第7話 待つという選択 後編
十三歳。
十四歳。
十五歳。
季節は何度も巡り、そのたびにフクリの身体は少しずつ大きくなっていった。
父の工房で持てる木材は増え、任される仕事も多くなった。以前は木くずを集めるだけだったのが、簡単な研磨や組み立ての補助まで任されるようになった。
母から頼まれる家事も増えた。
買い物。
薪割り。
畑仕事。
水汲み。
どれも特別なものではない。
だが、こうした日常の一つ一つが、フクリにとっては大切だった。
念能力を作ったからといって、人生が急に大きく変わったわけではない。
恐ろしい敵が現れたわけでもない。
特別な事件へ巻き込まれたわけでもない。
むしろ、何も起きない毎日こそが、フクリの望んでいたものだった。
父と母が元気でいる。
食卓を囲める。
働けば疲れ、休めば回復する。
その繰り返し。
平穏は退屈ではなかった。
守る価値のあるものだった。
◇
メモリは、毎日増え続けた。
十三歳の頃には、最初の百から大きく増えていた。
十四歳。
十五歳。
時間が経つほど、一日に増える量も大きくなる。
最初は〇・一メモリだった。
それが〇・二。
〇・三。
少しずつ。
本当に少しずつ。
だが複利の効果は、時間が経つほどはっきり現れ始めた。
フクリは毎日確認することをやめていた。
一週間に一度。
その後は一か月に一度。
今では、気が向いた時にだけ自分のメモリへ意識を向ける。
確認しなくても増える。
気にしなくても止まらない。
だからこそ、日常へ集中できた。
それでも、使いたいという誘惑がなくなったわけではない。
新しい能力の案は、何度も浮かんだ。
工房で木材を正確に測る能力。
道具を失くさない能力。
疲れた身体をさらに早く回復させる能力。
遠くの音を聞く能力。
危険を事前に察知する能力。
どれも役に立つ。
どれも魅力的だった。
しかし、今作るべきではない。
能力に必要なメモリ量が分からない。
見積もりを間違えれば、将来の計画が崩れる。
何より、今あるメモリを使えば、その分だけ複利の伸びも小さくなる。
使えば便利になる。
待てば未来が広がる。
どちらを選ぶか。
毎回、答えは同じだった。
「まだ使わない」
そう決めて、また引き出しへ紙をしまう。
能力を作らないことは、何もしないことではない。
今の便利さを諦め、未来の選択肢を残す。
それもまた、一つの決断だった。
◇
念の基礎修行も続いていた。
纏は少しずつ安定した。
日常生活の中で短時間使う程度なら、以前より自然に維持できるようになった。
だが、上達の速度は遅い。
意識を別のことへ向ければ乱れる。
長時間続ければ集中が切れる。
練も同じだった。
以前よりは多くのオーラを出せるようになったが、目に見えて強くなった感覚はない。
身体能力も普通。
反応速度も普通。
格闘の才能もない。
武術家から教わった基本を繰り返しても、特別な動きにはならなかった。
フクリはそれを受け入れていた。
十年近く修行したからといって、誰もが達人になれるわけではない。
才能が違う。
師匠もいない。
実戦経験もない。
時間をかければ必ず天才へ追いつける、というほど世界は甘くない。
だからこそ、戦闘では別の方法を選ぶ。
正面から勝つ必要はない。
危険な相手へ近づかなければいい。
見つからなければいい。
戦いが始まる前に逃げればいい。
そして、その考えに最も合っていたのが絶だった。
◇
絶だけは、年月を重ねるごとに目に見えて上達した。
オーラを閉じるまでの時間は短くなり、今では意識した瞬間に近い速度で絶へ移れる。
歩きながら。
座りながら。
横になりながら。
大きく身体を動かさなければ、絶を維持することも難しくない。
もちろん、完全な達人ではない。
熟練した念能力者に近づけば、別の要素から存在を察知される可能性はある。
呼吸。
足音。
匂い。
視線。
