第1話 海の向こう
第1話 海の向こう
飛行船がジャポンの海岸線を越えてからも、フクリはしばらく甲板の手すりから離れなかった。
生まれ育った国が、少しずつ小さくなっていく。
海岸沿いの町は、すでに建物の形を見分けられない。山々も青い影へ変わり、やがて空と海の間へ溶けるように消えていった。
村から、この場所は見えない。
当然、飛行船から村を見ることもできない。
それでもフクリは、霞んでいく大地の向こうに父と母がいるような気がして、なかなか目を離せなかった。
「……本当に出たんだな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
22年間、ジャポンで生きた。
前世の記憶が戻ったのは6歳。
念を探し始めたのも、その頃だった。
5年かけて念へ目覚め、11歳と6か月で『0.1%の積み重ね(複利)』を作った。
17歳と6か月で『容量判定(メモリー・ジャッジ)』を作り、22歳と3か月で『転生(死にたくないよ)』を完成させた。
最初に欲しかった3つの土台が、すべて揃った。
だから世界へ出ることにした。
もっとも、『転生』を得たからといって、死ぬことが怖くなくなったわけではない。
死ねば次の人生がある。
記憶も念能力も引き継げる。
それでも、今の人生は終わる。
父と母の息子として過ごす時間も、今の世界で築いた人間関係も、死んだ後には取り戻せない。
能力は命を軽くするものではなかった。
避けられない死を迎えた時、それまでの積み重ねを失わないための最後の保険だ。
死なない方がいい。
今も、その考えは変わっていなかった。
フクリはようやく手すりから離れ、船内へ戻った。
目的地までは約1か月。
帰りも同じだけかかる。
2年に1度ジャポンへ帰ると両親に約束しているため、帰省には往復で2か月、村での滞在に1か月を使うことになる。
合計3か月。
5年間の旅に対して、決して短い時間ではない。
旅費も高い。
それでも、その時間を惜しむつもりはなかった。
世界を見ることも大切だ。
念や武術を学ぶことも大切だ。
だが、父と母と過ごす時間も同じように大切だった。
人生は、効率だけで決めるものではない。
◇
フクリが購入したのは、飛行船で最も安い等級の切符だった。
部屋は4人で使う相部屋。
壁の左右に2段式の寝台が置かれ、中央には小さな机がある。それだけで部屋のほとんどが埋まっていた。
窓は小さい。
家具も古い。
寝台へ横になると、上の板が近くて圧迫感がある。
それでも屋根があり、横になって眠れる。
雨や風にもさらされない。
1か月の移動手段としては十分だった。
フクリの寝台は、入口から見て右側の下段だった。
上段には、ジャポンで仕入れた商品を大陸へ持ち帰るという商人。
向かいの下段には、大陸で仕事を探す予定の若い男。
その上段には、長年各地を旅しているという老人が泊まっていた。
最初に簡単な自己紹介をした後、商人がフクリへ尋ねた。
「お前は、何をしに大陸へ行くんだ?」
「しばらく世界を回ります」
「観光か?」
「それもあります。武術を学べる場所も探すつもりです」
「武術なら、ジャポンにも道場くらいあるだろう」
「俺のいた場所の近くには、ありませんでした」
「だからって、海を渡るか?」
「ほかの国も見たかったので」
商人はフクリの服と荷物を見た。
裕福な旅行者には見えないだろう。
衣服は丈夫だが、特別に上等ではない。荷物も必要最低限で、豪華な道具は一つもなかった。
「旅の金はどうした?」
「工事現場で貯めました」
「何年働いた?」
「16歳からなので、6年ほどです」
「その歳で6年か。よく貯めたな」
「大きな買い物をしなかっただけです」
「それが難しいんだよ」
商人は感心したように言った。
前世で株をしていた頃にも、似たような話を聞いたことがある。
金を増やすことより、途中で使わずに残す方が難しい。
念能力用のメモリも同じだった。
