第5話 70歳の会長
道場の奥から現れた男を見た瞬間、フクリの意識は周囲の音を置き去りにした。
アイザック=ネテロ。
70歳。
現在のハンター協会会長。
前世で知っている姿より、遥かに若い。
老人ではない。
髪も黒く、背筋は真っすぐ伸びている。
頬や目元に年齢は感じるものの、身体は現役の武術家そのものだった。
道着の袖から見える腕は太い。
無駄に膨らんでいるわけではない。
必要な筋肉だけが、長い修行によって削り出されたようについている。
歩き方も静かだった。
デスロとは違う。
デスロは隙がない。
ネテロは、隙があるように見えるのに近づきたくない。
両手は空いている。
構えてもいない。
こちらへ敵意を向けてもいない。
それでも、もし突然攻撃されたとして、自分が何かできるとは思えなかった。
逃げる。
防ぐ。
絶へ入る。
どれも間に合わない。
フクリは見つめすぎないよう、すぐに視線を外した。
前世で知っている人物だと悟られてはいけない。
もっとも、顔を見ただけで正体を知られるはずはない。
それでも相手はネテロだ。
余計な反応は見せない方がいい。
「会長」
弟子の1人が頭を下げた。
ほかの門弟たちも、それに続く。
バルガだけは拳を構えたまま、ネテロを見ていた。
「今のが、ハンター協会の会長か」
バルガの声には興奮が混じっていた。
フクリは嫌な予感がした。
この男は、強い相手へ挑むために心源流まで来た。
目の前には、心源流と関係の深いハンター協会会長。
どう考えても、黙って見送る性格ではない。
「面白そうな客って、どっちのこと?」
ビスケが尋ねた。
ネテロは顎へ手を当て、フクリとバルガを順番に見た。
「どちらもじゃな」
「こっちの地味な方は弱いわさ」
「見れば分かる」
「みんな同じこと言うな」
フクリは小さく呟いた。
誰にも聞こえないつもりだった。
だが、ネテロの口元が僅かに上がった。
聞こえていたらしい。
◇
「お前がネテロか」
バルガが前へ出た。
弟子たちの間に緊張が走る。
「呼び捨てとは威勢がいいのう」
ネテロは気にした様子もなく答えた。
「俺はバルガ。拳闘を15年やってきた」
「ほう」
「心源流へ勝負を挑みに来た」
「そうか」
「そして、今はお前と戦いたい」
予想どおりだった。
フクリは心の中でため息をつく。
会ったばかりのハンター協会会長へ、迷いなく勝負を挑む。
ある意味では尊敬できる。
自分には絶対に真似できない。
ネテロは怒らなかった。
むしろ楽しそうにバルガを見る。
「わしと?」
「ああ」
「心源流へ挑みに来たのではなかったか?」
「流派の一番強い奴と戦えば十分だろ」
バルガの言葉に、弟子たちがざわつく。
デスロは何も言わない。
ビスケは呆れた顔をしていた。
「この人、死にたいのかしら、だわさ」
「多分、死ぬつもりはないと思う」
フクリが答える。
「それで会長に挑む方がおかしいわさ」
「本人には勝てる可能性が見えてるのかも」
「見えてないから挑むって言ってたでしょ」
「そうだった」
バルガは、ネテロ以外の声など聞こえていないようだった。
「受けるのか?」
問いかける。
ネテロは少し考えた後、首を横へ振った。
「嫌じゃ」
バルガの顔が固まった。
「何?」
「面倒じゃから嫌じゃ」
「逃げるのか?」
「そう思いたければ、そう思えばよい」
挑発にも反応しない。
バルガは苛立ったように一歩前へ出た。
「協会会長が、勝負も受けられないのか」
「協会会長じゃから、道場破りの相手をせねばならん決まりはない」
「なら、無理にでも戦わせる」
バルガの足が地面を蹴った。
速い。
フクリと山道を歩いていた時とは別人だった。
距離を一気に詰め、右拳をネテロの顔へ向ける。
右拳を3度壊している。
デスロにそう指摘された拳。
それでもバルガが最も信頼している一撃なのだろう。
「危ない!」
誰かが叫んだ。
だが。
ネテロは動かなかった。
少なくとも、フクリにはそう見えた。
バルガの拳が顔へ届く直前。
