0.1%の積み重ね   作:仮面のカルメン

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第5話 70歳の会長

 

第5話 70歳の会長

 

 道場の奥から現れた男を見た瞬間、フクリの意識は周囲の音を置き去りにした。

 

 アイザック=ネテロ。

 

 70歳。

 

 現在のハンター協会会長。

 

 前世で知っている姿より、遥かに若い。

 

 老人ではない。

 

 髪も黒く、背筋は真っすぐ伸びている。

 

 頬や目元に年齢は感じるものの、身体は現役の武術家そのものだった。

 

 道着の袖から見える腕は太い。

 

 無駄に膨らんでいるわけではない。

 

 必要な筋肉だけが、長い修行によって削り出されたようについている。

 

 歩き方も静かだった。

 

 デスロとは違う。

 

 デスロは隙がない。

 

 ネテロは、隙があるように見えるのに近づきたくない。

 

 両手は空いている。

 

 構えてもいない。

 

 こちらへ敵意を向けてもいない。

 

 それでも、もし突然攻撃されたとして、自分が何かできるとは思えなかった。

 

 逃げる。

 

 防ぐ。

 

 絶へ入る。

 

 どれも間に合わない。

 

 フクリは見つめすぎないよう、すぐに視線を外した。

 

 前世で知っている人物だと悟られてはいけない。

 

 もっとも、顔を見ただけで正体を知られるはずはない。

 

 それでも相手はネテロだ。

 

 余計な反応は見せない方がいい。

 

「会長」

 

 弟子の1人が頭を下げた。

 

 ほかの門弟たちも、それに続く。

 

 バルガだけは拳を構えたまま、ネテロを見ていた。

 

「今のが、ハンター協会の会長か」

 

 バルガの声には興奮が混じっていた。

 

 フクリは嫌な予感がした。

 

 この男は、強い相手へ挑むために心源流まで来た。

 

 目の前には、心源流と関係の深いハンター協会会長。

 

 どう考えても、黙って見送る性格ではない。

 

「面白そうな客って、どっちのこと?」

 

 ビスケが尋ねた。

 

 ネテロは顎へ手を当て、フクリとバルガを順番に見た。

 

「どちらもじゃな」

 

「こっちの地味な方は弱いわさ」

 

「見れば分かる」

 

「みんな同じこと言うな」

 

 フクリは小さく呟いた。

 

 誰にも聞こえないつもりだった。

 

 だが、ネテロの口元が僅かに上がった。

 

 聞こえていたらしい。

 

     ◇

 

「お前がネテロか」

 

 バルガが前へ出た。

 

 弟子たちの間に緊張が走る。

 

「呼び捨てとは威勢がいいのう」

 

 ネテロは気にした様子もなく答えた。

 

「俺はバルガ。拳闘を15年やってきた」

 

「ほう」

 

「心源流へ勝負を挑みに来た」

 

「そうか」

 

「そして、今はお前と戦いたい」

 

 予想どおりだった。

 

 フクリは心の中でため息をつく。

 

 会ったばかりのハンター協会会長へ、迷いなく勝負を挑む。

 

 ある意味では尊敬できる。

 

 自分には絶対に真似できない。

 

 ネテロは怒らなかった。

 

 むしろ楽しそうにバルガを見る。

 

「わしと?」

 

「ああ」

 

「心源流へ挑みに来たのではなかったか?」

 

「流派の一番強い奴と戦えば十分だろ」

 

 バルガの言葉に、弟子たちがざわつく。

 

 デスロは何も言わない。

 

 ビスケは呆れた顔をしていた。

 

「この人、死にたいのかしら、だわさ」

 

「多分、死ぬつもりはないと思う」

 

 フクリが答える。

 

「それで会長に挑む方がおかしいわさ」

 

「本人には勝てる可能性が見えてるのかも」

 

「見えてないから挑むって言ってたでしょ」

 

「そうだった」

 

 バルガは、ネテロ以外の声など聞こえていないようだった。

 

「受けるのか?」

 

 問いかける。

 

 ネテロは少し考えた後、首を横へ振った。

 

「嫌じゃ」

 

 バルガの顔が固まった。

 

「何?」

 

「面倒じゃから嫌じゃ」

 

「逃げるのか?」

 

「そう思いたければ、そう思えばよい」

 

 挑発にも反応しない。

 

 バルガは苛立ったように一歩前へ出た。

 

