第4話 五年間 後編
九歳になっても、生活は大きく変わらなかった。
朝は家の手伝いをし、昼は学校へ行く。放課後は友達と遊び、時間があれば父の工房を覗いた。夜になると、短い時間だけ瞑想する。
念の修行を始めた頃と比べれば、修行時間は減っていた。
最初の一年は、結果を求めて何時間も座った。呼吸法を試し、身体を疲れさせ、冷たい川へ入ろうとしたことさえある。
だが、三年続けても何も起こらなかった。
無理をすれば続かない。
期待しすぎれば、失望する。
ようやくそれを理解した。
今では一日十分の日もある。眠ければ五分で切り上げるし、疲れていれば休む。三日ほど何もしないこともあった。
それでも完全にはやめなかった。
続けることより、やめないこと。
フクリは少しずつ、そう考えるようになっていた。
◇
「最近、修行はどうなんだ?」
ある日の夕方、父が何気なく聞いてきた。
フクリは工房の隅で木くずを箒ではいていた。
「修行?」
「身体を強くするって言ってただろう」
「ああ」
父は作業台の上で椅子の脚を削っている。視線はこちらへ向けず、いつものように手だけを動かしていた。
「続いてるのか?」
「一応」
「一応か」
「休む日もあるから」
「それでいいんじゃないか」
意外な答えだった。
「毎日やらなくてもいいの?」
「知らん。俺は何の修行もしてないからな」
「じゃあ、適当に言った?」
「ああ」
「適当だなあ」
フクリが呆れると、父は笑った。
「ただ、毎日やることだけが偉いとは思わん。仕事だって、疲れてる日に無理をすると失敗する」
「父さんも休むの?」
「休みたい日は毎日ある」
「でも働いてる」
「お前と母さんが腹を空かせるからな」
父は削りかけの木を持ち上げ、表面を確かめた。
「続ける理由があるなら、休んでもまた戻る。理由がなくなったら、毎日やってもそのうちやめる」
その言葉を聞き、フクリは箒を動かす手を止めた。
理由。
念を覚える理由。
自分が死なないため。
父と母を守るため。
この世界で、誰にも人生を邪魔されないようにするため。
それは三年前と変わっていなかった。
「じゃあ、まだ続ける」
「そうか」
「止めないの?」
「危ないことをしないならな」
父はそこでようやく顔を上げた。
「ただし、飯と睡眠を削るのは禁止だ」
「分かってる」
「冬の川もだ」
「もう入らないよ」
「信用できんな」
父は笑い、再び木を削り始めた。
フクリも箒を動かす。
それだけの会話だった。
けれどその日から、修行を休むことへの罪悪感は少しだけ薄くなった。
◇
九歳の春、フクリは一つの方法を思いついた。
念は生命エネルギーであり、人間は無意識にオーラを身体の外へ流している。
ならば、身体の内側を探すより、外側を意識した方がいいのではないか。
今までは腹や胸へ意識を集中させていた。そこに何かがあるはずだと思い込んでいた。
だが、オーラが流れ出しているのなら、皮膚の表面や、その少し外側を探すべきかもしれない。
夜、布団の上に座る。
目を閉じ、右手だけに意識を向けた。
手のひら。
指先。
手の甲。
何も感じない。
次に、肌へ直接触れないよう、左手を右手の少し上へかざした。
空気の温度が僅かに違う。
だが、それが体温なのか、オーラなのか分からない。
何度も距離を変える。
手を離す。
近づける。
「……暖かいだけか」
当然のことだった。
人の身体は温かい。近づければ熱を感じる。
期待していた分、少し落胆した。
それでも、この方法は続けた。
腕。
肩。
胸。
頭。
身体のあちこちへ手をかざし、僅かな変化を探す。
最初は何も分からなかったが、何か月も続けるうちに、触れなくても自分の手がどの辺りにあるか分かるようになった。
それがオーラなのか、ただの感覚なのかは判断できない。
少なくとも、念を身につけたとは言えなかった。
だが初めて、まったく無駄ではないかもしれないと思えた。
◇
同じ頃、フクリは人を見る癖がつき始めた。
念能力者を探すためだった。
旅人。
商人。
村へ仕事に来た職人。
武器を持った護衛。
