黒いモスラの魔法少女   作:よよよーよ・だーだだ

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16、アヤノとツグミ

 オバナザワ=アヤノは、家族から期待されたことがない。

 

 こう言うと、たいていの人からは誤解される。あんなお金持ち、上級国民の家に生まれて恵まれてるのにそんなバカな、と。あるいは家族から疎まれているのか、と心配すらされる。

 でも、そういうことではないのだ。家族はむしろアヤノを心から愛して大事にしてくれている、それは本当だ。あたたかくて、上等で、何の不足もない家で暮らしている。本当に恵まれていると思うし、それに応える責務が自分にはあるとさえアヤノは思っている。

 

 アヤノは幼い頃から聖ロシリカ学院で育ち、初等部へ入学したときから周囲の人間は彼女を知っていた。

 正確には、オバナザワという名字を知っていた。マルトモ・オバナザワホールディングス。ホテル、リゾート、商業施設、鉄道沿線開発、観光事業。オバナザワの経営しているホテルやリゾートに家族旅行で泊まったことがある。父親の会社が取引している。アヤノの祖父が創業者で、兄はいずれ会社を継ぐらしい……。

 誰も悪意を持っていたわけではない。先生は気を遣ってくれて、同級生は憧れ、保護者は丁寧に挨拶してくれた。

 家族も優しかった。兄には経営や語学や財務の家庭教師がつき、休日にも父親の仕事へ同行した。

 

 一方、アヤノには何も強制されなかった。

 好きなことをしていい。無理をしなくていい。あなたは幸せに暮らしてくれれば、それでいい。それは愛情だというのはわかっていたが、けれど幼いアヤノにはときどき別の意味に聞こえた。

 ……あなたでなければならないことはない。あなたが失敗しても誰も困らない。あなたが何も成し遂げなくてもこの家は何ら問題なく続いていくから、あなたなんてどうでもいい。あなたなんてこのままいなくなっても何の問題もない……そんなふうに言われているようにも感じるときもあった。

 父から兄が厳しく叱られているのを見て可哀想だと思ったが、同時に少し羨ましいとも思っていた。兄には失敗を叱られなければならないような果たすべき役割があったが、アヤノには失敗するための役割すらなかったからだ。

 期待と責任は背負わねばならない重い荷物だと兄は言う。だったらわたしは、とアヤノは思ったものだ。だったらわたしは背負う物がなくて身体がふわふわ浮いてしまいそうになる、と。

 

 だから、誰かに頼られることが好きだった。

 同級生が系列ホテルの予約について訊けば家へ確認したし、学園祭で協賛先が必要になれば兄や父に相談した。誰かが忘れ物をすれば、迷わず自分のものを貸した。

 ありがとうと言われるたびに、胸の中が少しだけ満たされた。

 ありがとう、アヤノがいてくれて良かったよ。

 本当はその言葉を聞きたかったのだけれど、頼られるのはいつもオバナザワ家の娘としてで、アヤノだからではなかった。

 

 

 中等部に上がった春、外から来た子たちが混ざるようになり、その中にあの子がいた。

 ツキシマ=ツグミ。外部の公立小学校から来た百メートルの速い子で、陸上部の特待生だという彼女の名前は、入学して一週間もしないうちに学年中へ広まった。

 全国を狙える。中等部の、いや聖ロシリカの記録を塗り替えるかもしれない新しい星。「陸上の凄い子」と皆が噂をした。

 教室ではよく笑っていて、話しかけられれば誰にでも答えた。外部生なのにすぐに輪の中へ入った。振舞いはそつがなくもどこか凛々しくて、一部のクラスメートたちは「王子様」なんて陰で呼んだりもしていた。

 ……何もないアヤノとは正反対に見えた。期待されるだけのものを持ち、自分の足で居場所を作れる人。眩しい人。そう思っていた。

 

