第4話 教えられない力
翌朝。
フクリが100階の修練室へ入ると、ウイングはすでに来ていた。
昨日と同じ場所に立ち、目を閉じている。
足幅は肩より少し狭い。
膝を固めず、腰を引かない。
肩から余計な力を抜こうとしていることも分かった。
たった1日で完成するような修行ではない。
それでも、昨日より明らかに姿勢が良くなっている。
「早いですね」
フクリが声をかけると、ウイングは目を開いた。
「おはようございます、フクリさん」
「いつからやっていたんです?」
「1時間ほど前です」
「早く来すぎです」
「少しでも昨日の続きをしたくて」
「朝食は?」
「まだです」
「食べてきてください」
「でも、修行が」
「食事を抜いて身体を壊したら、修行できなくなります」
ビスケにも似たようなことを何度も言われた。
言う側へ回ると、その正しさがよく分かる。
「食べてから戻ってきます」
「急がなくていいですよ」
「はい!」
ウイングは走って修練室を出ていった。
「急がなくていいと言ったのに」
返事だけは素直だった。
◇
ウイングが戻るまで、フクリは自分の修行を始めた。
立つ。
歩く。
踏み込む。
右拳を出す。
身体を戻す。
左へ移動。
攻撃を避ける動きから、押し出しへつなげる。
天空闘技場での試合を想定し、何度も同じ流れを繰り返す。
次にオーラの修行へ移る。
纏を維持したまま動く。
右腕へオーラを集める。
左脚へ移す。
腹。
背中。
再び全身へ戻す。
以前より流の速度は上がっていた。
身体能力が向上したからではない。
試合で何度も必要に迫られた結果だ。
それでも、ビスケと比べれば遅い。
攻撃が見えてから移動させていては間に合わない。
相手の構えや視線から、攻撃が来る場所を予測する必要があった。
フクリは練へ移った。
全身から放たれるオーラ量が増す。
部屋の空気が僅かに重くなる。
敵意はない。
誰かへ向けてもいない。
だが、念を知らない人間でも、近くにいれば理由の分からない圧力を感じることがある。
その状態から、一気に絶へ入った。
オーラを完全に閉じる。
直前まで部屋に満ちていた威圧感が消えた。
「やっぱりだ」
入口から声がした。
振り返る。
朝食を終えたウイングが立っていた。
「何がです?」
「今です」
「今?」
「さっきまで、ここへ入るのが怖かったんです」
ウイングは修練室へ足を踏み入れた。
「でも、急に何も感じなくなりました」
「気のせいでは?」
「違います」
即答だった。
昨日も同じことを聞かれている。
一度なら誤魔化せるかもしれない。
だが、ウイングはすでに何度も変化を感じ取っていた。
「フクリさんは、何をしているんですか?」
「修行です」
「どんな修行です?」
「心源流の修行です」
「僕にも教えてください」
「まだ早いです」
「立ち方を覚えてから?」
「そういう問題ではありません」
ウイングは黙った。
納得してはいない。
だが、強引に聞き出そうともしなかった。
「僕に才能がないからですか?」
「違います」
「では、どうして?」
念を教える資格がない。
教えるとしても、ビスケやデスロへ相談するべきだ。
それに、ウイングが念の存在を知れば、今以上に興味を持つだろう。
中途半端な知識だけ与える方が危険だった。
「今のあなたへ必要なものではないからです」
「強くなるための修行では?」
「強くなる方法が、すべて今必要だとは限りません」
フクリは自分の経験を思い出す。
念があると知り、何年もかけて自力で目覚めた。
正しい知識もないまま能力を作った。
自分には『容量判定(メモリー・ジャッジ)』があったため、大きな失敗を避けられた。
普通の人間が同じことをすれば、危険な能力や無理な制約を作る可能性がある。
「包丁は料理に便利です」
フクリが言った。
「はい」
「でも、持ち方を知らない子供へ渡せば怪我をする」
「僕は子供ですか?」
「俺から見れば」
「フクリさんは27歳ですからね」
「そこを強調しなくていいです」
「すみません」
「今は基礎をやりましょう」
ウイングはしばらく迷った末、頷いた。
「分かりました」
素直だ。
しかし、疑問を忘れたわけではないだろう。
◇
「今日は歩きます」
「もうですか?」
「立ち方が完成したわけではありません。ただ、立っているだけでは分からない崩れ方もあります」
ウイングを修練室の端へ立たせる。
