### 四年目三月十五日 唐門
唐陞が趙活本人から聞けたのは、「勝ちました」の一言だけだった。
だが、眉山へ同行した唐門の古参師兄たちが戻っていた。山上で何が決まり、瑞笙が何を認め、南宮家と各派がどう応じたか。口伝だけでなく文に残したことまで、彼らは順に報告した。
だから唐陞は動けた。
趙活が言い残せなかった後のことを、唐門として受け取ることができた。
趙活が唐門の門前で倒れてから、七日目にようやく目を開けた。
それは、目覚めた、と呼ぶにはあまりにも頼りないものだった。
目覚めてからも意識は、水面に浮かぶ木片のように揺れていた。誰かが名を呼ぶ。すり鉢で薬を潰す音が聞こえ、薬湯の匂いがする。掌には、温かい何かが触れている気がする。
二日目になって、曖昧に声を返せた。
三日目になって、痛みを感じることができた。
四日目になって、腕を上げるだけで息が乱れることを知った。
五日目になって、立ち上がろうとして唐芳に怒鳴られた。
六日目になって、雲裳がようやく悪戯をはじめた。
そして七日目。
趙活は背に厚い座布を当て、机の前に座ることを許された。
許された、というより、押し切った形に近い。
唐芳は最後まで許していない顔をしていた。彼女は脈を診ながら眉を寄せ、趙活の瞼を指で押し上げ、舌を見せろと言い、胸の傷を確かめ、腹の内側に残る淤血の具合を探り、最後に薬碗を突きつけた。
「半刻だけです」
その声は、刃物より鋭かった。
「半刻を過ぎたら、師姉のほうで寝台に縫いつけます」
「師姉」
「何ですか」
「針は薬舗のものを使うんですか」
「口を縫う針なら、どれでも同じです」
趙活はそれ以上言わなかった。
笑うと胸が痛んだし、唐芳の目が本気だったからである。
部屋はまだ病室の匂いがした。血の匂いはもう薄い。濃い薬草、煎じた根、湿った布、乾ききらない木桶、火鉢の灰。そこに趙活自身の身から抜けない淡い薬の香が混じっている。以前から彼の身には薬の匂いがついていたが、今はそれが衣にも髪にも骨にも染み込んだようだった。
窓の外では、唐門の朝がゆっくり動いていた。
正心堂の前から、若い弟子たちの声が聞こえる。まだ団練ではなく、掃き清めと水汲みの声だ。木桶の縁が石に触れる音。竹箒が地を払う音。誰かが小さく咳をして、すぐに隣の者に叱られている。
平和な音だった。
だが、その平和は薄い紙のようなものだと、趙活は知っている。
眉山で瑞笙と立ち合ったとき、万衆の前で東西武林の争いは止まった。止まっただけだ。火は消えていない。炭の奥にはまだ赤いものが残り、風の向きひとつでまた燃え上がる。唐門は生き残った。瑞笙も生き残った。南宮深も死ななかった。青城の鄒博掌門も、地獄法王趙逵も、無相祖師との戦いを越えてなお息をしている。
それでも、死んだ者は戻らない。
山門の石に染みた血は、雨で薄まりはしても、なかったことにはならない。
趙活は、机の上に置かれた書簡の束を見た。
三師兄が昨夜までに分けておいてくれたものだった。右に、各派閥からの見舞い。左に、南宮家からの書状。奥に、朝廷に近い筋から届いた知らせ。手前に、唐門内部の急ぎ。
急ぎ。
その言葉だけで胸が重い。
「半刻だけって言われてたよね」
背後から声がした。
趙活は筆を取ろうとしていた手を止めた。
振り返らなくても分かる。雲裳である。
彼女は足音を立てずに入ってきた。昔からそうだった。病のせいで体を思うように動かせなかった時期でさえ、雲裳はいつも不思議なところから現れ、不思議なところへ消えた。今はもう、あの身を蝕んでいた真気の病はない。だが、体の弱さが完全に消えたわけではない。疲れれば頬が白くなる。長く立っていれば、指先が少し冷える。けれど、その目には以前よりずっと強い光があった。
光があるぶん、趙活は困る。
見つめられると、逃げられない。
「聞いてたのか」
「唐芳姉さんの声、正心堂の柱まで震えていたわよ」
「そんなにか」
「うん。わたしの耳には、山向こうまで響いたように聞こえた」
「山向こうはさすがにない」
「ないと思う?」
「ない」
「おにいちゃんは夢がないわね」
趙活はそこで少しだけ笑った。
胸が痛んだ。
雲裳の目がすぐに細くなる。彼女は笑みを残したまま、趙活の横へ来た。叱るでもなく、泣くでもなく、まず机の上の書簡を見た。指先で一番上の封を撫で、それから趙活の顔色を見る。
その順番が、彼女らしかった。
甘えるときは誰より甘える。悪戯を思いついたときは、礼だの節度だのを笑って踏み越えようとする。だが本当に危ういものを見たとき、雲裳は決して鈍くない。むしろ、誰より早く空気の底を見抜く。
「読まなきゃだめなもの?」
