黒いモスラの魔法少女   作:よよよーよ・だーだだ

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12、湖のひみつ

 そのものは、長いあいだ湖の底にいた。

 

 冷たい水のいちばん深いところで、そのものは上の世界を聴いていた。

 今回狙ったのは小さな獲物だ。哺乳類ほどしかない、小さな獲物。

 

 だが、血が古い。古いものは、濃い。何万年ぶんも煮詰めた血の熱量が、あの小さな身体にまるごと詰まっている。大きさは問題ではない。濃さだ。あれ一匹は並の怪獣の群れに値するとそのものは考えた。

 

 紫の光のことも、知っていた。

 水棲類のわたし(Aquatilis)が、海でぜんぶ測ってきた。光の波長。飛び方の癖。連射の間隔。力を溜めるときの無防備な一拍。風を呼ぶ老いた餌に助けられたことも、空を飛ぶ小さな羽虫に見張られていたことも、三と一の拍を読まれていたことも。

 ぜんぶ、知っている。両生類のわたし(Amphibia)は水から上がることができる。

 

 今度のそのものは殺し方だけでなく、殺され方も知っていた。

 

 

 湖の中央が割れて、最初に見えたのは背中だった。

 濡れた岩のような焦げ茶の突起が、水面を押し上げる。続いて細長い頭部が現れ、湖水を滝のように垂らしながら持ち上がった。

 

 上陸したその姿はゴジラ=アクアティリスの同類であることは一目でわかったが、一方で明らかな違いもあった。

 太い前脚が湖底を踏み、胴体を水面から引き上げる。肩から脇腹にかけて、ぬめった膜状の組織が広がっていた。長い尾が水中でひと振りされると、桟橋へ届くほどの波が走る。

 湖にいたはずの怪獣が、こちらへ歩いてくる。

 バトラの顔からほんの一瞬だけ表情が消えた。

 

「……上がってくるのか、おまえ」

 

 前に倒したゴジラ=アクアティリスは水から引きずり出されたことで負けたが、今度のこいつは最初から陸へ上がる身体を持っている。前のゴジラ=アクアティリスが水棲類なら、今度のこいつは両生類だ。

 ゴジラの瞳は、最初からバランだけを見ていた。捕食者の目だ。焦げ茶の巨体が浅瀬へ入る。その前脚が水底を踏むたび、湖面が大きく揺れる。

 

「ゴジラ=アンフィビアだ」

 

 バトラが低く言った。

 

「下がれ。全員、森へ走れ」

 

 ゴジラ=アンフィビアの身体の半分が陸へ乗り上がったところでバトラが変身した。額に角が伸び、黒い翅が開いて、黄色い紋様が夕暮れの湖畔へ鋭く浮かび上がる。

 その隣でアヤノが息を呑む音がした。

 

「……バトラちゃん?」

 

 返事をする暇もなく、バトラは湖へ飛び出していく。

 アヤノは空へ消えた黒い影を見上げ、それから、わたしを見た。

 問いかける目だった。

 

「……ツグミちゃん、知ってたの?」

 

 誤魔化す言葉だけならすぐにいくつも浮かんだけれど、でももう何を言っても無理だと悟った。

 それでもわたしは誤魔化すことしか出来なかった。

 

「説明は、あとで。いまはとにかく逃げよう」

 

 わたしがそう言うとアヤノはしばらく黙っていたけれど、やがて口を開いた。

 

「……そっかぁ」

 

 いつもの言葉だったけれど、いつもの声ではなかった。

 わたしはカンナの腕をつかんだ。

 

「行くよ、カンナ!」

「でも、バランが!」

 

 バランは動かなかった。カンナのそばで身体を固くし、湖から現れた怪獣を見つめている。逃げ方を忘れてしまったようだった。

 

「バラン!」

 

 カンナが首筋を押す。

 

「森! 昨日のところ! 早く!」

 

 鼻先を森へ向けても、一歩も出ない。

 ゴジラ=アンフィビアが低く喉を鳴らし、その声を聞いた瞬間バランの身体がさらに固まった。子供なのだ。馬ほど大きくて、山の神さまと呼ばれていても、怖いものは、怖いのだ。