「協会会長が、勝負も受けられないのか」

 

「協会会長じゃから、道場破りの相手をせねばならん決まりはない」

 

「なら、無理にでも戦わせる」

 

 バルガの足が地面を蹴った。

 

 速い。

 

 フクリと山道を歩いていた時とは別人だった。

 

 距離を一気に詰め、右拳をネテロの顔へ向ける。

 

 右拳を3度壊している。

 

 デスロにそう指摘された拳。

 

 それでもバルガが最も信頼している一撃なのだろう。

 

「危ない!」

 

 誰かが叫んだ。

 

 だが。

 

 ネテロは動かなかった。

 

 少なくとも、フクリにはそう見えた。

 

 バルガの拳が顔へ届く直前。

 

 乾いた音が1度だけ響いた。

 

     ◇

 

 次の瞬間、バルガは地面へ座っていた。

 

 何が起きたのか分からないように、自分の身体を見下ろしている。

 

 右腕は伸びたまま。

 

 拳は、ネテロの顔から指1本分ほど離れた位置で止まっていた。

 

 ネテロは最初と同じ場所に立っている。

 

 構えも取っていない。

 

 ただ、右手の人差し指だけが、バルガの額へ触れていた。

 

「今、何をした?」

 

 バルガが尋ねる。

 

「押した」

 

「嘘をつけ」

 

「では、少し速く押した」

 

 ネテロは指を離した。

 

 バルガは立ち上がろうとした。

 

 だが、脚へ力が入らないらしい。

 

 再び地面へ座り込む。

 

「身体の力を、一瞬抜かれたわさ」

 

 ビスケが言った。

 

「見えたの?」

 

 フクリが尋ねる。

 

「一応ね。でも、会長がかなりゆっくりやったからよ」

 

「あれで?」

 

「あれで、だわさ」

 

 フクリには何も見えなかった。

 

 バルガが拳を放ち。

 

 音が鳴り。

 

 気づけば勝負が終わっていた。

 

 ネテロが本気で動けば、認識すらできないだろう。

 

「勝負は終わりじゃ」

 

 ネテロが言う。

 

「まだだ」

 

 バルガが歯を食いしばる。

 

「立てておらん」

 

「立てれば続けるんだな」

 

「もう終わりじゃと言った」

 

「俺は認めてない」

 

「では、認めるまでそこへ座っておれ」

 

 ネテロはバルガへの興味を失ったように、フクリへ視線を向けた。

 

 バルガは悔しそうだった。

 

 だが、追いすがることはできない。

 

「無理をしない方がいいですよ」

 

 フクリが声をかける。

 

「お前に言われたくない」

 

「右拳、また壊しますよ」

 

 バルガは自分の拳を見た。

 

 攻撃は届いていない。

 

 それでも、踏み込みの衝撃で古傷に痛みが出たらしい。

 

 ゆっくりと拳を開いた。

 

「……強かった」

 

 短く呟く。

 

 声に悔しさはあった。

 

 しかし、負けたことを否定し続けるつもりはないようだった。

 

     ◇

 

「さて」

 

 ネテロがフクリの前へ立った。

 

 近い。

 

 数歩の距離。

 

 逃げようと思えば逃げられる。

 

 もちろん、ネテロが追わなければの話だ。

 

「お主が、新しい弟子かの?」

 

「今、入門を認めてもらいました」

 

「名は?」

 

「フクリです」

 

「ジャポンから来たそうじゃな」

 

 デスロがすでに説明したのか。

 

 あるいは、先ほどの会話を聞いていたのか。

 

「はい」

 

「武術は?」

 

「自己流です」

 

「念も自己流か」

 

 フクリは一瞬だけ黙った。

 

 見抜かれるとは思っていた。

 

 問題は、どこまで見抜かれているか。

 

「念という名前は、さっき教えてもらいました」

 

「ほう」

 

「身体から漏れる力を留めたり、閉じたりはできました。でも、正式な呼び方は知りませんでした」

 

「誰にも習っておらんと?」

 

「はい」

 

 ネテロはフクリの周囲を歩いた。

 

 正面。

 

 横。

 

 背後。

 

 品物を確認するような遠慮のない見方だった。

 

「会長」

 

 ビスケが声をかける。

 

「その人、本当に何も知らないみたいだわさ」

 

「お主は信じたのか?」

 

「師範もそう判断したもの」

 

