――Meta-Gamer's Singularity(メタゲーマーズ・シンギュラリティ) 作:りー037
「あー……セーブポイントのBGMって、なんでこんなに眠気を誘う仕様になってんのかねー……」
清潔な白いシーツに身を沈めながら、俺――無月洞夜は、誰にともなく口を開いた。
医務室に漂う消毒液の匂い。微かに聞こえる、医療機器の規則的な電子音。それは完全に、RPGの宿屋で流れるあの心安らぐハープの音色と完全に一致していた。HPゲージが1ドットずつじわじわと回復していくのを、細胞レベルで感じる。
「あはは、BGMなんて流れてないけどね。でもわかるよ、このベッド、絶妙に人間をダメにする反発力をしてるからねぇ。僕もよくここで夜を明かして、怒られてるんだ」
白衣を着たDr.ロマンが、タブレット端末から顔を上げてへにゃりと笑う。傍らでは、フォウくんが俺の足元で丸くなって「ふぉう、きゅっ」と寝息を立てていた。
平和だ。外はマイナス数十度の極限サバイバル環境だっていうのに、ここだけ完全に『日常系の部室』の空気が流れている。
「いやマジで、ロマン先生のそのダメ大人っぷり、親近感しか湧かないッスわ。俺も休みの日は基本、ベッドとPCデスクの往復しかしないですからね。ログインボーナス回収して、適当に動画見て、気づいたら日曜の夕方。あのサザエさんのエンディングが流れた時の絶望感と言ったらもう……」
「そう! それ! 分かるよ洞夜くん! 月曜日の足音が聞こえてくるあの恐怖! まさに人類共通の特異点だよね!」
出会って数十分の医療トップと一般人(モブ)が、完全に意気投合してダメな会話を弾ませていた、その時。
――ダァァァンッッ!!!
医務室の自動ドアが、スライド機構を無視するかのような物理的な暴力で蹴り開けられた。
「ひゃああっ!? しょ、所長!?」
「うおっ!? 扉バーン!! なになに、敵襲!? ボス戦のBGM鳴った!?」
ロマンが悲鳴を上げてタブレットを放り投げ、俺もバネ仕掛けのようにベッドから跳ね起きた。
そこに立っていたのは、白を基調とした豪奢な魔術礼装に身を包んだ、銀髪の小柄な少女――いや、女性だった。
釣り上がった瞳。不機嫌を絵に描いたような眉間のシワ。そして、周囲の空気をピリッと凍らせるような、圧倒的な『上司』のオーラ。
「……ロマニ。あなた、こんなところでなにしてるの!? なぜ医務室のシステムをオフラインにしているのかしら!!」
金切り声に近い怒声が、医務室の空気をびりびりと震わせる。
「(……出たァーーーッ!! 絶対的権力を持つ生徒会長にして、高飛車な金持ちお嬢様属性! しかもこの怒り方、完璧なツンデレのテンプレートじゃないですかぁぁ!)」
俺のオタクとしての血が、恐怖よりも先に沸騰する。
「おっと、そこまでだお嬢様! 典型的なツンデレキャラの登場演出としては100点満点ですが、もうちょっとデレの配分を増やさないと、今時の視聴者にはウケないッスよ!」
「……は?」
銀髪の所長が、ピタリと動きを止めて俺を睨みつけた。
その視線は、まるで言葉の通じないエイリアンを見るような、純粋な嫌悪と困惑に満ちている。だが、俺の口は止まらない。
「いやだから! 『べ、別にあんたのためにカルデアを作ってあげたわけじゃないんだからね!』くらいの黄金比で攻めないと! いきなり怒鳴り込んでくるのは、フラグ建築としてはちょっと悪手というか……あ、申し遅れました。初期装備の村人A、無月洞夜です。ステータスはオール1です。以後お見知りおきを」
俺が穏やかに、かつ満面の笑みでそう言い放つと、医務室の温度がさらにマイナス50度ほど急降下した。
