黒いモスラの魔法少女   作:よよよーよ・だーだだ

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4、魔法少女は同居する

 数日後、わたしは後悔した。

 あの屋上で「夜の護衛の話はまた別の日でいい」なんて重要な問題を先送りにした過去の自分をぶん殴りたい。問題を放置すると問題のほうから家に上がり込んでくるのだと、十四歳のわたしは文字通りの意味で学んだ。

 

 その日、学校から帰ると、玄関に見慣れない革靴があった。

 嫌な予感というのは当たるもので、リビングの扉を開けたらうちの両親と向かい合って仕立てのいいスーツの男の人がソファに座っていた。歳は三十代後半くらい。にこやかで、姿勢がよくて、いかにも「ちゃんとした大人」の見本みたいな雰囲気がある。

 そしてその隣に、当たり前みたいな顔でバトラが座っていた。

 

「あ、おかえりツグミ! ちょうどよかった、ほら、ご挨拶して」

 

 ママがなんだか浮かれた声で言った。嫌な予感がする。スーツの男の人が立ち上がって、綺麗な角度でお辞儀をして名刺を差し出してきた。

 

「はじめまして。連合政府教育支援局、特別編入制度推進室・室長の、ヤマナシと申します」

 

 そう言って差し出された名刺を見ると、政府のロゴと立派な肩書きが印刷されていた。名前のところには「月見里」と書いてある。

 

「……つき、みさと?」

「ヤマナシです。月を見る里には山が無い、という意味の古い姓でして」

 

 月を見る里には山が無い、だからヤマナシ。全国のヤマナシさんには申し訳ないが、なんだか凝りすぎていて胡散臭い苗字だと思った。

 

「で、あの、今日は、どういう……?」

「はい。実は本日は、バトラさんのホームステイのお願いに上がりました」

「……はい?」

 

 思わず聞き返すと、ヤマナシさんはすらすらと話し出した。

 

「ご存じのとおり、聖ロシリカ学院は、ロシリカ国との教育交流を目的に設立された、歴史のある学校です。バトラさんはその交流事業の特別編入生でしてね。制度の規定で、日本のご家庭での生活を通じた文化適応が推奨されておりまして。それで、同じクラスのツキシマさんのお宅に、ぜひと」

 

 待って。待って待って待って。

 わたしは首だけ動かして、ソファのバトラを見た。バトラは目を合わせなかった。合わせなかったが、その澄ました横顔には「夜の警護の問題は解決した」と書いてあった。おまえが解決するな。そういう解決を求めてない。

 気づいたら口が動いていた。

 

「む、無理です! うち、狭いし、客間とかないし! ほら、バトラにはちゃんとしたおうちがあるって聞いてますし! ヒルズ……じゃなくて立派なマンションが!」

「それがですねえ」

 

 ヤマナシさんは困ったように眉を下げた。

 

「あちらは制度上、あくまで仮の滞在先でして。保護者の来日が遅れておりまして、お子さんの単身生活が長引くのは好ましくない、というのが局の方針なんです」

「でも、いきなり他人の家で一緒に住むのはおかしいでしょ」

「もちろん、ご家庭へ負担をおかけすることは承知しております」

 

 ヤマナシさんが、テーブルの書類を一枚めくった。

 

「生活費、教育費、食費その他につきましては、政府から支援金をお支払いします」

 

 書類がパパとママの前へ差し出され、二人の目が金額の部分で止まった。

 わたしも横から覗いた。思っていた支援金の、だいたい桁が一つ多い。

 

「……これ、一人分?」

「はい」

「バトラって一日に牛一頭くらい食べるんですか」

「特殊な事情を持つ青少年の受け入れには、金銭面以外にもさまざまなご負担が生じます。その補償も含まれておりますので」

 

 皮肉を込めて返しても、声色が一ミリも変わらない。なるほど、怪獣を家に置く迷惑料か。

 ヤマナシさんは平然と続けた。

 

「バトラさんはずっと特殊な環境で教育を受けてきました。そのため学力面には問題ありませんが、同年代との共同生活を通じて社会性を身につける必要があると判断されまして」