「デスロが?」

 

 ネテロは師範を見る。

 

 デスロが頷いた。

 

「名称を知らず、オーラ操作も体系化されていない。偶然目覚め、自力で試した者だろう」

 

「絶だけは上手いわさ」

 

 ビスケが不満そうに付け加える。

 

「ほう。見せてみい」

 

「またですか?」

 

 フクリが尋ねる。

 

「嫌か?」

 

「何度も見せるものでもないと思いまして」

 

「減るものでもあるまい」

 

 断る理由もなかった。

 

 フクリは周囲を確認する。

 

 ネテロ。

 

 デスロ。

 

 ビスケ。

 

 心源流の弟子たち。

 

 道場破りに敗れたバルガ。

 

 敵意はない。

 

 フクリは全身から漏れるオーラを閉じた。

 

     ◇

 

 絶へ入る。

 

 今は、その名前を知っている。

 

 全身の精孔を閉じ、オーラの流出を止める。

 

 呼吸。

 

 視線。

 

 身体の力。

 

 長年磨いてきた気配を消す技術も重ねる。

 

 先ほどデスロたちへ見せた時と同じ。

 

 隠さない。

 

 手を抜かない。

 

 いつもどおりに行う。

 

 ネテロは、すぐ目の前に立っていた。

 

 フクリを見ている。

 

 目が合っているはずなのに、何を考えているのか分からない。

 

 数秒後。

 

 ネテロが突然、後ろを向いた。

 

「歩いてみい」

 

「絶のままですか?」

 

「そうじゃ」

 

 フクリは音を立てないよう、横へ歩いた。

 

 足裏を静かに地面へ置く。

 

 服が擦れる音も抑える。

 

 ネテロの背後へ回る。

 

 立ち止まる。

 

「そこじゃな」

 

 ネテロが振り向かずに言った。

 

 正確に位置を当てられた。

 

「分かるんですね」

 

「見えなくなったわけではないからの」

 

「一般人には気づかれないことが多いです」

 

「一般人と比べても意味はない」

 

 ネテロが振り返る。

 

「絶そのものは悪くない。気配の消し方もよく練られておる」

 

「ありがとうございます」

 

「しかし、考え方が狭い」

 

 褒められた直後に落とされた。

 

「狭い?」

 

「見つからぬことだけを考えておる」

 

「そのための技術では?」

 

「それだけではない」

 

 ネテロがフクリの胸元を指で軽く突いた。

 

「絶は、己のオーラを完全に閉じる。疲労を癒やし、気配を断ち、感覚を研ぎ澄ませる。使い方は1つではない」

 

「疲労回復には使っていました」

 

「それでも、お主の絶には逃げる意思が強すぎる」

 

 フクリは少し驚いた。

 

 技術を見ただけで、そこまで分かるものなのか。

 

「逃げるために練習したので」

 

「正直じゃな」

 

「悪いことですか?」

 

「悪くはない」

 

 ネテロは笑った。

 

「生きるために逃げる。立派な目的じゃ」

 

「なら、狭くても問題ないのでは?」

 

「問題があるとは言っておらん。ただ、ほかの使い方を知らぬのは勿体ない」

 

 ネテロはフクリの周囲をもう一度歩いた。

 

「絶へ入ったまま相手の懐へ入る」

 

「危なくないですか?」

 

「危ない」

 

「やりたくないですね」

 

「絶から一瞬で練へ移る」

 

「難しそうです」

 

「難しい」

 

「もっと楽な使い方は?」

 

「ない」

 

 フクリは少し顔をしかめた。

 

「やはり、楽をしたがる男じゃな」

 

 ネテロが楽しそうに言う。

 

「できれば努力はしたくないので」

 

「それで10年以上も同じ修行を続けたのか」

 

「必要だったので」

 

「なるほど」

 

 ネテロは、少しだけ興味を持ったようだった。

 

     ◇

 

「念能力は作ったか?」

 

 不意に質問された。

 

 フクリの身体が僅かに強張る。

 

 もっとも聞かれたくない話だった。

 

 嘘をつくべきか。

 

 正直に一部だけ話すべきか。

 

 ネテロは、こちらの反応を見ている。

 

 完全に隠せば、かえって疑われる可能性がある。

 

「あります」

 

 フクリは答えた。

 

「いくつじゃ?」

 

「それも話す必要があります?」

 