 二人が初めて話したのは中学一年の六月、雨の日だったのをアヤノは覚えている。

 その日アヤノは教室で、同級生から夏休みに家族で泊まるホテルを紹介してほしいと頼まれた。子供のアヤノが予約を取れるわけでもなければ融通が出来るわけでもなかったが、それでも断ればケチだと思われる気がしたし、なによりオバナザワ家の人間として期待されているのだから自分にはそれに応える責務があると思った。

 だから、訊いてみるねぇ、と笑って答え、そのあと少しだけ一人になりたくなった。

 

 その日の昼休み、アヤノは古い校舎の階段へ逃げていた。

 そこは階段の踊り場で、屋上へ続く扉は施錠され普段は誰も来ない。取り巻きの笑顔から逃げたくなったとき、一人でこっそりコンビニの駄菓子を食べる場所だった(上級国民の家の食卓にこんな駄菓子は出ないのだ)。

 

 そこへ、足音が上がってきたのだ。

 

 現れたのはアヤノも知っている「陸上の凄い子」だった。向こうも一人になりに来たのだろう、教室の愛想のよい顔をぜんぶ落とした無愛想な疲れた顔をしていた。

 目が合って、お互い、固まった。アヤノの手の中には、令嬢にあるまじきグミの袋。それを見たツキシマ=ツグミの顔には、「感じのいい優等生」「クラスの王子様」にあるまじき「うわ、先客いた」の顔。

 見られたくないものを、見られた者同士だった。

 先に噴き出したのは、アヤノだった。笑いながらグミの袋を差し出した。

 

「……ないしょね」

 

 ツグミは、二秒くらい迷ってから一粒つまんで応えた。

 

「……ないしょで」

 

 以後、ときどきあの踊り場で会った。約束はせず、会えたらお菓子を半分こした。アヤノはグミやチョコを持ちこみ、ツグミは購買のパンを半分くれた。

 最初は互いに偶然のような顔をしていたが、いつからかアヤノはお菓子を二つ持っていくようになり、ツグミは紙パックの飲み物を二本買ってくるようになった。

 教室では、お互い今までどおりの顔をした。感じのいい王子様のツキシマさんと、おっとりしたオバナザワのお嬢様。

 階段でだけ、二人ともその顔を脱いだ。

 ツグミは陸上の話をした。バトンパスの話。第二走者の話。前を走る子の「拍」を数える話。アヤノも好きな話をした。文芸部で読んだ本の話。家で飼っている文鳥の話。習い事のお稽古が大変だという話。

 そういった話をするときのツグミの笑い声は心の底からの物で、アヤノはその声を聴くのが好きだった。ツグミにとってアヤノは素顔でいられる相手だったのかもしれないが、アヤノにとっても家名抜きで隣にいられるはじめての相手だった。

 

 秋に、それが終わった。

 

 大会で何があったのか、アヤノは陸上部の応援には行っていなかったから正確には知らない。

 ただ、月曜の教室の空気で何かがあったことは分かった。それから数週間かけて、ツグミの笑い声から本音の音が消えていった。作り笑いは前より上手になり、階段には来なくなった。

 アヤノは、待った。何日も。毎昼、踊り場で、二人ぶんのお菓子を持って。

 三週間目にツグミは来た。来て、完璧な、感じのいい笑顔で言った。

 

「ごめんね、最近ばたばたしてて……ここ、寒くなってきたね。そろそろ教室でお昼にしよっか」

 

 階段でまで、教室のそれと同じ顔をしていた。

 ……ああ、とアヤノは思った。この場所は、死んだんだ。

 そしてその日、アヤノは何も訊かないことを選んだのだ。陸上の「り」の字も出さない、演技を演技のまま受け取って教室で隣にいることを。

 だって、追いつめたらこの人はきっと教室の顔すら見せてくれなくなる。半分こしたお菓子の時間が本物だったことをアヤノは知っている。

 だから待つことにしたのだ。あの心の底から鳴る笑いがいつかまた聴こえる日まで、何年でも。

 

 アヤノが待ち始めてから二百日以上が経って、その音を鳴らしたのはアヤノではなかった。

 6月に来た、怪獣の名前を名乗るロシリカからの転校生だった。それから、配信者の子。ツグミの本物の笑い声は少しずつ教室に戻ってきた。廊下で、放課後に、お腹の底から鳴るあの本音の音。