乾いた音が1度だけ響いた。
◇
次の瞬間、バルガは地面へ座っていた。
何が起きたのか分からないように、自分の身体を見下ろしている。
右腕は伸びたまま。
拳は、ネテロの顔から指1本分ほど離れた位置で止まっていた。
ネテロは最初と同じ場所に立っている。
構えも取っていない。
ただ、右手の人差し指だけが、バルガの額へ触れていた。
「今、何をした?」
バルガが尋ねる。
「押した」
「嘘をつけ」
「では、少し速く押した」
ネテロは指を離した。
バルガは立ち上がろうとした。
だが、脚へ力が入らないらしい。
再び地面へ座り込む。
「身体の力を、一瞬抜かれたわさ」
ビスケが言った。
「見えたの?」
フクリが尋ねる。
「一応ね。でも、会長がかなりゆっくりやったからよ」
「あれで?」
「あれで、だわさ」
フクリには何も見えなかった。
バルガが拳を放ち。
音が鳴り。
気づけば勝負が終わっていた。
ネテロが本気で動けば、認識すらできないだろう。
「勝負は終わりじゃ」
ネテロが言う。
「まだだ」
バルガが歯を食いしばる。
「立てておらん」
「立てれば続けるんだな」
「もう終わりじゃと言った」
「俺は認めてない」
「では、認めるまでそこへ座っておれ」
ネテロはバルガへの興味を失ったように、フクリへ視線を向けた。
バルガは悔しそうだった。
だが、追いすがることはできない。
「無理をしない方がいいですよ」
フクリが声をかける。
「お前に言われたくない」
「右拳、また壊しますよ」
バルガは自分の拳を見た。
攻撃は届いていない。
それでも、踏み込みの衝撃で古傷に痛みが出たらしい。
ゆっくりと拳を開いた。
「……強かった」
短く呟く。
声に悔しさはあった。
しかし、負けたことを否定し続けるつもりはないようだった。
◇
「さて」
ネテロがフクリの前へ立った。
近い。
数歩の距離。
逃げようと思えば逃げられる。
もちろん、ネテロが追わなければの話だ。
「お主が、新しい弟子かの?」
「今、入門を認めてもらいました」
「名は?」
「フクリです」
「ジャポンから来たそうじゃな」
デスロがすでに説明したのか。
あるいは、先ほどの会話を聞いていたのか。
「はい」
「武術は?」
「自己流です」
「念も自己流か」
フクリは一瞬だけ黙った。
見抜かれるとは思っていた。
問題は、どこまで見抜かれているか。
「念という名前は、さっき教えてもらいました」
「ほう」
「身体から漏れる力を留めたり、閉じたりはできました。でも、正式な呼び方は知りませんでした」
「誰にも習っておらんと?」
「はい」
ネテロはフクリの周囲を歩いた。
正面。
横。
背後。
品物を確認するような遠慮のない見方だった。
「会長」
ビスケが声をかける。
「その人、本当に何も知らないみたいだわさ」
「お主は信じたのか?」
「師範もそう判断したもの」
「デスロが?」
ネテロは師範を見る。
デスロが頷いた。
「名称を知らず、オーラ操作も体系化されていない。偶然目覚め、自力で試した者だろう」
「絶だけは上手いわさ」
ビスケが不満そうに付け加える。
「ほう。見せてみい」
「またですか?」
フクリが尋ねる。
「嫌か?」
「何度も見せるものでもないと思いまして」
「減るものでもあるまい」
断る理由もなかった。
フクリは周囲を確認する。
ネテロ。
デスロ。
ビスケ。
心源流の弟子たち。
道場破りに敗れたバルガ。
敵意はない。
フクリは全身から漏れるオーラを閉じた。
◇
絶へ入る。
今は、その名前を知っている。
全身の精孔を閉じ、オーラの流出を止める。
呼吸。
視線。
身体の力。
長年磨いてきた気配を消す技術も重ねる。
先ほどデスロたちへ見せた時と同じ。
隠さない。
手を抜かない。
いつもどおりに行う。
ネテロは、すぐ目の前に立っていた。
フクリを見ている。
目が合っているはずなのに、何を考えているのか分からない。
数秒後。
ネテロが突然、後ろを向いた。
「歩いてみい」
「絶のままですか?」
