そのものは、陸上を闊歩しながら勘定をしていた。
海の大きな老いた個体は逃した。山の白い小さな幼体も。
黒い翅の個体が、どの角度から降りるか。光を撃つ前に、どこへ力を集めるか。地上の小さな生き物たちが、どの方向へ走り、黒い翅の個体をどう誘導するか。今の身体は、知っている。
海の老いた個体には水圧と長命の情報があり、山の白い幼体には薄い膜で空間を渡る情報があった。結局どちらも得られなかったが、まだ取り返しはつくとそのものは考えていた。
そのものが長らく求めてきたのは、古い血だ。
地上に棲むこの星の生き餌の中でいちばん濃いのはあの老いた海のもので、次があの白い古い血のもの。
そして今回
地の底は深い。日の射さない広い空洞で、滅びたはずの血統が滅びないまま煮詰まり続けている。地上の季節に削られず、地上の毒に薄められず、地殻の内側で長く保たれた形質は地上の稀薄な血とは出来が違う。
そしてあの恐竜は、その底から上がってきた存在だった。
迷子。なんと都合のいい迷子だろう、とそのものは脚を速めた。腹の底で勘定が疼く。海のぶん、山のぶん、これで取り損ねた勘定を取り返せる。
そのものはそう考えていた。
「第三防衛線、展開完了!」
「避難区域A、住民退避率七十二パーセント!」
「低い。消防と警察へ追加車両を回せ。徒歩避難者は南側高架下へ誘導しろ」
湾岸道路の先には、住宅地と物流倉庫が混在している。お盆休みは過ぎたが、まだ夏休みの昼過ぎだ。工場は稼働し、商業施設には家族連れが入り始めている。警報が鳴ったからといって、数万人が一斉に消えるわけではない。
怪獣は、その街へ向かっていた。
ゴジラ=テレストリスと呼ばれることになったその怪獣が市街地へ達するまで予測では九分で、Gフォースのサカキ=ハルオはその九分を十五分へ延ばそうとしていた。
遅滞戦闘、と教範は呼ぶ。
勝てない敵の足を一分でも一秒でも遅らせ、その時間で民間人を逃がす戦い方のことである。ゴジラ=テレストリスが市街地外縁へ入ってからのこの二時間、サカキ率いるGフォースの部隊は教範に載っている遅滞のすべてと載っていない工夫の全部を使っていた。
橋を落とした。道路を掘り返した。燃料で火壁を張った。メーサーの斉射で目を焼き、囮の照明車両を走らせて進路を東へ、東へと逸らし続けた。
どれもゴジラの進撃を止められはしなかったが、遅らせることはできた。奴が火壁を嫌って半周するあいだに、団地ひとつぶんの住民がバスに乗る。土手で足を滑らせるあいだに、病院の転院搬送が終わる。
我々Gフォースはゴジラに勝てないだろう。だが負け方なら選べるのだ。
「第五車両、前へ!」
無人装甲車が交差点へ進入する。荷台には高出力音響誘導装置が積まれていた。
地面を震わせる低周波がゴジラ=テレストリスの左側から放たれ、怪獣が頭を向けた。
「反応あり!」
「出力を上げろ」
音響装置が唸ると同時に、路面へ埋め込まれた爆薬が起爆した。
ゴジラ=テレストリスの左前方で道路が陥没し、巨体が足を止めた。
「進路を変えます!」
「北側へ追い込め!」
命令を出しながら、サカキは怪獣の視線を追った。
ゴジラ=テレストリスは、目の前のGフォースを見ていない。砲撃や音、爆発にも反応はするが目的は変わっていなかった。
何度進路を逸らしても少し歩けば元の方向へ戻ろうとする。
「奴は何が狙いなんだ……?」
報告によればゴジラ=アクアティリスはチタノザウルスを、ゴジラ=アンフィビアはバランを狙ったという。しかし今回の進行方向は都市部だ。今回のゴジラ=テレストリスは、一体なにを求めているというのか。
「中佐! 目標、市街地外縁まで、あと四キロ!」
サカキは歯噛みした。この四キロの先はもう住宅の海だ。避難完了率、七割。残り三割はまだ家にいる。
「各隊、最終線まで後退! ここが、我々の踏ん張りどころ……」
言いかけたそのとき、空の一点が黒く翳った。
黒と黄色の翅が、燃える空を背に、巨影の前へ、音もなく舞い降りた。豆粒のような、しかしこの場にいるGフォースの全員が知っている、小さなシルエット。
「来たか……!」
バトラは空中で身体をひねり、角からプリズム光線を撃った。紫電の光はゴジラ=テレストリスの背中へ直撃し爆発、ゴジラの巨体が路面へ片膝をついた。
ゴジラ=テレストリスの歩みが、羽化から六時間で初めて止まった。