 アヤノは嬉しかった。本当に、嬉しかったのだ。

 

 嬉しくて――苦しかった。

 

 数えるのを、やめられないのだ。今日、ツグミちゃんは本当に三回笑った。三回とも、わたしの言葉でじゃなかった。今日は五回。五回とも。二百日、隣で待ちつづけたわたしじゃなくて、どうして。わたしは、待ち方を間違えたの? そんな思いが頭をよぎるたびに振り払った。

 ……我ながら醜いなあと思う。こんなのお祝いしなきゃいけないことなのに。

 そしてさっきまっくらになる直前、アヤノはずっと言わないでおきたかった言葉を最悪のかたちで言ってしまった。

 

 陸上から逃げたことも、知ってるよ。

 

 ……違うのだ。アヤノは、逃げることを悪いなんて一度も思ったことがない。背負うべき荷物のない自分が、背負いきれない重い荷物を落とした人を責める資格なんてあるわけがない。

 じゃあ、なんであんな言い方をしたのか。暗闇の中でアヤノは自分の底を覗きこむ。覗きこんで見つけてしまった。

 

 寂しかった。

 悔しかった。

 羨ましかった。

 自分だけが、ツグミの本当の人生から外されている気がした。

 必要とされたかった。

 ツグミにとって、ほかの誰でもない自分でなければならないと思いたかったのだ。

 

 転校生でも配信者でもなく、自分の言葉であの子の本当の気持ちに触れたかった。二百日ぶんの行き場のなかった気持ちが、いちばん醜いかたちで、いちばん刺さる言葉を選んで出てしまった。それだけのことだった。

 

「……アヤノ」

 

 ツグミに呼びかけられて、アヤノの意識は現在へ戻った。

 

「図面は?」

 

 図面、アヤノが兄に頼んで持ち込んだものだ。手探りで紙筒を探し、少し離れた床へ転がっているのを見つけた。拾って蓋を開けると、中の古い図面は端が少し折れただけで無事だった。

 暗闇の中で、浅くて速い呼吸の音が続いている中、アヤノは、目を閉じて、開けて――同じ暗さだった――それから口を開いた。

 

「ここが、旧工区の下部点検路」

 

 スマートフォンの光の下で図面を広げる。

 

「わたしたちは、この辺りに落ちたんだと思う」

「出口は?」

「元の通路へ戻る道は、崩れたところだけ」

「じゃあ別の道」

「あるよ」

 

 アヤノは図面上の細い線を指した。

 

「この先に、排水用の点検坑がある。旧導水坑の手前へ繋がってる」

「ゴロザウルスとカンナのところへ戻れる?」

「たぶん」

「たぶんか」

「古い図面だからねぇ」

 

 ツグミが小さく息を吐いた。それが笑いに近いことに気づくまで、少しかかった。

 

「どうしたの?」

「アヤノでも、たぶんって言うんだ」

「言うよぉ」

「何でも分かってるみたいな顔するから」

 

 アヤノは図面へ目を落とした。

 

「……分かってるつもりだったんだと思う」

 

 ツグミが黙り、アヤノは続けた。

 

「わたし、待ってれば話してくれると思ってたんだぁ。でもそれじゃダメだったんだねぇ」

 

 アヤノの本音に対し、ツグミはおもむろに口を開いた。

 

「……話せなかった」

「うん」

「アヤノに言ったら、全部本当になる気がした」

「怪獣のこと?」

「それもあるけど、陸上のことも本当は自分のせいだったって認めることになる気がしてた」

「バトラちゃんのことも?」

 

 ツグミは壁へ背を預けた。

 

「……アヤノといるときは、普通でいられた。バトラが怪獣で、わたしが囮で、次の戦いで誰かが死ぬかもしれないとかそういうの考えなくていい場所だった」

「わたしに、知らないままでいてほしかった?」

「うん」

「わたしを守るため?」

「……半分は」

 

 アヤノはさらに訊ねた。

 

