バトラが「山に行く」と言い出したのは、チタノザウルスの一件からしばらく経った朝、八月の初旬だった。
わたしが冷蔵庫から麦茶を出している横で、バトラは食卓の上に広げた地図を睨んでいた。どこから持ってきたのか、観光案内所でもらうような高原リゾートのパンフレットである。
「……今度は山?」
「ああ」
「海の次は山。順当にいけば次は川か砂漠かな」
「知らん」
バトラは赤い瞳を細め、地図に印刷された湖を指で押さえた。
「三日前、この湖に何かが入った」
「何かって?」
「分からん。湖で動いている反応がある。セルヴァムではない。前に海で倒した奴と、近い気配だ」
チタノザウルスを狙って現れた、ゴジラ=アクアティリス。
死ぬ間際、その身体から飛び出した赤い塵は空の彼方へ消えた。バトラにもヤマナシさんたちにも、あれがどこへ向かったのか分からなかった。
はっきりしているのはまだ終わっていないということだ。
「じゃあ、またゴジラが出るかもしれないってこと?」
「可能性はある」
「湖に棲んでる怪獣を狙って?」
「それも分からん」
分からないことばかりである。なのに当の本人は、朝食のトーストへ二枚目のチーズを載せるときと同じくらい、行動を起こすことに迷いがなかった。
「それで、どこの山だって?」
パンフレットを引き寄せて開く。都心から電車とバスで三時間ほどの高原リゾート。キャンプ場、コテージ、湖畔の遊歩道、乗馬体験。色とりどりのテントが並ぶ写真の上に、大きな文字で〈大自然と出会う夏〉と書いてあった。
「……普通に観光地じゃん」
「だから確認に行く」
「確認って、どうやって?」
「行けば分かる」
その理論で前回わたしたちは、海棲恐龍とゴジラの水中形態が殴り合う現場に居合わせたのだけれど。
反論を言いかけたところで、玄関のチャイムが鳴った。朝の八時十五分、大人たちは既に仕事に出ているし、夏休み中の市民を訪ねるにはだいぶ非常識な時間である。
「誰だろ」
「ヤマナシだ」
「なんで分かるの?」
「車のエンジン音を覚えた」
流石怪獣の聴力だ。どうかその能力をもっと有益なことに使ってほしい。
玄関を開けるとバトラの言うとおり、ヤマナシ=タケルが立っていた。薄手のジャケットにノーネクタイ。片手には分厚い封筒、もう片方にはコンビニのアイスコーヒー。
「おはようございまーす。教育支援局から楽しい夏のご案内に来ましたー」
「帰ってください」
「まだ何も言ってないのに」
「教育支援局を名乗るときのヤマナシさんは、だいたいろくな用事じゃないので」
「賢いねぇ~」
ヤマナシさんを居間へ通すと、彼は食卓に封筒の中身を広げた。
参加要項。保護者同意書。健康調査票。そして、妙に立派な冊子で表紙にはこうあった。
『連合政府教育支援局主催 特別編入生徒文化適応キャンプ ――自然体験を通じた相互理解プログラム――』
「何ですかこれ」
「キャンプのしおり」
「なんの?」
「書いてあるじゃない。特別編入生徒文化適応キャンプ」
特別編入生、つまりバトラのことである。そのことを訊ねると、
「そう。外国から来た生徒さんに、この国の豊かな自然と文化を知っていただこうっていう、教育的で心温まる試みです」
「怪獣を探しに行くんですよね?」
「自然体験だよ」
「怪獣を探しに行くんですよね?」
「大自然との出会いに、多少の大型生物が含まれる可能性は否定しません」
「怪獣を探しに行くんですよね?」
「……君、夏休みに入ってから押しが強くなったね?」
ヤマナシさんは観念したようにアイスコーヒーを啜った。
前回の海ではわたしたちが勝手に現地へ行き、ヤマナシさんたちとGフォースが後から状況を包み込んだ。今回は最初から、移動手段も宿泊場所も保護者への説明も用意してあるらしい。
「海のときは丸投げだったのに、なんで今回はこんなに手厚いんですか」