絶はオーラを消すだけで、人間そのものを透明にする技術ではない。
だからフクリは、念を覚える前から続けてきた気配を消す訓練もやめなかった。
足音を小さくする。
枝を踏まない。
呼吸を乱さない。
視線を相手へ固定しすぎない。
周囲へ溶け込む。
念の絶と、五年間積み重ねた身体技術。
その二つが重なることで、フクリの隠密能力は少しずつ形になっていった。
戦えば弱い。
だが、見つからないことに関してだけは、同年代の念能力者より上手い可能性がある。
それでもフクリは、自分を強いとは思わなかった。
絶を得意としていても、見つかった後に攻撃されれば弱い。
無防備な状態で念の攻撃を受ければ、命を落とす。
だから使う場所を間違えない。
安全を確認する。
敵の目の前で絶へ入らない。
疲労回復に使う時も、必ず周囲を確かめる。
絶は便利な技術だが、万能ではない。
フクリにとって最も大切なのは、技術そのものよりも、それを安全に使う判断だった。
◇
十五歳の終わり頃。
学校を終える時期が近づくと、同年代の友人たちは次々と将来を決め始めた。
家業を継ぐ者。
町の商店へ働きに出る者。
兵士を目指す者。
遠い町へ移る者。
村を出ることを楽しみにしている者もいれば、不安そうにしている者もいた。
「フクリはどうするんだ?」
友人に聞かれ、フクリは少し考えた。
「町で働こうと思ってる」
「木工じゃなくて?」
「父さんの仕事を継ぐかは、まだ決めてない」
「ハンターになるんじゃなかったのか?」
「一度もなるって言ってないだろ」
「昔、ハンターのこと調べてたじゃん」
「危険だから調べてただけ」
「普通は興味があるから調べるんだよ」
友人は笑った。
「俺ならライセンスを取って世界中を回りたいけどな」
「試験で死ぬかもしれないぞ」
「またそれか」
「大事だろ」
「フクリは昔から怖がりだな」
「怖がらない奴から死ぬんだよ」
「お前、本当に十五歳か?」
笑いながら言われ、フクリも笑った。
自分でも、時々若者らしくないと思う。
だが前世の記憶を合わせれば、すでに四十年以上生きた感覚がある。
危険を冒して大きな成功を得るより、確実に生き残る方を選びたい。
それは今さら変えられない性格だった。
◇
ある夜、父がフクリへ尋ねた。
「学校を終えた後、どうするか決めたか?」
三人で夕食を食べ終えた後だった。
母は食器を片づけながらも、こちらの会話へ耳を向けている。
「町で働いてみたい」
フクリが答えると、父はすぐには何も言わなかった。
「俺の仕事が嫌なのか?」
「違うよ」
「なら安心した」
「継いでほしい?」
「継いでくれたら、俺は楽ができる」
「それが目的?」
「半分はな」
父は笑った。
「だが、お前の人生だ。継ぎたければ教える。別のことをしたければ、それでもいい」
母は食器を置き、少し心配そうに振り返った。
「どんな仕事をするの?」
「まだ決めてない。危なくない仕事を探す」
「町の仕事だから安全とは限らないぞ」
父が言う。
「村より知らない人間も多い。金を持ってると思われれば、騙されることもある」
「気をつける」
「夜道を一人で歩かないこと」
母が続ける。
「食事を抜かない。病気になったら我慢しない。怪我をしたらちゃんと診てもらう」
「まだ仕事も決まってないよ」
「決まってから言ったら遅いでしょう」
「多分、出発する日にも同じこと言うよね」
「もちろん言うわ」
母は迷いなく答えた。
フクリは苦笑したが、嫌ではなかった。
心配してくれる人がいる。
帰る場所がある。
それは当たり前ではない。
◇
父の知人を通じ、いくつかの働き口を紹介してもらった。
商店の店員。
倉庫の荷運び。
食堂の手伝い。
農場。
工事現場。
フクリが選んだのは、町の工事現場だった。
特別な理由はない。
未経験でも働ける。
父の仕事を手伝ってきたため、木材や道具の扱いに少し慣れている。
身体も鍛えられる。
