0.1%の積み重ね   作:仮面のカルメン

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第4話 教えられない力

 

第4話 教えられない力

 

 翌朝。

 

 フクリが100階の修練室へ入ると、ウイングはすでに来ていた。

 

 昨日と同じ場所に立ち、目を閉じている。

 

 足幅は肩より少し狭い。

 

 膝を固めず、腰を引かない。

 

 肩から余計な力を抜こうとしていることも分かった。

 

 たった1日で完成するような修行ではない。

 

 それでも、昨日より明らかに姿勢が良くなっている。

 

「早いですね」

 

 フクリが声をかけると、ウイングは目を開いた。

 

「おはようございます、フクリさん」

 

「いつからやっていたんです?」

 

「1時間ほど前です」

 

「早く来すぎです」

 

「少しでも昨日の続きをしたくて」

 

「朝食は?」

 

「まだです」

 

「食べてきてください」

 

「でも、修行が」

 

「食事を抜いて身体を壊したら、修行できなくなります」

 

 ビスケにも似たようなことを何度も言われた。

 

 言う側へ回ると、その正しさがよく分かる。

 

「食べてから戻ってきます」

 

「急がなくていいですよ」

 

「はい!」

 

 ウイングは走って修練室を出ていった。

 

「急がなくていいと言ったのに」

 

 返事だけは素直だった。

 

     ◇

 

 ウイングが戻るまで、フクリは自分の修行を始めた。

 

 立つ。

 

 歩く。

 

 踏み込む。

 

 右拳を出す。

 

 身体を戻す。

 

 左へ移動。

 

 攻撃を避ける動きから、押し出しへつなげる。

 

 天空闘技場での試合を想定し、何度も同じ流れを繰り返す。

 

 次にオーラの修行へ移る。

 

 纏を維持したまま動く。

 

 右腕へオーラを集める。

 

 左脚へ移す。

 

 腹。

 

 背中。

 

 再び全身へ戻す。

 

 以前より流の速度は上がっていた。

 

 身体能力が向上したからではない。

 

 試合で何度も必要に迫られた結果だ。

 

 それでも、ビスケと比べれば遅い。

 

 攻撃が見えてから移動させていては間に合わない。

 

 相手の構えや視線から、攻撃が来る場所を予測する必要があった。

 

 フクリは練へ移った。

 

 全身から放たれるオーラ量が増す。

 

 部屋の空気が僅かに重くなる。

 

 敵意はない。

 

 誰かへ向けてもいない。

 

 だが、念を知らない人間でも、近くにいれば理由の分からない圧力を感じることがある。

 

 その状態から、一気に絶へ入った。

 

 オーラを完全に閉じる。

 

 直前まで部屋に満ちていた威圧感が消えた。

 

「やっぱりだ」

 

 入口から声がした。

 

 振り返る。

 

 朝食を終えたウイングが立っていた。

 

「何がです?」

 

「今です」

 

「今?」

 

「さっきまで、ここへ入るのが怖かったんです」

 

 ウイングは修練室へ足を踏み入れた。

 

「でも、急に何も感じなくなりました」

 

「気のせいでは?」

 

「違います」

 

 即答だった。

 

 昨日も同じことを聞かれている。

 

 一度なら誤魔化せるかもしれない。

 

 だが、ウイングはすでに何度も変化を感じ取っていた。

 

「フクリさんは、何をしているんですか?」

 

「修行です」

 

「どんな修行です?」

 

「心源流の修行です」

 

「僕にも教えてください」

 

「まだ早いです」

 

「立ち方を覚えてから?」

 

「そういう問題ではありません」

 

 ウイングは黙った。

 

 納得してはいない。

 

 だが、強引に聞き出そうともしなかった。

 

「僕に才能がないからですか?」

 

「違います」

 

「では、どうして?」

 

 念を教える資格がない。

 

 教えるとしても、ビスケやデスロへ相談するべきだ。

 

 それに、ウイングが念の存在を知れば、今以上に興味を持つだろう。

 

