0.1%の積み重ね   作:仮面のカルメン

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第8話 190階

 

第8話 190階

 

 天空闘技場へ来てから、間もなく1年。

 

 フクリは180階へ到達していた。

 

 目標の190階まで、あと1つ。

 

 数字だけを見れば近い。

 

 だが、180階へ上がってから、次の試合が決まるまでには長い時間がかかった。

 

 対戦相手が見つからなかったわけではない。

 

 フクリとの試合を避ける選手が増えていた。

 

 圧倒的な強さを恐れられているわけではない。

 

 フクリは無敗でもなければ、派手な人気選手でもない。

 

 ただ、戦いにくい。

 

 触れられれば重心を崩される。

 

 距離を取れば、判定を意識した攻撃へ切り替える。

 

 場外を警戒すれば、上へ浮かされる。

 

 強く踏ん張れば、その力を利用される。

 

 威圧感が強くなったかと思えば、次の瞬間には存在感が薄くなる。

 

 そして何より。

 

 勝っても負けても、試合後には必ず映像を見返し、次の試合で対策を変えてくる。

 

「嫌われていますね」

 

 対戦予定表を眺めながら、フクリが言った。

 

「人気がないだけじゃない?」

 

 ビスケが答える。

 

「そこまで言います?」

 

「派手に殴り倒さないし、血も出ない。観客が期待する試合とは少し違うもの」

 

「相手へ怪我をさせないのは、いいことでしょう」

 

「観客は安全のために来てるんじゃないわ」

 

「では、何のために?」

 

「刺激」

 

「自分が殴られないから言えるんですよ」

 

 フクリは予定表を机へ戻した。

 

 試合が決まらなければ、待つしかない。

 

 その間も身体能力は増える。

 

 武術の修行もできる。

 

 焦る必要はない。

 

「目標まであと1階なのに、落ち着いてますね」

 

 隣でウイングが言った。

 

「急いでも相手は決まりませんから」

 

「待っている間にも強くなるから?」

 

「それもあります」

 

 能力を開発してから、ほぼ1年。

 

 7日ごとに1%。

 

 成長回数は50回を超えている。

 

 発動時の身体性能を100とすれば、現在は約166。

 

 力。

 

 速度。

 

 反応。

 

 持久力。

 

 回復力。

 

 すべてが、心源流を出た頃の約1.66倍。

 

 天空闘技場へ来た当初、押し出すために全身を使っていた相手も、今なら余裕を持って崩せる。

 

 だが、フクリ自身は数字ほど強くなった実感を持っていなかった。

 

 毎週少しずつ変わる。

 

 昨日まで持てなかった物が、突然持てるようになるわけではない。

 

 気づけば以前より速く走れ。

 

 気づけば以前より深く踏み込める。

 

 その程度だった。

 

「現在の身体性能は?」

 

 ビスケが尋ねる。

 

「正確には166.77です」

 

「1年で約1.67倍」

 

「予定どおりですね」

 

「怖くない?」

 

「何がです?」

 

「このまま増え続けること」

 

 フクリは少し考えた。

 

「今は嬉しいです」

 

「10年後も?」

 

「使いこなせるよう修行します」

 

「答えになってないわ」

 

「止められませんから、考えすぎても仕方ないでしょう」

 

 『力は全てを凌駕する』は、一度発動すれば停止できない。

 

 成長率も変えられない。

 

 その制約によって必要メモリを抑えた。

 

 将来、強くなりすぎる可能性も受け入れて作った能力だ。

 

「それより、ビスケさんの方は?」

 

「何が?」

 

「念能力の設計」

 

 ウイングは別の修練室で復習をしている。

 

 今この部屋にいるのは2人だけだった。

 

 ビスケは机の端へ置いていた紙を裏返した。

 

「少し進んだわ」

 

「見せてください」

 

「嫌」

 

「相談したのはビスケさんでしょう」

 