そして、危険な相手と戦う必要がない。
もちろん工事現場にも危険はある。
高い場所。
重い資材。
落下物。
道具による怪我。
何も考えずに働けば、命に関わる事故が起こる。
だが、危険の多くは事前に確認できる。
装備を整える。
足場を見る。
無理な重量を持たない。
周囲と声を掛け合う。
賞金首や魔獣を相手にするより、ずっと管理しやすい。
「工事か」
父は採用の知らせを聞いて頷いた。
「お前には合ってるかもしれんな」
「そう思う?」
「慎重だからな」
「褒めてる?」
「現場では長所だ。格好をつけて無理をする奴から怪我をする」
その言葉は、フクリにもよく理解できた。
自分の力を大きく見せる必要はない。
持てない物は持てないと言う。
危険なら止まる。
分からなければ聞く。
働くうえでも、生き残るうえでも同じだった。
◇
十六歳の春。
フクリは町の工事現場で働き始めた。
村から毎日通うには遠いため、平日は町の安い宿で暮らし、休日に家へ帰ることになった。
仕事は楽ではなかった。
資材を運ぶ。
道具を片づける。
足場を組む手伝いをする。
地面を掘る。
先輩たちに言われたことを覚え、間違えれば叱られる。
最初の数日は、全身が痛くなった。
纏を使えば多少は身体を動かしやすい。
だが、念能力者だと気づかれるほど使うつもりはなかった。
周囲から見て、少し体力のある若者。
その程度に抑える。
休憩時間には普通に座り、水を飲み、食事を取る。
仕事が終われば宿へ戻る。
扉と窓を確認し、周囲に危険がないことを確かめてから絶へ入る。
疲労が溜まった身体を、静かな休息状態へ置く。
身体が冷えないよう布団へ入り、短時間横になる。
完全に疲れが消えるわけではない。
睡眠や食事も必要だ。
それでも、絶を使わない時より回復は早かった。
翌朝には、また働ける程度まで身体が戻る。
フクリは、絶が生活の中でも役立つことを実感した。
戦うために念を使わない。
目立つためにも使わない。
働き、休み、また働く。
念能力者らしくない使い方かもしれない。
だがフクリは、それでよかった。
◇
現場では、自分の力を過信しないよう心がけた。
「それ、二人で持て」
先輩に言われれば、素直にもう一人を呼ぶ。
「一人でいけます」
そう言って無理をする若者もいたが、フクリは真似しなかった。
纏を使えば、一人で持てるかもしれない。
だが念を使う必要はない。
普通に二人で持てば安全だ。
ある日、別の作業員が足場の上から木材を落としかけた。
「下、離れろ!」
声が飛ぶ。
フクリは反射的に身体を動かし、落下地点から離れた。
木材が地面へ落ち、大きな音を立てる。
少し判断が遅ければ、肩や頭へ当たっていたかもしれない。
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
「悪かった。固定が甘かった」
上にいた作業員が青い顔で謝る。
フクリは怒らなかった。
誰でも失敗はする。
大切なのは、次に同じことを起こさないことだ。
その日の作業後、足場の固定方法が見直された。
フクリも、自分が立つ位置を以前より細かく確認するようになった。
念があるから助かるのではない。
まず危険を避ける。
念は、それでも避けられなかった時の補助だ。
その考えは、働き始めても変わらなかった。
◇
給料を受け取るようになると、フクリは生活費を除いた分を少しずつ貯めた。
豪華な物は買わない。
必要な服。
仕事道具。
食事。
それ以外は、ほとんど使わなかった。
休日に村へ帰る時は、母へ菓子を買い、父には仕事で使えそうな小さな道具を持ち帰った。
「自分のために使いなさい」
母はそう言いながらも、菓子を受け取ると嬉しそうだった。
「俺には何もいらんぞ」
父は言ったが、渡した道具を翌日から使っていた。
家族へ何かできる。
それだけで、働く意味は十分にあった。