――オルガマリー・アニムスフィアの内心は、沸点を超えて宇宙の彼方まで吹き飛んでいた。
(なんなのこの男は……!? 私に向かって、ツンデレ? フラグ? 何を言っているの!? )
「……あなた。自分が誰に向かって口を利いているか、わかっているの?」
「えっ、ラスボス? いやいや、この展開はアレだ。序盤に主人公をイビり倒すけど、後半のピンチで『ここは私に任せて先に行け!』って言ってくれる、実は一番熱いヤツですよね! 期待してます、所長さん!」
「誰があなたの盾になるというのよこのバカ!! ええい、いいから来なさい! 一般枠とはいえ、頭数だけは揃えておかないといけないのよ!」
オルガマリーは俺の胸ぐらを掴みかける勢いで、そのまま俺とロマンを部屋の外へと引きずり出した。
*
「……というわけで、我々カルデアの使命は、この特異点Fにおける人理定礎の崩壊を食い止めることにある……」
薄暗い、しかし無数の青いモニターが発光する巨大なドーム状の空間――中央管制室。
壇上に立つオルガマリー所長が、何やら小難しい専門用語を並べ立てて長広舌を振るっている。
俺は、一番後ろの端っこの席、モブの定位置に座りながら、周囲を見渡した。
「(うわー……見渡す限り、完璧に『生徒会特権階級エリート』の集まりじゃん……)」
俺の視線の先には、最前列に陣取るAチームの面々がいた。
優雅に腕を組む金髪の青年キリシュタリア。「僕には世界を救う義務がある……フッ」とか言いながら紅茶を飲んでそうな圧倒的強者のオーラ。
隣にいる銀髪で目の下にクマがある青年カドック。絶対に「俺はあんな落ちこぼれなんか認めない……!」とか言って中盤で闇堕ちしかけるライバル枠の顔つきだ。
レベル100のカンストパーティーに、レベル1の初期装備スライムが紛れ込んでしまったような状態だ。
「……そこの新人! 無月とか言ったわね! あなた、先ほどから全く話を聞いていないわね!?」
ビシッ! とオルガマリーの指が、一直線に俺を突き刺した。
会場中のエリートたちの冷たい視線が一斉に俺に突き刺さる。普通ならここで「ひぃっ、すみません!」と縮み上がるべきなのだろう。
「あ、いや! 聞いてましたよ! 要するに、あれですよね? 『魔王の城に乗り込むための勇者パーティー結成式』ってことですよね!」
「ゆ……っ、勇者パーティー!?」
「ええ! レベルMAXの精鋭たちが揃ってるわけですし、俺みたいな村人Aは、無理にダンジョンについていかなくても、最初の街の宿屋で『勇者様、頑張ってね!』って旗振って待機してるのが一番効率的じゃないスか? 俺のHP、スライムの体当たり一発で消し飛ぶんで!」
俺が極めて真面目に、朗らかな笑顔でそう提案した瞬間。
オルガマリーの顔が、怒りで真っ赤に――いや、通り越して青紫色に染まった。
「……つまみ出しなさい」
「へ?」
「今すぐこのふざけた一般人を、説明会からつまみ出しなさいッ!! カルデアをなんだと思っているのよォォォ!!」
両脇を、屈強なカルデアの警備スタッフにガシリと掴まれる。
足が床から浮き上がり、そのまま出口へとズルズルと引きずられていく。
「ちょ、ちょっと待って所長さん! ここで俺を追い出したら、後で『あいつがキーパーソンだったなんて……!』って後悔するイベントが発生するかも――」
「しないわよ!! さっさと自分の部屋に戻って寝ていなさいこの能天気!!」
「くっ……! 俺の右腕に封印されし黒炎竜が暴れ出したから、ここは一旦引くとしよう……! 達者でな、選ばれし勇者たちよーーーっ!!」
バタンッ!!