 

 社会性。たしかにバトラに最も不足している能力の一つである。実際に説得力があるのが小癪で腹立たしい。

 

「なぜ、うちなんですか」

「同じ学校、同じクラスに在籍していること。年齢が近いこと。通学上の都合。そして何より、すでにお二人の間に信頼関係が築かれつつあることです。学校からも生活ぶりをヒアリングしました、ツグミさんとバトラさんは誰よりも仲良く行動を共にしていらっしゃると」

「最後の一つは明確に間違ってます」

「もう、ツグミったら」

 

 ママが笑った。なぜ笑うのだ。娘は真剣に否定しているのに。

 

「それに……」

 

 ヤマナシさんはそこで少しだけ声を柔らかくした。

 

「同年代のお友達がそばにいるのは、お嬢さんにも良い刺激になるかと思いますよ」

 

 ……その一言で、決まってしまった。

 ママの顔がぱっと明るくなり、パパが「そうだなあ」と頷くのが分かった。二人が何を考えたのかも、分かってしまった。

 この半年、部活を辞めて家では愛想笑いばかり上手くなった娘。中学に上がってから、友達を家に連れてこなくなった娘。そこに同い年の友達が家に来てくれるのだという。

 ……ずるい。そこを突くのは、ずるいでしょ。

 

「よろしくお願いします、バトラちゃん! 狭いところだけど!」

「うむ。世話になる」

 

 バトラが、綺麗な角度で頭を下げた。お辞儀だけ、いつの間にそんなに上手くなったんだ。

 

 

 

 説明と書類の署名が終わるまで、さらに三十分ほどかかった。

 ヤマナシさんの対応は最後まで完璧だった。パパのくだらない冗談には笑い、ママの不安や質問には一つずつ丁寧に答え、バトラの生活習慣や食事についても、いかにも事前に確認してきたような返事をした。

 

 話がまとまってヤマナシさんが帰るとき、わたしは「お見送りしてくる」と玄関までついて行った。

 本当はお見送りをする気なんて一ミリもない。門の外、両親の耳が届かないところでわたしは問い質した。

 

「あの、ヤマナシさん」

「はい?」

「あなた、教育の人じゃないですよね」

「……はい?」

 

 ヤマナシさんは、きょとんとした。

 両親とヤマナシさんが手続きを進めている間に調べた“事実”を突き付ける。

 

「さっき部屋で調べたんです。特別編入制度って言いましたけど、連合政府の教育支援局のサイトにそんな制度載ってません。推進室なんて部署、組織図にもない。ロシリカの交流事業なら学院のパンフに全部書いてあるはずなのに書いてない。あなた、本当は何者なんですか」

 

 精一杯の強気だった。声もちょっと震えてたと思う。相手は政府の役人を名乗る怪人物で、こっちは中学生だ。でも、家族の安全がかかっている。こちらも引けない。

 ヤマナシさんはじっとわたしを見て、それから。

 

 ふ、と、顔が崩れた。

 

「……へえ。賢いねぇ~」

「……はい?」

 

 さっきまでの「ちゃんとした大人」が、どこにもいなかった。ネクタイの結び目をゆるっと緩めて、ポケットに片手を突っ込んでへらへら笑う、ただのノリの軽いお兄さんがそこに立っていた。

 ヤマナシさんは口を開いた。

 

「いや~、あの土壇場で組織図まで調べたの? さすが推薦組、優等生は違うわあ。それとも最近のデジタルネイティブは情報リテラシーがしっかりしてんのかな。えらいえらい」

 

 声まで変わった。さっきまでの丁寧で落ち着いた話し方はどこへ行った。

 

「ちょ……なに、その態度の変わりよう」

「営業モードって疲れんのよ。肩こるし」

「開き直った!?」

 

 ヤマナシさんは凝り固まった筋肉をほぐすように肩を回しながらわたしに訊ねた。

 

「で、賢いツキシマさんは、俺が何者だと思うわけ?」

「それをこっちが訊いてるんですけど!?」

「ははっ」

 

 ははっ、ってミッキーマウスみたいに笑うんじゃない。胡散臭さが倍増である。わたしはさらに追及した。

 