「まだ途中だもの」

 

「途中だから相談するのでは?」

 

「名前を見られたくないの」

 

 フクリは紙へ視線を向ける。

 

「決めたんですね」

 

「一応」

 

「『小さくなりたいよ』ですか?」

 

「違う!」

 

「では、『可愛くなりたいよ』」

 

「フクリの命名から離れなさい!」

 

 ビスケは紙を胸元へ隠した。

 

「完成したら見せるわ」

 

「いつです?」

 

「20歳になったら」

 

「あと少しですね」

 

 ビスケは頷いた。

 

 身体を変える能力。

 

 美容。

 

 疲労回復。

 

 まだ詳細は聞かされていない。

 

 だが、設計は確実に進んでいるらしい。

 

     ◇

 

 数日後。

 

 フクリの対戦相手が決まった。

 

 名前はガルド。

 

 180階で長く戦っている選手。

 

 体格はフクリと大きく変わらない。

 

 過去の戦績も派手ではない。

 

 だが、負けが少ない。

 

 相手の攻撃を受け。

 

 流し。

 

 最後まで立ち続ける。

 

 判定で勝つことを得意としている。

 

「以前負けた相手と似ていますね」

 

 映像を見ながら、ウイングが言った。

 

「リングの中央から動かず、有効打を重ねています」

 

「今回は触れさせない戦い方ではないわ」

 

 ビスケが訂正する。

 

「触れさせる?」

 

「ええ。攻撃を受けたうえで、フクリの体勢が崩れたところへ返してる」

 

 映像の中で、ガルドは相手の拳を腕で受けた。

 

 衝撃を殺し切らず、後ろへ半歩動く。

 

 追ってきた相手の重心が前へ流れた瞬間、胸へ掌底を当てる。

 

 倒すほどの攻撃ではない。

 

 だが、審判から見れば明確な有効打になる。

 

「重心操作を知っていますね」

 

 フクリが言う。

 

「心源流ではないでしょうけど、似た技術は使ってるわ」

 

「押したら、押し返されますか?」

 

「可能性は高い」

 

「上へ浮かせるのは?」

 

「踏ん張らない相手には使いにくいわね」

 

 ガルドは力へ逆らわない。

 

 押されれば動く。

 

 引かれれば進む。

 

 足裏を床へ固めない。

 

 上へ浮かせる技は、相手が床を蹴る力を利用する。

 

 踏ん張らない相手には、重ねる力が生まれない。

 

「相性が悪いですね」

 

 ウイングが言った。

 

「かなり」

 

 フクリも同意した。

 

「では、どうします?」

 

「考えます」

 

「今から?」

 

「対戦が決まったのは今日なので」

 

「映像を見ながら考えていなかったんですか?」

 

「考えていますよ」

 

「何を?」

 

「どうすれば楽に勝てるか」

 

 ビスケが呆れた顔をした。

 

「最後の試合くらい、格好よく勝とうとは思わないの?」

 

「勝てれば十分です」

 

「観客が泣くわよ」

 

「負けたら俺が困ります」

 

 目標は190階。

 

 ここで負けても終わりではない。

 

 再び試合を重ねればいい。

 

 それでも、できれば一度で到達したかった。

 

     ◇

 

 試合当日。

 

 観客席はこれまでより埋まっていた。

 

 190階への昇格戦。

 

 押し出す男と、崩れない男。

 

 戦い方の相性を面白がる者が多いらしい。

 

 フクリがリングへ上がる。

 

 反対側からガルドが現れた。

 

 年齢は40歳前後。

 

 目立つ筋肉はない。

 

 構えも低くない。

 

 自然に立っている。

 

 だが隙は見えなかった。

 

「押し出す男」

 

 ガルドが言う。

 

「その名前で定着しましたね」

 

「嫌か?」

 

「もう諦めました」

 

「今日は押し出せないぞ」

 

「皆さん、最初に同じことを言います」

 

