前世最強の異能教師、異世界の天才たちを育てる ~一万八百の異能知識を教えたら、弟子たちが世界の常識を壊し始めた~ 作:パラレル・ゲーマー
翌朝。
ヴァルドスタ家の、人払いされた演習場。
俺がいつもの椅子に座って待っていると、時間通りにエレノアが姿を見せた。
昨日の夕暮れ時、全身泥だらけになってフラフラと帰っていった姿とは打って変わり、今朝はフリルのあしらわれた美しいドレスに身を包み、銀髪も乱れなく結い上げられた、完璧な「公爵令嬢」の姿に戻っている。
だが、俺の目はごまかせない。
彼女の歩き方を見ただけで、すぐに分かった。
華奢な身体の周囲には、すでに半径一メートルほどの薄い《常時魔力展開》が維持されている。
それだけではない。
昨日教えたばかりの、筋肉や骨格へ魔力を通す初歩的な《身体強化》まで、ごく微弱な出力ながら同時に維持したまま歩いている。
俺は椅子に座ったまま、短く言った。
「宿題」
「はい!」
エレノアは俺の前で優雅に立ち止まり、ふふん、と得意げに胸を張った。
「完璧ですわ。十分間どころか、今朝は三十分間、二つの術式を同時に維持したまま朝食をとってみせましたの!」
「……また勝手に目標時間を三倍にしたのか」
「師匠の弟子ですもの。この程度は当然ですわ!」
「まあいい」
俺は傍らのテーブルに置いてあった、空のティーカップを手に取った。
そして、エレノアへ向けて軽く放る。
「えっ?」
エレノアは慌てて両手を伸ばし、空中で見事にカップを受け止めた。
だが、その直後。
パキッ。
乾いた音が響いた。
彼女の指先に握られていた陶器の取っ手が、無残に砕け散る。
「…………」
エレノアは目を見開き、粉々になった取っ手と、本体だけになったカップを交互に見比べた。
「はい、制御は不合格」
「そんな! わたくし、三十分も維持しましたのに!?」
「時間だけ伸ばしても意味がないって、昨日から言ってるだろ」
俺はため息をついた。
「お前は今、《常時魔力展開》と《身体強化》の両方へ無理やり意識を割いてる。そのせいで、指先の繊細な力加減がお留守になってるんだ」
「ですが……」
「その状態で社交界に出てみろ。握手した相手の指をへし折るぞ」
「絶対に嫌ですわ!?」
エレノアが悲鳴を上げた。
「強くなるだけじゃ駄目だ。必要な時に力を抜くところまで含めて、制御だからな」
「うぅ……」
エレノアは砕けたカップの破片をハンカチで包みながら、悔しそうに唇を尖らせる。
だが、彼女の興味はすぐに別のところへ向かった。
「それより師匠! 昨日の続きを教えてくださいませ!」
「何だっけ?」
「忘れたとは言わせませんわ!」
わざととぼけてみると、エレノアはドレスの裾を揺らしながら詰め寄ってきた。
「昨日、師匠が10Gの重力の中で平然と動いていた時、わたくしの十分の一以下の魔力しか消費していなかった理由です!」
「分かった分かった。近い近い」
目が完全に知識へ飢えた研究者のそれになっている。
六歳児の顔じゃない。
俺は彼女を軽く押し戻し、背後に用意してあった小さな黒板を引っ張り出した。
チョークで簡単な人型の絵を描く。
「まず、昨日お前がやってた『普通の身体強化』のおさらいだ」
俺は人型の腕、脚、骨格、腱、神経に該当する場所から、それぞれ線を引き出した。
「昨日のお前は、自分の身体の必要な部品を、一つずつ別々に強化しようとしていた」
例えば。
右脚の筋肉へ十。
左脚の骨へ十。
腱へ五。
神経伝達へ五。
それぞれを別々の処理として脳内で管理しようとしていた。
「ですが師匠が、全身をくまなく強化しろとおっしゃったのでは?」
「そこまでは正しい。問題は、それを『別々に』処理してることだ」
俺はチョークで黒板を軽く叩いた。