「ない」

 

 予想外に、ネテロはあっさり引いた。

 

「念能力は本人の命じゃ。知られたくなければ話す必要はない」

 

「助かります」

 

「ただし、師に教わらず能力を作ったなら、歪んでおる可能性はある」

 

「歪んでいる?」

 

「自分では便利なつもりでも、条件に穴がある。身体へ負担がある。思わぬ制約がついておる。そういうことじゃ」

 

 フクリの能力は、『容量判定(メモリー・ジャッジ)』で設計を確かめている。

 

 少なくとも必要メモリや条件は把握している。

 

 だが、ネテロの言う歪みが絶対にないとは断言できない。

 

 特に『転生(死にたくないよ)』は実際に発動を試せない。

 

 完成した感覚はある。

 

 『容量判定』でも完成と表示された。

 

 それでも、死んだ時に本当に機能するかは分からない。

 

「能力を見せれば、分かりますか?」

 

 フクリが尋ねる。

 

「ものによる」

 

「見せられない能力だったら?」

 

「死ぬまで分からんこともある」

 

 まさに自分の転生能力だった。

 

「そうですか」

 

「見せる気になったか?」

 

「なってません」

 

「残念じゃ」

 

 ネテロは笑った。

 

 無理に聞き出そうとはしない。

 

 そのことにフクリは少し安心した。

 

「念能力があるのに、纏や練の練度は低い」

 

 ネテロが続ける。

 

「普通は、能力を作る前に基礎を整えるものじゃ」

 

「偶然できたので」

 

「能力が?」

 

「はい。身体の力を色々試していたら、形になりました」

 

 完全な嘘だった。

 

 だが、前世の知識と能力設計について話すよりは自然だ。

 

「どんな能力かも分からず作ったと?」

 

「作った後に、何となく使い方が分かりました」

 

 デスロがフクリを見た。

 

 疑っているのかもしれない。

 

 だが、否定する材料はない。

 

 ネテロはしばらく黙っていた後、大きく笑った。

 

「運のいい男じゃ!」

 

「そうでしょうか」

 

「念能力を作って生きておる。暴発もせず、身体も壊れておらん。運がいい」

 

「偶然にしては条件が整いすぎてない?」

 

 ビスケが鋭い指摘をする。

 

 フクリは彼女を見る。

 

「長く試してましたから」

 

「でも、名称も理屈も知らないんでしょ?」

 

「分からないなりに考えました」

 

「何年?」

 

「最初の能力を作るまでなら、5年くらいです」

 

 これは一部本当だ。

 

 念へ目覚めるまで5年。

 

 その後、すぐに『0.1%の積み重ね(複利)』を作った。

 

「5年も偶然を待ったの?」

 

「気になることを試してただけです」

 

 ビスケは納得していない顔だった。

 

 だが、ネテロは気にしていない様子だった。

 

「偶然でも、自力でも、使えるようになったなら念能力者じゃ」

 

 ネテロが言う。

 

「ただし、練度は低い」

 

「そこは何度も言われています」

 

「念を使えるだけで、自分を特別だと思ってはおらんか?」

 

「思ってません」

 

 フクリは即答した。

 

「むしろ、使える人間に会うたび、自分が大したことないと分かります」

 

 目の前にいるネテロ。

 

 13歳のビスケ。

 

 デスロ。

 

 比較するまでもない。

 

 自分の絶は高い練度にある。

 

 だが、それだけだ。

 

 戦えば簡単に負ける。

 

「よい」

 

 ネテロが頷いた。

 

「自分の弱さを知る者は、少しだけ死ににくい」

 

「少しだけ?」

 

「知っておるだけでは、強くならんからの」

 

「それはそうですね」

 

「これから鍛えるか?」

 

「そのつもりです」

 

「何年?」

 

「まずは5年」

 

「なぜ5年じゃ?」

 

 使用可能メモリが1000へ戻るまで。

 

 その答えは言えない。

 

「旅に使う期間を5年と決めたので」

 

「5年でどこまで強くなりたい?」

 

「そこそこ」

 

 ビスケが吹き出した。

 

「そこそこ?」

 

「武術の才能がないので、達人は無理でしょう」

 

「最初から諦めてるの?」

 

「目標を現実的にしてるだけです」

 

「5年もあるのに?」

 

「5年しかないとも言えます」

 

「そんな考えじゃ強くなれないわさ」

 