「じゃあ、本当の名前は?」

「ヤマナシ=タケル。そこは変わんないよ」

「連合政府教育支援局ってのは?」

「それも一応、本当」

「一応?」

「表向きはね」

「じゃあ裏の方は?」

「へえ。賢いねぇ~」

「それ、答えたくないときの逃げ道ですか」

「へえ。賢いねぇ~」

「腹立つな、この人!」

 

 わたしは精一杯力を込めて睨みつけてやるのだけれど、ヤマナシさんはけらけら笑うだけだった。両親の前で見せていた信用できそうな笑顔とはまるで違う。

 

「いやあ、ツキシマさんのご両親、善い人たちだねえ。話が早くて助かったわ」

「騙したんですか」

 

 わたしはムッとした。

 今回の件、パパとママはたしかにお人好し過ぎるというか無警戒にもほどがあると思うけれど、こんなふうにバカにされて良い気分はしない。

 そんなわたしのむっとした態度を読み取ったのか、ヤマナシさんは宥めるような仕草で答える。

 

「騙してない、騙してない。説明したことは全部本当だよ」

「バトラが普通の留学生みたいな言い方をしてましたけど」

「普通じゃない青少年を受け入れるための制度だから間違ってはいないでしょ」

「怪獣の話を一言もしていないでしょうが」

「それは機密だから」

「やっぱり大事なことを秘密にしてるんじゃないですか」

 

 わたしからの指摘も、ヤマナシさんには笑って流された。暖簾に腕押しとはこのことだ。押しても引いても手応えがない。何を訊いても「んー」「まあねえ」「そのへんはおいおい」。

 苛立ってわたしは踏み込んだ。

 

「……大体、なんでうちなんですか。ホームステイならうちの学校、もっとお金持ちの家がいくらでもあるでしょ」

「そりゃ君のとこがいちばん都合がいいからでしょ。あの子の『使命』的に」

 

 使命、という言葉でわたしは勘付いた。わたしがあいつに囮にされていることまで知ってるのか、この人。

 

「まあ、そう警戒しなさんなって。悪いようにはしないから」

「悪い人がよく使う台詞ですよね、それ」

「手厳しいねえ」

「そもそも、うちのことをどこまで調べたんですか」

「家族構成とか、学校の成績とか、生活状況とか。受け入れ先の審査だから、その辺は一通り」

「……どこまで知ってるんですか、あなた」

「んー……」

 

 ヤマナシさんは、空を見た。

 

「そうねえ。たとえば、ツキシマ=ツグミさん、十四歳。聖ロシリカ学院中等部二年、推薦入学。学業優秀、内申満点、先生方の評判もすこぶる良し。元・陸上部で、専門は短距離……だけど二百日ちょっと前から走ってない」

 

 心臓が、嫌な音を立てた。

 

「……っ、なんで、それ」

「俺はね、賢い子の履歴書は読んでから会う主義なの」

 

 へらへらした顔のまま、この人はわたしの一番踏まれたくない場所を靴の先で示してみせた。踏まなかった。示しただけ。それが逆に底知れなくて怖かった。

 

「……ま、そういうわけで」

 

 ヤマナシさんは、名刺をもう一枚出して、裏に何かをさらさら書いて、わたしに握らせた。

 

「何か困ったら、連絡してね」

「もう持ってますけど」

「裏」

 

 言われて裏返す。印刷された表面とは別に、裏には青いボールペンで電話番号が書かれていた。

 

「表に書いてある番号と違いますけど」

「表の番号でも一応つながるよ。まあ“表”のアシスタントを経由するから、話が俺のところに来るまで時間かかるけど」

「すぐに繋がらない番号を名刺に刷るな!」

「はは」

 

 ヤマナシさんは軽く手を振った。

 

「まあともかく、何か困ったら裏の番号に連絡してね」

「何かって?」

「何かは何かだよ。怪獣のことでも、バトラのことでも」

「答えられないことばっかりじゃないんですか」

「答えられなくても、聞いてあげることはできるよ」

 

