前世最強の異能教師、異世界の天才たちを育てる ~一万八百の異能知識を教えたら、弟子たちが世界の常識を壊し始めた~ 作:パラレル・ゲーマー
氷狼公爵家の令嬢、エレノア・フォン・アイスバーグが俺の弟子になってから、数日が経過した。
ヴァルドスタ家の広大な庭園。
初夏の陽射しが降り注ぐ中、白いガーデンテーブルには、計算式や図形がびっしりと書き込まれた羊皮紙が山のように積まれていた。
その中心で、エレノアは羽ペンを握りしめたまま、うつむいて微動だにしない。
見れば、その目の下にはうっすらと隈ができていた。
「師匠……」
彼女は恨めしそうな視線を俺に向けてくる。
「わたくし、魔法の修行に来たはずなのですけれど」
「うん。だから魔法の修行をしてるだろ」
俺は冷たい果実水が注がれたグラスを傾けながら、平然と答えた。
初日、俺が「まず算数からだ」と言った時、彼女は冗談だと思っていたらしい。
だが、俺は本気だった。
四則演算に始まり、負の数、小数、比率。
さらには座標という概念、温度という尺度、そして物質は目に見えない極小の粒子から構成されているという初歩的な物質論まで。
前世の現代知識を、この世界で実際に観測できる法則とすり合わせながら、最低限必要なところから徹底的に叩き込んだ。
「では問題。水一リットルを二つに等分したら?」
「それくらい分かりますわ! 〇・五リットルです」
「じゃあ、その四分の三をさらに三分割したら?」
「…………〇・一二五リットル、ですわね」
エレノアは少しだけ考える素振りを見せたものの、すぐに正答を弾き出した。
(……やっぱり、頭いいなこいつ)
俺は心の中で素直に感心していた。
未知の概念を前にして最初は戸惑うものの、一度理屈を説明すれば、まるで乾いた砂が水を吸い込むように猛烈な速度で吸収していく。
普通なら何週間、あるいは何ヶ月もかかるであろう基礎課程を、彼女はたった数日で突破してしまった。
本物の天才を教えるのは、教師冥利に尽きるというものだ。
「よし。最低限の共通言語はできた」
俺がそう宣言すると、エレノアは弾かれたように顔を上げた。
「では、ようやく魔法を教えてくださるのですね!?」
「ああ」
俺が頷くと、彼女の顔にパッと歓喜の花が咲いた。
寝不足の隈すら気にならないほどの笑顔だ。
「じゃあ、最初の問題だ」
俺はグラスを置き、まっすぐに彼女の目を見た。
「――『魔法』とは何だ?」
エレノアは一瞬きょとんとしたが、すぐに姿勢を正し、自信ありげに答えた。
「世界に満ちる魔力を用い、術式と詠唱によって精霊や世界そのものへ働きかけ、事象を引き起こす術。それが魔法ですわ」
この世界における、最も一般的で模範的な定義なのだろう。
「魔法学のテストなら満点だ。正解」
「……あら?」
エレノアは首を傾げた。
不正解だと言われると思っていたらしい。
「でも、俺が聞いてるのはそういうことじゃない。お前は魔法を使う時、『現象として具体的に何をしているのか』を聞いているんだ」
俺は《物質生成》の異能を起動し、テーブルの上に小さな黒板とチョークを作り出した。
無から物質が現れたことに、エレノアは目を丸くする。
「……師匠、それも魔法ですの?」
「これは説明すると長くなるから、今は無視しろ」
俺は黒板に、チョークで大きく書いた。
『原因 → 結果』
「世界には、『何もしなければ自然とそうなる』という流れがある。たとえば……」
俺はチョークを指でつまみ上げ、そのまま手を離した。
チョークは当然のようにテーブルへ落下し、コトリと音を立てる。
「手を離せば、物は落ちる。火で水を加熱すれば、温度は上がる。物を押せば、動く。そういう『普通ならこうなる』という因果の流れが、世界にはある」
