「それでは、お帰りになる前に」
小美人たちはそう言って、棚の奥へ消えた。
……「帰れる」というフレーズを聞いた瞬間、わたしの心は羽ばたいた。
今日は朝から怪獣の名前を持つ感じの悪い転校生が隣の席に来て、放課後にはクマくらいある怪物に追いかけられ、空を飛ぶ女子中学生の魔法少女に誘拐同然でヒルズの最上階まで連れてこられた挙句、これからも怪物に狙われ続けることが判明し、その怪物をおびき寄せる囮として働く契約まで結ばされる羽目になった。
情報量が、情報量が多い……っ!
今日一日だけで、一生分の非日常をまとめて押しつけられた気がする。ああ、もう早く帰って、お風呂に入って、布団へ潜って、朝起きたら全部夢だったことにしたい。そうならないかな。なったらいいな。
そんな現実逃避にうつつを抜かしていると、小美人たちが戻ってきた。
「こちらをお持ちください」
そう言って持ってきたのは、白い組紐だった。
細い糸を幾重にも編み込んだ、素朴な紐だ。魔法少女の変身アイテムみたいに宝石がついているわけではないし、プリキュアの玩具みたいに決めセリフのボイスも鳴らなそうである。
このアイテムについて小美人はこう説明した。
「あなたを守る、おまもりです」
「お守り?」
わたしは差し出された白い組紐をつまみ上げた。
本当にただの糸にしか見えない。商店街の個人で経営しているような手芸店に置いてあっても、たぶん気づかないだろう。
「インファント島に伝わる組紐です」
「先代モスラが残した糸を織り込んであります」
急に扱いが難しくなった。モスラの糸、歴史の教科書に載っている守護神怪獣の一部であるという。本来は美術館とか博物館とかに収容されるべき文化財とか、そういうものなのではないのだろうか。雑に扱ったら国際問題になるんじゃないのこれ。
「それ、わたしが持って帰っていいものなんですか?」
「もちろんです。こんなときのために作ったものですから」
「こんなときのためって、わたしのため?」
わたしの言葉に、二人が同時に頷いた。インファント島の小美人というのはずいぶんと気前がいいようだ。今日会ったばかりの赤の他人のために、ずいぶん貴重そうなものを用意するなあ。
……あるいは、わたしの置かれている状況がそれだけ深刻なのだという気もするけれど、後者については考えないことにした。まともに考えたら気が滅入りそうだから。
「身につけていれば、モスラの加護を受けられます」
モスラの加護。ずいぶん大げさな言葉が出てきたので、わたしは白い組紐を明かりへ透かした。外見に変化はないが、改めて見直してみるとなんだか聖なるパゥワァーが溢れ出てきそうな気がしてくる。モスラの加護ってなんだろう。
「具体的には、どんな加護なんですか? さっきの怪物が近づけなくなるとか?」
「いや」
その問いに答えたのはバトラだった。ソファの背に寄りかかり、腕を組んでいる。
「じゃあ、襲われても攻撃を弾いてくれる?」
「そこまでの力はない」
「怪我を治してくれるとか」
「期待するな」
「じゃあ何ならできるの」
「気休めだ」
言い切ったなこいつ。
「世界を救ったモスラの糸が入ってるんだよね?」
「ああ」
「なのに気休め?」
「ないよりはまし、という程度だ」
身も蓋もなさすぎる。渡してくれた本人たち、そしてそれで守られるはずの人間の目の前でよくそこまで商品価値を下げられるものだ。
「もう少し言い方ってものがないの?」
「事実だ」
「事実でもオブラートに包んで渡すのが礼儀でしょ」
「オブラート? 食べ物じゃないが」
「そういう意味じゃない!」
こんなわたしたちの頓珍漢な言い合いを、小美人たちは穏やかな顔で見上げていた。あるいはバトラのこういう振舞いには慣れてるのかもしれない。
やがて小美人たちが口を開いた。
「バトラの言うとおり、完全に危険を退けるほどの力はありません」
「けれど、モスラの糸には生命を守る力が残っています。きっと、あなたの助けになるでしょう」
認めちゃうんだ、それ。
絶対ではないし、たぶんでもない。きっと。霊験あらたかなモスラ
「つまり、本当に気休めなんですね」
