第6話 天才の負けず嫌い
宿舎の廊下は静かだった。
灯りはほとんど消えている。
外から聞こえるのは、木々を揺らす風の音と、遠くで鳴く虫の声だけ。
ビスケは小さな灯りを片手に持ち、フクリの前を歩いていた。
「どこへ行くんです?」
「裏庭」
「今から修行ですか?」
「確認するだけだわさ」
「明日の朝じゃ駄目なんですか?」
「駄目」
即答だった。
ビスケは一度も振り返らない。
小柄な背中から、不機嫌さが伝わってくる。
フクリは欠伸を噛み殺しながら、その後を追った。
明日は日の出前から修行だ。
できれば今すぐ眠りたかった。
だが、初日に師範の弟子を無視するのも印象が悪い。
何より、前世で知っていたビスケが、自分の絶を確かめたがっている。
少し面白くもあった。
◇
裏庭は、昼間使った稽古場より小さかった。
周囲を高い木に囲まれ、月明かりもほとんど入らない。
中央には木人や丸太が並んでいる。
人目を避けて個人修行をする場所らしい。
ビスケは灯りを石の上へ置いた。
「そこでやって」
「何をです?」
「絶に決まってるでしょ」
「立っていればいいんですか?」
「まずは普通に」
フクリは言われたとおり、その場で全身のオーラを閉じた。
身体から漏れていたものが消える。
呼吸を小さくする。
肩の力を抜く。
足裏の圧力を散らし、存在感を薄くしていく。
ビスケは腕を組み、正面からフクリを見つめていた。
数秒。
10秒。
20秒。
「もういいですか?」
「喋らないで」
怒られた。
フクリは黙る。
ビスケはフクリの周囲を歩いた。
正面。
横。
背後。
地面に近い位置まで屈み、足元を見る。
次に顔を近づけ、呼吸を確かめた。
「近いですね」
「喋るなって言ったでしょ!」
「分かりました」
「今も喋ってるわさ!」
ビスケが苛立つ。
フクリは今度こそ黙った。
◇
しばらく観察した後、ビスケが離れた。
「歩いて」
フクリはゆっくり横へ移動した。
足音を消す。
服が擦れないように身体を動かす。
風が吹く瞬間に合わせ、地面へ足を置く。
「もっと速く」
少し速度を上げる。
「遅い」
「絶のまま走ったことはありません」
「やって」
「転びますよ」
「転んだら起きればいいわさ」
無茶を言う。
だが、走れないほど危険な場所ではない。
フクリは前傾姿勢を取り、軽く走り始めた。
3歩。
4歩。
5歩目で足が地面の凹みに入った。
身体が傾く。
「危なっ」
フクリは絶を解き、手を地面へついて転倒を避けた。
「ほら、できてない」
「最初に転ぶって言いましたよね」
「絶を維持できてないってこと」
「転ぶよりはいいでしょう」
「実戦なら、その瞬間に見つかるわさ」
「実戦で絶のまま暗い庭を走る予定はありません」
「予定になくても、必要になるかもしれないでしょ!」
ビスケは本気だった。
絶の完成度で負けているかもしれない。
その事実が、どうしても気に入らないらしい。
「次は、あたしがやる」
ビスケはフクリと場所を入れ替えた。
「見てなさい」
全身のオーラが消える。
フクリは目を細めた。
上手い。
切り替えが速い。
絶へ入る直前まで存在していた強いオーラが、一瞬で途切れた。
ただし、フクリとは違う。
ビスケの身体からオーラは消えている。
だが、存在感は残っていた。
立ち姿が強い。
視線に力がある。
自信に満ちた姿勢が、暗闇の中でも目を引く。
「どう?」
ビスケが尋ねる。
「絶へ入る速度は、俺より速いです」
「ほかは?」
「オーラも、きれいに閉じています」
「でしょ?」
「でも、目立ちますね」
ビスケの表情が固まった。
「何が?」
「ビスケさん本人が」
「オーラは消えてるでしょ」