 一瞬だけヤマナシさんの声から軽さが消えたような気がしたけれど、わたしが何かを訊く前に先ほどからのへらへらした表情へ戻った。

 

「あとは若い二人で仲良くね」

「そういう言い方やめて」

「同居初日から喧嘩しないように。じゃ、あの子のこと、よろしくね~」

 

 ひらひらと手を振って、ヤマナシ=タケルは夕暮れの住宅街に消えていった。手の中の名刺をひっくり返すと、裏には手書きの携帯番号がひとつ。

 

 ……わたしは、決めた。

 

 こいつだけは、絶対に、信用しない。

 

 

 かくして、バトラとの同居生活が始まった。

 

 初日の朝。食卓に当たり前の顔でバトラが座っている。ママの味噌汁を一口飲んで、動きが止まって、無言でもう一口飲む。ごはんを綺麗に食べきって、しばらく空の茶碗を見つめてから意を決したように言う。

 

「おかわり、というものを所望したい」

「はいはい! いっぱい食べてね!」

 

 ……ママ、嬉しそうだな。

 ちなみに「おかわり」の概念は昨夜わたしが教えた。教えた瞬間の、世界の真理に触れたみたいなあの顔は、ちょっと忘れられない。

 

 通学も一緒。徒歩十五分、距離三メートル。校門をくぐっても当然のように隣、教室でも隣、休み時間も隣。ロシリカ式の距離感(という誤解)のおかげで、教室の誰もツッコまなくなりつつあったのが逆に怖い。人間は慣れる生き物だ。怪獣黙示録を生き抜いた人類は伊達ではないらしい。

 そして、事件は昼休みに起きた。

 

「ねえねえ、ツグミちゃん」

 

 アヤノが、のんびりした足取りでわたしの席に来て、のんびりした声のまま、とんでもないことを言った。

 

「ツグミちゃんとバトラちゃんって、その……デキてるの?」

「ぶっ」

 

 飲みかけのパック牛乳が変なところに入った。アヤノ、あんたそんな語彙どこで覚えたの。進学校のお嬢様の口から出ていい言葉じゃないでしょ、それ。

 

「ど、どこでそんな言葉を……」

「昨日、お母さまの観てたドラマで……ほら、ずーっと一緒にいるでしょう? 朝も一緒に来るし、お昼も一緒だし、帰りも一緒だし。距離も、こう、近いなあって」

 

 わたしは断固否定した。

 

「そ、そんなわけないでしょ! これはその、複雑な事情というか、腐れ縁というか、とにかく断じてそういうのじゃ……」

 

 必死に否定するわたしの横で、当のバトラが、顔も上げずに言った。

 

「デキている、の定義は知らんが」

 

 なぜかは知らないが、続きを言わせてはいけないような気がした。

 嫌な予感がする中、バトラは平然と言った。

 

「わたしはツキシマの家に、ホームステイしている」

 

 ……。

 …………。

 教室の時が止まり、それから爆発した。

 

「「「同棲!?」」」

 

 違う! 違うのに!!

 ホームステイなのに。交流事業なのに。中等部二年の教室に「同棲」の二文字は刺激が強すぎた。ざわめきはもう手のつけられない山火事だった。

 わたしの声をかき消すように、教室のあちこちで声が上がる。

 

「同棲じゃん……」

「転校してすぐ!?」

「展開早くない?」

「ツキシマさん、真面目な人だと思ってたのにそういう感じだったんだ……」

「バト×ツグ、いやツグ×バト……推せる!」

 

 そこの男子、わたしをどういう感じだと思ってるんだ。それから勝手に他人でカップリングしてる奴、推せる!じゃあないんだよ実在人物題材のナマモノ同人はハーメルンの規約違反だぞ。

 わたしの懸命な火消しは間に合うことなく、広がる波紋はクラスメートの中で連鎖反応を起こしてゆく。

 

「ど、同棲って、大人じゃん……!」

「展開早くない?」

「昨日まであんなに塩だったのに……」

「ツンデレ、ツンデレって奴なのか?」

「これがロシリカ……」

 