 そのとき、湖の反対側からサイレンが聞こえ、木々の間を迷彩服姿の人たちが走ってくる。

 

「民間人を管理棟へ退避!」

 

 先頭のサカキさんが叫んだ。

 

「第二班、白色個体を森側へ誘導! 刺激するな!」

 

 ヤマナシさんがわたしたちのところへ駆けてきた。

 

「三人とも管理棟へ! バトラはサカキさんに任せる!」

「でもバランが!」

「バランは俺たちが何とかする。君らが残る理由にはならない!」

 

 いつにない剣幕にカンナの顔が強張りながらも頷いて、わたしたちは管理棟へ向かって走り始めた。

 バトラはゴジラ=アンフィビアの頭上へ回り込み、額の角が赤く光り始めた。

 走りながらカンナが言う。

 

「いきなり最大出力?」

「湖へ戻られる前に仕留めるつもりだ」

 

 チタノザウルスを守ったときと同じだ。敵を浅い場所へ誘い、動きが鈍った瞬間に上空から焼く。バトラが空中で静止し、角の光が膨らむ。

 ゴジラ=アンフィビアも動きを止めた。まるで、撃たれるのを待っているように。

 嫌な感じがした。

 

「……バトラ!」

 

 わたしが叫んだのと、アンフィビアが口を開いたのはほとんど同時だった。

 水鉄砲だ。圧縮された水の塊が、砲弾のように空へ撃ち出された。

 バトラは身体を捻って直撃は回避したけれど、避けた先へ尾が振り上げられた。

 

「ぐっ……!」

 

 太い尾が黒い翅の付け根を打ち、鈍い音がした。

 バトラの身体が、空中で折れるように回転する。湖岸の草地へ叩きつけられ、土が噴き上がった。

 

「バトラ!」

 

 駆け出しかけたわたしの前へ、ヤマナシさんが腕を出した。

 

「行くんじゃない!」

「でも!」

「君が行ってどうする!」

 

 いつものヤマナシさんとは違って、へらへらした調子ではなかった。

 

「バランもバトラもGフォースが何とかする。君らは逃げるんだ」

 

 湖の反対側から、サイレンが聞こえる。木々の間を、迷彩服姿の人影が走ってくる。先頭にいたのはサカキさんだった。

 

「民間人を管理棟へ退避させろ!」

 

 短い命令が飛ぶ。

 Gフォースの隊員たちが湖畔へ展開し、銃器ではなく、大型の音響装置を設置し始めた。

 

「猟友会は?」

 

 ヤマナシさんが訊き、サカキさんが答える。

 

「うちのタニ少佐が林道の手前で止めてます。付近で地滑りの兆候ありと通告しています」

「信じた?」

「半分は。残りは部下が身体で止めています」

「あとで怒られるねえ」

「あなたもですよ、管理官」

 

 そう答えながら、サカキさんは湖を見た。

 バトラが、地面へ片膝をついている。翅の片方が不自然に垂れていた。

 

「あれは、前の戦闘を学習しているのか」

「そうみたいだ」

「なら、同じ手は使わせるな」

 

 サカキさんが手を上げる。

 音響装置が一斉に作動した。人間の耳には低い振動としてしか聞こえない音が湖面を震わせる。ゴジラ=アンフィビアが顔を上げ、わずかに進路を変えた。

 木々の間を迷彩服姿の人たちが走ってきて、メーサーライフルをかまえた。標的は湖畔のゴジラ=アンフィビアだ。

 

「メーサー、放て!」

 

 携行型のメーサーライフルからメーサー光線の電光が撃ち出され、ゴジラ=アンフィビアの体表を舐めた。

 焦げた音と匂いが立ち込める中、ゴジラ=アンフィビアはのたうち回りながら水弾を撃ち出して反撃する。

 

「散開しろ!」

 