もっとも、フクリは完全に我慢できたわけではない。
本来なら使用可能メモリが900近くまで増えるのを待ってから、『容量判定』を作る予定だった。
だが、自分が正確に何メモリ持っているのか。
設計した能力に何メモリ必要なのか。
それが気になりすぎて、17歳と6か月で予定を前倒しした。
結果的には役立つ能力になった。
しかし、あれを我慢強さの証明として扱うのは少し違う。
「俺は、そこまで我慢強くないですよ」
「6年働いて旅費を貯めた奴が言うことか?」
「必要だったので続けただけです」
「それを世間では我慢強いって言うんだ」
フクリは、そういうものなのかと少し考えた。
本当は努力したくない。
朝は眠っていたい。
仕事へ行きたくない日も何度もあった。
簡単な道があるなら、そちらを選びたい。
それでも、後で困る方が面倒だったから働いた。
旅へ出るには金が必要だった。
未来の自分を楽にするために、今の自分が最低限働いただけだ。
自分では、努力家というより面倒を先払いしている感覚に近かった。
◇
飛行船での生活は、想像していたよりも退屈だった。
朝になれば食堂で簡単な食事を取る。
昼間は甲板か共有室で時間を潰す。
夜になれば相部屋の寝台で眠る。
途中で降りる場所はない。
天候が悪ければ甲板へ出ることも禁止される。
最初の2日ほどは、海や雲を眺めているだけでも楽しめた。
3日目には、同じ景色に慣れた。
4日目には、することがなくなった。
持ってきた本は数冊しかない。荷物を増やしたくなかったため、厳選して持ってきたものだったが、すべて読み終えてしまった。
「暇だな」
フクリは甲板の隅に座り、どこまでも続く海を眺めた。
旅へ出れば、毎日新しい出来事が起こるような気がしていた。
実際には、長距離移動の大半は待ち時間だった。
飛行船は進んでいる。
自分は乗っている。
それ以外にできることは、ほとんどない。
だが待つことには慣れている。
念へ目覚めるまでに5年。
『容量判定』を作るまでに6年。
そこから『転生』を作るまでにも、さらに数年待った。
次に使用可能メモリが1000へ戻るまでにも、およそ5年かかる。
1か月など、これまで待った時間と比べれば短い。
フクリは、人の少ない時間を選んで念の基礎修行を行うことにした。
もちろん、周囲に念能力者だと気づかれない範囲で。
◇
まずは纏。
身体から漏れ出すオーラを、自分の周囲へ留める。
仕事中にも薄く使い続けていたため、日常動作をしながら維持する程度なら、以前より安定している。
次に練。
身体の奥から、普段より多くのオーラを生み出す。
こちらは、何年続けても得意にならなかった。
力を込めすぎれば、肩や首が硬くなる。
呼吸が乱れる。
オーラを増やすつもりが、単に全身へ力を入れているだけになることもある。
凝。
目へオーラを集める。
集中すれば、それらしい感覚はある。
だが目へ集めた分、身体の別の場所が薄くなる。
流を使おうとすれば、オーラの移動に意識を取られ、身体の動きが遅くなる。
どの技術も、一応は使える。
しかし滑らかさがない。
基本を切り替えるたび、どこかが崩れる。
「10年以上やって、これか」
落ち込んでいるわけではない。
事実を確認しただけだった。
念があると知っていた。
どのような基本技があるかも、大まかには知っていた。
その状態で念へ目覚めるまで5年かかった。
才能があるとは思えない。
ゴンやキルアのような天才と比べれば、明らかに下だ。
正しい師匠へ教われば、多少は改善するだろう。
だが、長く続けたという理由だけで達人になれるとは考えていなかった。
才能。
環境。
指導。
実戦経験。
どれも足りない。
唯一、自信があるのは絶だった。
◇
人の少ない船尾へ移動する。
近くにいるのは、海を眺める乗客が2人。
こちらへ注意を向けている様子はない。
フクリは手すりの近くに立ち、絶へ入った。
意識した瞬間、身体から漏れていたオーラが閉じる。
