第11話 大きな姿のあなたも
翌朝。
フクリが目を覚ますと、台所から包丁の音が聞こえていた。
まだ日は完全に昇っていない。
母は昔から朝が早い。
身体を起こし、居間へ向かう。
台所には母だけでなく、ビスケも立っていた。
「おはようございます」
ビスケが振り返る。
昨夜泣いていた面影はない。
いつもの大人の姿。
髪を後ろへまとめ、母の隣で野菜を切っている。
「おはようございます」
フクリは2人を見比べた。
「何をしているんです?」
「見れば分かるでしょう。朝食の準備よ」
「昨日は客だから座っていろと言われていましたよね」
「今日からは手伝ってもらうことにしたの」
母が笑う。
「ビスケちゃん、料理も上手なのよ」
「普通です」
「フクリよりずっと上手」
「俺と比べる必要はあります?」
「息子なんだから比べるでしょう」
扱いが変わるのが早い。
「フクリも手伝って」
「今起きたところです」
「だから?」
「顔を洗ってきます」
「逃げたわね」
ビスケの声が背中へ飛んできた。
「未来の自分が楽になるためです」
「今の自分が逃げてるだけでしょ!」
いつもの調子だった。
フクリは少し安心した。
◇
朝食の席には、昨日より自然な空気があった。
母はビスケを「ビスケちゃん」と呼ぶ。
ビスケも最初は戸惑っていたが、もう訂正しなかった。
父はウイングへ、木を削るための小さな道具を見せている。
「力を入れすぎるな」
「はい」
「刃が木へ食い込む」
「こうですか?」
「もう少し寝かせろ」
修行と同じような会話だった。
ウイングも真剣に聞いている。
「父さん」
フクリが声をかける。
「弟子にするつもりですか?」
「木の削り方を教えてるだけだ」
「一緒に作業しているだけですか?」
ウイングが振り返った。
「フクリさんと同じですね」
「違います」
父が少し笑った。
「お前も先生だったらしいな」
「違います」
「母さんから聞いた」
「ウイングが余計なことを言ったんです」
「余計ではありません」
ウイングが真面目に否定する。
「半年間、僕へ心源流の基礎を教えてくれました」
「それを先生と言うんじゃないのか?」
「一緒に修行しただけです」
「いつまで言うつもり?」
ビスケまで口を挟む。
家族全員が敵になっていた。
◇
朝食を終えた後。
父は作業場へ戻り、ウイングも興味があると言ってついていった。
母とビスケは洗濯物を干している。
フクリは居間で休んでいた。
「フクリ」
母が縁側から顔を出す。
「はい」
「少し買い物へ行ってきて」
「何が必要です?」
渡された紙には、食材や日用品がいくつも書かれていた。
村の店だけでは揃わないため、隣の町まで行く必要がある。
「かなりありますね」
「3人増えたから」
「ウイングを連れていきます」
「あの子はお父さんを手伝ってるでしょう」
「では、父さんを」
「仕事中」
嫌な予感がした。
「ビスケちゃんと行ってきて」
「やはり」
「荷物が多いから、強い人がいた方がいいでしょう?」
「俺もかなり強くなっていますよ」
「ビスケちゃんの方が強いんでしょう?」
「本人が言いましたね」
母は笑いながら財布を渡した。
「ゆっくり行ってきなさい」
「買い物ですよね」
「そうよ」
言い方に別の意味がある気がした。
◇
2人で家を出る。
ビスケは昨日と同じ大人の姿だった。
肩には空の大きな籠。
「何を買うの?」
フクリが紙を渡す。
ビスケは目を通した。
「多いわね」
「食事の量が増えましたから」
「私のせい?」
「ウイングもかなり食べます」
「フクリも前より食べるでしょ」
「身体能力が上がっていますから」
この話は2人きりでなければできない。
「最近、食事量も増えてる?」
「少しずつ」
「強くなる分だけ必要なのね」
「成長に必要な栄養が足りなければ、遅れる可能性があります」
「止まることも?」
「設計上はあります」
「じゃあ、ちゃんと食べなさい」
「母と同じことを言いますね」
「今まで以上に必要なんだから当然よ」
ビスケは紙を折り畳み、籠へ入れた。
山道を下る。
昨日通った道。
今日は荷物も少なく、急ぐ必要もない。
◇
「昨夜のこと」
しばらく歩いた後、ビスケが言った。
「誰にも言ってませんよ」
「分かってる」
「では?」
「ありがとうって、もう一度言おうと思って」
「言われました」
「何度言ってもいいでしょう」
「そうですね」