 Gフォースが気を惹きつけているその隙に、バトラが立ち上がる。歯を食いしばって垂れた翅を無理やり開くけれど、飛べそうにはない。

 ゴジラ=アンフィビアはバトラを見なかった。もう脅威ではないと判断したのか、本来の標的である白いバランへ向き直る。

 

「逃げて!」

 

 カンナがバランの首を押してバランは一歩動いたが、アンフィビアがまた喉を鳴らした途端に脚が止まった。

 第二班の隊員が森側から近づこうとする。

 

「白色個体をこちらへ……」

 

 その直後ゴジラ=アンフィビアが前足を振り、水弾が地面へ叩き込まれた。

 爆発したように土砂が吹き上がる。

 

「伏せろ!」

 

 ヤマナシさんの合図でわたしはアヤノと一緒に地面へ倒れた。地面が爆裂する轟音で耳の奥が鳴る。

 顔を上げたとき、さっきまで続いていた湖岸の道がなくなっていた。水弾で抉られた地面に水が流れ込み、深い溝になっている。

 こっち側にわたしとアヤノとヤマナシさん、向こう側にカンナとバランが取り残されている。

 ヤマナシさんが叫ぶ。

 

「動くな、今そっちへ行く……」

 

 すぐにGフォースの隊員が腕を掴んだ。

 

「管理官、待ってください!」

「離せ!」

「また撃たれます!」

「向こうに子供がいるんだよ!」

 

 ヤマナシさんが腕を振り払おうとするのと同時、サカキさんが無線へ叫んだ。

 

「救難班、北側から回れ! 煙幕を張れ!」

〈北側、倒木で塞がれています!〉

「切り開け! 急げ!」

 

 でもゴジラ=アンフィビアは、もう近かった。

 バランと共に水際の岩場へ追い詰められながら、カンナは周囲を見た。右にはゴジラ=アンフィビア。逃げ道は崩れていて渡れない。

 バトラは再び飛ぼうと黒い爪で地面を掻くが、傷ついた翅が身体を持ち上げられない。

 

「待て、そいつに触るな……!」

 

 けれどゴジラ=アンフィビアは止まらない。大きな口が、ゆっくり開く。

 

 

 ツグミたちは向こう側にいて、カンナはこちら側に取り残されている。

 目の前にはゴジラ=アンフィビアがいて、隣のバランを今にも食べようとしていた。

 どうすれば、と考えたときカンナの右手にはカメラがあった。中には、森の中で一晩撮り続けた映像が入っている。

 白い怪獣が暗闇から現れる瞬間。

 チョコバーを受け取る小さな前脚。

 膝へ頭を載せて眠る姿。

 五十年以上、誰も撮れなかった人生最大のスクープ。

 左手には、撮影用の強力なLEDライトがあった。ライトの横で、小さな録画ランプが赤く点いている。

 カンナは一瞬だけ、カメラを見た。

 ……本当に一瞬だけ、データのことを考えた。これが壊れたら。今まで撮ったものが全部なくなったら。

 そんなことを考えてしまった自分に、腹の底から苛立った。

 

「……最悪」

 

 誰にも聞こえない声で舌打ちする。

 目の前では、バランが動けずにいる。

 昨夜、赤い光を追って森を歩いた子供の怪獣。チョコバー一本で懐いた、山の神さま。

 

 カンナの見たところ、ゴジラ=アンフィビアの容姿はどこかバランに似ていた。容姿が似ているなら習性も似ているかもしれない。光へ反応するバランを追ってきたのなら、ゴジラ=アンフィビアもまた視覚的な刺激に惹かれるかもしれない。

 確証はないし、考えている時間もない。

 カンナはLEDライトを最大出力へ切り替えた。昼間のような白い光がちかちかと湖畔に弾ける。

 

「こっちだ!」

 

 カンナは、バランとは逆の方向へ走り出した。

 

「おい、でくのぼう!!」

 

 ゴジラ=アンフィビアの目がぎょろりと蠢き、カンナのカメラへ向いた。

 黄色いパーカー。強いフラッシュ。ゴジラ=アクアティリスを観測し、次の攻撃を助けた存在。

 優先順位が一瞬だけ変わり、ゴジラ=アンフィビアはカンナを追った。

 