「俺は違う」

 

「どう違うんです?」

 

「押されたら、自分から動く」

 

「知っています」

 

「なら、どうする?」

 

「今から試します」

 

 ガルドが少し笑った。

 

「面白い」

 

 審判が手を上げる。

 

「始め!」

 

     ◇

 

 最初に動いたのはフクリだった。

 

 右拳。

 

 ガルドは避けない。

 

 左腕で受ける。

 

 接触した瞬間、腕を後ろへ引いた。

 

 フクリの拳が空を押す。

 

 身体が僅かに前へ流れる。

 

 ガルドの右手が胸へ触れた。

 

 掌底。

 

 フクリは後ろへ1歩動いた。

 

「有効打!」

 

 審判の声。

 

 観客が沸く。

 

「早速取られましたね」

 

 フクリが言う。

 

「わざとか?」

 

「半分は」

 

「残り半分は?」

 

「予想より上手かったです」

 

 ガルドは笑わなかった。

 

 すぐに構えへ戻る。

 

 フクリは再び近づいた。

 

 今度は蹴り。

 

 ガルドは脚へ触れ、外へ流す。

 

 フクリの軸が僅かにずれる。

 

 肩へ拳が当たった。

 

「有効打!」

 

 2つ目。

 

 開始から短い時間で差をつけられた。

 

 ガルドは重心を崩されないのではない。

 

 崩された方向へ自分から動き、次の姿勢へつなげている。

 

 フクリが行ってきたことと似ていた。

 

     ◇

 

「どうするの?」

 

 観客席でウイングが小さく呟く。

 

「見てなさい」

 

 ビスケは落ち着いていた。

 

「フクリさんは、押し出しを使えません」

 

「押し出す必要はないわ」

 

「でも、相手は攻撃も流します」

 

「全部流せるわけじゃない」

 

「どういうことです?」

 

「自分から動ける方向だけよ」

 

 ガルドが攻撃を流す。

 

 その技術は高い。

 

 だが、身体は1つ。

 

 同時に2方向へ動くことはできない。

 

     ◇

 

 フクリは軽い拳を続けた。

 

 右。

 

 左。

 

 掌底。

 

 蹴り。

 

 ガルドはすべて受け流す。

 

 そのたびに反撃が返ってくる。

 

 腕。

 

 肩。

 

 腹。

 

 大きな痛みはない。

 

 だが、有効打の差は広がっていく。

 

「まだ続けるのか?」

 

「確認しているので」

 

「何を?」

 

「あなたが、どちらへ動くか」

 

 ガルドの眉が僅かに動いた。

 

 フクリの攻撃は、倒すためではない。

 

 受けさせる。

 

 流させる。

 

 ガルドが選ぶ方向を確認していた。

 

 右拳には左後ろ。

 

 左拳には右後ろ。

 

 正面からの掌底には、半歩引く。

 

 低い蹴りには、脚を上げず外へ回す。

 

 動きには癖がある。

 

「次は強く打ちます」

 

 フクリが言った。

 

「宣言するのか?」

 

「受けてください」

 

「断る」

 

 フクリが踏み込む。

 

 右拳。

 

 これまでと同じ軌道。

 

 ガルドは左腕で受けた。

 

 後ろへ流す。

 

 だが、今回は拳が触れた瞬間、フクリも腕を引いた。

 

 押す力が消える。

 

 ガルドの身体は、流すために左後ろへ動き始めている。

 

 そこへ左掌底を出した。

 

 右前から左後ろへ。

 

 動いている方向と直角に近い力。

 

 ガルドの上体が回る。

 

 足は左後ろへ。

 

 胸は右へ。

 

 身体に捻れが生まれた。

 

 フクリはガルドの肩へ手を添えた。

 

「捕まえました」

 

 前へも。

 

 後ろへも押さない。

 

 捻れた身体の回転を、そのまま続けさせる。

 

 ガルドが自分から動こうとする。

 