「そうじゃ」
フクリは音を立てないよう、横へ歩いた。
足裏を静かに地面へ置く。
服が擦れる音も抑える。
ネテロの背後へ回る。
立ち止まる。
「そこじゃな」
ネテロが振り向かずに言った。
正確に位置を当てられた。
「分かるんですね」
「見えなくなったわけではないからの」
「一般人には気づかれないことが多いです」
「一般人と比べても意味はない」
ネテロが振り返る。
「絶そのものは悪くない。気配の消し方もよく練られておる」
「ありがとうございます」
「しかし、考え方が狭い」
褒められた直後に落とされた。
「狭い?」
「見つからぬことだけを考えておる」
「そのための技術では?」
「それだけではない」
ネテロがフクリの胸元を指で軽く突いた。
「絶は、己のオーラを完全に閉じる。疲労を癒やし、気配を断ち、感覚を研ぎ澄ませる。使い方は1つではない」
「疲労回復には使っていました」
「それでも、お主の絶には逃げる意思が強すぎる」
フクリは少し驚いた。
技術を見ただけで、そこまで分かるものなのか。
「逃げるために練習したので」
「正直じゃな」
「悪いことですか?」
「悪くはない」
ネテロは笑った。
「生きるために逃げる。立派な目的じゃ」
「なら、狭くても問題ないのでは?」
「問題があるとは言っておらん。ただ、ほかの使い方を知らぬのは勿体ない」
ネテロはフクリの周囲をもう一度歩いた。
「絶へ入ったまま相手の懐へ入る」
「危なくないですか?」
「危ない」
「やりたくないですね」
「絶から一瞬で練へ移る」
「難しそうです」
「難しい」
「もっと楽な使い方は?」
「ない」
フクリは少し顔をしかめた。
「やはり、楽をしたがる男じゃな」
ネテロが楽しそうに言う。
「できれば努力はしたくないので」
「それで10年以上も同じ修行を続けたのか」
「必要だったので」
「なるほど」
ネテロは、少しだけ興味を持ったようだった。
◇
「念能力は作ったか?」
不意に質問された。
フクリの身体が僅かに強張る。
もっとも聞かれたくない話だった。
嘘をつくべきか。
正直に一部だけ話すべきか。
ネテロは、こちらの反応を見ている。
完全に隠せば、かえって疑われる可能性がある。
「あります」
フクリは答えた。
「いくつじゃ?」
「それも話す必要があります?」
「ない」
予想外に、ネテロはあっさり引いた。
「念能力は本人の命じゃ。知られたくなければ話す必要はない」
「助かります」
「ただし、師に教わらず能力を作ったなら、歪んでおる可能性はある」
「歪んでいる?」
「自分では便利なつもりでも、条件に穴がある。身体へ負担がある。思わぬ制約がついておる。そういうことじゃ」
フクリの能力は、『容量判定(メモリー・ジャッジ)』で設計を確かめている。
少なくとも必要メモリや条件は把握している。
だが、ネテロの言う歪みが絶対にないとは断言できない。
特に『転生(死にたくないよ)』は実際に発動を試せない。
完成した感覚はある。
『容量判定』でも完成と表示された。
それでも、死んだ時に本当に機能するかは分からない。
「能力を見せれば、分かりますか?」
フクリが尋ねる。
「ものによる」
「見せられない能力だったら?」
「死ぬまで分からんこともある」
まさに自分の転生能力だった。
「そうですか」
「見せる気になったか?」
「なってません」
「残念じゃ」
ネテロは笑った。
無理に聞き出そうとはしない。
そのことにフクリは少し安心した。
「念能力があるのに、纏や練の練度は低い」
ネテロが続ける。
「普通は、能力を作る前に基礎を整えるものじゃ」
「偶然できたので」
「能力が?」
「はい。身体の力を色々試していたら、形になりました」
完全な嘘だった。
だが、前世の知識と能力設計について話すよりは自然だ。
「どんな能力かも分からず作ったと?」
「作った後に、何となく使い方が分かりました」
デスロがフクリを見た。
疑っているのかもしれない。
だが、否定する材料はない。