 中途半端な知識だけ与える方が危険だった。

 

「今のあなたへ必要なものではないからです」

 

「強くなるための修行では?」

 

「強くなる方法が、すべて今必要だとは限りません」

 

 フクリは自分の経験を思い出す。

 

 念があると知り、何年もかけて自力で目覚めた。

 

 正しい知識もないまま能力を作った。

 

 自分には『容量判定(メモリー・ジャッジ)』があったため、大きな失敗を避けられた。

 

 普通の人間が同じことをすれば、危険な能力や無理な制約を作る可能性がある。

 

「包丁は料理に便利です」

 

 フクリが言った。

 

「はい」

 

「でも、持ち方を知らない子供へ渡せば怪我をする」

 

「僕は子供ですか?」

 

「俺から見れば」

 

「フクリさんは27歳ですからね」

 

「そこを強調しなくていいです」

 

「すみません」

 

「今は基礎をやりましょう」

 

 ウイングはしばらく迷った末、頷いた。

 

「分かりました」

 

 素直だ。

 

 しかし、疑問を忘れたわけではないだろう。

 

     ◇

 

「今日は歩きます」

 

「もうですか?」

 

「立ち方が完成したわけではありません。ただ、立っているだけでは分からない崩れ方もあります」

 

 ウイングを修練室の端へ立たせる。

 

「反対側まで、普通に歩いてください」

 

 ウイングが歩き出す。

 

 足運びは軽い。

 

 初日のフクリより遥かに良い。

 

 だが、歩き始めるたび上半身が僅かに前へ倒れている。

 

 身体を運ぶのではなく、倒れる身体を足で受け止めている。

 

「止まってください」

 

「はい」

 

「今、自分がどう歩いていたか分かります?」

 

「普通に歩いていました」

 

「俺も最初はそう思いました」

 

 フクリはウイングの横へ並ぶ。

 

「歩き始める時、身体を前へ倒しています」

 

「前へ進むからでは?」

 

「俺も同じことを言いました」

 

「違うんですか?」

 

「デスロ師範によれば、違います」

 

「フクリさんは、どう考えています?」

 

 思わずウイングを見る。

 

「師範ではなく、俺の考えを聞くんですか?」

 

「フクリさんが教えてくれているので」

 

 自分は師匠ではない。

 

 それでもウイングにとって、今目の前で教えているのはフクリだ。

 

 デスロの言葉をそのまま伝えるだけでは足りない。

 

「俺は、立った身体をそのまま運ぶことだと考えています」

 

「倒れないように?」

 

「はい。頭の高さも、背骨の位置も、なるべく変えない。足を前へ伸ばすというより、腰が前へ進んだ結果、足が必要な場所へ置かれる感じです」

 

「腰が先?」

 

「完全に先ではありません。説明が難しいですね」

 

 ビスケが教えるのに苦労していた理由が分かる。

 

 身体で理解していることを、言葉へ変えるのは難しい。

 

「一度、押します」

 

 フクリはウイングの背後へ回った。

 

 腰へ両手を添える。

 

「歩いてください」

 

 ウイングが右足を出す。

 

 同時に腰を軽く押す。

 

 上半身が前へ倒れず、身体全体が運ばれる。

 

「あ」

 

「今の感覚です」

 

「もう1回お願いします」

 

 繰り返す。

 

 最初は押す。

 

 次は触れるだけ。

 

 最後は1人で歩かせる。

 

 何度か失敗した後、ウイングは自然な1歩を踏み出した。

 

「今のです」

 

「これが正しい歩き方?」

 

「心源流では、そう教わりました」

 

「フクリさんは、どれくらいで覚えたんですか?」

 

「何週間もかかりました」

 

「僕は今できました」

 

「1回だけです」

 

 次の1歩で、ウイングの上体が前へ倒れた。

 

「あ」

 

「一度できても、身体が覚えたわけではありません」

 

「はい」

 