「消えてます。でも、立ってるだけで強そうなので」
「それは褒めてるの?」
「半分は」
「残り半分は?」
「隠れるのには向いてないです」
ビスケの眉が吊り上がった。
「失礼だわさ!」
「でも、絶だけ比べるなら、気配を消すところまで含めるんでしょう?」
「オーラを閉じる技術が絶よ!」
「昼間、ネテロ会長は使い方が1つではないと言ってました」
「会長の言葉を使うの、ずるいわさ」
「事実なので」
ビスケは悔しそうに唇を噛んだ。
◇
「じゃあ、かくれんぼする」
「今から?」
「この庭の中だけ。あたしが隠れるから、見つけて」
「眠いんですが」
「負けるのが怖いの?」
「眠いだけです」
「じゃあ、見つけたらすぐ終わりだわさ」
見つけられなければ終わらないのではないか。
そう思ったが、口には出さなかった。
「分かりました」
「目を閉じて、100数えて」
「数字は算用数字でいいですか?」
「何の話よ!」
ビスケに怒鳴られ、フクリは素直に木へ顔を向けた。
◇
100まで数え、振り返る。
庭は暗い。
灯りも消されていた。
ビスケの姿はない。
オーラも感じない。
絶へ入っている。
フクリはすぐに歩き出さなかった。
耳を澄ます。
風。
葉。
虫。
木が軋む音。
呼吸は聞こえない。
足音もない。
先ほどまでビスケがいた場所を確認する。
僅かに土が乱れている。
そこから右へ。
小さな足跡。
途中で消えていた。
跳んだのか。
フクリは上を見る。
木の枝。
暗くて見えにくい。
気配はない。
だが、枝の1本だけが不自然に揺れていた。
「そこですか?」
返事はない。
フクリは木の根元へ近づく。
上を見上げる。
誰もいない。
「外れだわさ」
声は背後から聞こえた。
振り返る。
ビスケが、最初に置いていた石の上へ座っていた。
「いつ戻ったんです?」
「教えない」
「木に登ったように見せて、後ろへ回った?」
「さあね」
見つけられなかった。
ビスケは得意そうに胸を張る。
「どう?」
「上手かったです」
「それだけ?」
「俺の負けですね」
素直に認めると、ビスケは少し物足りなそうな顔をした。
「悔しくないの?」
「少しは」
「もっと悔しがりなさいよ」
「次は俺が隠れます」
フクリは答えた。
ビスケの目が輝く。
「絶対見つけるわさ」
◇
ビスケが木へ顔を向けた。
フクリは絶へ入る。
庭を見る。
木。
丸太。
木人。
隠れる場所はいくつもある。
だが、ビスケは身体能力も感覚もフクリより遥かに上だ。
普通に隠れても、すぐ見つかる。
フクリは庭の外周へ歩いた。
木の陰へ入る。
だが、そこで止まらない。
ビスケが数えている声に合わせ、少しずつ位置を変える。
50。
60。
70。
木々を抜け、最初にビスケが立っていた場所へ戻る。
灯りを置いていた石の横。
そこへ腰を下ろす。
ビスケは、自分が数え終わるまでフクリが遠くへ移動すると考えるはずだ。
あえて近くにいる。
呼吸を止めるのではなく、風の音へ混ぜる。
身体を縮めない。
不自然な姿勢は、逆に視線を引く。
ただ、そこにある石の1つになるように座った。
「100!」
ビスケが振り返る。
視線が庭を走る。
木。
木人。
地面。
フクリの上も一度通り過ぎた。
だが、すぐに戻ってくる。
目が合った。
「そこ!」
「早いですね」
数秒だった。
フクリは絶を解いた。
「近くにいるのは読めてたわさ」
「嘘でしょう」
「本当よ」
「最初、一度見逃しましたよ」
「暗かったから!」
「絶の勝負ですよね」
「うるさいわさ!」
ビスケは顔を赤くした。
完全に見つからなかったわけではない。
それでも、一瞬見失わせた。
ビスケにとっては、それだけでも悔しいらしい。
◇
「もう1回」