 だが、足と上体の方向が合っていない。

 

 1歩目が遅れた。

 

 その瞬間、フクリは腰へ触れた。

 

 肩と腰。

 

 別々の方向へ力を流す。

 

 ガルドの身体が横へ回転した。

 

「っ!」

 

 足が床を滑る。

 

 倒れそうになる。

 

 ガルドは手をつき、受け身を取った。

 

 転倒。

 

「有効!」

 

 ようやくフクリにも点が入る。

 

     ◇

 

「今のは?」

 

 ウイングが尋ねる。

 

「相手の流す方向を利用したの」

 

 ビスケが答える。

 

「ガルドは押された方向へ逆らわない。だからフクリは、最初の力を消した」

 

「流そうとした相手だけが動いた?」

 

「そう。その動きへ、別方向の力を重ねた」

 

「上へ浮かせた時と同じですか?」

 

「考え方はね。でも今回は上ではなく、回転」

 

 相手が自分から動くなら、その動きを止める必要はない。

 

 次の力で、進む方向を変えればいい。

 

     ◇

 

 ガルドが立ち上がった。

 

「狙っていたのか」

 

「何度か同じ動きをしてくれたので」

 

「俺に癖がある?」

 

「誰にでもあります」

 

「お前にも?」

 

「かなり」

 

 ガルドが前へ出た。

 

 今度は自分から攻める。

 

 右拳。

 

 フクリは腕で受ける。

 

 ガルドは拳を引かず、肩で押し込んできた。

 

 流すだけではない。

 

 フクリの技術を警戒し、触れたまま離さないつもりだ。

 

 左拳が続く。

 

 フクリは上体をずらして避ける。

 

 腹へ膝。

 

 手で外へ流す。

 

 互いに重心を崩し合う。

 

 押す。

 

 流す。

 

 引く。

 

 回る。

 

 観客には何をしているのか分かりにくい。

 

 派手な打撃は少ない。

 

 それでも、2人の足元は絶えず動いていた。

 

 僅かな傾き。

 

 半歩。

 

 足裏の向き。

 

 どちらかが一瞬でも判断を誤れば、体勢を大きく崩される。

 

     ◇

 

 試合時間が残り少なくなる。

 

 有効打では、まだガルドが上。

 

 このままなら判定で負ける。

 

「フクリさん!」

 

 ウイングが思わず声を出した。

 

 ビスケは何も言わない。

 

 フクリ自身も残り時間を理解している。

 

 場外を狙う必要はない。

 

 大きな有効打か。

 

 明確な転倒。

 

 それを何度か取れば、まだ逆転できる。

 

 ガルドも分かっている。

 

 無理に攻める必要はない。

 

 距離を取り、時間を使い始めた。

 

「以前の相手と同じですね」

 

 フクリが言う。

 

「判定で勝つのも勝利だ」

 

「はい。今回は学んでいます」

 

 フクリは練を強めた。

 

 威圧感が一気に増す。

 

 ガルドの足が止まる。

 

「それか」

 

 過去の映像で見ている。

 

 次に絶へ入り、存在感を消す。

 

 その後に踏み込んでくる。

 

 ガルドは警戒し、重心を下げた。

 

 フクリは絶へ入った。

 

 圧力が消える。

 

 ガルドは動かない。

 

 待つ。

 

 だが、フクリも動かなかった。

 

 1秒。

 

 2秒。

 

 観客がざわつく。

 

 ガルドの集中が、僅かに揺れた。

 

 いつ来る。

 

 どこから来る。

 

 その意識が強くなる。

 

 フクリは薄い纏へ戻った。

 

 威圧感はほとんどない。

 

 それでも動かない。

 

「何を待っている?」

 

 ガルドが尋ねた。

 

「あなたが動くのを」

 

「俺は動かない」

 

「そうですか」

 

 フクリは練へ戻った。

 

 再び圧力が増す。

 