「反対側まで、普通に歩いてください」
ウイングが歩き出す。
足運びは軽い。
初日のフクリより遥かに良い。
だが、歩き始めるたび上半身が僅かに前へ倒れている。
身体を運ぶのではなく、倒れる身体を足で受け止めている。
「止まってください」
「はい」
「今、自分がどう歩いていたか分かります?」
「普通に歩いていました」
「俺も最初はそう思いました」
フクリはウイングの横へ並ぶ。
「歩き始める時、身体を前へ倒しています」
「前へ進むからでは?」
「俺も同じことを言いました」
「違うんですか?」
「デスロ師範によれば、違います」
「フクリさんは、どう考えています?」
思わずウイングを見る。
「師範ではなく、俺の考えを聞くんですか?」
「フクリさんが教えてくれているので」
自分は師匠ではない。
それでもウイングにとって、今目の前で教えているのはフクリだ。
デスロの言葉をそのまま伝えるだけでは足りない。
「俺は、立った身体をそのまま運ぶことだと考えています」
「倒れないように?」
「はい。頭の高さも、背骨の位置も、なるべく変えない。足を前へ伸ばすというより、腰が前へ進んだ結果、足が必要な場所へ置かれる感じです」
「腰が先?」
「完全に先ではありません。説明が難しいですね」
ビスケが教えるのに苦労していた理由が分かる。
身体で理解していることを、言葉へ変えるのは難しい。
「一度、押します」
フクリはウイングの背後へ回った。
腰へ両手を添える。
「歩いてください」
ウイングが右足を出す。
同時に腰を軽く押す。
上半身が前へ倒れず、身体全体が運ばれる。
「あ」
「今の感覚です」
「もう1回お願いします」
繰り返す。
最初は押す。
次は触れるだけ。
最後は1人で歩かせる。
何度か失敗した後、ウイングは自然な1歩を踏み出した。
「今のです」
「これが正しい歩き方?」
「心源流では、そう教わりました」
「フクリさんは、どれくらいで覚えたんですか?」
「何週間もかかりました」
「僕は今できました」
「1回だけです」
次の1歩で、ウイングの上体が前へ倒れた。
「あ」
「一度できても、身体が覚えたわけではありません」
「はい」
「でも、かなり早いですね」
「才能がありますか?」
期待の混じった目だった。
「俺よりは」
「比較する相手がフクリさんだけでは分かりません」
「失礼ですね」
「すみません!」
冗談だったが、本気で謝られた。
「才能はあると思います。でも、それだけで先へ進まないでください」
「どうしてです?」
「一度できる人ほど、できたつもりになりやすいからです」
デスロがビスケへ言ったこと。
10回で覚えられる者は、100回繰り返さない。
覚える速度が速いことは明らかな長所だ。
だが、身体へ深く残るかは別の話だった。
「できた後も繰り返す?」
「はい。できなかった時との違いを理解してください」
「分かりました」
ウイングは修練室の端へ戻った。
再び歩く。
失敗。
戻る。
成功。
また戻る。
教えなくても繰り返し始めた。
才能だけではない。
努力もできる。
将来、ビスケの弟子となり、心源流の師範代になるのも納得できた。
◇
午前の修行を終え、2人は食堂へ向かった。
ウイングは食事中も、自分の足元を気にしている。
椅子から立つ時。
料理を取りに行く時。
席へ戻る時。
すべて修行として意識しているらしい。
「食べている時は、食事へ集中してください」
「でも、日常の動きでも練習できると思って」
「悪くありませんが、食事をこぼしますよ」
「大丈夫です」
言った直後、皿の端へ袖が当たった。
汁が少しこぼれる。
「……すみません」
「だから言ったでしょう」
ウイングは布で机を拭いた。
「フクリさんも、最初は日常で意識していたんですか?」
「はい。歩くたびに姿勢を直していました」
「食事中も?」
「ビスケさんに、食べるのが遅いと怒られていました」
「ビスケさんは厳しい方なんですね」
「かなり」
「フクリさんより強い?」
「遥かに」
「何歳ですか?」
「18歳です」
ウイングの箸が止まった。
「フクリさんより9歳も年下ですよね」
「計算しなくていいです」
「それほど強い方が、なぜフクリさんと一緒に?」
「同じ道場だったので」
「それだけですか?」
何を聞きたいのだろう。
「今は一緒に旅をしています」
