第5話 新しい師匠
「誰、この子?」
半年ぶりに帰ってきたビスケは、フクリの後ろに立つウイングを見た。
視線が頭から足元まで動く。
立ち方。
肩。
腰。
足の置き方。
再会の照れは、すでにどこかへ消えていた。
代わりに、武術家として相手を観察する鋭い目になっている。
「ウイングです」
ウイングが姿勢を正した。
「半年ほど前から、フクリさんと一緒に修行しています」
「半年?」
ビスケの視線がフクリへ戻る。
「どういうこと?」
「あなたが戻ってくるまで、基礎を教えていました」
「弟子を取ったの?」
「取っていません。一緒に修行しているだけです」
「フクリ先生から、心源流の基礎を教えていただきました」
「先生ではありません」
何度訂正しても、ウイングは時々そう呼ぶ。
「心源流へ入りたいそうです」
フクリが説明すると、ビスケの目が僅かに細くなった。
「だからって、勝手に教えていいの?」
「念は教えていません」
「本当に?」
「はい」
ビスケはウイングを見る。
「この人から、何を教わったの?」
「正しい立ち方と歩き方、重心移動、拳の握り方。それから燃です」
「燃?」
「点で目標を定め、舌で言葉にし、錬で意志を高め、発で行動へ移す教えです」
ウイングが迷いなく答える。
ビスケは黙った。
数秒後、フクリの腕をつかみ、ウイングから少し離れた場所へ引っ張る。
「燃で誤魔化したの?」
小声で尋ねられた。
「威圧感が強くなったり、急になくなったりするのを怪しまれました」
「見えてるの?」
「念そのものは見えていません。近寄りにくく感じたり、普通の人に見えたりするそうです」
ビスケはもう一度ウイングを見る。
「感覚が鋭いわね」
「練を使えば遠くからでも気づきます。絶へ入ると、急に俺を見失うこともあります」
「それだけ鋭い子の前で、何度も切り替えたの?」
「自分の修行も必要だったので」
「少しくらい隠しなさいよ」
「半年も一緒にいれば無理です」
「それで燃?」
「本物の念を教える資格は俺にはありませんから」
ビスケは腕を組んだ。
怒っているようにも、考えているようにも見える。
「少なくとも、危険な目覚め方はさせていません」
「それは正しいわ」
「では問題ありませんね」
「問題がないとは言ってない」
「何が問題です?」
「私に相談しなかったこと」
「半年も帰ってこなかったでしょう」
ビスケが言葉に詰まった。
「手紙も出せない場所だったの」
「分かっています」
「なら責めないでよ」
「責めていません。事実を言っただけです」
「そういう言い方が腹立つのよ」
半年ぶりの言い合いだった。
フクリは、少し懐かしく感じていた。
◇
「ビスケさん」
ウイングが遠慮がちに声をかける。
「はい?」
ビスケが振り返った。
「フクリさんより、遥かに強いと聞いています」
「本人がそう言ったの?」
「はい」
「正直ね」
「事実なので」
フクリが答える。
「黙ってて」
ビスケはウイングの前へ戻った。
「それで?」
「僕を弟子にしてください」
ビスケの表情が止まる。
「嫌よ」
返事は早かった。
「お願いします!」
「面倒だもの」
「教わったことは必ず繰り返します」
「それだけじゃないわ」
「雑用もします」
「雑用のために弟子を取るわけじゃない」
ビスケはウイングの周囲を歩いた。
「構えて」
「はい!」
ウイングが心源流で教わった立ち方を作る。
足。
膝。
腰。
肩。
半年間、フクリと繰り返した形。
まだ完成には遠い。
それでも、初めて会った時とは比べものにならない。
「歩いて」
ウイングが前へ進む。
身体を前へ倒さない。
腰と重心を運び、必要な位置へ足を置く。
ビスケは黙って見ていた。
「拳」
ウイングが構える。
「打って」
木人へ向けて拳を放つ。
軸は大きく崩れない。