「でも、かなり早いですね」

 

「才能がありますか?」

 

 期待の混じった目だった。

 

「俺よりは」

 

「比較する相手がフクリさんだけでは分かりません」

 

「失礼ですね」

 

「すみません!」

 

 冗談だったが、本気で謝られた。

 

「才能はあると思います。でも、それだけで先へ進まないでください」

 

「どうしてです?」

 

「一度できる人ほど、できたつもりになりやすいからです」

 

 デスロがビスケへ言ったこと。

 

 10回で覚えられる者は、100回繰り返さない。

 

 覚える速度が速いことは明らかな長所だ。

 

 だが、身体へ深く残るかは別の話だった。

 

「できた後も繰り返す?」

 

「はい。できなかった時との違いを理解してください」

 

「分かりました」

 

 ウイングは修練室の端へ戻った。

 

 再び歩く。

 

 失敗。

 

 戻る。

 

 成功。

 

 また戻る。

 

 教えなくても繰り返し始めた。

 

 才能だけではない。

 

 努力もできる。

 

 将来、ビスケの弟子となり、心源流の師範代になるのも納得できた。

 

     ◇

 

 午前の修行を終え、2人は食堂へ向かった。

 

 ウイングは食事中も、自分の足元を気にしている。

 

 椅子から立つ時。

 

 料理を取りに行く時。

 

 席へ戻る時。

 

 すべて修行として意識しているらしい。

 

「食べている時は、食事へ集中してください」

 

「でも、日常の動きでも練習できると思って」

 

「悪くありませんが、食事をこぼしますよ」

 

「大丈夫です」

 

 言った直後、皿の端へ袖が当たった。

 

 汁が少しこぼれる。

 

「……すみません」

 

「だから言ったでしょう」

 

 ウイングは布で机を拭いた。

 

「フクリさんも、最初は日常で意識していたんですか?」

 

「はい。歩くたびに姿勢を直していました」

 

「食事中も?」

 

「ビスケさんに、食べるのが遅いと怒られていました」

 

「ビスケさんは厳しい方なんですね」

 

「かなり」

 

「フクリさんより強い?」

 

「遥かに」

 

「何歳ですか?」

 

「18歳です」

 

 ウイングの箸が止まった。

 

「フクリさんより9歳も年下ですよね」

 

「計算しなくていいです」

 

「それほど強い方が、なぜフクリさんと一緒に?」

 

「同じ道場だったので」

 

「それだけですか?」

 

 何を聞きたいのだろう。

 

「今は一緒に旅をしています」

 

「恋人ですか?」

 

「違います」

 

 即答した。

 

 ビスケとは相棒に近い。

 

 絶の練習相手。

 

 武術の先輩。

 

 能力設計の相談相手。

 

 毎週、身体性能の変化を記録する人。

 

 少なくとも、恋人ではない。

 

「そうなんですね」

 

「残念そうな顔をしないでください」

 

「していません」

 

「戻ってきたら紹介します」

 

「あと1、2か月ですか?」

 

「予定では」

 

 ビスケが出発してから、すでに1か月半ほど経っている。

 

 最初に言っていた2、3か月なら、長くてもあと半月から1か月半。

 

 その間だけ、ウイングと基礎を続ける。

 

 そう考えていた。

 

     ◇

 

 午後。

 

 フクリには100階での最初の試合があった。

 

 対戦相手はダルク。

 

 身長はフクリとほとんど同じ。

 

 細身だが、両腕が異様に長い。

 

 リングへ上がったダルクは、最初からフクリの戦い方を知っていた。

 

「押し出す男」

 

「最近、よく呼ばれます」

 

「100階でも同じことをするつもりか?」

 

「できれば」

 

「低階の連中みたいにいくと思うな」

 

「思っていません」

 

 開始の合図。

 

 ダルクは自分から動かなかった。

 

 長い腕を前へ出し、フクリの接近を待つ。

 

 押し出すには、相手へ触れなければならない。

 