 ビスケが苛立ったように言う。

 

 フクリは彼女を見る。

 

「才能がある人には、そう見えるかもしれませんね」

 

「何よ、それ」

 

「ビスケさんは13歳で、俺より遥かに強い。武術も念も才能があるんでしょう」

 

「当然だわさ」

 

「俺は違います。5年やっても、あなたの今の実力に届かないかもしれない」

 

「やる前から決めつけてる」

 

「決めつけてはいません。可能性を考えてるだけです」

 

「同じよ」

 

「違いますよ」

 

 初対面から突っかかってくる。

 

 前世で知っているビスケも、才能や努力に厳しい人物だった。

 

 13歳の今は、さらに感情が表へ出やすいらしい。

 

「2人とも、そこまでじゃ」

 

 ネテロが間へ入った。

 

「ビスケ」

 

「何よ」

 

「才能のない者が、どこまで進むか見たいと思わんか?」

 

 ビスケはフクリを見た。

 

 顔には、明らかな不満がある。

 

「途中で逃げるに決まってるわさ」

 

「逃げてもよい」

 

「よくないでしょ!」

 

「逃げて、戻ってくることもある」

 

「そんなの格好悪い」

 

「格好よくなければ、強くなってはいかんのか?」

 

 ビスケは言葉に詰まった。

 

 ネテロは今度、フクリへ視線を向ける。

 

「フクリ」

 

「はい」

 

「お主は努力が嫌いだと言ったな」

 

「できれば、したくないです」

 

「では、嫌になったら逃げるか?」

 

「必要なら戻ります」

 

「戻らぬかもしれんぞ」

 

「その時は、その程度だったということです」

 

 ビスケが呆れた顔をする。

 

 ネテロは声を立てて笑った。

 

「正直でよい!」

 

     ◇

 

「師範」

 

 ネテロがデスロへ向き直る。

 

「こやつの指導は面白そうじゃな」

 

「会長がするか?」

 

「嫌じゃ」

 

「言うと思った」

 

 デスロは表情を変えずに答えた。

 

「協会の仕事があるのでしょう」

 

 フクリが尋ねる。

 

「それもある」

 

「ほかには?」

 

「才能のある者を育てる方が楽しい」

 

「正直ですね」

 

「わしも楽な方が好きじゃ」

 

「同じですね」

 

「一緒にするでない」

 

 理不尽だった。

 

「ただし」

 

 ネテロはフクリの肩へ手を置いた。

 

 軽い。

 

 力は入っていない。

 

 それなのに、身体が地面へ縫い付けられたように動かなくなった。

 

「絶だけは、わしも少し興味がある」

 

「動けないんですけど」

 

「逃げるための絶が、どこまで育つか」

 

「手を離してください」

 

「攻めるために使う気はないか?」

 

「危ないので」

 

「安全第二ではなかったか?」

 

 フクリはネテロを見る。

 

 なぜ、その言葉を知っている。

 

 口にしたのは、港町で独り言として一度だけだったはずだ。

 

 ネテロが聞いたはずはない。

 

「何の話です?」

 

「顔に書いてある」

 

「書いてません」

 

「旅へ出た男が、安全ばかり考えておる顔ではない」

 

 適当に言っただけらしい。

 

 それでも一瞬、心臓が跳ねた。

 

「絶は隠れるためだけの技術ではない」

 

 ネテロが続ける。

 

「攻撃する直前まで存在を消す。相手の判断から自分を外す。オーラの切り替えで動きの調子を変える。使い方はいくらでもある」

 

「防御力がなくなるでしょう」

 

「当たらなければ問題ない」

 

「当たったら?」

 

「痛い」

 

「やはり嫌ですね」

 

 ネテロは笑い、ようやく手を離した。

 

     ◇

 

「ビスケ」

 

 地面へ座っていたバルガが声を上げた。

 

「俺との勝負はどうなった」

 

「会長に負けたでしょ、だわさ」

 

「あれはネテロとの勝負だ。心源流との勝負は終わっていない」

 

「面倒な人ね」

 

 ビスケは菓子の袋を弟子へ投げ、自分の道着を整えた。

 

「立てるの?」

 

「もう動く」

 

 バルガはゆっくり立ち上がった。

 

 脚にはまだ僅かな震えがある。

 

 それでも拳を構える。

 

「ビスケ」

 

 デスロが言う。

 