俺は再びチョークを拾い上げ、もう一度指から離した。
しかし今度は、《ベクトル操作》によって空中に静止させる。
「本来なら、手を離したチョークは落ちる。でも俺は今、『落ちない』という別の結果を押し通した」
エレノアは空中に浮かぶチョークをじっと見つめ、小さく息を呑んだ。
「……それを、魔法で?」
「俺の故郷では、こういう超常現象をまとめて《因果律改変》と呼んでいた」
俺はチョークを手元へ戻し、説明を続ける。
「物を落とす力に干渉する。何もないところに火を作る。傷を塞ぐ。遠くへ一瞬で移動する。人の認識を変える。……一見すると、全部別の現象に見えるだろう?」
「はい。炎魔法、治癒魔法、空間魔法……それぞれ別の系統だと学んできました」
「でも、もっと大雑把に括れば同じなんだよ。『普通なら起こらない結果を、意思によって現実に成立させる』という点ではな」
エレノアは真剣な表情で頷きながらも、すぐに疑問を口にした。
「では、それらをすべて同じものとして考えるのですか? 炎を生み出すことと、怪我を治すことが、同じ仕組みだと?」
「いいや。分類上は同じでも、『仕組み』まで同じだとは言ってない」
ここが重要なところだ。
「火を出す魔法と空間を曲げる魔法が、まったく同じ条件や手順で動いているとは限らない。というか、普通は違う。でも研究する時には、『何を条件にして』『どんな過程を通って』『どういう結果を成立させているのか』まで分解して考えることができる」
俺は黒板の『原因』と『結果』の間を、チョークで何度か叩いた。
「この間に何が入っているかを調べる。それが俺のやり方だ」
エレノアは少し不安そうに視線を泳がせた。
「……では、わたくしが今まで学んできた、精霊や神々への祈りといったものは、すべて間違いだったということですか?」
「いや?」
「えっ……」
拍子抜けしたような声が返ってきた。
「もし精霊というものが本当に実在して、そいつに頼むことで魔法が成立するなら、それも立派な一つの『仕組み』だ。神が本当に奇跡を起こしてくれるなら、それも否定する理由はない」
前世の世界にも、神格や怪異、契約、信仰といったものを経由して異能を成立させる者は存在した。
神秘そのものを否定するつもりなどない。
「俺が言いたいのは、『精霊のおかげだから詳しい仕組みは分かりません』とか、『神様の奇跡だから人間には理解できません』で思考停止するな、ってことだ」
俺は黒板をトントンと叩いた。
「精霊に頼むなら、なぜ特定の詠唱なら通る? どういう条件なら断られる? 詠唱のどの部分が精霊への呼びかけで、どの部分が術者自身の処理だ? 契約が必要なら、何をもって契約成立とする?」
一つずつ指を折っていく。
「そこまで徹底的に調べ上げれば、それはただの神秘じゃなく『技術』になる」
「……師匠は、神秘を信じていないのではなく、神秘すらも研究対象にするのですね」
「存在するなら、研究できるだろ」
エレノアの目が、キラキラと輝いた。
うん。
こういう顔をする奴は教え甲斐がある。
俺は黒板に、一つの結論を書いた。
『魔法=意思によって現実の結果へ介入する技術』
その下に、小さく書き添える。
『因果律改変』
「もっと雑な言い方をすれば、現実に対するハッキングだ」
「はっきんぐ?」
「……いや、その言葉は忘れろ」
どうしても前世の表現が口から出る。
「とにかく、魔法を『昔から伝わっている手順通りに使うもの』としてじゃなく、『自分の目的に合わせて組み替えられるもの』として認識しろ。それが第一歩だ」
「目的に合わせて、組み替える……」
エレノアは呟きながら、俺の言葉を深く反芻していた。
「じゃあ、実際にやってみよう。あの日、お前が俺に撃った《アイス・バレット》だ」
