第11話 完成の翌日
『転生(死にたくないよ)』を完成させてから三日が過ぎた。
フクリの生活は、何も変わっていなかった。
朝になれば宿を出る。
工事現場へ向かう。
資材を運び、道具を片づけ、周囲の安全を確認する。
仕事が終われば食事を取り、宿へ戻る。
疲れていれば絶を使って身体を休ませ、翌日に備えて眠る。
三つ目の念能力を完成させたからといって、急に身体が強くなったわけではない。
攻撃力も上がっていない。
空を飛べるようにもなっていない。
目を閉じれば遠くの景色が見えるようになったわけでもない。
ただ、自分が死んだ時に、次へ進めるようになった。
それだけだった。
生きている今のフクリにとっては、何の役にも立たない能力と言ってもいい。
それでも、胸の奥にあった重いものが少しだけ軽くなっていた。
これまでフクリは、何かを始めようとするたびに、死ぬ可能性を考えていた。
遠い町へ行く。
知らない土地を歩く。
念能力者と出会う。
船や飛行船へ乗る。
どれも、事故や事件へ巻き込まれる可能性がある。
死ねば終わる。
それまで積み重ねたすべてが失われる。
その恐怖が、フクリを狭い範囲へ留めていた。
もちろん今も死にたくはない。
『転生』があるからといって、危険へ飛び込むつもりもない。
だが、一度の事故ですべてが消える可能性はなくなった。
それだけで、未来の見え方が少し変わった。
◇
「最近、何かいいことでもあったのか?」
現場の休憩中、同僚の男に聞かれた。
「どうしてですか」
「前より顔が明るい」
「そうですか?」
「ああ。前はいつも、床が抜けないか考えてるような顔をしてた」
「床が抜ける可能性は考えた方がいいでしょう」
「そういうところは変わってないな」
男は笑いながら、水筒の水を飲んだ。
「結婚か?」
「違います」
「新しい仕事が決まったとか」
「決まってません」
「じゃあ、給料が上がった?」
「上がってないです」
「何だよ。何もないじゃないか」
「別に、何かないと機嫌がよくなったら駄目ですか」
「お前が言うと不気味なんだよ」
「失礼ですね」
フクリは呆れたように答えながら、自分でも少し笑った。
確かに、以前より気持ちは軽い。
ただし、それを誰かへ説明することはできない。
死後に転生する念能力を完成させた。
そんな話をすれば、冗談だと思われるか、危険な人間だと思われるかのどちらかだろう。
そもそも、念の存在を知らない相手へ話す内容ではない。
◇
仕事を終えて宿へ戻ると、フクリは机の引き出しから世界地図を取り出した。
以前、商人から買ったものだった。
細かな道までは載っていない。
大きな国。
海。
山脈。
主要な都市。
飛行船の航路。
その程度しか分からない。
それでも、ジャポンの外がどれほど広いかは十分に伝わる。
フクリがこれまで暮らしてきた範囲は、地図の上では小さな点にもならない。
生まれ育った村。
働いている町。
その二つを往復する生活。
安全だった。
幸せでもあった。
だが、念について知るには限界がある。
師匠はいない。
書物もない。
自分の修行が正しいか確かめる手段もない。
五年間かけて自力で念へ目覚めた。
そこからさらに十年以上、前世の知識だけを頼りに基礎を続けてきた。
纏。
練。
絶。
凝。
応用技。
自分なりに試した。
だが、それが本当に正しいのかは分からない。
例えば纏。
オーラを身体の周囲へ留められている。
少なくとも、自分ではそう感じている。
しかし本物の念能力者から見れば、穴だらけかもしれない。
練も同じだ。
自分ではオーラを増やしているつもりでも、単に全身へ力を入れているだけの時間が長い可能性がある。
絶だけは、ある程度の自信があった。
それでも、師匠から評価されたことはない。
一般人から見つかりにくいというだけで、念能力者からも通用するとは限らなかった。
「一度くらい、ちゃんと習った方がいいよな」
何年も前から考えていたことだった。
だが、これまでは実行しなかった。
念能力者を探すこと自体が危険だからだ。
親切な師匠に会える保証はない。
念を知っていると分かれば、利用されるかもしれない。
能力について聞かれる可能性もある。
特質系。
メモリを増やす能力。
転生能力。
どれも他人へ知られたくない。
特に『転生』は、存在そのものを隠す必要がある。
相手が能力の発動条件を知れば、転生できない形で自我を封じる方法を考えるかもしれない。
念の世界では、能力の情報が命へ直結する。
だから慎重にならなければならない。
それでも。