「俺、偉い人に怒られて反省したのよ」
「ヤマナシさんが?」
「失礼だなあ。俺だって反省くらいするよ」
「何をですか」
「君らを放っとくと、どうせ自力で行っちゃうじゃない」
反省の方向がおかしい。ヤマナシさんはへらへら笑いながら続けた。
「だったら、最初から俺の書類の中に入っててもらったほうが守りやすいでしょ。勝手についてきて俺の知らないところで巻き込まれても困るし、宿泊先で怪獣に食われても報告書が面倒だし」
「いま、わたしたちの命より報告書を先に心配しませんでした?」
「まさか。命が九で、報告書が一くらい」
「一あるんだ……」
しおりをめくる。一日目、現地到着。自然観察。自由時間。二日目、文化交流。自由時間。三日目、自由時間。自由行動。その後は解散。
「自由時間が多すぎません?」
「ほら、総合的な学習って奴? 文化というのは、自由な時間の中で育つものだから」
「後半、完全に何も考えてないでしょ」
「現地の状況に応じて柔軟に対応する余白と言ってほしいな」
さらにページをめくる。
参加者名簿にはわたし、バトラ、カンナの三人の名前が記載されていたが、アヤノの名前はないことに気づいた。
「……アヤノは?」
訊いてから少しだけ後悔したが、そのことに気づかないままヤマナシさんは答えた。
「まあ、彼女は関係ないからね。関係のない生徒まで連れていくと、書類上いろいろ難しいの」
「カンナは関係あるんですか」
「彼女は記録係ってことで」
「何の記録ですか」
「異文化交流の」
「あいつ、怪獣の映像を撮る気満々ですよ」
「そこは教育的指導で。勝手についてこられて好き放題撮られるよりはマシでしょう?」
つまり、都合のいい書類を作ったけれど、アヤノまで入れる理由は作れなかったらしい。
海に行ったときのことが頭に浮かんだ。ビーチパラソルの下でラムネを配ってくれたアヤノ。三人だけで旅行の相談をしていたわたしたちを見つけて、それでも笑ってホテルの券を出してくれたアヤノ。
帰るとき、彼女がこんなことを言ったのをわたしは覚えていた。
『次は、最初から混ぜてもらえたら嬉しいなぁ』
……ごめん、アヤノ。次の次にはきっと呼ぶからね。
そんなことを考えながら、わたしはしおりを閉じた。
「……分かりました。パパとママ……じゃなくて家族には?」
「もう話してある。教育局の公認プログラム、引率者つき、宿泊施設の安全確認済み。お母さん、喜んでたよ。『娘の教育にぜひ』って」
「……そうですか」
「胸が痛い?」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「怪獣かなあ」
絶対に違う。
高原へ向かうバスの中で、カンナは乗車して十五分後には三回怒られた。
「皆さんごきげんよう、禁断の真実を追う怪獣探求者、『大怪獣のカナリア』のCanaryです。本日は政府主催の謎めいた探検へ潜入して……」
「はい、そこまで」
後ろの席から伸びてきたヤマナシさんの手が、カンナのカメラのレンズを塞ぐ。
「なんでですか!」
「政府主催の謎めいた探検って、自分で言っちゃってるから。これはあくまでも教育のためだからね」
「でも嘘は言ってないでしょ!」
「真実を言えば何でも許されるわけじゃないんだよ、ミサクラさん。世の中には、言わなくていい真実がたくさんあるの」
「それ、政府の人が言うと怖いんですけど」
カンナは不満げにカメラを下ろした。
その横で、バトラは窓の外をずっと見ている。市街地が途切れ、田畑が増え、やがて道路の両側を深い森が覆った。標高が上がるにつれて、窓ガラスの向こうの空が近づいてくる。
ふと感想を聞きたくなり、わたしは訊ねた。
「どう?」
バトラは少し考えてから答えた。
「山だな」
「見れば分かる感想をありがとう」
「海より静かだ」