「はい!」
エレノアが少しだけ背筋を伸ばす。
「そういえば、あの時は略式詠唱だったな。正式な詠唱は?」
「ええ。実戦用に短縮しておりましたわ。正式なものはこちらです」
エレノアは一度息を整え、滑らかに唱える。
「『大気に満ちる水よ、我が意に集いて冷徹なる氷牙となれ』――ですわ」
「なるほど」
俺は黒板の文字を消し、今聞いた正式詠唱を書き記した。
「略式まで用意されているってことは、アイスバーグ家も何代もかけて詠唱の短縮を研究してきたわけだ」
「当然ですわ。戦場で一秒を争うことくらい、我が家の先祖も理解しておりますもの」
「いいな。そういう積み重ねは大事だ」
俺は素直に評価した。
「この術式自体も非常によく出来てる。あの時も言ったけど、無駄はかなり少ない」
「当然ですわ!」
エレノアが少し誇らしげに胸を張った。
「アイスバーグ家が何代にもわたって改良を重ねてきた、洗練された術式ですもの」
「だから今日は、この術式そのものは捨てない。この一連の工程の中から、一部分だけを切り出して改良する」
「一部分だけ……?」
「ああ。この詠唱がやっていることを分解すると、こうなる」
俺は黒板に番号を振って書き出していった。
①対象探索――大気中の水分を認識する。
②接続――その水分へ魔力を届かせる。
③冷却――水を凍結させる。
④成形――弾丸状に整える。
⑤加速・射出――敵へ飛ばす。
「細かく見ればもっとあるけど、今回はこれくらいでいい。手を入れるのは、①の『対象探索』と②の『接続』だ」
「そこを改良するのですか?」
「ああ。それと、先に一つ言っておく」
俺は黒板に書かれた詠唱を指した。
「詠唱そのものは、決して無駄じゃない」
「え?」
エレノアが意外そうにこちらを見る。
「意識を対象へ向ける。起こしたい現象を頭の中で明確にする。魔力の流れを決まった順序で組み立てる。そして、毎回同じ処理を正確に再現する」
俺は詠唱文を上から順番に指でなぞる。
「言葉に沿って考えれば、頭の中でやるべき処理を順番に間違えず実行できる。これは十分に優秀な補助装置だ」
「では、短くしない方がよろしいのですか?」
「そこは状況次第だ」
俺は①と②を丸で囲んだ。
「戦闘中に毎回毎回、『水はどこだ』『よし、そこへ魔力を繋ごう』ってところから始める必要はない」
「……では、どうすれば?」
「事前処理だ。①と②だけ、使う前から終わらせておけばいい」
「事前に……?」
エレノアはまだピンときていないらしい。
「城門の警備と伝令で考えろ」
俺は別の図を書き始めた。
「敵が攻めてきてから城門を開けて、馬を用意して、伝令を走らせて部隊へ命令を届けるのと、最初から各所に連絡役を配置しておくのと、どっちが早い?」
「当然、後者ですわ」
「魔法も同じだ」
俺は自分の胸元を指差した。
「使う時になってから周囲の水分を探して魔力を接続するんじゃない。普段から周囲へ薄く魔力を展開して、対象へすぐ働きかけられる状態を維持しておく」
「常に……ですの?」
「ああ」
俺はニヤリと笑った。
「《常時魔力展開》。今日お前に覚えてもらう最初の技術だ」
エレノアの顔が引き締まる。
「言葉で説明するより、見る方が早い」
俺は自分の身体から、極めて薄い魔力を周囲へ広げていった。
半径数メートル。
足元の草。
葉の表面。
土の中。
そして、空気中に漂う微細な水分。
それらすべてを強引に「支配」するわけではない。
魔力という見えない糸を張り巡らせ、そこに何があるのかを触れて確かめられる状態にしておくだけだ。
「これで①の対象探索と、②の接続は終わってる」
俺はテーブルの上にあった水入りのグラスへ目を向けた。
本来なら、まず水を認識し、そこへ魔力を接続する。