「明日も早いです」
「次は負けない」
「今も負けてませんよ」
「見逃した!」
「でも見つけたでしょう」
「納得できないわさ」
「俺は眠いです」
「逃げるの?」
「寝ます」
フクリは宿舎へ戻ろうとした。
ビスケが服の裾をつかむ。
「待ちなさい」
「まだ何か?」
「絶へ入る時、どうしてるの?」
先ほどまでの勢いが少し弱くなっている。
純粋な質問だった。
「どうしてると言われても」
「オーラを閉じる以外よ。呼吸とか、姿勢とか」
フクリは少し考えた。
自分が5年以上かけて試してきたこと。
念へ目覚める前から続けていたこと。
「相手から、自分がどう見えるかを考えないことです」
「どういう意味?」
「見つからないようにしようと思うと、隠れている人の動きになります」
「隠れてるんだから当然でしょ」
「隠れてる人を探してる相手には、それが目立つんです」
木の陰。
物陰。
身体を小さくする。
息を止める。
誰かから隠れようとすれば、人は不自然な行動を取る。
「だから、何もしてないようにする」
「絶を使ってるのに?」
「はい。自分が特別なことをしてると思わない」
「分からないわさ」
「俺も言葉で説明するのは難しいです」
フクリは石の上へ座った。
「ビスケさんは、強すぎるんですよ」
「何よ、急に」
「立ってるだけで、自分は強いって身体が言ってます」
「実際強いもの」
「だから目立つ」
「強いのが悪いって言うの?」
「悪くないです。ただ、隠れる時だけ邪魔になる」
ビスケは黙った。
納得はしていない。
だが、考えてはいるようだった。
「力を抜けばいいの?」
「身体だけじゃなくて、勝つ気も」
「勝つ気?」
「俺を見つける。俺より上手くやる。そう思いすぎてました」
「当たり前でしょ」
「それが気配に出てます」
ビスケの顔が険しくなる。
「何で、あんたにそんなこと言われなきゃいけないのよ」
「聞いたのはビスケさんです」
「そうだけど!」
再び怒り始めた。
◇
「そこまでにしておけ」
突然、暗闇から声がした。
フクリとビスケが同時に振り返る。
庭の入口に、デスロが立っていた。
「師範」
「いつから?」
ビスケが尋ねる。
「最初からだ」
フクリは驚いた。
まったく気づかなかった。
絶へ入っていたわけでもない。
普通に立っている。
それなのに、意識から完全に外れていた。
「今のが、気配を消すということですか?」
フクリが尋ねる。
「少し違う」
デスロは庭へ入ってきた。
「私は気配を消していない。お前たちが見ていなかっただけだ」
「どう違うんです?」
「絶は、自分から漏れるものを閉じる技術だ。隠密は、相手の意識から外れる技術だ。似ているが、同じではない」
フクリは黙って聞いた。
自分は長年、2つを混ぜて使っていた。
オーラを閉じる。
呼吸や足音を消す。
視線から外れる。
すべてを絶の一部だと思っていた。
「フクリ」
「はい」
「お前の絶は確かに上手い。だが、その半分は身体技術と習慣だ」
「絶だけが上手いわけではない?」
「絶そのものも高い水準にある。だが、お前が人から見つかりにくい理由のすべてではない」
ビスケが少しだけ嬉しそうな顔をした。
「じゃあ、絶だけならあたしの方が上?」
「今はフクリだ」
ビスケの顔から喜びが消えた。
「何でよ!」
「閉じ方に無駄が少ない。長時間維持することにも慣れている」
「切り替えはあたしの方が速いわさ」
「そうだな」
「なら引き分けでしょ」
「何の勝負だ」
デスロは呆れたように言った。
◇
「ビスケ」
「何よ」
「他人より上か下かだけで技術を見るな」
「でも、負けたくないもの」
「負けたくない気持ちは悪くない。だが、勝つことだけを考えると、学べるものまで見えなくなる」