重厚な金属の扉が閉ざされ、俺の渾身の捨て台詞は虚しく廊下に響き渡った。
*
「……いやー、見事な強制イベントの敗北ルート一直線でしたね。まさかフラグを物理でへし折られるとは。俺のギャルゲー偏差値もまだまだだな……」
人気のない静かな廊下を歩きながら、俺は一人でブツブツと独り言をこぼした。
説明会から追い出されたのはいいが、問題がある。俺は自分の部屋がどこなのか、全く説明を受けていないのだ。
完全に迷子である。マップアプリもない。ナビゲーション妖精もいない。
「おーい、誰かー。このダンジョン、エンカウント率低すぎませんかねー? NPCすら配置されてないって、どんなクソゲー……」
「――先輩。何をしているんですか」
透き通るような、鈴を転がすような声。
振り向くと、そこにはピンク色のショートヘアを揺らしながら歩いてくる、大きな眼鏡の少女――マシュ・キリエライトがいた。
足元には、真っ白な毛玉がトコトコとついてきている。
「うおおおっ!? マシュちゃん! ナイスタイミング! いやー、完全に迷宮(ラビリンス)でスタックしてたんだよ。自分の部屋の場所わかんなくて」
俺が大げさに両手を合わせて拝むと、マシュは小さくため息をつきながらも、どこか呆れたような、それでいて微かに口角を上げた表情を見せた。
「……先ほど、所長から通信がありました。『あのふざけた男をさっさと部屋に放り込んで鍵をかけろ』と。私が案内します、洞夜先輩」
「マジで!? ヒロインに自室まで案内されるとか、ギャルゲーなら好感度爆上がりの神イベントじゃん! やったぜ!」
「……ギャルゲー、ですか? すみません、私にはその語彙のデータベースが存在しないのですが」
小首を傾げるマシュ。その仕草すら計算し尽くされたように可愛い。
俺は彼女の少し後ろを歩きながら、ニヤニヤする口元を必死に抑えた。
「いや、気にしないで。俺のただの痛い独り言だから。でもさ、マシュちゃんみたいなメインヒロイン枠の子が、俺みたいなモブに構ってると、ルート分岐がバグるぞ? 大丈夫?」
「ルート分岐……? 先輩の言葉は、いつも暗号化されているみたいで不思議ですね。でも、私は先輩が『モブ』だとは思っていませんよ」
「えっ」
「だって、所長を怒らせて、それでもケロッとしている人は、カルデア広しと言えども先輩くらいですから。ある意味、とても特殊な方だと思います」
この人は、不思議だ。戦う力なんて何一つ持っていないのに。彼から発せられる言葉には、なぜか不思議な引力がある。私の知らない世界の話ばかりだけれど、彼の根底にある『底抜けの明るさ』と『穏やかさ』は、この冷たいカルデアの中で、とても温かく感じる
「いやいや、褒め殺しスか! 俺なんて、その辺歩いてるスライムと大差ないですからね」
ヘラヘラと笑いながら、俺たちは居住区画への長い廊下を進んでいった。
*
「ここが、先輩の割り当てられた個室です」
マシュが電子キーを操作し、無機質なドアがスライドして開く。
中を覗き込むと、ベッドと机、小さな洗面台があるだけの、ホテルというよりは『綺麗な独房』といった趣の部屋だった。
「おー、意外と殺風景。精神と時の部屋かよ。まあ、寝るだけなら十分か」
「はい。それでは、私はまだ管制室での仕事がありますので、これで失礼します。先輩は少し休んでいてください」
マシュがペコリとお辞儀をして踵を返そうとした、その時だ。
「ふぉう! ふぉう、きゅうっ!!」
俺の足元で、フォウくんが突如として激しく鳴き声を上げ、俺のブーツにガシリとしがみついてきた。
「おっ、どうしたピカ……じゃなくてフォウくん。俺の足に『まとわりつく』を使用! しかし洞夜には効果がないようだ!」
「フォウさん。先輩を困らせてはいけませんよ。こちらへ」
マシュがしゃがみ込んでフォウくんを抱き上げようとする。