 その前に腕で止めるつもりだろう。

 

 フクリは円を描くように移動した。

 

 ダルクも身体の向きを変える。

 

 隙は見えない。

 

 まずは右拳。

 

 距離を測るための軽い攻撃。

 

 届く前に、ダルクの左手がフクリの手首を払った。

 

 同時に右拳が飛ぶ。

 

 顔を逸らす。

 

 拳が頬をかすめる。

 

「長いですね」

 

「見れば分かるだろ」

 

「予想より少し」

 

 フクリの間合いの外から攻撃が届く。

 

 近づこうとすれば、両腕で押し返される。

 

 相性が悪かった。

 

     ◇

 

 ダルクの腕が何度も伸びる。

 

 拳。

 

 掌底。

 

 つかみ。

 

 攻撃の種類も多い。

 

 フクリは受けながら距離を測った。

 

 腕が長い分、懐へ入れば有利になる。

 

 だが、その懐までが遠い。

 

 正面からでは難しい。

 

 フクリは練を使った。

 

 オーラ量を増やす。

 

 ダルクの表情が僅かに変わった。

 

 念は見えていない。

 

 だが、急にフクリの雰囲気が変わったことは感じたらしい。

 

「何だ?」

 

「何がです?」

 

「急に……」

 

 ダルクの攻撃が一瞬止まる。

 

 フクリは踏み込んだ。

 

 その瞬間、絶へ入る。

 

 威圧感が消える。

 

 ダルクの目に迷いが生まれた。

 

 先ほどまで危険に感じた相手が、急に弱く見える。

 

 どちらの感覚を信じるべきか判断が遅れた。

 

 フクリは左腕の外側へ回り込んだ。

 

 絶を解く。

 

 纏へ戻る。

 

 懐へ入った。

 

 肩を当てる。

 

 だが、ダルクも100階へ到達した選手だ。

 

 簡単には崩れない。

 

 長い腕をフクリの背中へ回し、抱え込む。

 

「捕まえた」

 

「こちらもです」

 

 フクリはダルクの腰へ両腕を回した。

 

 押し合い。

 

 力だけなら、現在のフクリが上かもしれない。

 

 身体性能は発動時から約12.68%上昇している。

 

 だが、強引に押せば相手へ怪我をさせる。

 

 フクリは足の位置を探った。

 

 ダルクの右足は、後ろへ引かれている。

 

 踏ん張る形。

 

 左へ押しても動かない。

 

 なら、前。

 

 フクリは一度、後ろへ引いた。

 

 ダルクが逃がすまいと前へ力をかける。

 

 その瞬間、フクリは抵抗をやめた。

 

 ダルクの身体が前へ流れる。

 

 横へ回る。

 

 背中へ手を当てる。

 

 押す。

 

 2歩。

 

 3歩。

 

 ダルクはリングの縁で踏みとどまった。

 

 長い腕を後ろへ振り、フクリの肩をつかむ。

 

 自分が落ちながら、道連れにしようとする。

 

「一緒に来い!」

 

「嫌です」

 

 フクリは肩の力を抜いた。

 

 つかまれた方向へ逆らわず、身体を低くする。

 

 ダルクの手が滑る。

 

 フクリの服だけをつかんだまま、ダルクが場外へ落ちた。

 

 布が裂ける音。

 

 フクリはリングへ残った。

 

「勝者、フクリ!」

 

     ◇

 

 歓声が起こった。

 

 低階層より観客も多い。

 

「100階でも押し出した!」

 

「最後、服が破れたぞ!」

 

「地味なのか派手なのか分からんな!」

 

 フクリは破れた肩口を見た。

 

「着替えを買わないと」

 

 勝利より先に、そのことが浮かんだ。

 

 審判がダルクの状態を確認する。

 

 怪我がないと分かってから近づいた。

 

「大丈夫ですか?」

 

「俺より自分の服を心配しろ」

 

「今していました」

 

「本当に変な奴だな」

 