それから術式の冷却工程を走らせ、凍結させる。
だが今は、すでに接続済みだ。
ならば残っている工程から始めればいい。
俺は③――《冷却》だけを即座に起動した。
ピキッ。
ほとんど時間差を感じさせることなく、グラスの水が凍りついた。
「……!」
「今の俺は、魔法に必要な工程そのものを消したわけじゃない」
凍ったグラスを指先で軽く叩く。
「①と②を、先に済ませておいただけだ」
「だから、発動する瞬間には……」
「③から始められる。結果として、詠唱の前半も省略できる」
エレノアは呆然と氷を見つめたあと、抗議するように俺を見た。
「……師匠、それはずるいですわ!」
「ずるくない。技術だ」
俺は即答した。
「しかも、この技術の使い道は発動速度だけじゃないぞ」
「まだありますの?」
「エレノア。目を閉じろ」
「はい……?」
訝しみながらも、彼女は素直に目を閉じた。
「そのまま、周囲へ薄く魔力を広げてみろ。さっき俺がやったみたいにな」
「やってみますわ……」
エレノアの身体から、おそるおそる魔力が広がる。
まだ粗い。
密度も均一ではない。
だが、少なくとも俺の言ったことを再現しようとはしている。
俺はテーブルに置かれていた水の入った小瓶を手に取った。
足音を殺し、エレノアの背後へ回り込む。
そして、彼女の後ろでゆっくりと小瓶を動かした。
「……あっ」
エレノアが小さく声を上げた。
「師匠。わたくしの後ろで……水が動いています」
「正解」
俺は元の位置へ戻る。
「ちゃんと接続を維持できれば、目で見なくても水の位置を感じ取れる。つまり、感知能力としても使えるってことだ」
「感知……」
「背後だろうが、暗闇だろうが関係ない。範囲内の水分の変化を拾えるようになれば、人間や魔物の動きだってある程度追える」
「では、視界を完全に塞がれても戦えるようになる……?」
「最終的にはな。自分の周囲数メートルを、目とは別の感覚で常時把握できるようにする」
エレノアは目を開き、驚いたように自分の手を見る。
「ただの詠唱短縮のための技術が、感知にも……」
「だから基礎なんだ。一つの技術を本当に理解すれば、そこからいくらでも応用が枝分かれしていく」
「……ですが」
エレノアがふと眉を寄せた。
「ん?」
「この感知方法には、弱点がありますわよね?」
「ほう」
俺は少しだけ興味を引かれた。
「言ってみろ」
「これは水に魔力を接続して、その位置や変化を感じ取る方法なのでしょう?」
「ああ」
「でしたら、そもそも水がほとんど存在しない場所では精度が落ちるはずですわ」
エレノアは考えながら続ける。
「例えば、極端に乾燥した土地。砂漠などでは、空気中の水分も少なくなります。接続できる対象そのものが減るのなら、この感知方法も弱くなるのでは?」
「…………」
俺は一瞬だけ黙った。
そして、素直に頷く。
「その通りだ」
「!」
今度はエレノアの方が目を見開いた。
「いいところに気づいたな」
「師匠でも、認めてくださるのですね……」
「当たり前だろ。間違ってるのに教師だから正しいなんて言い張り始めたら、それこそ終わりだ」
俺は腕を組む。
「これは万能の感知方法じゃない。お前が氷魔法を得意としていて、水への干渉能力が高いから、それを利用して作る感覚器官だ」
「では、水の多い場所なら逆に……」
「強い。雨、川、湖、海。そういう環境なら、お前にとっては大量の『触覚』がそこら中にあるようなものになる」
エレノアの顔が明るくなった。
「なるほど……!」
「ただし覚えておけ」
俺は指を一本立てる。
「新しい技術を覚えた時は、『何ができるか』だけじゃなく、『何ができないか』も必ず考えろ」
「弱点まで、ですの?」