「もう半分は?」

「わたしが逃げるため」

 

 アヤノは目を閉じた。聞きたかった言葉ではなかったが、でも誤魔化した嘘よりはずっとよかった。

 

「そっかぁ」

「怒らないの」

「怒ってるよぉ」

「分かりにくい」

「ツグミちゃんほどじゃないよ」

 

 少しだけ昔のような間が戻ったが、それでもまだ言わなければならないことがある。

 

「さっきは、ごめんね」

 

 ツグミが顔を上げる。

 

「陸上のこと。あれは言っていいことじゃなかった」

「……本当にそう思ってたんじゃないの」

「違う」

「じゃあ、どうして言ったの」

「傷つけたかったから」

 

 それを素直に認めると罪悪感で胸が痛んだが、それでも言わなければならないと思った。

 

「ツグミちゃんが、わたしには関係ないって言ったから、わたしもツグミちゃんが一番痛いところを知ってるって見せてやりたかった」

「最悪」

「うん。最悪だねぇ」

 

 アヤノは俯いた。

 

「ごめんなさい」

 

 ツグミの返事は、すぐには来なかった。

 遠くで地鳴りがして、小さな砂が天井から落ちる。

 

「わたしもごめん」

 

 やがて、ツグミが言った。

 

「話せないなら、話せないって言えばよかった」

「うん」

「何もないふりして、アヤノにも何もないふりさせてた」

「うん」

「何でも勝手に決めた」

「うん」

「そこは何か言い返してよ」

「全部合ってるから」

「……そっか」

 

 ツグミは頭を掻いた。

 

「じゃあ、これからどうする」

「これから?」

「また同じことになったら」

 

 アヤノは考えた。これまでの二人は何も訊かないことで続いてきたが、今度は続けるために言葉が必要だった。

 アヤノは考えてから答えた。

 

「話せないときは、話せないって言おうよ」

「うん」

「訊かれたくないときは、いまは訊かないでって言う」

「うん」

「危ないところへ行くとき、勝手に置いていかない」

「それは場合によるでしょ」

「もう破る気?」

「危なかったら止めるよ」

「止めるのはいいよぉ」

「いいんだ」

「でも、わたしの代わりに決めないで」

 

 ツグミは少し考え、頷いた。

 

「……分かった」

「本当に?」

「努力する」

「そこは断言してほしいなぁ」

「無理なものは無理って言うことにしたから」

 

 正直な答えに、アヤノは思わず笑った。

 

 

 その頃、地上では、最後の局面が動いていた。

 

「――高機動車、到着! 降ろします!」

 

 夕方の幹線道路に、輸送隊が滑り込む。荷台から現れたのは、簡易架台に載った発射筒。銘板も検収印もまだない、工廠から直送された開発中の新兵器。

 スパイラルグレネードミサイル――先端に削岩ドリルを備えた、対怪獣貫通弾だ。

 タニ少佐がサカキに言った。

 

「中佐、本部から三度目の通信です。『投入は待て、承認手続き中』と」

「聞こえんな。電波が悪い」

「また不良って言われますよ、中佐」

「かまわん、人命重視だ」

 

 照準器の向こうで、バトラが再び正面へ出たのが見えた。プリズム光線を撃ち、ゴジラ=テレストリスの胸部へ白い装甲が集中する。

 ……そうだ。サカキは照準画面を見る。正面へ集めろ。

 声が届くはずはなかったが、それでもバトラは光線を止めなかった。ゴジラ=テレストリスは胸部の装甲をさらに厚くする。他の部位から白い肉が引き、脇腹が露出した。

 

「発射準備完了!」

「目標、右脇腹。装甲の薄い箇所」

「ロック」

「風向補正」

「完了!」

 

 サカキは一度だけ息を吸った。

 

発射(Fire)!」

 

 低い轟音と共に、ミサイルが発射ユニットを離れる。

 白い煙を引き、地上すれすれを飛ぶ。

 ゴジラ=テレストリスが気づいた。脇腹の皮膚が波打ち、生体装甲を形成しようとする。

 

 だが、間に合わない。

 