風の冷たさが強くなる。
飛行船の振動。
船体が風を切る音。
海から漂ってくる湿った匂い。
オーラによる保護が消えたことで、外からの刺激が鮮明になった。
呼吸を小さくする。
足音を消す。
服が風で鳴らないよう、身体の向きを調整する。
視線を一点へ置かない。
念へ目覚める前から続けていた、気配を薄くする技術。
そこへ絶を重ねる。
自分の存在を、船体の音と風景へ溶かしていく。
しばらくして、近くにいた乗客の1人が振り返った。
男の視線が、フクリの上を通り過ぎる。
もう一度周囲を見る。
何かを探しているようだった。
フクリが絶を解く。
「あっ」
男が小さく声を漏らした。
「どうしました?」
「いや……さっきから、そこにいたか?」
「いましたよ」
「そうか。急に現れたように見えた」
「海を見すぎたんじゃないですか」
「そうかもしれん」
男は納得しきれない顔のまま、船内へ戻っていった。
一般人には、十分通じる。
だが、念能力者が相手なら話は別だ。
円を使われれば見つかる。
凝で見られれば、絶によってオーラが消えていることを不審に思われる可能性がある。
そもそも絶を使える時点で、自分が念能力者だと示しているようなものだ。
フクリは周囲を見回した。
この飛行船には数百人が乗っている。
念能力者が1人もいないと、勝手に決めつけていた。
「少し浮かれてるな」
旅へ出たばかりで、警戒が甘くなっている。
フクリは、それ以降、共有空間で絶を使うのをやめた。
修行するなら、個室か、人が絶対に来ない場所を確保してから。
安全に強くなるための修行で、自分の情報をばらまいては意味がない。
◇
出発から10日ほど経った頃、飛行船は大きな嵐へ入った。
船体が激しく揺れる。
窓の外には、黒い雲と雨しか見えない。
甲板は閉鎖され、乗客は客室や共有室へ集められた。
フクリは自分の荷物を寝台へ固定した。
母から持たされた食べ物。
衣服。
旅費。
父が作った木箱。
その中には、念能力の設計書が入っている。
すべてを紐で結び、船が傾いても床を滑らないようにする。
向かいの寝台にいる若い男は、青い顔で木枠へしがみついていた。
「落ちないよな?」
「俺に聞かれても分かりません」
「飛行船は安全なんだろ?」
「絶対に事故が起きない乗り物はないです」
「今言うことか、それ!」
「大丈夫だと断言して、落ちた方が嫌でしょう」
「少しくらい安心させろよ!」
フクリも怖かった。
飛行船が落ちれば、今の自分ではどうしようもない。
空を飛ぶ能力はない。
落下速度を抑える能力もない。
高所から落ちても耐えられる身体ではない。
『転生』はある。
死ねば次の人生へ進める可能性が高い。
だが、それは今の人生が終わるということだ。
旅を始めて10日。
父と母へ2年後に帰ると約束した。
まだ何も学んでいない。
こんなところで死ぬのは、絶対に嫌だった。
船体が大きく傾く。
荷物の1つが固定から外れ、床を滑った。
フクリは手を伸ばして押さえる。
纏を厚くする。
飛行船そのものが墜落すれば、ほとんど意味はない。
それでも荷物や人へぶつかった時の怪我は減らせる。
今できることをする。
それしかない。
◇
「船は落ちんよ」
上段の寝台から、老人の声がした。
これまでほとんど会話へ加わらなかった旅人だった。
白い髪。
細い身体。
年齢は70歳前後に見える。
いつも寝台で古い本を読んでいた。
「分かるんですか?」
向かいの若者が尋ねた。
「飛行船が大きく揺れているのは、風を避けながら進んでいるからだ。本当に危険なら、船員は高度を下げるか進路を変える」
「でも、すごい揺れですよ」
「これくらいなら、船員は慣れておる」
「絶対ですか?」
「絶対など知らん」
「じゃあ安心できないじゃないですか!」
老人は本から顔を上げることなく答えた。
若い男は、さらに不安そうな顔になった。
フクリは老人の身体を見た。
落ち着きすぎている。