「弱点を知らない技術ほど危ないものはない。万能だと思い込んだ瞬間、それが一番大きな隙になる」
「……はい、師匠」
エレノアは深く頷いた。
いい。
俺が教えたことをただ暗記するだけではなく、そこから自分で疑問を見つけ始めている。
やはり、こいつは伸びる。
だがエレノアは、さらに別の問題にも気づいたらしい。
「でも師匠!」
「今度はなんだ?」
「これ……ずっと魔力を体外へ出し続けるということですわよね?」
「そうだな」
「すぐに魔力が尽きてしまいますわ!」
「そうだな」
「『そうだな』ではありません!」
エレノアがテーブルを叩いて抗議する。
一般的な魔法使いの常識からすれば、魔力を常に体外へ放出するなど正気の沙汰ではない。
何もしていないのに魔力を消費し続ける。
ただの無駄遣いだ。
「だから、極限まで薄くするんだ」
「薄く?」
「最初から大量に展開する必要はない。必要なのは量じゃなく、対象との接続を維持できる最低限の密度だ」
俺は凍ったグラスを指差した。
「百の魔力を撒き散らさなきゃ接続できない奴と、一の魔力で同じことができる奴。同じ総量なら、どっちが長く戦える?」
「当然、一の魔力で済む方ですわ」
「そういうこと」
俺は黒板に、新たに四つの項目を書き出した。
『魔力総量』
『魔力出力』
『魔力制御効率』
『魔力処理能力』
「魔法使いの基礎性能は、大雑把に分ければこの四つで考えると分かりやすい」
「四つ……」
「まず《魔力総量》。どれだけ魔力を蓄えていられるか」
「これは分かりますわ」
「次が《魔力出力》。一度にどれだけ大量の魔力を流せるか。総量が多くても、一度に少ししか出せなければ大技は使えない」
「なるほど」
「三つ目が《魔力制御効率》。同じ現象を、どれだけ少ない無駄で、どれだけ精密に成立させられるか」
「今やっているのが、それですわね?」
「そう。そして四つ目が《魔力処理能力》だ」
俺は最後の文字を丸で囲んだ。
「どれだけ多くの情報や対象、術式を同時に扱えるか。そして、それをどれだけ長時間維持できるか」
「……つまり?」
「常時魔力展開は、《制御効率》と《処理能力》を同時に鍛える訓練になる」
俺は指を折りながら説明する。
「百の魔力を持っていても、一秒で十ずつ漏らしたら十秒で空になる」
「はい」
「同じ接続を一で維持できれば百秒」
「はい」
「〇・一まで落とせれば千秒」
「……十倍ずつ伸びていきますわね」
「魔力量を増やす前に、まず無駄遣いを減らす。しかも薄い接続を長時間、広範囲に維持することで処理能力も鍛えられる」
俺は黒板を軽く叩く。
「総量、出力、効率、処理能力。どれか一つだけ高ければいいってものじゃない。最終的には全部鍛えるぞ」
「全部……」
「当然だろ。最強になりたいんじゃなかったのか?」
「……なりますわ!」
即答だった。
実に分かりやすい。
「よし。じゃあ今日の第一課題だ」
俺は黒板に大きく書いた。
『半径一メートル以内の水分に、常時魔力を接続する』
「条件は、十分間維持すること。魔力を濃くしすぎない。周囲の水を凍らせない。そして、水の位置を大雑把でいいから感じ取ること」
「十分……」
「途中で途切れたら最初から」
「……なんだか、ひどく地味な修行ですわね」
「基礎訓練なんて大体地味なもんだ」
俺はしれっと続ける。
「これを余裕で維持できるようになったら、次は半径二メートル。その次は五メートル。歩きながら。食事をしながら。そして最終的には――」
「まさか……」
エレノアの顔が青ざめる。
「寝ている時もだ」
「やっぱりですの!?」
「本気だ」
そして、地獄の実地訓練が始まった。
「やってみろ」
「……はい!」
エレノアが気合を入れて魔力を展開した瞬間――。
ブワッ!