 ガルドが反射的に半歩下がった。

 

 その瞬間。

 

 フクリが踏み込んだ。

 

     ◇

 

 威圧感そのものに攻撃力はない。

 

 だが、ガルドは強くなった圧力を危険の合図として覚えている。

 

 頭で否定しても、身体が僅かに反応する。

 

 半歩下がった右足。

 

 重心は後ろ。

 

 フクリは正面から押さなかった。

 

 左肩へ手を触れる。

 

 ガルドは右後ろへ流そうとする。

 

 フクリはすぐに力を抜いた。

 

 ガルドだけが右後ろへ動く。

 

 そこへ右足を添える。

 

 逃げ道を塞ぐ。

 

 左手を腰へ。

 

 右手を肩へ。

 

 力を上と横へ流す。

 

 ガルドの足が床から離れた。

 

「なっ!」

 

 完全な真上ではない。

 

 右斜め上。

 

 身体が浮きながら回転する。

 

 ガルドは空中で受け身を取ろうとした。

 

 フクリは追わない。

 

 回転の方向は最初から背中が床へ向くよう作っている。

 

 ガルドがリングへ落ちた。

 

 大きな音。

 

 すぐに起き上がろうとする。

 

 だが平衡感覚が乱れ、片膝をついた。

 

「有効!」

 

 大きな点。

 

 試合時間は、まだ僅かに残っている。

 

     ◇

 

 ガルドが立つ。

 

 フクリはすぐに距離を詰めた。

 

 今度は顔へ拳。

 

 ガルドが受け流す。

 

 癖どおり左後ろへ動く。

 

 フクリは拳を引き、反対側から掌底を当てた。

 

 胸。

 

 明確な有効打。

 

 ガルドが反撃する。

 

 フクリは腕へ触れ、外へ流す。

 

 そのまま身体の向きを変え、背中側へ回る。

 

 肩を押す。

 

 ガルドが前へ2歩進んだ。

 

 場外までは届かない。

 

 だが、体勢は崩れた。

 

 フクリは無理に追わなかった。

 

 審判の声が響く。

 

「試合終了!」

 

 2人が動きを止める。

 

 判定。

 

 審判たちが点数を確認する。

 

 会場が静かになった。

 

 最初に多くの有効打を取ったガルド。

 

 後半、転倒と大きな崩しを重ねたフクリ。

 

 どちらが勝っても不思議ではない。

 

「判定結果を発表します」

 

 審判が片手を上げた。

 

「勝者――フクリ!」

 

 歓声が上がった。

 

     ◇

 

 フクリは大きく息を吐いた。

 

「ぎりぎりですね」

 

 ガルドが近づいてくる。

 

「最後に追わなかったな」

 

「試合終了が近かったので」

 

「場外へ出せたかもしれん」

 

「無理をすれば、逆転されるかもしれません」

 

「目標は押し出しじゃないのか?」

 

「目標は勝つことです」

 

 ガルドは少し笑った。

 

「最初に比べて、嫌な戦い方になった」

 

「ビスケさんにも言われました」

 

「褒め言葉だ」

 

「ありがとうございます」

 

 2人は握手した。

 

「次は200階か?」

 

「行きません」

 

「なぜだ?」

 

「目標は190階なので」

 

「目の前に次があるのに?」

 

「必要がないので」

 

 ガルドは理解できないような顔をした。

 

 だが、否定はしなかった。

 

「変な男だ」

 

「よく言われます」

 

     ◇

 

 控室へ戻る。

 

 ウイングが最初に駆け寄ってきた。

 

「おめでとうございます!」

 

「ありがとうございます」

 

「190階です!」

 

「はい」

 

「もっと喜ばないんですか?」

 

「嬉しいですよ」

 

「顔がいつもと同じです」

 

「かなり疲れているので」

 

 ビスケが後ろから来る。

 

「82点」

 

「勝ったのに低いですね」

 