一生誰にも教わらず、独学を続けることにも危険がある。
間違った修行。
オーラの偏り。
身体への負担。
自分では気づけない欠点。
それらを抱えたまま能力を増やせば、いつか大きな失敗につながる。
◇
フクリは地図の上へ指を置いた。
ジャポンから海を渡る。
飛行船を使えば、大きな大陸まで行ける。
費用は高い。
だが十六歳から働き、贅沢をせずに貯めてきた金がある。
しばらく仕事をしなくても、旅を続けられる程度の貯金はできていた。
宿代。
食費。
移動費。
飛行船の料金。
予想外の出費に備える金。
一つずつ計算する。
世界を一周するような豪華な旅は無理だ。
だが、安い宿を選び、必要なら旅先で短期の仕事をすれば、数年間は動ける。
次にメモリが千へ戻るまで。
およそ五年。
正確な到達時期は『容量判定』で確認できる。
その五年間を、これまでと同じ工事現場で過ごすこともできる。
安全だ。
給料も入る。
生活も安定している。
だが五年後には、また新しい能力を作ることになる。
身体を強くする能力。
精神を守る能力。
危険を避ける能力。
候補はいくつもある。
能力を作る前に、もっと知識が欲しかった。
念。
武術。
身体。
精神。
長く生きるために必要なもの。
知らないまま設計すれば、必要以上にメモリを使うかもしれない。
能力で補う前に、技術として身につけられるものもあるはずだ。
五年間。
メモリが増えるまでの待ち時間。
その時間を、知識と経験を得るために使う。
「悪くないな」
働きながら待つのも積み重ね。
旅をしながら待つのも積み重ね。
同じ五年なら、今まで見たことのないものを見る方がいい。
フクリは、そう思い始めていた。
◇
ただし、問題もある。
父と母。
村を長く離れることになる。
今でも町で働いているため、毎日会っているわけではない。
それでも休日には帰れる。
何かあれば、数日で村へ戻れる。
海を渡れば、そうはいかない。
飛行船でも片道一か月近くかかる地域がある。
往復だけで二か月。
その間に両親へ何かあっても、すぐには戻れない。
父は腰を痛めたことがある。
母も以前より歳を取った。
今は元気だ。
だが五年後も同じとは限らない。
旅へ出ることは、自分のために家族から離れる選択でもあった。
フクリは地図を見つめたまま、長く考えた。
自分の力で守れるものは守る。
仲良くなった人には親身になる。
それがフクリの考え方だ。
ならば、両親の近くへいるべきではないか。
旅へ出ず、村と町で暮らす。
父の仕事を手伝う。
母の畑を支える。
それも幸せな人生だ。
むしろ、自分が本当に望んでいた暮らしに近い。
無理に世界へ出る必要はない。
「……でも」
このままでは、いつか守れなくなる。
今のフクリは弱い。
一般人より多少身体が強く、絶が得意なだけ。
念能力者が村を襲えば、家族を守れない。
強い魔獣が現れても同じだ。
側にいるだけでは足りない。
守るための力を得る必要がある。
そのためには、念を学ぶ必要がある。
武術も学ぶ。
世界を知る。
危険を知る。
遠くへ行くことは、家族を捨てることではない。
将来、守れる範囲を広げるための時間だ。
そう考えることもできた。
もっとも、それが自分に都合のいい言い訳である可能性もある。
本当は、ただ世界を見たいだけなのかもしれない。
前世では会社員として、決まった範囲の中で生きた。
この世界へ転生してからも、村と町の往復がほとんどだった。
自分が漫画で見た世界。
まだ物語が始まる何十年も前の世界。
それを見たい。
純粋な好奇心があった。
「両方でいいか」
家族を守るため。
念を学ぶため。
そして自分が見たいから。
一つだけが理由である必要はない。
◇
翌週の休日。
フクリは村へ帰った。
仕事を終えた後、町を出て、慣れた道を歩く。
遠くに森が見える。
子供の頃に虫を追いかけた場所。
五年間、念を探して座り続けた場所。
初めてオーラを感じた木も、まだ残っている。
村へ入ると、知っている人々が声をかけてきた。
「帰ってきたのか、フクリ」
「今日は早いな」
「母さんが朝から何度も道を見てたぞ」
「それ、本人には言わないでください」
「もう遅いよ」
笑い声が起きる。
小さな村だ。
誰がいつ帰ってきたか、すぐに全員へ知られる。
以前は少し面倒に感じることもあった。
だが、旅へ出ることを考え始めてからは、その距離の近さも悪くないと思えた。
◇
「ただいま」
「おかえりなさい」
家へ入ると、母が台所から顔を出した。
「今日は少し早いのね」
「仕事が早く終わったから」
