白い怪獣は、赤い録画ランプを見つめていた。
カンナのカメラへ鼻先を寄せ、くん、と短く息を吸う。画面が一瞬で白く曇った。
「ちょ、近い近い近い……!」
カンナが腕を引くと、怪獣の首もついてきた。
右へ動かす。右を見る。左へ動かす。左を見る。赤い点から、目を離さない。
「……もしかして、これが気になるの?」
問いかけても返事はなかったが、三本の突起が突き出た鰓のような部分がぴくりと動いた。
カメラのライトが照らす範囲では、全身までは見えない。白い鱗に覆われた丸い頭。背中の角、太い首、四本の脚、身体の両側に折り畳まれた薄い皮膜。
四足で立った背はカンナの頭より高く、馬ほどもある。怪獣黙示録の記録に残る巨大怪獣とは比べものにならないが、それでも人間が森の中で出会って平静でいられる大きさではなかった。
なのに、不思議と襲われる気はしなかった。
大きな瞳の中にあるものが、空腹や敵意ではなく、子供がショーウインドーを覗き込むときの好奇心に似ていたからかもしれない。
白い怪獣がまた一歩近づく。カンナが一歩下がれば怪獣も一歩進む。
「……あの、待って。ほんとに待って。画角ってものがあるから」
言いながら、カンナは自分がまだ録画を続けていることに気づいた。
画面の右上で数字が増えている。
十二秒。十三秒。十四秒。
婆羅陀魏山神。五十年以上、確かな目撃記録のない伝説の怪獣。その実物が手を伸ばせば触れられる場所にある。
心臓が、遅れて激しく鳴り始めた。
怖いからではなかった。これを公開したらという考えが頭の中で一気に膨らんだからだ。
十万。いや、こんな映像なら百万だってあり得る。
怪獣都市伝説界隈などという狭い場所を飛び越えて、テレビ局も海外メディアも、怪獣を研究しているという国際機関モナークの研究者さえ『大怪獣のカナリア』の映像を無視できなくなるだろう。
学校の連中も、もう「親に高い機材を買ってもらって遊んでいるだけ」とは言わなくなるだろう。父も母も、今度こそ動画を見てくれるかもしれない。
皆「すごいね」と言ってくれるかもしれない。カンナが何を撮って、何を調べて、どれだけ時間をかけてきたのか、初めてちゃんと……
ふいに白い怪獣が、カメラの角を舐めた。
「わっ」
カンナは現実へ引き戻された。
怪獣は舌を引っ込め、不思議そうに首を傾げている。
「食べ物じゃないよ、これ」
通じているかは分からないが、それでも声をかけると耳のような突起が動いた。
「……はあ」
カンナは息を吐いた。夜の森でひとり通信圏外。道も分からない中で、目の前にいるのは未知の怪獣。普通なら助けを求めるべき状況だろう。
だが電話はつながらず、位置情報も取得できない。大声を出せば怪獣を驚かせて襲われるかもしれない。
カンナはスマートフォンを見た。バッテリー残量、三十七パーセント。あまり長くはもたない。
「とりあえず……明るくなるまで、動かないほうがいいかな」
白い怪獣は答えず、赤いランプを見つめていた。
「君も迷子?」
応えるように怪獣がゆっくり瞬きをする。
「……あたしも」
カンナは録画を止め、カメラのライトだけを残した。
録画用の赤い点が消えた瞬間、白い怪獣は目に見えて落胆した。
「……そんな顔する?」
もう一度録画を始めると、ぱっと顔を上げる。
……分かりやすいなあ。カンナは少し笑った。
夜明けの光は、木々の梢から少しずつ落ちてきた。
暗闇の輪郭が薄くなり、森が黒一色ではなくなっていく。濡れた葉の緑。剥がれた樹皮の灰色。苔に覆われた岩。
そして、白い怪獣の全身が明らかになる。
細長い尾。短いが太い脚。胴体から前脚へ続く皮膜。鱗は純白ではなくところどころ薄い灰色を帯びていて、背中には棘のような背鰭が一列に並んで生え揃っていた。
大きさは馬くらいあるし見た目は恐竜に似ているが、動きは意外なほどしなやかだった。身を低くしたり、首を傾げたりする仕草には、獣というよりどこかネコ科の動物を思わせるものがある。それも虎や豹のような獰猛さはなく、むしろ家猫をそのまま巨大にしたような妙な愛嬌があった。
白い怪獣はカンナのすぐそばで丸くなっており、夜のあいだずっと逃げようとしなかった。
むしろカンナが動くと後をついてきた。少し離れて休もうとすると、また録画ランプを探して近づいてきた。いまは顎を前脚へ載せ、半分目を閉じている。眠っているらしい。