 最後のやつ、ロシリカに謝れ。

 喧噪の中、バトラが眉を寄せてわたしに訊ねた。

 

「同棲とは何だ」

「同じ家で暮らすことだよ」

「なら、合っているな」

「合ってない!」

「同じ家に棲む。事実だろう」

「おまえはもう喋るな!」

 

 アヤノだけが、騒ぎの外で、ふわふわと嬉しそうに笑っていた。

 

「そっかあ。よかったねえ、ツグミちゃん」

 

 何が、何がよかったの。ねえアヤノ、何がよかったの。

 わたしは机へ突っ伏した。今日一日が始まってまだ半分しか経っていない。

 ああ、もう早く帰りたいよう……。

 

 

 それから放課後。

 

「来たぞ。三匹……走れ」

「もうちょっと心の準備をさせて!」

 

 夕暮れの河川敷を、わたしは全力で走っていた。背後からずるずると湿った足音が三つ。セルヴァムたちは本当にわたしの匂いを覚えていた。マーキングというのはマジだったのだ。

 記念すべき囮業務の初実戦である。ちっとも記念したくない。

 

「そのまま橋の下まで引っぱれ! 一箇所に固めて焼く」

「ぜっ、はっ、し、死ぬ! 死んじゃうから……!」

「大丈夫だ、間に合ってる」

「間に合ってるの基準がわかんない!」

 

 頭上を、バトラの黒い影がすうっと滑っていく。魔法少女が、他人の決死の逃走を空から呑気に見物している。この構図、絶対おかしいと思う。

 橋の下に駆け込む。振り向く。三対の、まぶたのない目。

 

「伏せろ」

 

 その言葉で伏せると同時、頭の上を紫の閃光が薙いだ。熱風。焦げた匂い。目を開けたら、三匹ぶんの黒い炭が、河川敷に崩れていくところだった。

 

「……ほら。効率がいいだろう」

 

 ふわりと降り立った彼女は、埃ひとつついてない顔で言った。わたしは地面に大の字のまま、ぜえぜえと抗議した。

 

「効率じゃない……人の命を、なんだと……」

「じゃないと死ぬぞ」

「その返しずるくない?」

 

 取り付く島もなかった。わたしは大の字のまま暮れていく空を見た。心臓がばくばくいっている。太ももが痛い。明日は筋肉痛で階段が地獄だろう。

 ……なのに。

 

 なのに、この胸の奥の、火照りみたいなのは、何だろう。

 

 恐怖で。強制で。最悪の理由で走らされているのに、わたしの身体は二百十三日ぶんの錆を勝手に落として、風の味なんか思い出しはじめている。やめてよ。誰も頼んでない。

 ふいに、頭の上から声が降ってきた。

 

「……おまえ、走るのが速いな」

 

 なんでもない一言だった。彼女にしてみればたぶん囮としての性能への評価で、犬の鼻がいいくらいの意味だろう。分かってる。分かってるけど。

 わたしは何も答えられなかった。

 

「……。」

 

 起き上がって、膝の砂を払って、目を逸らした。それだけ。

 でもバトラはじっとわたしを見て、それからふいと視線を外した。

 

「……帰るぞ。晩飯に遅れる」

 

 それきりその話はしなかった。人情の機微なんかまるで分からないくせに、そういうところだけ妙に聡い奴だ。こいつなりに気を遣ったんだろうか。

 その直後だった。

 川面が音もなく割れ、巨大な影が飛び出してきた。セルヴァムの四匹目だ。わたしの視界の端で、開いた口と二重三重の歯が、夕陽を反射して……

 

  あ、と思ったときには、わたしの身体は突き飛ばされていた。

 

 河原の石に転がって、肩を打って、顔を上げて見たとき、さっきまでわたしがいた場所にバトラが立っていた。飛んで避けたんじゃない、割りこんだのだ。わたしと怪物のあいだに、自分の身体を。

 怪物の爪が、バトラの左腕を裂いていた。

 

「ぐッ……」

 