ネテロはしばらく黙っていた後、大きく笑った。
「運のいい男じゃ!」
「そうでしょうか」
「念能力を作って生きておる。暴発もせず、身体も壊れておらん。運がいい」
「偶然にしては条件が整いすぎてない?」
ビスケが鋭い指摘をする。
フクリは彼女を見る。
「長く試してましたから」
「でも、名称も理屈も知らないんでしょ?」
「分からないなりに考えました」
「何年?」
「最初の能力を作るまでなら、5年くらいです」
これは一部本当だ。
念へ目覚めるまで5年。
その後、すぐに『0.1%の積み重ね(複利)』を作った。
「5年も偶然を待ったの?」
「気になることを試してただけです」
ビスケは納得していない顔だった。
だが、ネテロは気にしていない様子だった。
「偶然でも、自力でも、使えるようになったなら念能力者じゃ」
ネテロが言う。
「ただし、練度は低い」
「そこは何度も言われています」
「念を使えるだけで、自分を特別だと思ってはおらんか?」
「思ってません」
フクリは即答した。
「むしろ、使える人間に会うたび、自分が大したことないと分かります」
目の前にいるネテロ。
13歳のビスケ。
デスロ。
比較するまでもない。
自分の絶は高い練度にある。
だが、それだけだ。
戦えば簡単に負ける。
「よい」
ネテロが頷いた。
「自分の弱さを知る者は、少しだけ死ににくい」
「少しだけ?」
「知っておるだけでは、強くならんからの」
「それはそうですね」
「これから鍛えるか?」
「そのつもりです」
「何年?」
「まずは5年」
「なぜ5年じゃ?」
使用可能メモリが1000へ戻るまで。
その答えは言えない。
「旅に使う期間を5年と決めたので」
「5年でどこまで強くなりたい?」
「そこそこ」
ビスケが吹き出した。
「そこそこ?」
「武術の才能がないので、達人は無理でしょう」
「最初から諦めてるの?」
「目標を現実的にしてるだけです」
「5年もあるのに?」
「5年しかないとも言えます」
「そんな考えじゃ強くなれないわさ」
ビスケが苛立ったように言う。
フクリは彼女を見る。
「才能がある人には、そう見えるかもしれませんね」
「何よ、それ」
「ビスケさんは13歳で、俺より遥かに強い。武術も念も才能があるんでしょう」
「当然だわさ」
「俺は違います。5年やっても、あなたの今の実力に届かないかもしれない」
「やる前から決めつけてる」
「決めつけてはいません。可能性を考えてるだけです」
「同じよ」
「違いますよ」
初対面から突っかかってくる。
前世で知っているビスケも、才能や努力に厳しい人物だった。
13歳の今は、さらに感情が表へ出やすいらしい。
「2人とも、そこまでじゃ」
ネテロが間へ入った。
「ビスケ」
「何よ」
「才能のない者が、どこまで進むか見たいと思わんか?」
ビスケはフクリを見た。
顔には、明らかな不満がある。
「途中で逃げるに決まってるわさ」
「逃げてもよい」
「よくないでしょ!」
「逃げて、戻ってくることもある」
「そんなの格好悪い」
「格好よくなければ、強くなってはいかんのか?」
ビスケは言葉に詰まった。
ネテロは今度、フクリへ視線を向ける。
「フクリ」
「はい」
「お主は努力が嫌いだと言ったな」
「できれば、したくないです」
「では、嫌になったら逃げるか?」
「必要なら戻ります」
「戻らぬかもしれんぞ」
「その時は、その程度だったということです」
ビスケが呆れた顔をする。
ネテロは声を立てて笑った。
「正直でよい!」
◇
「師範」
ネテロがデスロへ向き直る。
「こやつの指導は面白そうじゃな」
「会長がするか?」
「嫌じゃ」
「言うと思った」
デスロは表情を変えずに答えた。
「協会の仕事があるのでしょう」
フクリが尋ねる。
「それもある」
「ほかには?」
「才能のある者を育てる方が楽しい」
「正直ですね」
「わしも楽な方が好きじゃ」
「同じですね」
「一緒にするでない」
理不尽だった。
「ただし」