「いいか、エレノア。お前は普段歩く時、『右脚の大腿筋を何パーセント収縮させて、左脚の膝を何度曲げて、足首を何度回して――』なんて、いちいち考えてるか?」
「……まさか。そんなこと考えておりませんわ」
「呼吸は?」
「無意識ですわ」
「心臓は?」
「当然、勝手に動いております」
「だろ?」
俺は黒板に描いた人型を指した。
「人間の身体っていうのは、そもそも無数の部品を一個一個、意識して別々に動かしてるわけじゃない」
「……」
「『歩こう』と思えば、筋肉も骨も神経も勝手に協調する。そういう一つのシステムとして出来上がってるんだ」
エレノアは真剣な顔で頷いている。
「だったら、身体強化も同じだ。『筋肉を強化する』『骨を強化する』『神経を強化する』って全部別処理にするから、脳の処理能力を食い潰して、ティーカップ一つまともに持てなくなる」
「なら……どうすれば?」
「全部まとめろ」
俺は黒板に描かれた人型全体を、一つの大きな円で囲んだ。
「強化対象は骨でも筋肉でもない」
円の中央へ、名前を書く。
『エレノア・フォン・アイスバーグ』
「強化対象は、お前自身だ」
「わたくし……自身?」
「ああ」
これが、俺の考える身体強化の核心だ。
「それと、もう一つ」
俺は黒板の隅に『魔力』と書いた。
「お前は魔力についても、少し勘違いしてる」
「魔力について?」
「魔力は、魔法を発動するために燃やして消費するだけの『燃料』じゃない」
正確に言えば、少なくとも俺がこの六年間で観測してきたこの世界の魔法では、そうだった。
「術式を通じて、現象を成立させるための『媒体』としても働いてる」
「媒体……」
「火を生み出すなら、魔力を通じて発火という現象へ干渉する。氷なら冷却。じゃあ、自分自身へ使った場合は?」
「身体を……強くする?」
「その通り」
俺は指先に小さな火を灯しながら続ける。
「肉体の性能を上げるための、補強構造そのものとして魔力を働かせることもできる」
「補強構造……?」
「家で考えてみろ」
俺は別の絵を描く。
簡単な家。
「今にも倒れそうな家を守るために、毎秒、外から何人もの力自慢が壁を押して支え続ける」
「はい」
「それと、最初から柱そのものを太くして補強する。どっちが楽だ?」
「当然、柱そのものを補強する方ですわ。前者では、支えている人間が疲れたら倒れてしまいますもの」
「そういうことだ」
俺は黒板の人型の中に、何本もの線を引いた。
「昨日のお前は、自分の弱い身体を、魔力っていう大量の人間を使って外から無理やり支えてた」
「……」
「そうじゃない。魔力を『第二の骨格』『第二の筋肉』みたいに、自分の身体の中へ定着させる」
ただし。
「勘違いするなよ」
俺は指を立てた。
「肉体そのものを魔力へ変換しろって言ってるわけじゃない」
「違いますの?」
「違う。それはもっと別の技術になる」
肉体は生身のまま。
その内部へ魔力による補強構造を浸透させ、肉体と一体化した一つの「強化状態」として扱う。
「昨日言っただろ。身体強化された状態そのものを、自分の身体の『基準』にしろって」
「……はい」
俺は黒板に簡単な式を書く。
『通常時:エレノアの肉体=100』
『旧来式:肉体100+外付けの魔力補助20=120』
「旧来のやり方だと、このプラス20を維持するために、ずっと意識して魔力を流し続けなきゃならない」
さらに下へ書く。
『新式:《120の肉体状態》そのものを一つの術式として記憶・維持』
「一度『120の自分』を作ったら、それを新しい基本姿勢として扱う」
「……!」
「敵を殴る瞬間だけ右腕を150。走る瞬間だけ脚を140。そういう必要な上乗せだけ、その場で追加する」
「つまり……」
エレノアが黒板を睨みながら考える。