「恋人ですか?」
「違います」
即答した。
ビスケとは相棒に近い。
絶の練習相手。
武術の先輩。
能力設計の相談相手。
毎週、身体性能の変化を記録する人。
少なくとも、恋人ではない。
「そうなんですね」
「残念そうな顔をしないでください」
「していません」
「戻ってきたら紹介します」
「あと1、2か月ですか?」
「予定では」
ビスケが出発してから、すでに1か月半ほど経っている。
最初に言っていた2、3か月なら、長くてもあと半月から1か月半。
その間だけ、ウイングと基礎を続ける。
そう考えていた。
◇
午後。
フクリには100階での最初の試合があった。
対戦相手はダルク。
身長はフクリとほとんど同じ。
細身だが、両腕が異様に長い。
リングへ上がったダルクは、最初からフクリの戦い方を知っていた。
「押し出す男」
「最近、よく呼ばれます」
「100階でも同じことをするつもりか?」
「できれば」
「低階の連中みたいにいくと思うな」
「思っていません」
開始の合図。
ダルクは自分から動かなかった。
長い腕を前へ出し、フクリの接近を待つ。
押し出すには、相手へ触れなければならない。
その前に腕で止めるつもりだろう。
フクリは円を描くように移動した。
ダルクも身体の向きを変える。
隙は見えない。
まずは右拳。
距離を測るための軽い攻撃。
届く前に、ダルクの左手がフクリの手首を払った。
同時に右拳が飛ぶ。
顔を逸らす。
拳が頬をかすめる。
「長いですね」
「見れば分かるだろ」
「予想より少し」
フクリの間合いの外から攻撃が届く。
近づこうとすれば、両腕で押し返される。
相性が悪かった。
◇
ダルクの腕が何度も伸びる。
拳。
掌底。
つかみ。
攻撃の種類も多い。
フクリは受けながら距離を測った。
腕が長い分、懐へ入れば有利になる。
だが、その懐までが遠い。
正面からでは難しい。
フクリは練を使った。
オーラ量を増やす。
ダルクの表情が僅かに変わった。
念は見えていない。
だが、急にフクリの雰囲気が変わったことは感じたらしい。
「何だ?」
「何がです?」
「急に……」
ダルクの攻撃が一瞬止まる。
フクリは踏み込んだ。
その瞬間、絶へ入る。
威圧感が消える。
ダルクの目に迷いが生まれた。
先ほどまで危険に感じた相手が、急に弱く見える。
どちらの感覚を信じるべきか判断が遅れた。
フクリは左腕の外側へ回り込んだ。
絶を解く。
纏へ戻る。
懐へ入った。
肩を当てる。
だが、ダルクも100階へ到達した選手だ。
簡単には崩れない。
長い腕をフクリの背中へ回し、抱え込む。
「捕まえた」
「こちらもです」
フクリはダルクの腰へ両腕を回した。
押し合い。
力だけなら、現在のフクリが上かもしれない。
身体性能は発動時から約12.68%上昇している。
だが、強引に押せば相手へ怪我をさせる。
フクリは足の位置を探った。
ダルクの右足は、後ろへ引かれている。
踏ん張る形。
左へ押しても動かない。
なら、前。
フクリは一度、後ろへ引いた。
ダルクが逃がすまいと前へ力をかける。
その瞬間、フクリは抵抗をやめた。
ダルクの身体が前へ流れる。
横へ回る。
背中へ手を当てる。
押す。
2歩。
3歩。
ダルクはリングの縁で踏みとどまった。
長い腕を後ろへ振り、フクリの肩をつかむ。
自分が落ちながら、道連れにしようとする。
「一緒に来い!」
「嫌です」
フクリは肩の力を抜いた。
つかまれた方向へ逆らわず、身体を低くする。
ダルクの手が滑る。
フクリの服だけをつかんだまま、ダルクが場外へ落ちた。
布が裂ける音。
フクリはリングへ残った。
「勝者、フクリ!」
◇
歓声が起こった。
低階層より観客も多い。
「100階でも押し出した!」
「最後、服が破れたぞ!」
「地味なのか派手なのか分からんな!」
フクリは破れた肩口を見た。
「着替えを買わないと」
勝利より先に、そのことが浮かんだ。
審判がダルクの状態を確認する。
怪我がないと分かってから近づいた。
「大丈夫ですか?」
「俺より自分の服を心配しろ」
「今していました」
「本当に変な奴だな」
ダルクは悔しそうにしながらも、手を差し出した。
フクリも握り返した。
◇
控室へ戻ると、ウイングが待っていた。
「すごかったです!」
「見ていたんですか?」
「はい!」
「修行は?」
「試合を見るのも勉強になると思って」