エンジン音の向こうで、蝉の声が聞こえていた。平地よりいくらか涼しい高原の風がわずかに開いた窓から入ってくる。
バトラはその風へ顔を向けながら呟いた。
「嫌いじゃない」
誰に言うでもなく呟いたように見えたので、わたしは聞こえなかったふりをした。
目的地へ着いたのは昼前、バスを降りると最初に見えたのは湖だった。
深い森を切り抜いたような青い水面。遠くの稜線まで、雲の影がゆっくり流れている。湖畔には色とりどりのテントが並び、子供たちの声と薪の燃える匂いが風に乗ってきた。
海とは違う。森と山に抱え込まれ、世界の底に水だけが静かに溜まっているみたいだった。
管理棟の前にはスタッフらしき人たちが数人待っていて、その中央に見覚えのあるふわふわした姿があるのにわたしは気づいた。
……クリーム色のカーディガン。つばの広い白い帽子。小さな鳥の髪留め。ふわふわの癖っ毛。見覚えのありすぎる、やわらかい立ち姿。
「あ、来た来た。いらっしゃい、ツグミちゃん」
ここにいるはずのない人物、オバナザワ=アヤノがにこにこしながら立っていた。
わたしは、降ろしかけていた鞄を足元へ落とした。
「アヤノ、なんで……?」
「来ちゃった」
カンナも口を開けたまま固まっていたが、バトラだけは特に驚いた様子もなくアヤノを見る。
「アヤノ、おまえも参加するのか」
「そのつもりだよぉ」
「いやいやいやいや」
我に返ったカンナが両手を振った。
「そのつもりって何!? どうやって知ったの!?」
「昨日の晩ごはんのときに、パパが『聖ロシリカ学院さんの団体が来る』って話してたから」
「それだけで!?」
「ツグミちゃんたちかなぁって」
「勘が鋭いとかいうレベルじゃない!」
「違った?」
「合ってるけど!」
ヤマナシさんは、片手で額を押さえていた。
「だからオバナザワさんは名簿へ入れなかったんだけどなあ……」
ヤマナシさんはアヤノの実家のことを知っていたみたいだった。そのことを言うと、
「そりゃ知ってるよ。君らの身辺調査、うちでどれだけやったと思ってるの」
「さらっと怖いこと言わないでください」
「ただ、家族間の会話から本人に漏れるとは思わなかった。情報統制の盲点だなあ……」
アヤノは、わたしとカンナの顔を交互に見た。
「言ってなかったっけ。ここ、うちの会社のリゾートなの」
アヤノが指さした先、管理棟の壁には銀色のプレートが掲げられていた。『MARUTOMO・OBANAZAWA HIGHLAND RESORT』と書いてある。
「マルトモ・オバナザワ ホールディングス……」
カンナの声が震えた。
「国内外にホテル三十二棟、スキー場八か所、テーマパーク二か所、高原リゾート六か所を所有する、あのマルトモ・オバナザワ ホールディングス?」
「たぶん、それだよぉ」
「ただのお家はキャンプ場ごと所有してないんですよ!?」
「キャンプ場だけじゃなくて、この湖の周りの土地もだいたいうちかなぁ」
「言い方が地主!」
わたしも驚いてはいたが、驚き方で負けたくはなかった。アヤノの実家がかなりのお金持ちなのはなんとなく知っていたが、まさここまでとは。
「じゃあ、海のホテルも?」
「うちの系列だよ」
「……あの宿泊券、パパのお仕事の付き合いでもらったって言ってなかった?」
「うちのホテルの招待券を取引先からもらったの」
「世界が一周して戻ってきてる」
アヤノは少し申し訳なさそうに笑った。
「自分の家のことって、どこからが普通じゃないのかあんまり分からなくて」
「キャンプ場と湖を所有してるのは確実に普通じゃないよ」
「そっかぁ」
ヤマナシさんは長いため息をついた。
「……追い返しても、別荘はすぐそこなんだよね?」
「歩いて十分くらいです」
「施設側の人間なら、立入禁止にもできないよね。保護者の了承は?」
「来るって言ったら『スタッフの邪魔をしないように』って」
「強いなあ、創業者一族」