 ゴジラ=テレストリスの無防備な脇腹に、スパイラルグレネードミサイルの弾頭が突き刺さった。

 螺旋状の刃が回転し、増殖途中の肉を巻き込みながら内部へ食い込んでゆく。

 一秒。

 二秒。

 ゴジラ=テレストリスが身を捩る。

 

「起爆!」

 

 くぐもった爆発音とともに、鉄壁だったゴジラ=テレストリスの装甲に、内側からひび割れが走った。裂け目から、蒸気と体液が噴き上がる。傷口を閉じようと細胞の増殖が始まる。

 だが、遅い。

 

「貫通確認! ゴジラ=テレストリス、ダメージを受けています!」

 

 聞こえたわけではないだろうが、それでもバトラはまるで合図を受けたかのように傷口を見た。

 黒い翅を一度大きく羽ばたかせ、高度を上げて、黄色い角へこれまでで最も強い赤い光が集まった。

 ゴジラ=テレストリスが背びれが青く光らせて熱線を撃とうとするが、体内の爆発で姿勢が崩れ光は口腔へ集まりきらない。

 バトラが急降下した。

 

「いけ、バトラ……ッ!」

 

 バトラは角を前へ向けて光線を撃たないまま、速度を落とさずに落ちてきた。翅を畳み、身体を一本の線にして、裂け目の一点へ。

 黄色い角が、装甲の割れ目へ突き刺さった。

 ゴジラ=テレストリスの体表で肉が蠢き、傷口が閉じようとする。増殖を始めていた白い組織が、異物を包んで押し出そうと蠢く。バトラは翅で二度羽ばたき、角をさらに深くねじ込んだ。

 照準画面の中で、サカキはそれを見ていた。

 

 ……そういうことか。

 

 サカキは理解した。バトラは装甲の外から撃つのをやめたのだ。何度撃っても、あの怪獣は撃たれた場所へ肉を走らせる。ならば、肉の抉れたポイントに突き立てて直に焼けばいい。

 内側からバトラの角が赤く灼け、バトラの呟きが聞こえた気がした。

 

「くたばれ」

 

 極大のプリズム光線が、ゴジラ=テレストリスの体内で炸裂した。

 今度は、飲み込まれない。逸らされもしない。逃げ場のない胴の内側で、紫の光が四方へ膨れ上がる。

 

 夕空のいちばん高いところで、紫の光が爆ぜた。

 

 極大のプリズム光線が装甲の裂け目へ寸分違わず突き立って、今度は飲み込まれない。光線は傷口へ吸い込まれ、ゴジラ=テレストリスの内部でプリズムの光が広がる。

 背びれが一本ずつ輝いたかと思うと次の瞬間すべて砕け、怪獣の断末魔の悲鳴が街を震わせた。

 ゴジラ=テレストリスの巨体が前へ傾く。

 一歩。

 さらに一歩。

 求める目的地の方角――ゴロザウルスがいる地下調節施設の方角――へ最後まで腕を伸ばしたが、届かないままゴジラ=テレストリスの巨体は道路へと倒れた。

 

 そしてそのまま、ゴジラ=テレストリスは赤い塵を噴き出しながら息絶えた。

 

 

 そのものは、倒れたまま空を見ていた。

 脇腹の傷口から力が流れ出していく。海で死んだわたし。山で死んだわたし。そしてここで死ぬわたし。三度目だったので、もう慣れていた。

 それにしても万全の対策を講じたつもりだったのだがあの回る刃、あれは引き継がれた帳簿に載っていなかった。今後は人間の道具が勘定に入ってくるのか。ならば書き足しておかねばならない。紫の光の新しい癖も。回る刃のことも。それから、地の底の血は、結局取れなかったことも。

 

 そしてすべてを、最後に残った最後のわたしへと引き継ぐ。あとはおまえの仕事だ。今度こそしくじるな。

 

 次のわたしへ受け継いだあと、そのものの目から生命の光が消えた。

 死骸から立ちのぼった赤い塵の帯はこれまでの二度よりずっと太く、ずっと明るく、暮れかけた空を裂いて水平線の彼方へ消えた。

 