「読まなきゃみんなが困る」
「おにいちゃんが困るのは?」
「俺はいいんだよ」
「じゃあ、裳が困る」
「それは卑怯だろ」
「強い言葉を選んだもの」
雲裳はそう言って、机の横に置かれた小さな椅子に座った。
椅子。
趙活は、昔ならこういうところにも余計なことを言ったはずだった。唐門の大院で雑用をしていた頃、椅子が一脚増えただけで、誰の尻が出世したのかとからかったことがある。大師兄が座れば椅子がかわいそうだと言い、なぜか笑われた。四師兄が座れば椅子が壊れると言い、追いかけられた。三師兄が座れば、椅子まで礼儀正しくなると言い、苦笑された。二師兄には何も怖くて言えなかった。
今は、そういう言葉がすぐには出てこない。
言えなくなったわけではない。雲裳がふざければ乗れる。四師兄がからかえば返せる。大師兄が生きていれば、きっとまだ馬鹿を言えた。
だが、自分から火をつけることが減った。
そのことに気づいているのは、自分だけではない。
雲裳はたぶん、もっと前から気づいていた。
「雲裳」
「なぁに?」
甘い声だった。
それだけで、趙活の胸の奥に別の痛みが走る。傷とは違う。薬では治らないものだ。
「今日は悪戯しに来たのか」
「違うわよ」
「じゃあ何しに」
「見張り」
「唐芳師姉に言われたのか」
「裳が勝手に見張るの」
雲裳は机の端に頬杖をつき、趙活の筆先を見る。
「唐芳姉さんは半刻って言ったでしょう。おにいちゃんは半刻を三つに割って、一つは書簡、一つは返事、一つは後で叱られる時間にするつもりでしょう」
「そこまでは考えてない」
「じゃあ考えたら?」
「考えさせるな」
「考えさせたら、もっと働く?」
「働く」
「だめ」
短く言って、雲裳は書簡の一番上を取った。封は開けない。ただ差出人の名だけを見る。
「南宮家」
「ああ」
「深公子?」
「たぶんな」
「また悪い顔で何か言ってる?」
「書簡に顔はついてない」
「でも声はするでしょう」
趙活は否定できなかった。
南宮深の声は、確かに書簡からもする。あの男は紙の上でも妙に胸を張っている。字は整っているが、どこか人を笑わせようとしている気配がある。親密になればなるほど、あの気配は濃くなる。
兄弟。
そう呼ぶ声が、紙の向こうに残っている気がした。
趙活は南宮家からの封を後に回した。今はその冗談に付き合う余裕がない。
次に取ったのは、宋悲からの書状だった。
墨は太く、字は骨がある。役人の文というより、刀を持つ者の文である。余計な美辞麗句は少ない。だが礼を欠いてはいない。趙活は封を切り、目を走らせた。
雲裳は黙っている。
趙活の表情が変わるのを見ていた。
書簡には、こうあった。
西北の動きが慌ただしい。
西夏の兵が、国境の幾つかの寨に圧をかけている。まだ大軍が雪崩れ込んだわけではない。だが斥候の報告が増え、馬の数が増え、交易路で人が消え始めている。朝廷は軍を動かす。動かすが、軍だけで済む話ではない可能性がある。
宋悲の文は、そこで一度筆圧を強めていた。
極楽教徒の影がある。
その一文だけで、部屋の温度が下がった気がした。
極楽教。
その名を口にするとき、趙活の心は自然に固くなる。無相祖師の最期の声が、まだ耳の奥に残っている。顔を失い、顔を奪い、顔のある者を呪いながら死んでいった怪物。あれは個人だった。だが個人だけではなかった。彼の背後には、千灯楼があり、極楽教があり、人を灯として燃やすような闇がある。
無相祖師が死んだから終わった、などと考えられるほど、趙活は楽観していない。
むしろ、首を失った蛇は暴れる。
「宋悲殿は、何て?」
雲裳の声が少し低くなった。
趙活は書簡を置いた。
「西北に西夏の動きがある。極楽教徒も絡んでるかもしれない」
「かもしれない、じゃないわね」
「そう思うか」
「おにいちゃんも思ってるでしょう」
趙活は答えなかった。
雲裳は、机の上に置かれた封の数を見た。南宮。宋悲。青城。崆峒。丐幇。嵩山。全真。點蒼。すべてが同じ方向を向いているわけではない。むしろ、今の武林はまだ傷口だらけだ。東西武林の激突は止まった。だが、止まったのは刃だけで、胸の内まではすぐには戻らない。
「敵は、何をしたいと思う?」
雲裳が言った。
趙活は少しだけ考えた。
「宋の軍を乱す」
「それだけ?」
「西武林と東武林を疑わせる」
「それから?」
「朝廷に、江湖人は危ないと思わせる」
「それから?」
趙活は、雲裳を見た。
彼女は笑っていなかった。
「唐門を、もう一度孤立させる」
趙活が言うと、雲裳はようやく頷いた。
「うん」
その声は静かだった。
「おにいちゃんが一番嫌がるところから、ちゃんと来るわ」