「動くたびに、毎回ゼロから全身の強化状態を組み直す必要はない……?」
「そう」
「一度完成させた強化状態を、新しい自分の基本姿勢として維持する。そこから必要なところにだけ追加する……」
「正解」
エレノアの顔が明るくなる。
「これなら、脳の処理能力を大幅に節約できますわ。それに、必要のない部位へ無駄な魔力を流し続けることもない……」
「そういうことだ」
「そして、それを普段から維持する……」
「ああ。名付けるなら《常時身体強化》だな」
エレノアの表情が一瞬で曇った。
「また『常時』ですの?」
「何か問題でも?」
「師匠の常時好きは、少し異常なのではありませんこと?」
「基礎技術ってのは、いつでも使えてこそ基礎なんだよ」
「師匠の基礎は毎回おかしいですわ!」
俺は笑い飛ばしながら立ち上がった。
「さあ。理屈は分かったな」
「はい!」
「じゃあ実践だ」
◆
《重力操作》を起動。
まずは昨日と同じ。
「5G」
「参りますわ!」
ズンッ。
通常の五倍相当の負荷が、エレノアへかかる。
彼女の身体が一瞬だけ沈む。
そして反射的に、昨日と同じ思考へ逃げかけた。
(脚に魔力を――)
「違う。全部捨てろ」
「っ……!」
「お前は今、脚だけで立ってるのか?」
「……いいえ」
エレノアが深く息を吐いた。
目を閉じる。
脚。
腕。
骨。
腱。
そうした個別部品への意識を、一つずつ手放していく。
ただ。
自分自身の身体の輪郭を感じる。
頭の先から、爪先まで。
そこへ魔力を薄く、均一に浸透させる。
そして。
『強化されたエレノア・フォン・アイスバーグ』
それを一つの完成した状態として、自分自身へ定着させる。
彼女の目が開いた。
スッ。
「……!」
立った。
昨日のように、膝をガクガクと震わせているわけではない。
腰も曲がっていない。
5Gの中で、普段とほとんど変わらない、公爵令嬢らしい美しい姿勢を保っている。
「いいぞ」
「できましたわ……!」
「じゃあ歩け」
「もうですの!?」
「昨日そこで失敗しただろ」
エレノアの表情が引き締まった。
右脚へ体重を乗せる。
だが今回は、右脚だけへ魔力を集中しない。
全身という一つのシステムを保ったまま、ただ「歩く」。
右足が上がる。
一歩。
「……!」
左足。
二歩。
「歩けますわ……!」
エレノアの顔が、太陽のように輝いた。
「師匠! わたくし、歩いておりますわ!」
「見れば分かる。演習場の端まで歩いてこい」
「少しくらい喜ばせてくださいませ!」
文句を言いながらも、エレノアは歩く。
方向転換。
屈伸。
軽く身体をひねる。
全部できる。
そして、彼女自身が変化に気づいた。
「師匠……」
「ん?」
「昨日より、魔力の消費が圧倒的に少ないですわ」
「それが答えだ」
昨日、5Gで立つだけで消費していた魔力量の半分以下。
俺が同じ技術を使った場合の消費量にはまだ遠いが、それでも劇的な改善だ。
「じゃあ次」
「もうですの?」
「8G」
エレノアの顔が引きつる。
「なぜ一気に三つも上げますの!?」
「昨日5Gで立てた奴に、今日6Gからやらせても面白くないだろ」
「訓練に面白さを求めないでくださいませ!」
ズンッ。
「くっ……!」
エレノアの動きが止まった。
それでも倒れない。
全身を一つの強化状態として保つ。
「一歩」
「はい……!」
重い足が前へ。
一歩。
二歩。
歩ける。
「じゃあ軽く走ってみろ」
「この状態で!?」
「できる」
「断言しないでくださいませ!」
だが、やる。
タッ。
タッ。
ひどく重そうではあるが、それでも小走りで数メートル移動してみせた。
(……マジかよ)
俺は表面上は平然としていたが、内心ではかなり引いていた。
昨日は5Gで地面に這いつくばっていた六歳児が、一日後には8G相当の訓練負荷の中を走っている。