「カンナ!」

 

 ツグミの声が聞こえたが、カンナは振り返らなかった。

 走る。地面は草と泥が混ざり、足を置くたび滑る。肩にかけたバッグが跳ね、カメラが胸へぶつかる。

 

「あのバカ……!」

 

 サカキの声が飛ぶ。

 

「全隊、少女を援護! 低出力メーサー、脚部! 閃光弾は反対側へ! 絶対に本人へ当てるな!」

 

 対岸から放たれたメーサー光線がゴジラ=アンフィビアの鼻先で炸裂した。青白い雷光がアンフィビアの後脚へ走り、Gフォースの閃光弾が反対側で弾けて、煙幕が湖畔へ流れ込む。いずれもダメージにはならないが、それでも顔が一瞬だけ横を向く。

 だが所詮は時間稼ぎだ、長くはもたない。

 迫るゴジラ=アンフィビアを背に、カンナは死に物狂いで走った。百メートル十八秒台、セルヴァムはそれより速いという。加入した日にバトラから言われたことだ。逃げろと言われたら機材を捨ててでも逃げるという約束をして、あのときの自分は一秒だけ回収する時間をくれと頼んだ。

 Gフォースを振り切ったゴジラ=アンフィビアの足音が近づく。地面が揺れ、背後から生臭い息が届く。

 

 カンナは一秒も使わなかった。

 

 肩からカメラを外し、LEDライトをつけたまま横手の岩場へ投げた。

 フラッシュを焚くカメラのライトが宙で弧を描き、それに引き寄せられてゴジラ=アンフィビアが進路を変えた。

 巨大な前脚が振り下ろされ、カメラが鈍い音を立てて潰れた。レンズが砕け、外装が折れる。何年も欲しがって誕生日と次の誕生日をまとめる約束で買ってもらったカメラだったが、カンナは見ないまま走った。

 そして次の一歩で泥に足を取られた。

 

「わっ!?」

 

 身体が前へ投げ出され、手のひらと膝を地面へ打つ。

 起き上がろうとした頭上で、ゴジラ=アンフィビアの影が膨らんだ。

 

 間に合わない。

 

 そう思った刹那、白い影が横から飛び込んできた。

 

「え……」

 

 バランが、皮膜を広げていた。

 森にいたときには折り畳まれていたものが、前脚から胴体にかけて大きく張り出している。

 湖岸の傾斜を駆け上がり、岩を蹴り、風へ身体を預ける。

 

 白い身体が低く滑り、ゴジラ=アンフィビアの首へ全身でぶつかる。

 体格差は圧倒的だったが、それでも不意を突かれたアンフィビアの頭が大きく流れ、前脚がカンナの身体から逸れた。

 

「バラン……!」

 

 白い子供は地面へ転がり、そのまますぐに立ち上がろうとする。怖いはずだ。脚が震えている。だけどそれでも逃げなかった。

 ゴジラ=アンフィビアが怒りの声を上げ、バランへ向き直る。

 

 その正面へ、黒い影が滑り込んだ。

 

 バトラだった。

 湖面すれすれを、まっすぐに飛んでいる。傷んだ翅で高度が取れないのだ。だから避けようがない高さを、避ける気もない速さで来ていた。

 ゴジラ=アンフィビアが向き直る。

 湖から上がってくる小さな飛行体。昨日、水の中から観測者を撃ち落とした要領で、この形態は飛ぶものへの反応がいちばん速い。

 

「バトラ、正面は……!」

 

 ツグミの声が終わらないうちに、ゴジラ=アンフィビアの顎が開いた。

 迎え撃つのではない。咥えたのだ。

 

 黒い翅が、赤黒い口腔の奥へ消えた。顎が閉じる。牙が噛み合う音が、湖畔じゅうに響いた。

 

「バトラ……っ!!」

 