「俺が一番嫌がるところ?」
「だって、おにいちゃんは唐門を守りたいんでしょう。けれど今は、唐門だけ守ればいい立場じゃなくなった。東西武林が見ている。朝廷も見ている。民も、たぶん見ている。だから敵は、どこか一つを燃やすんじゃなくて、みんながみんなを疑うようにする」
雲裳はそこで机に視線を落とした。
「火は、木に点けるより、人の目に点けたほうがよく燃えるもの」
趙活はしばらく黙った。
言葉としては簡単だ。
だが、その簡単な言葉が、これから起こることの芯を射ている気がした。
雲裳は戦場を知らない。兵の使い方も知らない。誰がどれほど戦えるか、どの門派がどの地形に強いか、どの道を何日で進めるか、そういう細部は趙活ほど持っていない。
けれど、人がどう疑い、どう怯え、どう自分を正しいと思い込むか。
そこを見る目は、恐ろしく鋭い。
「雲裳」
「なぁに」
「それ、後で三師兄にも話していいか」
「おにいちゃんが話すならいいわ」
「お前が話せば」
言いかけて、趙活は口を止めた。
雲裳がじっと見ている。
趙活は咳払いした。
「……君が話したほうが早いと思った」
「いや」
即答だった。
「裳が言ったら、悪戯だと思われるもの」
「思われないだろ」
「思われるわ。だって裳は、昔いっぱい悪戯したもの」
誇るように言うので、趙活は少し呆れた。
雲裳はその顔を見て、ようやく口元を緩めた。
「それに、これはおにいちゃんの仕事でしょう」
「俺のか」
「うん。裳はおにいちゃんの袖を引くことはできる。でも、おにいちゃんの代わりに前へは立てない」
趙活は視線を机に戻した。筆を取り、宋悲への返書のために紙を引き寄せる。指先に力が入りきらない。筆管がわずかに震えた。雲裳がそれを見ていたが、手は出さなかった。
出せば趙活が嫌がると知っているからだ。
趙活も、その気遣いに気づいている。
だから余計に、筆を落とせない。
返書には、まだ断定は書けない。宋悲の報告を受けたこと。唐門として、また東西武林の調停役として、各派へ事実確認を行うこと。西夏軍の動きと極楽教徒の影を分けて見ること。軍の邪魔をしないこと。だが民と江湖に害が及ぶなら、武林は動かざるを得ないこと。
その一文を書いたとき、趙活は自分の手が止まったことに気づいた。
武林は動かざるを得ない。
その武林を動かすのは誰か。
瑞笙か。
南宮深か。
六大派閥の掌門たちか。
あるいは、唐門の醜い外弟子だった男か。
まだ誰も、趙活を正式な武林盟主と呼んではいない。少なくとも、趙活はその名を受け取っていない。眉山の戦いは、英雄を決める戦いではなく、殺し合いを止めるための戦いだった。瑞笙は生きている。東武林盟主としての格も、武も、名も、なお消えてはいない。
だが現実は、言葉より早く人の肩へ荷を載せる。
東は瑞笙を見る。
西は趙活を見る。
そしてその間を、誰かが結ばなければならない。
「おにいちゃん」
雲裳が呼んだ。
「何だ」
「怖い?」
趙活は筆を止めた。
嘘はつけた。
いつものように笑って、何を今さらと言えた。
だが、雲裳の前でそれをするには、今の自分は少し疲れすぎていた。
「怖い」
短く答えた。
雲裳は驚かなかった。
「うん」
「俺は、大侠になりたかった」
「知ってる」
「龍淵大侠みたいな、誰もが仰ぐ人に、いつかなれたらと思ってた。顔を笑われても、門の外に置かれても、いつか見返してやるって」
言葉にすると、昔の自分が少し滑稽に見えた。
だが、その滑稽さがなければ、自分はここまで歩けなかった。
「でも、いざ人に見られると、思ったより体に悪い」
雲裳が小さく息を漏らした。
笑ったのではない。
泣きそうになったのを、息で逃がしたような音だった。
「期待って、重い?」
「重い」
「逃げたい?」
「逃げたい」
「逃げる?」
「逃げない」
「どうして」
趙活は、窓の外を見た。
若い弟子たちが水桶を運んでいる。誰かが滑りかけ、隣の弟子が肩で支えた。水が少しこぼれ、朝日に光る。何でもない光景だった。けれど、その何でもない光景を守るために、人は時々、とんでもない重さを持たなければならない。
「力があるからだ」
そう言った。
「俺にある力なんて、もともとは継ぎ接ぎだ。唐門の毒も、拳も、剣も、医術も、料理も、書も、どれも誰かから拾った。拾ったものを抱えてるうちに、俺は俺になった。だったら、その拾ったものを使わないと、くれた人たちに悪い」
雲裳は黙って聞いていた。
趙活は続けた。
「それに、俺が何もしなければ、誰かが死ぬ」
「おにいちゃんが何かしても、誰かは死ぬわ」
「分かってる」
「それでも?」
「それでも、少しは減らせる」
「減らすために、また無茶するのね」