俺はふと、足を止めた。
彼女の華奢な背中。俺をここまで案内してくれた、その親切な姿を見て、俺の中の『フィルター』が、ほんの少しだけ薄れた。
「あー……その、なんだ。マシュちゃん」
「はい? なんでしょうか、先輩」
俺は、頭の後ろを掻きながら、できるだけ真面目なトーンで口を開いた。
「今日さ。俺が倒れてた時、見つけてくれて。で、今もこうして部屋まで案内してくれて。……短い間に2回も助けてくれて、本当にサンキュな。君は本当に、最高のヒロインだよ。マジで」
マシュは一瞬だけ目を丸くし、それから、ほんのりと頬を桜色に染めて、柔らかく微笑んだ。
「……ヒロイン、というのはよくわかりませんが。私はカルデアのスタッフとして、当然の事をしたまでです。……でも、ありがとうございます。洞夜先輩」
その笑顔が、俺の網膜に焼き付いた。
過酷な雪山で出会った、一服の清涼剤のような少女。
「いやいや、そういう謙虚なところがメインヒロインの証ッスよ! じゃあな、また後で。……あ、あとでここ飛んでるWi-Fiのパスワード教えてね! 俺、ネトゲのログインしなきゃいけないから!」
「ふふっ。はい、あとでお教えしますね。お休みなさい、先輩」
マシュはフォウくんを抱えたまま、静かに廊下の奥へと消えていく。
彼女の背中が見えなくなるまで見送ってから、俺は自室へと足を踏み入れた。
*
バシュッ、と自動ドアが閉まると、部屋の中は完全な静寂に包まれる。
「はー……疲れた。マジで色々ありすぎて脳の処理落ち(メモリ不足)がヤバい」
俺は重いブーツを脱ぎ捨て、そのままベッドにダイブした。
少し硬めのマットレス。真っ白な天井。
秋葉原にいた俺が、今は雪山の極秘施設で寝転がっている。訳がわからない。
「でもまあ、マシュちゃん、いい子だったな……。ロマン先生も面白かったし。所長はアレだけど……」
目を閉じる。
まぶたの裏に、さっきのマシュの柔らかい笑顔が浮かんだ。
あの笑顔のためなら、少しはこの謎の施設で頑張ってみてもいいかもしれない。
「とりあえず、今はHP全回復させとくか……。おやすみ、俺の異世界生活……」
深い、深い泥のような眠りが、俺の意識を引っ張り込んでいく。
*
――ビィィィィィィィィィィンッッ!!!
――ビィィィィィィィィィィンッッ!!!
「うおっ!? なんだなんだ!? エヴァの使徒襲来BGMか!?」
突如として部屋全体に鳴り響いたけたたましい非常警報(アラート)の音で、俺はベッドから文字通り跳ね起きた。
真っ白だった照明が、毒々しいブラッドレッドの非常灯へと切り替わり、部屋の中を不気味に明滅させている。
寝起きのぼんやりとした頭に、無機質な合成音声のアナウンスが容赦なく叩き込まれた。
『緊急事態発生。中央管制室および地下動力部にて大規模な爆発を確認。カルデア内に火災が発生しています。中央ブロックのスタッフは、速やかに第二ゲートへ避難してください――繰り返します――』
「ば、爆発!? 火災!? 嘘だろ、さっきまであんなに平和な日常系アニメの部室みたいな空気だったじゃん! なんでいきなりパニック映画のクライマックスみたいな展開になってるんだよ!」
冗談じゃない。俺の心臓(エンジン)が、警報音よりも早いBPMでドッドッドッと狂ったように鳴り始めた。
ブーツを引っ掛けるように履き、自動ドアをこじ開けて廊下に飛び出す。
さっきまで静まり返っていた通路は、赤色灯の狂気的な光と、どこからか流れてくる黒い煙、そして逃げ惑うスタッフたちの怒号で完全にカオスと化していた。
「あ、アカン! これ完全にバイオハザードのラクーンシティ崩壊イベントだ! モブの生存戦略は、主人公が来る前にガン逃げ一択! 避難ルートどっちだ!?」
完全にパニックになった頭で、俺は人の波に逆らわないように避難ゲートの方向へと駆け出した。
