前世最強の異能教師、異世界の天才たちを育てる ~一万八百の異能知識を教えたら、弟子たちが世界の常識を壊し始めた~ 作:パラレル・ゲーマー
翌日。
ヴァルドスタ家の屋敷の裏手には、周囲を高い生垣で囲まれた広い演習場がある。
今日は使用人たちを完全に人払いし、俺と一番弟子だけの空間を作っていた。
前回までに父や氷狼公爵にはそれなりに俺の力を見られてしまっている。
だからといって、一万八百もある俺の手札を、使用人にまで逐一公開する趣味はない。
ましてや今日やる訓練は、公爵令嬢を空中に浮かべたり地面に這いつくばらせたりする予定だ。
余計な目はない方がいい。
初夏特有の少し湿った風が吹き抜ける中、俺は日陰に置いた椅子に深く腰掛け、分厚い魔導書をめくっていた。
やがて、屋敷の方から軽い足音が近づいてくる。
「おはようございます、師匠」
現れたエレノアは、相変わらず非の打ち所がない優雅な礼をした。
だが、前回までの彼女とは明確に違う点がある。
俺の目には、彼女の華奢な身体の周囲――半径一メートルの空間に、極めて薄く、しかし確かな密度の魔力がヴェールのように展開されているのが見えていた。
俺は本から目を上げ、短く言った。
「宿題」
「はい!」
待ってましたとばかりに、エレノアは得意満面の笑みを浮かべた。
「半径一メートルの《常時魔力展開》、連続一時間を達成いたしましたわ!」
「……俺、昨日の帰り際に『三十分でいい』って言ったよな?」
「師匠が三十分とおっしゃったなら、一時間維持するのが弟子の務めというものですわ!」
彼女は堂々と胸を張った。
話を聞けば、静止状態での維持だけではない。
屋敷内を歩いている時や食事中、さらには読書中など、ある程度別のことに意識を向けている状態でも展開を保てるようになったらしい。
もちろん、完全に無意識化できたわけではない。
まだ他のことへ強く集中すれば乱れるし、範囲や密度も安定しない。
それでも、昨日ようやく十分を達成したばかりの六歳児として考えれば、異常な上達速度だった。
「ただし、就寝中はどうしても途切れてしまいますの」
「まあ、一日目から寝ている間まで維持できたら、さすがに俺も引くぞ」
「昨晩も維持したまま眠りにつこうとしたのですが……無意識に力が入ったのか、寝室の水差しが完全に凍りついてしまいまして。今朝、侍女にこってりと叱られましたわ」
「だから、凍らせるなって何度も言っただろ」
俺はため息をつきつつも、内心では大いに驚いていた。
(いくらなんでも早すぎるだろ)
俺が前世で育ててきた才能豊かな教え子たちの中でも、一晩でここまで急速に複数の処理を馴染ませた奴はそう多くない。
どうやら昨日、「お前ならできる」と軽い気持ちで煽ったのが相当効いたらしい。
「じゃあ、テストだ。目を閉じろ」
「はい」
エレノアが素直に瞼を閉じたのを確認し、俺はテーブルの上に置いてあった小さなガラス瓶を、彼女の背後へ向けて放り投げた。
中には、ほんの少しだけ水滴が残っている。
小瓶が芝生の上を転がり、止まった。
「どこにある?」
「わたくしの右後方。距離にして三歩ほどの位置ですわ」
振り向くことなく即答。
正解だ。
俺は続けて、完全に乾燥した小さな木片を反対方向へ投げた。
コトリ。
エレノアは反応しない。
「……?」
「もういいぞ。目を開けろ」
彼女が目を開く。
「どうでしたの?」
「うん。水感知としては合格だ。上出来だよ」
「当然ですわ!」
俺はあえて木片については指摘しなかった。
現段階で彼女の魔力が接続できているのは、得意とする「水分」に限られている。
感知能力としてはまだ穴だらけだ。
だが今は、それでいい。
一つずつ使える感覚を増やせばいいのだ。
◆
俺は読みかけの本を閉じ、エレノアに向き直った。
「さて。今日は次の訓練に入る前に、俺にお前の知っている『常識』をいくつか教えてほしい」
「師匠が、わたくしにですの?」
「ああ。俺はこの世界の魔法のセオリーについて、まだ疎いところがあるからな」
これまで一方的に知識を詰め込まれていたエレノアにとって、自分が教える側に回るというのは新鮮だったらしい。
少しだけ姿勢を正し、嬉しそうに頷いた。
「構いませんわ。何でもお聞きになってくださいませ」
「魔法使いって、基本的に『得意属性』があるよな? あれはどうやって決まる?」