この技術自体は、一定以上の魔力制御能力を持つ者なら、理論上はエレノア以外でも習得できる。
だが。
(だからって、全員こんな速度で伸びるわけじゃない)
理解力。
魔力制御。
失敗を次へ反映する速度。
負けず嫌い。
知識への飢え。
そして何より――。
『自分ならできる』と、本気で疑わない強烈な自己認識。
魔法が術者自身の意思や認識の影響を受けるこの世界では、その馬鹿みたいに高いプライドすら強力な資質になる。
(誰でも歩ける道ではある。でも、こいつはその道を全力疾走してる)
本物だ。
「次。10G」
「……!」
エレノアの表情が変わる。
昨日、俺が平然と歩き、跳び、椅子を持ち上げていた数字だ。
彼女にとって、一つの明確な目標だった。
「ここからが本番だぞ」
重圧を引き上げる。
ズンッ。
「っ……!」
エレノアの膝が深く曲がった。
全身の筋骨格が悲鳴を上げる。
それでも倒れない。
《常時魔力展開》。
《常時身体強化》。
二つの処理を、圧倒的な負荷の中でも維持している。
ゆっくりと。
一歩。
「……歩けますわ」
本人が一番信じられないようだった。
「ああ。歩いてる」
昨日なら、間違いなく地面に張り付けになっていた。
しかも。
現在消費している魔力は、昨日5Gで立っていた時とほぼ同等か、それ以下。
筋力が一晩で増えたわけではない。
魔力量が突然倍増したわけでもない。
ただ。
使い方を変えただけだ。
「今日はここまででもいいな。10Gまで動ければ十分すぎる」
「嫌です」
「……ん?」
負荷を解除しようとした俺を、エレノアが止めた。
「師匠。昨日、おっしゃいましたわよね」
「何を?」
「これは、まだわたくしたちのスタートラインだと」
「まあ、言ったな」
「でしたら……もっと上をお願いいたしますわ」
俺は思わず笑った。
「後悔するぞ?」
「師匠の弟子になってから、もう何度もしておりますわ!」
「よし。12Gだ」
「そこは少しくらい止めてくださいませ!」
ズンッ!
「ぐっ……!」
エレノアの身体が大きく揺れた。
膝が地面へ落ちかける。
俺は《生体感知》を並行して、心拍、呼吸、筋骨格への負荷、魔力残量を確認する。
肉体には強烈な負担がかかっている。
だが、まだ危険域ではない。
魔力にも余裕がある。
昨日なら5Gへ耐えるだけで底が見え始めていたことを考えれば、この効率改善は異常なほど大きい。
そして重力そのものも、馬鹿正直に全身へ十二倍をかけているわけではない。
心臓。
肺。
脳。
血流。
そうした生命維持へ直結する箇所への致命的な影響は、《重力操作》で細かく逃がしてある。
訓練対象である筋肉、骨格、腱、関節へ、主として12G相当の負荷を与えている状態だ。
「脚が……っ!」
「脚を考えるな!」
「ですが折れそうですわ!」
「部品に戻るな! “お前自身”を強化しろ!」
エレノアがハッとした。
限界へ近づくと、人間はどうしても苦しい部分へ意識を奪われる。
脚。
骨。
腰。
その一箇所へ魔力を集中させた瞬間、全身の統合が崩れる。
「わたくし……自身を……!」
乱れかけた魔力が、再び全身へ流れる。
「そうだ。耐えろ」
「っ……!」
膝が。
地面すれすれで止まった。
まだ立っている。
「……行けるか?」
俺は静かに問いかけた。
ここから先は、俺が勝手に上げる領域じゃない。
エレノア自身の感覚を優先する。
俺はもう一度、《生体感知》で状態を確認した。
危険域ではない。
だが、間違いなく限界に近い。
エレノアは荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと顔を上げた。
「……お願いいたしますわ」
「分かった」
最後の一段階。
「13G」
ズンッッッ!