煙のせいで目が痛い。喉が焼けるように痛い。ただの一般人である俺にとって、この『リアルな死の匂い』はキャパシティを優に超えていた。逃げろ、逃げろ、逃げろ。死にたくない。こんな訳のわからない雪山で、モブAとして消滅したくない。
――だが。
避難ゲートに向かって必死に足を動かしていた俺の脳裏に、ふと、ある『映像』がフラッシュバックした。
『私はまだ管制室での仕事がありますので、これで失礼します』
『……ありがとうございます。洞夜先輩』
つい数十分前、俺をこの部屋まで案内してくれた、あのピンク色の髪の少女の笑顔。
アナウンスは確かに言っていた。
『中央管制室で爆発が発生』と。
「――ッ!!」
急ブレーキをかけたスニーカーが、金属の床と擦れて嫌な音を立てた。
「おいおいおいおい、待て待て待て! 嘘だろ!? マシュちゃん、さっきあそこに戻っていったばっかりだぞ!?」
俺は立ち止まり、煙の向こう側――爆発の中心地である中央管制室へと続く通路を振り返った。
向こうからは、誰も逃げてこない。もうもうと立ち込める黒煙と、チリチリと肌を焦がすような熱気だけが流れてくる。
怖い。足がガクガク震えてる。今すぐこのまま背中を向けて逃げ出したい。
俺は戦う力なんて何一つない、ただのパンピーだ。ヒーローじゃない。ヒロインを助けに行く資格なんてない。
「……くそっ! ここで逃げたら、一生あのヒロインの笑顔が夢に出る呪いにかかるだろ……! 俺はハッピーエンド至上主義なんだよ! バッドエンドの鬱展開なんざ、ディスクかち割って窓から投げ捨ててやる!!」
俺は、自分を奮い立たせるために、叫んだ。そうやって『俺は今、熱い展開のど真ん中にいるんだ』と自己暗示をかけないと、恐怖で足がすくんで一歩も動けなくなりそうだったからだ。
「どけええええええ!! 村人Aが通るぞおおおおお!! 勇者様の代わりにヒロインのフラグ回収しに行くんだよおおおお!!」
俺は避難するスタッフたちの波を掻き分け、むせ返るような黒煙の中へ、燃え盛る中央管制室へと逆走を始めた。
*
「ゲホッ、ゴホッ……! な、なんだよこれ……特撮の爆破セットかよ……監督、火薬の量間違えてるぞ……!」
炎の熱と煙で視界が歪む中、俺は防寒着の袖を口元に当てて、崩壊した中央管制室へと足を踏み入れた。
さっきまで青いモニターが美しく輝いていたドーム状の空間は、完全な地獄(インフェルノ)に姿を変えていた。
むせ返るような焦げ臭さに混じって、鉄錆のような……いや、生々しい『血の匂い』が鼻腔を突く。
「おい……冗談だろ……。エリート魔術師のAチームの人たち、カプセルごと潰れて……」
惨状を目の当たりにし、俺の脳が一時的にショートしそうになる。
これはゲームじゃない。俺がいつも安全なモニター越しに見ているフィクションじゃない。本当の死だ。
胃袋がせり上がってくる感覚を必死に飲み込み、俺は炎の向こう側へと目を凝らした。
「マシュちゃん! マシュ・キリエライト! どこだ! チュートリアル妖精の出番だぞ! 隠れんぼはもう終わりにしてくれ!!」
必死に叫びながら、崩れた瓦礫の間を這いずるように進む。
「……せん、ぱい……?」
炎の爆ぜる音に掻き消されそうな、微かな、本当に微かな声。
俺は弾かれたように声の方向へ振り向いた。
「――マシュちゃん!!」
巨大なコンクリートの瓦礫。その下に、彼女はいた。
下半身が完全に巨大な質量の下敷きになり、周囲には痛ましいほどの血だまりが広がっている。さっきまで綺麗だった制服は破れ、眼鏡はどこかに吹き飛んでしまっていた。
「うおおおおおっ! 動け! 動けよこのポンコツ瓦礫!! 今すぐ『界王拳』発動! 3倍だ、いや10倍だぁぁぁっ!!」
腕の筋肉が千切れるほど力を込める。顔を真っ赤にして、歯を食いしばる。
だが、びくともしない。数トンの質量を持つコンクリートの塊が、一般人の腕力でどうにかなるはずがないのだ。
