。
それでも。
フクリにとって、ここまでは準備だった。
死んだとしても、自分の積み重ねは失われない。
その最後の保険が完成したことで、初めて世界の外へ目を向ける余裕が生まれた。
危険だからと、いつまでもジャポンの村と町だけで生きる必要はない。
無茶をするつもりはない。
死ぬつもりもない。
それでも、自分の知らない世界を見てみたい。
念について、もっと学びたい。
一人で続けてきた修行が正しいのかも知りたい。
能力設計の材料になる知識も欲しい。
フクリは、机の上に置かれた世界地図へ視線を向けた。
ゴンが生まれるまで、まだ長い時間がある。
自分が知る物語は、始まってすらいない。
ならば、その前の世界を自分の目で見てみるのも悪くない。
『転生』を得たからといって、命が軽くなったわけではない。
むしろ逆だった。
今の人生は、次の人生では二度と取り戻せない。
父も。
母も。
今の家族も。
今の時代も。
一度しか存在しない。
だからこそ、大切に生きる。
生きたうえで、少しだけ遠くへ行く。
フクリは世界地図を広げた。
海の向こう。
まだ名前しか知らない国々。
念能力者。
武術。
ハンター協会。
そして、かつて父へ尋ねても知らないと言われた男。
アイザック=ネテロ。
この時代の彼が、今どこで何をしているのか。
フクリはまだ知らない。
ただ一つ分かっているのは。
これまで自分を守るためだけに積み重ねてきた人生が、ようやく外の世界へ続き始めたということだった。