 

 そこからのわたし:ツキシマ=ツグミの脱出行は、このような顛末だった。

 

 遠い壁の向こうのカンナと、声を張り上げて連絡を取り合った(『二人とも無事!?』『無事! そっちは!?』『無事! ゴロちゃんも! ってか聞いて、ゴロちゃんが壁掘れそう!』)。崩落で出た地下水が足首まで来ていて、暗闇の中でわたしたちは手を繋いだまま瓦礫の斜面を登った。アヤノが滑って水に落ちかけて、わたしの手がその手首を掴んだ。

 

 掴んで――離さなかった。

 

 真っ暗闇の中で今度こそ、たしかに掴んだのだ。それだけのことがわたしにはたぶん一生ものだった。

 やがて壁の向こうから規則正しい振動が始まった。ゴロザウルスだ。カンナの誘導で(『そこじゃない! もっと右! あ、そこ! 掘って掘って!』……誘導になってるのかあれは)、十メートルの怪獣が岩盤を掘り進んでくる。

 太い爪が最後の壁を突き崩してゴロザウルスの鼻先が見えたとき、埃の向こうからカンナのライトとべそべその声が飛び込んできた。

 

「うええええツグミー! アヤノー! 生きてたぁぁ!」

「カンナちゃぁん!」

「ちょ、二人とも、くっつくと転ぶ、水、水!」

 

 ゴロザウルスが掘りたての穴から鼻先を突っ込んで、わたしたち三人まとめてふんふんと匂いを確かめた。無事の確認らしかった。

 しばらくしてアヤノが何かに気づいた。

 

「……なんか音がしない?」

 

 耳を澄ますと、たしかに床の遠くが下から、こつ、こつ、と規則正しく鳴っているのが聞こえた。

 最初また崩れるのかと思ったが、ゴロザウルスがはっと顔を上げた。怯えじゃなかった。全身の力がふっと抜けるのが分かった。

 床の岩盤が内側から静かに割れた。

 穴の縁に大きな爪がかかって――わたしたちと一緒にいるゴロザウルスと同じ形の、しかしふたまわりほど大きな頭が、ぬっ、と現れた。

 続いて、もう一頭。深い深い場所の匂いを纏った、大人のゴロザウルスたちだった。

 

「む、迎え……!? ホロウ・アースから!?」

 

 カンナが上ずった声で言った。大人のゴロザウルスたちは、迷子のゴロザウルスを見つけて、低い、咎めるような声で一鳴きした。きっとこれは万国共通の「どこ行ってたの!」だと思う。

 大人たちに叱られた迷子のゴロザウルスはしゅんとした鳴き声で応えて、それからわたしたちのほうを振り返った。

 のしのしと歩いてきて、わたしの前で止まって、ざらざらの鼻先を最後にもう一度肩に押し当てた。十メートルの、精一杯の『そっと』だった。

 

「……うん。元気で。もう迷子になるんじゃないよ」

 

 大人のゴロザウルスの一頭がその様子をじっと見て、それからわたしの匂いを遠くから確かめるようにひとつ大きく吸った。

 三頭の巨体は、来た穴へ順番に沈んでいった。最後に迷子が穴の縁で一度だけこちらを見て、そのあと地の底の暗闇に消えた。

 あとには静かな空洞と、床にあいた大きな穴と、わたしたちだけが残された。

 

「……帰ったねえ」

「帰ったね」

「……ゴロザウルスの写真、一枚も撮ってないや」

 

 カンナはそう言って、なんだか晴れ晴れと笑った。

 

 

 地上へ戻ったのは、夕方だった。

 エレベーターの扉が開くと、赤い夕日が管理棟の窓から差し込んでいた。

 空気が軽いし、潮の匂いがする。

 

 救急隊員が待ち構えていて、わたしたちの状態を確認した。カンナは泥だらけのカメラを取り上げられそうになり必死で説明している。

 途中ではぐれた施設の職員たちはわたしたちを叱った。叱りながら、無事だったことを何度も確かめていた。親にも連絡するのだという。

 ……いい人たちだな、と思った。

 