「前半に点を取られすぎ」

 

「確認していました」

 

「確認のために負けかけない」

 

「最終的には勝ちました」

 

「結果だけで返さない」

 

 いつものやり取りだった。

 

「でも」

 

 ビスケは少し笑った。

 

「最後は良かったわ」

 

「上へ浮かせたところ?」

 

「その前。相手の癖を見つけて、押し出しへこだわらなかったこと」

 

「判定負けから学びました」

 

「同じ負け方をしなかった」

 

「褒めています?」

 

「かなり」

 

「ありがとうございます」

 

「それと」

 

 ビスケはフクリの胸へ指を当てた。

 

「190階到達、おめでとう」

 

 今度は採点ではない。

 

 素直な言葉だった。

 

「ありがとうございます」

 

 フクリも、少しだけ笑った。

 

     ◇

 

 その日の夜。

 

 3人は100階の個室へ集まった。

 

 簡単な祝いの食事。

 

 天空闘技場へ来た初日より、少しだけ豪華な料理が机へ並んでいる。

 

「190階まで、約1年ですね」

 

 ウイングが言う。

 

「かなり時間を使いました」

 

「もっと早く進めたでしょ」

 

 ビスケが答える。

 

「連戦すれば半年もかからなかったかもしれません」

 

 フクリは料理を取り分けながら言った。

 

「でも、経験を増やすことが目的だったので」

 

「満足しましたか?」

 

「かなり」

 

「では、次は?」

 

「ジャポンへ帰ります」

 

 ウイングの手が止まる。

 

「フクリさんの故郷ですか?」

 

「はい」

 

「すぐに?」

 

「旅の準備ができたら」

 

 ビスケは知っていた。

 

 以前、次に帰省する時は一緒に来るかと誘っている。

 

「ウイングも来ます?」

 

 フクリが尋ねる。

 

「僕も?」

 

「嫌なら残っても構いません」

 

「行きたいです!」

 

「返事が早いですね」

 

「フクリさんのご両親に会ってみたいです」

 

「普通の人ですよ」

 

「普通が分かりません」

 

 以前、ビスケも同じことを言った。

 

 帰れば食事がある。

 

 怪我をしていないか聞かれる。

 

 必要以上に荷物を持たされる。

 

 帰る時には見送られる。

 

 それがフクリにとっての普通だった。

 

「ビスケさんも来ますよね」

 

 フクリが尋ねる。

 

「ええ」

 

「大きい姿で?」

 

 ビスケの箸が止まった。

 

「まだ能力は完成してないわよ」

 

「帰る頃には20歳でしょう」

 

「それでも、最初から今の姿で会うわ」

 

「小さい姿ではなく?」

 

「当たり前でしょ。初対面なのよ」

 

 ビスケは少しだけ緊張しているように見えた。

 

「母は喜ぶと思います」

 

「どうして?」

 

「前から会いたがっていたので」

 

「私に?」

 

「髪飾りを使っていると伝えましたから」

 

 ビスケは髪に触れた。

 

 フクリの母から贈られた花の髪飾り。

 

 何度も新しいものを送ってもらっている。

 

「お父さんは?」

 

「少し警戒するかもしれません」

 

「まだ私がフクリを殴ってると思ってるの?」

 

「実際、修行では殴っていますよね」

 

「必要だからよ!」

 

「説明すれば分かります」

 

「先に説明しておきなさい!」

 

 ウイングが笑っている。

 

     ◇

 

 食事が終わった後。

 

 フクリは『容量判定(メモリー・ジャッジ)』を使った。

 

 現在身体性能:166.77

 

 現在使用可能メモリ:およそ471

 

 『力は全てを凌駕する』を作った直後は328メモリ。

 

 約1年で、少しずつ増えている。

 

 1000までは、まだ遠い。

 

 精神を守る能力には500メモリ必要。

 

 最低保持量100を残すなら、今すぐ作ることはできない。

 