彼女の足元の地面が、わずかに沈んだ。
「っ――!」
エレノアの身体が一気に落ちる。
膝が地面へ触れる寸前。
視界が、痛みと極端な集中によって狭くなっていく。
本来なら血流そのものまで滅茶苦茶になるほどの重力。
だが、そこだけは俺が保護している。
心臓も動く。
脳への血流も保たれている。
だから意識を失うことはない。
その代わり。
筋肉。
骨。
腱。
身体を支える構造だけには、容赦なく十三倍相当の負荷が食い込んでいた。
本来なら全身が同時に悲鳴を上げる環境の中で、生命維持に必要な部分だけが不自然なほど正常に保たれている。
言ってしまえば。
気絶して逃げることすら許されない。
(これは……異常な状態ではありませんわ……)
エレノアは自分自身へ言い聞かせている。
(今のわたくしは、この重力の中でも立てる……)
これは、ただ願えば叶うなどという精神論ではない。
すでに構築した《身体強化》の術式。
その「強化された自分」という自己定義を、重圧の中でも揺らがせないための認識だ。
だが。
「……っ」
止まった。
そこから一歩も動けない。
「エレノア」
「……はい」
「昨日のお前なら、5Gで立つだけで精一杯だった」
「……はい」
「今は?」
「13Gで……耐えておりますわ……」
「昨日と今日で、お前の筋肉の量が三倍に増えたか?」
「……いいえ」
「魔力の総量が、一晩で三倍になったか?」
「いいえ……」
「じゃあ、何が変わった?」
エレノアが、息を呑んだ。
いや。
答えはもう分かっている。
「……わたくしが、魔力の使い方を変えましたわ」
「そうだ」
「身体に対する、考え方も……」
「ああ」
俺は彼女の目を見た。
「なら」
最後の一押し。
「まだ変えられるだろ」
「――――!」
その一言が、エレノアの中で何かを切り替えた。
脚を強くする。
骨を強くする。
関節を守る。
そんな個別の意識が、完全に消える。
自分自身の身体全体を、一つの巨大なシステムとして認識する。
極端に脚へ偏りかけていた魔力が、再び滑らかに全身へ循環していく。
右足。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
地面から浮いた。
「……!」
半歩。
そして。
一歩。
地面を踏む。
「……よし」
さらに左足。
二歩。
右足。
三歩。
「……歩けましたわ」
エレノアは荒い呼吸を繰り返しながら、自分の足を見下ろした。
「ああ。歩いた」
「師匠……わたくし……!」
「合格だ」
エレノアの顔に、これまでで一番大きな笑みが浮かんだ。
泥だらけだった昨日とは違う。
今日の彼女は、美しい公爵令嬢の姿のまま。
昨日なら地面に張り付けにされていた遥か上の負荷を、自分の脚で歩いた。
「じゃあ解除するぞ」
「はい!」
「一応言っておく。踏ん張れよ」
そう警告しながら、俺はすでに《念動力》を待機させていた。
今のエレノアは、13Gへ対抗するための出力を維持している。
それを瞬時に1Gへ戻したら、どうなるか。
(まあ、十中八九――)
重力解除。
1G。
そして。
ドンッ!
「きゃああああああ!?」
(やっぱり飛んだか)
エレノアの身体が、大砲の弾のように真上へ打ち上がった。
昨日の無重力とは違う。
重力が消えたわけではない。
純粋に、本人の脚力だけで跳んだのだ。
「師匠ぉぉぉぉぉ!?」
俺は待機させていた《念動力》を即座に起動。
空中でエレノアを捕捉し、その勢いをゆっくりと殺して地面へ降ろす。
「はぁ……はぁ……。な、何が……起きましたの……?」
エレノアは地面へ座り込み、目を白黒させていた。
「お前自身が跳んだ」
「……わたくしが?」
「13Gを押し返せる出力のまま、1Gの地面を蹴ったんだ。そりゃ飛ぶ」
「では、師匠……」
「これも訓練だ」
俺は指を立てた。
「戦闘中、最大出力を使うたびに、その後で壁や味方を吹き飛ばしてたら使い物にならないだろ?」
「……」
「高出力から通常出力へ瞬時に戻す。それも制御だ」
「わざとでしたのね!?」
「もちろん」
「先にもっと具体的に説明してくださいませ!」
「一度経験した方が覚える」
「やっぱり悪魔ですわ!」
元気に怒鳴れるなら問題なし。
「ほら。歩いてみろ」
「まだやりますの……?」
恐る恐る立ち上がる。
一歩。
バキッ!