ビスケは前を向いたまま続ける。
「両親が亡くなってから、誰かの家であんなふうに過ごしたことはなかった」
「心源流では?」
「あれは道場よ」
「大家族みたいなものでは?」
「全然違うわ」
デスロ。
門弟たち。
食事を共にし。
修行し。
何年も過ごした。
それでも、家族ではなかった。
「お母さんが料理を勧めてきたり」
「かなり多かったですね」
「お父さんが何も言わずに、お茶を置いてくれたり」
「父は口数が少ないので」
「フクリの子供の頃の話を聞いたり」
「余計なことばかり話されました」
「楽しかったわ」
ビスケは笑った。
その表情を見て、フクリも少し嬉しくなる。
「また来ればいいでしょう」
「いいの?」
「両親も喜びます」
「フクリが嫌じゃないなら」
「嫌ではありません」
答えると、ビスケは少し安心したように頷いた。
◇
隣町までは徒歩で半日。
途中で小さな川を渡る。
橋の中央で、ビスケが立ち止まった。
「ここ、綺麗ね」
水は澄んでいる。
底の石まで見えた。
「子供の頃、よく遊びました」
「フクリが?」
「俺にも子供の頃はありますよ」
「想像できない」
「どうして?」
「昔から今と同じ顔で、面倒そうに座ってそう」
「かなり失礼ですね」
ビスケが笑う。
「木へ登ったりした?」
「しました」
「川へ飛び込んだり?」
「流されかけて、父に怒られました」
「フクリでも無茶をしたのね」
「子供でしたから」
「見てみたかった」
何気ない言葉。
だが、フクリの心へ残った。
ビスケの過去を、自分は知らない。
13歳以前。
両親といた頃。
何をして。
どんなふうに笑っていたのか。
逆に、ビスケもフクリの子供時代を知らない。
「次の人生なら、子供の頃から会えるかもしれませんね」
フクリが言った。
ビスケの表情が止まる。
「次の人生?」
「俺が転生した後です」
『転生(死にたくないよ)』。
死後、記憶と念能力を持ったまま、別の家へ生まれ変わる。
「私は、その頃にはいないでしょう」
「今のままなら」
「今のままなら?」
まだ具体的な能力はない。
だが、ずっと考えている。
ビスケを次の人生へ連れていく方法。
転生させるのではなく。
次の人生で再会できる形。
「いつか方法を作りたいと思っています」
「私を連れていく?」
「ビスケさんが望むなら」
ビスケは何も言わなかった。
川の流れを見る。
「ずっと先の話ですね」
「はい」
「その頃、私たちがどうなってるかも分からない」
「そうですね」
「でも」
ビスケは少し笑った。
「嫌ではないわ」
それだけ言い、橋を歩き始めた。
◇
町へ到着した頃には、昼を過ぎていた。
食材。
布。
油。
茶葉。
薬。
必要な物を順番に買っていく。
ビスケがいるため、重い荷物も問題にならない。
「持ちますよ」
フクリが言う。
「私の方が強いからいい」
「身体能力はかなり上がっています」
「まだ私の方が上」
「そうですね」
「素直ね」
「事実なので」
ビスケは大きな籠を片手で持っている。
周囲の人間が少し驚いていた。
美しい女性。
背は高い。
筋肉質ではあるが、服の上からでは異様には見えない。
それでも、男2人分ほどの荷物を軽々運んでいる。
「見られていますよ」
「何が?」
「荷物」
「持てるんだからいいでしょ」
「気にしないんですね」
「昔なら気にしたかも」
ビスケは自分の腕を見る。
「筋肉が目立つのが嫌だったから」
「今は?」
「小さい姿になれるもの」
「だから、大きい姿も受け入れられる?」
「少しずつね」
フクリは足を止めた。
ビスケも数歩先で振り返る。
「どうしたの?」
「いえ」
言うべきか迷った。
昨日。
母がビスケを見て、綺麗だと言った。
迷いなく。
当然のように。
フクリ自身も、ずっとそう思っていた。
だが、本人へ明確に伝えたことはない。
小さい姿へ変身した時には、可愛いと言った。
大きい姿については。
強い。
便利。
頼りになる。
そればかりだった。
「何よ」
ビスケが少し不安そうに自分の服を見る。
「どこか変?」
「違います」
「なら、何?」
「帰ってから話します」
「今言いなさいよ」
「人が多いので」
「余計気になるんだけど」
「少し待ってください」
ビスケは不満そうだったが、追及しなかった。
◇
帰り道。
荷物が増えた分、歩く速度は少し落ちた。
それでも夕方には、先ほどの川へ戻ってきた。
