0.1%の積み重ね   作:仮面のカルメン

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第10話 故郷の温かさ

 

第10話 故郷の温かさ

 

 港町を出発してから、約1か月。

 

 ジャポンへ向かう飛行船は、長い海を越えていた。

 

 窓の外に見えるのは、どこまでも続く青い空と海。

 

 最初の数日こそウイングは景色を眺めていたが、1週間も経つ頃には見慣れてしまったらしい。

 

 今は船内の広い休憩室で、ビスケから足運びの指導を受けている。

 

「腰が上がってる」

 

「はい!」

 

「返事で息を乱さない!」

 

「はい!」

 

「だから声が大きい!」

 

 長い旅の間も、修行は変わらなかった。

 

 フクリは少し離れた椅子へ座り、その様子を見ている。

 

「フクリさんもやりますか?」

 

 ウイングが尋ねる。

 

「俺は今、休憩中です」

 

「さっきからずっと座っています」

 

「長い旅なので、体力を温存しています」

 

「今のフクリに、その必要ある?」

 

 ビスケが呆れたように言う。

 

「疲れにくくなっただけで、疲れないわけではありません」

 

「なら、立つ」

 

「嫌です」

 

「素直に断るな!」

 

 ウイングが小さく笑った。

 

 心源流で生活していた頃。

 

 天空闘技場で過ごした1年。

 

 そして今。

 

 3人でいる時間は、すっかり日常になっていた。

 

     ◇

 

 飛行船がジャポンへ近づくにつれ、フクリは窓の外を見る時間が増えた。

 

 2年に一度。

 

 心源流で修行していた頃も、往復2か月をかけて帰っていた。

 

 それでも今回は、以前とは少し違う。

 

 自分1人ではない。

 

 ビスケとウイングを連れている。

 

「緊張してます?」

 

 ウイングが隣の席へ座った。

 

「少し」

 

「フクリさんでも?」

 

「両親に会うだけなら緊張しません」

 

「では、なぜ?」

 

「2人を連れて帰るのは初めてなので」

 

 ウイングは少し考える。

 

「僕も紹介されるんですよね」

 

「はい」

 

「何と?」

 

「ビスケさんの弟子です」

 

「フクリさんの弟子では?」

 

「違います」

 

「半年も教えてもらいました」

 

「一緒に修行しただけです」

 

 いつものやり取りだった。

 

「俺の両親は普通の人です」

 

 フクリは続けた。

 

「念も知りません。武術もほとんどできない」

 

「はい」

 

「だから、余計なことは話さないようにしてください」

 

「フクリさんの秘密ですね」

 

「そうです」

 

 ウイングはフクリの能力を知らない。

 

 威圧感が変化する正体も。

 

 身体能力が時間とともに上がっていることも。

 

 メモリの存在も。

 

 自分が知らない何かがあると理解しているだけだ。

 

「心源流で知り合った、と言えば十分です」

 

「分かりました」

 

「それから」

 

「はい」

 

「両親に、俺を先生と呼ばないでください」

 

「なぜです?」

 

「面倒なことになるからです」

 

「立派に教えていたと説明できます」

 

「説明しなくていいです」

 

「フクリ先生」

 

「今からやめてください」

 

 ウイングは楽しそうに笑った。

 

     ◇

 

 夕食後。

 

 ウイングが自分の部屋へ戻った後、フクリとビスケは甲板へ出た。

 

 夜の海。

 

 遠くに星が浮かんでいる。

 

 風は冷たい。

 

 ビスケは大人の姿だった。

 

 能力を完成させてからも、人前では変身していない。

 

 小さい姿を見たのは、今のところフクリだけだ。

 

「両親へ会う時も、その姿ですか?」

 

 フクリが尋ねる。

 

「当たり前でしょ」

 

「小さい姿の方が気楽では?」

 

「初対面なのよ」

 

 ビスケは腕を組んだ。

 

「フクリの家族に会うのに、わざわざ別の姿で行く方が失礼でしょ」

 

「別の姿もビスケさんですけどね」

 

「それでも、最初はこっち」

 

 迷いはない。

 

「緊張しています?」

 

「少し」

 

「ビスケさんでも?」

 

「何よ」

 

「ウイングと同じ質問をされました」

 

「普通は緊張するわよ」

 

「母は喜ぶと思います」

 