 ツグミの悲鳴が上がる。

 カンナは泥の中で息を止めていた。

 ゴジラ=アンフィビアは、喉を鳴らして頭を持ち上げた。呑み込んだ獲物を体内の奥へ送り込む動きだ。呑んだ、と誰もが思った。

 だから、その一秒後に起きたことを、その場の全員が理解できなかった。

 

 ゴジラ=アンフィビアの喉が、内側から光った。

 

 マゼンタだった。二条、三条、五条。喉から胸へ、胸から腹へ、光の筋が皮膚の下を走り、そのたびに赤黒い体表がひび割れて、隙間から色が噴き出す。

 巨体が痙攣した。嘔吐(えず)きながら吐き出そうとして、上手くできない。噛み砕こうとして、届かない。メーサー光線を弾く装甲も、バトラを撃ち落とす水弾も、すべて体外へ対処するための武装で、体の中に入り込まれた時の備えなどゴジラ=アンフィビアは何も用意していなかった。

 ゴジラ=アンフィビアの皮膚の内側を光が走る。首から胴へ。胴から四肢へ。茶色の身体が、内側からひび割れていく。

 

「――――――……ッ!!」

 

 やがて、体内から放たれたプリズム光線の一撃がゴジラ=アンフィビアの体を撃ち抜く。顎の下から後頭部まで一本の太い光が焼き貫き、開いたままの口の中から黒い影が飛び出した。

 ゴジラ=アンフィビアの咆哮が途中で途切れ、そのまま湖岸へ倒れて水と泥が高く跳ねたかと思うとゴジラ=アンフィビアの死骸が光り始めた。

 二つ、十、百。巨体の内側から無数の赤い塵が吹き出し、夕暮れの湖畔へ舞い上がって、空に溶けて消えてゆく。

 やがてゴジラ=アンフィビアの巨体は、赤い塵となって完全に崩れていった。

 

「…………っ」

 

 しばらく、誰も動かなかった。湖面の波だけが岸へ押し寄せてくる。

 バトラは片膝をついた。傷ついた翅がゆっくり閉じていく。頭からつま先までぬめった何かをかぶっていて、このあとは風呂に直行だなと思った。

 

「……終わった?」

 

 ツグミが訊くと、息を整えながらバトラは答えた。

 

「こいつはな」

 

 カンナは、泥の中に座り込んでいた。手のひらが擦り剝け、膝から血が滲んでいる。

 けれど、痛みより先に、潰れたカメラが目へ入った。銀色のレンズは砕け、液晶は蜘蛛の巣のように割れており、外装の隙間から基板が見えた。修理という言葉が浮かび、すぐに消えた。

 もはや直すとかいう次元の壊れ方ではない。

 

「…………。」

 

 バランがそばへ近づく。大きな瞳で壊れたカメラを見下ろすと、前脚を伸ばして爪の先端でそっとつついた。

 部品が一つ、ころりと落ちた。

 

「やめて。とどめ刺さなくていいから」

 

 口から出た声は、自分で思っていたより普通だった。

 顔を上げたバランは不安そうな目をしていて、カンナは壊れた機材を見た。

 森で撮った映像。

 登録者百万。

 学校の連中の顔。

 父と母が、初めて最初から最後まで動画を見るかもしれない未来。

 全部、喪われた。

 そう思ったとき胸の中に確かに痛みがあった。

 カメラの値段は泣きたくなるほどの金額だったし、撮れた映像も何年も待ち続けた特ダネそのものだったはずだ。

 

 それでも、隣には白い怪獣がいる。鼻息でレンズを曇らせた子供が、生きてこちらを見ている。

 カンナは、ふいに噴き出した。

 

「……何、その顔。君が壊したんじゃないでしょ」

 

 バランが首を傾げ、また前脚でカメラをつつこうとする。

 

「だから、つつくなって」

 

 白い指先を押し返す。

 怪獣の皮膚は、思ったより温かかった。

 

「弁償は無理だよね。知ってる」

 

 バランが小さく鳴く。

 カンナは鼻を啜った。

 

「じゃあ、次に会ったとき、もう一回撮らせて」

 

 返事の代わりに、白い鼻先が額へ触れた。

 

 

 