ネテロはフクリの肩へ手を置いた。
軽い。
力は入っていない。
それなのに、身体が地面へ縫い付けられたように動かなくなった。
「絶だけは、わしも少し興味がある」
「動けないんですけど」
「逃げるための絶が、どこまで育つか」
「手を離してください」
「攻めるために使う気はないか?」
「危ないので」
「安全第二ではなかったか?」
フクリはネテロを見る。
なぜ、その言葉を知っている。
口にしたのは、港町で独り言として一度だけだったはずだ。
ネテロが聞いたはずはない。
「何の話です?」
「顔に書いてある」
「書いてません」
「旅へ出た男が、安全ばかり考えておる顔ではない」
適当に言っただけらしい。
それでも一瞬、心臓が跳ねた。
「絶は隠れるためだけの技術ではない」
ネテロが続ける。
「攻撃する直前まで存在を消す。相手の判断から自分を外す。オーラの切り替えで動きの調子を変える。使い方はいくらでもある」
「防御力がなくなるでしょう」
「当たらなければ問題ない」
「当たったら?」
「痛い」
「やはり嫌ですね」
ネテロは笑い、ようやく手を離した。
◇
「ビスケ」
地面へ座っていたバルガが声を上げた。
「俺との勝負はどうなった」
「会長に負けたでしょ、だわさ」
「あれはネテロとの勝負だ。心源流との勝負は終わっていない」
「面倒な人ね」
ビスケは菓子の袋を弟子へ投げ、自分の道着を整えた。
「立てるの?」
「もう動く」
バルガはゆっくり立ち上がった。
脚にはまだ僅かな震えがある。
それでも拳を構える。
「ビスケ」
デスロが言う。
「怪我をさせるな」
「どっちに?」
「両方だ」
「私が怪我するわけないわさ」
「油断するな」
ビスケの表情が僅かに引き締まった。
ネテロは庭の端へ移動し、腕を組んで見物する。
デスロも止める様子はない。
フクリも邪魔にならない場所へ下がった。
◇
「始め」
デスロの声と同時に、バルガが動いた。
先ほどネテロへ向けた時より慎重だった。
拳を構えたまま距離を詰める。
ビスケは構えすら取らない。
「子供だからって手加減しないぞ」
「したら怒るわさ」
バルガが左拳を放つ。
ビスケは首を僅かに傾けるだけで避けた。
続けて右。
今度は上体を反らす。
バルガの拳が空を切る。
速い。
フクリには、拳の軌道を目で追うだけでも難しい。
だがビスケは、余裕を持って避けている。
バルガが低い蹴りを放った。
ビスケの脚を狙う。
少女の小さな身体が跳ねた。
蹴りを越え、そのままバルガの肩へ片足で乗る。
「重い」
バルガが顔をしかめた。
「女の子に言う言葉じゃないわさ!」
ビスケの拳が、バルガの頭へ軽く落ちた。
軽く見えた。
だが、バルガの両膝が地面へつく。
「今の、念を使ってます?」
フクリがデスロへ尋ねる。
「使っている」
「どれくらい?」
「本人に聞け」
「教えてくれそうにないですね」
「なら見て覚えろ」
今のフクリには難しすぎる。
目へオーラを集めれば、多少見えるかもしれない。
フクリは独学で行っていた方法を試した。
目の周囲へオーラを寄せる。
凝。
先ほど名称を聞いたばかりの技術。
視界が僅かに変わる。
ビスケの身体の周囲に、濃いオーラが見えた。
量が違う。
自分の練とは比較にならない。
しかも、オーラの形がほとんど乱れていない。
動くたびに必要な場所へ流れている。
「すごいな」
思わず呟く。
「当然だわさ!」
戦いながら返事が飛んできた。
聞こえていたらしい。
「余所見をするな!」
バルガが立ち上がり、拳を放つ。
ビスケは避けず、右手で受け止めた。
大人の男の拳を、小さな手で。
音が響く。
地面の砂が舞う。
それでもビスケの身体は動かなかった。
「力も強い」
「今さら気づいたの?」
ビスケは拳を握ったまま、バルガの腕を引いた。
体勢が崩れる。
足を払う。
バルガの巨体が宙へ浮いた。
そのまま背中から地面へ落ちる寸前、ビスケが服をつかみ、衝撃を弱めた。
「終わりだわさ」
バルガは地面へ横たわった。