「何を話してるの?」

 

「厳しい先輩。髪飾りを使ってくれている。宝石が好き。食事をたくさん食べさせる」

 

「最後のは余計」

 

「事実です」

 

「私が、毎日無理やり食べさせてたみたいじゃない」

 

「食事を減らそうとしていた時は、かなり無理やりでしたよ」

 

 ビスケが黙った。

 

 筋肉がつくことを嫌い、食事を減らしていた頃。

 

 心源流へ入って間もない時期だ。

 

「今はもう減らしてませんよね」

 

「ええ」

 

「能力も完成したので」

 

「そうね」

 

 ビスケは甲板の手すりへ手を置いた。

 

「小さい姿を選べるようになったから」

 

「大きい姿は嫌ではなくなりました?」

 

「そこまでは言ってない」

 

「まだ嫌い?」

 

「……少しは」

 

 すぐには消えない。

 

 長く持ち続けたコンプレックスだ。

 

「でも、前ほどじゃないわ」

 

 ビスケは小さく続けた。

 

「どちらにもなれるから?」

 

「それもある」

 

「ほかには?」

 

「秘密」

 

 フクリはそれ以上聞かなかった。

 

     ◇

 

 翌朝。

 

 ジャポンの島影が見えた。

 

 緑に覆われた山。

 

 海沿いの集落。

 

 遠くへ続く街道。

 

 前世で知っていた日本とは違う。

 

 それでも、フクリにとっては生まれ育った故郷だった。

 

「見えてきました!」

 

 ウイングが窓へ張りついている。

 

「フクリさんの家は、あの町ですか?」

 

「まだ先です」

 

「飛行船を降りた後は?」

 

「乗合馬車で4日。そこから徒歩で半日くらいです」

 

「遠いですね」

 

「田舎なので」

 

 ビスケは窓の外を静かに眺めていた。

 

「綺麗なところね」

 

「何もありませんよ」

 

「山と海がある」

 

「宝石店はありません」

 

「それは残念」

 

「すぐに本音が出ましたね」

 

     ◇

 

 飛行船を降りた後も、旅は続いた。

 

 馬車で街道を進む。

 

 大きな町を離れるほど、建物は少なくなる。

 

 代わりに畑や森が増えていく。

 

 ウイングにとっては珍しい景色らしい。

 

 道端の作物や、遠くの家畜を何度も眺めていた。

 

「フクリさんは、ここで育ったんですね」

 

「この辺りではありません。もっと先です」

 

「小さい頃から武術を?」

 

「していません」

 

「何をしていたんです?」

 

「父の仕事を少し手伝っていました」

 

「木工職人でしたよね」

 

「はい」

 

「フクリさんも作れる?」

 

「簡単な物なら」

 

「杖も?」

 

 フクリは荷物へ結んだ杖を見る。

 

「これは父が作ってくれました」

 

 長い旅。

 

 心源流。

 

 天空闘技場。

 

 何度も使ってきた。

 

 今では手に馴染み、身体の一部に近い。

 

「大切なんですね」

 

「かなり」

 

 ビスケは何も言わず、杖を見ていた。

 

     ◇

 

 飛行船を降りてから5日目。

 

 3人は最後の山道へ入った。

 

 道は細い。

 

 荷車が1台通れる程度。

 

 木々の間から、見慣れた景色が少しずつ見えてくる。

 

 畑。

 

 小川。

 

 古い橋。

 

 子供の頃、何度も歩いた道。

 

「帰ってきたな」

 

 フクリが呟く。

 

「まだ家は見えてませんよ」

 

 ウイングが言う。

 

「分かります」

 

「何が?」

 

「匂いですかね」

 

 湿った土。

 

 木。

 

 畑。

 

 家々から出る煙。

 

 説明しにくい。

 

 だが確かに、故郷の空気だった。

 

「少し速くなってる」

 

 ビスケが横から言う。

 

「何が?」

 

「歩く速度」

 

 フクリは自分でも気づいていなかった。

 

「嬉しいんでしょ」

 

「そうかもしれません」

 

「素直ね」

 

「帰省なので」

 

     ◇

 

 山道を抜ける。

 

 小さな集落が見えた。

 

 家は多くない。

 

 畑の間へ、木造の家が点々と建っている。

 

 その一番奥。

 

 作業場の付いた家。

 

