第12話 帰る場所
旅へ出ると決めてから、フクリは以前よりも村へ帰る回数を増やした。
これまでは、仕事の休みに合わせて月に一度か二度。
町から村までは、歩きと乗合馬車を使って一日近くかかる。休みが短ければ、往復だけでほとんど終わってしまう。
それでも旅立ちまでの間は、できる限り家へ戻った。
父の工房を手伝う。
母の畑仕事へ付き合う。
村の知人へ挨拶をする。
子供の頃に遊んだ森を歩く。
特別なことをしたいわけではなかった。
いつもどおりの時間を、少しでも多く過ごしたかった。
◇
「最近、帰ってくるたびに働いてない?」
母が畑の端で尋ねた。
フクリは籠へ収穫した野菜を入れている。
「何もしなかったら暇だから」
「休みに帰ってきたんでしょう」
「畑仕事くらいは休みみたいなものだよ」
「町ではもっと大変な仕事をしてるのに?」
「工事と比べたら軽い」
「そういうことじゃないの」
母は腰へ手を当てた。
「帰ってきた時くらい、のんびりすればいいでしょう」
「のんびりしてるよ」
「朝から薪を割って、工房を掃除して、今は畑を手伝ってる人が?」
「夕方は休むつもり」
「夕方には、父さんの棚を運ぶって言ってたでしょう」
「あれはすぐ終わる」
母はしばらくフクリを見つめ、それから小さく息を吐いた。
「旅へ出るからって、全部やっておこうとしなくていいのよ」
フクリの手が止まった。
気づかれていたらしい。
「別に、そういうつもりじゃない」
「あなたは昔から、隠し事をする時だけ余計に働くもの」
「そんな癖あった?」
「あったわよ」
母は籠から形の悪い野菜を一つ取り出した。
「悪いことをした後も、何も言わずに家の掃除を始めてたでしょう」
「覚えてないな」
「冬の川へ入ろうとした時もそうだった」
「あれは十年以上前だよ」
「母親は覚えてるの」
母は野菜についた土を指で払った。
「行くことを責めてるわけじゃないのよ」
「うん」
「心配してるだけ」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に」
母はもう一度、フクリの顔を見た。
「だったら、無理して何でもしていこうとしないで。あなたがいなくなった後も、私たちは自分で生活するんだから」
「でも、父さんの腰もあるし」
「もう治ってるわよ」
「前より重い物はきついだろ」
「それなら仕事を減らせばいいの」
「父さんが減らすと思う?」
「そこは私が何とかする」
「できる?」
「あなたよりは、あの人を動かすのが上手よ」
それは否定できなかった。
父は母に言われれば、文句を言いながらも最後には従う。
「だから、あなたはあなたの旅の準備をしなさい」
母はそう言って、籠を持ち上げた。
フクリが受け取ろうとすると、手で制される。
「これは私が持つ」
「重いだろ」
「これくらい持てます」
「でも」
「フクリ」
母の声は優しかったが、はっきりしていた。
「守るって、何でも代わりにやることじゃないのよ」
フクリは何も言えなかった。
自分は家族を守りたい。
そのために強くなろうとしている。
だが、両親は守られるだけの存在ではない。
父にも母にも、自分たちの生活がある。
息子がいなければ何もできないわけではない。
「……分かった」
「なら、今日は夕方まで休みなさい」
「棚だけ運んでから」
「休みなさい」
「はい」
フクリは素直に従った。
◇
家へ戻ると、父は工房で椅子を作っていた。
腰を痛めた後から、以前より慎重に作業するようになっている。
少なくとも、母が見ている時は。
「畑は終わったか」
「追い出された」
「何をした」
「働きすぎだって」
父は鉋を動かしながら笑った。
「母さんにそんなことを言われる奴は珍しいな」
「父さんも言われてるだろ」
「俺は仕事だから別だ」
「腰を痛めた時も同じこと言ってたよ」
「昔の話だ」
「一年も経ってない」
父は聞こえなかったふりをして、木を削り続けた。
フクリは工房の隅に置かれた椅子へ座る。
子供の頃から何度も見てきた光景だった。
父の手が木の上を動く。
荒れた表面が少しずつ滑らかになる。
削りすぎれば戻せない。
足りなければ、もう一度削る。
父は急がない。
同じ動きを何度も繰り返す。
「父さん」
「ん?」
「俺がいない間、仕事を無理に増やさないでよ」