ヤマナシさんはしばらく空を仰ぎ、それから鞄から予備の名札を取り出した。
「……分かりました。これからご家族には確認するけど、オバナザワさんも参加者扱い。勝手な行動は禁止、危険区域には近づかない。何かあったら必ず俺か施設スタッフに連絡すること」
「はい」
「あと、現場で見聞きしたことは外へ話さないでね」
「はい」
「簡単に答えるなあ。内容を理解してる?」
アヤノは、ほんの少しだけ間を置いた。
「ツグミちゃんたちが、ここへ遊びに来たわけじゃないことは分かってます」
わたしは何も言えなかった。
アヤノはそれ以上追及せず、受け取った名札を胸につけた。
「でも、今日は一緒にいてもいいんだよね?」
「……うん」
返事が遅れたことには、たぶん気づかれていたと思う。
午後は驚くほど本当に、普通のキャンプだった。
テントとフライを張り、森の中の遊歩道を歩き、夕食のカレーを飯盒で炊いた。ヤマナシさんは「引率者」を名乗りながら、準備が始まると施設スタッフへすべてを任せて木陰でコーヒーを飲んでいた。
「ちゃんと働いてください」
「働いてるよ。何も起きない時間を維持するのも俺の仕事」
「その理屈、便利ですね」
「大人になると使えるようになるよ」
「大人になりたくなくなってきた」
飯盒炊爨では、バトラが火起こし係を買って出た。薪の山を見つめて神妙に言う。
「燃える条件は揃っている」
「条件だけで火は起きないよ」
「分かっている」
「分かってる人は、そんな台詞から始めないの」
バトラは施設から借りたチャッカマンで火をつけようとした。火種の新聞紙は燃えるが、薪に燃え移らない。もう一度。失敗。三度目。
五分後、薪の前には、額にうっすら汗を浮かべたバトラがいた。
「プリズム光線なら一瞬なんだが」
「山火事になるからやめて」
「出力を絞ればいい」
「記憶を消すのと同じくらい信用できないから絶対やらないで」
結局、アヤノが慣れた手つきで新聞紙を丸め、薪の隙間へ差し込んだ。
「空気の通り道を作ると、燃えやすいんだよぉ」
「知っている」
「今、教えてもらったよね?」
「確認しただけだ」
火が安定すると、バトラはしゃがみ込んだまま炎をじっと見つめていた。
「何見てるの」
「火だ」
「それも見れば分かる」
薪の表面を這う橙色の炎をしばらく追いながら呟く。
「同じ形が一度もない」
「そりゃ、火だからね」
「なのに、燃えていると分かる」
「……それで?」
「悪くない」
バトラの評価基準では、だいぶ高い褒め言葉である。
皆で作ったカレーは少し水っぽかったしご飯は底が焦げていたが、それでも外で食べると妙においしいのは流石キャンプである。
バトラは二杯目を食べ終えてから、焦げたご飯の塊を箸でつついた。
「これは二段階だ」
「焦げてるのに?」
「表面は硬いが、中は甘い。味が二段階ある」
「その二段階、便利すぎない?」
カンナがすかさずカメラを向ける。
「バトラさんによる野外飯レビュー! 焦げも個性として受け入れる懐の深さが……」
「撮るな」
「顔は映してない!」
「声も駄目だ」
「厳しい!」
アヤノは、その様子を楽しそうに見ていた。
わたしが視線へ気づくと、いつもの笑顔で訊いてくる。
「楽しそうだねぇ」
「アヤノもでしょ」
「……うん。楽しいよ」
それだけだった。
でも、なぜだろう。海で「流石親友」と言ったときの、ほんの少し遅れた返事を思い出した。
夕食のあとにキャンプファイアを囲み、施設の子供向けイベントで配られたマシュマロを炙っていたときだった。
「……この山にはね、古くから山の神が棲むって伝説があるの」
焚き火を照明代わりに、カンナはスマホへ保存した資料を見せる。
古い郷土誌の写真で、墨で描かれた四肢と長い尾を持つ動物の絵が描かれている。両手足のあいだにはマントを広げたみたいな皮膜があって、それを広げた状態で空を飛ぶ姿は忍者、あるいはムササビに似ていた。
