その一言に、場の空気が一瞬にして張り詰めた。
「――実験?」
椎花の声は、掠れていた。答えを求める声というより、信じたくない、という響きだった。
シヴァは静かに微笑んだ。
「ご安心を。痛みは、ほとんどないでしょうから」
「では、ついてきてください」
有無を言わさぬ穏やかな声に、四人は互いの顔色をうかがいながらも席を立った。
案内された先は、これまでとは違う、殺風景な部屋だった。石造りの広い空間の中央に、黒く光沢のある巨大な球体が、うずくまるようにして鎮座している。その奥には一台の机が置かれ、剣らしきものが並べられているのが見えた。
「保険として、これを付けてください」
シヴァが取り出したのは、黒く光る首輪だった。
抵抗する間もなく、四人の首にそれぞれ嵌められていく。冷たい感触が肌に触れ、俺は思わず身を固くした。
「では、私はここで」
シヴァはそう言い残すと、静かに部屋を出て行った。
重い音を立てて、扉が閉まる。
その瞬間だった。
うずくまっていた黒い球体の表面が、幾つものパーツに分かれ、金属同士が擦れ合うような硬質な音を立てながら、次々と組み変わっていく。
太い脚。刃のような腕。
見る間に、それは人の形にも似た、しかし人ではない何かへと組み上がっていった。
「――なんだよ、あれ……!」
久龍が後ずさる。
答えを待つ間もなく、その怪物は四人へと襲いかかってきた。
足が、竦んでいた。動けと命じても、膝から下がそれを聞かなかった。
準決勝のバッターボックスで味わった、あの感覚だ。心臓だけが早鐘を打ち、指先が冷たく強張っていく。椎花も、柚乃も、同じように立ち尽くしていた。逃げろ――喉の奥でその言葉が固まって、声にすらならなかった。
動いたのは、久龍だけだった。
「――机の上に剣だ! あれを使って戦えってことだろ!」
叫びながら、久龍は真っ先に駆け出していた。怪物の刃のような腕が、その背を掠める。服が裂け、その下に赤い筋が走った。
「いっ――」
短く声を漏らしながらも、久龍は足を止めなかった。
その声に引きずられるように、俺たちもようやく動き出す。
あの時は、誰も呼んでくれなかった。今度は、動けた。それだけで、少しだけ息がしやすくなった気がした。
怪物の攻撃が、逃げる四人を追う。かすめ、掠め、けれど致命傷には至らない。ただの偶然か、それとも――そんなことを考える余裕は誰にもなかった。
机に辿り着くと、久龍が剣を掴み、俺たちへ次々と放ってよこした。
「――ほら!」
落ちてきた剣を、椎花も、柚乃も、俺も、それぞれ慌てて受け取る。
柄を握った掌に、冷たい感触が伝わる。それだけで、俺の中で強張っていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ。
それも、束の間だった。
怪物の切っ先が、四人の中で最も反応が遅れた椎花へと向く。
「――椎花!」
久龍の声が届くより早く、刃は椎花のすぐ目の前まで迫っていた。
避けられない。覚悟した、その刹那。
刃と椎花の間に、氷の壁が生まれる。
刃が、氷にぶつかった。甲高い音を立てて、切っ先が止まる。
「……え」
短い声が、震えていた。椎花は、目の前にそびえる氷の壁を、呆然と見つめている。指先が、小刻みに震えていた。
強張っていた頬に、少しずつ血の気が戻っていく。詰めていた息を吐き出すと、椎花は自分の掌を、確かめるようにきつく握り込んだ。
「……氷?」
久龍が、放心したように呟いた。柚乃も、俺も、言葉を失ったまま椎花を見ていた。
驚いている時間は、与えられなかった。
弾かれた怪物の腕が、返す刃で再び椎花を狙う。逆手からの一撃。呆然としたままの椎花は、その気配にすら気づいていなかった。
「――させるかよ!」
久龍が椎花の前に躍り出て、剣を構えた。
刃と刃がぶつかる。
甲高い音とともに、久龍の剣が根元から折れた。
「なっ――!?」
頭の芯で、だめだと悟った。