ビスケは不満そうに黙った。
「フクリ」
「はい」
「お前も同じだ」
「俺も?」
「勝てないと判断するのが早すぎる」
「実際、ビスケさんには勝てません」
「今はな」
「5年後も難しいと思います」
「そうかもしれん」
「なら、判断は合ってるでしょう」
「結果の予測と、可能性を捨てることは違う」
デスロはフクリの前へ立った。
「お前は自分に才能がないと理解している。それ自体は正しい」
「はい」
「だが、その言葉を逃げ道にも使っている」
フクリはすぐに返事をしなかった。
「才能がないから、できなくても仕方がない。才能がないから、そこそこでいい。そう考えれば、傷つかずに済む」
「現実的なだけです」
「本当にそうか?」
デスロの視線は鋭かった。
否定したかった。
だが、完全には否定できない。
最初から期待しなければ、失敗しても痛くない。
自分には才能がない。
そう言っておけば、周囲にも自分にも言い訳ができる。
実際に才能が低いことと、それを盾にすることは別だった。
「……少しは、あるかもしれません」
「認めるのは早いな」
「否定する材料がないので」
「なら覚えておけ」
デスロが言う。
「才能は結果へ影響する。だが、今日できない理由のすべてを、才能へ押しつけるな」
「はい」
「ビスケもだ」
「何であたしまで」
「今日できたことを、才能だけのおかげだと思うな」
ビスケが口を閉じた。
天才と凡人。
正反対に見える2人へ、デスロは同じことを言っている。
才能だけで自分を決めるな。
そういうことなのだろう。
◇
「もう寝ろ」
デスロが言った。
「明日の修行は日の出前からだ」
「師範」
ビスケが呼び止める。
「絶の練習、明日もしていい?」
「好きにしろ。ただし、フクリの修行を邪魔するな」
「邪魔なんかしないわさ」
「今夜、眠る時間を削っている時点で邪魔だ」
正論だった。
「フクリも断れ」
「入門初日なので、断りづらくて」
「相手が強いからか?」
「師範の弟子だからです」
「理由になっていない」
「次から断ります」
「ちょっと!」
ビスケが抗議する。
「明日からは昼にしてください」
「仕方ないわね」
まだ続けるつもりらしい。
◇
宿舎へ戻る途中、ビスケが隣を歩いた。
「師範に言われたこと、気にしてる?」
「才能を言い訳にしてるって話ですか?」
「うん」
「少しは」
「本当に才能ないものね」
「慰める気はないんですか?」
「嘘を言っても仕方ないわさ」
フクリは苦笑した。
「ビスケさんは、才能があるって言われてどう思います?」
「当然だと思う」
「迷いがないですね」
「だって事実だもの」
13歳らしい自信。
だが、ただ思い上がっているわけではない。
実際、誰よりも修行しているのだろう。
「でも」
ビスケが小さく続けた。
「才能だけって言われるのは嫌い」
「どうして?」
「あたしだって修行してるから」
「なるほど」
「才能があるからできて当然って言われると、腹が立つわさ」
「俺も、才能がないからできなくて当然って言われるのは嫌かもしれません」
「自分で言ってるじゃない」
「他人に言われるのとは違います」
「面倒ね」
「お互い様でしょう」
ビスケがフクリを睨んだ。
だが、先ほどまでほど険しくはない。
◇
「絶のことは認めてあげる」
ビスケが言った。
「ありがとうございます」
「でも、武術は本当に駄目」
「知ってます」
「明日、立ち方だけで泣くかもしれないわさ」
「立つだけで泣くんですか?」
「師範の修行を甘く見ない方がいい」
「ビスケさんもやった?」
「当然」
「どれくらいかかりました?」
「3日」
「早いですね」