「だから言っただろう」
「あんたは勝ち誇るところじゃないでしょうよ」
とはいえ、せっかくの善意を断る理由もないのだった。
なにしろ襲ってくるのはクマを軽く超える恐ろしい怪物だ。こちらの手札は十四歳の女子中学生一名で、いちおう体育会系だが現在は運動不足。装備品は汚れた制服と、飲みかけのレモンティーくらい。
『鰯の頭も信心から』というけれど、鰯の頭よりは世界を救った守護神怪獣の糸のほうが多少は頼りになりそうだしね。
「……いただきます」
「どうか、あなたにモスラの加護がありますように」
二人の小美人は、わたしの左手首へ組紐を巻いた。一人が紐の端を持ち、もう一人が小さな指で結び目を作って、最後に二人が結び目へそっと手を添える。
神秘のパワーでも込められたのか白い糸が一瞬だけ温かくなったような気がしたが、気のせいかもしれない。
「きつくありませんか?」
「大丈夫です」
「お風呂でも外さないでください」
「濡れても平気なんですか?」
「はい」
「洗濯は?」
二人は顔を見合わせてしばらく考え込んだあと、こう答えた。
「なるべく避けてください」
「やっぱり駄目なんだ」
守護神の神秘も、文明の利器である洗濯機には弱いらしい。
「あ、でも手もみの水洗いならOKです」
「OKなんだ」
翌朝。
家のベッドで目を覚ましたとき最初に浮かんだのは二百十四という数字で、その次に昨日の出来事が押し寄せてきた。
怪物。空飛ぶ魔法少女の転校生。インファント島の小美人。囮契約。
ああ、ずいぶんとファンタジーで現実離れした夢を見たなあ、夢でよかったなあと思いながら左手首を見ると、白い組紐がちゃんとそこにあった。
「夢じゃないんだ……」
がっくり。
まあもしも夢なら、中二にもなって怪獣と魔法少女が出てくる自分の想像力について心配するところだったけれど、現実であるならもっと心配することが多い。
予備の制服に着替えながら、昨日のブラウスのことを思い出す。得体のしれない怪獣の体液が染み込んだ制服だが、小美人たちが預かることになった。そのあとどう処分するのかは知らないが、あれで本当によかったのだろうか。ゴミ焼却場で巨大不明生物が誕生したりしないよね? しないと信じたい。
いつもどおり朝食を食べ、ママに見送られながら家を出て、学校へ向かう。
「ツグミちゃん、それどうしたの?」
昇降口で会ったアヤノは、挨拶より先にわたしの左手首を指差した。
「これ?」
「うん。かわいいねぇ」
アヤノが白い組紐へ顔を近づける。世界を救った怪獣の糸が織り込まれているとは思えない、素朴なお守りだ。
「昨日はつけてなかったよね?」
「よく見てるね」
「ツグミちゃんのことだからね」
こういうことを恥ずかしげもなくさらっと口にできるのがアヤノの凄いところだと常々思っている。わたしなら、言う前に三回くらい予防線を張るだろう。
とりあえず説明してあげることにした。
「お守り。昨日、もらったの」
「誰に?」
「知り合い」
「どんな知り合い?」
そう言われて答えに詰まった。身長二十センチ以下の、インファント島出身の双子の妖精だなんてとても言えるわけがない。
「……小さい人」
「子供?」
「まあ、だいたいそんな感じ」
だいぶ誤解を招く言い方をしたかもしれないが、嘘はついていないから閻魔様も怒らないだろう。
アヤノが首を傾げたそのとき、背後から声がした。
「おい」
びっくりして振り返るとバトラが立っていた。相変わらず黒い髪に黄色い筋、赤い目。昨日、角と翅を生やして怪物を消し飛ばしたとは思えないほど、普通に学校の制服を着ている。普通に見えるかどうかは、かなり怪しいけれど。
「いつからいたの?」
「少し前からだ」
「声かけてよ」
「いま、かけただろう」
「そうじゃない」
アヤノがわたしとバトラを交互に見て、それからゆっくりと目を細める。なんでそんなに嬉しそうなの、この人。
やがてアヤノは口を開いた。
「……いつの間に仲良くなったの?」
「なってない」
「なっていないが」
否定の言葉が見事に重なってハモったのを見て、アヤノの口元が、にへら、と緩む。