「お腹は空いてる?」
「少し」
「少しって、どれくらい?」
「ご飯二杯くらい」
「それは普通に空いてるでしょう」
母は呆れながらも、すぐに食事を用意し始めた。
工房からは、木を削る音が聞こえる。
フクリが顔を出すと、父は作業を続けたまま言った。
「帰ったか」
「うん」
「仕事はどうだ」
「普通」
「怪我は?」
「ない」
「金は貯まってるか?」
「少しは」
「なら、俺へ酒を買ってくれてもいいぞ」
「母さんに止められるよ」
「黙ってれば分からん」
「聞こえてます」
台所から母の声が飛んできた。
父は何も言わず、作業へ戻った。
フクリは思わず笑った。
子供の頃から変わらない。
変わっていないようで、少しずつ変わっている。
父の手には以前より深い皺が増えた。
動作も、ほんの少し遅くなっている。
母も同じだ。
時間は止まらない。
旅へ出るなら、何も伝えずに出発するわけにはいかなかった。
◇
夕食の後。
三人で湯飲みを手にしていた時、フクリは口を開いた。
「少し、話がある」
父と母が同時にこちらを見る。
フクリが改まって話すことは珍しい。
母の表情に、すぐ心配が浮かんだ。
「仕事で何かあったの?」
「違う」
「怪我を隠してるんじゃないだろうな」
父も言う。
「怪我はしてない。仕事も問題ない」
「じゃあ何?」
フクリは一度息を整えた。
旅へ出たい。
それだけを言えばいい。
念については話さない。
修行や能力についても。
説明できる範囲で、自分の気持ちを伝える。
「世界を見て回ろうと思ってる」
母が目を瞬いた。
父は湯飲みを置く。
「世界?」
「ジャポンの外にも行きたい」
「旅行ってこと?」
「数日じゃない。何年かかけて回るつもり」
母の顔から、笑みが消えた。
「何年って……仕事は?」
「辞める」
「どこへ行くんだ」
父の声は落ち着いていた。
「まだ全部は決めてない。まず海を渡る。大きな町を回って、武術やいろいろな文化を見たい」
「武術?」
「ずっと身体を鍛えてただろ。ちゃんと教えてくれる場所を探したい」
完全な嘘ではない。
念を学べる場所。
武術を学べる場所。
それを探す。
「危なくないの?」
母が尋ねた。
「危険な場所は避ける」
「知らない土地で、何が危険か分かるの?」
「調べるよ」
「調べても分からないことはあるでしょう」
「あると思う」
「なら、行かない方がいいじゃない」
母の声が少し強くなった。
当然の反応だった。
母にとって、息子が何年も遠い土地へ行く。
それもジャポンの外。
心配しないはずがない。
フクリはすぐに反論しなかった。
心配するなと言っても無理だ。
自分だって、両親が遠くへ行くと言えば不安になる。
「危険がないとは言えない」
フクリは正直に答えた。
「でも、できる限り安全な道を選ぶ。危険な仕事もしない。戦いに行くわけでもない」
「だったら、どうして行く必要があるの?」
「知りたいから」
母が黙る。
「今まで、村と町のことしか知らなかった。外に何があるのか、自分の目で見たい。それに、身体の鍛え方もちゃんと学びたい」
「ここでは駄目なのか」
父が尋ねた。
「ここが嫌なわけじゃない」
フクリはすぐに答えた。
「この家も、村も好きだよ。だから戻ってくる」
「いつ?」
「二年に一度は必ず帰る」
これは旅の計画を考えた時から決めていた。
ジャポンから大陸まで、飛行船で片道一か月ほど。
往復二か月。
帰省のために長い時間と金が必要になる。
それでも二年に一度は戻る。
村には一か月滞在する。
父と母の様子を見る。
必要なら旅を中断する。
「往復で二か月くらいかかると思う。帰ってきたら、一か月はここにいる」
「そんなに遠いの?」
母の不安がさらに強くなる。
「近くはない」
「何かあっても、すぐ帰ってこられないじゃない」
「うん」
否定できない。
そこが一番の問題だった。
◇
しばらく誰も話さなかった。
外から虫の声が聞こえる。
工房に残った木の香りが、家の中まで漂っていた。
やがて父が口を開いた。
「金はあるのか」
「貯めてる」
「どれくらい持つ」
「贅沢しなければ、五年は大丈夫だと思う。足りなくなったら旅先で働く」
「飛行船は高いぞ」
「調べた」
「宿は」
「安い場所を使う」
「盗まれたら?」
「全部を同じ場所には入れない。現金も分ける」
「病気になったら?」
「大きな町の近くを通る。治療費も別に残す」
父は次々と質問した。
フクリは、一つずつ答えた。
何か月も考えてきた。
旅費。
移動手段。
危険な地域。
身分証明。
非常食。