 バランとの別れは、あっけなかった。

 日が落ちる前に山奥へ戻す必要がある、とバトラが言った。

 猟友会はまだ麓にいる。Gフォースが止めている間に、人の来ない旧参道の先へ逃がさなければならない。

 

「この子、一人で大丈夫なの?」

 

 カンナが訊くとバトラは淡々と答えた。

 

「元からこの山で生きていた。むしろこの方が良い」

「でも、またあいつが来たら……」

「次が来る前に、わたしが見つける」

 

 バトラはそう答えた。約束というより、決定事項を述べる口調だった。

 バランはカンナのパーカーの裾をくわえていた。

 

「離して」

 

 引っ張る。

 

 離さない。

 

「君、山の神さまでしょ。人の服を伸ばさないで」

 

 さらにくわえる。

 カンナは少し困った顔で笑った。

 それから、ポケットから小さなキーホルダーを取り出した。

 撮影バッグについていた金属製のチャーム。カメラの形をしていて、光を受けると銀色に輝いて、バランは思わず目で追っていた。

 

「これ、あげる」

 

 バランの前へ差し出す。

 白い前脚が、慎重に受け取った。チョコバーのときと同じだ。バランはチャームを胸元へ抱え、しばらく光を眺めていた。

 

「食べちゃ駄目だからね」

 

 カンナがそれをバランの首へと結わえ付けると、バランは鳴いて応えた。

 

「ほんとに分かってる?」

 

 やがて白い子供は、森のほうへ向いた。

 何度か振り返りながら木々の奥へ進んでいき、最後に尾根へ上がり、身体の両側へ皮膜を開いた。

 夕暮れの風が、白い身体を持ち上げる。

 羽ばたかずに、森の上を滑っていく。

 

 『山を渡る神』と呼ばれた理由が、少し分かった気がした。

 

 カンナは撮影しなかった。

 カメラがなかったからではない。スマホは残っていたから、その気になればスマホで撮れたはずだ。

 それでもカンナはただ肉眼で見送った。

 白い影は、山の向こうへ消えた。

 

 

 翌朝、ヤマナシさんは管理棟の一室で、今回の事件についての公式説明を読み上げた。

 

「昨夜から今朝にかけて報告された白い大型動物の目撃情報について、現地調査の結果、光線条件と距離による誤認であったことが判明した。対象はニホンカモシカと推定される」

「カモシカ?」

 

 ひそひそ声でカンナがぼやいたので、ヤマナシさんは答えた。

 

「いいの。世間は納得すれば」

「空飛んだって証言は?」

「斜面を跳んだカモシカが、角度によって飛んで見えた」

「馬くらい大きかったって」

「遠近感」

「白かったって」

「朝靄」

「鳴き声は?」

「山彦」

「万能だな、山」

 

 ヤマナシさんは資料を閉じた。

 

「猟友会には、危険な大型獣はいなかったと説明した。キャンプ場は設備点検を終えて明日から再開。湖の異常は局地的な地震によるもの。以上」

「ゴジラみたいなの、普通に湖から出てましたけど」

「見た人間はここにいる人と、Gフォースだけ。衛星画像はモナークが押さえた。音響装置の記録も回収済み」

「カメラも壊れたしね……」

 

 カンナは遠い目をした。

 サカキさんが、壁際に立っていた。

 

「今回の戦闘における民間人の独断行動については、別途報告します」

 

 サカキさんの言葉にカンナが反応した。

 

「独断行動って、あたし?」

「ほかに誰がいる」

「でも、その独断行動でバラン助かったし」

「結果が良ければ命令違反が消えるわけではない」

「命令される前に走ったんだけど」

「なお悪い」

 

 サカキさんは真剣な面持ちで言った。

 

「君の判断でバランが助かった、それは事実だ。だが、次も同じことをしろとは絶対に言わない。君が死んだらご家族にどう説明すればいい?」

「それは……」

 

 反論できなくなったカンナが、わたしの後ろへ隠れた。

 

「ツグミ、アヤノ、何とか言って」

「サカキさんが正しいと思う」

「わたしも~」

「裏切り者!」

 