 煙突から、薄い煙が上がっていた。

 

「あれです」

 

 フクリが指さす。

 

 ウイングが目を輝かせる。

 

「フクリさんの家!」

 

「声を大きくしなくても見えます」

 

 畑にいた女性が、こちらへ気づいた。

 

 手を止める。

 

 しばらく見つめる。

 

 次の瞬間。

 

「フクリ!」

 

 大きな声が響いた。

 

 母だった。

 

 持っていた籠をその場へ置き、走ってくる。

 

「ただいま」

 

 フクリが言う。

 

「帰るなら、もっと早く手紙を出しなさい!」

 

「出しましたよ」

 

「届いたのは5日前よ!」

 

「予定が決まったのが遅かったので」

 

「怪我は?」

 

「ありません」

 

「痩せた?」

 

「むしろ身体は丈夫になりました」

 

 母はフクリの肩や腕へ触れ、無事を確かめる。

 

 昔から変わらない。

 

「母さん」

 

 フクリが少し身体をずらす。

 

「紹介します」

 

 母の視線が、後ろに立つ2人へ向いた。

 

 まずウイング。

 

 そして。

 

 ビスケを見た瞬間、目を大きくした。

 

「まあ……」

 

 言葉が止まる。

 

 ビスケが背筋を伸ばした。

 

「初めまして。ビスケット=クルーガーです」

 

 いつもの強気な声ではない。

 

 丁寧で、少し緊張している。

 

「フクリとは、心源流で一緒に修行していました」

 

「あなたがビスケちゃん?」

 

 ビスケの表情が僅かに崩れた。

 

「ちゃん……」

 

「手紙で何度も聞いてるわ!」

 

 母はビスケの両手を取った。

 

「本当に綺麗な人ね!」

 

「え?」

 

「もっと怖い人かと思ってたの」

 

「母さん」

 

 フクリが止める。

 

「手紙に何を書いたんです?」

 

「厳しくて、毎日修行で転がされてるって」

 

「昔の話です」

 

「今も転がしてるわよ」

 

 ビスケが答えた。

 

「言わなくていいです」

 

 母は声を上げて笑った。

 

「でも、こんなに綺麗な人だったのね」

 

「ありがとうございます」

 

 ビスケは少し照れながら頭を下げた。

 

 大きな姿。

 

 筋肉質な身体。

 

 本人が長く嫌っていた姿。

 

 その姿を見た母は、迷うことなく綺麗だと言った。

 

 ビスケは一瞬だけ、自分の腕へ視線を落とした。

 

     ◇

 

「俺の紹介は?」

 

 ウイングが小さく尋ねた。

 

「忘れていました」

 

「フクリさん」

 

「冗談です」

 

 フクリは母へ向き直る。

 

「こちらはウイング。ビスケさんの弟子です」

 

「初めまして!」

 

 ウイングは深く頭を下げた。

 

「ウイングです。フクリ先――」

 

 フクリが素早く肩へ手を置く。

 

「心源流で一緒に修行しました」

 

「今、何か言おうとした?」

 

 母が尋ねる。

 

「何も」

 

 フクリが答える。

 

 ウイングは少し不満そうだった。

 

「若いのに礼儀正しい子ね」

 

「ありがとうございます!」

 

「声が大きい!」

 

 ビスケが反射的に注意する。

 

 母が再び笑った。

 

「本当に師匠と弟子なのね」

 

     ◇

 

「騒がしいと思ったら」

 

 作業場から、父が出てきた。

 

 手には木くずがついている。

 

 フクリを見る。

 

「帰ったか」

 

「ただいま」

 

 それだけだった。

 

 だが、父の顔は僅かに緩んでいる。

 

 フクリへ近づき、肩を一度叩いた。

 

「丈夫になったな」

 

「かなり」

 

「杖は?」

 

「使っています」

 

 荷物から外して見せる。

 

 傷は増えた。

 

 だが折れてはいない。

 

「そうか」

 

 父は満足そうに頷いた。

 

 次にビスケを見る。

 

「この人が?」

 

「ビスケット=クルーガーです」

 

 ビスケが頭を下げる。

 

「長い間、フクリと一緒に修行していました」

 

「息子が世話になった」

 

「こちらこそ」

 

「毎日、殴っていたと聞いている」

 

「父さん」

 

 フクリが口を挟む。

 