「少し休みましょう」
フクリが言う。
「疲れた?」
「俺ではなく、ビスケさんが」
「これくらい平気よ」
「話もあります」
ビスケが目を細める。
「町で言わなかったこと?」
「はい」
川沿いの大きな石へ座る。
ビスケは荷物を置き、隣へ腰を下ろした。
夕日が水面へ反射している。
「何?」
急かすように尋ねられる。
フクリは少し考えた。
能力の設計なら、言葉はすぐに出る。
条件。
効果。
制約。
数字へ変えればいい。
だが、自分の感情を伝える言葉は難しい。
「昨日、母が言いましたよね」
「何を?」
「ビスケさんを綺麗だと」
ビスケの表情が少し固くなる。
「ええ」
「嬉しかったですか?」
「……少し」
「俺も同じことを思っています」
「何が?」
「ビスケさんは綺麗です」
ビスケが黙った。
「小さい姿ではなく」
フクリは続ける。
「今の、大きい姿のビスケさんも」
筋肉質な腕。
高い身長。
鍛え抜かれた身体。
本人が可愛くないと思い続けてきた姿。
「強いからではありません」
「頼りになるからでもない」
「大きい姿のビスケさんも、十分に美しいです」
川の音だけが聞こえた。
ビスケはフクリを見ている。
顔が少しずつ赤くなっていく。
「……急に何を言ってるの?」
「町で言おうと思いました」
「人が多いからやめた?」
「はい」
「それで、こんな場所へ連れてきたの?」
「たまたま休める場所があったので」
「雰囲気があるのか、ないのか分からないわね」
ビスケは顔を背けた。
「小さい姿を見た時は、可愛いと言ってくれた」
「はい」
「大きい私は?」
「美しいです」
「本当に?」
「はい」
「筋肉があっても?」
「ありますけど」
「そこは言わなくていい!」
「質問されたので」
ビスケは両手で顔を隠した。
「ずるい」
「またですか」
「フクリは、こういう時だけ真っすぐ言うから」
「嘘をつく理由がありません」
「そういうところよ」
◇
少しの間。
2人とも何も言わなかった。
フクリは、もう1つ伝えなければならないことがある。
ただ綺麗だと言うだけなら。
昨日の母と変わらない。
今、自分がビスケをどう思っているのか。
半年いなかった時。
寂しかった。
戻ってきた時。
安心した。
両親と笑う姿を見て。
これからも一緒にいてほしいと思った。
次の人生へ連れていきたいと考えるほどに。
「ビスケさん」
「何?」
「俺は」
言葉を選ぶ。
遠回しにする必要はない。
「あなたが好きです」
ビスケの肩が揺れた。
「相棒として?」
「それだけなら、言いません」
「……そう」
「付き合ってください」
派手な言葉ではない。
特別な約束もない。
だが、それがフクリの正直な気持ちだった。
ビスケは顔を上げない。
耳まで赤い。
「遅い」
「何がです?」
「気づくのが」
「いつからです?」
「知らない!」
「では、答えは?」
「急かさないで!」
怒鳴られた。
だが、怒っているわけではない。
恥ずかしさを隠しているだけだと、今のフクリにも分かった。
「待ちます」
「そこは少しくらい焦りなさいよ」
「どちらです?」
「もう!」
ビスケは大きく息を吸った。
顔を上げる。
まだ赤い。
「私も」
声は小さい。
「フクリが好き」
フクリは少し笑った。
「ありがとうございます」
「お礼を言うところ?」
「嬉しかったので」
「もっと別の言い方があるでしょ」
「これからよろしくお願いします」
「仕事の契約みたい」
「では、どう言えば?」
ビスケは呆れたように笑った。
そして、少しだけ身体を寄せる。
「これからも、一緒にいて」
「はい」
「今の人生も」
ビスケは一度言葉を止めた。
「その次も」
フクリは静かに頷いた。
「その方法は、必ず作ります」
「無理はしないで」
「死ななければ大丈夫です」
「転生できるからって、簡単に死なないでよ」
「今の人生も気に入っていますから」
「私がいるから?」
「それも大きいです」
ビスケの顔がまた赤くなった。
「本当に、急にそういうことを言う」
「本当なので」
「分かったから」
◇
「手を」
ビスケが言う。
「何です?」
「恋人なら、手くらいつなぐでしょ」
「そうなんですか?」
「知らないの?」
「経験がないので」
「私だってないわよ!」
ビスケが自分から手を差し出す。
大きな手。
武術で硬くなった指。
何度もフクリを投げ。
助け。
身体能力を測ってきた手。
