第7話 待つという選択 前編
念能力を完成させた翌朝、フクリは目を覚ますと同時に、自分の内側へ意識を向けた。
広大だった念能力用のメモリ。その九割は、昨夜完成した『0.1%の積み重ね(複利)』によって埋められている。
自由に使えるメモリは百。
能力が完成した直後と変わらなかった。
「……まあ、まだ数時間だしな」
一日に一度、保有しているメモリの〇・一%が増える。
昨夜作ったばかりなのだから、何も変化していなくて当然だ。それでもフクリは、何度も同じ場所を確認した。
本当に能力は完成しているのか。
九百メモリを失っただけではないのか。
増加が始まる前に、どこかで能力が壊れてしまったのではないか。
そんな不安が次々と浮かんでくる。
能力を作った時には確かな手応えがあった。自分のメモリの大半が一つの巨大な仕組みへ変わった感覚も、まだ鮮明に残っている。
それでも、目に見える証拠はない。
水見式のように、器の中へ変化が現れるわけでもない。身体能力が急激に上がったわけでもなく、特別な技が使えるようになったわけでもなかった。
今のフクリにできるのは、昨日までと同じように纏と絶を使うことだけだ。
「九百使ったんだから、もう少し何かあってもいいと思うんだけどな」
自分で設計した能力なのだから、そうならないことは分かっている。
この能力の価値は、今ではなく未来にある。
一日では何も変わらない。
一年でも、劇的な変化は起きない。
何年、何十年という時間を使って、初めて意味を持つ。
それでも人間は、何かを手に入れた直後には結果を求めたくなるらしい。
「フクリー! 起きてるなら顔を洗ってきなさい!」
「起きてる!」
母の声に返事をして、フクリは布団から出た。
いつもと同じ朝だった。
◇
食卓には、炊きたてのご飯と味噌汁、それに昨夜の残り物が並んでいた。
父はすでに仕事着へ着替え、眠そうな顔で湯飲みを持っている。母は台所と食卓を行き来しながら、自分の朝食を準備していた。
「今日は随分早いな」
父が言った。
「目が覚めたから」
「昨日、帰ってくるのが遅かったでしょう」
母はフクリの前へ味噌汁を置きながら、少し厳しい声を出した。
「森へ行ってたの?」
「家の近くまで」
「夜の森は危ないって、何度言ったら分かるの」
「ごめんなさい」
素直に謝ると、母は少し意外そうな顔をした。
いつもなら、家から見える場所だったとか、危険な動物はいないとか、何かしら言い訳をしていたからだろう。
昨夜のフクリは、能力が完成した興奮で帰宅時間を忘れていた。
死なないための能力を作った直後に、暗い森で転倒したり、獣に襲われたりすれば笑い話にもならない。
母の注意は正しかった。
「しばらく夜は家で修行するよ」
「しばらくじゃなくて、ずっと家でしなさい」
「森じゃないとやりにくいこともあるから」
「フクリ」
「できるだけ家でする」
母は納得していないようだったが、それ以上は言わなかった。
「お前は母さんに隠し事が下手だな」
父が味噌汁をすすりながら言う。
「父さんは上手いの?」
「俺は隠し事なんてしない」
「棚の後ろのお酒は?」
母が静かに尋ねた。
父の動きが止まった。
「……あれは、置き場所がなかっただけだ」
「台所に置けばいいでしょう」
「仕事の後にすぐ飲めるように、工房の近くへ保管していただけだ」
「それを隠していたと言うの」
フクリは思わず笑った。
父は気まずそうにご飯を口へ運び、母は呆れたようにため息をつく。
そんな二人を眺めながら、フクリは改めて思った。
自分が欲しいのは、こういう日常だ。
特別な暮らしではない。
権力も名誉もいらない。
父と母がいて、毎日食事を囲み、くだらない話で笑える。
それを誰にも壊されないようにしたい。
そのために、九百メモリを使ったのだ。
◇
能力が完成してから最初の一日が過ぎた。
夜。
フクリは自分の部屋で布団の上へ座り、目を閉じた。
身体から流れ出すオーラを感じ、纏で薄く周囲へ留める。その状態から、さらに意識を内側へ向けた。
自分の能力を収めるための空間。
そのほとんどを占める巨大な仕組み。
そして、僅かに残された使用可能なメモリ。
「……増えてる」
昨日とは違った。
数字が目の前へ表示されたわけではない。
百・一という文字が頭の中へ浮かんだわけでもない。
それでも、能力を設計した本人だから分かる。
自由に使える余白が、昨日よりもほんの僅かに広がっていた。
増えたのは〇・一メモリ。
何か新しい能力を作れるほどの量ではない。意識を集中しなければ、違いを見失いそうなほど小さな変化だった。
それでも確実に増えている。
能力は成功していた。
「よかった……」
全身から力が抜けた。
昨夜から胸の奥に残っていた不安が、ようやく薄れていく。