ただし接触の直前、右肩へ力が入った。
「止めて」
ビスケはウイングの肩へ触れた。
「ここ」
「はい」
「力が入ってる」
「フクリさんにも何度も言われました」
「直ってないじゃない」
「完全には」
「半年もやったのに?」
ウイングが黙る。
ビスケの眉間に皺が寄った。
フクリは5年前の道場を思い出した。
自分が何度も同じ失敗をするたび、ビスケは同じ顔をしていた。
「ビスケさん」
「何?」
「できない理由が分からないでしょう」
「半年も同じことをやってるのよ?」
「俺は立ち方だけで3か月かかりました」
「それはフクリが遅すぎるの」
「ウイングは十分早いです」
「でも肩が上がってる」
「疲れると以前の癖が戻るんです」
ビスケはウイングの肩から手を離した。
「本人に聞いてるの」
「すみません」
「ウイング」
「はい」
「どうして肩へ力が入ったの?」
ウイングは少し考えた。
「強く打とうとしたからです」
「それなら、力を抜いたら弱くなると思ってる?」
「頭では、身体全体の力を伝える方が強いと理解しています」
「身体では?」
「まだ、腕へ力を入れた方が強く感じます」
ビスケはしばらく黙っていた。
できない理由を、本人の言葉で確認する。
以前の彼女なら、同じように動けばいいと言っていたかもしれない。
フクリと5年間修行したことで、教え方も少し変わったらしい。
「もう一度打って」
「はい」
「今度は強く打たなくていい」
ウイングが構える。
「木人へ拳を届けるだけ」
足。
腰。
肩。
腕。
拳を前へ運ぶ。
軽い音が鳴った。
「今の方がいい」
「でも、弱いです」
「今はね。正しい形へ力を乗せるのは、その後よ」
ビスケはウイングの拳を握り直させる。
「フクリ」
「何です?」
「この子、どれくらいできる?」
「俺より才能があります」
「それは大体の人がそうでしょ」
「失礼ですね」
「ほかには?」
「覚えるのは早いです。繰り返すことも嫌がりません。焦るところはあります」
「念の存在には?」
「かなり近づいています」
ビスケは考え込んだ。
ウイングは真っすぐ彼女を見ている。
「心源流へ正式に入る覚悟はある?」
「はい」
「私の修行は、フクリより厳しいわよ」
「フクリさんも十分厳しかったです」
ビスケがフクリを見る。
「厳しくしたの?」
「必要な分は」
「休みたがりのフクリが?」
「人へ教える時は別です」
「自分にも同じくらいやりなさいよ」
「それは嫌です」
ビスケはため息をついた。
◇
「すぐには弟子にしない」
ビスケがウイングへ言った。
ウイングの表情が曇る。
「でも、試す」
「何をですか?」
「フクリと半年やってきた基礎。それから、あなたがどこまで本気なのか」
「どれくらいの期間ですか?」
「私が決める」
「はい!」
「返事だけはいいわね」
「ビスケさん」
フクリが声をかける。
「何?」
「できれば正式な弟子にしてください」
「いきなり押しつけないで」
「俺より向いています」
「フクリが始めたんでしょ」
「一緒に修行しただけです」
「半年も教えたら、十分師匠よ」
「俺はまだ教わる側です」
「師匠だって学ぶわ」
「念を教えられません」
その言葉で、ビスケが黙った。
ウイングに念の才能があることは、ほぼ間違いない。
感覚だけで練や絶の違いへ気づいている。
遅かれ早かれ、正式に学ぶ時が来る。
その役目はフクリではない。
「俺は念能力の設計なら相談できます。でも、基礎を正しく教えられるほど念へ詳しくありません」
「5年間学んだでしょ」
「使えることと教えられることは違うと、デスロ師範が言っていました」
ビスケが目を細めた。
「師範の言葉を使うの、ずるいわね」
「事実です」
「……分かった」
ビスケはウイングへ向き直った。