意識はある。
怪我もしていない。
ただ、完全に負けていた。
◇
「完敗だ」
しばらくして、バルガが言った。
悔しそうだったが、顔には笑みもあった。
「子供に負けた」
「誰が子供よ!」
「13歳は子供だろ」
「もうすぐ14歳だわさ!」
「まだ13じゃないか」
ビスケが蹴ろうとしたため、デスロが止めた。
「勝負は終わっている」
「口の悪さは終わってないわさ」
バルガは笑いながら身体を起こした。
「心源流は本物だ」
「今さら?」
「また来る」
「来なくていい」
「次は勝つ」
「何回来ても同じだわさ」
「それは分からん」
バルガの目は、すでに次の勝負を見ていた。
負けても止まらない。
フクリには理解できないが、少し羨ましくもあった。
自分には、そこまで熱中できるものがあるだろうか。
能力設計。
時間による積み重ね。
それなら、何年でも考え続けられる。
戦いとは違う。
だが、バルガにとって拳がそうであるように、フクリにとっては能力を設計することが、自分の才能を使える場所なのかもしれない。
◇
「フクリ」
ネテロに呼ばれた。
「はい」
「お主、今の勝負を見て何を思った?」
「ビスケさんは強いです」
「それだけか?」
「バルガさんも、俺よりずっと強い」
「それで?」
「今の俺では、どちらにも勝てません」
「だから?」
質問が続く。
デスロと似ている。
すぐに答えを教えず、自分で考えさせる。
「基礎からやるしかないですね」
「つまらん答えじゃ」
「でも事実でしょう」
「もっと、悔しいとか羨ましいとかないのか?」
「ありますよ」
フクリは正直に答えた。
「ビスケさんは13歳で、俺よりずっと強い。羨ましいです」
「なら、追いつきたいか?」
「追いつけるなら」
「追いつけないと思うか?」
「同じ時間、同じ修行をしたら差は広がるでしょうね」
ビスケが得意そうに胸を張る。
「分かってるじゃない、だわさ」
「では諦めるか?」
ネテロが尋ねる。
「別の方法を考えます」
「別の方法?」
「今は分かりません」
念能力で時間を積み重ねる。
発動時点を100として、7日ごとに1%ずつ身体能力を上げる。
それがフクリの考えている答えだった。
だが、話すつもりはない。
「武術だけで追いつけないなら、武術以外も使う」
「念能力か?」
「それも含めて」
「卑怯だと思わんか?」
「念能力者同士で、念能力を使うのは普通でしょう」
「武術の才能がないから、能力で埋めると?」
「はい」
ビスケが顔をしかめた。
「そういうの、好きじゃないわさ」
「どうして?」
「努力せず、能力だけで強くなろうとしてるみたい」
「努力しないとは言ってません」
「でも、才能の差を能力で埋めるんでしょ」
「埋められるなら、埋めた方がいいでしょう」
「武術を何だと思ってるの?」
「自分を強くする方法の1つです」
ビスケは明らかに苛立っていた。
彼女にとって武術は、もっと特別なものなのだろう。
才能。
努力。
技術。
それらを積み重ねて強くなること自体に価値を感じている。
フクリは違う。
最終的に強くなれるなら、方法は1つでなくていい。
武術も使う。
念能力も使う。
時間も使う。
「面白い」
ネテロが笑った。
「ビスケとは正反対じゃな」
「一緒にしないでほしいわさ」
「こっちの言葉です」
「何よ!」
また言い合いになりそうだった。
デスロが間へ入る。
「フクリ」
「はい」
「明日から修行へ参加しろ」
「何から始めます?」
「立つところからだ」
「立つ?」
「お前は正しく立てていない」
10年以上、立って歩いて働いてきた。
それでも武術の世界では、立つことすらできていないらしい。
「どれくらいで次へ進めますか?」
「お前次第だ」
「大体で」
「早ければ1か月」
「遅ければ?」
「1年」
フクリは少し顔を引きつらせた。
「立つだけで?」
「立つだけだと思っているうちは終わらん」
楽ではなさそうだった。
◇
「わしは数日で戻る」
ネテロが言った。
「協会へですか?」