「違う」
趙活は少しだけ目を細めた。
「俺たち唐門を餌にして、武林を割って、西夏に道を開けようとした奴がいる。名前はまだ分からない。顔も分からない。だが、やったことは分かる」
雲裳は黙って聞いていた。
「そいつの筋書きを、ぶちのめしてやる」
その答えは、格好よくなかった。
天下を救う、と言えればよかった。
英雄になる、と言えればよかった。
だが今の趙活に言えるのは、その程度だった。
誰かが笑いながら書いた筋書きを、最後の一行まで破って捨てる。
雲裳はしばらく趙活を見ていた。
やがて、机の下で彼の袖を少しつまみ、顔を伏せた。
袖をつかむという動きは、小さなものだった。だがこの時代の人の目には、それだけで十分に近い。人前なら、もう少し控えるべき距離である。ここには二人しかいない。だから雲裳はつまんだ。指先に力を込めすぎず、けれど離れない程度に。
「はあ……やっぱりおにいちゃんは唐門なのね」
「そりゃ唐門だからな」
「裳はね」
「ああ」
「おにいちゃんが星になってやるって言ったの、まだ怒ってる」
趙活は苦笑した。
「怒ってるのか」
「怒ってるわ。裳の星になってくれるのは嬉しい。でも、空に上がったら遠いもの」
「じゃあどうすればいい」
「地上で光って」
「難しいことを言う」
「おにいちゃんならできるでしょ」
「期待が重いって言ったばかりなんだが」
「この傾国の美女となるのが確約されているわたしの期待よ!こんなに栄誉なことはないってことよ」
「ははぁ~、それはもう、身に余る光栄にございます」
趙活はわざとらしく頭を下げた。
「ならば地上で光るよう、せいぜい煤けた顔を磨いておきます」
「顔は磨いても限界があるわ」
「そこは少し励ましてくれないか」
雲裳は袖をつまんだまま、得意そうに笑った。
「煤けた顔でも光ってさえいればいいの、私という宝石の引き立て役になるのよ」
(それに、これ以上キラキラされて誰かに見られても困るもの)
くだらないやりとりに、趙活はほんの少しだけ、戻れた気がした。
戻れた気がしたが、完全には戻れない。
それも分かっていた。
戻るのではなく、連れて行くのだ。
昔の自分も、今の自分も、この先の自分も。
机の外から足音が近づいた。
今度は隠す気のない足音だった。規則正しく、静かで、軽すぎない。唐陞である。
雲裳は袖から指を離した。
趙活は筆を置き、姿勢を正す。胸が痛んだが顔には出さなかった。雲裳がそれを見て、ほんの少しだけ眉を動かす。
戸が開いた。
唐陞は、いつものように整った顔で入ってきた。
だが、目元には疲れが残っている。東西武林の戦い以後、彼はただでさえ少ない休みを、さらに削っていた。戦いの後始末、死傷者の確認、各派への書簡、南宮家との調整、外堡の警戒、薬舗の人手、唐門の経営。
趙活が倒れていた間、唐門の重さは唐陞が支えていた。
その唐陞が、趙活を見るなり眉をひそめた。
「師弟」
「はい」
「顔色が悪い」
「元から悪いです」
雲裳が横で笑いかけたが、唐陞は笑わなかった。
「冗談を言えるなら少しはましなのでしょうが、唐芳が半刻と言ったはずです」
「まだ半刻は」
「過ぎました」
趙活は机の上の香を見た。
確かに、細い香はもう半分以上燃えている。
「早くないですか」
「あなたが遅いのです」
唐陞はそう言って、机の横に立った。雲裳には目を向け、声を少し柔らかくする。
「雲裳」
「何、おじいちゃん」
「見張っていてくれたのではありませんか」
「見張っていたわ」
「止めては」
「話を聞いていたもの」
「それなら仕方ありませんね」
仕方ないのか、と趙活は思ったが、口には出さなかった。
唐陞は机上の書簡に目を落とした。南宮家、宋悲、崆峒、岷州、丐幇。封の向きだけで、おおよその内容を察したらしい。彼の目が、少しだけ細くなる。
「宋総指揮使からですか」
「はい。西北に西夏の動き。極楽教徒の影もあるそうです」
「やはり」
その一言に、趙活は唐陞もすでにある程度の情報を掴んでいたのだと分かった。
唐陞は袖から別の書簡を出した。
封は粗い。急ぎで運ばれたものだ。表には岷州の役所印がある。
「岷州知県からも来ています」
雲裳が少し身を乗り出した。
唐陞は封を開き、短く内容を告げた。
岷州方面で、宋軍の前哨へ小規模な襲撃があった。
被害は大きくない。
兵糧の一部が焼け、軍馬が数頭斃れ、伝令が一人重傷を負った。死者は二名。火は早く消し止められた。軍として見れば、戦局を左右するほどの損害ではない。
だが問題は、残された痕跡だった。
崆峒派の符号。
飛天門の火器に似た燃え方。
そして、襲撃者の一人を見た兵が「崆峒の衣に似ていた」と証言した。
