白い怪獣が眠っているあいだ、カンナは撮影済みの映像を見返した。
暗闇から現れた顔。録画ランプへ鼻先を寄せる姿。チョコバーを受け取る前脚。鼻息でレンズを曇らせ、自分の笑い声が入っている場面。
公開したあとのことを想像した。
最初は再生数のことだった。一時間で十万。一日で百万。ニュースサイトに転載され、海外へ翻訳されるだろう。
次に、場所を特定する人間が現れるはずだと思った。映像に映った樹木。地形。古い祠。カンナが投稿してきた旅行の記録。ネットの特定班なら数日もかからないかもしれない。
そして見物人が来る。スマートフォンを持った人々が、森へ入る。餌を投げ、声を上げ、近くで撮ろうと追い回す。
怪獣専門チャンネルが殺到する。
テレビ局がヘリを飛ばす。
研究機関が捕獲を求める。
猟友会どころではない何かが、白い怪獣を捕まえようとする。
目の前で眠っている無邪気な生き物が、暇を持て余した世界中の人間の玩具になる……。
そこまで考えてカンナは映像を止めた。なんだか嫌な気分がしたからだ。
公開しなければいい。簡単な話だ。
だが、映像は人生最大のスクープだった。それはカンナが何年も待ち望んできた本物で、一千人まであと少しの自分へ怪獣のほうから歩いてきたような奇跡だ。公開しない理由などない。
バトラとツグミの約束を思い出す。ツグミは「公開できない」と言っていたが、思い返してみればそんな約束はしていない。バトラの戦闘に関わる映像についてはたしかに許可がいるが、こうして偶然出くわした白い怪獣についてはまだ何も約束していない。
撮ったのは自分だ。見つけたのも自分。映像は自分のもの。
そう考えたとき、膝の上の怪獣がもぞもぞと寝返りを打った。白い前脚が、カンナのパーカーを軽くつかむ。離れないようにするような仕草だった。
「……ずるいなあ、君」
カンナは再生画面を閉じ、そして自分も目を閉じた。
それから目を覚ましたとき、カンナは自分も眠っていたことに気づいた。
太陽の位置が変わっていて、白い怪獣はもう膝の上にいなかった。
「え」
慌てて立ち上がる。
「どこ?」
白い尾が、木々の向こうへ消えた。
「待って!」
追いかける。
怪獣は逃げているわけではなかった。一定の距離を保ちながらカンナがついてくるのを待っている。
斜面を下るにつれて水音が聞こえてきた。水辺が近いのだ。
進むにつれて木々の隙間が明るくなり、その先に青い水面が見えた。
「湖……!」
カンナは足を速めて森を抜けた。
広い湖が、午後も遅い日差しを反射していた。
見覚えのある対岸。キャンプ場の桟橋。遠くに並ぶ色とりどりのテント。
戻ってきた。
森を抜けた途端に、スマートフォンが立て続けに震え始めた。
「!」
一度ではない。画面上部の「圏外」が消えてアンテナが立つと同時にぶぶぶぶぶと手の中で暴れまくり、大量の通知が雪崩れ込んできた。
不在着信だ。
ヤマナシさん、十二件。
ツグミとアヤノ、二十一件。
「二十一!?」
メッセージアプリを開く。
〈カンナ、どこ?〉
〈返事して〉
〈怒ってないから〉
〈お願いだから返事して〉
〈いまどこ?〉
〈カンナちゃん、無事?〉
ネット上には一千人の登録者がいるけれど、カンナ一人が消えたことに気づいて二十一回も連絡をくれた人間はこれまでいなかった。
胸の奥が妙に詰まったあと、すぐに我に返ったカンナは慌てて発信ボタンを押した。
ツグミはワンコールで出た。
『カンナ!?』
「あたし! 生きてる!」
『いまどこ!?』
「湖! 湖にいる! たぶんキャンプ場の反対側!」
『怪我は? 動ける? 一人?』
「怪我ない! 動ける! あと、一人じゃなくて……」
カンナは横を見た。
白い怪獣は湖畔に立って水面を見ていた。風を受け、身体の両脇の皮膜がわずかに広がっている。
「……説明すると長い!」
『分かった。そこから動かないで。絶対だよ』
「う、うん」
『ほんとに動かないでね』
「分かってるって!」
カンナがいないことに最初に気づいたのは、アヤノだった。
朝、目を覚ますと、隣で寝ていたはずのカンナの寝袋が空だったらしい。
最初はトイレだと思い、十分待ち、二十分待ち、戻ってこないことに気づくとやがてわたしを起こした。
「ツグミちゃん。カンナちゃんがいない」
そこからは速かった。
ヤマナシさんが施設スタッフを起こし、バトラが周辺の気配を探る。カンナのスマホは圏外で電話をかけてもつながらず、メッセを投げても既読がつかない。
配信用のカメラとスマホは持っているようだったが、どちらも肌身離さず持ち歩いているものだから実質丸腰も同然だ。
靴跡は管理棟のトイレの脇から森へ続いていた。
「何やってるの、あの馬鹿……!」