「そうじゃ」
「面白いものって、会長のことだったんですね」
港町の武具店で言われた言葉。
今なら意味が分かる。
「わしが面白いもの?」
「店主が、今なら面白いものが見られると言ってました」
「それは、道場破りのことかもしれんぞ」
バルガが言う。
「多分違います」
「なぜだ!」
「結果が早すぎたので」
「お前、入門した途端に厳しくなってないか?」
「元からです」
ネテロは笑った。
「数日なら、お主の修行も見てやろう」
「本当ですか?」
「ただし、特別扱いはせん」
「そこまで期待してません」
「少しくらい期待せい」
そう言い残し、ネテロは道場の奥へ戻っていった。
弟子たちも、それぞれの稽古へ戻り始める。
◇
ビスケがフクリの前へ来た。
「何です?」
「師範が入門を認めても、あたしは認めてないわさ」
「別に認めなくてもいいですよ」
「何、その態度」
「入門を決めるのは師範でしょう」
「心源流を甘く見てる」
「見てません」
「能力で才能の差を埋めればいいって考えが気に入らないの」
「俺は、使えるものを使うだけです」
「それで本当に強くなれると思ってる?」
「時間はかかるでしょうね」
「どれくらい?」
「何十年でも」
ビスケが一瞬黙った。
「何十年?」
「強くなるのを急いでないので」
「おじいちゃんになるわよ」
「その前には、そこそこ強くなりたいです」
「また、そこそこ」
「便利な言葉でしょう」
「嫌いだわさ」
ビスケは踵を返した。
数歩進んだ後、振り返る。
「明日の朝、日の出前に庭へ来なさい」
「どうして?」
「新人はあたしが見るよう、師範に言われたの」
明らかに不満そうだった。
「嫌なら、別の人でも」
「逃げるの?」
「あなたが嫌そうなので」
「逃げるのかって聞いてるの!」
「行きますよ」
「遅れたら置いていくわさ」
ビスケはそのまま去っていった。
フクリは背中を見送る。
13歳。
自分より9歳も年下。
それなのに、武術も念も遥かに上。
そして、初日から随分と嫌われた。
「5年、長そうだな」
小さく呟く。
だが、退屈はしないかもしれない。
◇
その日の夜。
フクリは道場の宿舎へ移った。
部屋は4人用。
狭いが清潔だった。
荷物は翌日、村の宿から運ぶことになっている。
簡単な食事を済ませ、布団へ入る。
身体は疲れていた。
10日間の馬車旅。
山道。
入門試験。
ネテロとの会話。
目まぐるしい1日だった。
周囲の弟子たちが眠った後。
フクリは布団の中で、今日の出来事を思い返した。
ネテロは、自分を天才とは見なさなかった。
偶然念へ目覚め。
体系的な知識もなく。
基礎の練度も低い。
絶だけが不自然に高い男。
おそらく、その程度の評価だ。
能力については聞かれた。
だが、無理に探られなかった。
少なくとも今のところ、『0.1%の積み重ね(複利)』や『転生(死にたくないよ)』を知られた様子はない。
最初の接触としては、悪くなかった。
心源流への入門も認められた。
明日から修行が始まる。
まずは正しく立つこと。
簡単そうに聞こえる。
だが、デスロが言うなら簡単ではないのだろう。
フクリは周囲の安全を確認し、絶へ入った。
疲労が少しずつ和らいでいく。
明日から始まる修行に備え、目を閉じる。
その時。
部屋の外から、声が聞こえた。
「起きてる?」
小さな声。
ビスケだった。
フクリは絶を解き、身体を起こす。
「何です?」
「少し来て」
「今から?」
「静かにするわさ」
「明日は日の出前では?」
「いいから」
扉を開けると、ビスケが廊下に立っていた。
昼間とは違い、道着ではない。
寝巻き姿。
片手には、小さな灯りを持っている。
「どこへ行くんです?」
「あんたの絶を、もう1回見せて」
「どうして?」
ビスケは少し悔しそうに唇を噛んだ。
「あたしより上手いかもしれないなんて、納得できないからだわさ」
13歳の天才は、負けず嫌いだった。
フクリの心源流での最初の夜は、まだ終わりそうになかった。