「試験に合格したら、私の弟子にする」
「ありがとうございます!」
「まだ合格してない!」
「必ず合格します!」
声が大きい。
ビスケは耳を押さえた。
「声を小さくしなさい!」
◇
「ところで」
フクリはビスケの荷物を見た。
「どこへ行っていたんです?」
「まだ話してなかったわね」
「半年待ちました」
「待たせたことは悪かったと思ってる」
「珍しく素直ですね」
「本当に心配してたみたいだから」
先ほどの「寂しかった」という言葉を思い出したのか、ビスケの頬が僅かに赤くなる。
「それで?」
「ハンター試験」
フクリは少し目を見開いた。
「受けていたんですか?」
「ええ」
「2、3か月の予定では?」
「試験会場へ着くまでに時間がかかったの。途中で情報が間違ってることも分かって、別の場所へ移動したりして」
「手紙を送れなかった?」
「試験の途中は、外部と連絡できなかったわ」
「合格は?」
ビスケは鞄からカードを取り出した。
ハンターライセンス。
「当然」
「おめでとうございます」
「もっと驚かないの?」
「ビスケさんなら合格すると思います」
「試験内容も知らないくせに」
「強さだけなら問題ないでしょう」
「強さだけの試験じゃないわよ」
「では、少し意外です」
「どういう意味よ!」
「冗談です」
半年ぶりでも、からかうとすぐに怒る。
変わっていなかった。
「ハンターになって、何をするんです?」
「鉱石と宝石を探す」
「やはり、そっちへ行くんですね」
「ストーンハンターになるつもり」
ビスケは昔から、美しい石を好んでいた。
宝石店へ行けば何時間でも眺める。
能力を開発するより前に、進む道を決めたらしい。
「次の仕事も決まってるの?」
「候補はあるわ。でも、その前に」
ビスケの視線がフクリの身体へ向く。
「半年分の記録を見せて」
「帰って早々、それですか?」
「毎週ちゃんと測った?」
「大体は」
「大体?」
「何度か忘れました」
「何のために紙を残したと思ってるのよ!」
「自分だけだと面倒で」
「今日は全部測り直すわよ」
「試合があるんですが」
「試合の後!」
戻ってきた実感が湧いた。
◇
その日の午後。
フクリには140階へ上がるための試合が予定されていた。
ビスケとウイングは並んで観客席へ座る。
「フクリさんの試合を見たことは?」
ウイングが尋ねる。
「低い階では毎日見てたわ」
「押し出しが中心です」
「知ってる」
「最近は打撃も増えました」
「それも記録映像で見たわ」
「いつ見たんです?」
隣のフクリが尋ねる。
「戻ってくる途中で、天空闘技場へ寄って確認したの」
「俺と会う前に?」
「半年で、どれくらい進んだか気になったから」
「心配してくれてたんですね」
「弟子を増やしてないか確認しただけ!」
「ウイングがいましたね」
「本当に増えてたわ」
ビスケは不満そうだった。
「今日の相手は?」
「ボルドという人です。打撃より投げが得意らしいです」
「過去の映像は?」
「見ました」
「フクリが?」
「ウイングが調べました」
「試合前に相手を調べないって言ってなかった?」
「100階を超えて考えを変えました」
「どうして?」
「相手も俺の映像を見ていますから。こちらだけ何も知らないのは、初見の修行というより情報を捨てているだけです」
ビスケは少し笑った。
「成長したわね」
「半年ありましたから」
◇
リングへ上がる。
対戦相手のボルドは、フクリより一回り大きい男だった。
身長だけでなく、肩幅も広い。
腕には太い筋肉がついている。
だが、動きは重くない。
試合映像では、自分より大きな相手も簡単に投げていた。
「押し出す男」
ボルドが呼ぶ。
「その名前、広がりすぎでは?」
「今日は押し出される前に、お前を投げる」
「投げられる前に押し出します」