その動物を指しながらカンナが言った。
「その名も
「ばらだぎ?」
バラダギサンジン。なんだか厳めしい名前で、いかにも神社とかに祀られていそうな風格がある。
その婆羅陀魏山神とやらについてカンナは続けた。
「婆羅陀魏山神、古くから湖に住み、空を飛び、陸海空すべてを支配する伝説の山の神。東北とか内陸の地方とかあちこちの山に伝説が残っていて、実際に目撃した人もいたんだって」
「へえ」
カンナの声が、すん、と低くなった。こういうときのカンナはちょっとだけ本物の語り部の顔になっていて、伊達に配信者をやってないなと思う。
「この婆羅陀魏山神の正体は、山で生き延びてきた古代怪獣の生き残りじゃないかってのが通説で、怪獣界隈では正体不明の未確認怪獣として超有名なの。目撃記録は怪獣黙示録より前で途絶えてるんだけど、山を渡る白い影とか、嵐の前に聞こえる鳴き声とか、そういう話が残ってて」
カンナの目が焚き火を映してきらきらと輝いている。
「怪獣黙示録以前の最後の目撃から、半世紀以上。怪獣界隈の聖杯。もし本当に生き残ってたら……」
「仮に撮れても公開できないからね」
「分かってるよ! でも撮影までは禁止されてないでしょう?」
「どうしてそこだけ法律家みたいになるの」
アヤノが、スマホの古い絵をのぞき込んだ。
「あ。この祠、知ってるかも」
「え?」
「絵の後ろにある祠の石像。うちの別荘地の近くに似たものがあったって、おじいちゃまが言ってた」
「祠があるの!?」
カンナが身を乗り出す。アヤノは首を振った。
「いまはもうないと思う。わたしが生まれる前に道を広げる工事があったから」
「壊したの?」
「移したって聞いたけど……どこへ移したのかは知らないなぁ」
アヤノは焚き火へ目を落とした。
「おじいちゃまが若い頃、この辺りはまだマルトモの土地だったんだって。マルトモがホテルや別荘をどんどん建てて、山の道も変わって。怪獣黙示録が始まって、ゴジラのせいでマルトモの会社が駄目になってからうちが買ったっておじいちゃまが言ってた」
ちなみにマルトモというのは会社の名前である。往年のマルトモは無茶なリゾート開発による環境問題を起こしたことで知られており、そういった環境破壊や商業主義の行き過ぎが怪獣を呼び起こしたのだとされ、怪獣黙示録時代の大事な教訓として教科書にも載っている。マルトモはわたしたちが生まれるより前に潰れちゃったと聞いていたけれど、実際にはオバナザワ家に買われていたようだ。
アヤノの話に、カンナがバッと身を乗り出した。
「じょ、情報の価値が分かってますかオバナザワさん!? それ一級史料ですよ!? あとで場所教えてください、拝みに行くんで!」
「うん、いいよぉ」
アヤノとカンナが盛り上がっている中、バトラだけが湖を見ていた。
……バトラ? わたしが問いかけると低い声で答えた。
「……いる。湖の底か、その下だ。大きなものが動いた」
「ゴジラ?」
「分からない。気配が混ざっている」
バトラは立ち上がった。
肩へかかった黄色いメッシュが夜風に揺れる。
「見てくる」
「一人で?」
「偵察だけだ」
「わたしも……」
「来るな」
即答だった。
「暗い森で、おまえの脚は役に立たん。人間の目は夜に弱い」
「ライト持っていったら?」
「わたしが飛んだほうが速い」
反論できない。
バトラはヤマナシさんへ短く何かを伝え、木々の隙間へ姿を消した。変身して飛ぶわけではない。人目を避けるため森へ入ってから上空へ出るらしい。
「大丈夫かな」
わたしが呟くと、ヤマナシさんはスマホを見ながら答えた。
「何も見つからなければ三十分で戻る。何か見つけたら連絡するってさ」
「何かあったら?」
わたしが念を押すと、ヤマナシさんはスマホを弄ってから答えた。