「息ぴったりだねぇ」
「違うから」
わたしは上履きへ履き替え、教室へ向かう。
バトラもあとをついてくる。右へ曲がるとバトラも右に曲がる。階段を上ると、一緒に階段を上る。いったん立ち止まると、バトラも止まる。
たしかにクラスは同じだし隣の席だが、一挙手一投足ついてくるつもりなんだろうか。
「あのさ。あんまりくっつかないでよ。目立つでしょうが」
実際、廊下を歩く生徒たちがちらちらこちらを見ている。
そりゃ見るだろう。昨日転校してきたばかりの、怪獣と同じ名前を持つ赤い目の美少女が、今日はわたしの斜め後ろをぴたりと歩いている。わたしだって他人なら見る。
「仕方ないだろ。敵がいつ現れるか分からん」
「学校の中にまで来ると思う?」
「来ないという保証はないぞ」
「そうだけど、せめて少し離れて」
結局、3メートルで妥協した。
教室内では隣の席。廊下では3メートル。階段では、万が一わたしが転んだ場合に備えて半歩後ろ。
なぜ契約二日目にして、怪獣の魔法少女と距離交渉をしているのだろう。
バトラはあっさりクラスに受け入れられた。
昨日、大人のクマと同じサイズの化け物を一撃で炭にした女である。ヒルズの最上階で妖精と暮らしている子である。それが今朝は当たり前の顔で日直の黒板消しを手伝い、一時間目の英語では音読を当てられて、発音だけは妙に流暢に読み上げていた。
……順応してる。怪獣のくせに。
「バトラさん、前の学校ではどこまで習っていたの?」
先生が感心したように訊ねると、バトラは素っ気なく答えた。
「学校には通っていなかった」
「独学?」
「必要な知識は与えられている」
クラスがざわつき、先生も困った顔をした。
「……そう。ずいぶん勉強熱心なご家庭なのね」
「そうなのか?」
「そこで疑問形になるの?」
知識はあるが常識はない。非常に分かりやすすぎて困っちゃうな、ホントにマジで。
しかも、教室の空気のほうも一晩で順応していた。原因は、朝のうちに広まった一つの噂である。曰く「バトラさんって、ロシリカからの編入生らしいよ」。
うちの学校、私立聖ロシリカ学院は、その名のとおりもともとロシリカ国との交流のために作られた学校だ。今でこそただの小中高一貫の進学校だけど、昔は外交官の子とか在外ロシリカ人の子を受け入れていた、と入学式で校長が長々と語っていたことがある。
つまりこの学校において「ロシリカから来た」は、あらゆる不条理な状況を説明してくれる魔法の表現なのだった。
「苗字がないんだって」
「へえ、ロシリカ式なんだ~」
「『星の生命全部が親』とか言ってたけど」
「ロシリカの詩の引用かなにかでしょ、たぶん」
「へえ、文学的だなあ。流石ロシリカからの転校生だ」
違うんだよなあ。全部、文字通りの意味なんだよなあ……。
クラスメートたちの頓珍漢な会話を、わたしは遠い目で聞いていた。それにしてもずいぶんと手回しがいい。どうせあの妖精たちの差し金だろうが、編入手続きから出自の設定まで抜かりがない。
わたしの後ろをぴったりついて歩くバトラ、そんな彼女とわたしを見る人たちのひそひそ声が聞こえる。
「初日はなんか険悪そうだったけど仲直りしたのかな……」
「昨日の今日で?」
「ロシリカ式の距離感なのかな」
「それにしても近くない?」
「流石ロシリカだわ……」
ロシリカに謝ってほしい。わたしも行ったことは無いけど絶対そういう国じゃない。
そして迎えた三時間目は、歴史の授業だった。
「はい、今日は近現代史。教科書二〇四ページ、〈怪獣黙示録〉の単元です」
教室の空気が、少し引き締まった。この単元はうちのお祖父ちゃん世代には「歴史」じゃなくて「記憶」で、親の世代も何かしら聞かされて育っているから、みんな家で何かしら聞かされて育っている。
「怪獣黙示録の時代、世界には百体を超える怪獣が出現しました。都市は焼かれ、人類は対怪獣特殊戦闘軍Gフォースを設立して抵抗しますが、劣勢が続いた。その時代の最後を締めくくったのが、この三体です」
先生はそう言って、黒板の横に大きな資料写真を三枚マグネットで貼った。