 呻きもそこそこに、バトラはゼロ距離でツノを光らせた。閃光は迸り、セルヴァムの四匹目が炭になった。それで、今度こそ終わり。河川敷に、川の音だけが戻ってきた。

 すべて一瞬の出来事だったけれど、わたしもそこでようやく我に返った。

 

「ば……っ、腕! 腕、血ぃ出てる!」

「騒ぐな。掠り傷だ」

 

 バトラの左腕から血が垂れている。制服の袖は裂け、その下には深い傷が見えた。

 

「見せて!」

「問題ない」

「問題しかないでしょ!」

 

 腕を取ろうとすると、バトラは避けようとした。

 

「触るな」

「怪我してるんだから、大人しくして!」

「すぐに治る」

「そんなわけが……」

 

 言い終わる前にバトラの腕の傷口が動いた。出血が止まり、裂けていた皮膚が内側から引き合うように閉じていく。

 そして数秒後には、薄い赤い線を残すだけになっていた。

 

「……言っただろう」

 

 ほら言った通りでしょと言わんばかりのバトラの顔がどこか得意げに思えて癪だったので、わたしは言い返した。

 

「そういうことは先に説明してよ」

「訊かれなかったからな」

「腕を抉られたら再生しますか、なんて普通は訊かないの!」

 

 バトラは裂けた制服の袖を見た。

 

「これは戻らんな。着替えが必要だ。小美人たちに頼んでおこう」

「いや、それより……」

 

 わたしは言葉を失った。

 傷は治った、だから問題ない? そういう話ではないはずだ。

 バトラは迷わずわたしを庇った。セルヴァムが飛び出した瞬間、考える時間なんてほとんどなかったはずだ。

 それでも、わたしと爪の間へ自分の身体を入れた。

 

「どうして……」

 

 思わず呟くわたしに、バトラは答えた。

 

「……囮に死なれたら、効率が悪いだろ」

 

 バトラはそっけなく言ってそっぽを向き、わたしは唖然としてしまった。効率。また効率。こいつの辞書には効率しか載ってないのか。

 

 ……でも。

 さっきの割り込みに、効率なんて一グラムもなかった。計算してる暇なんかない一瞬だった。こいつは考えるより先に、身体でわたしとセルヴァムのあいだに入ったのだ。囮だなんだと雑に扱うくせに、命を守るところだけは一ミリも雑じゃない。

 「守ってやる」は、脅し文句でも取引の建前でもなくて、バトラにとっては、ただの実行予定なんだ。

 

「…………りがと」

「あ?」

「ありがとう、って言ったの! 一回しか言わないから!」

 

 そっぽを向いたまま、早口で言い捨てた。沈黙が続きおそるおそる横を見ると、バトラはものすごく変な顔をしていた。眉間にしわを寄せ、お礼の受け取り方が分からないという顔だ。

 しばらく呆然としたあと、やがてバトラはこれだけ言った。

 

「……そうか」

 

 夕陽が川面で砕けてまぶしい中、わたしたちはどちらからともなく歩き出した。

 

 

 夜。夕飯は、唐揚げだった。

 うちのママの唐揚げは、下味が濃くて衣がざくざくしている。世界一とは言わないけど、たぶん県大会くらいは行くだろう。それを一口かじったバトラの赤い瞳が、まんまるに見開かれた。

 

「……!?」

「ふふ、どう? バトラちゃん」

「……外は硬いのに中は柔らかい。肉なのに二段階ある」

「メロンパンのときもそれ言ってたね」

「二段階は、うまい」

 

 断言だった。ママが笑って、パパが「わかってるねえ」とビールを傾けて、バトラの皿に唐揚げが追加された。バトラは真剣な顔で、一個ずつ噛みしめるみたいに食べた。食べたものを全部、どこかに記録してるみたいな食べ方だった。

 

 わたしはその横顔を、麦茶を飲みながらなんとなく見ていた。

 バトラがこれまで棲んでいた「家」をわたしは見てしまっている。ヒルズの最上階でテレビもなく、モデルルームみたいな生活の匂いのしない部屋。あそこから来た子が今、揚げ物の匂いと、テレビの音と、パパの晩酌と、ママの「まだあるからね」の中に浸かっている。