「怪我をさせるな」

 

「どっちに?」

 

「両方だ」

 

「私が怪我するわけないわさ」

 

「油断するな」

 

 ビスケの表情が僅かに引き締まった。

 

 ネテロは庭の端へ移動し、腕を組んで見物する。

 

 デスロも止める様子はない。

 

 フクリも邪魔にならない場所へ下がった。

 

     ◇

 

「始め」

 

 デスロの声と同時に、バルガが動いた。

 

 先ほどネテロへ向けた時より慎重だった。

 

 拳を構えたまま距離を詰める。

 

 ビスケは構えすら取らない。

 

「子供だからって手加減しないぞ」

 

「したら怒るわさ」

 

 バルガが左拳を放つ。

 

 ビスケは首を僅かに傾けるだけで避けた。

 

 続けて右。

 

 今度は上体を反らす。

 

 バルガの拳が空を切る。

 

 速い。

 

 フクリには、拳の軌道を目で追うだけでも難しい。

 

 だがビスケは、余裕を持って避けている。

 

 バルガが低い蹴りを放った。

 

 ビスケの脚を狙う。

 

 少女の小さな身体が跳ねた。

 

 蹴りを越え、そのままバルガの肩へ片足で乗る。

 

「重い」

 

 バルガが顔をしかめた。

 

「女の子に言う言葉じゃないわさ!」

 

 ビスケの拳が、バルガの頭へ軽く落ちた。

 

 軽く見えた。

 

 だが、バルガの両膝が地面へつく。

 

「今の、念を使ってます?」

 

 フクリがデスロへ尋ねる。

 

「使っている」

 

「どれくらい?」

 

「本人に聞け」

 

「教えてくれそうにないですね」

 

「なら見て覚えろ」

 

 今のフクリには難しすぎる。

 

 目へオーラを集めれば、多少見えるかもしれない。

 

 フクリは独学で行っていた方法を試した。

 

 目の周囲へオーラを寄せる。

 

 凝。

 

 先ほど名称を聞いたばかりの技術。

 

 視界が僅かに変わる。

 

 ビスケの身体の周囲に、濃いオーラが見えた。

 

 量が違う。

 

 自分の練とは比較にならない。

 

 しかも、オーラの形がほとんど乱れていない。

 

 動くたびに必要な場所へ流れている。

 

「すごいな」

 

 思わず呟く。

 

「当然だわさ!」

 

 戦いながら返事が飛んできた。

 

 聞こえていたらしい。

 

「余所見をするな!」

 

 バルガが立ち上がり、拳を放つ。

 

 ビスケは避けず、右手で受け止めた。

 

 大人の男の拳を、小さな手で。

 

 音が響く。

 

 地面の砂が舞う。

 

 それでもビスケの身体は動かなかった。

 

「力も強い」

 

「今さら気づいたの?」

 

 ビスケは拳を握ったまま、バルガの腕を引いた。

 

 体勢が崩れる。

 

 足を払う。

 

 バルガの巨体が宙へ浮いた。

 

 そのまま背中から地面へ落ちる寸前、ビスケが服をつかみ、衝撃を弱めた。

 

「終わりだわさ」

 

 バルガは地面へ横たわった。

 

 意識はある。

 

 怪我もしていない。

 

 ただ、完全に負けていた。

 

     ◇

 

「完敗だ」

 

 しばらくして、バルガが言った。

 

 悔しそうだったが、顔には笑みもあった。

 

「子供に負けた」

 

「誰が子供よ!」

 

「13歳は子供だろ」

 

「もうすぐ14歳だわさ!」

 

「まだ13じゃないか」

 

 ビスケが蹴ろうとしたため、デスロが止めた。

 

「勝負は終わっている」

 

「口の悪さは終わってないわさ」

 

 バルガは笑いながら身体を起こした。

 

「心源流は本物だ」

 

「今さら?」

 

「また来る」

 

「来なくていい」

 

「次は勝つ」

 

「何回来ても同じだわさ」

 

「それは分からん」

 

 バルガの目は、すでに次の勝負を見ていた。

 

 負けても止まらない。

 

 フクリには理解できないが、少し羨ましくもあった。

 

 自分には、そこまで熱中できるものがあるだろうか。

 

 能力設計。

 

 時間による積み重ね。

 

 それなら、何年でも考え続けられる。

 

 戦いとは違う。

 