カンナは木の根元に座り、膝を抱えていた。
……寒い。お腹が空いた。背中も痛い。スマートフォンのバッテリーは十八パーセントで、通信は戻らない。画面上部には無情な「圏外」の二文字。
「生中継、無理かぁ……」
口にしてから自分で嫌になる。山で遭難中に最初に落胆するところがそこなのか。
だが、すぐに考え直した。
「……いや、録画でいい。持って帰ればいいんだから」
映像はもうある。暗闇の中で出会った瞬間。赤い光へ鼻を寄せる姿。夜明けの森を歩く白い怪獣。
人生最大のスクープだ。登録者百万、大怪獣のカナリアの復活も夢ではない。
頭の中でタイトル候補が勝手に並び始める。
【独占撮影】伝説の山の神は実在した
【政府が隠した怪獣】婆羅陀魏山神、その正体
五十年ぶりの目撃――古代怪獣を発見
どれが一番伸びるだろう、なんてことを考えながらカンナは眠っている怪獣へカメラを向けた。
録画を開始し、赤い点が灯ると怪獣の瞼が持ち上がった。
「……あ、起こした?」
白い頭がゆっくり上がる。
申し訳ないと思うより先に、撮れ高という言葉が浮かんだ。
寝起きの山神。親近感。ギャップ。視聴者はこういうものが好きだ。
寝ぼけ眼の怪獣がカンナの手元を見た。今度はカメラではない。パーカーのポケットだ。
「何?」
怪獣の鼻先が近づいてポケットを押し、カンナがポケットを検めると、そこにはキャンプ場の売店で買ったチョコバーが一本入っていた。昨夜眠る前の夜食として何となく持っていたものだったが、どうやら持ったまま出てきてしまったらしい。
「……お腹空いてるの?」
袋を取り出すと、怪獣の目が追った。
光る包装紙が朝日を反射する。赤い録画ランプよりも、今度はこちらのほうが気になるらしい。
「怪獣ってチョコ食べていいのかな……」
犬猫にチョコレートは駄目だった気がするが、怪獣はどうなのだろう。怪獣の栄養学など、カンナの守備範囲にもない。
少し迷って、袋を開けた。
甘い匂いが広がり、怪獣の鼻がひくひく動いた。
「……ちょっとだけね」
チョコバーを半分に折り、掌へ載せる。
白い怪獣はすぐには食べなかった。頭を低くし、カンナの顔と手のひらを交互に見て、やがて大きな身体に似合わないほど慎重に前脚が伸びた。
指のように分かれた小さな爪がチョコバーをつまみ取り、怪獣はそれを口へ入れた。
もぐもぐと噛んでいたが、動きが停まったかと思うとつぶらな目がさらに大きくなる。
「……おいしい?」
返事の代わりに、残り半分へ視線が移った。
「一個だけって言ったでしょ」
白い前脚が、もう一度伸びる。
「駄目」
伸びる。
「駄目だって」
怪獣はカンナの膝へ顎を載せた。
「……それはずるくない?」
結局、残りも渡した。
怪獣は満足そうにチョコバーを食べ尽くしたあと、銀色の包装紙へ鼻先を寄せた。
「それは食べられないから」
包装紙をポケットへ戻すと、怪獣は名残惜しそうに見つめていた。
カンナは、その様子をずっと撮っていた。完璧な映像だ。伝説の白い山の神が、人間の掌から餌付けされている愛嬌のある姿。タイトルも、字幕も、サムネイルも、すぐに作れるだろう。
なのに、画面を確認しながら、カンナ自身が笑っていることに気づいた。配信用の笑い声ではなかった。レンズへ向けるためではなく、目の前の怪獣へ向けて笑っている。
怪獣は口の周りについたチョコを舐めている。
「……君さあ、山の神なんでしょ。山の神がチョコバー一本で懐いちゃ駄目じゃない?」
鼻先がカメラへ近づいた。
息でレンズが曇る。
「また!? ちょっと待って、拭くから!」
服の裾でレンズを拭く。
白い怪獣が、その動きを面白そうに目で追う。
カンナはまた笑った。
白い怪獣は、カンナの後をついてきた。
正確には、カンナの持つカメラの後をついていた。録画を始めれば近づき、止めれば不満そうな顔をする。
カメラが好きなのか、光が好きなのか。試しにカメラを伏せて腕時計の文字盤を朝日へ反射させると、怪獣の顔がそちらを向いた。
「……光か」
小さな鏡でもあれば、簡単に誘導できそうだった。
カンナは森の中を少しずつ進んだ。来る前に読んだ旅のしおり、そこに載っていた地図が正しければ山の斜面を下れば水場へ出る可能性が高い。湖へ戻れればキャンプ場の位置も分かる。白い怪獣も、昨夜から同じ方向へ進もうとしているように見えた。