「サカキさんたちが麓で待機してる。すぐ動けるよ」
「来てるんですか、Gフォース」
ちょっと驚いた。最初に誘ったときのバトラの口ぶりだと単なる偵察のような言い様だったが、これじゃあまるで軍事作戦じゃないか。まあ本当に怪獣が出てきたら対応できないから、むしろGフォースが出張った方が良い気もするけれど。
ヤマナシさんは言った。
「キャンプの引率に軍隊は大げさだから、しおりには書かなかったけどね」
「むしろ最初から中学生じゃなくて軍隊が来る方が適切なんじゃないですか」
「世の中、大げさな真実より控えめな嘘のほうが受け入れられるんだよ」
また、大人の嫌な知恵である。
結局、バトラは二十分ほどで戻ってきた。
「……森の中に何かいる。今夜すぐに襲ってくることはなさそうだ」
「じゃあ、今日は大丈夫?」
「たぶんな」
ヤマナシさんの判断で、今夜はキャンプを続けることになった。ただし湖へ近づくのは禁止。施設スタッフも巡回を増やすらしい。
消灯時間になると、わたしたちは女子用の大型テントへ入った。
簡易ベッドが四つ。中央に小さなランタン。アヤノは自宅の別荘へ戻るよう勧められたが「みんなと泊まりたい」と言って残った。
カンナは寝袋へ入ってからも、スマホで婆羅陀魏山神の資料を眺めていた。
「カンナ、明るい」
「あと五分」
「小学生みたいなこと言わないで」
「いま寝たら、夢に出てきそうなんだもん。山の神……本当にいたらどうしよう」
「撮るんでしょ」
「撮る」
わたしの言葉に、カンナは即答した。
「撮っても公開できないよ」
「それでも」
カンナは画面を見つめたまま、少しだけ声を落とした。
「本物がいたって、自分だけでも知れたらいいじゃん」
その言葉が、いつもの彼女にしては妙に静かだった。
ミサクラ=カンナが目を覚ましたのは、夜中の一時を少し過ぎた頃だった。
理由は単純で、トイレへ行きたくなったからだ。
寝袋から抜け出し隣を見る。ツグミは壁のほうを向いて眠っている。アヤノは布団を鼻先まで引き上げていて顔が見えない。バトラは天井を向いて寝ていた。
……声をかけるほどではない。
カンナはスマートフォンを持ち、そっとテントを出た。
高原の夜は、思ったより冷えた。
昼間はあれほど明るかったキャンプ場も、照明が落ちると別の場所に見える。管理棟まで続く小道には足元灯が並び、その外側には暗い森がある。
トイレを済ませ、手を洗い、戻ろうとしたときだった。
月明かりの届かない木々の間を、白いものが横切った。
……クマではない。人でもない。ほんの一瞬だったけれど、確かに四本の脚が見えた。
カンナの手は考えるより先に、肌身離さず持ち歩いている配信用のカメラを起動していた。そういう順番で身体が動くようになったのはいつからだっただろう、と一瞬頭をよぎる。
カンナが小学校の教室で怪獣の名前を出すと、会話はだいたい止まってしまった。
友達がいなかったわけではない。ただ、カンナが本当に話したいことを話すと、相手の顔から興味が消えた。
怪獣黙示録以前の目撃例。
海底で観測された巨大な影。
政府が公式記録から削除したと噂される怪獣事件。
好きなことを話せば話すほど皆の中で自分だけが透明になる気がして、いつからかカンナは
けれど、ネットは違った。匿名掲示板へ古い怪獣写真の検証を書き込んだ夜、知らない誰かが返事をくれた。
〈詳しい〉
〈その説おもしろい〉
〈続きも頼む〉
画面の向こうの誰かが、自分の言葉を最後まで読んでくれる。それだけで暗い部屋が少し広くなった気がした。
だから、カンナは白い影を見た瞬間にもカメラを構えた。小声で呼びかける。
「えっと……婆羅陀魏山神さん?」
返事はないまま、白い影がさらに森の奥へ動いた。
カンナは周囲を見た。テントまで戻り、誰かを起こす。正しいのはそれだ。バトラを呼ぶか、でなければヤマナシへ連絡してもいい。
