視界の隅で、何かが光っていることに気づいた。
足元だった。見たこともない幾何学模様が、淡い光を纏って床に浮かび上がっている。
まばゆい光が、その中心から溢れ出した。音もなく、痛みもなく、ただ体の重みだけが消えていく感覚があった。俺の意識は、そのままふっと途切れた。
――そのわずか数分前まで、俺はいつもと同じ放課後を過ごしていたはずだった。
放課後の教室に、夕陽が長く差し込んでいた。
「峰人、先に行ってるぞ」
野球部の仲間が、鞄を肩にかけながら教室を出ていく。
「おう、すぐ行く」
そう返しながらも、鞄を持つ手が、なぜか重かった。
準決勝、九回裏。打てば、勝てた。それなのに、いざバッターボックスに立った途端、足が竦んだ。球場を包む大歓声が、やけに遠くから聞こえた。じっとりと汗ばんだ掌が、バットのグリップを滑りそうになる。球筋は、最後まで目で追えていたはずだった。それでも、押し寄せる緊張と恐怖に飲まれるようにして、三振した。
あの日から、練習に向かう足取りが、少しだけ重くなった気がする。
誰もいなくなった教室でひとり、荷物をまとめる。いつも通り部活に向かう――はずだった。
鞄の口を閉じようとした手が、ふと止まる。
「……あれ?」
足元に、さっきと同じ光が滲んでいた。
***
顔がある。
目を開けた俺の、すぐ目の前に。
青い肌。人間には決してない色。至近距離で覗き込むように見つめてくるその顔に、俺は思わず息を呑んだ。夢か、と疑う余裕すらなかった。
「――おや、お目覚めですか」
「うわっ!?」
驚きのあまり体が仰け反り、座っていた椅子ごと、そのまま床に転げ落ちた。
ガンッ、という鈍い音が机に響いた。その振動に引きずられるように、机を囲んでいた残りの三人が、次々と目を覚ましていく。
「……っ、な、なんだよ、ここ……」
短く刈り込んだ髪の男子が、真っ先に身を起こした。声はぶっきらぼうで、少しかすれている。周囲を見渡す目つきには、戸惑いよりも先に警戒の色があった。
「え、え……? わたし、さっきまで……」
長い髪の女子は、状況を飲み込めないまま、自分の両腕をそっと抱くようにして周囲を見渡す。おっとりとした口調に、育ちの良さがにじんでいた。
「ちょっと、状況が全然わからないんだけど!?」
一番はきはきとした声を上げたのは、もう一人の女子だった。三人の中でただひとり、真っ先に部屋の出入り口や壁の様子にまで目を走らせている。床に転がる俺と、目の前に立つ青い肌の人物を、素早く交互に見据えた。
三人とも状況を掴めていないのは、俺と同じらしい。それだけが、わずかな救いだった。
ふと、自分の格好が目に入った。
制服のままだった。見慣れた紺のブレザーに、他の三人もそれぞれ見覚えのない、別々の制服姿だった。
着慣れたはずの服装が、この石造りの部屋では、ひどく場違いに見えた。
青い肌の男は静かに手を差し伸べ、椅子に座り直す俺を助け起こした。指先が、思いのほか冷たい。
改めて見ると、青い肌には似つかわしくない、体に沿った黒いスーツのようなものを纏っている。
「まずは、自己紹介といきましょうか」
そう言うと、男は自らの胸に手を当てた。
「私は、魔王軍幹部
四人は顔を見合わせた。異世界。魔王軍。誰の顔にも、追いつけない戸惑いが浮かんでいた。それでも、はきはきした声の少女が代表するように、恐る恐る口を開いた。
「……
「
ぶっきらぼうに名乗った久龍に続き、長い髪の女子が小さく頭を下げる。
「
最後に、俺も小さく名乗った。
「
シヴァは満足そうに頷いた。その満足が、歓迎から来るものなのか、それとも別の何かから来るものなのか、俺にはまだわからなかった。
シヴァは軽く手を上げた。
「では、まずは召し上がってください。皆様には、これからのことを考える上でも、まず体力をつけていただきたいので」
言葉と同時に、扉の奥から数人の従者が姿を現した。シヴァと同じ青い肌をした者もいれば、角や牙といった異相を持つ者もいる。彼らは無言のまま机の上に次々と料理を並べていく。見る間に、机の上は色とりどりの皿で埋め尽くされていった。
湯気とともに、見たこともない香辛料の匂いが鼻をかすめる。白身の魚を使った料理が多かった。椎花も柚乃も、しばらく箸を持ち上げようとはしなかった。
