1、気になるあいつは魔法少女
「作り笑いが上手いな」
そう言われて振り向いたときには、転校生はもう窓の外を見ていた。こっちを見てもいない。独り言みたいな声量だったけれど、でも間違いなくわたしに向けて言われた一言だ。
……二百十三日、誰も気づかなかった。先生も友達も、パパもママも、わたしがこの顔をかぶっていることに誰ひとり気づかなかったのに、それを会って十分も経っていない苗字のない女があっさり撃ち抜いていったのだ。
どういうことなのかいきなり言ってもわけがわからないと思うので、とりあえず朝の話から始めようと思う。
「ツグミちゃん、今日もちょっと眠そうだねぇ」
昇降口で上履きに履き替えていると、背後から綿菓子みたいな声が降ってきた。
オバナザワ=アヤノ、ふわふわの癖っ毛と、ふわふわの喋り方と、たぶん中身も八割くらいふわふわで構成されている彼女はわたしのクラスメートで親友だ。少なくともクラスで「一番仲のいい友達は誰?」と訊かれたらわたしは迷わずアヤノの名前を挙げるだろうし、アヤノもたぶんわたしの名前を挙げてくれるだろう。
「おはよう、アヤノ。眠そうに見える?」
そう訊ねると、アヤノはいつもどおりのふんわりした声でわたしの頭を指した。
「右側の髪が跳ねてるよぉ」
指されたところを撫でてみると、確かに髪に寝癖がついていた。髪はちゃんと梳かしてきたつもりだったんだけどな。
「これは寝癖であって眠気ではないよ」
「寝癖があるってことは、ぎりぎりまで寝てたんじゃない?」
「名探偵アヤノ。事件解決だね」
「えへへ」
アヤノは嬉しそうに笑いながら、わたしの髪を指先で押さえた。当然ながら寝癖は直らなくて、むしろ妙な方向へ増殖した。
「あ」
「何?」
「二本になったねぇ」
「現場を保存して警察を呼ぼうか」
「ごめんねぇ」
まったく悪びれていない。
わたしたちは並んで教室へ向かった。
「今日、転校生が来るらしいよ」
……へえ。こんな時期に?
とりあえずそう応えるとアヤノはいつものほんわかした表情で続けた。
「外国から来るって、サカイさんが言ってた」
「じゃあ、その情報の信頼度は三割くらいかな」
「すごくきれいな女の子で、目が赤いんだって。ヤマグチくんが職員室で見たらしいよぉ」
「一割まで下がったね」
「どうして?」
「ヤマグチくん、先週も保健室の先生が元アイドルだって言ってたから」
「えー、違うんだぁ」
その与太話、本気で信じてたのか。
アヤノがくすくす笑い、わたしも笑った。口角をほんの少し持ち上げ、目元の力を抜く。声は高すぎず低すぎず、相手が冗談を言ったときには半拍遅れて息を漏らす。やり方は身体が覚えている。百メートルのスタートと同じだ。合図が鳴れば、決められた動きをする。
「急ごう。予鈴鳴っちゃうよぉ」
「うん」
わたしは何事もなかった顔で、教室へ向かった。
何事もなかった顔は得意だ。たぶん、走ることよりも。
教室へ着くと、噂の転校生はすでに人生の半分くらいを勝手に決められていた。
「ハーフだって!」
「髪染めてるってさ。不良だよ絶対」
「芸能人の娘じゃない?」
「政府関係者って聞いたけど」
「赤い目だったらしいよ」
「それはさすがにカラコンでしょ」
まだ本人は一言も喋っていないのに、外国人とのハーフで、芸能人の娘で、政府関係者で、不良で、赤い目をした少女になっていた。設定を盛られすぎである。
アヤノとの会話も自然、転校生についての話になった。
「ツグミちゃんは、どんな子だと思う?」
「普通の子じゃない?」
「夢がないねぇ」
「転校初日から他人の夢を背負わされるほうが可哀想でしょ」
「それもそっかあ」
やがて担任が教室へ入ってきた。朝礼前のゆるい空気感は終わり、生徒たちがいっせいに席へと就いたところで、教壇に立った担任が口を開く。
「席につけ。今日は転校生を紹介する」
担任が廊下へ向かって声をかけると一人の少女が入ってきた。
最初に見えたのは、黒だった。
つんつんと尖った印象のある艶のある黒髪。制服もわたしと同じ紺色のはずなのに、彼女が着ているとほとんど黒に見えた。
髪には鮮やかな黄色のメッシュが走っている。黒い夜空を稲妻で裂いたような色だ。
そしてその目は噂どおり、本当に赤かった。光の加減でも、カラーコンタクトでもない。少なくとも、そう簡単には片づけられないほど深い赤。
きれいな子。
なるほど。ヤマグチくんの情報は珍しく正解になった。
転校生は教壇の横に立ち、教室を見回した。緊張しているようには見えないが、かといって堂々としているわけでもない。なんというか、教室というより戦場の地形を確認している目だと思った。
「それじゃあ、自己紹介を」
担任に促され、転校生は一歩前に出て口を開いた。
「バトラだ」
それきり、教室が静まり返った。
担任は黙り、転校生も黙った。
……え、終わり?