でも、その間に逃げられたら。
五十年以上誰も撮れなかったものが、いま自分の目の前にいるとしたら。
「……ちょっとだけ」
誰に言い訳するでもなくカンナは呟いた。
「確認するだけだから」
配信用カメラ、そのライトを点けてカンナは森へ入った。
足元の草が濡れている。昼間の遊歩道から数メートル外れただけなのに、キャンプ場の明かりはすぐ木々に遮られた。
白い影は、ライトの端にちらちらと現れた。
「待って」
当然、待たない。
枝をくぐり、斜面を下り、倒木を越える。カメラを手に持ったままなので、何度も足を滑らせた。
真っ暗すぎて画面にはほとんど何も映っていない。暗い木々。揺れる光。自分の荒い息。それでも録画は止めなかった。
「ちょ、速い……!」
白いものが立ち止まり、こちらへ振り返ったように見えた。
カンナが近づくと、また消える。
それを何度か繰り返してから、ようやく気づいた。
「……え」
キャンプ場の照明が見えない。
立ち止まってスマートフォンの地図を開くものの、現在地を示す青い点が表示されない。アンテナ表示は一本も立っていなかった。
「ちょっと待って、嘘でしょ……?」
試しにツグミへ電話をかける。おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません。ヤマナシやアヤノも同じだ。あるいはカンナの使っているスマホの会社はこの山に基地局がないのかもしれない。
さっきまで胸を押していた興奮が、急速に冷えていく。
「大丈夫。来た道を戻れば……」
だが、どちらから来たかわからないことにようやく気付く。
左に大きな岩があった気がする、いや右だったかもしれない。さっき倒木を越えたが、似た倒木なら周囲に何本もある。
迷子になったことに思い至った途端、森の音が大きくなったような気がした。
カンナはカメラを握り直した。画面右上では、録画時間だけが増え続けている。七分三十二秒。七分三十三秒。止めようとして指が動かない。
こんな状況なのに、映像を残しておきたいと思っている自分がいることに気づいた。事故映像。遭難配信。最後の記録。そんな不吉な言葉が頭へ浮かび、自分で自分に腹が立った。
「縁起でもない」
録画を停止したその瞬間、森の中で音がした。
近い。ざざ、と重いものが草を踏む音。
カンナはライトを向けたが何もいない。ライトが照らす光の輪が、木の幹を一本ずつ舐める。
右。左。頭上。やはり何もいない。逃げようと一歩下がったとき、ばきっ、と背後で枝が折れる音がした。
「……!」
振り向くと白いものがいた。ライトの輪の中へ、ゆっくりと顔が入ってくる。
白い鱗。丸みを帯びた額。犬ともトカゲとも違う顔では鰓のような角が突き出ていて、大きくてつぶらな瞳が眩しそうに細められている。
その身体は、人間よりずっと大きかった。四足で立った背中が、カンナの頭より高い。胴の両脇には、畳まれた膜のようなものが続いている。
古い郷土誌の絵に描かれた、山を渡る白い神を思い出した。
婆羅陀魏山神だ。
カンナの指が、震えながら持ち出したカメラの録画ボタンを押した。
赤い点が灯り、白い生き物はカメラではなくその横にある小さな録画ランプへ目を向けて近づいてくる。
カンナは逃げることも、叫ぶこともできなかった。
「……ほ、ほんもの……?」
そう応えるように、白い怪獣は赤い光へ鼻先を寄せた。
好きなキャラは?
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バトラ
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ツグミ
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カンナ
-
アヤノ