「分かりやすくていい」
審判が合図を出す。
「始め!」
ボルドが前へ出た。
大きな身体からは想像できない速度。
フクリの右腕をつかもうとする。
フクリは半歩下がり、手を避けた。
左手が続く。
今度は袖をつかまれた。
強い。
そのまま引き寄せられる。
フクリは抵抗せず前へ出た。
ボルドが腰を落とす。
投げの体勢。
自分の腰へフクリの重心を乗せ、回転して投げるつもりだ。
フクリは相手の背へ身体が乗る直前、絶へ入った。
オーラが消える。
ボルドの動きが僅かに乱れた。
「軽く――」
フクリ自身の体重は変わっていない。
だが、纏による圧力と存在感が突然消えたことで、相手には一瞬軽くなったように感じられる。
フクリは絶を解いた。
足を床へ置く。
腰を引き、投げられる方向と逆へ重心を移す。
ボルドの投げは不発。
「また、その妙な技か」
「見えてはいないんですね」
「何だと?」
「何でもありません」
距離を取る。
◇
ボルドはすぐに追ってきた。
今度は両腕を広げ、逃げ道を塞ぐ。
つかまれれば、次は絶による揺さぶりも警戒されるだろう。
同じ方法は使えない。
フクリは正面から踏み込んだ。
右拳。
ボルドが左腕で受ける。
続けて左掌底。
右腕で受けられる。
両腕が上がった。
腹が空く。
フクリは身体を沈め、肩を腹へ当てた。
押す。
ボルドは動かない。
足を広げ、重心を低くしている。
「軽いな!」
ボルドがフクリの背中へ腕を回す。
抱え込まれる。
フクリは押すのをやめ、相手の足を見る。
両足へ均等。
前後にも左右にも崩しにくい。
これまでなら、相手が動くのを待った。
前へ押す。
急に力を抜く。
横へ回る。
重心の偏りを作ってから、リングの外へ運ぶ。
だが今のフクリには、半年間の試合経験がある。
重心が自然に崩れるのを待つだけではなく。
自分で崩す方向を作れる。
「何をしてる」
ボルドがフクリを持ち上げようとする。
その瞬間。
フクリは腰を僅かに落とした。
相手の腕が上へ引く力へ、逆らわない。
むしろ一度、身体を沈める。
ボルドはフクリの重さを持ち上げようと、さらに上へ力を入れた。
フクリは足の力を抜く。
直後。
沈めていた全身を、一気に伸ばした。
足。
膝。
腰。
背骨。
肩。
両手をボルドの腹へ当てる。
前でも。
横でも。
後ろでもない。
真上へ。
「なっ――」
ボルドの両足が床を離れた。
◇
持ち上げたのではない。
ボルド自身が上へ力を入れた瞬間へ、フクリの力を重ねた。
相手の重心を身体の中心から上へ浮かせる。
足裏が床から離れた瞬間、踏ん張りは意味を失う。
だが、ただ真上へ飛ばしただけでは、同じ場所へ落ちてくる。
フクリは押し出す力の方向を途中で変えた。
腹へ当てた右手を上へ。
左手を僅かに横へ。
左右で異なる方向の力を伝える。
空中へ浮いたボルドの身体が回転を始めた。
「うおっ!」
大きな身体が、宙で横へ一回転する。
頭から落とせば危険だ。
フクリはすぐに前へ出た。
回転の途中。
ボルドの背へ手を添える。
落下の勢いを横へ流す。
身体はリングの上へ背中から落ちた。
重い音。
衝撃にリングが僅かに揺れる。
だが、頭は打っていない。
受け身を取れる角度にも調整した。
ボルドは目を見開き、仰向けに倒れていた。
「……何をされた?」
「上へ押しました」
「上?」
「はい」
「押し出してないだろ」
「リングの外へ出す方向だけが、押し出しではありませんから」
審判がボルドの状態を確認する。
意識はある。
怪我もない。
だが、突然空中で回転させられたことで、すぐには立ち上がれない。
「続行できますか?」
ボルドは身体を起こそうとした。
しかし平衡感覚が乱れているらしく、片手を床へつく。
「……無理だ」
「勝者、フクリ!」