 だが、焦る必要はなかった。

 

 時間が経てば、また増える。

 

「次に作るのは精神保護?」

 

 ビスケが小声で尋ねる。

 

 ウイングは食器を返しに部屋を出ている。

 

「その予定です」

 

「500メモリ必要なのよね」

 

「はい」

 

「今は足りない?」

 

「最低保持量を考えれば」

 

「あと何年?」

 

「2年ほどで1000へ戻ると思います」

 

 正確には、328から1000へ戻るまで約3年。

 

 すでに約1年が経過している。

 

 残りは約2年。

 

「その頃には、身体能力は?」

 

「今の倍以上でしょうね」

 

「本当に時間だけで変わっていくわね」

 

「ビスケさんもでしょう」

 

「私も?」

 

「弟子ができました。ハンターにもなった。念能力も作ろうとしている」

 

 ビスケは少し黙った。

 

「フクリが心源流へ来た頃は、こんなことになると思わなかった」

 

「俺もです」

 

「絶だけが上手い、変な男だったもの」

 

「今も変な男だと思ってます?」

 

「かなり」

 

「評価が変わっていませんね」

 

「でも」

 

 ビスケは窓の外へ目を向けた。

 

「今は、隣にいるのが普通になったわ」

 

 フクリは返事をしなかった。

 

 その言葉が、妙に心へ残った。

 

     ◇

 

 天空闘技場を去る日。

 

 フクリは受付へ向かった。

 

「200階への登録を行いますか?」

 

 受付の女性が尋ねる。

 

「いいえ」

 

「190階へ到達した選手の多くは、200階を目指します」

 

「俺はここで終わります」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 迷いはなかった。

 

 最初から決めていた。

 

 190階まで。

 

 自分の武術がどこまで通用するかを確かめる。

 

 対人経験を積む。

 

 その目的は達成した。

 

 欲を出して200階へ進む必要はない。

 

「再登録は可能です」

 

「必要になれば」

 

 鍵を返す。

 

 約1年使った部屋。

 

 最初は1人だった。

 

 途中からウイングが来た。

 

 半年後、ビスケが戻った。

 

 3人で修行し。

 

 食事をし。

 

 反省会をした。

 

 思っていた以上に、多くのものが残った場所だった。

 

     ◇

 

 天空闘技場の外。

 

 3人は巨大な塔を見上げた。

 

「190階まで行ったのに、上はまだまだあるんですね」

 

 ウイングが言う。

 

「だからといって、全部上る必要はありません」

 

 フクリが答える。

 

「自分の目標が終わったなら、次へ進めばいい」

 

「次はジャポン?」

 

「はい」

 

「その後は?」

 

 フクリはビスケを見る。

 

 ビスケはハンターライセンスを持っている。

 

 ストーンハンターとして仕事を始める予定もある。

 

「鉱石を探しに行くんでしょう?」

 

「ええ」

 

「俺も手伝います」

 

「当然よ」

 

「報酬は?」

 

「経験」

 

「お金がいいです」

 

「採掘した石が売れたら考えるわ」

 

「では、交渉成立ですね」

 

「まだ金額を決めてないけど?」

 

 ウイングが2人の会話を聞きながら笑った。

 

     ◇

 

 フクリは最後に、天空闘技場を振り返った。

 

 心源流で積み上げた5年間。

 

 天空闘技場で積み上げた1年間。

 

 武術家としての才能は、今も高くない。

 

 だが。

 

 相手の重心を読み。

 

 崩す方向を選び。

 

 力を流し。

 

 必要なら上へ浮かせる。

 

 自分なりの戦い方は、確かに形になった。

 

 190階。

 

 目標達成。

 

 次は故郷。

 

 ジャポン。

 

 父と母。

 

 そして、初めて家へ連れて帰る2人。

 

 ビスケとウイング。

 

 フクリの旅は、また次の場所へ進もうとしていた。

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