「主に血統や家系、そして生まれ持った魔力適性によって決まりますわ」
エレノアはすらすらと答える。
「例えば、わたくしの生家であるアイスバーグ公爵家は、代々氷や水、冷却系統の魔法に高い適性を示す者が多く生まれます。逆に、師匠のヴァルドスタ辺境伯家は、炎や熱系統の適性が高いと聞いておりますわ」
「基本的には、一つの得意分野を重点的に伸ばすのが常識ってことか」
「その通りですわ。努力次第で不得意な系統を扱うこともできますけれど、同じ時間をかけるなら、自身の最も適性が高い魔法を極めた方が効率的ですもの」
なるほど。
実に理にかなっている。
一つの系統へ絞れば、一族に蓄積された術式のノウハウをそのまま流用できる。
教育体系も確立されているだろう。
専用の触媒や魔道具との親和性も高い。
前世の能力者にも、持っている一つの異能だけを徹底的に研ぎ澄ますことで、とんでもない領域まで到達した奴はいくらでもいた。
「なるほどな。そこは普通に合理的だ。間違ってない」
「でしょう?」
エレノアが満足そうに微笑む。
だが、その直後。
「……あら?」
何かに気づいたように首を傾げた。
「どうした?」
「ですが……そう考えると、おかしくありません?」
俺を見る。
「師匠はヴァルドスタ家の方ですわよね?」
「ああ」
「炎や熱系統への適性が高いはずなのに、昨日はわたくしの目の前で、水を一瞬で凍らせましたわ」
やはり気づいたか。
「不得意だからって、使えないわけじゃないんだろ?」
「それはそうですけれど……」
エレノアは納得いかない顔をする。
「適性が低い系統は、必要な魔力量も術式構築の難易度も大幅に上がります。師匠の冷却魔法は、不得意な系統を無理やり使ったという水準ではありませんでしたわ」
「よく見てるな」
「当然です!」
胸を張る。
「まあ、それについては説明すると少し長い」
「またそれですの?」
「今は『適性が低い』と『使えない』は別物だってことだけ覚えとけ。その話はいずれする」
「……絶対ですわよ?」
「ああ」
もちろん、昨日見せたのはそもそもこの世界の冷却魔法ではなく、《熱量操作》の異能だ。
そこまで教える気は、まだない。
「じゃあ、次の質問だ」
俺は椅子の背もたれに体重を預けた。
「魔力を使って、自分自身の身体能力を強化する技術についてはどう思ってる?」
「身体強化……」
エレノアが少しだけ怪訝な顔をした。
「もちろん、技術としては存在いたしますし、わたくしも知識としては存じておりますわ。ただ……」
「ただ?」
「それは主に、騎士や前衛で戦う近接魔法使いが用いるものです。純粋な後衛魔術師が、本格的に時間を割いて鍛えるような技術ではありませんわ」
軽蔑しているわけではない。
ただ、「自分たちには必要性が低い」という評価なのだろう。
「魔術師が肉体まで鍛える時間があるなら、その時間を得意魔法の射程や威力、発動速度の向上へ費やした方が、戦力としては遥かに効率的です」
「前衛は騎士に任せる?」
「ええ。騎士が敵を食い止め、その後方から魔術師が大火力を叩き込む。それが基本ですわ」
前衛と後衛による役割分担。
集団戦闘や軍隊という単位で考えれば、何もおかしくない。
「確かに、集団戦術としては理解できる」
俺は頷いた。
「――じゃあ、その前衛が突破されたらどうする?」
「後退して距離を取りますわ」
「退路を潰されて、逃げ道がなかったら?」
「転移魔法や目くらましで、体勢を立て直します」
「敵が転移を阻害する結界を張っていたら?」
「……」
「お前を守る護衛が、一瞬で全滅したら?」
「……」
「魔力そのものを乱されて、お前の氷魔法を封じられたら?」
「…………」
エレノアは口を閉ざした。
彼女の頭の中で、俺が提示した最悪の状況に対する答えが検索されているのだろう。
だが、答えは出ない。
俺は前世で、何度もそういう場面を見てきた。
実戦というものは、往々にして理不尽だ。
圧倒的な火力を持つ能力者が、たった一つの相性の悪い能力の前に沈む。
奇襲。
狙撃。
精神攻撃。
認識阻害。
見えない毒。
どれだけ強大な力を持っていようと、「自分の得意な状況だけで戦える」と思った奴から順番に死んでいった。
「誤解するなよ、エレノア。俺は軍隊の役割分担を否定しているわけじゃない」
俺は静かに、しかし突き刺すような声で言った。