◇
観客席が一瞬静かになった。
その後、大きな歓声が起こる。
「何だ、今の!」
「大男が浮いたぞ!」
「押し出す男が、上へ押し出した!」
「一回転した!」
場外ではない。
相手を殴り倒したわけでもない。
重心を上へ崩し、回転させ、受け身を取れる形で落とした。
フクリ自身も、実戦で初めて成功させた技だった。
練習では、ビスケから似た動きを何度も見せられている。
相手の重心を読み。
力を流す方向を変え。
小さな身体で、大きな相手を浮かせる。
心源流で学んだ時には、ビスケだからできる技だと思っていた。
今なら分かる。
力の大きさだけではない。
相手が力を入れる瞬間。
身体の中心。
足裏が床から離れる方向。
それらを正しく選べば、自分より重い相手でも浮かせられる。
そして、半年間で約30%近く向上した身体能力が、その技術を現実にしていた。
◇
審判が間へ入った後、フクリはボルドへ近づいた。
「怪我は?」
「ない」
ボルドはゆっくり立ち上がった。
「最後、手加減したか?」
「頭から落ちないようにはしました」
「そうか」
「気分が悪ければ、少し休んだ方がいいです」
「敵に心配されるとはな」
「試合は終わりましたから」
ボルドはフクリを見つめた。
悔しそうではある。
だが、怒ってはいなかった。
「押し出す方向を変えたのか」
「はい」
「前や横だけじゃなく、上にも」
「重心を崩せるなら、方向は選べます」
「最初からできたのか?」
「今日、初めて試しました」
「実験台にされたのか、俺は」
「すみません」
「謝るな」
以前から何度も言われている。
ボルドは最後に笑い、フクリの肩を叩いた。
「次は落ちん」
「上へ浮くのは、落ちる前提では?」
「言葉の揚げ足を取るな」
◇
控室へ戻ると、ウイングが目を輝かせていた。
「すごかったです!」
「成功してよかったです」
「相手が浮きました!」
「見れば分かります」
「どうやったんですか?」
「相手が持ち上げようとした力へ、自分の力を重ねました」
「上へ押しただけで、回転するんですか?」
「左右の手で、少し違う方向へ力を流しました」
「僕にもできますか?」
「基礎を続ければ、いつかは」
ウイングはすぐに動きを真似しようとした。
足を曲げ、全身を伸ばす。
「今やらないでください」
「どうして?」
「相手の重心を感じずに形だけ真似すると、腰を痛めます」
「はい」
返事はする。
だが、早く試したくて仕方がない顔だった。
「ビスケさん」
フクリは観客席から戻ってきたビスケを見る。
「何点です?」
「85点」
「かなり高いですね」
「私の動きを、やっと使えたから」
「やはり気づきました?」
「誰が最初に教えたと思ってるのよ」
「5年前は、できませんでした」
「当たり前よ。あの頃のフクリには、相手を浮かせる力も重心を読む経験も足りなかったもの」
「今は?」
「技術と力が、少しだけ噛み合った」
ビスケはリングの方を見る。
「でも、最後に相手の背中へ手を添えたでしょ」
「頭から落ちそうだったので」
「あれで自分の体勢も崩れてる」
「怪我をさせるよりは」
「そこは減点してないわ」
「では、何が足りなかったんです?」
「最初から、頭から落ちない回転を作ること」
「難しいですね」
「できたら90点」
「満点では?」
「動きが遅い」
「厳しいな」
半年ぶりの採点。
自分で反省するより、細かい。
だが、不思議と安心した。
◇
「ところで」
ビスケが紙を取り出す。
「現在の身体性能は?」
「能力開発から、今日でちょうど196日です」
「成長回数は?」
「28回です」
フクリは『容量判定(メモリー・ジャッジ)』を使う。
紙へ数字が浮かんだ。
現在身体性能:132.1290
発動時から約32.13%上昇。