「全隊、射線を空けろ!」
サカキは即座に命じた。
「バトラと対象の間へ入るな。市民避難を継続。対怪獣砲撃は俺の指示まで止めろ」
ゴジラ=テレストリスの巨大な首が、ゆっくりと持ち上がる。宙に浮かぶ小さな翅を、まっすぐに見る。その目に、初めて、獲物以外への「関心」が灯るのを、サカキは双眼鏡越しに見た。
バトラもまた、地上の部隊を一度だけ見た。会話はないが、それでも戦場の役割は決まった。
Gフォースが街を空け、バトラが怪獣の進撃を食い止める。
「避難時間を稼ぐぞ」
サカキは通信機を握り直した。
「この戦いを、市街地へ入れるな」
「……アヤノ?」
呼ぶと、アヤノは肩で息をしたまま、少しだけ笑った。
「見つかっちゃったねぇ」
冗談みたいな言い方だった。
でも、笑い方がいつもより固い。
白いブラウスの袖には泥がつき、膝のあたりにも黒い汚れが広がっている。黄色いヘルメットは少し大きすぎるらしく、走ってきた拍子に斜めへずれていた。
「な、なんで……なんで、ここに」
「……朝ね」
アヤノは、少し息を切らしながら、言った。
「見ちゃったの。ツグミちゃんと、カンナちゃんと、バトラちゃんが、三人で、もう工事していないはずの現場に入っていくのを。三人とも、何か隠してる顔だったから」
「顔で分かるわけないでしょ」
「分かるよぉ」
即答だった。隠し事を見抜かれたようで、腹の奥がまたざらつくような感覚があった。
「それで、ここまで来たの?」
「施設の入口で止められたよ。だから一度、お兄さまに連絡したの」
アヤノは抱えていた紙筒を持ち上げて続けた。
「この旧工区、昔のマルトモの開発計画に入ってたんだって。地下の防災倉庫兼避難商業区画にする案があったみたい。会社に古い図面が残ってたから届けてもらったの」
アヤノは続けた。
「そしたら、お昼すぎにサイレンが鳴って。バトラちゃんだけ、空を飛んでいくのが見えて……ツグミちゃんたち、出てこなくて。避難の車に乗る前に、その、足が勝手に……」
「勝手に、じゃないよ!!」
声が、思ったより大きく出た。空洞に反響して、隅のゴロザウルスがびくりと縮こまった。
「ここ、どういう場所だと思ってるの!? 崩れるかもしれない、水も出るかもしれない、おっきい生き物もいる、地上ではゴジ……怪獣が街に向かってて、避難命令が出てて! なのに、なんで、一人で、こんなとこまで!」
「……ごめんなさい」
「ごめんなさいじゃなくて、理由を訊いてるの! なんで来たの!」
「役に、立ちたかったから」
アヤノは、まっすぐに、言った。
「ツグミちゃんたちが、何かしてるなら。危ないことなら、なおさら。わたしも、何か……荷物持ちでも、見張りでも、何でもいいから。役に立ちたくて」
役に立ちたい。その言葉が、わたしのどこかの一番ざらついた場所を逆撫でした。
「そんな理由で、こんな無茶する人がいる!? 役に立つとか立たないとか、そんなののために、命かけるバカがどこに……」
「ツグミちゃんが、そうでしょう?」
アヤノの声は、静かだった。静かなまま、まっすぐわたしを刺した。
「バトラちゃんに『避難しなさい』って言われたんでしょう。カンナちゃんの顔を見れば分かるよ。なのにツグミちゃんは、ここにいて、その子を地下の深くへ帰すって言ってる。避難と、真逆のことを……どうして?」
そ、それは。思わず上ずった声で言い返す。
「それは、この子が狙われてるから、帰さないと……」
「うん。それも、ほんとだと思う。でもね」
アヤノは、一歩、踏み込んできた。
「ツグミちゃん、置いていかれたときに『自分が役立たずだと思われた』って思ったんじゃないの? それで、そうじゃないって証明したくて、無茶をしてるんじゃない? ……わたしと、おんなじで」
図星というのは、刺さると音がしないものらしい。わたしは、何も言い返せなかった。言い返せない代わりに、頭に血が上った。
「……ちがう」
「ツグミちゃん」
「違う! わたしのは、ちゃんと理由があって、アヤノのとは違う! 大体、アヤノに何が分かるの!?」
「ま、まあまあ、二人とも! 落ち着こ、ね!?」
カンナが、あわあわと間に割って入ってきた。
「ほら、ビスコ食べる? ほらカルシウムは入ってるみたいだし、カルシウム摂って落ち着こ? ね?」
「「カンナは黙ってて」」
「はいすみません」