船がこれほど揺れているのに、姿勢がほとんど崩れていない。
寝台へ身体を固定している様子もない。
足と腰を使い、船体の動きに自然と合わせている。
単に旅慣れているだけかもしれない。
だが、それだけではないように見えた。
「よく飛行船に乗るんですか?」
フクリが尋ねた。
「年に何度かはな」
「武術をやっています?」
老人が初めて本から視線を上げた。
「なぜ、そう思う」
「揺れても身体の軸が動いていないので」
「見ていたのか」
「少しだけ」
老人は、今度はフクリの姿勢を眺めた。
「お前も、似たようなものだろう」
「俺は寝台をつかんでいます」
「それだけではない」
老人は意味ありげに笑い、再び本へ視線を落とした。
フクリはそれ以上尋ねなかった。
念能力者かもしれない。
単なる武術家かもしれない。
少なくとも、普通の老人ではなさそうだ。
相手から何も聞かれないなら、自分から近づく必要はない。
◇
嵐は半日ほどで過ぎた。
飛行船は少し予定から遅れたものの、大きな損傷はなかった。
甲板が再び開放される。
乗客たちは外へ出て、晴れた空を見上げていた。
「生きてる……」
同室の若い男が、手すりへもたれかかる。
「大げさですよ」
「お前だって怖かっただろ」
「怖かったです」
「顔に出てなかったぞ」
「顔に出しても安全にはならないので」
「お前、若いのに爺さんみたいだよな」
「昔から言われます」
6歳の頃にも、友人から似たようなことを言われていた。
前世の記憶を含めれば、精神的には長く生きている。
だが、自分では大人びているとは思わない。
好奇心に負けて『容量判定』を予定より早く作った。
努力はしたくない。
楽な方へ流れたい。
死ぬのが怖い。
大人というより、心配性なだけかもしれなかった。
◇
嵐の日を境に、フクリは同室の老人と少しずつ話すようになった。
老人の名前はゲンゾウ。
若い頃から決まった職を持たず、各地を旅してきたらしい。
「武術を学べる場所を探していると言ったな」
ある日の夕方、共有室でゲンゾウが尋ねた。
「はい」
「何のためだ」
「強くなるためです」
「強くなって、何をする」
「安全に暮らします」
ゲンゾウは一瞬黙った。
その後、声を立てて笑った。
「強くなって戦いたい、とは言わんのか」
「戦えば危ないでしょう」
「強者へ挑むために武術を学ぶ者もいる」
「そういう人もいるでしょうね」
「お前は違うと」
「戦わずに済むなら、その方がいいです」
「それでも強くなりたい」
「俺が戦いたくなくても、相手が戦わないとは限らないので」
ゲンゾウは目を細めた。
「臆病だな」
「そうですね」
フクリは否定しなかった。
臆病であることを恥じるつもりはない。
危険を正しく恐れることは、生き残るために必要だ。
「だが、嫌いではない」
「何がですか」
「自分が臆病だと認める者だ。臆病なくせに勇敢なふりをする者より、よほど長生きする」
「そうだといいですね」
「武術の道場なら、大陸にいくつもある」
「おすすめはありますか?」
「何を学びたい」
「基礎からです」
「武術経験は?」
「自己流なら、10年以上です」
「10年?」
ゲンゾウは少し驚いたように、フクリの全身を見る。
「その割に、立ち方が妙に素直だな」
「どういう意味ですか」
「自己流を10年も続ければ、普通はもっとひどい癖がつく」
「褒めてます?」
「半分はな」
父と同じ言い方だった。
「残り半分は?」
「10年続けた者の立ち方には見えん」
「才能がないので」
フクリが答えると、ゲンゾウの表情が僅かに変わった。
同情ではない。
何かを確かめるような視線だった。
「才能がないと分かっていて、10年続けたのか」
「途中でやめたら、それ以降は何も増えないでしょう」
「続けても達人になれんかもしれんぞ」
「何もしないよりは、少し強くなれます」
「少しで満足か」
「少しでいいとは言ってません。少しずつでも続けるという意味です」
ゲンゾウはしばらく黙った。