半年以上の積み重ねだ。
「かなり上がったわね」
「毎週1%ですから」
「今の技も、その力がなかったら成功しなかったかもしれない」
「はい」
「武術だけのおかげでもない」
「能力だけでもありません」
相手の重心を読む。
力を重ねる瞬間を選ぶ。
押し出す方向を上へ変える。
空中で回転を作る。
能力で身体性能が高まっても、技術を知らなければできない。
技術を知っていても、必要な力がなければ相手は浮かない。
5年間の基礎。
半年間の試合経験。
自動的に成長する身体。
3つが、ようやく1つの技として形になった。
「この技、名前を付けます?」
ウイングが尋ねた。
「いりません」
「どうしてです?」
「相手を上へ押すだけなので」
「格好いい名前があった方がいいです」
「技名を叫んでから使うんですか?」
「言わなくてもいいですけど」
ウイングは残念そうだった。
「『天上返し』とか」
「嫌です」
「『昇天輪』は?」
「相手が死にそうな名前ですね」
「『天空押し』」
「そのままです」
ビスケが笑いをこらえている。
「ビスケさんも止めてください」
「面白いから続けさせて」
「師匠候補でしょう」
「まだ候補よ」
ウイングは真剣に次の名前を考えていた。
◇
試合後。
3人は100階の個室へ戻った。
ビスケの荷物を置く。
半年間1人で使っていた部屋に、再び物が増える。
寝台は1つしかないため、係員へ追加を頼む必要がある。
「ビスケさん」
ウイングが尋ねた。
「弟子になるための試験は、いつからですか?」
「明日の朝」
「何をします?」
「立つ」
ウイングが少し拍子抜けした顔をする。
「それは半年やりました」
「私の前では、まだ1日もしてないわ」
「はい!」
「朝は日の出前」
「分かりました!」
「返事が大きい」
「すみません!」
「それも大きい!」
ビスケが早速怒っている。
フクリは懐かしくなった。
「最初の頃の俺と同じですね」
「フクリは返事だけは小さかったわ」
「朝も起きませんでした」
「水をかけて起こした」
「ウイングにはしないでくださいね」
「遅れたらする」
ウイングが僅かに緊張した。
◇
夜。
ウイングが帰った後。
フクリとビスケは、半年分の記録を机へ並べた。
試合。
身体性能。
力加減。
怪我。
勝敗。
ウイングの修行内容。
「きちんと書いてるじゃない」
「途中から映像も見るようにしました」
「私が言った時は断ったのに」
「考えが変わりました」
「ウイングへ教えたことで、自分の基礎も見直した?」
「はい」
ビスケは記録を1枚ずつ読む。
「いい半年だったみたいね」
「寂しかったですけどね」
フクリが何気なく言う。
ビスケの手が止まった。
「……また言うの?」
「事実なので」
「そういうこと、簡単に言わない方がいいわよ」
「どうして?」
「勘違いする人もいるから」
「ビスケさんが?」
「一般論!」
また顔が赤くなっている。
フクリには、何を勘違いするのか分からなかった。
「分かりました。ほかの人には言いません」
「私にも毎回言わなくていい!」
「聞かれなければ言いませんよ」
「本当に、ずるい」
「何がです?」
「知らない!」
ビスケは記録用紙で顔を隠した。
◇
翌朝。
空が明るくなる前。
修練室には、フクリとビスケ。
そしてウイングが立っていた。
「試験を始めるわ」
ビスケが言う。
ウイングは緊張した顔で頷いた。
「はい」
「まず、燃について説明して」
予想外の質問だったらしい。
ウイングは一瞬驚いたが、すぐに答える。
「点で目標を定めます。舌で目標を言葉にし、錬でその意志を高め、発で実際の行動へ移します」
「あなたの目標は?」
「強さを正しく学び、いつか大切な人へ正しく伝えられる人になることです」
ビスケはフクリを見る。