九百メモリは無駄になっていない。
自分の設計は間違っていなかった。
今日から毎日、少しずつ増えていく。
眠っていても。
学校へ行っていても。
父の仕事を手伝っていても。
休んでいても。
能力のために特別な修行をしなくても、時間さえ経てば未来の選択肢が広がる。
フクリは満足して布団へ入った。
この日は、久しぶりによく眠れた。
◇
二日目。
自由に使えるメモリは、百・二〇〇一。
三日目。
さらに僅かに増えた。
四日目。
五日目。
一週間が過ぎても、一メモリすら増えていない。
「分かってたけど、遅いな」
自分で決めた増加率だ。
一日〇・一%。
百メモリなら、一日に増えるのは〇・一。
一週間待っても一に届かない。
紙の上で計算した時には、それでいいと思っていた。
短期間で大きく増える能力では、代償をどれだけ重くしても成立しない可能性が高い。ゆっくりとしか増えないからこそ、複利という仕組みを実現できた。
理屈は理解している。
しかし、実際に一日ずつ待つと話は別だった。
翌日になっても、ほとんど変わらない。
一週間経っても、できることは増えない。
一か月が過ぎ、ようやく三メモリほど増えた。
それでも、何か能力を作れるような量ではなかった。
フクリは毎晩、自分のメモリを確かめた。
昨日より増えている。
今日も増えている。
だが、増えたという事実を確認するだけで、使い道はない。
次第に確認する回数は減っていった。
最初は朝と夜。
それが夜だけになり、数日に一度になった。
一か月もすると、能力が存在すること自体を忘れて過ごす日も増えた。
それこそ、この能力の正しい使い方なのかもしれない。
何度確認しても、増加速度は変わらない。
焦っても一日〇・一%。
忘れていても一日〇・一%。
ならば、気にせず生活する方が楽だった。
◇
三か月が過ぎた頃、フクリは初めて増えたメモリを使いたくなった。
きっかけは、冬の朝だった。
布団から出るのが嫌になるほど寒く、窓の内側には薄い氷が張っていた。
「指先だけ温める能力があればな」
そんな考えが浮かんだ。
大きな炎はいらない。
攻撃能力も必要ない。
冷えた指を少し温められるだけでいい。
数メモリで作れるのではないか。
他にも思いついた。
暗い場所で手元だけを照らす能力。
なくした物の場所を何となく感じ取る能力。
朝、決めた時間に必ず目が覚める能力。
生活を少しだけ便利にする、小さな念能力。
どれも魅力的だった。
念を覚えてから、フクリが作った能力は一つだけ。
しかも、その能力は目に見えない。
誰かへ見せられる技でもなければ、今すぐ役に立つものでもない。
せっかく念能力者になったのだから、少しくらい不思議な力を使ってみたい。
そんな欲が出てきた。
「一つくらいなら……」
増えたメモリは十にも届いていない。
仮に五メモリを使った場合、残りは百を少し超える程度になる。
制約を破ることはない。
『0.1%の積み重ね』も消えない。
使っても問題はないように思えた。
だが、別の問題がある。
この能力は、現在保有している使用可能メモリを基準に増加する。
百十メモリなら、一日に〇・一一メモリ増える。
そこから十メモリ使えば、増加量は再び〇・一近くまで落ちる。
今使うメモリは、現在の十だけではない。
未来に生まれるはずだった増加分まで失う。
小さな便利能力を一つ作るだけで、上限へ到達する時期が遅くなる。
「使わない方がいいな」
結論は分かっていた。
それでも紙を取り出し、いくつかの能力を書いてみた。
どれくらいのメモリが必要になるかは分からない。
今のフクリには、能力の設計から大まかな重さを感じ取ることしかできなかった。
指先を温めるだけなら、少なくて済むかもしれない。
だが自動で温度を調整する条件を加えれば、必要量は増える。
身体へ害が出ないようにする。
衣服や物へ燃え移らないようにする。
持続時間を決める。
簡単そうに見える能力でも、安全に使える形へ設計しようとすれば、条件は増えていく。
「やっぱり、今作るものじゃないな」
紙を畳み、引き出しへしまった。
欲しいから作るのではない。
必要だから作る。
そして作る前に、必要なメモリを知らなければならない。
次に作る能力の方向性が、少しずつ見え始めた。
◇
半年が過ぎた。
十二歳になったフクリは、新しい能力を一つも作っていなかった。
日々の生活も大きく変わらない。
学校へ通い、友達と遊び、父の工房を手伝う。
夜には念の基礎修行を行った。
纏は以前より安定していた。
身体の周囲へオーラを留める感覚はつかめている。ただ、集中が乱れると薄くなり、長時間維持すれば精神的な疲れが出た。
練は苦手だった。