 サカキさんはカンナを見た。

 昨日までの硬い表情とほとんど変わらない。

 

「……だが」

 

 言葉を切る。

 

「幼い命を救った判断そのものは、否定しない」

 

 それだけ言い、部屋を出ていった。カンナはしばらく扉を見つめた。

 

「……いま褒めた?」

「たぶん」

「もっと分かりやすく褒めてほしい」

「そういう人じゃないんだろうね」

 

 ヤマナシさんが苦笑した。

 

 

 帰る前、アヤノの家の別荘へ寄った。

 別荘という言葉から想像していたものより、ずっと大きかった。木と石で造られた二階建てで、湖を見下ろす広いテラスがある。

 カンナは壊れたカメラの修理費を調べながら室内で何度も悲鳴を上げていて、バトラは朝食の残りのパンを食べている。

 ヤマナシさんは電話で何かを説明していた。

 

 わたしがテラスへ出ると、アヤノが一人で湖を見ていた。手すりの上には昨日の古地図が置かれていて、丁寧に伸ばされ風で飛ばないよう石が載せてあった。

 

「ここにいたんだ」

「うん」

 

 意を決してわたしは口を開いた。

 

「……昨日、ありがと。アヤノの地図がなかったら、カンナを探す方向も分からなかった」

 

 アヤノは少し驚いたようにわたしを見た。

 

「でも、見つけたのは電話だったよぉ」

「それでも祠まで行けた。足跡も見つけたし」

「そっかぁ」

 

 笑った。嬉しそうにも見えたし、そうでもないようにも見えた。

 アヤノは地図へ目を落とした。

 

「この山ね、おじいちゃまの会社が拓いたの」

「聞いた」

「おじいちゃまがマルトモを買ったときには、もうホテルも道路もあったんだって。悪くなった森を直して、マルトモで働いてた人たちも雇い直して、ちゃんとしたリゾートにしたんだって、パパは言ってた」

「いいことしたんだね」

「うん。たぶん」

 

 湖から風が上がってくる。古地図の端が小さく震え、アヤノは森の向こうを見た。

 

「昔は神さまがいたんだって。祠があって、道があって、みんな知ってたのに。会社が変わって、持ち主が変わっても、なくなったものは戻ってない」

 

 わたしは何も言えなかった。

 アヤノの横顔は、いつもどおり穏やかだった。

 

「ごめんなさいって、誰が言えばいいのかなあ」

 

 湖面が朝の光を返していた。

 昨日、赤黒い怪獣が出てきたとは思えないほど静かだった。

 

 

 カンナが家へ帰ったとき、父も母もまだ仕事から戻っていなかった。キャンプで一晩迷子になった顛末は、このあとバランのことを伏せたうえでヤマナシから説明されるだろう。

 カンナは玄関の照明を点け、靴を脱いだ。広い家は静かだった。冷蔵庫には、母からのメモが貼ってある。

 

『おかえり。夕食は中』

 

 カンナはしばらくメモを見て、それから剥がさずにそのまま自室へ入った。

 机の上には、マイク、照明、音響機器、大型のモニター。欲しいと言って買ってもらったものばかりだった。

 電源を入れる。

 モニターが点いて、見慣れたクラウドのフォルダが開いて、カンナは固まった。

 クラウドのストレージには、新しいファイルが並んでいた。

 

MOV_0811_0233

MOV_0811_0234

MOV_0811_0235

 

「……う、そ」

 

 湖畔。電波。三本のアンテナ。あのときの着信の雪崩に紛れて、溜まっていたデータが勝手にバックアップしていたのだ。カメラのSDカードが死んでいたのは確認していたが、データはクラウドストレージ上で無傷だった。

 世界でただ一人カンナだけが持っている、山の神との一晩。

 

「……ある」

 

 思わず声が掠れた。潰されたと思った映像が、すべて残っている。

 暗い森で出会った瞬間。

 朝靄の中の白い鱗。

 チョコバーを受け取る手。

 膝で眠る顔。

 どの映像も、壊れる前のままだった。

 