やがて、静かに笑う。
「なら、心源流を見に行くといい」
フクリは、その名前を知っていた。
前世で読んだHUNTER×HUNTERに登場する流派。
ネテロ。
ビスケ。
ウイング。
彼らへつながる武術。
だが、この時代の心源流がどこにあるのか。
誰が教えているのか。
どの程度知られているのか。
そうしたことは何も分からない。
フクリは知らないふりをして聞いた。
「心源流?」
「ああ。最近できた新しい武術流派だ」
「新しいんですか」
「まだ歴史は浅い。だが、今かなり話題になっている」
「どうして?」
「創設に関わった者たちが強い。それに、従来の武術とは考え方が少し違うらしい」
古い名門ではない。
大陸で長く受け継がれてきた伝統武術でもない。
新しく生まれ、急速に注目を集めている流派。
それが、この時代の心源流だった。
「流行っている武術ということですか」
「流行り物と呼ぶ者もいる。実力のある新流派と評価する者もいる。新しいものを嫌う武術家からは、随分と目の敵にされているようだ」
「安全じゃなさそうですね」
「なぜそうなる」
「目の敵にされているなら、揉め事が起きるでしょう」
「実際、道場破りは多いらしい」
「ほかの道場にします」
「判断が早いな」
「わざわざ道場破りの来る場所へ行く理由がありません」
「だが、今最も勢いのある流派の1つだ。自己流の限界を感じているなら、見に行く価値はある」
「見学だけでもできますか?」
「師範次第だろう」
「師範はどんな人です?」
「デスロという男だ」
その名前に、フクリは覚えがなかった。
原作には登場していない。
少なくとも、前世の自分が覚えている範囲では知らない人物だ。
「強いんですか?」
「道場破りを何人も追い返している」
「本人が?」
「ほとんどはな」
「けが人は出ています?」
「細かいことまで知らん」
「そこが大事なんですけど」
ゲンゾウは呆れた顔をした。
「お前は本当に武術家を目指しているのか?」
「武術家になりたいわけではありません。武術を学びたいだけです」
「違いがあるのか」
「戦いを仕事にしたくないので」
フクリが目指すのは、誰にも邪魔されない個人としての最強。
それは武術家として名を上げることではない。
道場を持つことでもない。
強者へ挑み続けることでもない。
必要な技術を学び、自分の人生を守れるようになればいい。
◇
「なぜ心源流を勧めるんです?」
フクリは尋ねた。
「新しい流派なら、教え方も固まっていないかもしれない。古い流派の方が安全で確実では?」
「普通なら、そう考えるだろうな」
ゲンゾウは頷いた。
「だが心源流は、武術の形だけを覚えさせる流派ではないと聞く。身体の使い方、呼吸、精神、個人の性質。そうしたものを見て、弟子ごとに鍛え方を変えるらしい」
「弟子ごとに?」
「あくまで噂だ」
フクリは考えた。
自分には、武術の才能がない。
10年以上自己流で修行しても、まともな実戦能力は身についていない。
全員へ同じ型を教える道場へ入っても、周囲についていけない可能性が高い。
個人ごとに鍛え方を変える流派なら、自分にも合う方法が見つかるかもしれない。
「最近、武術家の間では心源流の話が多い」
ゲンゾウが続ける。
「新しいくせに実力者を出している。創設者の1人は、今のハンター協会会長だという話もある」
「ハンター協会の会長?」
フクリは知らないふりをして聞き返した。
「知らんのか」
「ジャポンの田舎出身なので」
6歳の頃、父へアイザック=ネテロを知っているか尋ねた。
父は知らなかった。
当時は、自分たちが一般人だから知らないのだと思っていた。
だが、単に時代が早すぎただけだった。
ネテロは、まだハンター協会会長になっていなかった。
「名前は?」
「アイザック=ネテロ」
予想していた名前だった。
それでも実際に聞くと、胸が僅かに高鳴った。
この時代のネテロは60歳。
すでにハンター協会会長となり、心源流の名が広がる理由の1つになっている。