凄まじい量の冷気を伴った魔力が噴き出し、周囲の庭木が一瞬にして白く凍りついた。
テーブルの上のグラスにも霜が走り、花壇の花がびくりと揺れる。
「濃すぎる。それじゃ十分どころか数分でガス欠だ」
「これ以上薄くしたら、魔力が消えてしまいますわ!」
「消える直前のギリギリを維持しろ」
「無茶ですわ!」
「無茶じゃない。だから訓練するんだろ」
一回目。
三十秒で、展開した魔力が霧散した。
「もう一度ですわ!」
「どうぞ」
二回目。
一分弱。
三回目。
薄くしようと意識しすぎて、今度は接続そのものが成立しない。
四回目。
魔力を広げることに集中しすぎて、自分の呼吸が乱れ、制御が崩壊。
「肩に力が入ってるぞ!」
「入れないと維持できませんの!」
「身体に力を入れて魔力が繊細になるか! 逆だ、抜け!」
「簡単におっしゃらないでくださいまし!」
俺は失敗するたび、横から細かく指摘を飛ばした。
「魔力を『押し出す』んじゃない。空間に『染み込ませる』イメージだ」
「こう……ですの?」
「濃い。半分」
「これ以上は消えますわ!」
「じゃあ消える寸前を覚えろ」
「ですから、それが難しいと言っておりますの!」
五回目。
六回目。
七回目。
「全部を強く掴もうとするな。薄く触れているだけでいい」
「触れる……」
「水一滴一滴を別々に認識しようとするから処理が追いつかないんだ。最初は『この範囲に水がある』くらいの大雑把な認識でいい」
「範囲として……」
「そう。それでいい」
俺の要求は、控えめに言って六歳の子供へ要求するものではなかった。
前世でも、同じことをやらせれば音を上げる能力者はいくらでもいただろう。
普通の子供なら、とっくに泣いて逃げ出している。
だがエレノアは逃げない。
唇を噛み締め、失敗するたびに何が悪かったのかを考え、即座に次の試行へ反映していく。
(……いいな)
単に根性があるだけじゃない。
失敗から学ぶ速度が速い。
そして十数回目。
不意に、変化が訪れた。
エレノアから広がっていた荒々しい魔力の波が――スッ、と薄く滑らかになった。
「そのまま」
俺は思わず声を低くする。
「今の感覚を崩すな」
「……はい」
エレノアが目を閉じた。
ゆっくりと呼吸を整える。
魔力は半径一メートルほどの空間へ薄く広がり、その中に存在する水分へそっと触れていく。
数秒。
十数秒。
そして。
「……見えます」
エレノアが小さく震える声で呟いた。
「水が……どこにあるか、なんとなく……」
グラスの氷。
花弁に残った水滴。
土の湿り気。
近くの植物が含んでいる水分。
まだ輪郭は曖昧だろう。
それでも間違いなく、彼女は今まで存在しなかった新しい感覚の入口へ足を踏み入れた。
(……マジか。早いな)
最低でも数日はかかると思っていた。
それを、たった数時間で掴み始めた。
本物の天才というのは、こういう奴を言うのだろう。
だが、感覚を掴んだからといって、課題を達成したわけではない。
三分。
五分。
七分。
エレノアの額から汗が流れ落ちる。
「くっ……」
「魔力が濃くなってる。焦るな」
「わ、分かって……おりますわ……!」
八分。
八分三十秒。
そして――。
「っ……!」
八分四十二秒。
魔力の膜が弾けるように消えた。
エレノアはその場に両手をつき、荒い息を吐く。
「はぁ……っ、はぁ……っ……!」
「八分四十二秒」
「……もう一度……!」
「休め」
「まだ、できますわ!」
「だから休め」
俺はエレノアの額を軽く指で弾いた。
「今のお前がもう一回すぐ始めても、さっきより悪くなるだけだ。水を飲め。十分休憩」
「ですが……」
「休むところまで訓練だ」
「…………はい」
不満そうではあったが、エレノアは素直に従った。
それから十分後。
「もう一度ですわ」
本人から立ち上がった。