 ……べつに。べつに、いいけどね。うちの唐揚げで良ければ、いくらでも食べればいい。

 

「ツグミも食べなさいよ、ぼーっとして」

「た、食べてます~」

 

 

 夕食後、やっと一人になれる。

 そう思いながら、わたしは浴室の扉を閉めた。服を脱ぎ、身体を洗い、湯船へ浸かる。

 

「はあ……」

 

 学校ではずっと3メートルで、帰り道も3メートル、家へ帰っても同じ食卓。

 一日じゅう半径数メートル以内に怪獣がいる生活で、唯一怪獣に侵されないわたしの聖域。それがお風呂である。

 温かい湯に浸かり、縁に背中を預けて目を閉じる。

 ……静かだ。聞こえるのは、換気扇の音と、湯が小さく揺れる音だけ。

 ああ、平和。これこそが平和だ。風呂はいいね。風呂は心を潤してくれる。リリンの生み出した文化の極みだよ……。

 湯船に肩まで沈んで、はー、と息を吐いて寛いでいたとき、脱衣所の扉が開く音がした。

 

「……ママ?」

 

 返事はないまま、浴室の扉が開いた。

 

「失礼する」

「~~~~っっ!?!?」

 

 悲鳴にならない悲鳴を上げて、わたしは湯船で膝を抱えた。バトラが当たり前のような顔をしてそこに立っていた。

 

「な、ななな、なんで入ってくんの!? 出てって! ここだけは、ここだけは駄目!!」

「駄目ではない。むしろ、ここが一番危ない」

「はあ!?」

 

 バトラは大真面目な顔で言った。

 

「風呂こそ無防備だ。衣服なし、武器なし、逃げ場なし。襲撃するならわたしでもここを選ぶ。よって警護が必要だ」

「理屈が通ってるのが一番腹立つ!!」

 

 バトラは真剣だった。本当に、ただ護衛するつもりでいるのだ。こちらの羞恥心やプライバシーは怪獣の危険性より優先順位が低いらしい。

 

「とにかく出て!」

「わたしも風呂に入れと言われた」

「誰に!?」

「おまえの母親に」

 

 ママよ、いったいなんということをしてくれている。

 

「一緒に入れとは言われてないでしょ!」

「時間の無駄だ」

「効率でお風呂を共有するな!」

「湯も節約できる」

「家庭に馴染む方向性が間違ってる!」

 

 押し問答の末、わたしが折れた。怪獣は体力でも理屈でも減らず口でも「おまえを守るためだ」と頑として譲らない。かくして人生初の、同級生(怪獣)との入浴と相成った。

 

「絶対こっち見ないで」

「なぜ見る必要がある」

「そういう言い方も腹立つ!」

 

 ……乙女の尊厳に誓って言うが、色っぽいことなど何ひとつなかった。あったのは理不尽と、湯気と、風呂に接した際の怪獣の生態観察だけである。

 バトラは、シャンプーで泡立った自分の頭を鏡で見て「増えた」と言った(泡が)。湯船には直立の姿勢のまま、ずぶ、と沈んだ(浮力と戦うな)。そして肩まで浸かって数秒後、ぽつりと言った。

 

「ヒルズのはこうじゃなかった」

「え、お風呂なかったの?」

 

 わたしの言葉に、バトラは首を振った。

 

「あった。広かった」

「自慢?」

「湯が冷めにくく、温度も自動で維持される」

「すごく自慢に聞こえるんだけど」

「だが、こうではなかった」

 

 それきりバトラは黙って、湯船の縁に顎を乗せて目を細めていた。

 ヒルズの風呂と何が違うのか、わたしには分からなかった。広さなら絶対に向こうが上だろうし、快適さでもまあ上回るだろう。

 でも、彼女が「こうではなかった」と言うときの「こう」には狭い浴室の湯気と、換気扇の音と、壁越しに聞こえるテレビの気配が含まれている気がして、わたしはそれ以上、訊かなかった。

 

 

 そして、就寝である。

 客間なんて上等なものはうちにない。というわけで、わたしの部屋に布団がひと組追加で敷かれた。ベッドのわたしと、床の布団のバトラ。距離、三メートル。二十四時間営業の半径三メートルだった。