刃が触れる、まさにその一点にだけ、竜の鱗を思わせる硬質な鎧が浮かび上がった。ガチン、と重い音を立てて、刃を受け止める。
折れた剣を握ったままの拳が、その鎧に守られて、怪物の一撃を受け止める。
久龍の腕が大きく震え、足元の石畳が割れた。それでも久龍は、そこに立ち続けていた。
「――は、なんだこれ……!」
驚愕と、それを上回る獰猛な笑みが、久龍の顔に浮かんでいた。
***
――シヴァ
その頃、シヴァは、モニターに映る戦いの様子を眺めていた。
「――やはり、見立ては間違っていなかったようですね」
誰に聞かせるでもない呟きだった。口の端が、小さく持ち上がる。
「ふふ……二人とも、これほどとは」
胸の内から湧き上がる愉悦を、抑えきれなかったのだろう。
「――成功だ」
いつもの丁寧な口調が、一瞬だけ剥がれる。すぐに気づいたように、シヴァは小さく咳払いをして、また静かな笑みを取り戻した。
***
怪物の背中が、ガチャリと硬質な音を立てて開いた。
中から現れたのは、いくつもの関節を持つ、機械仕掛けの腕だった。二本の腕が、鎧を纏ったままの久龍と、氷で守られてた椎花に向かって伸び、二人の体をまとめて壁へと押し付ける。
「くっ……離せ!」
久龍がもがくが、金属の腕はびくともしない。
「今のうちに――」
とっさに、動きの隙が見えた。気づいた時には、俺は怪物の死角へと回り込んでいた。手にした剣を、力任せに背中へ突き立てる。
確かな手応え。刃が装甲の継ぎ目に食い込み、切っ先が深く沈み込む。
けれど、反撃を喜ぶ余裕はなかった。
背中から、三本目の機械腕が伸びる。俺の体に絡みつくと、振り解く間もなく、体ごと壁に叩きつけられた。
「――かっ」
声にならない声が漏れる。背中に走った衝撃が、そのまま肺の中の空気を押し出していた。
「鳳利さん!」
柚乃の声が響く。
残されたのは、彼女ひとりだけだった。
怪物が、ゆっくりと向き直る。狙いは、もう定まっていた。
振り上げられた刃が、まっすぐ柚乃へと落ちてくる。
逃げ場はない。壁際の三人は、動けないまま、その光景を見ているしかなかった。
柚乃の顔から、みるみる血の気が引いていく。振り上げられた刃を見つめたまま、その足は根が生えたように動かなかった。
逃げろ、と叫びたかった。だが声は喉に張り付いて出てこない。血の気の引いたその顔を見れば、こんな暴力に慣れていないことだけは分かった。
切っ先が、すぐそこまで迫っていた。
次の瞬間、柚乃の体は、そこになかった。
刃が空を切った、ほんの数メートル先。地面に尻もちをついた柚乃が、自分の手のひらに視線を落としたまま、動けずにいた。荒い息だけが、やけに大きく聞こえていた。
「……消えた? わたし、今……」
自分自身、何が起きたのかまだ飲み込めていないのだろう。掠れた声のまま、自分の手のひらをじっと見つめ続けている。
遠くへ跳んだわけではない。ただ、死の間際から数歩分だけ、逃げただけだった。それでも、命を拾うには十分だった。
腰が抜けたように、それ以上体が動かなかった。何が起きたのか分からないまま、座り込んだ姿勢で固まってしまう。
怪物が、再び柚乃へと狙いを定める。
もう一度、あの力で躱せるのか――分からない。座り込んだままの体を見れば、望みは薄い気がした。
だが、確かめている時間はない。
死ぬ――頭の中が、その一文字だけで埋め尽くされた。
地面に転がっていた剣が、ひとりでに宙へと浮き上がり、迫っていた怪物の刃を弾き飛ばした。金属同士がぶつかる甲高い音が、部屋中に響き渡る。
「……え?」
柚乃が、目を見開いて振り返った。
手を伸ばしたわけでもないのに、剣は確かに、俺の「助けたい」という思いに応えて動いていた。理屈より先に、確信だけがあった。
続けて剣が返り、俺を拘束していた腕を斬り払う。腕が千切れ、体が自由になった。
「……今、動かした。触ってないのに」
驚いている暇はなかった。腰の抜けた柚乃を支え起こし、部屋の隅、瓦礫の陰まで連れていく。
「ここでじっとしてろ。すぐ戻る」
「は、はい……」