「才能があるから」
自分で言った。
「俺は1か月から1年と言われました」
「1年かかったら笑ってあげる」
「その頃には15歳ですか?」
「まだ14歳だわさ!」
「今13歳でしょう」
「もうすぐ14歳!」
先ほどバルガとも同じ話をしていた。
年齢を子供扱いされるのが嫌らしい。
「分かりました。もうすぐ14歳の先輩」
「何か馬鹿にしてない?」
「してませんよ」
「絶対してるわさ」
話しているうちに、宿舎へ着いた。
ビスケは女子用の宿舎へ向かう。
「明日、遅れないでよ」
「日の出前ですよね」
「日の出前じゃ遅い」
「では何時です?」
「空が明るくなる前」
「同じでは?」
「少し違うわさ」
「分かりにくいな」
「遅れたら水をかけるから」
そう言い残し、ビスケは去っていった。
◇
部屋へ戻ると、同室の弟子たちはすでに眠っていた。
フクリも布団へ入る。
今度こそ絶へ入り、身体を休ませる。
頭の中には、デスロの言葉が残っていた。
才能がない。
それは事実だ。
ゴンやキルアのような天才ではない。
ビスケにも遠く及ばない。
5年間修行しても、武術の達人にはなれないだろう。
だが、それを理由に、最初から限界を決めていた部分はあった。
そこそこ強くなれればいい。
次の念能力を作るための土台になればいい。
その考え自体は変わらない。
武術だけで最強になるつもりはない。
使えるものは、すべて使う。
念能力。
時間。
知識。
経験。
ただし。
どうせ才能がないからと、修行の手を抜くのは違う。
5年間で達人になれなくても。
5年間で得られる最大限までは進む。
「最大限か」
本当は面倒だった。
楽な方へ流れたい。
朝もゆっくり眠りたい。
苦しい修行も好きではない。
それでも、発動時点の身体能力を100とする能力を作るつもりなら。
その100を、できるだけ高くしておく方がいい。
未来の自分を楽にするため。
今の自分が、少しだけ頑張る。
そのくらいなら、できるかもしれない。
◇
眠りへ落ちてから、どれくらい経ったのか。
突然、顔へ冷たいものが落ちた。
「うわっ!」
フクリは飛び起きた。
目の前にビスケが立っている。
手には、水の入った小さな器。
「起きなさい」
「まだ暗いですけど」
「空が明るくなる前って言ったでしょ」
「勝手に男子宿舎へ入っていいんですか?」
「師範の許可は取ったわさ」
「何時です?」
「知らない」
「寝た気がしないな」
「早く着替えて」
ビスケは容赦がなかった。
同室の弟子たちは、慣れているのか起きる様子もない。
フクリは濡れた顔を拭き、道着へ着替えた。
昨日、道場から貸し出されたものだ。
まだ身体に馴染んでいない。
父からもらった杖も持つ。
「杖はいらない」
「立つ修行でしょう?」
「だからいらないの」
フクリは杖を部屋へ戻した。
◇
庭へ出る。
空はまだ暗い。
山の向こうが、ほんの僅かに青くなり始めている。
デスロはすでに立っていた。
ネテロもいる。
腕を組み、眠そうに欠伸をしている。
「会長も来るんですか?」
フクリが尋ねる。
「面白そうじゃからな」
「立つだけですよね」
「お主が、どれだけ立てぬかを見る」
「見世物ではないんですが」
「気にするな」
気になる。
ビスケは少し離れた場所で準備運動をしていた。
「始めるぞ」
デスロが言う。
フクリは庭の中央へ立った。
「普通に立て」
「立ってます」
「それが普通なら、普通を捨てろ」
初めから難しかった。
◇
デスロはフクリの周囲を歩く。
「足が狭い」
フクリが少し広げる。
「広すぎる」
戻す。
「膝が固い」
緩める。
「腰が落ちていない」
少し腰を落とす。
「落としすぎだ」
「細かいですね」