「お前がいなくても、今までやってきた」
「腰を痛めた」
「一度だけだ」
「一度あれば十分だろ」
「お前は母さんよりうるさくなったな」
父は作業を止め、椅子へ腰を下ろした。
「心配か」
「そりゃするよ」
「なら行くのをやめるか?」
フクリは答えなかった。
父も、すぐには続きを言わなかった。
工房の中へ、外から鳥の声が聞こえる。
「俺も、お前が町へ出た時は心配だった」
やがて父が言った。
「毎日、怪我をしてないか。騙されてないか。金を使い果たしてないか。考えればきりがなかった」
「そんなふうには見えなかった」
「見せてなかったからな」
「母さんには?」
「全部ばれてた」
「だろうね」
父は苦笑した。
「だが、お前は働いて、自分で生活して、時々帰ってきた。心配していても、俺にできることはほとんどなかった」
「うん」
「親が心配してるからって、子供が何もできなくなるのも違う」
父は、自分の手を見つめた。
小さな傷。
固くなった指。
長年木を扱ってきた手。
「お前が生まれた時は、小さかった」
「みんなそうだろ」
「黙って聞け」
「はい」
「抱いてるだけで壊れそうだった。少し咳をしただけで、病気じゃないかと思った。歩き始めれば転ばないか心配した。森へ行けば帰ってくるまで落ち着かなかった」
フクリは、父がそんなことを考えていたとは知らなかった。
子供の頃の父は、いつも大きく見えた。
何があっても慌てない。
何でも直せる。
困ることなどないように思っていた。
「でも、お前は大きくなった」
父が続ける。
「俺が何を言っても、自分で考えて動く。いつまでも家の中に置いておくことはできん」
「置かれても困る」
「だから黙って聞け」
「はい」
父は少し笑った。
「心配はする。帰ってくるまでは、ずっとな。だが、それはお前が行ってはいけない理由にはならん」
「……ありがとう」
「礼はいらん。その代わり、本当に帰ってこい」
「二年に一度」
「遅れたら?」
「できるだけ手紙を出す」
「それでも帰れなかったら?」
フクリは少し考えた。
旅先で怪我をする。
病気になる。
飛行船が動かない。
戦争や災害で道が塞がる。
二年に一度という約束を、必ず守れるとは限らない。
「帰れるようにする」
「答えになってないな」
「絶対に帰るって言って、守れなかった方が嫌だから」
「お前らしい」
父は頷いた。
「帰るために、無茶をするな。遅れてもいい。生きて帰れ」
「分かった」
「土産も忘れるな」
「そっちが本題?」
「半分はな」
以前も同じようなことを言っていた。
フクリは笑った。
◇
その日の夕食は、普段より少し豪華だった。
魚。
煮物。
母が育てた野菜。
フクリが好きだった甘い卵焼き。
「まだ旅立つ日じゃないよ」
食卓を見て言うと、母は気にした様子もなく答えた。
「帰ってきた時に作ってるだけ」
「前回もあったけど」
「偶然よ」
「次も出てきそうだな」
「嫌なら食べなくていいのよ」
「食べる」
母の卵焼きは、子供の頃から味が変わらない。
前世の記憶が戻った六歳の誕生日にも食べた。
あの日、自分が別の世界から転生した人間だと思い出した。
父と母は何も知らない。
目の前にいる息子が、前世の記憶を持っていることも。
念能力者であることも。
死ねば転生する能力を作ったことも。
フクリは時々、すべてを話したいと思う。
自分が何を考え、何を怖がり、何を目指してきたのか。
話せば、少しは理解してもらえるかもしれない。
だが、話したところで両親にできることはない。
むしろ、念能力者の世界へ関わらせることになる。
知らない方が安全だ。
「どうしたの?」
母に声をかけられた。
「何が?」
「卵焼きを見たまま止まってるから」
「味を覚えておこうと思って」
口へ入れる。
甘い。
少しだけ塩気がある。
何度も食べた味だった。
「次に帰ってきた時も作って」
「二年後?」
「うん」
「同じように作れるかしら」
「変わらないだろ」
「人の味覚も、料理の味も変わるものよ」
「じゃあ、その時の味でいい」
母は少し寂しそうに笑った。
「そうね」
◇
翌朝。
フクリは森へ向かった。
父からもらった古い虫取り網を持っている。
使うためではない。
子供の頃に何度も歩いた道を、同じ物を持って歩きたかった。
森の入り口。
川。
大きな木。
猪に似た獣と遭遇した場所。