部屋に沈黙が落ちた。
窓の外の水桶の音が、やけに遠く聞こえる。
趙活はすぐに言った。
「崆峒じゃない。何より、崆峒に益がない。宋軍を小突いて疑いを買うだけだ」
唐陞は頷いた。
「断じるには早い」
「でも、違う」
「私もそう思います。ですが、軍がそう思うとは限りません」
そこだった。
問題は襲撃ではない。軽微な打撃そのものではない。
西夏軍が迫る直前に、宋軍と武林の間に疑いを差し込む。
それが目的なら、死者二人で十分だった。
火を放つ場所も、殺す数も、派手である必要はない。むしろ軽微だからこそ始末が悪い。大きな襲撃なら調査も大きくなる。小さな被害なら軍中の噂が先に走る。
崆峒がやったらしい。
江湖人はやはり信用ならない。
武林盟などと言っても、結局は門派ごとの私怨で動く。
その噂だけで、軍と武林の間には溝ができる。
「楊景略」
唐陞が名を出した。
「岷州方面の軍を束ねる実戦派です。堅実で、兵を粗末にしない。無理な手柄も望まない。だからこそ、背後を乱す者を最も嫌う」
「その人が、武林を疑っているのね」
雲裳が言った。
唐陞は彼女を見た。
「ええ。少なくとも、今は」
趙活は目を閉じた。
楊景略。
まだ会ったことのない男の顔を、趙活は想像した。甲冑ではなく、地図を見る顔。兵糧の数を数え、馬の疲れを測り、雨で道が崩れたとき何日遅れるかを考える顔。そういう男なら、武林を嫌うのは当然だ。剣を抜けば強いが、軍令に従うとは限らない。毒を使えば敵を倒せるが、水源を汚さない保証はない。夜に動けるが、どこで何をしているか軍には分からない。
信じろと言うほうが無理である。
そこへ崆峒の痕跡が残れば、疑いは固まる。
「崆峒からは」
「まだ正式な弁明は来ていません。ただ、丹霞子殿から短い符が届いています」
唐陞はもう一枚、薄い紙を出した。
文字は少ない。
だがその短さに、書いた者の怒りが滲んでいた。
崆峒の火ではない。
戦場で会う。
それだけだった。
趙活は紙を見て、丹霞子の顔を思い浮かべた。
彼は、ふざけるときは豪快だ。酒を飲めば笑い、戦の話になれば目が座る。国のために命を張ることを知っている人間であり、武林の中では珍しく、兵の死を数で見ない人間だった。
その丹霞子が、この文しか送らない。
怒っている。
そして焦っている。
崆峒の面子だけではない。もし軍が崆峒を疑えば、前線で命を預け合うことができなくなる。西夏軍が来る直前に、これは致命的だ。
「師弟」
唐陞が言った。
「あなたは、まだ動けません」
「動けます」
「歩けることと、戦場へ行けることは違います」
「分かっています」
「分かっていない顔です」
趙活は黙った。
雲裳が横で、ほんの少し頷いた。
味方が増えない。
「私は、あなたを今すぐ西北へ送るつもりはありません。唐芳も許さないでしょう。ですが、書簡は動かせます。人も動かせます。まずはここからです」
唐陞は机の上に幾つかの封を並べた。
「南宮家へは、あなたの回復を知らせると同時に、南宮深へ調停の協力を求めます。瑞笙殿へも同じです。東武林の顔として、彼には軍と朝廷へ一定の言葉を届けてもらう必要がある」
趙活は頷いた。
瑞笙。
眉山で刃を交えた相手。自分より強く、なお負けを認めた男。彼がいなければ、東武林は動かない。趙活一人が叫んでも、東の門派はすぐには振り向かない。瑞笙が言うからこそ、彼らは耳を貸す。
趙活が東西武林の調停役に立つなら、瑞笙の存在は不可欠だった。
「青城へは」
「鄒博掌門へ見舞いと相談を。とはいえ、掌門自身が出られるかは分かりません。不平道人、懷素道人、それにあなたと親しい道士たちへも別に文を回します」
「裴紅臘、清虛子、碧波子、高和」
趙活が名を挙げると、唐陞は少しだけ目を細めた。
「よく覚えていますね」
「世話になりましたから」
青城での療養の日々は、趙活にとって不思議な時間だった。痛みと屈辱と、雲裳の悪戯と、道士たちの奇妙な親しさ。裴紅臘と本の話をした。清虛子と碧波子には顔を妖怪のようだと思われながらも、友のように扱われた。高和には別の意味で妙に熱い目を向けられ、趙活は何度か全力で逃げた。
それでも、あの四人は貴重だった。
顔を見て笑う者は多い。
顔を見て、それでも隣に座る者は少ない。
「全真は尹志平殿へ。嵩山は福韞和尚と覚醒殿へ。峨嵋は向掌門と解無塵殿へ。點蒼は……」
唐陞の言葉が少し止まった。
葉雲舟の名が、部屋に出ないまま浮かぶ。
點蒼と唐門の間には、古い傷がある。葉雲舟の件で、さらに複雑になった。武林大会でも、東西武林の戦いでも、點蒼は名声を傷つけられた。葉雲舟一人を抑えられなかった、という風聞は、剣を誇りとする門派には重い。