「それはそうですね」
ウイングは興奮していた。
「最後、相手の力を利用したんですよね」
「はい」
「最初に近づいた時は?」
「少し威圧しただけです」
答えてから、言葉を間違えたと思った。
「威圧?」
ウイングが反応する。
「気持ちの話です」
「昨日から感じていたものと同じですか?」
「違います」
「でも、あの人も動きを止めました」
「気のせいでしょう」
「フクリさん」
ウイングの声が真剣になる。
「僕には教えられない力なんですか?」
「今は」
「いつなら教えてもらえます?」
「俺から教えるとは言っていません」
「では、誰に?」
ビスケ。
あるいはデスロ。
正式に心源流へ弟子入りした後。
今の段階で決めることではない。
「それを決めるためにも、まず基礎を続けましょう」
「また誤魔化しました」
「誤魔化しています」
否定しなかった。
ウイングは驚いた顔をする。
「認めるんですか?」
「嘘を増やすと、後で説明が面倒なので」
「では、本当に何かある」
「あるとも言っていません」
「今のは、ほとんど答えでは?」
「そうかもしれませんね」
これ以上、何もないふりを続けるのは難しい。
ウイングは威圧感の変化へ気づいている。
試合中、相手が同じ変化に戸惑うところも見た。
力の正体を教えることはできない。
だが、すべてを気のせいで片づければ、ウイングは独自に答えを探し始めるかもしれない。
それは危険だった。
◇
「心源流には、表向きの教えがあります」
フクリが言った。
「表向き?」
「武術を学ぶ者が、目標を実現するための心構えです」
「それを学べば、今の力が使えますか?」
「同じものではありません」
「でも、関係はある?」
「考え方としては」
完全な嘘ではない。
心源流の「燃」。
点。
舌。
錬。
発。
本物の念を隠すための方便でもあり、精神を整える修行でもある。
「教えてください」
「では、明日の修行から」
「今では駄目ですか?」
「今日は歩き方の反復が残っています」
「先に説明だけでも」
「急ぎすぎです」
「気になります」
「分かります」
フクリも、念が存在すると知ってから、自力で目覚めるまで何年も試し続けた。
気になるものを放置できない気持ちは理解できる。
「説明だけです」
「はい!」
◇
フクリは紙を取り出し、中央に大きく「燃」と書いた。
「心を燃やすと書いて、燃です」
「燃」
「4つの行程に分かれています」
その下へ、順番に文字を書く。
点。
舌。
錬。
発。
「最初は点」
フクリは点の文字を指した。
「自分が目指すものを、心の中で明確に定めます」
「目標を決める?」
「はい。何となく強くなりたいでは足りません。何のために、どのような自分になりたいのかを決める」
「僕なら、心源流へ入って強くなることです」
「それは目標の途中では?」
「途中?」
「心源流へ入った後、強くなって何をしたいんです?」
ウイングは答えに詰まった。
「考えたことがありません」
「では、考えてください」
「フクリさんの目標は?」
「自分の人生を、自分で守ることです」
「それだけですか?」
「楽しく生きることも」
「武術家として有名になることは?」
「ありません」
「天空闘技場の頂上は?」
「190階で止めます」
ウイングは不思議そうだった。
強さを求めているのに、最上階を目指さない。
心源流で5年修行したのに、武術家として名を残すつもりもない。
「目標は、他人から立派に見える必要はありません」
フクリは続けた。
「自分が本当に望むものでなければ、長く続きません」
「はい」
「次に舌」
文字を指す。
「定めた目標を言葉にします」
「口に出すんですか?」
「はい。言葉へできない目標は、自分でも理解できていない可能性があります」
「自分へ言い聞かせる?」
「それもあります」
「次は錬」
ウイングが先を読む。
「意志を高める?」
「よく分かりましたね」
「文字の並びから」
「定め、言葉にした目標へ向かう気持ちを練り上げます。簡単に諦めないよう、自分の中で強くする」
「最後が発」
「実際に行動へ移す」
「点で決め、舌で言葉にし、錬で意志を高め、発で行動する」
「そうです」
ウイングは紙を見つめた。
「でも、これで威圧感が出るんですか?」
「直接は出ません」
「やっぱり別の力なんですね」
「鋭いですね」