初めてオーラを感じた木の根元。
ほとんどの景色は変わっていない。
変わったのは、自分の身体と考え方だった。
六歳の自分は、この世界が恐ろしかった。
何の力もない。
念の存在は知っているのに、使い方が分からない。
何かが起これば死ぬ。
父も母も守れない。
それが怖くて、五年間も答えの見えない修行を続けた。
今の自分は、あの頃より強い。
念を使える。
三つの能力もある。
絶に限れば、かなりの練度へ達している。
それでも、世界全体から見れば弱いままだ。
前世で知っている強者たちと比べる必要すらない。
名前も知らない念能力者にさえ、簡単に殺される可能性がある。
だから学びに行く。
強さを見せるためではない。
危険へ飛び込むためでもない。
いつか、誰にも自分の人生を邪魔されないだけの力を得るために。
◇
フクリは木の根元へ座った。
目を閉じ、絶へ入る。
全身からオーラが消える。
鳥の声。
葉の擦れる音。
川の流れ。
子供の頃と同じ音。
絶を覚える前は、ただ呼吸を小さくし、存在を薄くしようとしていた。
今は、自分のオーラが完全に閉じる感覚をはっきり理解できる。
何年もかけた。
ほかの基礎は、今も大した水準ではない。
それでも絶だけは、自分のものになりつつある。
世界へ出れば、本物の念能力者と会うだろう。
そこで初めて、自分の実力がどれほど低いか知るかもしれない。
絶も、達人だと思っていたのは自分だけかもしれない。
それでいい。
間違いを知るために行くのだ。
◇
絶を解いた後、フクリは虫取り網を見た。
丸い枠。
古くなった網。
父が削った木の柄。
旅へ持っていくには、役に立たない。
荷物になる。
壊れる可能性もある。
だから家へ置いていく。
フクリは地面に落ちていた小さな葉を、網ですくった。
もちろん、すぐに風で飛んでいく。
「何してるんだろうな」
自分で笑った。
六歳の誕生日。
この虫取り網をもらい、森で一日遊んだ。
その数日後、前世の記憶を取り戻した。
そこから人生の方向が変わった。
もし記憶が戻らなければ、自分はどうなっていただろう。
父の仕事を継いだかもしれない。
この村から出なかったかもしれない。
念を知らず、普通に歳を取ったかもしれない。
それも、悪い人生ではなかったと思う。
だが今の自分は、別の道を選んだ。
◇
家へ戻ると、母が旅用の衣服を並べていた。
「まだ準備は先でいいよ」
「先に作っておかないと間に合わないでしょう」
「町で買える」
「買った物より、こっちの方が丈夫よ」
厚手の上着。
着替え。
小さな布袋。
母が縫った物だった。
「全部持っていったら荷物になる」
「必要な分だけ選びなさい」
「作ったのに?」
「使わなかったら、帰ってきた時に着ればいいの」
「二年後には合わないかも」
「もう大きくならないでしょう」
「少しくらいは」
「横には大きくならないでね」
「気をつける」
母は衣服を畳みながら言った。
「寒い場所もあるんでしょう」
「あると思う」
「雨の多い場所も」
「地図には書いてないけど、多分」
「薬も持っていきなさい」
「大きな町で買えるよ」
「最初の分だけ」
母は、次々と旅に必要そうな物を用意していた。
心配だから行かせたくない。
それでも行くと決まれば、少しでも困らないように準備する。
その姿を見ていると、胸の奥が重くなった。
「母さん」
「何?」
「無理に賛成しなくていいよ」
母の手が止まった。
「賛成はしてないわ」
「はっきり言うね」
「行ってほしくないもの」
「うん」
「でも、反対しても行きたいんでしょう」
「……うん」
「なら、帰ってこられるように準備するしかないじゃない」
母は衣服を畳み直した。
「帰ってきた時に、行かせなければよかったって言えるように」
「帰ってきたのに怒られるの?」
「心配した分は怒るわよ」
「じゃあ帰りづらいな」
「帰らなかったら、もっと怒る」
「それは怖い」
「覚えておきなさい」
フクリは笑った。
母も、ほんの少し笑った。
◇
町へ戻る前の夜。
三人で食卓を囲んだ後、フクリは旅の予定をもう一度説明した。
「まず町へ戻って、仕事を辞める話をする」
「急に辞めて迷惑をかけるなよ」
父が言う。
「引き継ぎはする」
「宿は?」
「出発まで借りる。荷物をまとめたら引き払う」
「飛行船はいつ?」