それでも、今は使えるものを使わなければならない。
「観雲客殿、聴海生殿へは礼を厚くします。點蒼の双剣の使い手にも、あの方々から声をかけていただけるよう添えましょう」
「葉兄に頼みますか」
「頼むことになるでしょう」
雲裳の指が、膝の上で少し動いた。
兄の名が出ると、彼女はいつもほんのわずかに反応する。嬉しさと、心配と、申し訳なさが混じった反応だ。葉雲舟は唐門に属した。だが武功は點蒼のものだ。彼がどこに立つかは、いつも一筋縄ではいかない。
「葉兄は、行くでしょう」
趙活が言うと、雲裳は小さく頷いた。
「お兄ちゃんは、行くわ」
その声には誇りがあった。
そして少しだけ寂しさもあった。
唐陞は次の封に指を置く。
「丐幇へは、花二爺、沙長老、張長老。李富貴殿にも。もっとも、李殿は……」
「あいつは頑張りますよ」
趙活は言った。
李富貴の声を思い出す。言葉はつかえる。人前で話すのは得意ではない。それでも必要なとき、彼は逃げない。西武林同盟の発案も、元を辿れば王二壮の策であったとしても、それを趙活へ届けたのは李富貴だ。あの時、言葉が滑らかである必要はなかった。届けばよかった。
そして届いた。
「ええ。ですから彼にも役目があります」
唐陞はそこで、少し声を低くした。
「それと、趙逵法王」
雲裳が瞬きをした。
地獄法王趙逵。
正道の席で堂々と名を出せる相手ではない。だが無相祖師との戦いで、趙逵は敵ではないことを示した。唐陞自身も、彼の地獄道をただの邪道とは見なせなくなっている。
しかし、世間はそう簡単には納得しない。
唐門ならば、正邪の線を気にしすぎない。だが気にしなさすぎれば、また唐門は孤立する。
「直接呼ぶのはまずいですね」
趙活が言うと、唐陞は頷いた。
「ええ。だから表からは呼びません。ですが極楽教徒が動くなら、地獄道は無視できない。丐幇の噂筋を使って、まずは動向だけ確かめます」
「趙逵法王なら、来るかもしれません」
「来るでしょうね」
唐陞の声には、奇妙な確信があった。
「あの方は、裁くべきものを見逃す人ではない」
その言葉には、敬意があった。
人は一度死線を共にすると、相手の肩書より先に、背中を覚えることがある。無相祖師を前にしたとき、正道も邪道もなかった。ただ、あの怪物を止めなければならなかった。その場で見た趙逵の背中を、唐陞は忘れていないのだろう。
「師弟」
唐陞は、最後に趙活をまっすぐ見た。
「あなたの肩書についてです」
趙活は息を止めた。
雲裳も黙る。
肩書。
それは、言葉にすると軽い。だが江湖では、名は刃より重いことがある。誰が誰に命じられるのか。誰が誰の顔を立てるのか。誰が失敗したとき、誰の首が飛ぶのか。
今の趙活は、正式な武林盟主ではない。
そして、なるつもりもなかった。
眉山での戦いの後、皆がそう呼びたがる空気はあった。東西武林の争いを止めた男。瑞笙と並び、あるいは瑞笙に勝った男。唐門の代表。西武林を束ねた者。そうした名を一つにまとめれば、武林盟主という言葉が一番分かりやすい。
だが趙活は、その椅子へ座る自分を想像できない。
座れば、唐門から離れる。
座れば、雲裳との婚儀も遠のく。
座れば、東も西も、自分に都合のいい英雄を求め始める。
そして何より、趙活は知っていた。
自分は大侠になりたいと思ってきたが、人を支配したいわけではない。
「私は、あなたを盟主と呼びません」
唐陞は言った。
趙活は少しだけ肩の力を抜いた。
「ですが、今だけは名が必要です。東西武林の間を取り持ち、軍と話し、各派の刃を一つの方向へ向ける名が」
「臨時総帥、ですか」
「あるいは、調停役」
唐陞は言った。
「ただし、調停だけでは戦場で命令が通らない。総帥だけでは、あなたが盟主になるように見える。ですから文にはこう記します」
唐陞は紙を一枚広げた。
そこには、すでに草案が書かれていた。
東西武林臨時調停総帥。
趙活は、その長さに少し顔をしかめた。
「長いですね」
「短い名ほど誤解されます」
「呼ぶほうが途中で疲れませんか」
「疲れさせるためです」
趙活は思わず唐陞を見た。
唐陞は平然としている。
「盟主、と短く呼ぶ前に、一度考えさせる。これは臨時であり、調停であり、総帥である、と」
雲裳が小さく笑った。
「お爺ちゃん、意地悪ね」
「礼とは、時に意地悪なものです」
「そういうところ、わたしは好きよ」
唐陞は咳払いした。
趙活は少しだけ救われた。
この長い肩書なら、逃げ道がある。いや、逃げ道ではない。終わり道がある。戦が終われば返せる名。武林盟主ではなく、今だけの荷。
それでも重い。
