白い天井が、ぼんやりと滲んで見えた。
体の芯が重い。指先を動かそうとして、ようやく自分が横になっていることに気づく。
――ここ、どこだ。
記憶を辿ろうとした瞬間、首元に残る痺れの余韻が蘇った。雷。崩れ落ちる椎花。抱え上げられる感触。そこで記憶はぶつりと途切れている。
椎花。柚乃。久龍。
三人の名前が、頭の中で立て続けに浮かんだ。
「……っ」
跳ねるように身を起こそうとして、体が言うことを聞かないことに気づく。節々が鈍く痛んだ。
「無理に動くな」
しわがれた声がした。
視線を横に向けると、白髪交じりの老人が、机の上の道具を片付けながらこちらを覗き込んでいた。小柄で猫背気味の体つきに、丈の長い白衣を纏っている。丸眼鏡の奥の目が、観察するようにこちらを見ている。首筋に触れていた指先の感触からして、さっきまで何かを診ていたらしい。
木の梁が渡された天井。石造りだったあの部屋とは、明らかに違う場所だった。
老人はしばらく黙って俺の様子を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「呼吸も脈も、もう乱れはない。峠は越えたようだな」
独り言のような口調だった。
「あの、ここは……」
「質問はあとだ。まず、名前を聞いておこうか」
「……鳳利、峰人です」
「ほうり、みねと、な。……よし、峰人くん」
「あの、あなたは……?」
「あん? ああ、名乗ってなかったな」
老人は片眉を上げると、白衣の胸元を指で軽く叩いた。
「ヴェルナーだ。……といっても、この国じゃ誰も名前じゃ呼ばん。もっぱら『博士』で通ってる」
「博士……」
「呼びやすい方で構わん」
そう言うと、老人は椅子から立ち上がり、部屋の扉へと向かった。
「ちょっと待って、他に――」
言いかけた俺を置いて、老人は扉を開け、外に向かって声を張り上げた。
「おい、目を覚ましたぞ」
その声には応じたが、俺の問いには答えなかった。他に運ばれてきた者はいるのか。椎花たちはどうなったのか。聞きたいことは山ほどあるのに、老人はさっさと廊下の方を向いてしまっている。
しばらくして、足音が近づいてきた。
扉の向こうから現れたのは、鎧すら纏っていない、ごく普通の服装をした男だった。
――人間だ。
青い肌でも、角でもない。ただそれだけのことに、体の力が抜けるような安堵を覚えた。
歳の頃は三十代半ばといったところか。特別に鍛え抜かれているようには見えない、それでいて、立ち姿に一切の無駄がなかった。
男は部屋に入るなり、まっすぐに俺を見た。
その顔よりも先に、耳の奥で声が蘇る。――大丈夫だ、息はしている。あの時、崩れていく視界の中で聞いた声だ。
「気づいたか」
低い声だった。記憶の中の声と、寸分違わず重なる。
「……あんたの、声」
思わず声が漏れた。
強面が、ほんの少しだけ緩んだ。
「ガレアスだ、ガレアス・アル・アズラート。お前を担いで運んだのは、俺だよ」
「じゃあ、あの時――」
聞きたいことが喉元まで出かかったが、うまく言葉にならなかった。
ガレアスは俺の様子を見て、椅子を引き寄せると、その背もたれに腕を乗せるようにして座った。急かす気配はなかった。
「――ほかにも、三人いたはずなんです。みんなは、無事なんですか」
ようやく、それだけを絞り出す。
ガレアスの表情が、一瞬だけ動いた。だがそれもすぐに消え、いつもと変わらない硬い顔つきに戻る。
「――正直に言う。分からない」
短い沈黙のあと、ガレアスは静かに続けた。
「お前を見つけた時、他の三人はもう連れ去られたあとだった。誰に、どこへ運ばれたのかまでは、こちらでも掴めていない」
体の奥が、すっと冷たくなった。
「そんな……」
「探していないわけじゃない。分かり次第、必ず伝える」
その言葉に、噓くさい気休めの響きはなかった。だからこそ、何も言い返せなかった。
「――そもそも、あの場所のことが、どうして分かったんですか」
ようやく、そのことに思い至る。
「強い魔力の反応があった。調べに向かったら、お前たちがいた――それだけだ」
短い答えだった。それ以上、深追いする気力もなかった。
しばらく、誰も口を開かなかった。壁の外から、遠く鳥の鳴き声が聞こえていた。
先に沈黙を破ったのは、ガレアスだった。
「お前をここへ連れてきた経緯について、王への説明が必要になる。動けるか」
「王?」
予期していなかった単語に、思考が一瞬止まる。