ゴンたちと出会う頃より、約50年若い。
容姿も。
強さも。
考え方も。
前世で知っている老人とは違う可能性がある。
「強いんですか?」
「協会会長になる程度にはな」
「肩書と強さは別でしょう」
「本人へ言ってみろ」
「会うつもりはありません」
フクリは即答した。
興味はある。
前世で知っている人物を、実際に見てみたい気持ちもある。
だが、あまりにも強い相手へ近づくことには危険がある。
念を使えることを見抜かれる。
特質系だと知られる。
能力の内容へ興味を持たれる。
フクリは戦闘用の発を1つも持っていない。
今のネテロがどの程度強いのかは分からないが、敵対すれば逃げることすら難しいだろう。
心源流で武術を学ぶ。
ネテロとは会わない。
それが理想だった。
「会長が、心源流の道場へ来ることは?」
念のため尋ねる。
「協会の仕事がある。滅多に来ないだろう」
「なら安心です」
「なぜ安心する」
「偉い人へ会うと、面倒そうなので」
「お前は、本当に夢がないな」
「楽しく暮らすのが夢です」
「そのために海を渡って武術を習うのか」
「楽しく暮らすには、それなりの準備が必要です」
ゲンゾウは、しばらくフクリの顔を見た後で笑った。
「心源流へ行ってみろ。入門するかどうかは、見てから決めればいい」
フクリはすぐに答えなかった。
新しい流派。
今、話題になっている。
教え方も従来とは違う。
ハンター協会会長のネテロが関わっている。
道場破りが多いという問題はある。
だが師範が追い返しており、今のところ大きな被害はないらしい。
何より、次に作ろうとしている念能力のためにも、武術を学ぶ価値はあった。
◇
フクリには、すでに次の念能力案があった。
時間とともに身体能力を高める能力。
能力を発動した瞬間の身体能力を、基準となる100とする。
その後、7日ごとに身体能力を1%ずつ上昇させる。
7日間かけて肉体を新しい強さへ慣らし、急激な変化による負担を防ぐ。
筋力だけではない。
速度。
反応。
骨。
内臓。
皮膚。
身体を構成する要素を、全体として少しずつ強くする。
皮膚については、成長に合わせて硬質化させる。
寿命そのものを伸ばす効果は持たせない。
上限も設けない。
仮の能力名は、まだ決まっていなかった。
『力は全てを凌駕する』
その言葉を中心に設計しようと考えている。
必要メモリは、おそらく500前後。
だが、まだ『容量判定』へかけられるほど条件を詰められていない。
問題も多い。
身体能力とは、どこまでを指すのか。
筋力だけが増えれば、骨や腱が耐えられない。
速度が上がっても、反応が追いつかなければ事故になる。
内臓が変化しなければ、強くなった身体を維持できない。
皮膚を硬くしすぎれば、柔軟性や感覚を失う可能性がある。
さらに、発動した瞬間を100とする設定には大きな意味がある。
能力作成時の身体が弱ければ、その後に増える1%も小さい。
反対に、能力を作る前に身体を鍛えれば、同じ1%でも増える量は大きくなる。
ならば、使用可能メモリが1000へ戻るまでの約5年間。
その時間を使い、可能な限り基準となる身体を高めた方がいい。
武術の才能がなくても構わない。
5年間で達人になろうとは思っていない。
基礎を正しく学び、今よりそこそこの実力になれればいい。
それだけでも、発動時の100は大きくなる。
「……分かりました」
フクリはゲンゾウへ答えた。
「心源流を見に行きます」
「入門するのか?」
「道場と師範を見て、安全そうなら」
「そこは変わらんのだな」
「安全は大事なので」
ゲンゾウは呆れながらも、どこか楽しそうに笑った。
◇
出発から20日を過ぎた頃、海の景色に変化が現れた。
小さな島が見える。
漁船が増える。
空を飛ぶ鳥の数も多くなった。
大陸が近づいている。
飛行船の乗客たちも、少しずつ荷物の整理を始めた。
フクリも自分の荷物を確認する。
旅費。