シヴァの微笑みが、俺には妙に引っかかった。丁寧すぎる。優しすぎる。まるで、値踏みされているのを気づかれないための微笑みだ。これは、もてなしなんかじゃない。
シヴァは食事が並べられたのを見届けると、静かに言葉を続けた。
「先に言っておきますが、皆様を傷つけるつもりは、私にはありません」
その言葉に、四人の間に僅かな安堵と、それ以上の警戒が入り混じる。安心しろと言われて、素直に安心できるほど、状況は単純じゃなかった。
「ここは、皆様の元いた世界とは異なる世界です。詳しいことは追い追い説明しますが、まずは――」
「異なる世界って、どういうことですか!?」
真っ先に食いついたのは椎花だった。
「じゃあ、俺たちどうやって帰ればいいんだよ」
続けて久龍が身を乗り出す。
「わたしたち、殺されたりしないですよね……?」
柚乃が不安げに、こぼすように言う。
「あの、俺たちは、これから一体……」
俺も、遅れて言葉を挟もうとした。聞きたいことは山ほどあるのに、いざとなると何から聞けばいいのか、自分でもよくわかっていなかった。
矢継ぎ早に飛んでくる問いに、シヴァの笑みが、僅かに深くなった。
「――質問はごもっともですが、私にも準備がありますので。また後ほど」
そう言うと、シヴァは音もなく席を立ち、部屋を後にした。
残されたのは、四人と、湯気を立てる料理だけだった。
「……なんなんだよ、あいつ」
久龍が吐き捨てるように言い、それでも空腹には勝てないのか、料理に手を伸ばす。
「食べていいのかな、これ……」
柚乃がおそるおそる箸のようなものを手に取る。
「今更でしょ。それより、これからどうするか話し合わないと」
椎花が、努めて冷静にそう言った。
俺はしばらく黙って料理を見つめていたが、ふと思い出したように呟いた。
「……異世界って、ファイアスレイバーみたいだな」
「あ、あのゲーム? わたしもやったことあります」
柚乃が小さく反応する。
「異世界に行く話なんて、あれくらいしかないもんな」
久龍が話しながら、料理を頬張る。
「――でも、あれってフィクションだよね。まさか本当に、こんなことになるなんて」
椎花が、料理をつつきながら小さく笑った。乾いた、それでいてどこか強がりの滲む笑いだった。
「まあいいけどさ。それより――」
久龍が箸を置き、四人の顔を順に見渡した。
「帰れんのかよ。俺たち」
柚乃が箸を置いた。椎花は自分の膝の上で手を握り込んだまま、答えを探すように黙り込む。久龍は何も言わず、ただ天井を見上げていた。
「……とりあえずさ」
沈黙を破ったのは、椎花だった。
「お互いのこと、もうちょっと知っといた方がいいんじゃない? この状況で、いきなり信用しろって言われても無理があるし。でも、何も知らないよりはマシでしょ」
「別に、俺は誰でもいいけど」
久龍がそっけなく言いながらも、視線だけは椎花の方を向いていた。拒否はしていない証拠だった。
「鳳利くんは、何か部活とかやってた?」
「俺は野球部で、ちょうどこれから部活に行こうとしてたとこで……」
そう言うと、久龍が小さく肩をすくめた。
「へえ、意外と体育会系じゃん。まあ、いいんじゃねえの。俺だって、殴り合いくらいしか取り柄ねえし」
「殴り合いなんて、物騒だわ……」
柚乃が、眉をひそめながら小さく呟く。
そんな軽いやり取りが、少しだけ場の空気を和ませていた。
「ま、誰が何できようができまいが、今んとこ関係ないっちゃないけどな」
久龍がそう締めくくると、椎花が小さく頷いた。
「でも、知っといて損はないよ。何かあった時、頼れる相手がいるかどうかって、大事でしょ」
椎花はそう言うと、思い出したように柚乃の方を向いた。
「そういえば、天場ちゃんは? 何かやってたの?」
「わたしは……えっと……」
柚乃が、視線を泳がせながら言葉を探していた、その時だった。
扉が、音もなく開いた。
「お食事は、お済みですか」
いつの間にか戻ってきていたシヴァが、静かにそう尋ねる。
「――楽しいお時間のところ、申し訳ありませんが」
「皆様には、これから実験に協力していただきます」
シヴァの口調は変わらなかった。丁寧で、穏やかで――だからこそ、その言葉の意味が、遅れて四人の背筋を凍らせた。
実験。その一言だけが、輪郭の掴めないまま頭の中に居座っていた。何を、される。何のために。問いは浮かんでも、答えの気配は欠片もなく、ただ不安だけが、腹の底で膨らんでいった。