見事に唱和してしまった。カンナが涙目でお菓子を引っ込めた。悪気はないだろうに悪いことをした。悪いことをしたし、間違っていることもわかっていたが、わたしたちは止まらなかった。もう、止まれなかったのだ。
アヤノはさらに言った。
「バトラちゃんに役に立たないって思われたくなかったんでしょう?」
「思われてない」
「じゃあ、どうしてそんなに怒ってるの」
「アヤノには関係ない」
言ってしまった。アヤノの顔から、最後に残っていた笑みが消えた。
「そう」
「……そういう意味じゃなくて」
「関係ないんだねぇ」
「だから」
「ずっと近くにいたけど、関係なかったんだ」
「そんなこと言ってない!」
「そう言ったんだよ、今。カンナちゃんとバトラちゃんには、関係あるんだねぇ」
「そういう話じゃない」
「わたしといるときだけ、ツグミちゃんは何もないふりをする」
「普通にして何が悪いの」
「悪くないよ。でも」
アヤノは一度、息を吸った。
「わたしは、ツグミちゃんが普通のふりをするための場所じゃないよ」
胸の奥を、直接掴まれたような気がした。
声は小さいのに逃げ場がなかった。声を荒げているのはわたしの方なのに、なぜか追い詰められているような気がしてますます声が荒くなった。
「アヤノはいっつもそう! なんにも言わないで、なんにも訊かないで、にこにこして、それで全部分かってるみたいな顔して! わたしのことなんか――」
言うな。
どこかでわたしの中のわたしが言った。それは言っちゃいけない。その先は。
けれど言ってしまったのだ。
「わたしのことなんか、何も知らないくせに!!」
空洞が、しん、とした。ゴロザウルスの呼吸の音だけが、遠くでしていた。
アヤノは俯いていて、ふわふわの前髪で表情が見えなかった。
ややあって顔を上げたが、その顔からは普段のアヤノらしいふわふわが消えていた。
「……知ってるよ」
声が低かった。アヤノの声で聞いたことのない、低さだった。
「一年生の五月。旧館の階段で会ったときから、ずっと。教室のツグミちゃんの笑い方と、階段のツグミちゃんの笑い方が、違うことも。夏の、リレーの練習のあとの、お腹の底から笑う声も。秋の大会のあと、その声が、少しずつ、聞こえなくなっていったことも」
「や……やめて」
「部室棟の前で息を止めて歩くことも。誰かがグラウンドでスタートの合図をかけるたび、肩がちょっとだけ動くことも。ずっと隣でぜんぶ見てた。ぜんぶ知ってて、ぜんぶ言わないでいたの。ツグミちゃんがそうしてほしそうだったから。でもね」
やめて。それ以上は。
「知らないんじゃないの。言わなかったの。陸上のことも」
「アヤノ!!」
アヤノの目に、涙が盛り上がっていた。盛り上がったまま、こぼれる前に、それは、出てしまった。
「陸上から逃げたことも、ぜんぶ、知ってるよ!!」
世界から音が消えた。水滴が落ちる音も、ゴロザウルスの呼吸も、何も聞こえなくなった。
アヤノ自身も、言ってしまってから気づいたようだった。目を見開き、口元を押さえる。
「……ごめ」
「陸上から逃げた、そう思ってたんだ」
「違う、違うの、そういう意味じゃなくて……」
「じゃあどういう意味なの?」
アヤノの顔が、みるみる青ざめていくのが見えた。彼女自身、自分の口から出た言葉に誰より驚いている顔だった。アヤノの口が、いまのはちがう、と動きかけて、
世界が揺れた。
バトラのプリズム光線が、ゴジラ=テレストリスの胸へ直撃した。赤い閃光、そして爆発が市街地の手前を照らす。
今回の空中戦は、最初から様相が違っていた。バトラの動きはスピードもキレも過去の記録映像のとおり、いや、それ以上だった。
問題は、敵のほうがその対策を用意していたことだ。
「目標、背部発光! 熱線、来ます!」
ゴジラ=テレストリスの背鰭が明滅し、顎が開いて光のレンズを撃ち上げる。最初に羽化したときに発射した放射熱線だ。それがバトラめがけて発射され、バトラを撃ち落とそうとする。
山での戦いではアンフィビアは水の塊を撃ち上げ、バトラを撃ち落としたという。今回の放射熱線は、そのときの戦術をより実践的に改良したもののようだった。
「対空射撃まで用意しているのか……っ!?」
二つ目の輪を紙一重で抜けたバトラが、反撃に転じる。額の角に紫の光が収束し、必殺の閃光が、巨体の胸部へ真っ直ぐに突き刺さり、