「でもな、『自分は後衛だから敵はここまで来ない』『騎士が守ってくれる』っていう前提条件の上に、自分の命を組み立てるな」
「……」
「自分の命を、他人の働きに預けるな」
エレノアの目が揺れる。
「最強を目指すなら、自分自身を最後の砦にしろ。お前の得意な氷魔法は、世界で一番強く研ぎ澄ませればいい。俺もそれに協力する」
その上で。
「でも、もしその氷が一切使えなくなったとしても、死なないための二番目、三番目の生存手段を身体に刻み込んでおけ」
すべてを均等に極めろと言っているわけではない。
圧倒的な主武装。
そして、どんな状況でも死なないための強靭な基礎。
その両方を持ってこそ、本当に強い。
エレノアはしばらく黙ったあと、小さく、しかし力強く頷いた。
「……理解いたしましたわ、師匠」
「よろしい」
「では、わたくしにその身体強化とやらを教えてくださるのですね?」
「その前に」
俺は口角を吊り上げた。
「お前のその弱っちい身体が、外部環境の変化にどれだけ簡単に振り回されるか、まずはたっぷり体験してもらおう」
「……師匠」
「なんだ」
「師匠がその顔をなさるとき、大抵わたくしにとってろくでもないことが起きますわ」
「ははは。一日で成長したじゃないか」
◆
俺の基本思想として、「知らない攻撃」ほど対処が遅れ、致命傷になりやすいというものがある。
だったら、一度安全な環境で経験させておけばいい。
重力。
熱。
寒冷。
電気。
衝撃。
平衡感覚の喪失。
前世で俺が食らって辟易した環境変化の数々を、いずれこの弟子にも一通り味わってもらうつもりだ。
「ということで、今日のテーマは『重力』だ」
「じゅうりょく……?」
「お前は、自分の身体に重さがあるのは当たり前だと思ってるだろ?」
「それは……当たり前ではありませんの?」
「じゃあ、一度それを無くしてみよう」
「はい?」
その前に一つだけ。
「ちなみに、普段お前にかかっている重力を、俺の故郷では便宜上『1G』と呼ぶ」
「じー?」
「前に教えた単位みたいなもんだ。普段の二倍なら2G、半分なら〇・五G。今日はこれを使う」
「分かりましたわ」
ここ数日の座学では、計算だけでなくメートルやリットル、秒といった前世式の単位もまとめて教えてある。
重力だけ新しく基準を追加すればいい。
俺は《異能ライブラリ》から《重力操作》を引き出し、エレノアを中心とした狭い範囲へ干渉した。
いきなりゼロにはしない。
まずは〇・五G。
「……え?」
エレノアが自分の両手を見下ろす。
「身体が……ひどく軽いですわ。まるで、湯に身体を浮かべている時のような……」
彼女が少しだけ膝を曲げ、軽く跳躍した。
次の瞬間。
「きゃっ!?」
いつもの力加減で地面を蹴った身体が、本人の予想を遥かに超え――普段の倍近い高さまでふわりと跳ね上がった。
慌てて着地しようとするが、落下速度まで遅い。
結果、妙に間の抜けた姿勢で地面へ戻ってくる。
「な、なんですの、これ……!」
「重力が半分なら、同じ力で跳んでも全然挙動が違うだろ」
「先に言ってくださいませ!」
「体験学習だからな」
さらに重力を〇・二Gまで引き下げる。
そして最後には――ゼロ。
エレノアの足が、ついに芝生から離れた。
「きゃあああああ!?」
完全な無重力状態へ放り込まれ、彼女の身体が空中にプカプカと浮かび始める。
綺麗に結い上げられていた銀髪が四方八方へ広がる。
豪奢なドレスの裾も、当然ながら重力から解放され、ふわりと浮き上がった。
「し、師匠!」
エレノアは顔を真っ赤にし、慌てて両手でドレスの裾を押さえつける。
「乙女に対して何ということをなさいますの!?」
「重力には貴族令嬢への配慮なんて概念はないぞ」
「師匠にはあるでしょう!?」
「いいから移動してみろ」
「この状況で!?」
エレノアは片手でドレスを押さえたまま、もう片方の手と両脚を必死に動かした。
しかし、虚空を掻くだけ。
身体はほとんど移動しない。
「ほら。地面に足がついてないと、いくら手足を動かしても大した推進力は生まれない」
「では、どうやって……!」
「自分で考えろ。昨日教えただろ。『技術は目的から考えろ』って」
パニックになりかけていたエレノアの動きが止まった。
唇を噛み、考える。
やがて。
彼女はドレスを押さえていた片手を離した。
「……こうですわ!」
自分の後方へ手のひらを向ける。
カキンッ!