予備の金。
連絡方法。
完全ではない。
それでも、何も考えずに行こうとしているわけではなかった。
「本気なんだな」
最後に父が言った。
「うん」
「止めても行くか?」
フクリは少し迷った。
両親が本気で反対するなら、延期する可能性はある。
家族を悲しませてまで、今すぐ行く必要があるのか。
そう考えた。
だが、行きたい気持ちは変わらない。
「すぐには行かないかもしれない。でも、いつかは行く」
父はゆっくり頷いた。
「なら、今行った方がいいかもしれんな」
「あなた」
母が父を見る。
「若いうちの方が身体も動く。金も自分で貯めた。計画もしている。俺たちが止め続けても、こいつは納得しないだろう」
「でも……」
「心配なのは俺も同じだ」
父はフクリへ視線を戻した。
「ただし、約束は守れ」
「二年に一度帰る」
「それだけじゃない。無理をしない。危険だと思ったら逃げる。金が足りなくなったら、意地を張らずに帰る」
「分かった」
「知らない奴を簡単に信用するな」
「それは大丈夫だと思う」
「お前は疑いすぎる方だったな」
父は少し笑った。
「なら、少しくらいは人を信用しろ。ただし、全部は預けるな」
「難しいこと言うね」
「世の中は大体そういうものだ」
◇
母はまだ黙っていた。
フクリは母の顔を見る。
「ごめん」
「どうして謝るの」
「心配かけるから」
「だったら行かないで」
「それは……」
「言ってみただけ」
母は小さく息を吐いた。
「あなたが子供の頃、森の奥へ行くだけでも心配だった。町へ働きに出る時も心配だった。それが今度は海の向こうでしょう」
「うん」
「慣れるわけないじゃない」
「うん」
「二年に一度、本当に帰るのね」
「帰る」
「手紙も出して」
「出す」
「食事を抜かない」
「抜かない」
「病気を我慢しない」
「しない」
「危険なことをしない」
フクリは少しだけ答えに詰まった。
何を危険とするか。
旅をすること自体、母にとっては危険だ。
「避けられる危険は、全部避ける」
母はしばらくフクリを見つめた。
「あなたらしい答えね」
ようやく、少しだけ笑った。
◇
その夜。
フクリは子供の頃から使っている部屋へ戻った。
壁には、父から六歳の誕生日にもらった虫取り網が掛けられている。
柄には細かな傷が増えていた。
今では小さすぎて、使うことはない。
それでも捨てずに残してある。
布団へ横になる。
窓の外から、森の音が聞こえた。
六歳で前世の記憶を取り戻した。
五年間かけて念を見つけた。
十一歳と六か月で最初の能力を作った。
十七歳と六か月で二つ目。
二十二歳と三か月で三つ目。
長い時間だった。
だが人生全体で考えれば、まだ始まったばかりかもしれない。
ゴンが生まれるまで、まだ何十年もある。
ビスケは、この時代のどこかですでに生きているはずだ。
ネテロもいる。
父が名前を知らなかった頃から時間が過ぎ、今はどこで何をしているのか。
前世で知っている人物たち。
だが、彼らと会うことが目的ではない。
会えれば興味はある。
それでも、自分から危険へ近づくつもりはない。
まずは念を学ぶ場所を探す。
武術を学ぶ。
自分の基礎を見直す。
その途中で会うことがあれば、その時考える。
「予定どおりにはいかないだろうな」
旅に計画は必要だ。
だが、すべてが計画どおりになるとは思っていない。
飛行船が遅れる。
道が塞がる。
仕事が見つからない。
信用できない人間と出会う。
反対に、思いがけず親切な人へ助けられることもあるかもしれない。
未知とは、そういうものだ。
◇
フクリは周囲の安全を確認し、絶へ入った。
身体からオーラが消える。
布団の中で、静かな休息状態へ移る。
今までは、絶へ入るたびに自分の存在を薄くすることばかり考えていた。
誰にも見つからない。
危険から逃げる。
生き残る。
それは今後も変わらない。
ただ、逃げるためだけに外へ出るわけではない。
今度は、自分から一歩だけ進む。
無茶はしない。
危険なら戻る。
力が及ばないなら手を引く。
それでも、何も知らないまま一生同じ場所にいることは選ばない。
フクリは目を閉じた。
次のメモリが千へ届くまで、およそ五年。
その五年間で、世界を回る。
旅費は工事現場で貯めた金から出す。
二年に一度はジャポンへ帰る。
往復に二か月。
村で一か月過ごす。
残りの時間で、念と武術を学ぶ。
大まかな方針が、少しずつ形になっていく。
転生能力を完成させた翌日。
フクリは、死んだ後のためではなく。
今の人生をどう生きるか、初めて遠い未来まで考え始めた。