「身体は細かいものの集まりだ」
肩。
首。
背中。
骨盤。
足裏。
次々と修正される。
姿勢を1つ変えるたび、別の場所がおかしくなる。
膝を緩めれば、背中が丸くなる。
背筋を伸ばせば、肩へ力が入る。
肩を抜けば、頭が前へ出る。
「難しい」
「まだ始めて10分だわさ」
ビスケが横から言う。
「黙って見ていろ」
デスロに注意され、ビスケは口を閉じた。
顔には、明らかに楽しんでいる様子が出ていた。
◇
30分。
ただ立っているだけなのに、太腿が震え始めた。
普段の立ち方とは違う。
筋肉で身体を固めず、骨格で体重を支える。
力を抜きながら崩れない。
言葉にすると簡単だ。
実際には、どこまで力を抜けばいいか分からない。
「力を抜け」
「抜いてます」
「抜けていない」
「これ以上抜いたら倒れます」
「倒れてみろ」
フクリは力を抜いた。
本当に倒れた。
尻から地面へ落ちる。
「痛い」
「今のは抜いたのではない。支えることをやめただけだ」
「違いが分かりません」
「分かるまでやる」
先は長そうだった。
◇
1時間後。
汗が流れていた。
走っていない。
拳も振っていない。
それでも全身が疲れている。
普段使っていない筋肉が、姿勢を維持するために働いている。
「もう少し腰を前」
ビスケが言った。
「どれくらい?」
「その半分」
「こう?」
「行きすぎ」
「難しいな」
「何で、これができないのよ」
「才能がないので」
反射的に答えた。
デスロの視線が飛んでくる。
フクリは言い直す。
「まだ分かっていないので」
「よい」
デスロが短く答えた。
ビスケは少し驚いた顔をした。
「何?」
「いえ」
「言いなさいよ」
「昨日より少しだけ、言い方が変わったと思って」
「気持ち悪いわさ」
「何を言っても悪口ですね」
◇
朝日が山の向こうから昇り始めた。
庭へ光が差し込む。
フクリの脚は震えていた。
だが、最初より僅かに楽になっている。
身体を筋肉だけで支えず、足裏全体へ体重を分散する。
背骨の上へ頭を乗せる。
肩を下げる。
膝を固めない。
正解かは分からない。
それでも、少しずつ形が変わっている感覚はあった。
「今日はここまでだ」
デスロが言った。
フクリはその場へ座り込んだ。
「立つだけで、こんなに疲れるとは思いませんでした」
「お前は今まで、余計な力で立っていた」
「22年間も?」
「そうだ」
「直すのに1年かかる可能性があるわけですね」
「今のままならな」
フクリは空を見上げた。
修行初日。
まだ立つことしかしていない。
技どころか、歩くことすら始まっていない。
それでも、自己流で10年続けた時より、身体について多く気づいた気がする。
「どうだった?」
ネテロが尋ねる。
「面倒です」
「それだけか?」
「でも、面白いですね」
口にした後、自分でも少し驚いた。
身体の位置を僅かに変える。
それだけで、疲れ方も力の入り方も変わる。
知らないことばかりだった。
「なら続くかもしれんのう」
ネテロが笑った。
「面白い間は」
「面白くなくなったら?」
「必要なら続けます」
「お主らしい答えじゃ」
◇
ビスケがフクリの前へ立った。
「午後も絶の勝負するから」
「修行は?」
「修行が終わってから」
「疲れていたら断りますよ」
「逃げるの?」
「断るのと逃げるのは違います」
「同じだわさ」
「違います」
また言い合いが始まる。
デスロは止めなかった。
ネテロは楽しそうに見ている。
フクリの心源流での修行は、始まったばかりだった。
武術の才能はない。
身体能力も並。
5年後、どこまで進めるかは分からない。
だが少なくとも。
最初の日から、退屈する心配だけはなさそうだった。