「……」
足元の固く締められた地面に、深い足跡が残った。
二歩目。
バキッ。
「師匠! 地面が壊れますわ!」
「お前が壊してる」
「どうすればいいんですの!?」
「力を抜け」
「抜いておりますわ!」
「足りない」
これまでは、どうやって強くするか。
ここからは逆だ。
どうやって弱くするか。
「強くなることより、強くなった身体を『普通に』扱う方が難しいこともある」
「そんな理不尽な……」
「急激に強くなった奴は大体通る道だ」
前世でも何人もいた。
覚醒した翌日に、ドアノブを握り潰した奴。
ジャンプして天井へ頭を突っ込んだ奴。
恋人と握手して骨折させかけた馬鹿。
「とりあえず、あそこの端まで走ってみろ」
俺は約百メートル先の演習場の端を指した。
「普通に、ですの?」
「普通に」
「その『普通』が今一番難しいのですけれど……」
それでもエレノアは構える。
慎重に。
ごく弱く地面を蹴る。
ドンッ!
「えっ!?」
身体が弾けるように加速。
景色が一気に後ろへ流れる。
百メートルを、わずか数秒。
六歳児という括り以前に、一般人の動きではない。
「と、止まれませんわぁぁぁぁ!」
演習場の端。
生垣。
その直前。
俺が事前に展開しておいた《障壁》へ、エレノアが突っ込む。
バフンッ。
障壁を数層に分け、段階的に勢いを殺す。
それでも完全停止した時には、彼女は透明な壁へべしゃりと張り付いていた。
「減速して止まるまでが『走る』だぞ」
「そういうことは……先に教えてくださいませぇ……!」
顔を壁へ押し付けたまま抗議している。
「だから今教えただろ」
「実演形式で教えないでくださいませ!」
俺は笑いながら障壁を解除した。
エレノアが芝生へ降りる。
そして俺は、彼女の状態を改めて確認した。
魔力残量。
十分。
身体への負荷。
問題なし。
処理能力。
昨日より遥かに余裕がある。
これなら。
《常時魔力展開》。
《常時身体強化》。
さらに。
メインウェポンである氷魔法。
三つを並行して扱える可能性がある。
「よし」
「な、何がよしですの……?」
疲れ切ったエレノアが疑いの目を向ける。
「強化の理屈は、とりあえず及第点だ」
「これで及第点ですの!?」
「強化の理屈は、な」
「……?」
「制御はまだ不合格」
「やっぱりですの!?」
俺は演習場の中央へ戻る。
途中、テーブルから新しいティーカップを一つ取った。
「最後にもう一回」
「まだ何かありますの?」
ぽん。
エレノアへ投げる。
「わっ!」
反射的に手を伸ばす。
パシッ。
受け止めた。
「…………」
エレノアが恐る恐る手の中を見る。
取っ手。
無傷。
カップ本体。
ひび一つない。
「……割れておりませんわ」
「今度こそ、日常動作なら及第点だな」
「……!」
エレノアの顔が明るくなる。
「さっきまで地面を踏み砕いてたのに……」
「一度、自分がどこまで強くなったか体験したからだ。身体の出力を下げる基準ができた」
「これも……自己認識?」
「そういうこと」
自分がどれほどの力を持っているか。
どこまで抜けば普通になるのか。
知らなければ調節のしようがない。
「ただし、戦闘中に攻撃して、避けて、魔法を使いながら同じ制御ができるようになるまでは合格じゃない」
「……先が長いですわね」
「最強になりたいんだろ?」
「もちろんですわ!」
即答。
「よし」
俺は満足して頷いた。
「じゃあ、身体の授業はいったんここまで」
「や、やっと終わりですのね……!」
「次は魔法だ」
「まだありますの!?」
◆
演習場の端には、訓練用として使われている大きめの貯水池がある。
十数メートルほどの幅を持ち、水魔法や消火訓練などにも使われるものらしい。