 だが、バルガにとって拳がそうであるように、フクリにとっては能力を設計することが、自分の才能を使える場所なのかもしれない。

 

     ◇

 

「フクリ」

 

 ネテロに呼ばれた。

 

「はい」

 

「お主、今の勝負を見て何を思った?」

 

「ビスケさんは強いです」

 

「それだけか?」

 

「バルガさんも、俺よりずっと強い」

 

「それで?」

 

「今の俺では、どちらにも勝てません」

 

「だから?」

 

 質問が続く。

 

 デスロと似ている。

 

 すぐに答えを教えず、自分で考えさせる。

 

「基礎からやるしかないですね」

 

「つまらん答えじゃ」

 

「でも事実でしょう」

 

「もっと、悔しいとか羨ましいとかないのか?」

 

「ありますよ」

 

 フクリは正直に答えた。

 

「ビスケさんは13歳で、俺よりずっと強い。羨ましいです」

 

「なら、追いつきたいか?」

 

「追いつけるなら」

 

「追いつけないと思うか?」

 

「同じ時間、同じ修行をしたら差は広がるでしょうね」

 

 ビスケが得意そうに胸を張る。

 

「分かってるじゃない、だわさ」

 

「では諦めるか?」

 

 ネテロが尋ねる。

 

「別の方法を考えます」

 

「別の方法?」

 

「今は分かりません」

 

 念能力で時間を積み重ねる。

 

 発動時点を100として、7日ごとに1%ずつ身体能力を上げる。

 

 それがフクリの考えている答えだった。

 

 だが、話すつもりはない。

 

「武術だけで追いつけないなら、武術以外も使う」

 

「念能力か?」

 

「それも含めて」

 

「卑怯だと思わんか?」

 

「念能力者同士で、念能力を使うのは普通でしょう」

 

「武術の才能がないから、能力で埋めると?」

 

「はい」

 

 ビスケが顔をしかめた。

 

「そういうの、好きじゃないわさ」

 

「どうして?」

 

「努力せず、能力だけで強くなろうとしてるみたい」

 

「努力しないとは言ってません」

 

「でも、才能の差を能力で埋めるんでしょ」

 

「埋められるなら、埋めた方がいいでしょう」

 

「武術を何だと思ってるの?」

 

「自分を強くする方法の1つです」

 

 ビスケは明らかに苛立っていた。

 

 彼女にとって武術は、もっと特別なものなのだろう。

 

 才能。

 

 努力。

 

 技術。

 

 それらを積み重ねて強くなること自体に価値を感じている。

 

 フクリは違う。

 

 最終的に強くなれるなら、方法は1つでなくていい。

 

 武術も使う。

 

 念能力も使う。

 

 時間も使う。

 

「面白い」

 

 ネテロが笑った。

 

「ビスケとは正反対じゃな」

 

「一緒にしないでほしいわさ」

 

「こっちの言葉です」

 

「何よ!」

 

 また言い合いになりそうだった。

 

 デスロが間へ入る。

 

「フクリ」

 

「はい」

 

「明日から修行へ参加しろ」

 

「何から始めます?」

 

「立つところからだ」

 

「立つ?」

 

「お前は正しく立てていない」

 

 10年以上、立って歩いて働いてきた。

 

 それでも武術の世界では、立つことすらできていないらしい。

 

「どれくらいで次へ進めますか?」

 

「お前次第だ」

 

「大体で」

 

「早ければ1か月」

 

「遅ければ?」

 

「1年」

 

 フクリは少し顔を引きつらせた。

 

「立つだけで?」

 

「立つだけだと思っているうちは終わらん」

 

 楽ではなさそうだった。

 

     ◇

 

「わしは数日で戻る」

 

 ネテロが言った。

 

「協会へですか?」

 

「そうじゃ」

 

「面白いものって、会長のことだったんですね」

 

 港町の武具店で言われた言葉。

 

 今なら意味が分かる。

 

「わしが面白いもの?」

 

「店主が、今なら面白いものが見られると言ってました」

 

「それは、道場破りのことかもしれんぞ」

 

 バルガが言う。

 

「多分違います」

 

「なぜだ!」

 

「結果が早すぎたので」

 

「お前、入門した途端に厳しくなってないか?」

 

「元からです」

 

 ネテロは笑った。

 

「数日なら、お主の修行も見てやろう」

 

「本当ですか?」

 