怒鳴ったところで返事はない。怒っているのか、怖いのか、自分でも分からなかった。
バトラは地面の痕跡を見ながら言った。
「一人ではないな」
「どういうこと?」
「大きな四足の足跡がある。カンナと同じ方向へ進んでいる」
「追われたの?」
「分からん。走った跡ではない」
足跡は途中で岩場へ入り、消えていた。
そこへ麓の管理事務所から連絡が入った、とヤマナシさんが言った。
「早朝、林道を走っていた軽トラックの運転手が、クマより大きな白い動物を目撃したんだって」
地元では白化したツキノワグマではないかという話になり、猟友会が出動準備を始めているという。
「止められないんですか」
わたしが訊くと、ヤマナシさんはスマートフォンを耳に当てたまま眉を寄せた。
「理由がない」
「怪獣かもしれないんですよ!」
「それを説明したら、もっと大勢来る」
「じゃあ適当な理由を作って」
「やってるよ」
声から、いつもの軽さが消えていた。
「林道は土砂崩れの危険ありで封鎖。報道には獣害の可能性なしと流す。キャンプ場の客はガス設備の点検で下山させる。君らの教育局キャンプは書類上もう撤収済み」
「猟友会は?」
「地元の人たちだ。誰かが襲われる前に動こうとしてる。警察でも軍でもないからこっちの権限で強制的には止めにくい」
悪い人たちではない。
だから厄介なのだ。人を守るために動いていて怪獣のことを知らない。白い獣とやらの正体がわからない以上、そいつが人を襲わない保証もない。
こちらが事情を隠している以上、責めることもできない。
「サカキさんたちは?」
「麓から入ってる。ただし銃を持った猟師が散らばってる山で、Gフォースを派手に動かすわけにはいかない。バトラちゃんも上空から目立つ動きは避けて」
「分かった」
バトラは短く答え、森へ入ろうとした。
「待って」
アヤノが呼び止めた。
腕には、古びた紙の束を抱えていた。
「これ、使えるかもしれない」
別荘から持ち出してきた、昔の地図だった。
現在の観光案内図ではない、道路も別荘地も造られる前の山が描かれた地形図だ。沢、獣道、古い参道、祠の位置が、手書きで細かく記されている。
こんなものをいったいどこで。
「おじいちゃまの書斎にあったの。昔の工事資料と一緒に」
「アヤノ、いつの間に?」
「みんなが電話してるあいだ」
アヤノは地図を地面へ広げた。
「神さまの祠はここにあったみたい。昨日カンナちゃんが話してた絵と形が同じだった」
指先が山中の印をなぞる。
「祠の近くには沢がある。この道は今は使われてないけど湖まで続いてる」
「カンナがそこへ行ったってこと?」
「分からない。でも、夜の森で迷ったら、下りやすいところへ進むと思う。水の音が聞こえたら、たぶんそっちへ行く」
バトラが地図をのぞき込んだ。
「足跡が消えた方向と合う」
「じゃあ、この沢を探せば……」
「ああ。わたしも一緒に行く」
アヤノが地図を持ち上げた。
「わたしが道を案内する」
「アヤノは残って」
反射的にそう言って、アヤノの手が止まるのが見えた。
「どうして?」
「危ないから」
「道が分かるの、わたしだよ」
「地図を貸してくれれば……」
「古い地図だよ。今の道と違うところもある。おじいちゃまのメモを読まないと分からない」
「でも」
「カンナちゃんがいなくなったの、最初に気づいたのもわたし」
声は穏やかだったけれど、譲る気はないと分かった。
「連れていって」
海のときのアヤノは待ってくれて、何も訊かずにホテルで戻りを待っていてくれた。
今度は自分から来て、カンナがいなくなったことに気づいた。
それなのにわたしときたら、また「危ないから」と仲間外れにしようとしている。
「……分かった」
答えると、アヤノは小さく頷いた。
古い参道は、ほとんど森へ戻っていた。
石段は土と苔に埋もれ、ところどころ崩れている。
アヤノが地図と周囲を見比べ、進む方向を決める。わたしは先へ行き、通れるかを確認する。バトラはアヤノの見ている前で飛ぶことは出来ないので、離れて歩きながらカンナと怪獣の気配を探した。
「こっち」
アヤノが沢の分岐を指す。
「左じゃないの?」
「左は昔の林道。工事で崩してる。右の沢沿いなら、祠の跡へ出ると思う」
「どうして分かるの」
「おじいちゃまの字で、『工事後は通行不可』って書いてあるから」
古い地図には、細かな書き込みがあった。
祠移設予定。
水脈注意。
地盤脆弱。
住民説明未了。
観光地のパンフレットには載らない言葉ばかりだった。
しばらく進むと崩れた石段が現れた。その先に、苔むした石の台。
「ここ……!」
アヤノが息を弾ませる。
石の窪みには水が残り、周囲の土には大きな獣の足跡があった。それに並んで小さな靴跡もある。