一枚目、ゴジラ。黒い山みたいな、あの有名なシルエット。
二枚目、モスラ。光をまとった巨大で優美な極彩色の巨大蛾。
そして三枚目は黒と黄色の赤色の、刺々しい稲妻模様の翅を広げた禍々しい怪獣。
「戦闘破壊獣バトル・モスラ。通称・バトラ」
先生がその名を口にしたとき、教室のあちこちから忍び笑いが漏れて、視線がちらちらと窓際へ流れた。当の本人は微動だにせず、まっすぐ白黒写真を見ている。
「バトラは当初、人類にとってもモスラにとっても脅威でした。キングギドラが起こした怪獣大戦争では人類の敵に回ったこともあります。しかしその後モスラと和解、共闘し、ゴジラと相打ちになって死亡。この戦いをもって、怪獣黙示録の時代は幕を閉じます」
相打ちになって、死亡。
先生はさらりと言った。教科書もさらりと書いている。わたしはノートを取るふりをして、隣を盗み見た。自分の先代の死を教科書で解説される気分ってどんなだろう。彼女の横顔からは何も読めなかった。眉ひとつ、動いていない。
「そして残るモスラですが、怪獣黙示録終結の三年後、地球に接近した小惑星を単独で迎撃、これを破壊したのち、消息を絶ちました。力を使い果たし、死亡したと考えられています……」
授業が終わったあと、お調子者の男子がバトラの方に振り向いて言った。
「バトラさんてさ、名前同じじゃん。あの怪獣の生まれ変わりだったりして!」
教室がどっと笑ったが、当のバトラは顔も上げずに、一言。
「……さあな」
冗談でもなんでもなく、ただの事実である。わたしだけが笑えなかった。
休み時間になりわたしが席を立つと、バトラも立った。
教室を出ると、ついてくる。トイレの個室の前までついてくるので、そこは流石に制止した。
「ここから先は駄目だから」
「なぜだ」
「なぜだと思う?」
「中で敵が出たら対応できんぞ」
「女子トイレに怪獣が出たら、そのときは諦めるよ」
「諦めるな。生きて抗え」
「そこは人としての尊厳を優先させてくださいお願いします」
結局、バトラは個室の前で待つことになった。
トイレから出たとき、通りかかった女子たちがこちらを見ながらひそひそ話しているのが見えた。絶対に誤解されている。
教室に戻るとアヤノが面白そうに近づいてきた。
「本当に、いつの間にそんなに仲良くなったの?」
「だから、なってない」
「でも、ずっと一緒にいるよぉ」
「事情があるの」
「どんな?」
「言えない事情」
「へー、わたしにも秘密なんだぁ……」
アヤノの目が、さらに輝いた。
「そういう楽しそうな秘密じゃないから」
そこでバトラが横から口を挟んだ。
「わたしはツキシマを守っている」
「言わなくていい!」
「嘘は言っていない」
「全部言えばいいってものじゃないの!」
アヤノが両手で口元を隠す。
「へー、ツグミちゃんをバトラちゃんが守ってるんだぁ……」
「その顔やめて」
「どんな顔?」
アヤノは答えず、にこにこしていた。否定してよ、頼むから。
昼休み。わたしは売店でパンを買いこんで、屋上へ避難した。
うちの売店、正式名称は生徒生活支援売店とかいうらしいが、誰も正式名称で呼ばずに売店と呼ばれている。
教室であの視線に晒されながら食べる気力はなかった。屋上は原則立ち入り禁止だけど、旧館側に鍵の壊れた扉が一つあるのは、元・陸上部公然の秘密だ。階段を上がると、六月の風が抜けて、気持ちよかった。
当然のように、後ろから足音がついてきた。まあ、もう、いい。慣れよう。
わたしは日陰へ座り、購買の袋を開けた。
今日の昼食は、焼きそばパンとメロンパン。炭水化物を炭水化物で挟んだものと、甘い炭水化物。体育会系にはエネルギーが必要だ、まあしばらく走ってないけど。
隣にどすんと座った護衛係が、わたしの手元をじっと見ていた。
……見ている。ものすごく見ている。
「……なに」
「それは、なんだ」
「メロンパンだけど」
「メロンのパン、だと?」
彼女は眉を寄せた。
「メロンパンと言うからには、メロンが入っているのか」
「普通は入ってないよ」
「じゃあ詐欺ではないか」
「全国のパン屋さんを敵に回す発言やめて」