俺はその縁へ移動した。
「昨日までのお前なら、身体強化を維持するだけで処理能力の大半を使い切ってた」
「ええ……」
「でも今は違う」
全身の強化を、一つのまとまった術式として処理する。
その結果、脳にも魔力にも余裕が生まれた。
「身体は変わった。処理能力にも余裕ができた。じゃあ、次は頭の使い方だ」
「……何をするのです?」
「あの貯水池を凍らせてみろ」
エレノアが水面を見る。
「《アイス・バレット》を撃ち込めばよろしいのですか?」
「なんで池を凍らせるのに弾丸を撃つんだよ。物騒だな」
「では……」
俺は何も答えない。
代わりに質問する。
「目的は?」
「……貯水池の水を凍らせることですわ」
「必要な工程は?」
「……!」
エレノアがハッとする。
頭の中で、以前教えた《アイス・バレット》を分解する。
①対象探索。
②接続。
③冷却。
④成形。
⑤加速・射出。
「氷の形を作る必要はありませんわ。ですから④の《成形》は不要」
「うん」
「飛ばす必要もないので、⑤も不要です」
「うん」
「そして……」
エレノアが、自分の周囲へ広がる魔力へ意識を向ける。
「①の対象探索と、②の接続は……《常時魔力展開》で先に済ませることができます」
「そうだ」
「なら」
ゆっくりと。
エレノアの口元に笑みが浮かんだ。
「必要なのは、③の《冷却》だけ」
「正解」
俺も笑った。
嬉しい。
単純に、教師として嬉しい。
もう答えを一から教える必要がない。
質問するだけで、エレノア自身が答えへ辿り着く。
「やってみろ」
「はい!」
エレノアが貯水池へ向き直る。
片手をかざす。
本来なら、別に手を向ける必要などない。
だが初回なら、集中の補助としては悪くない。
《常時魔力展開》を貯水池の手前側まで伸ばす。
水へ接続。
詠唱はしない。
(氷を作るのではない)
(対象を探す必要もない)
(形を整える必要もない)
(飛ばす必要もない)
(ただ――)
(冷やす)
術式第三工程。
《冷却》。
単一起動。
ピキッ。
鋭い音。
水面へ、一筋の白い氷が走った。
次の瞬間。
パキパキパキッ!
エレノアの手前側から、氷が放射状に一気に広がっていく。
数メートル。
貯水池の一角が、瞬く間に分厚い氷へ変わった。
完全凍結ではない。
まだ貯水池全体を一撃で凍らせるほどの出力も、展開範囲もない。
それでも。
大人が何人乗っても簡単には割れないほどの厚い氷を、ほとんど時間差なく作り出した。
「…………」
エレノアは、自分が生み出した現象を呆然と見つめていた。
「わたくし……詠唱しておりませんわ」
「正確には違う」
「え?」
俺は凍った水面を指した。
「お前は詠唱を『サボった』んじゃない」
「……」
「詠唱が担当していた仕事を、別の方法で先に処理したんだ」
対象探索。
接続。
そこは《常時魔力展開》が担当。
冷却という目的も、すでに明確。
だから。
「必要になった③だけを起動した」
「……つまり」
「無詠唱だから凄いんじゃない」
俺は言い聞かせる。
「意味も分からず詠唱だけ削れば、ただ不安定になるだけだ」
「はい」
「詠唱が何の仕事をしているか理解する。その仕事を他の技術へ任せられるなら、その部分だけ削れる」
「必要な仕事を……別の場所へ移す」
「そう。それが魔法を改良する時の基本だ」
エレノアは凍った貯水池を見つめながら、しばらく考えていた。
そして。
「……では、師匠」
「ん?」
「この理屈なら、《アイス・バレット》でも同じことができますわよね?」
「どういう意味だ?」
「①の対象探索と②の接続を《常時魔力展開》へ任せる」
エレノアが指を折る。
「残るのは、冷却、成形、射出」