「誤魔化すために教えました?」
「半分は」
「半分?」
「今のあなたに役立つ教えでもあります」
ウイングは不満そうだったが、紙を返さなかった。
「フクリさんは燃を使っているんですか?」
「一応」
「試合前にも?」
「目標は決めています」
「相手を押し出す?」
「できるだけ怪我をさせず、勝つことです」
「舌で言葉にする?」
「試合前に相手へ言う必要はありませんよ」
「心の中でもいいんですね」
「言葉として明確なら」
「錬で意志を高める」
「はい」
「発で押し出す」
「そこだけ聞くと、かなり単純ですね」
ウイングが初めて少し笑った。
◇
「では、ウイングの点を決めましょう」
「心源流へ入ることでは足りないんですよね」
「その先を考えてください」
ウイングは長く考えた。
フクリは急かさない。
自分の目標は、自分で決めるしかない。
「僕は」
やがて、ウイングが口を開いた。
「強くなりたいです」
「なぜ?」
「大切な人へ、正しいことを教えられる人になりたい」
予想していなかった答えだった。
「誰か、教えたい人がいるんですか?」
「今はいません」
「では、将来?」
「はい。僕が教わったものを、いつか誰かへ正しく伝えたいです」
前世で知っている未来。
ゴンとキルアへ念を教えるウイング。
この時から、教える側へ立つことを望んでいたのかもしれない。
「いい目標だと思います」
「本当ですか?」
「はい。ただ、正しく教えるなら、自分が正しく学ばないといけません」
「だから心源流へ入りたい」
「つながりましたね」
ウイングは頷いた。
「言葉にします」
姿勢を正す。
胸へ手を当てた。
「僕は、強さを正しく学び、それをいつか大切な人へ伝えられる人になります」
静かな声。
だが、迷いは少なかった。
「今のが舌です」
「はい」
「錬は?」
「この目標を忘れない」
「それだけではなく、できない時にも続ける理由にしてください」
「はい」
「発は明日からの修行です」
「今からでは?」
「もう今日は十分やりました」
「まだ歩けます」
「休むのも修行です」
「フクリさんが休みたいだけでは?」
「少しは」
ウイングが呆れた顔をした。
出会って2日目にして、フクリの性格が分かり始めたらしい。
◇
それから1か月。
ウイングとの基礎修行は続いた。
ビスケが最初に言っていた3か月が過ぎたが、帰ってこなかった。
手紙も届かない。
予定が延びているのだろう。
フクリは試合を続けながら、毎朝ウイングと修行した。
ウイングの成長は早かった。
立つ。
歩く。
重心を移す。
拳を握る。
肩の力を抜く。
フクリが数か月かかった基礎を、短い期間で形にしていく。
ただし、形になったから終わりにはしなかった。
「もうできています」
ウイングが言う。
「疲れている時にもできますか?」
「試してみます」
走った後。
重い石を持った後。
眠い朝。
意識が別の場所へ向いた時。
どんな状態でも基礎を崩さない。
フクリ自身が5年間で学んだものを、少しずつ伝えた。
◇
ウイングは時々、威圧感について尋ねた。
「今日の試合でも、急に雰囲気が変わりました」
「燃です」
「それだけではないですよね」
「半分は燃です」
「残り半分は?」
「秘密です」
「ビスケさんなら教えてくれますか?」
「多分、俺より厳しく隠すと思います」
「それほど危険なものなんですね」
「知らない方が安全な時期もあります」
ウイングは以前ほど食い下がらなくなった。
燃を学び、目標を持ったことで、今やるべきことへ集中できるようになったのだろう。
それでも、完全には諦めていない。
感覚の鋭さも変わらない。
フクリが練へ入れば、遠くにいても振り返る。
絶へ入れば、急に見失ったように周囲を探す。
「本当に見えていないんですよね」
フクリが尋ねたことがある。
「何がです?」
「俺の周りに、光や煙のようなものは?」
「何も見えません」
「では、何で分かるんです?」
「空気が変わるように感じます」
念は見えない。
だが、ウイングは確かに存在へ近づいていた。
◇
ビスケがいなくなってから4か月。
フクリは120階を超えた。
身体性能も成長している。
能力開発から140日。
20回目の成長が完了していた。
現在身体性能:122.0190
発動時と比べて約22%上昇。
100階へ到達した頃より、さらに身体が軽い。