人が訪れるたび、さりげなく観察する。
強そうな人間を見れば、その周囲に何か見えないか目を凝らした。歩き方や呼吸、姿勢にも注意を向ける。
もちろん、何も見えない。
念を習得していない人間には、オーラを見ることができない。
頭では分かっている。
それでも、何か手掛かりが欲しかった。
ある日、村へ一人の老人がやって来た。
白い髪を後ろで束ね、細い身体に古びた旅装をまとっている。荷物は小さく、杖も持っていない。
見た目はどこにでもいる老人だった。
だが、フクリは妙なものを感じた。
村の坂道を歩いてきたはずなのに、息がまったく乱れていない。足音も小さく、歩いているというより地面の上を滑っているようだった。
老人は父の工房へ入り、壊れた木箱の修理を頼んだ。
フクリは隅で作業を手伝いながら、何度も老人へ視線を向けた。
「さっきから、わしの顔に何かついているか?」
突然聞かれ、フクリは肩を跳ねさせた。
「いえ」
「では、なぜ見る」
「歩き方が変だったから」
「変?」
「音がしなかった」
父が手を止めた。
「お前、そんなところを見てたのか」
老人は一瞬黙り、それから口元だけで笑った。
「耳がいいのか、目がいいのか」
「どっちも普通です」
「そうか」
老人はそれ以上何も言わなかった。
修理を待つ間も、静かに椅子へ座っている。
フクリは迷った。
この人は念能力者ではないか。
聞いてみるべきか。
しかし、もし本当にそうなら、念を知らないふりをした方が安全かもしれない。
漫画の世界では、念能力者が全員親切とは限らない。
むしろ、力を隠している人間へ不用意に近づく方が危険だ。
フクリは結局、何も聞かなかった。
修理が終わると、老人は代金を払い、工房を出ていった。
村の道を歩いていく背中を見送る。
最後まで足音はほとんど聞こえなかった。
「知っていたのかな」
老人が村を去ったあと、フクリは呟いた。
「何をだ?」
「何でもない」
父へそう答えながら、少しだけ後悔した。
聞けば、念への道が開けたかもしれない。
だが同時に、聞かなくてよかったとも思う。
相手がどんな人間か分からない。
六歳の頃なら、期待だけで話しかけていただろう。
九歳になったフクリは、知らない強者へ近づく危険を考えられるようになっていた。
念への近道を逃した可能性はある。
それでも命を危険にさらすよりはいい。
安全に強くなる。
その方針だけは変えたくなかった。
◇
十歳になった。
修行を始めて、四年。
身体は少しずつ成長していた。
走る速度も上がり、父の仕事で以前より重い木材を持てるようになった。武術家から教わった姿勢や呼吸も、考えずにできる程度には身についている。
だが、それは普通の成長だった。
念の成果ではない。
オーラは見えない。
感じない。
精孔を開く方法も分からない。
四年間かけて分かったことは、自分にはゴンやキルアのような才能がないという事実だけだった。
ゴンとキルアは、念を知ってから短期間で基礎を身につけた。
もちろん、二人には優れた師匠がいた。
それでも、自分とは根本的に違う。
もし同じ師匠に教わったとしても、自分が同じ速度で成長できるとは思えなかった。
身体能力。
感覚。
反応。
どれも普通だった。
学校の競走では一番になれない。腕相撲でも、同い年の中で中ほど。新しい運動を覚えるのも特別早くない。
才能がない。
その事実を、フクリは少しずつ受け入れていた。
悔しくないわけではない。
転生したのだから、何か特別な力があるかもしれないと思っていた。
物語の主人公のように、生まれつき膨大な力を持っている可能性を期待したこともある。
だが現実は違う。
転生しただけで、身体は普通だった。
「まあ、そんなものか」
自分へ言い聞かせる。
前世でも特別な人間ではなかった。
普通の会社員。
普通の身体。
普通の頭。
この世界へ来ただけで、突然天才になる方がおかしい。
問題は、才能がないことではない。
才能がなくても生き残れる方法を探せるかどうかだ。
◇
その年の夏、フクリは修行方法を大きく変えた。