刺さった箇所が、沸騰した。
着弾点の体表が瞬時に泡立ち、盛り上がり、増殖する肉の壁が、紫の光を飲み込んでいく。光線が止んだあと、そこには焦げ跡ひとつなかった。
「何だ、あれは……!?」
「着弾直前に形成されました」
分析担当が映像を巻き戻す。
「プリズム光線の照射方向へ、細胞が集中しています。装甲として増殖させたものと推定」
「生体反応装甲か」
サカキは言った。
対戦車兵器の着弾時に爆発し、威力を相殺する反応装甲という装備がある。それと同じだ。ゴジラ=テレストリスは爆発の代わりに、自分の肉を使っている。
攻撃される箇所へ大量の細胞を送り込み、焼ける肉を盾にしているのだろう。
観測班の誰かの、掠れた声が無線に漏れた。
「効いて、ない……」
空を飛ぶバトラへの対抗手段となる放射熱線を備え、バトラ必殺のプリズム光線が通じない。過去の戦いへの答案を、ゴジラ=テレストリスは全部持って生まれてきた。別個体のはずなのに、奴らは学習してきているのだ。
ならば、まだ答案に載っていない問題を、出すしかない。
「タニ少佐、工廠へ繋げ。開発部の直通だ」
「工廠、ですか? こんな時に何を……?」
「『スパイラルグレネード』を出す」
副官のタニ少佐が、息を呑んだ。
「あれは……建造中の『Mプロジェクト』用の主兵装です! 実戦データどころか、実射試験も三回しか……」
「報告書は全部読んだ。三回とも、ゴジラ相当の体表への貫通に成功しているだろう」
「規定違反です。未検収兵装の実戦投入は、本部の承認がなければ……」
「承認を待てば、明日になるぞ」
サカキは燃える空を見上げたまま言った。輪の熱線がまた一つ、赤く染まった空を昇っていく。あの小さな翅は、あと何回あれを躱せる。
「全責任は俺が負う。輸送も設置もうちの隊でやる」
「……了解しました、サカキ中佐」
タニ少佐は二秒だけ黙って、それから無線に飛びついた。その背中越しに通信士が別の声を上げた。悲鳴に近かった。
「ち、中佐! 目標の背部発光、再度、今度は、下です! 地面を向いて――」
振り向いた双眼鏡の中で、ゴジラ=テレストリスは首を深く垂れていた。祈りのような姿勢で、大地に向かって顎を開いている。
そこでようやくサカキは理解した。ゴジラの狙いは、空の宿敵ではなかった。最初からずっと足の下だったのだ。
「……いかん!」
灼熱の輪が、水平に、大地を薙いだ。
地表が円形に燃え上がる。そして奴は、燃やした地面の中心へ、今度は収束させた熱線を真下へ突き立てた。掘っているのだ。届かない獲物へ向かって、地面ごと焼き抜こうとしている。
大地が悲鳴を上げた。
最初は、遠くで雷が鳴ったような音だった。
それが一秒もしないうちに、地下全体を揺らす轟音へ変わった。
「伏せて!」
最初の揺れで非常灯が消え、二度目の揺れは突き上げるようだった。立っていられなかった。真っ暗な空洞のどこかで、岩の割れる、嫌な音がした。ゴロザウルスの怯えた咆哮、カンナの悲鳴。
三度目で、天井が落ちてきた。
埃と轟音の中、わたしは誰かの手に突き飛ばされて、転がった。岩と岩の隙間。降ってくる砂。世界が壊れる音は、思ったより長く続いて、それから、急に、終わった。
……静か、だった。
真っ暗だった。埃の味がした。耳鳴りの向こうで、自分の心臓だけが動いていた。
「……カンナ、アヤノ! 誰か返事して……!」
返事の代わりに、すぐ近くで、こほ、と小さな咳が聞こえた。
「……ツグミ、ちゃん?」
アヤノの声だった。すぐそこ。手を伸ばせば届きそうな暗闇の中。
「アヤノ、無事!? 怪我は!?」
「うん、たぶん、大丈夫……ツグミちゃんは?」
「平気……カンナは? カンナ!?」
呼んだが、返事はなかった。かわりに、分厚い岩の壁の向こうから、くぐもった遠い遠い声がかすかに届いた。
『――だいじょうぶー!?』
生きてる。壁の向こうで。ゴロザウルスの鳴き声も、同じ方向から聞こえた
……分断された。カンナとあの子が向こう側、こっちはわたしとアヤノの二人きり。真っ暗闇の中でお互いの顔も見えないまま、さっきの言葉だけがまだ空気の中に浮いていた。
『逃げたことも、ぜんぶ、知ってるよ』
……どうしよう。何を言えばいいのか、わたしには分からなかった。
好きなキャラは?
-
バトラ
-
ツグミ
-
カンナ
-
アヤノ