「面倒だろうが、付き合ってもらうぞ。お前の処遇も、そこで決まる話だ」
有無を言わさぬ声だった。それでいて、突き放すような冷たさはない。俺はゆっくりと体を起こした。
案内された廊下は、石造りの重厚な作りだった。窓の外には、これまで見たどの景色とも違う、白い石壁の街並みが広がっている。
歩きながら、頭の中は椎花たちのことでいっぱいだった。無事なのか。今どこにいるのか。考えても、答えの出ない問いばかりが浮かんでは消えていく。
大きな両開きの扉の前で、ガレアスの足が止まった。
「――一つだけ言っておく」
振り返らないまま、低い声だけが届く。
「この先で聞かれることに、隠し事はするな。お前のためにならない」
それだけ言うと、ガレアスは軽く頷いた。扉の両脇に立っていた衛兵が、無言でそれを押し開く。
奥には、玉座に腰掛けた人物の姿があった。
「連れて参りました」
ガレアスがそう告げると、玉座の人物は、ゆっくりとこちらへ視線を向けた。
白髪をきっちりと後ろに撫でつけた、初老の男だった。豪奢な衣装よりも先に、こちらを見透かすような、静かな眼光が目に入る。長年、人の上に立ち続けてきた者だけが持つ重みが、玉座に座っているだけで伝わってきた。
「面を上げよ」
低く、腹に響くような声だった。
俺はゆっくりと顔を上げた。
王は俺の顔をしばらく無言で見つめていたが、やがて口を開いた。
「――お前、異世界から来た者か」
回りくどい前置きは一切なかった。
「……はい。それは、間違いないです」
答えると、王は小さく息を吐いた。それは、意外にも、詰めていたものを吐き出すような息だった。
「そうか。……ガレアスから、お前たちの身元とこれまでの状況については、既に報告を受けている。今のは、確認のためだ」
しばし黙り込んでから、王は玉座から、俺へとまっすぐ目を向けたまま続けた。
「――すまなかった」
予想もしていなかった言葉に、俺は顔を上げたまま固まった。
「お前たちがこちらの都合で呼ばれ、あろうことか魔王軍とやらに攫われ、勝手なことをされていたと聞いている。しかもこの国の近くで起きたことだ。詫びずに済ませられる話ではない」
淡々とした口調だった。だが、そこに込められた重みまでは、隠しきれていなかった。
「頭を下げて済む話ではないのは分かっている。それでも、まずは言わせてくれ」
王はそう言うと、深くはないが、確かに頭を下げた。
一国の王が、たかが一人の高校生に頭を下げている。その光景に、俺はどう反応していいのか分からなかった。
「さて」
王は顔を上げると、口調を切り替えるように言った。
「詫びだけを言うために呼んだわけではない。峰人とやら、これから先――お前は、どうしたい」
どうしたい、と言われても。
頭の中が、一瞬真っ白になった。そんなこと、考える余裕すらなかった。目が覚めてからずっと、椎花たちのことと、この状況を飲み込むことだけで精一杯だったのだ。
王の視線は、急かすでもなく、ただ静かにこちらへ向けられ続けている。
言葉を探すうちに、喉の奥から、意図しない一言がこぼれ落ちた。
「――帰りたい、です」
言ってしまってから、自分でもその一言に驚いた。喉の奥が、勝手にきゅっと締まる。指先が、膝の上でひとりでに握り込まれていた。
王は、俺の言葉を咎めるでもなく、ただ静かに頷いた。
「無理もない。当然の望みだろう」
だが、そう言った直後、王の表情に僅かな翳りが差した。一度、言葉を切る。
「帰す術は――今の我らにはない」
足元が、すとんと抜け落ちるような感覚がした。
「だが、望みが絶えたわけでもない。この大陸には、古くから信仰されている十二神という神々がいる。その力さえ揃えば、異世界から来た者を元の世界へ帰す道が開ける」
十二神。聞き慣れない響きだった。
「今は、その力が及ばない事情がある。それだけは、覚えておいてくれ」
言葉を濁すような間があった。詳しくは語らない、というより、語れない何かがあるようだった。
「しかし、昔、元の世界に戻っていった者を見たことがある」
王はそう呟くと、それ以上は続けず、静かに目を伏せた。
聞きたいことは、いくつも喉元まで出かかった。だが、この場で押しても答えは返ってこない――そんな空気だけは、伝わってきた。
「もう一つ、聞いておきたい」
「なんでしょうか」
「お前には、何か特別な力があるのではないか」
不意を突かれた問いだった。
「……はい。あります」
俺は小さく頷いた。