これまでは、何とかしてオーラを出そうとしていた。
身体の中へ意識を集中し、力を集めようとする。呼吸を整え、温かさや流れを探す。
だが、四年間やっても駄目だった。
なら、逆に考える。
出そうとするのではなく、止める。
念の四大行の中で、フクリが最も必要としているもの。
絶。
身体から流れ出るオーラを閉じ、気配を消す技術。
念を覚えていない今は、本当の絶などできない。
それでも、気配を小さくする練習ならできるかもしれない。
死なないために重要なのは、敵を倒すことだけではない。
見つからないこと。
逃げること。
戦わないこと。
それなら自分の考え方にも合っている。
フクリは森の中で、動かずにいる練習を始めた。
木の根元へ座り、呼吸を小さくする。
鳥や虫を驚かせないよう、身体を動かさない。
足音を立てずに歩く。
枝を踏まない。
服が葉へ触れる音にも気をつける。
最初はすぐに虫が逃げ、鳥が飛び立った。
蚊が顔へ止まれば手で払ってしまう。足が痺れれば姿勢を崩す。遠くから友達の声が聞こえれば、意識がそちらへ向いた。
だが、この修行は今までより少し楽しかった。
結果が目に見えたからだ。
静かに座っていられれば、近くへ小鳥が降りてくる。
足音を消せれば、虫へ近づける。
昨日より少しだけ長く動かずにいられる。
オーラは分からなくても、上達していることは分かった。
フクリは初めて、自分に合う修行を見つけた。
◇
「何してるんだ?」
森で座っていたところを友達に見つかり、声をかけられた。
「静かにする練習」
「何のために?」
「動物に近づくため」
「虫取り?」
「そんな感じ」
「じゃあ勝負しようぜ」
「何を?」
「どっちが近くまで鳥に近づけるか」
そこから、友達との遊びになった。
息を潜め、足音を立てず、鳥へ近づく。
当然、最初は何度も逃げられた。
友達はすぐ飽きたが、フクリは続けた。
遊びのような形なら、修行をしていることも怪しまれない。
毎日少しずつ、動きを静かにする。
呼吸を浅くする。
視線を向けすぎない。
気配を消すという曖昧な言葉を、自分なりに分解していった。
この頃から、フクリの修行は絶を中心としたものへ変わっていった。
まだ念すら使えない。
それでも後に、フクリが唯一達人級へ近づく基礎は、この遊びの延長から始まった。
◇
十歳の冬。
フクリは一人で森へ入っていた。
雪が薄く積もり、歩けば足跡が残る。葉が少ないため、夏よりも音が響きやすい。
いつもの場所へ向かう途中、前方の茂みから低い唸り声が聞こえた。
足が止まる。
大きな獣だった。
猪に似ているが、肩の高さが大人の腰ほどもある。口元から太い牙が突き出し、雪の上を前足で掻いている。
魔獣と呼ぶほど特殊な生き物ではない。
だが十歳の子供にとっては、十分に危険だった。
獣はまだこちらに気づいていない。
距離は二十歩ほど。
逃げるべきだ。
頭では分かっている。
しかし背中を向けて走れば、音で気づかれるかもしれない。
フクリは息を止めそうになり、慌てて小さく吐いた。
呼吸を止めれば苦しくなる。
ゆっくり。
静かに。
身体を低くする。
足を雪から持ち上げず、僅かに滑らせるように後ろへ動かす。
一歩。
獣は動かない。
もう一歩。
枝が足元にあった。
踏まないよう、つま先をずらす。
心臓の音がうるさい。
胸の中だけでなく、森中に響いているように感じた。
獣が顔を上げた。
フクリは動きを止めた。
鼻を鳴らし、周囲の匂いを嗅いでいる。
こちらを見ているようにも見える。
身体が震えそうになる。
走りたい。
叫びたい。
だが、動けば危険だ。
フクリはただ、そこにいないつもりで立った。
力を抜く。
呼吸を小さくする。
自分の存在を、森の中へ溶かすように。
長い数秒だった。
やがて獣は顔を背け、茂みの奥へ歩いていった。
姿が完全に見えなくなるまで、フクリは動かなかった。
唸り声も足音も聞こえなくなってから、ゆっくり後退する。
村の近くまで戻った瞬間、足の力が抜けた。
雪の上へ座り込む。
「……怖かった」
声が震えた。
強くなりたい。
死にたくない。