押し出す力も増している。
その分、試合では以前以上に制御が必要だった。
相手の身体へ長く触れない。
一瞬だけ重心を動かす。
押すというより、崩れる方向を作る。
力が上がるほど、技術を細かく使う必要がある。
天空闘技場での試合と、ウイングへ基礎を教える時間。
その2つが、フクリ自身の武術も見直させていた。
◇
ある日の夜。
フクリは100階の個室で、ビスケからの手紙を待っていた。
もう2、3か月という予定を大きく過ぎている。
何かあれば手紙を出すと言っていた。
しかし届かない。
「大丈夫でしょうか」
ウイングが尋ねる。
「ビスケさんですか?」
「はい」
「実力だけなら、俺より心配はいりません」
「それでも心配なんですね」
「多少は」
「寂しいですか?」
「それは別です」
「寂しくない?」
フクリは少し考えた。
毎週、身体能力を測る相手がいない。
試合後に点数をつける相手もいない。
宝石店へ付き合わされることもない。
部屋も静かだ。
「少しは」
「ビスケさんへ言うんですか?」
「聞かれたら」
「素直ですね」
「嘘をつく理由がありませんから」
ウイングはなぜか楽しそうに笑った。
◇
ビスケが戻らないまま、さらに2か月が過ぎた。
最初の予定は2、3か月。
実際には6か月。
フクリは140階へ近づいていた。
ウイングとの基礎修行も、半年になる。
立ち方は安定した。
歩き方も自然になった。
拳を出しても軸が崩れにくい。
心源流へ正式に入門するための土台は、十分に作られている。
あとはビスケが戻れば、今後について話し合える。
だが。
「本当に帰ってくるんでしょうか」
ウイングが言った。
「約束しましたから」
「手紙もありません」
「郵便が使えない場所かもしれません」
「行き先も知らないんですよね」
「はい」
「心配では?」
「かなり」
以前なら、「少し」と答えたかもしれない。
半年は長かった。
実力を信じていても、何も起きない保証にはならない。
フクリは窓から、天空闘技場の周辺を見下ろした。
いつ戻ってきても分かるよう、同じ部屋を使い続けている。
宿へも、手紙が届けば転送してもらうよう頼んでいた。
「明日戻らなければ、心源流へ連絡してみます」
「探しに行きますか?」
「行き先が分からないので、まず情報を集めます」
その時。
部屋の扉が叩かれた。
「フクリさん」
係員の声。
「お客様がお見えです」
フクリとウイングが顔を見合わせる。
「名前は?」
「ビスケット=クルーガー様です」
フクリは立ち上がった。
扉へ向かう。
開ける。
廊下の先。
旅の荷物を肩へかけたビスケが立っていた。
半年前より少し日に焼けている。
服には旅の汚れが残っていた。
それでも怪我は見えない。
フクリの姿を見つけると、いつものように笑った。
「ただいま」
「遅いですよ」
「予定が延びたの」
「手紙くらい出してください」
「出せる場所がなかったのよ」
「本当に心配しました」
ビスケが少し驚く。
それから、からかうように笑みを深くした。
「もしかして」
一歩近づく。
「寂しかった?」
冗談のつもりだったのだろう。
フクリは少し考えた。
そして、正直に答えた。
「はい。寂しかったです」
ビスケの笑みが固まった。
「……え?」
「毎週の計測も1人でした。試合の反省も自分でやりました」
「そ、そういう話?」
「部屋も静かでしたし、話し相手も減りました」
「ちょっと待って」
「宝石店へ付き合わされることはありませんでしたけど」
「それはいらないでしょ!」
「でも、総合的には寂しかったです」
ビスケの顔が、みるみる赤くなった。
耳まで赤い。
「そ、そんな真面目に答えなくてもいいじゃない……」
「聞いたのはビスケさんでしょう」
「冗談よ!」
「嘘をついた方がよかったですか?」
「そういう意味じゃない!」
ビスケは顔を背けた。
「ずるい」
「何がです?」
「何でもない!」
半年ぶりに聞く怒鳴り声だった。
フクリは少し安心した。
「おかえりなさい」
改めて言う。
ビスケは赤い顔のまま、小さく答えた。
「……ただいま」
その後ろから、ウイングが恐る恐る顔を出した。
「あの、フクリさん」
「はい」
「この方がビスケさんですか?」
ビスケの視線がウイングへ向いた。
赤かった顔から、照れが少し引く。
「誰、この子?」
今度は別の意味で、部屋の空気が変わった。