鋭い音。
冷気と小さな氷の散弾が、後方へ勢いよく射出された。
その反作用で――エレノアの身体が前へ進む。
「お」
思わず声が漏れた。
「動きましたわ!」
空中でエレノアが目を輝かせる。
「師匠! わたくし、動きましたわよ!」
「正解だ。地面がないなら、自分で推進力を作ればいい」
昨日教えたばかりの、「目的から方法を考える」という思考を、ちゃんと自力で応用した。
上出来だ。
ただし。
「あら……?」
推進力の軸が身体の中心からズレている。
エレノアの身体が、前進しながらゆっくりと縦回転を始めた。
「ちょっ……」
「姿勢制御までは考えてなかったな」
「止まりませんわぁぁぁぁ!?」
ぐるぐる。
ぐるぐる。
「師匠! 目が! 目が回りますわぁぁぁ!」
「はいはい」
十分に体験できただろう。
俺は重力を徐々に戻し、彼女をゆっくりと芝生へ降ろしてやった。
「うぅ……気持ち悪いですわ……」
エレノアは地面に座り込み、涙目で頭を抱えている。
俺は冷たい水の入ったグラスを渡した。
「体験学習の第一段階終了」
「第一段階……?」
「そう」
俺は自分の足で地面をドンと踏んだ。
「今まで意識してなかっただろうけど、お前の身体は生まれてからずっと、この重力っていう見えない力に対抗してる」
「……」
「立つ。歩く。腕を持ち上げる。血液を足から心臓へ戻す。全部、重力の影響下でやってることだ」
エレノアの顔から、徐々に嫌な予感が浮かび始めた。
「……師匠」
「じゃあ、その重力が増えたらどうなると思う?」
「…………まさか」
「そのまさかだ」
俺は笑った。
「今度は増やす」
「やっぱりぃぃぃ!」
◆
「まずは2G」
ズンッ。
「っ!?」
エレノアの全身に、普段の二倍の重力がのしかかる。
急激に身体が重くなり、華奢な膝がガクンと曲がった。
「お、重い……!」
「まだ二倍だ。立てるな?」
「当然……ですわ……!」
歯を食いしばり、なんとか姿勢を保つ。
「じゃあ3G」
「もう上げますの!?」
ズン。
「くっ……!」
片膝をついた。
額から汗が浮かぶ。
「4G」
「師匠ぉぉぉ……!」
さらに強烈な負荷。
エレノアはついに両手を地面につき、四つん這いになった。
「はぁっ……はぁっ……!」
もちろん、俺は馬鹿正直に全身へ一律四倍の重力をかけて、内臓まで押し潰しているわけではない。
《生体感知》を並行使用し、彼女の状態を常時監視している。
筋肉。
骨格。
腱。
関節。
訓練対象となる部分へ主な負荷がかかるよう、重力の方向と分布を細かく調整。
胸郭の動きや脳・心臓への血流には致命的な負荷がかからないよう、余分な圧力を逃がしている。
スパルタではある。
だが、壊す気はない。
「じゃあ、立て」
「今……立とうと……しておりますわ……!」
腕を震わせ、必死に地面を押し返す。
当然、普通の六歳児の筋力で4Gに耐えられるはずがない。
「魔力を使え。自分の身体にだ」
エレノアがハッとした。
「魔法で、この重力そのものを打ち消すのですか?」
「違う。環境を変えるんじゃない」
俺は彼女自身を指差した。
「お前の身体を強くしろ」
今回の本題。
《身体強化》。
エレノアも知識としては知っている。