 ダルクは悔しそうにしながらも、手を差し出した。

 

 フクリも握り返した。

 

     ◇

 

 控室へ戻ると、ウイングが待っていた。

 

「すごかったです!」

 

「見ていたんですか?」

 

「はい!」

 

「修行は?」

 

「試合を見るのも勉強になると思って」

 

「それはそうですね」

 

 ウイングは興奮していた。

 

「最後、相手の力を利用したんですよね」

 

「はい」

 

「最初に近づいた時は?」

 

「少し威圧しただけです」

 

 答えてから、言葉を間違えたと思った。

 

「威圧?」

 

 ウイングが反応する。

 

「気持ちの話です」

 

「昨日から感じていたものと同じですか?」

 

「違います」

 

「でも、あの人も動きを止めました」

 

「気のせいでしょう」

 

「フクリさん」

 

 ウイングの声が真剣になる。

 

「僕には教えられない力なんですか?」

 

「今は」

 

「いつなら教えてもらえます?」

 

「俺から教えるとは言っていません」

 

「では、誰に?」

 

 ビスケ。

 

 あるいはデスロ。

 

 正式に心源流へ弟子入りした後。

 

 今の段階で決めることではない。

 

「それを決めるためにも、まず基礎を続けましょう」

 

「また誤魔化しました」

 

「誤魔化しています」

 

 否定しなかった。

 

 ウイングは驚いた顔をする。

 

「認めるんですか?」

 

「嘘を増やすと、後で説明が面倒なので」

 

「では、本当に何かある」

 

「あるとも言っていません」

 

「今のは、ほとんど答えでは?」

 

「そうかもしれませんね」

 

 これ以上、何もないふりを続けるのは難しい。

 

 ウイングは威圧感の変化へ気づいている。

 

 試合中、相手が同じ変化に戸惑うところも見た。

 

 力の正体を教えることはできない。

 

 だが、すべてを気のせいで片づければ、ウイングは独自に答えを探し始めるかもしれない。

 

 それは危険だった。

 

     ◇

 

「心源流には、表向きの教えがあります」

 

 フクリが言った。

 

「表向き?」

 

「武術を学ぶ者が、目標を実現するための心構えです」

 

「それを学べば、今の力が使えますか?」

 

「同じものではありません」

 

「でも、関係はある?」

 

「考え方としては」

 

 完全な嘘ではない。

 

 心源流の「燃」。

 

 点。

 

 舌。

 

 錬。

 

 発。

 

 本物の念を隠すための方便でもあり、精神を整える修行でもある。

 

「教えてください」

 

「では、明日の修行から」

 

「今では駄目ですか?」

 

「今日は歩き方の反復が残っています」

 

「先に説明だけでも」

 

「急ぎすぎです」

 

「気になります」

 

「分かります」

 

 フクリも、念が存在すると知ってから、自力で目覚めるまで何年も試し続けた。

 

 気になるものを放置できない気持ちは理解できる。

 

「説明だけです」

 

「はい!」

 

     ◇

 

 フクリは紙を取り出し、中央に大きく「燃」と書いた。

 

「心を燃やすと書いて、燃です」

 

「燃」

 

「4つの行程に分かれています」

 

 その下へ、順番に文字を書く。

 

 点。

 

 舌。

 

 錬。

 

 発。

 

「最初は点」

 

 フクリは点の文字を指した。

 

「自分が目指すものを、心の中で明確に定めます」

 

「目標を決める?」

 

「はい。何となく強くなりたいでは足りません。何のために、どのような自分になりたいのかを決める」

 

「僕なら、心源流へ入って強くなることです」

 

「それは目標の途中では?」

 

「途中?」

 

「心源流へ入った後、強くなって何をしたいんです?」

 

 ウイングは答えに詰まった。

 

「考えたことがありません」

 

「では、考えてください」

 

「フクリさんの目標は?」

 

「自分の人生を、自分で守ることです」

 

「それだけですか?」

 

「楽しく生きることも」

 