「一か月半くらい先。まだ空きがある便を探してる」
「行き先は決まったの?」
母が尋ねる。
「最初は大陸側の大きな港町。そこから先は、情報を集めて決める」
「何年旅するんだ」
「次にメモリが……」
言いかけて、フクリは止まった。
「五年くらい」
言い直す。
「どうして五年?」
「区切りがいいから」
母は少し疑わしそうだったが、それ以上聞かなかった。
「二年に一度帰るなら、五年の間に二回か」
父が指で数える。
「二年後と四年後。五年で旅を終えるなら、その後にも帰る」
「一回の帰省で三か月使うのね」
「移動が往復二か月。村に一か月」
「旅の時間が減るぞ」
「いいよ」
「せっかく行くのに?」
「家へ帰るのも旅の予定に入ってるから」
フクリにとって、帰省は旅を中断する時間ではない。
最初から必要な時間だった。
世界を見たい。
念を学びたい。
それでも、父と母との時間を五年間すべて捨てるつもりはない。
どちらか一つを選ぶ必要はない。
時間と金はかかる。
効率も悪い。
だが、人生は効率だけで決めるものではなかった。
◇
「手紙は、どこへ送ればいい?」
母が尋ねた。
「旅先が決まったら知らせる。大きな町の郵便局なら、一定期間預かってくれるらしい」
「あなたからも送れるのね」
「送るよ」
「月に一度」
「それは難しい」
「二か月に一度」
「移動中は送れないかもしれない」
「三か月に一度」
フクリは父を見る。
助けを求めたつもりだったが、父は視線を逸らした。
「分かった。出せる場所があれば、三か月に一度は出す」
「必ず?」
「必ずとは言えない」
「フクリ」
「できる限り出す」
母は不満そうだった。
だが、守れない約束をするつもりはない。
「手紙が来なくても、すぐ死んだと思わないで」
「そんなこと言わないで」
「でも、飛行船の上からは出せないだろ」
「分かってるけど」
「便が遅れることもある。郵便が届かない可能性もある」
「それでも心配するのが母親なの」
「うん」
フクリは頷いた。
「だから、出せる時は出す」
母は、ようやく納得したように小さく頷いた。
◇
翌朝。
町へ戻るフクリを、父と母が家の前まで見送った。
まだ旅立ちではない。
一か月ほどすれば、準備を終えてもう一度帰ってくる。
それでも母は、いつもより長く荷物を確認した。
「着替えは?」
「ある」
「財布は分けてる?」
「分けてる」
「食べ物は?」
「町までなら必要ない」
「水は?」
「持ってる」
「怪我は?」
「してない」
「本当に?」
「昨日から聞いてるよ」
「確認よ」
父は隣で笑っている。
「母さんは、旅立つ日には百回くらい聞くだろうな」
「父さんも止めてよ」
「俺が言って止まるか?」
「止まらない」
「なら諦めろ」
「あなたも少しは心配して」
「してる」
父は短く答えた。
それだけだったが、フクリには十分だった。
「行ってくる」
「まだ旅じゃないでしょう」
母が言う。
「町へ戻るだけ」
「それでも、行ってくるで合ってるだろ」
「そうだけど」
「次に帰ってきたら、出発前だな」
父が言った。
「うん」
「なら、それまでに旅の予定を全部整理してこい」
「分かった」
「必要な道具があれば言え。作れる物なら作る」
「ありがとう」
フクリは二人へ手を振り、村の道を歩き始めた。
◇
少し進んだところで振り返る。
父と母は、まだ家の前に立っていた。
母が手を振る。
父は腕を組んだまま、こちらを見ている。
旅へ出れば、二年間この光景を見ることはない。
次に帰った時、二人は少し歳を取っている。
自分も変わっているだろう。
何が起きるかは分からない。
それでも、必ず戻りたい。
転生能力があるからではない。
死んでも次があるからではない。
今の人生で。
今の身体で。
この二人の息子として。
家へ帰る。
それが大切だった。
フクリは、もう一度大きく手を振った。
そして前を向く。
これから旅の準備をする。
仕事を辞める。
飛行船の切符を買う。
荷物を整える。
世界の地図と情報を集める。
やることは多い。
本当は面倒だった。
できることなら、誰かが全部準備してくれれば楽だと思う。
それでも、自分の旅だ。
自分で決めた。
自分で準備するしかない。
村の景色が、少しずつ遠ざかっていく。
フクリには、帰る場所がある。
だからこそ。
遠くへ行くことができた。