「説明の仕方が悪いです」

 

「事実だろう」

 

「修行です!」

 

 ビスケが慌てて言う。

 

「必要な範囲でしか殴ってません!」

 

「必要な範囲では殴ったんですね」

 

 ウイングが呟いた。

 

「黙ってなさい!」

 

 父はビスケをしばらく見た。

 

 腕。

 

 肩。

 

 姿勢。

 

 武術のことは詳しくない。

 

 それでも、鍛えられた身体だということは分かる。

 

「フクリより強いのか?」

 

「はい」

 

 ビスケが即答した。

 

「そこは少し迷ってもいいのでは?」

 

 フクリが言う。

 

「事実でしょ」

 

 父は小さく笑った。

 

「なら安心だ」

 

「何がです?」

 

「お前1人なら、どこかで死にそうだからな」

 

「転――」

 

 フクリは言葉を止めた。

 

 転生できるから大丈夫。

 

 そう言いかけた。

 

 もちろん、両親は知らない。

 

「何だ?」

 

「何でもありません」

 

 ビスケだけが、フクリの失言へ気づいていた。

 

「少なくとも、ビスケさんと一緒なら安心してください」

 

「任せてください」

 

 ビスケが答える。

 

 父は大きく頷いた。

 

     ◇

 

 家へ入ると、母はすぐに食事の準備を始めた。

 

「3人増えるなら、足りないわね」

 

「手伝います」

 

 ビスケが袖をまくる。

 

「お客様は座ってて」

 

「でも」

 

「初日くらいは任せなさい」

 

 母はビスケの背中を押し、居間へ座らせた。

 

 ウイングも手伝おうとしたが、同じように断られた。

 

 フクリだけは台所へ呼ばれる。

 

「俺は客では?」

 

「自分の家でしょう」

 

「扱いが違いますね」

 

「当たり前よ」

 

 野菜を切りながら、母が小声で尋ねた。

 

「ビスケちゃんとは、どういう関係?」

 

「一緒に旅をしている相棒です」

 

「それだけ?」

 

「今は」

 

 母の手が止まった。

 

「今は?」

 

「言葉のままです」

 

「綺麗な人ね」

 

「さっきも言っていましたね」

 

「フクリは、どう思ってるの?」

 

 フクリは台所の外を見る。

 

 居間では父とビスケが話している。

 

 ウイングは作業場に置かれた木の道具を興味深そうに眺めていた。

 

「強い人です」

 

「そうじゃなくて」

 

「信頼しています」

 

「それだけ?」

 

「母さんも聞きますね」

 

「大事なことよ」

 

 フクリは答えなかった。

 

 自分でも、まだ明確に言葉へしていない。

 

 ビスケは隣にいるのが普通になったと言った。

 

 フクリも同じだった。

 

 いない半年間は寂しかった。

 

 戻ってきて安心した。

 

 次の人生へも、一緒に連れていきたいと考え始めている。

 

 それを、ただの相棒と呼べるのか。

 

「考えておきます」

 

「遅いわね」

 

「何がです?」

 

「何でもない」

 

 母は楽しそうに笑った。

 

     ◇

 

 食卓へ料理が並ぶ。

 

 焼いた魚。

 

 煮物。

 

 野菜。

 

 温かい汁物。

 

 特別に豪華なものではない。

 

 だが、フクリにとっては懐かしい味だった。

 

「いただきます」

 

 5人で食卓を囲む。

 

 母はビスケとウイングへ、次々に料理を勧める。

 

「遠慮しないで食べてね」

 

「ありがとうございます」

 

 ビスケは最初、少しずつ食べていた。

 

 だが、母があまりにも嬉しそうに勧めるため、断れなくなったらしい。

 

「これも」

 

「もう十分です」

 

「若いんだから食べられるでしょう」

 

「はい……」

 

 フクリは少し笑った。

 

「いつも俺にしていたことを、される側になりましたね」

 

「笑わないで」

 

「食事は大事ですよ」

 

「覚えてなさい」

 

 ウイングも大きな器を渡され、必死に食べている。

 

「師匠、助けてください」

 

「私も助けてほしいわ」

 

 父は静かに酒を飲みながら、その光景を眺めていた。

 

     ◇

 

 食事が進むにつれ、ビスケの緊張も少しずつ消えていった。

 