「……ほかには?」
「ない」
担任が困った顔をした。
わたしは少しだけ同情した。朝から先生も大変である。
「あー……苗字とか、プロフィールとかは?」
「ない」
「苗字がない?」
「ああ。ない」
その答えで、担任の顔から理解という概念が消えた。
「えっと……どういう意味?」
「この星の生命すべてが、わたしの親みたいなものだからな」
教室が再び静まり返り、しばらくしてからひそひそ声で内緒話が始まった。
「バトラって、怪獣の名前じゃん」
「昔、ゴジラと戦ったやつ?」
「黒いモスラでしょ?……」
もちろん、わたしも知っていた。
世界中に怪獣が現れた『怪獣黙示録』、その末期に出現した戦闘破壊獣バトル・モスラ、通称バトラとして歴史の教科書にも載っている名前だ。たしか写真も載っていたと思う。黒い翅、赤い目、黄色い角、たしかに目の前の転校生と絶妙に特徴がかぶっているが、怪獣の名前なんて少なくとも人間、それも女子につける名前ではない。
しかし、クラスメートたちの混乱は長く続かなかった。
「親がそういう信仰の人なのかな? ほら、エクシフの宗教の洗礼名とか……」
「ハーフなんじゃない? 最近は変わった名前も多いし……」
「あー、キラキラネームって奴?……」
「あるいは中二病とか……」
宗教的な理由、キラキラネーム、中二病。そういった便利な単語たちで、クラスメートたちは怪獣の名前を持つ赤い目の少女を受け入れた。適応力が高すぎだろ、人類。怪獣が暴れる時代を生き延びた種族は伊達ではないのか。
そんな他愛もないことを考えていた時、ふいに担任がわたしの名前を口にした。
「席は……ツキシマの隣が空いてるな」
担任の言葉に、わたしは笑顔のまま固まった。あの、先生、空席なら後ろにもありますけど? 後ろ、見えてます?