フクリはその手を取った。
「少し硬いでしょう」
ビスケが言う。
「修行していますから」
「女の手らしくない?」
「ビスケさんの手です」
「答えになってない」
「それで十分でしょう」
ビスケは少し笑った。
「そうね」
2人は手をつないだまま、しばらく川を眺めた。
◇
「帰りましょうか」
日が沈み始める。
フクリが立ち上がる。
ビスケも立つ。
荷物を持とうとしたが、手はまだつながったままだ。
「どうします?」
「片手で持てるわ」
「俺も持ちますよ」
「なら半分」
荷物を分ける。
手をつなぐために、籠を片手で持つ。
少し歩きにくい。
だが、どちらも離そうとはしなかった。
「家の近くでは離す?」
ビスケが尋ねる。
「どうして?」
「ご両親がいるから」
「付き合ったことを言わないんですか?」
「今日すぐに?」
「隠す理由はありません」
「心の準備がいるの!」
「では、明日?」
「そういう問題じゃない!」
ビスケは悩んだ末、家が見える前に手を離した。
「まだ言わないで」
「分かりました」
「私から話す」
「いつ?」
「決めてから!」
少し残念だった。
◇
家へ戻ると、母が玄関で待っていた。
「遅かったわね」
「少し休んでいました」
フクリが答える。
母は2人の顔を見る。
ビスケの頬には、まだ僅かに赤みが残っていた。
「何かあった?」
「何も!」
ビスケの返事が早い。
母の目が細くなる。
「そう」
何かを察した顔だった。
「荷物を置いてきて。夕食ができてるわ」
「はい」
ビスケが先に家へ入る。
母はすれ違いざま、フクリへ小声で尋ねた。
「言ったの?」
「何をです?」
「綺麗だって」
「言いました」
「それだけ?」
「付き合うことになりました」
母の顔が明るくなる。
「母さん」
「静かにしてください」
「まだ本人が言いたくないそうなので」
母は両手で口を押さえた。
それでも笑顔は隠せていない。
「分かったわ」
「絶対に言わないでください」
「分かってる」
「父さんにも」
「分かってるって」
信用できない。
◇
夕食の席。
ビスケは妙に姿勢が良かった。
フクリを見ない。
母は反対に、2人を何度も見ている。
父は気づいていない。
ウイングも料理へ集中している。
「ビスケちゃん」
母が呼ぶ。
「はい」
「今日の買い物、楽しかった?」
「はい。町も見られました」
「フクリは何か言ってた?」
「母さん」
止める。
「買う物の話くらいです!」
ビスケが答えた。
声が少し上ずっている。
「そう」
母は笑顔で頷いた。
「何です?」
父が母を見る。
「何でもないわ」
明らかに何かある顔だった。
◇
食事を終えた後。
ウイングは父と作業場へ向かった。
フクリが食器を片づけようとすると、ビスケが隣へ来る。
「お母さん、何か知ってる?」
「少し」
「言ったの!?」
「聞かれたので」
「隠してって言ったでしょ!」
「ビスケさんから話すまで、ほかの人には言わないよう頼みました」
「もう1人知ってるじゃない!」
「母なので」
「理由になってない!」
ビスケがフクリの腕をつかむ。
母は台所で楽しそうに笑っている。
「もう……」
ビスケは顔を伏せた。
「嫌でした?」
「嫌じゃないけど」
「では?」
「恥ずかしいの!」
「そのうち慣れますよ」
「フクリは平気なの?」
「嬉しいので」
ビスケはしばらく黙る。
そして、小さく呟いた。
「私も嬉しい」
母には聞こえない程度の声だった。
「聞こえましたよ」
「聞こえるように言ったの!」
◇
その夜。
フクリは布団へ入りながら、今日のことを思い返していた。
ビスケへ気持ちを伝えた。
付き合うことになった。
言葉にすれば、それだけだ。
だが。
昨日までと同じ部屋。
同じ家。
同じ旅。
すべてが少し違って見える。
隣の部屋にはビスケがいる。
今の人生を一緒に過ごしたい人。
次の人生へも連れていきたい人。
その気持ちは、もう曖昧ではなかった。
精神保護を作る。
その予定は変わっていない。
だが、その前に。
ビスケを次の人生へ連れていくための能力。
それを作る必要がある。
まだ方法は分からない。
必要なメモリも。
能力の形も。
何も決まっていない。
それでも。
作る理由だけは、はっきりしていた。
フクリは目を閉じる。
大きい姿のビスケ。
小さい姿のビスケ。
どちらも同じ。
大切な人だった。
ゴリマッチョビスケっていいよね。