だが、永遠ではないと思えるだけで、少し息ができた。
「分かりました」
趙活は言った。
「その名で、文を出します」
唐陞は頷く。
「ただし、あなたは今日はもう休みなさい」
「まだ返書が」
「私が書きます。あなたは内容だけ口で」
「でも」
「師弟」
唐陞の声が、静かに硬くなった。
「あなたが倒れれば、今度こそ困るのは唐門だけではありません」
趙活は何も言えなかった。
雲裳が横から言う。
「ほら」
「ほらとは」
「裳が言っても聞かないのに、お爺ちゃんが言うと黙る」
「三師兄は怖いからな」
「裳は怖くない?」
「怖い」
「じゃあ聞いて」
「はい」
雲裳は満足そうに頷いた。
唐陞は見なかったことにした。
その日の唐門は、静かに動き出した。
大声で号令を出す者はいない。太鼓も鳴らない。戦支度というには、まだあまりにも地味だった。だが、地味なところから戦は始まる。紙が走り、印が押され、米が数えられ、薬が分けられ、使える馬が確かめられ、古参弟子が若弟子の名を呼び出す。
唐門の戦支度は、他門派のそれとは少し違う。
剣を磨く者より、まず薬包を数える者が多い。袖の裏に仕込む針を確かめる者がいる。水筒の栓に毒避けの小片を結ぶ者がいる。乾き物の中に、食べられる薬草と食べられない薬草を分ける者がいる。若弟子はその一つ一つを古参に叱られながら覚えていく。
唐門は、毒を使う。
だからこそ毒を恐れる。
毒を恐れるから、毒に備える。
その備えは、時に他派から不気味に見える。だが戦場では、その不気味さが命を拾う。飲み水を疑うこと。香を疑うこと。怪我人の呻き声の中に混じる余計な言葉を疑うこと。落ちている薬包を拾わないこと。知っている顔の声でも、合言葉を確認すること。
唐門の若弟子たちは、戦そのものを知らないわけではない。
江城の戦役を経験せずとも東西武林の戦いを経験し、生き延びた。だが、戦が終われば息をつけると思っている者もいる。勝った後に届く書簡、見舞い、疑い、次の火種までは、まだ肌で知らない。
趙活を初めから重い立場の人間として見ている者もいる。外弟子だった時代を知らず、掃除と炊事に追われていた姿を見たこともない。まして、顔を笑われながら雑用に走っていたころなど想像もできない。
その若弟子の一人が、誰のものか分からない薬包へ不用意に手を伸ばし、古参に叱られた。
「戦場でそれをやったら、拾う前に死ぬぞ」
「は、はい」
「はいじゃない。拾うな。まず周りを見ろ。誰が落とした。いつ落ちた。袋の結びは自分たちのものか。匂いは変わらないか。手で触るな。布で寄せろ」
「毒が」
「毒だけだと思うな。千灯楼なら、拾った瞬間に煙が出る仕掛けぐらい平気でやる」
若弟子の顔が青くなる。
古参はそれを見て、少し声を落とした。
「怖がるのは悪くない。怖がらずに死ぬよりましだ」
その横を、唐惟元が荷を背負って通った。
いつものように、何かしらの袋が多い。薬か、金か、帳面か、暗器か、その全部か。彼は若弟子と古参のやり取りを聞き、鼻で笑った。
「怖がれるうちは上等っスよ。怖がる暇もなく死ぬのが、一番つまらないっスからね」
「四師兄」
若弟子が姿勢を正す。
唐惟元は手を振った。
「固くならなくていいっス。固くなると避けられるものも避けられなくなるっスよ。あと、戦場で僕の荷に勝手に触ったら、敵より先に僕が怒るっス」
「は、はい」
「返事はいいっスね。返事に銭はかからないっスから」
いつもの唐惟元だった。
軽い。けれどその軽さの奥に、冷たい目があった。
彼は商人である。少なくとも、そう見せることに長けている。銭を数え、物を売り、損得を口にし、露悪的に笑う。だが唐門の直弟子でもある。戦場に出れば、売り物の箱の底から何が出るか分からない。彼の毒煙は、敵が気づくころにはもう肺に入っている。彼の袖は、帳簿をめくるだけの袖ではない。
今回、唐惟元は唐門部隊の現場指揮に立つ。
趙活は武林全体を見る。ならば唐門の刃を束ねる者が要る。唐陞は留守を守る。唐芳は医療と煉丹を支える。二師兄は影にも出せない。そうなれば、唐惟元しかいなかった。
本人は嫌そうな顔をした。
だが断らなかった。
掌門が眠り、唐門が生き残り、師兄弟がまた戦場へ行く。そういう時、唐惟元は銭勘定の後ろに隠れて逃げたりしない。
「四師兄」
声をかけたのは唐衫だった。
唐衫は訓練場から上がってきたばかりらしく、額に汗が残っていた。姿勢は真っ直ぐで、目には力がある。唐門に入ることを望み、過ちを背負い、それでも唐門の名を選んだ男。まだ古参ではない。だが若手でもない。戦闘だけなら唐門でも上位に近い。
「若い弟子の編成、三組に分けておきました。薬包と暗器の扱いは古参につけます。軽功のある者は伝令寄りに」