とはいえ担任に目を付けられるのは仕方のないことかもしれない。普段のわたしは一応こう見えて優等生でクラスのムードメーカーだ。周囲には人一倍気を遣って優しく接していると思うし、担任からの頼まれごとも基本的には断らないようにしている。
そんな思惑があるなんて露程も知らない担任は、何にも気づいていない表情でわたしに言った。
「ツキシマ、いろいろ教えてやってくれ」
「はい。分かりました」
そして感じのいいツキシマさんは、今日も感じのいい優等生なのであった。優等生はこれだから辛いね。
転校生はこちらへ歩いてきてわたしの隣へ着くと、椅子を引き、そして座る前に椅子を少し横へずらした。ちょうどわたしから離れる方向だ……感じ悪。
……おほん。まあ、いい。
知らない学校へ来たばかりで緊張しているのかもしれない。名前を怪獣扱いされ、風貌をじろじろ見られたりすれば、機嫌だって悪くなるだろう。こういうときこそ、感じのいい優等生ツキシマさんの出番である。
朝礼が終わったあと、わたしは隣の転校生に歩み寄ってこう名乗った。
「わたしはツキシマ=ツグミ。よろしくね、バトラちゃん。分からないことがあったら、何でも訊いて」
営業用の笑顔、百点のスマイルのつもり。基本的には誰も不愉快にしない対応のはずだ。
転校生は赤い目でわたしを見た。じっと見つめている。
「……どったの?」
訊ねてみても転校生は答えない。顔の表面ではなく、その下に何枚仮面があるか数えられているような落ち着かない視線で、かえってわたしが緊張する。
やがて転校生は口を開いた。
「必要ない」
言われた瞬間何を言われたのか理解しかねて、思索した末に「案内が必要ない」と言われたのだということを理解する。ははーん、さてはシャイだな? わたしは諦めずにコミュニケーションを試みる。
「そっか。でも、遠慮しなくていいんだよ。教室の場所とか……」
「遠慮しているわけではない」
「うん?」
「構うなと言っている」
会話終了。所要時間、およそ四秒。背中で教室の視線が「うわあ」となったのが分かった。
……まあ、いいでしょう。こういう日もある。わたしは営業スマイルを一ミリも緩めず、「そっか。じゃ、何かあったら言ってね」と完璧な角度で切り上げて踵を返した。えらい、わたし。減点なしの撤収……
「作り笑いが上手いな」
……今、なんて言った?
振り向いたときには、転校生はもう窓の外を見ていた。こっちを見てもいない。独り言みたいな声量だったけれど、でも間違いなくわたしに向けて言われた一言だった。
作り笑いが上手い? 顔が熱くなるのが分かった。言い返したい言葉は百個くらい浮かんだのに、どれも「作り笑いじゃない」というところから始めるしかなくて、作り笑いだとバレてる相手にそれを言う間抜けさだけはプライドが許さなかった。
だから、何も言わずに席へ戻った。心の中でだけ盛大に舌を出してやりながら横目で見ると、転校生は平然としている。
「…………。」
マジなんなの、こいつ。
そりゃあ他人と関わりたくない気持ちは分からないでもない。人を近づけなければ、嫌われることもないし離れていかれることもない。そうやって最初から壁を作っておけば、その内側を傷つけられることもないだろう。あーあー、ご立派な処世術ですこと。
――わたしと同じで。
そう気づいた瞬間、わたしはますますこの転校生が嫌いになった。自分に似ている相手ほど、見ていて腹の立つものはない。
休み時間になるたびに、何人かのクラスメートが転校生の席を囲んだ。
「前の学校、どこ?」
「その髪、染めてるの?」
「バトラって本名?」
転校生は、必要な質問にだけ短く答えた。
「学校には通っていなかった」
「生まれつきだ」
「本名だ」
……コミュ障なのかな。周囲から気を遣われて話しかけられているのに、その会話を広げる気が一ミリもないのは流石にどうかと思う。
やがて質問する側も疲れたのか、一人、また一人と離れてゆき、昼休みを迎える頃には転校生の机の周りだけきれいに人がいなくなっていた。
「すごいねぇ」
アヤノとお弁当を囲んでいると、アヤノが転校生の方をちらちら見ながら小声で言った。