身体の奥から大量のオーラを生み出そうとしても、思うように増えない。力を込めすぎれば呼吸が乱れ、肩や首が硬くなる。
ゴンやキルアなら、師匠の指導を受けて短期間で乗り越えた段階なのだろう。
フクリは何か月かけても、まだ基礎の入り口にいた。
だが、絶だけは違った。
オーラの流れを閉じるまでの時間が短くなっていた。
最初は静かに座り、目を閉じ、何分も集中する必要があった。今では呼吸を二、三度整えるだけで、全身から漏れ出すオーラを止められる。
維持できる時間も伸びた。
数秒だったものが、数分へ。
周囲が安全で、身体を動かさなければ、それ以上続けられることもある。
絶に入ると、オーラによる保護がなくなる。
皮膚へ外気が直接触れる感覚が強まり、寒い場所では身体が冷えやすい。念能力者の攻撃を受ければ、纏を行っている時とは比べものにならないほど危険だ。
その一方で、身体から余計なオーラが流れ出なくなり、肉体は静かな休息状態へ入る。
安全な場所で絶を使えば、身体に溜まった疲労の回復が早くなる。
これはフクリにとって非常にありがたい効果だった。
修行で疲れた後。
父の仕事を長く手伝った後。
体調に異変がないことを確かめてから絶へ入り、静かに横になる。
しばらく休むと、身体が軽くなる。
眠る時にも絶を使えれば効率よく回復できそうだったが、完全に無防備な状態で意識を失うことには不安があった。
自分の部屋。
父と母が近くにいる。
扉と窓が閉まっている。
周囲に異常がない。
それらを確認できた時だけ、短時間試すことにした。
絶は便利だ。
気配を消せる。
疲労回復にも役立つ。
だが、使っている間は無防備になる。
利点が大きいからこそ、使う場所を間違えれば死につながる。
フクリは、自分の中でいくつかのルールを決めた。
敵がいる可能性のある場所では、長時間使わない。
戦闘が始まってから絶へ入らない。
逃げるために使うなら、相手へ見つかる前に使う。
疲労回復に使う時は、必ず安全な場所を選ぶ。
念を覚えたばかりの少年にしては、慎重すぎる考え方だった。
だがフクリにとって、念は勇敢に戦うための力ではない。
生き残るための技術だった。
◇
ある日の夕方、フクリは工房で父の仕事を手伝っていた。
完成した椅子を倉庫へ運び、その後は床に散らばった木くずを集める。
作業が終わる頃には、腕と腰に軽い疲れが溜まっていた。
「今日はここまででいいぞ」
父が言った。
「まだ掃除が残ってる」
「明日でいい。暗くなってきた」
「これくらいなら終わらせるよ」
フクリは箒を動かし続けた。
父は何か言いたそうだったが、しばらく黙って見ていた。
「お前、前より疲れなくなったな」
「そう?」
「少し前なら、椅子を運んだところで座り込んでただろ」
身体が成長したこともある。
纏を使えば、普通の状態より身体を動かしやすい。
ただしフクリは、父に気づかれない程度にしか使っていなかった。
念を知らない人間でも、明らかに不自然な力を見せれば疑問を持つ。
「修行してるからじゃない?」
「役に立ってるならいいことだ」
父は作業台の道具を片づけながら続けた。
「ただ、無理して働けるようになるのと、疲れない身体になるのは違うぞ」
「分かってる」
「本当か?」
「疲れたらちゃんと休んでるよ」
しかも、絶を使って普通より効率よく回復している。
もちろん、そのことは言えない。
フクリは掃除を終えると、自分の部屋へ戻った。
扉を閉め、窓を確認する。
父と母の気配は家の中にある。
危険はない。
布団へ横になり、絶へ入る。
身体を覆っていたオーラが消える。
冬の冷たい空気が強く感じられ、フクリは布団を肩まで引き上げた。
そのまま目を閉じる。
念の修行をしているのに、やっていることは昼寝に近い。
努力が好きな人間なら、絶を使って休む時間まで修行に充てようとするかもしれない。
フクリは違った。
休める時には休む。
身体を回復させることも、長く続けるために必要な行動だと思っている。
できれば努力はしたくない。
楽な方へ流されたい。
その性格は、念を覚えても変わらなかった。
ただし、完全にやめてしまえば、未来の自分が困る。
だから最低限だけ続ける。
無理をせず。
休みながら。
それでも少しずつ前へ進む。
目を閉じたまま、自分のメモリへ意識を向ける。
今日も昨日より増えていた。
ほんの僅かに。
一日〇・一%。
フクリが修行を休んだ日も。
疲れて眠った日も。
遊びに夢中になった日も。
止まることなく増え続けている。
「これを作ってよかったな」
小さく呟く。
今すぐ強くなれなくてもいい。
自分が何もしていない時間まで、未来へ積み重なっていく。
フクリが本当に欲しかったのは、こういう仕組みだった。
絶による静かな休息の中で、フクリはそのまま眠りに落ちた。