「ただし、特別扱いはせん」

 

「そこまで期待してません」

 

「少しくらい期待せい」

 

 そう言い残し、ネテロは道場の奥へ戻っていった。

 

 弟子たちも、それぞれの稽古へ戻り始める。

 

     ◇

 

 ビスケがフクリの前へ来た。

 

「何です?」

 

「師範が入門を認めても、あたしは認めてないわさ」

 

「別に認めなくてもいいですよ」

 

「何、その態度」

 

「入門を決めるのは師範でしょう」

 

「心源流を甘く見てる」

 

「見てません」

 

「能力で才能の差を埋めればいいって考えが気に入らないの」

 

「俺は、使えるものを使うだけです」

 

「それで本当に強くなれると思ってる?」

 

「時間はかかるでしょうね」

 

「どれくらい?」

 

「何十年でも」

 

 ビスケが一瞬黙った。

 

「何十年?」

 

「強くなるのを急いでないので」

 

「おじいちゃんになるわよ」

 

「その前には、そこそこ強くなりたいです」

 

「また、そこそこ」

 

「便利な言葉でしょう」

 

「嫌いだわさ」

 

 ビスケは踵を返した。

 

 数歩進んだ後、振り返る。

 

「明日の朝、日の出前に庭へ来なさい」

 

「どうして?」

 

「新人はあたしが見るよう、師範に言われたの」

 

 明らかに不満そうだった。

 

「嫌なら、別の人でも」

 

「逃げるの?」

 

「あなたが嫌そうなので」

 

「逃げるのかって聞いてるの!」

 

「行きますよ」

 

「遅れたら置いていくわさ」

 

 ビスケはそのまま去っていった。

 

 フクリは背中を見送る。

 

 13歳。

 

 自分より9歳も年下。

 

 それなのに、武術も念も遥かに上。

 

 そして、初日から随分と嫌われた。

 

「5年、長そうだな」

 

 小さく呟く。

 

 だが、退屈はしないかもしれない。

 

     ◇

 

 その日の夜。

 

 フクリは道場の宿舎へ移った。

 

 部屋は4人用。

 

 狭いが清潔だった。

 

 荷物は翌日、村の宿から運ぶことになっている。

 

 簡単な食事を済ませ、布団へ入る。

 

 身体は疲れていた。

 

 10日間の馬車旅。

 

 山道。

 

 入門試験。

 

 ネテロとの会話。

 

 目まぐるしい1日だった。

 

 周囲の弟子たちが眠った後。

 

 フクリは布団の中で、今日の出来事を思い返した。

 

 ネテロは、自分を天才とは見なさなかった。

 

 偶然念へ目覚め。

 

 体系的な知識もなく。

 

 基礎の練度も低い。

 

 絶だけが不自然に高い男。

 

 おそらく、その程度の評価だ。

 

 能力については聞かれた。

 

 だが、無理に探られなかった。

 

 少なくとも今のところ、『0.1%の積み重ね(複利)』や『転生(死にたくないよ)』を知られた様子はない。

 

 最初の接触としては、悪くなかった。

 

 心源流への入門も認められた。

 

 明日から修行が始まる。

 

 まずは正しく立つこと。

 

 簡単そうに聞こえる。

 

 だが、デスロが言うなら簡単ではないのだろう。

 

 フクリは周囲の安全を確認し、絶へ入った。

 

 疲労が少しずつ和らいでいく。

 

 明日から始まる修行に備え、目を閉じる。

 

 その時。

 

 部屋の外から、声が聞こえた。

 

「起きてる?」

 

 小さな声。

 

 ビスケだった。

 

 フクリは絶を解き、身体を起こす。

 

「何です?」

 

「少し来て」

 

「今から?」

 

「静かにするわさ」

 

「明日は日の出前では?」

 

「いいから」

 

 扉を開けると、ビスケが廊下に立っていた。

 

 昼間とは違い、道着ではない。

 

 寝巻き姿。

 

 片手には、小さな灯りを持っている。

 

「どこへ行くんです?」

 

「あんたの絶を、もう1回見せて」

 

「どうして?」

 

 ビスケは少し悔しそうに唇を噛んだ。

 

「あたしより上手いかもしれないなんて、納得できないからだわさ」

 

 13歳の天才は、負けず嫌いだった。

 

 フクリの心源流での最初の夜は、まだ終わりそうになかった。

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