 ……誰もこのことを知らない。

 バランはもう森の奥へ戻った。位置情報を消し、背景を加工し、声を変えれば、場所を特定されずに公開できるかもしれない。研究資料として保存するだけでもいい。自分だけの記録にしておけば、削除する必要はない。

 消さないでおくための言い訳はいくらでもあった。

 

 カンナは一つ目のファイルを開いた。

 暗い森の中で、白い怪獣が赤い録画ランプへ鼻先を寄せる。

 画面の外から、自分の震えた声がする。

 

〈……ほ、ほんもの……?〉

 

 二つ目。チョコバーを受け取ったバランが、初めて甘いものを食べて目を丸くする。笑い声が入っている。自分の声だったが、いつもの配信者Canaryの声ではない。

 三つ目。バランが膝へ頭を載せて眠っている。カメラは途中で伏せられ、映像の半分が草で隠れている。ただ、白い前脚と、ゆっくり上下する腹だけが映っていた。

 カンナの中で、公開用のタイトルが思い浮かんだ。

 

【独占】伝説の婆羅陀魏山神を発見

実在した白い古代怪獣

政府が隠した山の神

 

 どれも間違いなく伸びるだろう。これなら父も母も見るかもしれない。

 学校の人間も、怪獣界隈の有名配信者も、カンナがリスペクトする『大怪獣の真実』の中の人だって、自分の名前を知ってくれるかもしれない。

 見てほしかった。褒めてほしかった。すごいものを見つけた自分を、誰かに認めてほしかった。

 その気持ちは消えていなかった。

 

 けれど。

 

 カンナは三つのファイルを選択した。

 右クリックし、削除を選ぶと確認画面が出た。

 

『選択したファイルをゴミ箱へ移動しますか?』

 

 指が止まる。モニターの中では、白い怪獣が赤い光を見つめている。

 迷った末にカンナは「はい」を押し、三つのファイルがクラウドストレージから消えた。

 

 次に、別のフォルダを開く。

 名前は〈保険〉。

 河川敷で撮影したセルヴァムとの戦闘。空を飛ぶバトラ。囮として走るツグミ。海岸で撮った、黒い水着姿のバトラ。Gフォースの配置。

 契約の条件どおり消して見せた映像とは別に残しておいたコピーだった。

 ……いつか必要になるかもしれないと思ってとっておいたものだ。たとえばバトラたちと交渉が決裂したとき。チャンネルが本当に行き詰まったとき。決定的なスクープが必要になったとき。

 そういったときの保険として残していた。

 

 開いて、サムネイルの列をしばらく眺めた。紫の光。夜の海の、山みたいな影。青白いメーサーの網。

 特ダネ映像であるはずのそれらはいつのまにか切り札には見えなくなっていて、ただのこの夏の思い出に見えた。

 

 フォルダの中身を、すべて選択する。

 削除。ゴミ箱を開く。白い怪獣。紫電を操る黒い翅の魔法少女。画面の端で必死に走るツグミ。

 

『ゴミ箱を空にしますか? この操作は取り消せません』

 

 カンナは「削除」を押した。

 進行を示す小さな円が回り、数秒後には画面からすべてが消えた。

 

 カンナはスマートフォンを手に取り、ツグミたちとのグループチャットを開く。

 入力欄へ指を置く。

 

〈バランの動画、実は残ってたんだけど、〉

 

 そこまで打って、止まった。

 言えばツグミは驚くだろうし、アヤノだったら優しく褒めてくれるかもしれない。バトラは「そうか」としか言わないだろうけれど、それでもほんの少しくらい認める顔をするかもしれない。

 誰かに知ってほしかった。良いことをしたのだと褒めてほしい。そういう気持ちは無くもなかった。

 けれど。

 

「……やーめた」

 

 カンナは入力欄を空にし、そのままスマホの画面を閉じた。

 結局誰にも言わないことにした。部屋には、パソコンのファンが回る音だけが残った。




「空から飛んできた光るものを飲み込んで爆死」は「大怪獣バラン」の結末から引用したもの。

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