活俠傳 西夏戦役   作:ボブの卵かけご飯

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この話は眉山決着直後から始まります。
以降、原作・ゲーム内設定の取りこぼし、独自解釈、原作改変を多く含みます。


第零話

眉山の風は、血の匂いをすぐには連れ去らなかった。

 

戦いは劇的に進み、終わりはあっけない幕切れだった。

 

最後の一撃は振るわれることなく、敗北の宣言が先に届いたからだ。

 

瑞笙が負けを認め、趙活はそこで剣を止めた。

 

お互いに満身創痍だったが、瑞笙の矜持が、有利に始まった戦いでなお泥臭く勝利へ手を伸ばすことを咎めたのだ。

 

趙活が遺言を求めると、驚くべきことが伝えられた。

 

西夏の侵攻がある。

 

唐門に罪がないことを知りながら、駒として後に決起するため武林盟主になったのだと。

 

侠になりたかったのに、正義を貫けず流された人間になってしまった。

 

趙活は驚き、様々な思いを抱いたが、瑞笙へ生きろと言った。

 

この戦いの責任から死んで逃げるな、西夏が攻めてくるなら命を国を守るために使え、今度は選択を間違えるな、と。

 

瑞笙はこれを承諾した。

 

侠客の一人が瑞笙に駆け寄り、どうしてと問いただしたが、瑞笙は頑なに負けだと譲らなかった。

 

東西武林の争いは止まった。西武林が勝ったのだと歓声を上げてもよかった。なぜ瑞笙が負けを認めたのかと怒号が響いてもよかった。泣き崩れてもよかった。膝をつき、天に礼をしてもよかった。

 

だが、誰もすぐにはそうしなかった。

 

趙活が強引に体を正し、口を開いた。

 

「この戦い、我々西武林の勝ちとさせていただきます。いかがか、瑞盟主」

 

瑞笙もまた姿勢を正した。

 

「異論はない。この戦い、武林盟――東武林は負けを認め、西武林に従属の形を取る」

 

「東西武林の刃は、ここで止めます。瑞盟主へ剣を向けないでください。見届けていただいた各々方にも、この結果をお認めいただきたい。口伝だけではなく、書面に残します」

 

そこで一度、趙活は息を継いだ。

 

唇の端から、また血が滲む。

 

「ここで言葉を間違えれば、止まった刃はまた抜かれます。誰かを罵るな。誰か一人の功にするな。今日のことは、同じ文で各派へ伝えてください。言葉を変えれば、それだけで火種になります」

 

誰も、趙活へそう命じる権限を与えたわけではなかった。

 

だが、その時はそれが一番早かった。

 

南宮深が、場へ通る声で言った。

 

「南宮家、承りました」

 

それを合図に、青城、峨嵋、崆峒、全真、嵩山、點蒼の代表が、それぞれ短く了承を示した。頷くだけの者もいた。だが、了承は了承である。

 

丐幇の長老たちが互いに目を見交わし、李富貴が少しどもりながらも、分かった、と言った。石公遠は腕を組んで大きく頷いた。宋悲と眉州の知県は、官府側の見届けとして場に残ることを引き受けた。

 

上官隼はしばらく黙っていた。

 

それから、短く言った。

 

「異議はない」

 

その一言で十分だった。

 

口約束で済ませれば、山を下りる間にも形が変わる。

 

だから南宮偉が紙と筆を求めた。唐門の古参師兄が荷から紙を出し、眉州の知県が書き方を整え、宋悲が官府側の見届け人として名を置いた。各派は代表の名を並べた。上官隼は名を書かなかった。だが、異議を唱えずその場に立っていた。それもまた、一つの証になった。

 

書かれたのは、勝利を飾る文ではない。

 

東西武林はこの場で刃を止める。瑞盟主へ刃を向けない。西夏の件は、同じ文で各派へ伝える。

 

急場の文である。

 

儀式ではない。

 

だが、口約束よりは重かった。

 

山の上には、勝った者、負けた者、恥じた者、救われた者、まだ怒りを手放せない者がいた。誰かが先に叫べば、また刃が抜かれる。誰かが瑞笙へ罵声を浴びせれば、東西の争いは別の形で続く。誰かが今日の勝ちを己の功にすれば、別の者がそれを憎む。

 

だから趙活は、言葉を置いた。

 

戦いは終わった。

 

詳細は後ほど詰めるとしても、大まかな内容はこの場で固めなければならない。趙活が声を出し、瑞笙もまた了承の意を示し、文をしたため、周りの者は思うところがあっても異議を唱えず胸に収めた。