「何が?」
「転校初日で、あんなに一人になれるの」
「本人が望んでるんだから、いいんじゃない?」
「ツグミちゃん、ちょっと怒ってる?」
「まっさかー」
わたしは笑った。
「転校生に四秒で振られたくらいで怒るほど、心狭くないよ」
「四秒、数えてたんだぁ」
「数えてない」
アヤノは転校生のほうを見た。窓際の席で転校生は一人、不機嫌そうに胸元で腕を組みながら校庭の向こうを眺めている。昼食は食べないつもりだろうか。それともダイエット中? まぁ知ったことではないが。
「寂しくないのかなぁ」
「さあ。寂しいならもう少し愛想よくするでしょ」
「でも、愛想よくするのが苦手な人もいるよ」
知ってる。わたしは愛想よくするのが得意だ。得意だからこそ、それをしようとしない人間を見るとときどき腹が立つ。わたしが毎日きちんとかぶっているものを、最初からかぶる気すらないように見えるのはムカつくのだ。
「アヤノは優しいね」
「そうかなぁ」
「そうだよ」
昼休みが終わり、午後の授業が始まった。
転校生は相変わらずわたしを見なかったので、わたしも見ないことにした。たぶん、あの転校生とはこれからも必要以上に関わらないだろう。同じクラスで隣の席、ただそれだけの相手だ。
このときのわたしは、本気でそう思っていたのだけれど。
「ごめんねぇ。今日、部活あるから」
帰りのホームルームが終わると、アヤノは両手を顔の前で合わせた。
「謝ることじゃないでしょ。文芸部、頑張ってきなよ」
「うん。ツグミちゃんも気をつけて帰ってねぇ」
「中二にもなって、同級生に帰り道の心配されるとは思わなかった」
「寄り道しちゃ駄目だよぉ」
「お母さんかよ」
じゃあねえ、とアヤノは小さく手を振り同じ部活の子たちと教室を出ていったので、わたしも笑顔で手を振り返す。
教室の中に残っていた生徒たちが、それぞれの部活へ向かって散っていく。運動部はジャージへ着替えるために部室棟へ。文化部は鞄を抱えて特別教室へ。帰宅部は今日の予定について騒ぎながら昇降口へ。
わたしも帰宅部だ。二百十三日前までは違ったけれど。
机の横から鞄を持ち上げたとき、隣の席はもう空だった。
転校生がいつ教室を出たのか、気づかなかった。まあ、気づく必要もないだろう。なにしろ、構うなと言ったのは向こうだ。転校初日に四秒でわたしを振った感じの、態度の悪い美少女のことなどきれいさっぱり忘れて帰るにかぎる。
廊下へ出ると、陸上部のジャージを着た一年生たちがわたしの横を駆け抜けていく。
「廊下は走らない!」
思わず声をかけると、一年生たちは「すみません!」と速度を緩めた。
大変素直で大変よろしいが、そもそもわたしは何者なんだ。元陸上部の亡霊か。あるいは怨霊かもしれない。まあ生きてるけど。
外へ出ると、六月の風が頬を撫でた。校庭から、ホイッスルの音が聞こえる。
短く二回、それに続いてシューズが土を蹴る音がする。見なくても分かった、短距離組のスタート練習だ。耳を塞いでもたぶん聞こえるだろう。
「……帰るか」
わたしは校庭に背を向けた。今日もまっすぐ家に帰るとしよう。アヤノにも寄り道するなと言われたしね。
気がつくと、わたしは寄り道をしていた。
いや、違う。これは寄り道ではない。家へ帰るまでの道を、ほんの少しだけ遠回りしただけである。三百メートルくらい、誤差である。誰に対する言い訳なのかは知らない。
住宅街の坂を上った先に、公園がある。遊具は、塗装の剝げたすべり台と、錆びたブランコが二つ。あとはベンチが一脚と、申し訳程度の砂場。公園と呼ぶには少し寂しいが、空き地と呼ぶにはすべり台が頑張りすぎている。
春になると隅に立つ桜の木だけが立派な花を咲かせるが、いまはもう盛りを過ぎ風が吹くたびに緑の葉っぱが散っていた。
この公園は高台にある。
金網の向こうには、住宅街の屋根と、そのさらに先の街並みが見渡せる。空が広く見えるのが、わたしは好きだった。
学校の校庭も、部室棟も見えない。それが一番よかった。
ベンチに腰を下ろし、自動販売機で買ったレモンティーの蓋を開けて口をつける。