 母は心源流での話を聞きたがった。

 

「フクリは、ちゃんと修行してた?」

 

「最初は、かなり休もうとしてました」

 

「やっぱり」

 

「母さん」

 

「子供の頃からそうだったもの」

 

「必要なことはしています」

 

「未来の自分が楽になることだけね」

 

 ビスケが言う。

 

「よく分かってるわね」

 

「何年一緒にいると思ってるんです」

 

 自然に出た言葉だった。

 

 母と父が、同時にビスケを見る。

 

「何です?」

 

 ビスケが首を傾げる。

 

「いや」

 

 父が答える。

 

 母は何か言いたそうだったが、笑うだけに留めた。

 

「ウイング君は、ビスケちゃんの弟子なのね」

 

「はい!」

 

「どうして弟子になったの?」

 

 ウイングは一度、フクリを見る。

 

「最初はフクリさんへ弟子入りをお願いしました」

 

「ウイング」

 

 止めるのは遅かった。

 

「フクリに?」

 

 母の目が輝く。

 

「でも、フクリさんは自分には才能がないからと断りました」

 

「それから半年ほど基礎を教えていただき、ビスケ師匠の正式な弟子になりました」

 

「立派に先生してたのね!」

 

「一緒に修行しただけです」

 

「フクリ先生って呼んでいます」

 

「呼ばなくていいと言っています」

 

 母は満足そうに頷いた。

 

「ちゃんと成長してるのね」

 

 フクリは少し居心地が悪くなり、汁物を飲んだ。

 

     ◇

 

 食事の後。

 

 母は布団の準備を始めた。

 

 ウイングは父の作業場を見せてもらっている。

 

 フクリが荷物を整理していると、ビスケが隣へ座った。

 

「温かい家ね」

 

「普通ですよ」

 

「前にも言ったでしょ」

 

 ビスケは小さく笑う。

 

「その普通が、私にはよく分からなかったって」

 

「今は?」

 

「少し分かった」

 

 台所から、母の声が聞こえる。

 

 作業場では、父とウイングが何か話している。

 

 誰かが帰れば迎える。

 

 食事を囲む。

 

 旅の話を聞く。

 

 布団を用意する。

 

 それだけだ。

 

 だが、ビスケにとっては久しぶりの感覚だった。

 

「両親のことを思い出しました?」

 

 フクリが尋ねる。

 

 ビスケの表情が僅かに止まる。

 

「少しね」

 

「嫌でした?」

 

「違う」

 

 ビスケは首を横へ振った。

 

「嬉しかった」

 

 それだけ答えた。

 

     ◇

 

 夜が更ける。

 

 家の灯りが1つずつ消えていく。

 

 フクリが水を飲むために起きると、縁側の戸が少し開いていた。

 

 外へ出る。

 

 月明かりの下。

 

 ビスケが1人で座っていた。

 

 大人の姿。

 

 膝を抱えるようにして、夜の畑を見ている。

 

「眠れませんか?」

 

 フクリが声をかける。

 

 ビスケは顔を上げなかった。

 

「少しだけ」

 

 隣へ座る。

 

 風が静かに通り抜けた。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

 ビスケが言う。

 

「何がです?」

 

「連れてきてくれたこと」

 

「誘っただけです」

 

「それでも」

 

 ビスケは自分の手を見た。

 

「家族って、あんな感じだったって思い出した」

 

 声が僅かに震えている。

 

「昔は、私の家も」

 

 そこで言葉が止まった。

 

 ビスケは顔を背ける。

 

 月明かりに照らされた頬へ、細い涙が流れていた。

 

 フクリは何も言わなかった。

 

 慰める言葉を探さない。

 

 肩を抱くこともしない。

 

 ただ隣に座っている。

 

 しばらくして、ビスケが小さく笑った。

 

「何か言わないの?」

 

「言ってほしいですか?」

 

「分からない」

 

「では、何も言いません」

 

「そういうところ、フクリらしいわね」

 

 ビスケは涙を拭いた。

 

「でも」

 

「はい」

 

「今は、それでいい」

 

 2人はしばらく、静かな畑を眺めていた。

 

 ビスケが泣いていたことを。

 

 誰かへ話すつもりはない。

 

 小さい姿も。

 

 昔の口調も。

 

 今夜の涙も。

 

 それはすべて、2人だけが知っていることだった。

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