 

半刻を過ぎ、ようやく解散の流れとなった。

 

下山は長かった。

 

地図で見れば、眉山の頂から山麓までの道は一本の線になる。だが人の足で下りる道は、線ではない。石一つで足を取られる。坂一つで息が乱れる。血を吸った布は重く、風は冷え、何でもない一歩が胸の奥を軋ませる。

 

趙活は目を閉じなかった。

 

閉じれば、そのまま落ちる気がした。

 

雲裳は趙活の横で、彼の呼吸を数えていた。

 

一息目は浅い。

 

二息目は少し遅い。

 

三息目で、胸の下がわずかに引きつった。

 

「趙おにいちゃん」

 

「何だ」

 

「手をだして」

 

「荷なら持たないぞ」

 

「違うわ」

 

雲裳は彼の手を取った。冷たい。冷たいのに、掌だけ熱を持っている。

 

唐門の入口には、唐陞と唐惟元がいた。

 

二人とも珍しく何も持たず、門前で待っていた。門へ戻ってくる趙活を見た瞬間、まず喜色が浮かんだ。

 

そしてすぐに、その笑みが固まった。

 

唐惟元が一歩出ようとした。

 

だが、その袖を唐陞が掴んだ。

 

「三師兄」

 

「待て」

 

唐陞の声は低かった。

 

趙活は石段を上がる。

 

雲裳と共に一段ずつ。

 

遅い。だが、止まらない。

 

ついに石段を登り切り、唐門の門が目の前にあった。

 

唐陞と唐惟元に向け、震えた手を拱手の形にした。

 

「三師兄、四師兄」

 

声は、ほとんど息だった。

 

「勝ちました」

 

それだけだった。

 

瑞笙は生きています、と続けるつもりだった。

 

東西武林の刃は止まりました、と言うつもりだった。

 

西夏の話を、すぐに、と言うつもりだった。

 

だが、それ以上は言えなかった。

 

雲裳は真横からずっと見ていて、すぐに分かった。

 

「趙おにいちゃん」

 

趙活の膝が折れた。

 

雲裳が必死にその体を支えようとした。

 

そこへ、走り込んできた葉雲舟が素早く背後から肩を受けた。

 

趙活は地へ倒れなかった。

 

「唐芳師姉を。担架。道を空けろ。騒ぐな」

 

唐陞の声が低く飛んだ。

 

低いのに、よく通る声だった。

 

弟子たちが慌てて動く。奥から足音が近づいた。唐芳は誰かが呼びに走るより早く、薬箱を手に出てきていた。

 

彼女は趙活の脈に指を置いた。

 

一息。

 

二息。

 

「奥へ」

 

「唐芳姉さん」

 

雲裳の声が震えた。

 

唐芳は脈から指を離さないまま言った。

 

「死なせません」

 

その一言で、雲裳の喉が小さく鳴った。

 

「ですが、ここで立たせたら分かりません。内力の枯渇、血損、気脈の乱れ、打撲、裂傷。よくここまで歩きました」

 

「馬鹿だから」

 

雲裳は言った。

 

「馬鹿だから、歩いたのよ」

 

唐芳は否定しなかった。

 

趙活は担架に移された。まだ目を開けようとしている。唐芳が短く睨むと、雲裳が先に言った。

 

「しゃべらないで」

 

「……まだ」

 

「黙って」

 

「掌門へ、報告を」

 

そこで、声が途切れた。

 

趙活の頭が横へ落ちる。雲裳は息を止めた。

 

唐芳の指は、脈から離れない。

 

「眠っただけです」

 

雲裳は膝から力が抜け、その場に座り込みかけた。

 

葉雲舟が妹の肩を支えた。

 

「雲裳」

 

雲裳は口を開けたまま、声を出せなかった。

 

「雲裳!」

 

雲裳の体が跳ねた。

 

「趙兄は目を開けます」

 

「……そうよね。趙おにいちゃんのことだもの、いつものように、変な顔で……」

 

雲裳はついに堪えきれず涙を流しながら趙活の手を握り直した。

 

「起き、起きるよね」

 

趙活は目を開けなかった。

 

担架は門内へ急がされた。

 

唐門の者は、血の匂いに慣れている。怪我人の搬送にも慣れている。毒にも、薬にも、死にも慣れている。慣れているはずだった。

 

それでも、趙活が担架で門をくぐる時、若い弟子たちの顔は強張った。

 

昔の趙活を知らない者もいる。

 