 少し離れた場所に、バトラが立っていた。

 変身は解けていて、服の袖は破れ頬には血が乾いている。いつものようにまっすぐ立っているが、明らかに疲れているように見えた。

 わたしは訊ねた。

 

「勝ったの?」

 

 当然のような顔をしてバトラは応える。

 

「ああ」

「怪我は」

「浅い」

「浅く見えないけど」

「おまえもだ。避難しろと言ったろう」

「……」

 

 わたしたちが黙って見つめ合う中、アヤノとカンナは少し離れて見ていた。

 

「……必要ないって言われたと思った」

「何の話だ」

 

 バトラの眉がわずかに動く。

 

「地下で。囮はいらないって」

「実際、必要なかった」

「そういう言い方」

「事実だ」

「ほら、またそう言う。わたしが役に立たないから置いてったんじゃないの」

「違う」

 

 バトラは即答した。

 

「おまえの動きは、相手に学習されていた。連れていけば真っ先に狙われて死ぬ可能性が高かった」

「だから置いていった?」

「ああ」

 

 当然のことを説明するように頷くバトラに、わたしはムカッ腹が立った。こいつに腹が立つのは今に始まったことではないが、今回は一段と酷い。

 

「そういうのはちゃんと説明してよ」

「時間がなかった」

「時間がなくても必要だよ」

「どう説明する」

「危ないから置いてく、って」

「言ったが」

「命令だって言ったでしょ!」

「命令の方が早いだろ」

「そういうところ!」

 

 ……ったくもう。

 わたしは頭を掻き、少し間を置いた。

 

「次から、ちゃんと説明して」

「時間があれば」

「時間がなくても」

「努力する」

 

 わたしがアヤノに言ったのとまったく同じ言葉を返されて、思わずわたしはアヤノを見た。アヤノも少し笑っていた。

 ……まあいいや。わたしが言う。

 

「帰ろ」

「ああ」

 

 バトラが答える。

 それだけだった。

 でも、わたしたちの間にあった硬いものは、少しだけ薄くなったように見えた。

 

 

 それから数日間、わたしたちはそれぞれの家で外出禁止になった。

 当然である。避難命令の出た街の地下に潜り込んで、崩落事故(ということになっている)に巻き込まれたのだ。

 うちの親はわたしを抱きしめたあとみっちり二時間説教したし、カンナもめっちゃ怒られたらしいし、アヤノに至っては――避難所から消えたのだから当然だけど――外出禁止に加えて送迎の強化とスマホの位置共有まで課されたそうだ。

 というわけで。

 わたしの部屋のスマホの画面に二人の顔が並んでいた。

 

『――きこえますか~、オバナザワです~……あれ、これ、わたし映ってるぅ?』

「映ってるよ。おでこだけ」

『おでこだけ!?』

 

 画面の左でアヤノの額が慌てて上下した。ビデオ通話は初めてらしい。

 右のカンナは逆に無駄に本格的だった。顔には綺麗にライトが当たり、声はやたらクリアで、背後にはマイクアームが見切れている。

 

『各員、音声チェック。こちらCanary、感度良好』

「配信者の本気を宿題会に出すな」

 

 こういうときこそ文明の利器、インターネットの出番である。環境整備はカンナが主導し、この手のものに疎いアヤノはカンナに手伝ってもらって、かくしてわたしたちの宿題の会はウェブ会議形式へ形を変えて継続された。

 カンナは数学の冊子を前にしてさっそく死にそうな顔をしている。

 

「曲がりなりにも世界を救ったヒーローが連立方程式のドリルやらされるの、おかしくない?」

 

 拡大解釈にもほどがあることを言い出したので、わたしは訂正する。

 

「世界は救ってない。街の一部と怪獣一匹」

「十分でしょ」

「宿題は減らないよ」

「非情!」

「カンナちゃん、昨日の分も進んでないから今日は多めだねぇ」

「アヤノまで!」

 