「武術家として有名になることは?」

 

「ありません」

 

「天空闘技場の頂上は?」

 

「190階で止めます」

 

 ウイングは不思議そうだった。

 

 強さを求めているのに、最上階を目指さない。

 

 心源流で5年修行したのに、武術家として名を残すつもりもない。

 

「目標は、他人から立派に見える必要はありません」

 

 フクリは続けた。

 

「自分が本当に望むものでなければ、長く続きません」

 

「はい」

 

「次に舌」

 

 文字を指す。

 

「定めた目標を言葉にします」

 

「口に出すんですか?」

 

「はい。言葉へできない目標は、自分でも理解できていない可能性があります」

 

「自分へ言い聞かせる?」

 

「それもあります」

 

「次は錬」

 

 ウイングが先を読む。

 

「意志を高める?」

 

「よく分かりましたね」

 

「文字の並びから」

 

「定め、言葉にした目標へ向かう気持ちを練り上げます。簡単に諦めないよう、自分の中で強くする」

 

「最後が発」

 

「実際に行動へ移す」

 

「点で決め、舌で言葉にし、錬で意志を高め、発で行動する」

 

「そうです」

 

 ウイングは紙を見つめた。

 

「でも、これで威圧感が出るんですか?」

 

「直接は出ません」

 

「やっぱり別の力なんですね」

 

「鋭いですね」

 

「誤魔化すために教えました?」

 

「半分は」

 

「半分?」

 

「今のあなたに役立つ教えでもあります」

 

 ウイングは不満そうだったが、紙を返さなかった。

 

「フクリさんは燃を使っているんですか?」

 

「一応」

 

「試合前にも?」

 

「目標は決めています」

 

「相手を押し出す?」

 

「できるだけ怪我をさせず、勝つことです」

 

「舌で言葉にする?」

 

「試合前に相手へ言う必要はありませんよ」

 

「心の中でもいいんですね」

 

「言葉として明確なら」

 

「錬で意志を高める」

 

「はい」

 

「発で押し出す」

 

「そこだけ聞くと、かなり単純ですね」

 

 ウイングが初めて少し笑った。

 

     ◇

 

「では、ウイングの点を決めましょう」

 

「心源流へ入ることでは足りないんですよね」

 

「その先を考えてください」

 

 ウイングは長く考えた。

 

 フクリは急かさない。

 

 自分の目標は、自分で決めるしかない。

 

「僕は」

 

 やがて、ウイングが口を開いた。

 

「強くなりたいです」

 

「なぜ?」

 

「大切な人へ、正しいことを教えられる人になりたい」

 

 予想していなかった答えだった。

 

「誰か、教えたい人がいるんですか?」

 

「今はいません」

 

「では、将来?」

 

「はい。僕が教わったものを、いつか誰かへ正しく伝えたいです」

 

 前世で知っている未来。

 

 ゴンとキルアへ念を教えるウイング。

 

 この時から、教える側へ立つことを望んでいたのかもしれない。

 

「いい目標だと思います」

 

「本当ですか?」

 

「はい。ただ、正しく教えるなら、自分が正しく学ばないといけません」

 

「だから心源流へ入りたい」

 

「つながりましたね」

 

 ウイングは頷いた。

 

「言葉にします」

 

 姿勢を正す。

 

 胸へ手を当てた。

 

「僕は、強さを正しく学び、それをいつか大切な人へ伝えられる人になります」

 

 静かな声。

 

 だが、迷いは少なかった。

 

「今のが舌です」

 

「はい」

 

「錬は?」

 

「この目標を忘れない」

 

「それだけではなく、できない時にも続ける理由にしてください」

 

「はい」

 

「発は明日からの修行です」

 

「今からでは?」

 

「もう今日は十分やりました」

 

「まだ歩けます」

 

「休むのも修行です」

 

「フクリさんが休みたいだけでは?」

 

「少しは」

 

 ウイングが呆れた顔をした。

 