雑用ばかりしていた外弟子ではなく、すでに唐門の顔の一つになりつつある男として知った者たちである。彼らにとって趙活は、昔から殴られ、笑われ、薬炉の匂いをつけて走っていた師兄ではない。

 

倒れてはならない人になっていた。

 

そのことを、倒れてから皆が知る。

 

唐芳は歩きながら指示を出した。

 

煉丹房の奥。湯。火鉢。清潔な布。針箱。薬棚を開ける者。人払いをする者。道を空ける者。

 

何度か、趙活の息が変わった。

 

そのたびに雲裳は顔を上げた。

 

「おにいちゃん」

 

返事はない。

 

「今、変な夢を見てるなら、ちゃんと覚えておきなさいよ。起きたら裳が聞くから」

 

返事はない。

 

「地獄まで一緒にお供してあげるって、言ったじゃない。一人で勝手に、行っちゃだめなんだから」

 

葉雲舟は何も言わなかった。

 

龍湘は、何度も何かを言おうとして、やめた。最後には小さく言った。

 

「弟は強いんだ、帰ってくる」

 

雲裳は彼女を見た。

 

龍湘は真っ直ぐだった。

 

「難しいことは分からないよ。でも、弟はいい奴だ。あれだけ頑張ったのだから、報われないと嘘だよ」

 

「世の中、そんなに優しくないわ」

 

「知ってるよ」

 

龍湘は、珍しく少しだけ低い声で言った。

 

「だから、そうなってほしい」

 

雲裳は何も返せなかった。

 

その言葉は、理屈ではなかった。願いだった。願いは、こういう時に一番強く、一番頼りない。

 

唐芳は人を払った。

 

煉丹房奥の一室が病室になった。

 

火鉢が置かれ、湯が運ばれ、薬棚が開けられた。趙活の衣は切られ、血を吸った布は外へ出され、床には厚く清潔な布が敷かれた。唐門の女弟子たちが無言で動く。若い弟子が水桶を持って入ろうとして、唐芳に目で止められ、四師兄に引き戻された。

 

「師弟は」

 

四師兄が言いかけた。

 

唐芳は答えなかった。

 

答えないことが答えだった。

 

唐陞は、部屋の外に立っていた。

 

中へ入れる立場ではある。だが入らなかった。今入っても、できることはない。礼を言う相手も、叱る相手も、まだ目を開けていない。ならば外で、唐門を動かすしかない。

 

「四師弟」

 

「はいっス」

 

「山門と外堡の守りを固めてください。交代で動かします」

 

「承知っス」

 

「各派への書簡を用意します。眉山の結果、唐門の状況、趙活の容体。言葉を誤れば、また火がつく」

 

「書くんスか、今」

 

「今です」

 

唐惟元は一瞬だけ、唐陞を見た。

 

唐陞の顔色は悪かった。

 

趙活ほどではない。だが、あれもまた別の種類の重傷である。礼を背負う者は、倒れることを許されない。だから倒れない。倒れないだけで、傷がないわけではない。

 

唐惟元は肩をすくめた。

 

「じゃあ、僕は帳面を持ってくるっス。銭の帳面じゃなくて、名簿のほう」

 

「頼みます」

 

「三師兄」

 

「何です」

 

「師弟が起きたら、文句を言うっスよね」

 

唐陞は、少しだけ目を伏せた。

 

「起きたら」

 

たったそれだけの言葉が、ひどく重かった。

 

「ええ。言います。勝つなら、もう少し綺麗に帰ってきなさい、と」

 

唐惟元は頷いた。

 

「じゃあ、僕も言う準備をしておくっス」

 

それだけ言って、彼は走った。

 

唐門の夜が始まった。

 

それは、勝利の夜ではなかった。

 

火鉢の火が消えないように見張る夜。湯を切らさない夜。薬を煎じる夜。血の布を洗う夜。書状の言葉を選ぶ夜。

 

雲裳は趙活の寝台のそばにいた。

 

唐芳は一度、彼女を外へ出そうとした。

 

「休みなさい」

 

「休んでるわ」

 

「どこがですか」

 

「座ってるもの」

 

「それを休むとは言いません」

 

「座って休んでるの」

 

唐芳は少しだけ眉を寄せた。

 

叱ることはできる。追い出すこともできる。だが、雲裳を無理に外へ出したところで、彼女は廊下に座るだけだろう。窓の外に立つかもしれない。屋根の上へ行くかもしれない。いっそ趙活の寝台の下に潜るかもしれない。

 

唐芳は、それらを想像した。

 

そして諦めた。

 

「触れるなら、手だけ。胸や腹へ勝手に触れない。薬碗を倒さない。眠れるなら眠る。泣くなら外で泣く」

 