「カンナのだ」
胸が強く鳴った。
「ここにいた。方向は……」
足跡は沢沿いに続いていて、湖へと向かっていた。
「読み、合ってた」
わたしが言うより先に、スマートフォンが鳴った。
画面に表示された名前を見た瞬間、わたしは即座に電話へ出た。
「カンナ、今どこ!? 湖? 反対側? 怪我は? 動ける? 一人? ……分かった。そこから動かないで。絶対だよ」
電話を切ったとき、わたしは全身から力が抜けた。
「生きてる。湖の向こう側にいるって」
「よかった……」
思わず、その場にしゃがみ込みそうになる。
捜索は終わった。ヤマナシさんへ無事を伝え、合流地点を決めて、みんなが一斉に動き始める。
その横で、アヤノだけが少し遅れて地図を丸めていた。紙は古く、うまく元の形へ戻らない。
「アヤノ、行こう」
「うん」
彼女は笑った。
「よかったぁ。ほんとに」
カンナが見つかった安堵で、わたしはそれ以上何も考えなかった。
湖畔へ着いて合流したとき、カンナは全身泥だらけで立っていた。
パーカーには葉がつき、髪には小枝が絡まり、目の下には濃い隈がある。
「カンナ!」
わたしが駆け寄ると、カンナは即座に頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「最初にそれが言えるなら、なんで森へ入ったの!」
「配信者の血が!」
「抜いてもらって!」
「痛そうだから嫌!」
「契約違反だ」
「すいません、本当にもう二度としません!」
怒りたいことは山ほどあったが、本人が生きて立っているのを見たら声が震えて言葉にならなかった。
「馬鹿……」
「うん」
「ほんとに馬鹿」
「はい」
カンナも少しだけ、泣きそうな顔をした。
アヤノが近づき、何も言わずにカンナの肩と腕を確かめる。怪我がないことを確認してから、ぎゅっと抱き締めた。
「心配したよぉ」
「……ごめん」
今度の声は、小さかった。
感動の再会を果たしたところで、わたしはカンナと一緒に現れた“そいつ”について訊ねた。
「……で、そいつはなに?」
クマよりも大きい。チタノザウルスとは比べるべくもないが、近くで見ると馬ほどの身体がある。四足で立ち、長い尾を湖畔の草の上へ伸ばしている。
白い体に、胴の両側には折り畳まれた皮膜。カンナに見せられた古い絵に描かれた婆羅陀魏山神と同じ姿だった。
「この子が、バラダギさま?」
「バランだ」
バトラの声には、わずかな驚きがあった。
「怪獣の中でも古い血族だ。こいつはその末裔だろう」
「怪獣の中でも名家ってこと?」
「まあ、そのようなものだ」
白い怪獣、バランはバトラを見ると身体を低くした。
遊び相手を見る反応ではない。
警戒。恐怖。
バトラは両手を見せて敵意が無いことを示しつつ近づいてゆくと、バランも警戒を解いて自ら歩み寄った。
「怖がらなくていい。わたしは敵じゃない」
そう言ってバランを撫でるバトラの様子を見ているうちに、わたしは思い当たることがあった。今回のキャンプの目的は湖にいる怪獣を守ることだ。ということはこのバランこそが、その湖の怪獣なのだろうか。
「この子、狙われてるの?」
「おそらくな」
「どうして。こんな小さいのに……?」
「小さいから弱いとは限らん」
バトラはバランを見た。
「こいつの血は古い。身体の大きさよりずっと長いものを持っている」
言っている意味はよく分からなかったが、とにかく価値があるものだということはわかった。
カンナはバランの首へ手を置いた。白い鱗の上で指がかすかに震えていたが、バランを落ち着かせるように言って聞かせていた。
「大丈夫、バトラがいるから」
そのとき、湖面が持ち上がった。
波ではない。風もないのに、水の中央がゆっくりと膨れ上がる。
湖の底から、巨大な何かが背中で押しているように。
「…………!」
水鳥が一斉に飛び立ち、バランの身体が硬直する。
喉の奥から漏れたのは、朝までカンナへ甘えていた子供の声ではなかった。太古から追われてきた獣だけが知る、鋭く、長い怯えの声だ。
バトラが立ち上がり、湖の中央で水が割れた。
「下がれ」
バトラの赤い瞳が、細くなる。
「来るぞ」
好きなキャラは?
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バトラ
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ツグミ
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カンナ
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アヤノ