 出会って2日目にして、フクリの性格が分かり始めたらしい。

 

     ◇

 

 それから1か月。

 

 ウイングとの基礎修行は続いた。

 

 ビスケが最初に言っていた3か月が過ぎたが、帰ってこなかった。

 

 手紙も届かない。

 

 予定が延びているのだろう。

 

 フクリは試合を続けながら、毎朝ウイングと修行した。

 

 ウイングの成長は早かった。

 

 立つ。

 

 歩く。

 

 重心を移す。

 

 拳を握る。

 

 肩の力を抜く。

 

 フクリが数か月かかった基礎を、短い期間で形にしていく。

 

 ただし、形になったから終わりにはしなかった。

 

「もうできています」

 

 ウイングが言う。

 

「疲れている時にもできますか?」

 

「試してみます」

 

 走った後。

 

 重い石を持った後。

 

 眠い朝。

 

 意識が別の場所へ向いた時。

 

 どんな状態でも基礎を崩さない。

 

 フクリ自身が5年間で学んだものを、少しずつ伝えた。

 

     ◇

 

 ウイングは時々、威圧感について尋ねた。

 

「今日の試合でも、急に雰囲気が変わりました」

 

「燃です」

 

「それだけではないですよね」

 

「半分は燃です」

 

「残り半分は?」

 

「秘密です」

 

「ビスケさんなら教えてくれますか?」

 

「多分、俺より厳しく隠すと思います」

 

「それほど危険なものなんですね」

 

「知らない方が安全な時期もあります」

 

 ウイングは以前ほど食い下がらなくなった。

 

 燃を学び、目標を持ったことで、今やるべきことへ集中できるようになったのだろう。

 

 それでも、完全には諦めていない。

 

 感覚の鋭さも変わらない。

 

 フクリが練へ入れば、遠くにいても振り返る。

 

 絶へ入れば、急に見失ったように周囲を探す。

 

「本当に見えていないんですよね」

 

 フクリが尋ねたことがある。

 

「何がです?」

 

「俺の周りに、光や煙のようなものは?」

 

「何も見えません」

 

「では、何で分かるんです?」

 

「空気が変わるように感じます」

 

 念は見えない。

 

 だが、ウイングは確かに存在へ近づいていた。

 

     ◇

 

 ビスケがいなくなってから4か月。

 

 フクリは120階を超えた。

 

 身体性能も成長している。

 

 能力開発から140日。

 

 20回目の成長が完了していた。

 

 現在身体性能:122.0190

 

 発動時と比べて約22%上昇。

 

 100階へ到達した頃より、さらに身体が軽い。

 

 押し出す力も増している。

 

 その分、試合では以前以上に制御が必要だった。

 

 相手の身体へ長く触れない。

 

 一瞬だけ重心を動かす。

 

 押すというより、崩れる方向を作る。

 

 力が上がるほど、技術を細かく使う必要がある。

 

 天空闘技場での試合と、ウイングへ基礎を教える時間。

 

 その2つが、フクリ自身の武術も見直させていた。

 

     ◇

 

 ある日の夜。

 

 フクリは100階の個室で、ビスケからの手紙を待っていた。

 

 もう2、3か月という予定を大きく過ぎている。

 

 何かあれば手紙を出すと言っていた。

 

 しかし届かない。

 

「大丈夫でしょうか」

 

 ウイングが尋ねる。

 

「ビスケさんですか?」

 

「はい」

 

「実力だけなら、俺より心配はいりません」

 

「それでも心配なんですね」

 

「多少は」

 

「寂しいですか?」

 

「それは別です」

 

「寂しくない?」

 

 フクリは少し考えた。

 

 毎週、身体能力を測る相手がいない。

 

 試合後に点数をつける相手もいない。

 

 宝石店へ付き合わされることもない。

 

 部屋も静かだ。

 

「少しは」

 

「ビスケさんへ言うんですか?」

 

「聞かれたら」

 

「素直ですね」

 

「嘘をつく理由がありませんから」

 