そう考えて修行してきた。
だが実際に危険を目の前にすると、何もできなかった。
戦うなど考えもしなかった。
逃げることだけで精一杯だった。
それでも、生きている。
気配を小さくする練習をしていなければ、見つかっていたかもしれない。
「これでいい」
フクリは震える手を握った。
敵を倒せなくてもいい。
まずは生き残れればいい。
その日から、絶を身につけたいという思いは、以前より強くなった。
◇
十一歳の誕生日が近づいていた。
念を探し始めてから、もうすぐ五年になる。
五年間。
短くはない。
六歳だった身体は大きくなり、父の仕事も以前より手伝えるようになった。母から任される家事も増えた。
だが、念については何も変わっていない。
オーラは見えない。
水見式もできない。
纏も練も絶も、本当の意味では一つも身についていない。
それでも、以前ほど焦らなくなっていた。
念はある。
方法が分からないだけ。
五年続けて駄目なら、六年目も試す。
十年かかるなら、十年かければいい。
本当は早く覚えたい。
できれば簡単に手に入れたい。
誰かが現れて、精孔を安全に開いてくれれば楽なのにと思う。
だが、そんな都合のいい師匠は現れなかった。
なら、自分で続けるしかない。
◇
十一歳の誕生日を迎えた夜。
家族で食事をした後、フクリはいつものように森へ出た。
誕生日だから休んでもよかった。
だが夕食を食べすぎ、すぐには眠れそうになかった。
森の中は静かだった。
月の光が木々の間から差し込み、地面を薄く照らしている。
いつもの木の根元へ座る。
背筋を伸ばし、目を閉じる。
何かを起こそうとは考えなかった。
オーラを出そうともしない。
身体の中へ力を集めようともしない。
ただ、静かにする。
呼吸を小さく。
肩の力を抜く。
自分の存在を薄くする。
虫の声。
葉が擦れる音。
遠くの川。
自分の呼吸。
心臓の鼓動。
一つずつ、音を受け入れる。
追い払わない。
意識を集中しすぎない。
ただ座る。
どれくらい経ったか分からない。
その時だった。
肩の辺りを、温かい風が撫でた。
「……?」
風ではない。
夜の空気は冷たい。
それなのに、身体の表面だけが僅かに温かい。
目を開けそうになり、思いとどまった。
動けば消える気がした。
呼吸を保つ。
感覚を追いかけない。
ただ確認する。
肩。
首。
背中。
身体の表面を、薄い何かが流れている。
ずっと探していたもの。
だが想像していたような強い力ではなかった。
湯気よりも薄く、吐息よりも曖昧な感覚。
意識を向けた瞬間、消えそうになる。
フクリは震えそうになる身体を抑えた。
気のせいかもしれない。
体温かもしれない。
五年間探し続けたせいで、都合のいい錯覚を感じているだけかもしれない。
それでも、今までとは違った。
確かに何かがある。
身体の内側ではない。
皮膚のすぐ外側。
そこから、少しずつ外へ流れている。
フクリは、ゆっくりと目を開けた。
視界には何も映っていない。
身体の周りに光が見えるわけでもない。
だが、感覚だけは残っていた。
「……これか?」
小さく呟く。
途端に集中が切れ、温かさが消えた。
もう一度目を閉じる。
呼吸を整える。
同じ感覚を探す。
何もない。
十分続けても、戻らない。
やはり錯覚だったのかもしれない。
それでもフクリは、落ち込まなかった。
五年間、一度もなかった感覚。
ほんの一瞬でも、今までとは違うものを感じた。
「ある」
フクリは立ち上がった。
森の中で、一人笑う。
「やっぱり、ある」
念は存在する。
それは最初から知っていた。
だがその夜、初めて知識ではなく、自分の感覚で確かめた。
五年間。
何も起きなかった。
才能がないと何度も思った。
諦めた時期もあった。
楽な方へ逃げ、修行を休んだ日も数え切れない。
それでも完全にはやめなかった。
その積み重ねが、ようやく小さな手掛かりへ変わった。
まだ念を身につけたわけではない。
始まりに触れただけだ。
それでも、その夜のフクリにとっては十分だった。
答えは、確かに存在していた。