 わたしの横で、バトラは麦茶を飲んでいた。当然のように教科書もノートも出していない。

 ふと気になった。

 

「そういえば、バトラ。宿題は?」

 

 わたしの問いに、バトラが首を傾げた。

 

「何の話だ」

「夏休みの宿題」

「なぜわたしがやらねばならない?」

 

 部屋が静かになった。

 

「……学校から出てないの?」

「紙は受け取った」

 

 あまりに堂々と答えるものだから、おそるおそる訊ねる。

 

「やった?」

「保管してある」

「保管?」

「机の引き出しに入れた」

「進めてないの、一ページも?」

「触れていない」

 

 カンナが歓声を挙げた。

 

「仲間!」

「喜ぶところじゃない」

 

 わたしとアヤノの言葉が重なり、わたしたちは顔を見合わせる。少しだけ間が空き、それから同時に笑った。

 バトラは納得できない顔をしている。

 

「休みなのになぜ課題がある。やらねばならないものならそう言え」

「あんた、学校で配られたしおりに書いてあったでしょ、『宿題は計画的に』って」

「読んだ。だが、あれが命令だとは思わなかった。推奨事項かと」

「義務! 全部義務! 普通は分かるでしょ!!」

「知らん」

「威張るな!」

 

 バトラが自分の部屋から課題を持ってくると、机の上へ積まれた冊子はカンナのものより多かった。

 

「……転入分の補習課題もあるねぇ」

 

 アヤノが言う。

 

「数学、国語、英語、理科、社会。それから作文が二つ」

 

 カンナが冊子の山を見て、そっと自分の宿題を閉じた。現実逃避する気だなこいつ。

 

「カンナ」

「はい」

「逃げない」

「はい……」

 

 とりあえずバトラの宿題については当人にやらせていては間に合わないので、皆で分担することにした。

 

「問題は……これだよ」

 

 わたしは、一冊の白い冊子を突きつけた。絵日記帳である。

 

「絵日記。夏休みの思い出を、絵と文で……あんた、書ける?」

「書ける」

 

 バトラは即答して鉛筆を取り、五分ほどで一ページ目を仕上げて寄越した。

 

『七月×日。海に行った。海底谷に棲むチタノザウルスに会った。ゴジラが来たので、戦った。婆さんは無事だった。良かった。メロンパンより焼きマシュマロのほうが二段階の落差が大きい。』

 

「「「出せるかこんなもん!!」」」

 

 三人の声が、綺麗に揃った。

 

「事実だが?」

「事実だから駄目なんだよ!!」

 

 書き直しである。ゴジラ抜き、怪獣抜き、魔法少女抜きの夏休みを四人がかりで捏造していく。海に行った(嘘じゃない)。キャンプでカレーを作った(半分嘘じゃない)。花火をした(これは予定だ。外出禁止が解けたら必ずやるので未来の事実である)。

 アヤノとカンナは画面越しなので主に手を動かさなければならないのはわたしで、バトラ当人はむしろ泰然自若としていた。くそう、理不尽だ。

 

「……なんかさあ」

 

 ふとカンナが笑った。

 

「こうやって並べると、あたしら、めちゃくちゃ遊んだね、この夏」

 

 アヤノがふわふわと言った。

 

「ね、いい夏休みだったねえ」

 

 窓の外は夕方で、蝉の声はもうツクツクボウシに替わっていた。バトラは捏造された(でも半分以上本当の)自分の夏休みを一ページずつ妙に真剣な顔で清書していた。書き終わったページを時々少しだけ戻って、読み返しながら。

 その横顔を見ながら、わたしは思っていた。

 

 ……夏が、終わる。

 九月が来て、学校が始まって、また日常が回りだす。海の婆さんも、山の白い神さまも、地の底の迷子もみんな無事で、それぞれの場所にいる。あいつの敵は三回来て、三回とも倒した。

 だからこれでひと段落……そう思っていたのだけれど。

 

 この夏最後のいちばん大きな影。

 そいつが水平線の下で組み上がりはじめていることを、このときのわたしたちはまだ知らなかったのだ。

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