「泣かないわ」

 

「泣いても構いません」

 

「泣かない」

 

唐芳はそれ以上言わなかった。

 

雲裳は趙活の手を握った。

 

昔は、この手に薬の匂いがついているのが嫌だった。

 

苦い薬。丹薬。乾いた草根。煎じた水。唐門の薬房へ近づくと、胸がむかむかした。苦いものは嫌いだ。痛いものも嫌いだ。病も、薬も、そういうものは全部嫌いだった。

 

けれど趙活の袖を掴む時、いつもその匂いがした。

 

いつもそれをくさい匂いと言っていた。

 

本当に嫌いだったのか、からかいたかったのか、今となっては自分でもよく分からない。

 

ただ、今はその匂いが薄いのが怖かった。

 

趙活の匂いが、血と薬湯に負けている。

 

それが怖い。

 

「おにいちゃん」

 

雲裳は小さく呼んだ。

 

返事はない。

 

「聞こえてる?」

 

返事はない。

 

「聞こえてるなら、今すぐ起きなくてもいいわ」

 

自分で言って、雲裳は唇を噛んだ。

 

嘘だった。

 

今すぐ起きてほしい。

 

起きて、ひどい顔でこちらを見てほしい。何だ、うるさいな、と言ってほしい。悪戯に困ってる顔をしてほしい。いつものように、いつものように。

 

けれど、本当に起きたら傷が裂けるかもしれない。

 

だから、起きなくてもいい。

 

でも、帰ってきてほしい。

 

矛盾ばかりである。

 

雲裳は、趙活の指を握ったまま、目を閉じた。

 

「裳が見てるから」

 

その言葉は、眉山の前にも言った気がする。

 

俺を見てろ、俺が君の星になってやる。

 

そう言った趙活の声が、まだ耳に残っている。

 

あの時、彼は笑った。

 

雲裳は、その姿が好きだった。

 

誇り高くて眩しくて、自慢してやりたい姿だったからだ。

 

雲裳は、その笑顔が嫌いだった。

 

死地へ行く男の笑顔だったからだ。

 

「今度は、帰ってきてから笑いなさい」

 

返事はない。

 

「帰ってきたら、裳がいっぱい文句を言うから。唐芳姉さんにも叱られて、三師兄にも叱られて、四師兄に呆れられて、龍姉さんにはいっぱい食べろって言われて、葉兄には黙って見られるの」

 

雲裳は、そこで少しだけ笑った。

 

「それで裳が最後に、こんなにかわいい子を心配させるなんて、お兄ちゃんは本当に顔だけじゃなくて性根も悪いわねって言うの」

 

笑いは続かなかった。

 

部屋の外で、足音がした。

 

葉雲舟だった。

 

彼は入ってこない。敷居の外で止まり、唐芳へ短く状況を聞き、また黙った。雲裳は振り向かなくても分かった。兄は、妹を連れ出すべきかどうか迷っている。迷って、迷って、今はしないと決めている。

 

「おにいちゃん」

 

雲裳が呼んだ。

 

葉雲舟は静かに入った。

 

「何だ」

 

「趙おにいちゃんは怒るかしら」

 

「何を」

 

「こんなにみんなに心配されてること」

 

葉雲舟は趙活を見た。

 

「怒るというより、困るでしょう」

 

「そうね」

 

「それから、すまなかったと言うと思います」

 

「言いそう」

 

「ここまで心配されるだなんて考えてなかったな」

 

「それは言ったら怒る」

 

二人は少し黙った。

 

兄妹の間に、同じ恐れがあった。

 

趙活は帰ってくる。

 

帰ってきたら、また無茶をする。

 

そういう男だ。

 

雲裳はそれを好きになってしまった。

 

だから、苦しい。

 

「おにいちゃん」

 

「はい」

 

「起きたら、少しだけ怒って」

 

「私がですか」

 

「裳が怒ると、泣くかもしれないから」

 

葉雲舟は、妹の横顔を見た。

 

昔なら、彼女はこういうことを言わなかった。

 

自分のことなら、人より先に死ぬだけだと思って軽く振る舞えた。

 

だが、人が自分より先に死ぬかもしれないと思うと、恐ろしくなったのだろう。

 

葉雲舟は頷いた。

 

「分かりました」

 

「怖い顔でね」

 

「得意ではありません」

 

「お兄ちゃんよりは怖い顔になれるわ」

 

「それは難しい比較ですね」

 

雲裳は、ほんの少しだけ笑った。

 

その笑いで、葉雲舟は少し救われた。

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