こいつ、メロンパンも知らないのか。わたしは説明してあげた。
「メロンは入ってないの。網目がそれっぽいだけで……って、説明が難しいなこれ。半分食べる?」
軽い気持ちでちぎって渡した。彼女はそれを爆発物か何かみたいに慎重に検分して、匂いをかいで、それから小さくひとくちかじった。
……もぐ。
……もぐもぐ。
「……!」
赤い瞳が、まんまるに見開かれた。
「ど、どしたの」
「甘い」
「うん、菓子パンだから」
「外側と内側で、食感が違う」
バトラは手に持ったメロンパンを凝視した。
「同じパンなのに二段階ある。どういう技術だ、これは」
「さ、さあ……パン屋さんの技術じゃない?」
バトラはわたしの返事を待たず、残り半分を、はぐ、はぐ、と真剣な顔で食べきった。世界の命運が懸かってるみたいな真剣さだった。食べ終わって指についたザラメをじっと見つめていた。
「……売店に行けば、これがあるのか」
「あるよ。毎日」
「毎日」
彼女は復唱して、ぷいと空のほうを向いた。でも、見てしまった。横顔の口元が、ほんのちょっとだけ、緩んでいたのを。
……怪獣で魔法少女のくせに。ちょっと可愛いじゃんか。悔しいな。
張り付いていた警戒が、少しだけ緩んだ。緩んだせいで、昨夜から引っかかっていたことを、つい訊いてしまった。
「そういえばさ。あんた、朝どうやって学校来てるの? ヒルズからだと結構あるよね。まさか飛んでくるわけにもいかないし」
「? 近いが?」
「え?」
「おまえの家の近くから来てる。徒歩十五分だ」
「……………………は?」
ものすごく嫌な予感がした。
「近くって、どこよ?」
「おまえの家が見える範囲だ。夜間の警護に、あの部屋は遠すぎる。だから夜はおまえの家の近くにいる。雨風がしのげて、視界の通る場所が二箇所ほどあってな」
風が吹いて、メロンパンの袋がかさりと鳴った。
バトラが言っていることは、つまりこういうことである。
「……野宿してるの? 毎晩!?」
わたしは唖然としてしまったが、バトラは平然と答えるのだった。
「周囲を哨戒していただけだ」
「それを野宿って言うの! 外で寝てたんでしょう!?」
「寝てはいない」
「もっと悪い!」
バトラはなんでもないことみたいに言ったが、なんでもないことみたいに言うな、そういうことを。
昨夜、わたしの家に何も来なかったこと。何も知らないままわたしがぐっすり眠っていたこと。その外側の暗がりでバトラがひと晩じゅう立っていたこと。それらが全部つながって、胸の奥が、ぐ、と変な形に詰まった。
けれど、それで出てきたのは、説教だった。
「使命感は分かった、分かったけど! 中学生が毎晩住宅街の暗がりに突っ立ってたら、完全に不審者なんだよ! いや不審者ですらないよ、補導だよ補導! 通報されたらどうすんの!? 警察が来たら、あんた身分証あるの!? ないでしょ!? 保護者、インファント島の妖精でしょ!?」
「……む」
「『む』じゃない! ヒルズに住んでるはずのロシリカのお嬢さんが夜の公園で補導されたら国際問題なの! 大体あんた、寝てないでしょ。護衛が寝不足で倒れたらどうすんの、本末転倒でしょうが!」
……ったくもう!
わたしは頭を抱えた。この魔法少女、たしかに強いし成績優秀だし使命にも真面目であるが、ただただ生活能力と常識が壊滅的である。まったく厄介な相手と取引してしまった。
……けれど。
わたしの家の近くで、朝まで一人で立っていてくれたのも事実だった。
誰に褒められるでもなく、わたしには何も言わず、ただ守ると決めたから。
そのことを考えると、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなった。
「……メロンパン、もう一個買ってくればよかったね」
「なぜだ」
「何でもない」
バトラが首を傾げるのを横目に、わたしは残った焼きそばパンをかじった。
夜の護衛をどうするかは、まったく解決していない。していないけど、それはまた別の日の問題だ、ということにした。
……この先送りをわたしは盛大に後悔することになるんだけど、それは、また別の話である。