 ウイングはなぜか楽しそうに笑った。

 

     ◇

 

 ビスケが戻らないまま、さらに2か月が過ぎた。

 

 最初の予定は2、3か月。

 

 実際には6か月。

 

 フクリは140階へ近づいていた。

 

 ウイングとの基礎修行も、半年になる。

 

 立ち方は安定した。

 

 歩き方も自然になった。

 

 拳を出しても軸が崩れにくい。

 

 心源流へ正式に入門するための土台は、十分に作られている。

 

 あとはビスケが戻れば、今後について話し合える。

 

 だが。

 

「本当に帰ってくるんでしょうか」

 

 ウイングが言った。

 

「約束しましたから」

 

「手紙もありません」

 

「郵便が使えない場所かもしれません」

 

「行き先も知らないんですよね」

 

「はい」

 

「心配では?」

 

「かなり」

 

 以前なら、「少し」と答えたかもしれない。

 

 半年は長かった。

 

 実力を信じていても、何も起きない保証にはならない。

 

 フクリは窓から、天空闘技場の周辺を見下ろした。

 

 いつ戻ってきても分かるよう、同じ部屋を使い続けている。

 

 宿へも、手紙が届けば転送してもらうよう頼んでいた。

 

「明日戻らなければ、心源流へ連絡してみます」

 

「探しに行きますか?」

 

「行き先が分からないので、まず情報を集めます」

 

 その時。

 

 部屋の扉が叩かれた。

 

「フクリさん」

 

 係員の声。

 

「お客様がお見えです」

 

 フクリとウイングが顔を見合わせる。

 

「名前は?」

 

「ビスケット=クルーガー様です」

 

 フクリは立ち上がった。

 

 扉へ向かう。

 

 開ける。

 

 廊下の先。

 

 旅の荷物を肩へかけたビスケが立っていた。

 

 半年前より少し日に焼けている。

 

 服には旅の汚れが残っていた。

 

 それでも怪我は見えない。

 

 フクリの姿を見つけると、いつものように笑った。

 

「ただいま」

 

「遅いですよ」

 

「予定が延びたの」

 

「手紙くらい出してください」

 

「出せる場所がなかったのよ」

 

「本当に心配しました」

 

 ビスケが少し驚く。

 

 それから、からかうように笑みを深くした。

 

「もしかして」

 

 一歩近づく。

 

「寂しかった?」

 

 冗談のつもりだったのだろう。

 

 フクリは少し考えた。

 

 そして、正直に答えた。

 

「はい。寂しかったです」

 

 ビスケの笑みが固まった。

 

「……え?」

 

「毎週の計測も1人でした。試合の反省も自分でやりました」

 

「そ、そういう話?」

 

「部屋も静かでしたし、話し相手も減りました」

 

「ちょっと待って」

 

「宝石店へ付き合わされることはありませんでしたけど」

 

「それはいらないでしょ!」

 

「でも、総合的には寂しかったです」

 

 ビスケの顔が、みるみる赤くなった。

 

 耳まで赤い。

 

「そ、そんな真面目に答えなくてもいいじゃない……」

 

「聞いたのはビスケさんでしょう」

 

「冗談よ!」

 

「嘘をついた方がよかったですか?」

 

「そういう意味じゃない!」

 

 ビスケは顔を背けた。

 

「ずるい」

 

「何がです?」

 

「何でもない!」

 

 半年ぶりに聞く怒鳴り声だった。

 

 フクリは少し安心した。

 

「おかえりなさい」

 

 改めて言う。

 

 ビスケは赤い顔のまま、小さく答えた。

 

「……ただいま」

 

 その後ろから、ウイングが恐る恐る顔を出した。

 

「あの、フクリさん」

 

「はい」

 

「この方がビスケさんですか?」

 

 ビスケの視線がウイングへ向いた。

 

 赤かった顔から、照れが少し引く。

 

「誰、この子?」

 

 今度は別の意味で、部屋の空気が変わった。

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