ちょっとした力仕事の際、無意識に魔力で肉体を補助した経験くらいはあるだろう。
彼女は目を閉じ、腕と脚の筋肉へ魔力を流し込んだ。
筋繊維の出力が上昇。
少しだけ身体が持ち上がる。
だが。
「うあっ!」
すぐにバランスを崩し、再び地面へ。
「下手くそだな」
「初めて本気でやっておりますのよ!?」
涙目で睨まれた。
「今のお前は、筋肉っていう一つの部品に魔力を流して、出せる力だけを増やそうとしてる」
「違いますの?」
「それ自体は間違ってない。初歩としてはな」
俺はしゃがみ込み、彼女の目線に合わせる。
「でも、人間の身体には筋肉しかないのか?」
「……いいえ」
「骨がある。腱がある。関節がある。神経がある。平衡感覚もある」
筋肉だけを何倍にも強くしたところで、骨が耐えられなければ折れる。
腱なら千切れる。
神経が追いつかなければ、自分の動作速度に自分自身が対応できない。
「身体強化ってのは、単なる『筋力アップ』じゃない」
俺は自分の胸を指した。
「人体という複雑なシステム全体を、魔力で底上げする技術だ」
「全身を、同時に……?」
「そうだ。骨を補強する。腱を守る。神経伝達を速める。筋肉を駆動する。必要なら感覚器官も強化する」
さらに、彼女の周囲へ薄く広がっている魔力を指差す。
「だから圧倒的な《処理能力》が必要になる」
「……あ」
気づいたようだ。
「お前が昨日から死に物狂いで練習している《常時魔力展開》。あれで鍛えている並列処理能力は、この身体強化にもそのまま繋がる」
「全部……別々の訓練ではないのですね」
「そう」
俺は笑う。
「全部、一つの線で繋がってるんだよ」
エレノアは荒い息を吐きながら、俺の言葉を頭の中で整理していた。
そして。
「……ですが師匠」
「なんだ?」
「それほど多くの部位を同時に強化したら……」
エレノアが眉を寄せる。
「戦闘中、《常時魔力展開》を維持しながら攻撃魔法まで使った場合、処理能力が足りなくなるのではありませんか?」
お。
いいところに気づいた。
「その通り」
「またあっさり認めましたわね!」
「お前の指摘が正しいからな」
「師匠なのですから、もう少しくらい悩んでくださいませ!」
「間違ってるのに教師の威厳のためだけに粘る方が嫌だろ」
「それは……そうですけれど」
俺は立ち上がった。
「だから、実戦で最初から全身を最大出力にするわけじゃない」
「では?」
「状況によって魔力の配分を変える」
走るなら脚部と体幹。
攻撃を受けるなら、受ける部位の筋肉と骨格。
高速戦闘なら神経と感覚器。
「熟練すれば、ごく低出力の全身強化を常時維持して、必要な瞬間だけ必要な部位へ魔力を集中できる」
「……なるほど」
「さあ、理屈は分かったな。もう一度だ」
エレノアが目を閉じる。
今度は筋肉だけではない。
脚部の骨格。
腰。
体幹。
背骨。
関節。
そこへ魔力を分散させる。
プルプルと細い腕が震え始めた。
ゆっくり。
本当にゆっくりと。
両手が地面から離れる。
片膝立ちまで身体が起き上がった。
「いいぞ。そのまま」
「やりました……!」
エレノアの顔が明るくなる。
「師匠に褒められましたわ……!」
「じゃあ、次は5G」
「鬼ですの!?」
ズンッ!