……ぬるいな。買ったばかりなのに、絶妙にぬるい。六月にもなれば冷たいものが出てきたっていい頃なのに、この自動販売機は温かいのと冷たいののどちらへ行くか迷っているらしい。
「優柔不断だなあ」
缶に文句を言っても仕方がない。一口飲むが、やっぱりぬるい。
公園には、わたしのほかに誰もいなかった。
ブランコが風に揺れ、きいきいと金属の軋む音だけが規則正しく響く。遠くで車が走る音。鳥の声。風が木の葉を揺らす音。
それだけのはずだった。
そのときふいに、何かが、濡れた布を引きずるような音がした。
わたしは缶を口元に運んだまま、動きを止めた。音は公園の裏手から聞こえてくる。
ずる、ずる。
斜面の下に続く、木の茂み。猫だろうか。それにしては音が重い気がする。それとも大型犬? 野良犬なら、刺激しないほうがいいかも。
わたしはなるべく音を立てないようにベンチから立ち上がるのだが、そのときさらに匂いがした。
生臭い。
夏場の魚売り場と、雨に濡れた爬虫類を一緒にしたような――いや、爬虫類が雨に濡れた匂いなんて知らないけれど――とにかく、そうとしか言いようのない匂いだった。
茂みが揺れ、枝が折れる。
黒い塊が、ゆっくりと斜面を這い上がってくる。
最初に見えたのは、爪だった。土へ突き刺さる、湾曲した4本の爪。次に、赤黒いただれた体表に覆われた前脚。そして、魚とトカゲを無理やり一つに縫い合わせたような頭が、茂みの奥から現れた。
「…………」
怪物だ。ほかに呼び方が見つからない。
全長はクマくらい。四本の脚のうち後ろ足は不自然に長く、前足は足と言っていいのかわからないほどに小さい。背中には三列の背鰭が並び、半透明の膜が濡れたように光っていた。口の端からは、粘ついた唾液が糸を引いている。
ぎょろり、と赤い目がこちらを向き、こちらと目が合った。
こんなとき人間は悲鳴を上げるものだと思っていたけれど、実際には声が出なかった。
頭の中に浮かんだのは、
「何これ」
という、非常に役に立たない感想だけであった。
そのとき怪物が、鼻先を持ち上げた。空気の匂いを嗅ぎ、それからわたしを見て、にたりと笑ったように見えた。
悲鳴は出なかった。喉が、ひゅ、と鳴っただけ。
かわりに、身体が動いた。
わたしは走った。
怪物が吠え、空気が震えた。耳の奥を直接引っかくような、高く濁った咆哮だ。いくらなんでもこんなもん、生理的に無理である。
「無理無理無理無理!」
わたしは即座に走り出した。
公園の出口まで二十メートル。数えようとしなくても距離が分かる。ベンチを右からかわし、砂場の縁を飛び越え、すべり台の支柱すれすれを抜ける。
背後で、重い足音が地面を叩いた。速い、速いよあんた。見た目からは想像できない速度で迫ってくる。
わたしは鞄を放り捨てて走った。腕を振り、腰を高く。足を前へ伸ばすんじゃなくて、地面を後ろへ押して蹴る。二百十三日かけて忘れたかったことを、身体が全部覚えていた。
スタートで身体を起こすタイミング、呼吸の位置、腕を振った反動を、前へ進む力に変える方法。頭では忘れたふりをしていたものを、脚が勝手に引っ張り出してくる。
けれど今はそんな不満を言っている場合ではなかった。
「っ!」
公園の出口へ出る寸前、アスファルトの亀裂に靴の先が引っかかった。
身体が宙へ浮き、咄嗟に手をついて、掌と膝を硬い地面に擦りつける羽目になった。
胴体を強打し、息が肺から押し出された。
「か、はっ……!」
起きろ。すぐに立て。頭では分かっているのに、右足首に鋭い痛みが走った。ひねったらしい。
背後で足音が止まり、わたしがゆっくり振り返ると、例の怪物は公園の出口を塞いでいた。
にたり、と口が開く。
隙間なく並んだ牙。生臭い息。
足首が痛くて立てない。逃げられない。ああ、最悪だ。たった二百十三日で、人類は走り方まで下手になるらしい。
怪物が身体を低くした。跳びかかるつもりだろうとわかり、わたしは両腕で頭を庇った。
次の瞬間、黒い影がわたしの頭上を横切った。
怪物の爪がわたしへ届くより先に、何かがその横腹へ蹴りを叩き込む。
鈍い衝撃音。クマほどもある巨体が、真横へ吹っ飛ばされる。怪物は地面を転がり、砂場へ突っ込んで砂が噴水のように舞い上がった。