「いいぞ。やってみろ」
再挑戦。
魔力が広がる。
今度は最初から、さっき掴んだ感覚を再現できている。
(やっぱり早い)
一度成功した感覚を、ちゃんと記憶している。
五分。
七分。
九分。
エレノアの身体が小刻みに震え始める。
「あと一分」
「分かって……いますわ……!」
九分三十秒。
九分五十秒。
「維持しろ」
「っ……!」
「あと五秒」
エレノアが歯を食いしばる。
「三」
「……!」
「二」
「……っ!」
「一」
そして――。
「十分。合格だ」
その言葉と同時に、エレノアの魔力が霧散した。
「でき……ましたわ……」
膝から崩れ落ちそうになった彼女の肩を、俺はすぐに支えた。
「今日はここまで」
「まだ……まだできますわ」
「できない」
俺はきっぱりと言った。
「今のお前は、『まだ意識がある』ってことと、『有効な訓練を続けられる』ってことを混同してる」
「でも……」
「限界ぎりぎりまで適切な負荷をかける。休ませる。回復させる。その上で、また鍛える。それが訓練だ」
俺は少し強い口調で言い聞かせる。
「精神力だけで無理やり続けて身体を壊したら、それは成長じゃない。ただの故障だ」
「……」
「俺は自分の弟子を壊す気はない」
「……はい、師匠」
ようやく諦めたらしい。
俺は《治癒》系統の異能を軽く使い、彼女の肉体的な疲労と強張りだけを和らげてやった。
ただし、消費した魔力そのものには手を加えない。
「師匠……魔力は、そのままなのですか?」
「ああ」
「回復させてくださらないのです?」
「今回は、魔力を消費し、休息して自然に回復し、また使うところまで含めて訓練だからな」
外から無理やり元通りにしてしまえば、自分の魔力をどの程度使えばどれだけ疲れるのかという感覚が育ちにくい。
「自分の残量くらい、自分で把握できるようになれ。それも制御能力の一つだ」
「……分かりましたわ」
納得したように頷くエレノア。
「というわけで、宿題」
「…………嫌な予感しかしませんわ」
「明日までに、半径一メートルを三十分間維持できるようになっておけ」
「三十分!?」
エレノアが悲鳴を上げた。
「今やっと十分できたところですわよ!?」
「だから次は三十分だ」
「三倍ですわ!」
「お前なら行ける」
「根拠は!?」
「教師の勘」
「横暴ですわ!」
◆
夕方。
迎えに来た公爵家の豪奢な馬車へ乗り込むエレノアの足取りは、ひどくフラフラしていた。
だが、こちらを振り返った彼女の目だけは、ギラギラとした強い光を宿している。
「明日は三十分……いえ、一時間維持してみせますわ」
「ほどほどにな。無茶はするなよ」
「どの口が言いますの!?」
エレノアは声を荒らげてツッコミを入れ、そのまま馬車の中へ消えていった。
馬車が遠ざかる。
一人になった俺は、静かになった庭園を見渡し、小さく息を吐いた。
(……本当に、数日はかかると思ってたんだがな)
恐ろしい才能だ。
教えた概念を吸収するだけではない。
新しい技術を見せれば、自分で使い方を考え、弱点まで探し始める。
(やっぱり、こいつは育て甲斐がある)
気づけば、俺の口角は自然と上がっていた。
俺はただ、自分の代わりに働いてくれる都合のいい隠居用戦力を作っているつもりだった。
だが、どうやら前世の血が騒いでいるらしい。
俺は完全に、この一人の天才を「教え導く」という行為そのものを楽しみ始めていた。
「さて」
俺は《異能ライブラリ》の奥深くへ意識を向ける。
常時魔力展開の基礎ができた。
なら、次は肉体だ。
膨大な目録の中から、《重力操作》の項目を引き出す。
俺はニヤリと笑った。
「魔法使いだからって、安全な後方で優雅に突っ立っていられると思うなよ。一番弟子」
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!