 

「……あんたと一緒の部屋なんて寝られないんだけど」

「安心して寝ろ」

「存在が気になるの」

「気にするな」

「それが出来れば苦労はしねェ!!」

 

 バトラは布団の上に正座して、言った。

 

「見張っておいてやる」

「見張られてたら余計寝れないんだわ!!」

 

 電気を消しても、駄目だった。暗闇の中、隣の布団から、規則正しい呼吸だけが聞こえてくる。寝てるのか起きてるのか分からないが、たぶん起きているだろう。バトラのことだから本当に朝まで「見張って」いる気だ。

 

「寝ないの?」

「しばらく警戒する」

「ちゃんと寝ろって、この前言ったでしょ」

「ここなら補導されない」

「そこを改善点にするな」

 

 数日前まで他人だった、人間ですらない同級生が、自分の部屋の床で息をしている。この状況に順応できる十四歳がいたら連れてきてほしい。

 寝返りを打つ。打ち直す。羊を数える。羊が三十匹あたりから、ぬるっとセルヴァムに変わる。最悪。

 ……結局、カーテンの向こうが白みはじめるまで、わたしはほとんど眠れなかった。

 

 

 翌朝の教室で、わたしは死んでいた。

 

「ツグミちゃん、おは……わ、どうしたの、その隈。目の下、すごいよぉ」

「寝不足」

「どうして?」

 

 アヤノがふわふわと心配してくれた。わたしは机に突っ伏したまま頭が働かない。まぶたが重い。

 隣の席にはいつもどおりバトラがいる。本人はきれいな顔でまったく眠そうに見えない。怪獣の体力が憎い。体力お化けかこいつは。

 アヤノが訊く。

 

「昨日、何かあったの?」

「バトラと寝たから……」

「えっ」

 

 唖然としたアヤノの驚く声に顔を上げたとき、わたしを見ていたアヤノの顔をわたしは一生忘れないと思う。ふわふわした目がまんまるになって、両手が口元を覆って、頬が、ぽっ、と赤くなった。

 

「い、一緒に、寝てるの……?」

「…………ん? ……あ」

 

 違う。いや、違わないけど、そういう意味じゃなくて。

 

「同じお部屋で?」

「部屋がなかったから」

「ひょっとしてお風呂も?」

「何で知ってるの!?」

 

 アヤノの口がぽかんと開くのを見てから、わたしは自分が言ってしまった言葉の意味を理解した。何で知ってる、認めたようなものだ。つまりバトラと一緒に風呂に入ったことを。

 

「だってシャンプーの匂いが一緒だったから……お風呂も一緒なんだぁ……」

「違うの。バトラが勝手に入ってきて」

「風呂のツキシマは無防備だった」

「バトラ、あんたは黙ってなさい」

「事実だ」

「事実を並べるほど誤解が深まる状況ってあるんだよ!」

 

 アヤノは両手で頬を押さえて、目がきらきらしていた。

 

「学校でもずっと一緒で、家では同棲して、お風呂にも一緒に入っちゃって、夜も一緒に寝て寝不足になっちゃうんだあ……!」

 

 違う、断じて違う。単におなじ浴室で風呂に浸かったという事実の報告であって、断じてそういう――と、訂正すべき言葉が頭の中に並んだけど、徹夜明けの脳はその長い説明を組み立てて発話するコストを見積もって静かに諦めた。

 もう駄目だ。訂正するための体力が残っていない。

 

「……もう、それでいいや……」

「よ、よくないよう! わたしたちまだ中学生だよ!? ツグミちゃん、その、じゅ、順番とか、心の準備とか、ご両親へのご挨拶とか……!」

 

 何の順番、何の準備? 両親への挨拶ならヤマナシさんが済ませたよ。

 アヤノの誤解が音を立てて深まっていくのが分かった。分かったけど、眠さが限界だ。隣の窓際の席では、諸悪の根源が涼しい顔で教科書を読んでいた。

 

 こうして、わたしと怪獣の同居生活は始まった。

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