何もせずに家へいるより、ずっといい。
フクリは努力が好きではない。
仕事へ行きたくない朝もある。
休みが終わる夜には、もう一日休みたいと思う。
それでも働いた。
生活するには金が必要だ。
家族へ負担をかけたくない。
そして将来、村を出て能力の研究をするにも金は必要になる。
楽をするために、今できる範囲で働く。
それもまた、フクリらしい選択だった。
◇
工事現場で働き始めてからも、メモリは増え続けた。
フクリが汗を流している間も。
疲れて宿で眠っている間も。
休日に家族と食事をしている間も。
一日〇・一%。
止まることはない。
十六歳を過ぎた頃には、使用可能なメモリはかなり増えていた。
小さな能力なら、いくつも作れる。
少し大きな能力にも手が届く。
それでも使わなかった。
次に作る能力は決めていた。
作りたい能力に必要なメモリ量を知るための能力。
能力設計を行う自分にとって、最初に必要なのは攻撃力ではない。
正確な見積もりだ。
どれほど優れた設計でも、必要な容量を間違えれば完成しない。
途中でメモリが足りなくなれば、能力が歪む可能性もある。
無駄な機能へ多く使えば、それだけ未来の可能性が減る。
フクリにとってメモリは、命と同じくらい慎重に扱うべき資源だった。
だが、その能力を作るためにもメモリが必要になる。
自分の設計感覚では、おそらく二百。
正確ではない。
それでも、これまで考えてきた能力の中では比較的軽い。
戦闘には使えない。
単体では何も生み出さない。
紙に書いた能力の必要量を調べるだけ。
用途が限定されている分、二百メモリで成立する可能性は高い。
今すぐ作ることもできた。
だが、フクリは待つことにした。
二百メモリを使った後も、十分な余裕を残しておきたい。
複利の増加速度を、大きく落としたくない。
そして、次に作るかもしれない能力へ備えたい。
「十七歳と六か月」
フクリは自分で時期を決めた。
そこまで待つ。
それまでは使わない。
工事現場で働き。
基礎修行を続け。
絶を磨く。
焦って能力を増やさない。
この判断が正しいかは分からない。
だが少なくとも、今の便利さだけを考えてメモリを消費するよりは、自分らしいと思えた。
◇
十七歳の誕生日を迎えた。
父と母は、休日に帰ってきたフクリのために小さな祝いの席を用意してくれた。
「もう十七か」
父が酒を飲みながら言う。
「働き始めると早いな」
「疲れてるから一週間がすぐ終わるんだよ」
「仕事には慣れた?」
母が尋ねる。
「最初よりは」
「怪我はしてない?」
「小さい擦り傷くらい」
「見せなさい」
「もう治ってるよ」
母は納得しなかったが、フクリが元気そうなのを見て、それ以上は追及しなかった。
三人で食卓を囲む。
父の仕事の話。
母の畑の話。
村を出た友人たちの話。
フクリも町での生活を話す。
念のことだけは話さない。
それでも、話すことはいくらでもあった。
食事を終え、自分の部屋へ戻る。
昔より少し狭く感じる部屋。
六歳の時から使ってきた机。
父にもらった虫取り網も、壁に掛けられたまま残っている。
フクリは布団へ座り、自分のメモリを確認した。
もうすぐ。
あと半年。
二つ目の能力を作る時期が近づいていた。
これまで何度も使いたいと思った。
便利な能力を考えた。
危険に備える能力も欲しかった。
それでも待った。
能力を作ることができないからではない。
作らないと決めたからだ。
その選択を、何年も続けてきた。
フクリは目を閉じ、絶へ入った。
オーラが消え、身体が静かな休息状態へ移る。
温かい布団の中で、疲労がゆっくりと抜けていく。
何かを成し遂げた実感は、まだない。
最強には程遠い。
戦闘能力さえ持っていない。
それでも、最初の能力を作った頃より、確実に未来は広がっている。
十七歳と六か月。
その日まで、あと半年。
フクリは焦らなかった。
時間はすでに、彼の味方だった。