……最初何が起こったのかわからなかったが、やがてそんなわたしの前へ一人の少女が降り立った。
黒い髪、その中を走る黄色い稲妻のメッシュ。
思わず間抜けな声が出た。
「……バトラ、さん?」
名前を呼ばれても、彼女はわたしの方を振り返らなかった。
けれど間違えようがない。今日、わたしの隣の席へ座った感じの悪い転校生だ。
ただし、朝とは姿が違っていた。
額から、鋭く湾曲した一本の黄色い角が伸びている。背中には、巨大な黒い翅。縁は刺々しく尖り、赤と黄色の稲妻模様が表面を走っている攻撃的な模様。蝶のように可憐で美しくはないが、夕陽を透かしてステンドグラスみたいに禍々しく綺麗だ。
戦闘破壊獣バトラ。教科書の写真に載っていたあの黒いモスラのシルエットと、彼女が背負う翅は同じかたちをしていた。
……キラキラネームじゃ、なかったんだ。
怪物が砂場から起き上がった。口を大きく開き、怒りに満ちた咆哮を上げる。思わず怖気が走るキモさだったがバトラの方はまるで動じない。
それどころか面倒くさそうに首をこきりと鳴らして答えた。
「初日からこれか。見つけたぞ、セルヴァム」
バトラの声は、教室で聞いたときと同じだ。ぶっきらぼうで、愛想がなくて、そして今は刃物みたいに冷たい。
セルヴァムと呼ばれた怪物が地面を蹴り、バトラへ向かって突進する。
「待って、危な……」
わたしの警告は、最後まで続かなかった。
バトラの額に生えた角が、赤色に輝く。光が一点へ集まり、周囲の空気が低く震えた。
「くたばれ」
閃光。マゼンタ色の光線が、セルヴァムの身体を正面から貫いた。
音は遅れてやってきた。鼓膜を叩く爆発音。衝撃で桜の枝が揺れ、残っていた花びらが一斉に舞い上がった。
わたしは反射的に顔を覆い、光が収まったところで恐る恐る腕を下ろす。
セルヴァムがいた場所には、黒く焼け焦げた跡しか残っていなかった。
「…………」
一撃。
あんな大きな怪物を、バトラは一撃で葬り去ってしまった。
黒い翅がゆっくりと畳まれたが、額の角はまだ赤い光を帯びていた。
頭に浮かんだのは、
「魔法少女……」
フリルもなければ、ステッキもない。変身の掛け声も聞いていないし、可愛らしいマスコットもいないが、突如空から現れた少女がマジカルな光線で怪物を倒したのだ。これを魔法少女と呼ばずして何と呼べばいい。
そんな益体も無いことが頭をよぎったとき、バトラがこちらを振り返った。彼女の赤い目が、地面に座り込んだわたしを見下ろす。
「……助けてくれたの?」
そう訊ねると、バトラは不機嫌そうにぷいとそっぽを向いた。何その態度。
やがて呆れた口調で答える。
「他になんだと思ってるんだ」
ですよね。
やっぱり感じが悪い。命を助けてくれた直後なのに、好感度が一ミリも上がらないのは逆にすごいと思う。
それからバトラはわたしの前へしゃがみ込んだ。赤い瞳が、わたしの顔から制服、擦りむいた膝へと移っていく。何かを確かめるように鼻先をわずかに動かし、やがて何かに気づいた様子で急に眉をひそめた。
「腕を見せろ。左の方だ」
「どうして?」
「早くしろ」
「命令しないで……」
そう言われながら左腕を見てみると、制服のブラウスの袖に小さな赤黒い染みがついていた。
転んだときの血ではなかった。いつ付いたのか分からないけれど、粘り気のある液体が布へ染み込んでいる。
バトラの表情が変わった。
「……ついてない奴だな、おまえも」
公園の出口とわたしを見比べて、それからもう一度、今日いちばん深いため息をついた。世界の理不尽を全部吸って吐くみたいな、長いため息である。
そして口を開く。
「説明はあとだ。来い」
「来いって、なにが………」
「わたしの住処だ」
なにがなんだかわからない、もう限界だ。わたしは爆発した。
「い、行かない! 何それ、行くわけないでしょ!? それより警察、そう、警察だよ! じゃなきゃ自衛隊とかGフォースとか……!」
「いいから来い」
まくし立てるわたしを遮りながら、黒いモスラの魔法少女は静かに、事務連絡みたいな声で告げた。
「このままだとおまえ、死ぬぞ」