地図。
衣服。
薬。
父からもらった杖。
念能力の設計書を入れた木箱。
すべて揃っている。
盗まれた物もない。
体調も悪くない。
大きな事件へ巻き込まれることもなかった。
旅の始まりとしては、十分に成功だった。
使用可能メモリも増えている。
『転生』を作った直後の100から、毎日0.1%ずつ。
1か月程度では、大きな違いはない。
それでも止まってはいない。
飛行船で眠っている間も。
嵐に怯えていた間も。
ゲンゾウと話していた間も。
時間は、少しずつ未来の可能性へ変わっている。
◇
到着予定日の朝。
甲板へ出ると、水平線の先に細い大地が見えた。
最初は、海と空の境目に引かれた線のようだった。
飛行船が進むにつれ、山の形が見える。
建物。
港。
巨大な発着場。
ジャポンとは異なる形の屋根。
見たことのない服を着た人々。
知らない国だった。
前世の漫画で、この世界の一部を知っている。
だが、物語に描かれた場所以外は何も知らない。
まして、ゴンたちが生まれるより56年前。
町の形も。
国の情勢も。
有名な人物も。
前世の知識とは異なる可能性が高い。
「着いたな」
隣へ立ったゲンゾウが言った。
「1か月、長かったです」
「これからの旅の方が長いぞ」
「心源流までは、どれくらいです?」
「港から内陸へ向かって、乗合馬車で10日ほどだ」
「思ったより遠いですね」
「心源流へ行くなら、港の北側にある武具店を訪ねろ。店主が道場の関係者だ。最近は見学や入門希望者が増えているから、道を尋ねればすぐ分かる」
「そんなに話題なんですか」
「新しい流派が、短期間で実力者を倒し続けている。興味を持つ者も、気に入らない者も多い」
「道場破りが増えるわけですね」
「そういうことだ」
「やっぱり別の道場にしようかな」
「ここまで話して、まだ言うか」
「見るだけは見ます」
フクリは大陸へ視線を戻した。
心源流。
今、話題になっている新しい武術。
師範デスロ。
ハンター協会会長となった60歳のネテロ。
そこに13歳のビスケット=クルーガーがいることを、フクリはまだ知らない。
前世の知識では、ビスケが何歳で心源流へ入ったのかまでは分からなかった。
そもそも、この時代の心源流について知っていることはほとんどない。
ネテロに会うつもりもなかった。
ただ、武術の基礎を学ぶ。
次の念能力を作る時、その基準となる身体を少しでも強くする。
そのために、話題の新流派を見学する。
今のところは、それだけだった。
◇
飛行船がゆっくり高度を下げる。
大地が近づく。
船体が発着場へ接続され、乗客たちが順番に出口へ向かった。
フクリも荷物を背負い、列へ加わる。
足が地面へ触れた。
1か月ぶりの、揺れていない大地だった。
周囲には、聞き慣れない言葉や訛りが飛び交っている。
食べ物の匂い。
機械の音。
荷物を運ぶ人々の声。
飛行船を見上げる子供たち。
すべてが新しい。
ここでは、フクリを知る者はいない。
父も母もいない。
困った時に頼れる仕事仲間もいない。
何が安全で。
誰を信用できるのか。
すべて自分で判断しなければならない。
不安はあった。
だが、足は止まらなかった。
まず宿を探す。
次に町の地図を買う。
その後、北側の武具店へ行く。
話題の心源流について、詳しい情報を集める。
道場が危険そうなら別の場所を探す。
安全そうなら見学する。
師範デスロが信頼できる人物なら、入門を頼む。
目的が決まっているだけで、知らない町も少し歩きやすくなる。
フクリは発着場を出た。
その時の彼は、まだ知らなかった。
新しく作られた心源流の道場に、13歳の少女がいることを。
少女の名が、ビスケット=クルーガーであることを。
そして、会わずに済ませたいと考えているハンター協会会長が、ちょうど道場へ戻ってきていることを。
フクリの5年間の旅。
その最初の目的地は偶然にも、この時代を代表する念能力者たちが集まり始めた場所になろうとしていた。