「くっそ、ビクともしねえ! 筋力パラメーターGのモヤシなめんな! 運営、今すぐ課金アイテムの怪力バフよこせよ!! マシュちゃん、しっかりしろ! 今、回復ポーション探すから!」
俺は涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔のまま、震える手でマシュの血まみれの手を強く握りしめた。
「どうして……ここに……」
「忘れ物したんだよ! 俺の部屋のWi-Fiパスワード、まだ聞いてないだろ! ネット環境がないと俺は死んじゃうんだよ!」
「ふふ……先輩は……本当に、変な人ですね……こんな時に、まで……」
マシュは痛みに顔を歪めながらも、微かに口角を上げて笑おうとした。
その口から、ツツッと赤い血の筋が流れる。
やばい。ガチでやばい。生命力ゲージが赤色で点滅しているのが、目に見えなくてもわかる。
「先輩……逃げて、ください。ここは、もうすぐ……完全に、崩落します……私にかまわず……」
「バカ言うな!! ヒロイン見捨てて逃げる主人公がどこにいる! いや俺は村人Aだけど! 今だけは主人公枠にクラスチェンジだ! 立て、立つんだジョー!! ここから逆転のOP曲が流れる展開だろ!!」
俺は、彼女の冷たくなっていく手を両手で包み込み、必死にこすり合わせた。
怖い。彼女が死んでしまうのが怖い。自分がここで焼け死ぬのも怖い。
だから俺は、自分の弱さを誤魔化すように、ひたすら叫び続けた。それが俺にできる、唯一の彼女を励ます魔法だったから。
「先輩の、手……温かい、です……」
「当たり前だろ! 36度の平熱ナメんな! これからもっと温めてやるから、絶対に目を閉じるなよ! 『逃げちゃダメだ』ってシンジ君も言ってたろ!!」
「……はい……。でも、もう……カルデアスが……」
マシュの霞む視線の先。
中央で禍々しく赤く輝くカルデアスから、無機質なシステムアナウンスが響き渡った。
『――コフィンシステム、生体ロック解除』
『――マスター候補、生体反応を1名のみ確認』
『――これより、特異点Fへのレイシフトプロセスを強制移行します』
「は!? レイシフト!? なんだよそれ! 今そんなイベント進めてる場合じゃないだろ!! 運営、メンテ入れろ!!」
「先輩……レイシフトは……生きたまま、別の時代に、量子変換されて、転送される……タイムトラベルです……」
「タイムトラベル!? 強制異世界転生イベントかよ! トラックにも轢かれてないのに!? だったらマシュちゃんも一緒に連れてけ! パーティーメンバー必須だろ!!」
「私は……もう……」
マシュの瞳から、スウッと光が消えかかる。
俺の足元で、瓦礫の隙間から「フォウ!」と甲高い鳴き声がした。
いつの間に来たのか、真っ白なフォウくんが、マシュの顔の横に寄り添い、俺の手の甲をペロッと舐める。
『――レイシフト開始まで、残り10、9、8……』
視界が、ぐにゃりと歪む。
炎の熱が遠ざかり、代わりに圧倒的な『無』の感覚が俺たちを包み込み始めた。
「マシュちゃん、手、絶対に離すなよ!! 一緒に行くぞ!! チュートリアル妖精がいないと、俺は最初のスライムで詰むんだからな!!」
「……せん、ぱい……」
「大丈夫。……僕がここにいるから、絶対、全部上手くいくよ」
『――3、2、1。全工程クリア』
「うおおおおおっ!! 運営のバカヤローーーッ!! 難易度ナイトメアの強制イベント、受けて立ってやるよおおおおお!!」
俺は、マシュの手を骨が軋むほど強く握りしめながら、炎と、赤く染まったカルデアスに向かって全力で絶叫した。
次の瞬間、圧倒的な閃光が俺たちの体を飲み込み――
ポップカルチャーに染まった一般人・無月洞夜の、人類の存亡を賭けた長くて過酷な『神話』が、ここから本当の幕を開けたのだった。