森の奥には、人工物の痕跡が残っていた。崩れた石段。半分土へ埋もれた道標。錆びた金属の杭。
そして苔に覆われた石像と、石の水飲み場があった。上部には浅い窪みがあり雨水が溜まっていて、周囲には倒れた石柱が散らばっていた。
……昨日、アヤノが話していた祠だろうか。石像のデザインは鬼を連想させたが、鱗や顔の造形はどことなく白い怪獣に似ていた。
白い怪獣は石の台へ近づき、鼻先を窪みへ寄せ溜まった水を舐めるように飲む。朝日を受けた白い背中が木漏れ日の中に浮かんでいる。
カンナは黙って録画を続けた。
昼近くになると森は蒸し暑くなり、カンナの喉は渇いて脚も疲れていた。
白い怪獣は平気そうに歩いている。ときどき木の実や草の匂いを嗅ぎ、気に入ったものだけを口にする。毒がないことを本能で見分けているのだろう。
「いいなあ、自給自足できて」
カンナはチョコバーと合わせて持ち出していた小さな水のボトルを少しずつ飲んだ。残りは三分の一。そしてスマートフォンのバッテリーは十一パーセントで圏外のまま。
いつもの配信と何かが違うと思ったとき、コメントが一件も来ていないことに気づいた。
当然だ。通知も、再生数も、登録者数もない。森の中にはカンナと白い怪獣しかいなかった。
いつも動画を撮るとき、カンナの頭の中には視聴者がいた。こんな言い方をしたらコメントが増える。ここで驚けば切り抜かれる。この角度ならサムネイルに使える。
一人でカメラへ話していても一千人の視線を画面の向こうに想像していて、本当は一人ではなかった。
最初にそれを教えてくれたのは、『大怪獣の真実』というポッドキャストだった。
小学生の頃、両親が帰ってくるまでの暗いリビングで、一人で何度も聴いたのをよく覚えている。
怪獣の目撃記録。政府の隠蔽。巨大生物災害の裏側。『大怪獣の真実』の中の人はバカげた怪獣の話をまったく笑わなかった。荒唐無稽な都市伝説として茶化さず、誰も信じない証言を、一つずつ真面目に拾い上げていた。
……ネットでなら怪獣の話をしてもいいのだとカンナは思った。
誰かに許されたわけではない。ただ、イヤホンの向こうの知らない声がそう言ってくれたような気がした。
そんな『大怪獣の真実』を聞いているうちに、カンナは自分でも話してみたいと思った。自分が調べて集めたことを、クラスで話したかったことを誰かに聞いてほしかった。タイトルは『大怪獣の真実』にリスペクトを込め、さらに自分の名前をもじって『大怪獣のカナリア』。炭鉱のカナリアのように皆から注目されて役に立つ存在になりたい、そんなことを思いながら。
動画配信を始めたいと言うカンナに両親は反対しなかった。マイクも買ってくれたし、照明も、編集用のパソコンも、撮影用のカメラも、カンナが欲しいと言ったものは大抵そろえてくれた。未成年が立ち上げたチャンネルの収益化には保護者の協力が必要だったが、その手続きにも嫌な顔一つせず付き合ってくれた。
ただ、動画はあまり見なかった。
「今度見るね」
「再生数、増えるといいね」
「必要な機材があったら言いなさい」
両親は優しい人たちで、けれど共働きで一生懸命働いていて忙しかった。
だから寂しいとは言いづらかった。見てほしいのは機材ではなくその機材で作ったものなのだとは言い出せず、登録者が増えればいつか振り向いてくれる気がした。
一千人になれば。
一万人になれば。
もっと有名になれば……そんなことばかり考えていた気がする。
物思いに耽っていたそのとき、白い怪獣がカンナの膝へ頭を載せた。
「重っ」
思わず声が出た。
怪獣は気にせず、そのまま目を閉じる。
「いや、寝るの?」
返事はなく、膝の上で怪獣は眠りこけてしまったのでカンナは動けなくなった。
カメラを持ち上げる。撮るなら今だった。伝説の怪獣が人間へ完全に心を許して眠っている。映像としてこれ以上ないものだ。
画面の中へ白い顔を収め、録画ボタンへ指を伸ばす。
……だが、押せなかった。
録画を始めれば、赤い光に反応して起きるかもしれない。
昨夜からずっと森を歩いてきたのだ。疲れているだろう。そう思うと無理に起こす気にはならなかった。
「……まあ、あとでいいか」
カメラを伏せ、怪獣の呼吸が膝へ伝わってくる。
コメントは流れず、誰も見ていないのに、カンナは退屈しなかった。
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