「一緒に考えたの?」
「本人が決めました」
「そう」
ビスケはウイングへ戻る。
「じゃあ、次」
「はい」
「その目標のためなら、何年でも基礎を続けられる?」
「はい!」
「才能があると言われても?」
「はい」
「ほかの人より早く覚えても?」
「はい」
「できたと思っても?」
ウイングは少し考えた。
「できているか、自分だけで決めません」
ビスケの口元が僅かに上がる。
「誰に教わったの?」
「フクリさんです」
「私の言葉ではないですよ」
フクリが言う。
「フクリさんは、できたと思った時ほど、疲れた状態でもう一度試すよう言いました」
「悪くないわね」
ビスケはウイングの前へ立った。
「構えて」
ウイングが姿勢を作る。
「私が押す」
「はい」
ビスケの手が、ウイングの肩へ軽く触れた。
次の瞬間。
ウイングの身体が後ろへ転がった。
「え?」
「立ててない」
ビスケが冷静に言う。
ウイングはすぐに立ち上がった。
「もう一度お願いします!」
「何度でも」
再び構える。
押される。
転ぶ。
立つ。
また押される。
10回。
20回。
ウイングは何度転んでも立ち上がった。
少しずつ、押される直前の力みを減らす。
力で耐えず。
足裏へ衝撃を流し。
崩れても転ばず、次の足を置く。
「今の」
30回を超えた頃。
ウイングが初めて、その場へ残った。
ビスケが少しだけ強く押す。
ウイングは1歩下がった。
だが倒れない。
「もう一度」
「今日はここまで」
「まだできます!」
「私が決めると言ったでしょ」
「……はい」
ウイングは悔しそうだった。
「弟子にしてもらえますか?」
「まだ」
「明日も来ていいですか?」
「日の出前」
「はい!」
「声!」
「すみません!」
直っていなかった。
◇
ウイングが帰った後、フクリは尋ねた。
「どうです?」
「素直。才能もある。感覚も鋭い」
「では?」
「焦りすぎ」
「俺もそう思います」
「でも、悪くないわ」
ビスケは扉を見る。
「あと1か月試す」
「長いですね」
「弟子を取るんだから当然よ」
「俺には初日に絶を見せさせたのに」
「フクリは弟子入り試験で、何度木剣を落とされたと思ってるの?」
「かなり」
「同じよ」
「違う気もします」
ビスケは答えず、フクリへ向き直った。
「それより、さっきの上へ押す技」
「はい」
「毎日練習するわよ」
「試合で成功しましたよ」
「一度成功しただけでしょ」
「ウイングへ言ったことと同じですね」
「そうよ」
「疲れた状態でも?」
「当然」
「嫌ですね」
「未来の自分を楽にするための努力ならできるんでしょ?」
昔の言葉を覚えていた。
反論できない。
「分かりました」
「素直ね」
「必要なので」
フクリは修練室の中央へ立った。
ビスケが向かいへ来る。
「私を浮かせてみて」
「難しくないですか?」
「ボルドより軽いわよ」
「体重の問題ではありません。重心を崩せないでしょう」
「なら崩して」
「それができれば、かなり強くなれそうですね」
「だから練習するの」
ビスケが構える。
フクリも腰を落とした。
相手の重心を。
前へ。
横へ。
後ろへ。
そして上へ。
自由に崩し、望んだ方向へ押し出す。
その技術が完成すれば、リングの端へ運ぶ必要すらなくなる。
相手を浮かせ。
回転させ。
安全な角度で落とす。
身体能力が高まるほど、使える相手も増えていく。
「行きます」
「来なさい」
フクリが踏み込む。
肩へ触れる前に、足を払われた。
地面へ転がる。
「相手が協力してくれると思わないこと」
「ボルドさんより難しいですね」
「当然よ」
ビスケは楽しそうに笑った。
半年ぶりに戻ってきた相棒。
新しく現れた弟子候補。
そして、初めて形になった新しい技術。
天空闘技場での時間は、再び大きく動き始めていた。