「きゃああっ!」
再び強烈な負荷。
耐え切れず、エレノアは前のめりに倒れ込んだ。
◆
土埃が舞う。
純白だったドレスは、すでに泥だらけ。
綺麗に整えられていた銀髪も乱れ、汗と土が頬にこびりついている。
「…………」
エレノアが、自分の姿を見下ろした。
数時間前。
無重力でドレスの裾が少し浮いただけで、「乙女に何をなさいますの!」と顔を真っ赤にしていた公爵令嬢。
その少女が今では、自分の手で泥の中へ指を食い込ませ、地面に這いつくばっている。
しかし。
今の彼女が気にしているのは、服でも髪でもなかった。
「こんな姿で……」
「ん?」
「こんな姿のまま、立てないなんて……」
ギリッと奥歯を噛み締める。
「アイスバーグ公爵家の令嬢として、あるまじき失態ですわ……!」
「そっちかよ」
俺は思わず笑った。
「嫌なら、立て」
「ええ……!」
彼女の目に、はっきりと火が灯る。
「絶対に……立ってみせますわ……!」
(なるほどな)
高すぎるプライドも、使い方次第では立派な燃料になる。
この世界の魔法は、術者の意思や自己認識が制御へ大きな影響を与える。
エレノアの、
『わたくしはこんな場所で這いつくばって終わる女ではない』
という強烈な自己認識。
それが集中力を引き上げ、魔力の流れを安定させている。
俺は再び椅子へ腰掛け、魔導書を開いた。
地獄のような高重力の中で呻く少女を放置し、優雅に読書を始める。
見た目だけなら完全な悪魔だろう。
だが、俺の意識の半分は《生体感知》へ割かれている。
心拍。
呼吸。
筋骨格への負荷。
魔力残量。
全部監視している。
「右脚の魔力が濃すぎる。骨に負担が寄ってるぞ」
「なぜ、本を読んでいるのに分かりますの!?」
「優秀な教師だからだ」
「絶対に違いますわ! 何か別の術を使っているのでしょう!?」
「どうだろうな」
「誤魔化しましたわね!?」
悪態をつける程度には余裕がある。
問題なし。
時間が過ぎていく。
日が傾き始めた頃。
ついに。
「うぅ……ああああああっ!」
エレノアの両手が、地面を力強く押し返した。
片膝。
そして、もう片方の足。
全身の魔力が、それまでより明らかに滑らかに流れ始める。
(来たな)
俺は本から目を上げた。
腰が上がる。
膝が震える。
それでも。
「……っ!」
立った。
完璧な直立ではない。
膝はガクガク。
上体も前傾している。
それでも間違いなく、エレノアは自分自身の身体強化だけで、5Gの負荷に抗って立っている。
「合格だ」
「や……」
エレノアの顔に、強烈な達成感が浮かんだ。
「やりましたわ……! わたくし、立ちましたわよ……!」
「ああ」
俺も素直に頷く。
「よくやった」
「……!」
さらに嬉しそうな顔。
まあ。
俺の授業はまだ終わっていない。
「じゃあ、そのまま一歩歩いてみろ」
「…………え?」
エレノアの笑顔が固まる。
「一歩」
「ま、待ってくださいませ。今ようやく立てたところで――」
「立つのが目的じゃないだろ。戦うんだろ?」
「ぐぬぬ……!」
エレノアが右脚を持ち上げようとする。
しかし。
「……あれ?」
動かない。
「足が……地面に張り付いて……」
「違う。自分で張り付けてるんだよ」
「え?」
焦った彼女が無理に脚を動かそうとした瞬間。
魔力の配分が崩れた。
「きゃっ――」
ドシャッ!
再び顔面から地面へ。
「なんでですのぉぉぉ!?」
涙目で地面を叩く。
「お前は今、『立つ』という一つの状態だけに魔力配分を最適化したんだ」
「……?」
「脚、腰、背中。全部をガチガチに補強して、一本の硬い柱みたいな身体を作った」
静止しているだけなら、それでいい。
だが、人間は動く。
歩く。
走る。
殴る。
避ける。
それぞれの瞬間で、必要な筋肉も関節角度も重心も変わる。
「動くなら、その変化に合わせて魔力配分もリアルタイムで変え続けなきゃならない」
「そんな……」
「身体は静止画じゃないからな」
「では、もっと……」
エレノアが悔しそうに拳を握った。
「もっと圧倒的な魔力を全身へ流し込めば、多少配分が雑でも力業で……」
「違う」
即座に否定した。
「え?」
「今のお前はまだ、普通の弱い身体に、外から魔力を『足してる』だけなんだよ」
「それが身体強化というものでは?」
エレノアが困惑する。
「初歩としてはな」
俺は彼女の前へしゃがみ込み、泥だらけの額を指先で軽く突いた。
「でも、その考え方じゃ消費が大きすぎる」
「……?」
「筋力を強化する。骨を強化する。腱を強化する。神経を強化する。必要なものを一個ずつ別処理して、そのたびに魔力を足す」
俺は指を折る。
