第8話 才能の差
それからの日々は、同じことの繰り返しだった。
立つ。
歩く。
走る。
転ぶ。
受け身を取る。
また立つ。
地味な修行ばかりだった。
フクリは何度も思った。
「もっと派手な修行がしたいな」
だが、デスロの答えは毎回同じだった。
「基礎が終わってからだ」
そして、その基礎がなかなか終わらない。
◇
3か月後。
ようやく立ち方と歩き方の修行が一区切りとなった。
「今日から拳を教える」
その一言だけで、少し嬉しかった。
「やっとですか」
「喜ぶのは早い」
デスロはフクリの拳を見た。
「握れ」
フクリは拳を作る。
「違う」
親指の位置を直される。
「もう一度」
「違う」
手首を直される。
「もう一度」
「肩へ力が入った」
また最初からだった。
「……拳を握るだけですよね?」
「拳を握るだけだ」
歩く時と同じだった。
簡単そうに見えるほど難しい。
◇
一方のビスケは違った。
新しい技を教えられる。
一度見る。
二、三回試す。
もう形になっている。
「どうして、そんなに覚えるのが早いんです?」
フクリが尋ねると、ビスケは首を傾げた。
「見たまま動くだけだわさ」
「それができないんですよ」
「何で?」
「俺が聞きたいです」
ビスケは本当に不思議そうだった。
天才には、凡人が見えている世界が分からない。
逆に、凡人には天才の感覚が理解できない。
何度もそんな場面があった。
◇
半年が過ぎた頃。
フクリはようやく門弟たちとの組手へ参加するようになった。
もちろん勝てない。
同期の門弟にも負ける。
1年先輩のロドには何もさせてもらえない。
「遅い」
「見えてない」
「今のは避けられただろ」
毎日のように負けた。
だが、不思議と落ち込まなかった。
最初から勝てるとは思っていない。
昨日の自分より、一歩だけ前へ進めばいい。
それだけだった。
◇
「また負けたの?」
組手を見ていたビスケが言う。
「負けました」
「悔しくないの?」
「悔しいですよ」
「全然そう見えない」
「表情へ出ないだけです」
フクリは地面へ座り、汗を拭いた。
「でも今日は、3回受けられました」
「前は?」
「最初の1発で終わってました」
「そんな小さな成長で満足なの?」
「満足はしてません」
「じゃあ何?」
「昨日より強くなったので」
ビスケは黙った。
しばらく考えた後、小さく笑う。
「変な人」
「よく言われます」
「普通は勝ち負けを見るのに」
「俺は昨日を見る方が分かりやすいので」
「昨日?」
「昨日の自分です」
ビスケは何も言わなかった。
だが、その日からフクリが組手を終えるたび、必ず一言だけ言うようになった。
「今日は昨日より良かった」
ある日は。
「今日は昨日より悪い」
それだけ。
勝った負けたではなく、昨日と比べるようになっていた。
◇
修行を始めて1年。
フクリはようやく武術家らしい立ち方になっていた。
歩き方も自然になった。
拳も、それなりに形になる。
だが、デスロの評価は変わらない。
「才能は並以下」
「知ってます」
「覚える速度も遅い」
「それも知ってます」
「だが」
珍しく、デスロが続けた。
「基礎だけなら、誰よりも崩れにくい」
フクリは少し驚いた。
「本当ですか?」
「ああ」
「才能がないのに?」
「才能がないからだ」
「どういう意味です?」
「お前は1つ覚えるのに時間がかかる」
「はい」
「だから、できるまで何百回も繰り返す」
「そうですね」
「ビスケは10回で覚える」
「羨ましいです」
「だから100回はやらん」
その言葉に、フクリは少し考えた。
「つまり」
「基礎だけなら、お前の方が積み重ねている」
「なるほど」
才能がある者は速く進む。
その代わり、時間をかけて染み込ませる前に次へ進む。
才能がない自分は違う。
進めない。
だから何度も同じことを繰り返す。
結果として、基礎だけは誰よりも身体へ残る。
「面白いですね」
フクリが呟く。
「何がだ」
「才能がないことにも、少しだけ利点があるんだなって」
デスロは僅かに笑った。
「その考え方は嫌いではない」
◇
その夜。
裏庭で絶の修行をしていると、ビスケがやって来た。
「まだやってるの?」
「日課なので」
「飽きない?」
「もう身体の一部ですから」
フクリは自然に絶へ入る。
以前よりさらに滑らかだった。
気配は風へ溶ける。
呼吸も消える。
ビスケは何度見ても納得できない顔をしていた。
「やっぱり悔しいわさ」
「またですか」
「武術は私の方が上」
「はい」
「念も総合では私」
「そうですね」
「なのに絶だけ負ける」
「そこだけは長くやってましたから」
「何年?」
「11歳から毎日です」
「……毎日?」
「ほぼ毎日ですね」
ビスケは黙る。
それだけ聞けば、納得できる部分もある。
才能だけで身についた技術ではない。
何年も繰り返した結果だ。
「追いつく」
ビスケが言う。
「絶対に」
「応援してます」
「ライバルなんだから応援しない!」
「俺、ライバルなんですか?」
「そうよ」
「武術では相手になってませんよ」
「絶で負けてるから」
フクリは少し笑った。
「では、お互い頑張りましょう」
「その余裕そうな顔も気に入らないわさ」
◇
修行開始から1年。
武術の才能の差は、誰の目にも明らかだった。
ビスケは天才。
フクリは凡人。
その差は縮まらない。
だが、デスロだけは時々こう言った。
「才能は差を作る」
「だが、積み重ねは差の形を変える」
その意味は、まだフクリにもビスケにも分からなかった。
だが、この言葉が数年後、2人の考え方を大きく変えることになる。