「そうだな」
「さらに……成形の形そのものを、事前に一つの完成したイメージとして固定しておけば……」
「お」
思わず声が漏れた。
こいつ。
もう、俺が次に教えようとしていたところへ自分から手を伸ばしている。
術式の一部を事前処理する。
固定化する。
必要な瞬間に呼び出す。
やがて短縮詠唱どころか、事前詠唱、遅延発動、複数術式の並列待機へ繋がる考え方だ。
「……そこから先は、自分で試してみろ」
「教えてくださらないのですか?」
「今、お前が自分で気づいたんだろ」
俺は肩をすくめる。
「なら、自分で仮説を立てて、自分で実験して、自分で答えを見つけろ」
「……!」
「間違ってたら、その時俺が直す」
「はい!」
エレノアの目が、今まで以上に強く輝いた。
いい。
教師がいなくても考えられる生徒。
それが一番強い。
今日一日の成果を、頭の中で整理する。
昨日。
5Gで立つだけで精一杯。
今日は。
13G相当の負荷下で自力歩行。
通常重力では、身体能力が上がりすぎて制御に苦戦。
だが最後にはティーカップを壊さず持てる程度まで出力を落とした。
《常時魔力展開》。
《常時身体強化》。
二つを並行維持。
そこへさらに氷魔法まで重ねた。
そして。
俺が答えを教えなくても、自分で術式を分解し、新しい応用まで考え始めた。
(……速すぎるだろ)
たった数日。
理論上、俺が教えている技術はエレノアだけのものではない。
他の魔法使いだって学べる。
だが。
ここまでの速度で吸収する奴は、そうそういない。
魔力。
理解力。
努力。
そして、あまりにも強固な自己認識。
全部が噛み合っている。
「……上出来だ」
俺が素直に褒めると、エレノアは少し不満そうに頬を膨らませた。
「それだけですの?」
「じゃあ、言い直すか」
俺は汗に濡れた彼女の銀髪を、少し乱暴に撫で回した。
「おめでとう、エレノア」
「?」
「お前は今日、ただの『天才』から――立派な『化物』になった」
一瞬。
エレノアが目を丸くした。
さすがに、公爵令嬢へかける褒め言葉としては間違えたか。
だが。
「最高の褒め言葉ですわ!」
満面の笑み。
「……お前、俺の教育に染まるの早すぎないか?」
「師匠の弟子ですもの!」
「それを誇らしげに言われると、少し不安になるな……」
そう言いながら。
俺自身も、弟子の成長が誇らしくて仕方なかった。
◆
その日の夕方。
迎えの馬車へ乗り込む前。
エレノアが俺を振り返った。
「師匠。今日はこれから、公爵家の実家へ戻りますの」
「そうか」
「数日間、こちらへ通い詰めておりましたので。お父様にも、この数日間の成果をご報告しなければなりませんわ」
「……ほどほどにな」
「もちろんですわ!」
目がキラキラしている。
(嫌な予感しかしない)
「絶対に余計なことするなよ?」
「師匠は心配性ですわね。わたくし、ただ成果をご覧いただくだけですもの」
「その『ただ』が怖いんだよ……」
エレノアは上機嫌のまま馬車へ乗り込んだ。
扉が閉まる。
馬車が夕暮れの道を走り去っていく。
俺はその後ろ姿を眺めながら、小さく息を吐いた。
まあ。
ただの家庭内での成果報告だ。
まさか、その「ご報告」が回り回って国家の中枢、果ては王家にまで届き。
俺の平穏な隠居スローライフ計画を盛大に粉砕することになるとは。
この時の俺はまだ――。
「…………」
いや。
あいつのあの負けず嫌いな性格と。
手に入れてしまった規格外の力。
それを考えれば。
「……少しくらいは予想しておくべきだったかもしれないな」
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