「そんなやり方じゃ、強くなればなるほど処理量も消費量も膨れ上がる」
「では……どうすれば?」
俺は笑った。
「昨日教えた《因果律改変》の考え方を思い出せ」
「因果律……」
「魔法は、『普通ならこうなる』っていう結果へ介入する技術だ」
ただし。
ここで何でも好き勝手な結果を願えば成立する、という話ではない。
「お前が今使っている《身体強化》という魔法には、もともと『自分自身の身体性能を向上させる』という働きがある」
「はい」
「なら、その魔法が『何を強化対象として認識しているか』を変えるんだ」
「……対象?」
「今のお前は、筋肉、骨、腱、神経を全部別々の部品として認識してる」
だから一つずつ魔力を割り振っている。
「そうじゃない」
「では……?」
「最初から、自分の全身を『魔力によって強化された一つの身体』として認識しろ」
エレノアが目を瞬く。
「身体そのものを、一つの……?」
「ああ」
俺は自分の胸を軽く叩いた。
「『普通の身体を魔力で助ける』んじゃない」
「……」
「《身体強化》が発動している状態そのものを、自分の身体の基準として術式に覚え込ませるんだ」
筋肉。
骨。
腱。
神経。
一つずつ個別処理するのではない。
すべてをまとめて、
『強化された肉体状態』
という一つの完成形として維持する。
「そうすれば、必要になる処理は大幅に減る」
「そんなことが……」
「できるよ」
俺は断言した。
「実際に見せる」
エレノアの目が真剣になる。
ここで《異能ライブラリ》に収蔵された前世の《身体能力強化》を使う必要はない。
この世界に転生してから六年。
騎士や魔法使いたちが使う《身体強化》は何度も観測し、その術式構造も解析済みだ。
俺はこの世界の《身体強化》へ、自分の魔力を流した。
ただし。
術式の解釈は、前世で見てきた膨大な身体強化系異能の知識を元に、徹底的に組み直してある。
全身を一つの強化状態として固定。
最低限の魔力で維持する。
「よく見てろ」
俺自身へ5G。
その重力場の中へ、一歩踏み出す。
普通に歩く。
「……」
エレノアが目を見開く。
10G。
それでも、俺の足取りはほとんど変わらない。
片足で立つ。
軽く跳ぶ。
近くに置いてあった木製の椅子を片手で持ち上げる。
「…………」
「魔力を大量に燃やして耐えてるわけじゃないぞ」
俺は自分の腕を指差した。
「昨日から魔力感知を練習してるんだ。自分で確認してみろ」
エレノアが慌てて魔力を広げ、俺へ意識を集中する。
数秒後。
「……嘘」
小さな声が漏れた。
「師匠の《身体強化》に使っている魔力……わたくしが先ほど5Gで立っていた時の、十分の一以下ですわ……」
「そうだ」
「でも、師匠は10Gで普通に動いて……」
「どうしてだと思う?」
「教えてくださいませ!」
一瞬で食いついてきた。
「今! 今すぐ!」
「明日の授業だ」
「なぜですの!?」
「今日のお前はもう、処理能力も魔力もかなり削れてる」
俺は身を乗り出してきたエレノアの頭へ手を置き、軽く押し戻した。
「新しい概念を詰め込んでも効率が悪い。帰って休め」
「気になりますわ! 今夜眠れません!」
「じゃあ寝ながら考えろ」
「寝られないと言っておりますの!」
◆
夕暮れ時。
迎えの馬車へ乗り込むエレノアは、頭の先からつま先まで泥だらけだった。
だが、もう彼女はドレスの汚れをまったく気にしていない。
無重力になった時にはあれほど必死に守っていた「乙女の尊厳」も、今や別のものへ置き換わっているらしい。
彼女の頭の中にあるのは、ただ一つ。
『身体強化された状態そのものを、自分の身体の基準にするとはどういうことか』
それだけだ。
「師匠」
馬車の窓から、エレノアが顔を出す。
「ん?」
「明日は、必ず今日の続きを教えてくださいませ」
「宿題をちゃんとやってきたらな」
「今度は何ですの?」
「前回覚えた《常時魔力展開》を維持したまま、今日覚えた《身体強化》も同時に発動させろ」
「ふたっ……二つ同時ですの!?」
「十分間」
「十分も!?」
「言っただろ。処理能力の訓練だって」
「鬼ですわぁぁぁ!」
悲鳴にも似た抗議の声を残し、馬車は走り去っていった。
俺は遠ざかっていく馬車を見送りながら、《異能ライブラリ》の中に蓄積された無数の身体強化技術を思い浮かべる。
明日からが、本番だ。
(さて)
次に壊すのは、魔法についての常識じゃない。
『自分の身体とはこういうものだ』という、エレノア自身の常識。
(どこまで化けるか、楽しみだな。一番弟子)
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