震える声で頷く柚乃を残し、俺は壁際へと駆け戻った。椎花と久龍が、まだ機械の腕に押さえつけられている。
剣を握り直し、意識を集中させる。
――動け。
剣が再び宙を奔り、椎花を拘束する腕を斬り払った。拘束が解け、椎花の体が自由になる。
続けて、久龍を捕らえる腕も同じように斬り落とす。ガシャン、と重い音を立てて、久龍の体も壁から解き放たれた。
「なっ、お前――」
久龍が驚いたように俺を見る。
束の間、視線が交錯する。椎花の氷。久龍の鎧。俺の、意思のままに動く剣。それぞれに、得体の知れない力が芽生えていることだけは、もう疑いようがなかった。
「使えるもんは、使うしかないでしょ!」
椎花が叫ぶように言った。
「けど、めちゃくちゃに攻めても保たねえぞ」
久龍が肩で息をしながら言う。
「久龍くんは前に出て守って。わたしと鳳利くんで、遠くから攻撃を集中させる」
椎花の言葉に、久龍が頷いた。
「一点に絞って、畳み掛ける。それしかない」
俺もそれに頷き返す。狙うべき場所は、もう見えていた――さっき俺の剣が突き立てた、あの装甲の継ぎ目だ。
「――行くぞ!」
久龍の声を合図に、三人は同時に動き出した。
久龍が正面に躍り出て、怪物の注意を引きつける。鎧を纏った拳が、繰り出される攻撃を次々と受け止めていく。
その隙に、椎花の氷の塊と、意思のままに動く俺の剣が、寸分違わず同じ場所――継ぎ目の一点だけを、繰り返し叩いた。
一度、二度、三度。
装甲の継ぎ目に走った亀裂が、見る間に広がっていく。
「――今だ!」
久龍が大きく退がると同時、椎花の氷がその亀裂に流れ込んで内側から凍らせ、俺の剣が意思のままに宙を奔り、とどめの一撃としてその急所を刺し貫いた。
怪物の体が、内側から弾けるように砕け散った。
飛び散った破片が、乾いた音を立てて石畳に転がる。
荒い息遣いだけが、部屋に響いていた。怪物だったものの残骸を、四人はただ立ち尽くしたまま見つめている。柚乃は座り込んだ姿勢のまま、剣の柄を強く握りしめていた。
やがて、椎花が真っ先に動いた。壁際にへたり込んだままの俺のもとへ駆け寄り、肩を貸して立ち上がらせる。
「大丈夫? どこか折れてない?」
「……たぶん、大丈夫」
答えると、椎花はほっとしたように息を吐いた。
柚乃も、久龍の背中に負った傷に気づいて駆け寄っていく。
「久龍くん、その傷……!」
「これくらい、かすり傷だ」
強がる久龍の声に、柚乃は納得しない様子で服の裂け目を覗き込んだ。
「かすり傷って言うには血が出すぎです。ちゃんと見せて」
「うるせえな……」
口では悪態をつきながらも、久龍は大人しく傷を見せていた。
俺は、その光景をぼんやりと眺めていた。ついさっきまで、互いの名前もろくに知らなかった四人だった。それが今は、当たり前のように互いの無事を確かめ合っている。
「……倒した、のか?」
久龍が、崩れ落ちた残骸を見下ろしながら呟く。
やがて扉が開き、シヴァが姿を現した。その顔には、笑みがあふれていた。
「――まさか、四人ともとは思いませんでしたよ!」
声が、弾んでいた。いつもの取り澄ました微笑みはどこかへ消え、目を輝かせて四人の顔を代わる代わる見つめている。まるで、極上の獲物を前にした子供のような表情だった。
その豹変ぶりに、四人は思わず顔を見合わせた。何が「まさか」なのか、問い詰める間もなく、久龍が真っ先に詰め寄った。
「どうなってんだよ、これ!」
「説明してください。わたしたちに、一体何をしたんですか」
椎花の声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。
シヴァの笑みが、僅かに深くなった。何かを答えようと口を開く。
「――それについては……」
言い終わるより早く、遠くで甲高い音が鳴り響いた。一度、二度、途切れることなく。
シヴァの言葉が、そこで止まる。
「……何、この音」
柚乃が不安げに天井を見上げる。
慌ただしい足音が、扉の向こうから近づいてくる。