「触れていないものを、動かせるんです。シヴァのところで戦った時に、使えるようになりました」
言いながら、自分でもまだ実感が薄いことに気づく。剣が意思のままに動いた、あの感覚を言葉にするのは、思いのほか難しかった。
シヴァ――その名に、ガレアスの眉が僅かに動いた。
「幹部か」
低く呟く声には、苦々しさが滲んでいた。王もまた、玉座の肘掛けを指先で軽く叩いている。名の一つだけで、何かが通じ合ったような空気だった。
「見せてもらえるか」
王の声に、他意は感じられなかった。ただ純粋に、確かめたいのだろう。
辺りを見回すと、玉座の脇に置かれた燭台が目に入った。
燭台に向けて、そっと手をかざす。指先がひとりでに疼くような感覚があった。
――掴むように、動かす。
そう念じた瞬間、燭台の重みが、まるで直接手にしているかのように手のひらへ伝わり、そのまま宙に浮き上がった。
謁見の間の空気が、わずかに揺れた。控えていた衛兵の一人が、隣へ小さく耳打ちする声が漏れ聞こえてくる。
「……陣もなしに?」
その呟きだけで、十分だった。俺の力が、この世界の当たり前から外れたものらしいということが。
王は微動だにせず、宙に浮いた燭台をじっと見つめていた。
「――何度見ても、不思議なものだな。魔法というやつだが、魔法陣なしで使うとは」
低く、呟くように王は言った。
その声には、単なる感心以上の何かが滲んでいる気がした。
やがて王が小さく手を上げると、燭台はゆっくりと机の上へと戻っていく。
「住む場所は、こちらで用意しよう。しばらくは城の宿舎で暮らすといい」
他に行く当てなど、ありはしなかった。俺は、それだけを理由に黙って頷いた。
「今日のところは、これまでにしよう。ガレアス、彼を部屋まで」
「――承知しました」
ガレアスが短く応じる。謁見は、それで終わった。
案内された部屋は、質素だが清潔だった。木の寝台と、小さな机。窓の外には、白い石壁の街並みが夕闇に沈みかけている。
「何かあれば、隣の詰所にいる」
ガレアスはそう言い残すと、静かに去っていった。
一人になった部屋で、俺は寝台に腰を下ろした。どっと、疲れが押し寄せてくる。
――帰りたい、です。
さっき、自分の口からこぼれた言葉が、何度も耳の奥で繰り返された。
三人は、まだどこにいるかも分からないのに。自分だけ「帰りたい」だなんて。
もし今の言葉を三人が聞いていたら、みんなは何て言うだろう。
想像するだけで、喉の奥が詰まった。
「お互いのこと、もうちょっと知っといた方がいいんじゃない?」――あの日、椎花はそう言って、この状況に立ち向かおうとしていた。
柚乃だって、「わたしたち、殺されたりしないですよね……?」と不安げにこぼしながら、最後には自分の力で命を拾ってみせた。剣を折られてなお一歩も引かなかった久龍の姿も、まざまざと蘇ってくる。
三人とも、ちゃんと向き合っていた。俺だけが、目を覚ました安堵に流されて、「帰りたい」なんて言葉を先に口にしてしまった。
剣が、俺の「動け」という思いに応えて動いた、あの瞬間を思い出す。あれは偶然なんかじゃない。あの怪物の前で、確かに俺は「何かできる」と感じたはずだった。
あの感覚に、もう一度賭けてみたい。
三人を置いて、自分だけ帰るなんて――今の俺には、言えるはずがなかった。
寝台から立ち上がり、部屋を出る。隣の詰所に、ガレアスの姿があった。
「――どうした」
「三人を、助けたいんです。だから、俺も一緒に戦わせてください」
自分でも、思わず口を突いて出た言葉だった。
ガレアスは、しばらく黙って俺を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「――簡単に頷ける話ではない。命の懸かることだ」
そう言うと、ガレアスは一度言葉を切った。
「だが、その意志を無下にするつもりもない。王には、俺から話しておく」
「――ありがとうございます」
「礼を言うのは早い。楽な道じゃないぞ」
ガレアスの声に、脅すような響きはなかった。ただ、事実を淡々と告げているだけだった。
それでも、迷いはなかった。
「それでも、やらせてください」
言い切った俺を、ガレアスはしばらく見つめていた。
「――よし」
短く頷くと、ガレアスは椅子から立ち上がった。
「今日のところは、もう休め。明日から、体を作り直す」
その一言で、俺のこれからが決まった。
不思議と、怖さよりも――三人に、少しだけ近づけた気がした。