「真面目っスね」
「必要なことです」
「そういう返しが真面目なんスよ」
唐衫は少しだけ首を傾げた。
顔を赤くすることはない。大勢の前で演説できる度胸を持つ男である。緊張はするが、恥で崩れない。怒りや憎しみはある。だがそれを燃料に変えられる。
唐惟元は荷を置き、唐衫を見た。
「戦場では、若い奴を全部助けようと思わないほうがいいっス」
唐衫の目がわずかに動いた。
「助けられるなら助けます」
「それはいいっス。でも全部は無理っス。誰を前に出すか、誰を下げるか、誰を囮に見せるか、誰を本当に逃がすか。そういうことを考えないと、自分も周りも死ぬっス」
「分かっています」
「分かってる顔じゃないっスね」
唐衫は黙った。
唐惟元は珍しく、笑わなかった。
「あんたは唐門に入りたくて来た。だから唐門の名を汚したくない。若い奴にも、いい先輩でいたい。分かるっス。でも唐門の任務は、いい顔をする仕事じゃないっス」
風が通る。
正心堂の階段の下で、数人の弟子がこちらを見ないふりをした。
唐惟元は声をさらに低くする。
「殺すべき時は殺す。生かすべき時は、死にたがっても生かす。吐かせるべき時は吐かせる。泣かれても、頼まれても、必要ならやる。唐門の面子ってのは、格好つけることじゃないっス。やると決めた汚れ仕事を、途中で投げないことっス」
唐衫は、深く息を吸った。
「覚えておきます」
「覚えるだけならただっス」
「やります」
唐惟元はそこでようやく、少し笑った。
「ならいいっス」
その会話を、少し離れたところで葉雲舟が聞いていた。
彼は薬草籠を背負っている。唐芳に言いつけられた採取から戻ったところだった。唐門に属したとはいえ、葉雲舟の武功は點蒼のものだ。唐門の暗器や毒を主軸にすることはできない。だが、その剣は速く、正確で、守りに深みが出てきている。
医術へ寄ってから、葉雲舟の剣は少し変わった。
以前の彼は、もっと薄い刃のようだった。追われ、守り、逃げ、切り抜けるための剣。今もその速さは失われていない。だが、誰かを生かすために下がる足を覚えた。傷を見て、相手の呼吸を見るようになった。勝つためだけではなく、倒れた者へたどり着くために道を作る剣になりつつある。
「葉師弟」
唐衫が声をかける。
葉雲舟は頷いた。
「衫師兄、出陣組の名を見ました。僕も入っていましたね」
「当然だ。あなたほどの剣を置いておく理由がない」
「医術はまだ半端です」
「剣も医も半端に見えないから困る」
葉雲舟は少しだけ苦笑した。
「どちらも、まだ遠いです」
その遠いという言葉に、唐衫は何かを感じたらしい。
葉雲舟は遠くを見る目をしていた。
今回の戦いにおいて一人で點蒼の頂に近い二人を抑え、生き延びた男。妹を守るために江湖のほとんどを敵だと思っていた男。今は唐門に属し、薬草を摘み、唐芳に怒鳴られながら医術を学んでいる。
唐衫は、そんな葉雲舟を見て、ふと自分とは違う形の業を見た。
唐門に入りたかった自分。
唐門に守られた葉雲舟。
唐門に残ることを選んだ趙活。
人はみな、それぞれ違う道からこの山へ来た。
そしてまた、同じ戦場へ行く。
「葉師弟」
唐衫は言った。
「點蒼の者たちと、もし戦場で肩を並べることになったら」
葉雲舟は唐衫を見た。
「私は唐門の弟子として行きます」
「分かっている」
「でも、過去の剣まで捨てたわけではありません」
葉雲舟の声は静かだった。
「もし彼らが民を守るために剣を抜くなら、私はその隙を使います。彼らも、私の隙を使えばいい」
唐衫は頷いた。
その返事は、唐門でも點蒼でもない。
ただ、江湖の人間の返事だった。
同じころ、龍湘は唐門の塀の上に座って、干し肉をかじっていた。
誰も驚かない。
龍湘がどこから入ってくるのか、唐門の者たちはもう考えるのをやめている。錦香宮の者であり、唐門の者ではない。だが唐門の危機にはなぜかいる。普段は少し抜けているほど明るく、物事を良いほうへ良いほうへと受け取る。無辜の民が脅かされると分かれば、誰より早く駆けつける。剣を取る時も迷いは少ないが、まず見るのは、誰が苦しみ、誰が助けを求めているかだった。笑うときは腹の底から笑い、戦うときは人が変わったように目が澄む。
「弟!」
龍湘は下を通った趙活を見つけると、塀から飛び降りた。
趙活は唐芳に支えられるように歩いていた。いや、支えられていると言うと唐芳が怒る。唐芳は隣で見張っているだけである。趙活がふらつけば、見張りは即座に拘束に変わる。
「龍姉」
趙活が呼ぶ。
「まだ少ししんどそうだね!」
「すぐにはよくならないさ」
「ちゃんと食べているか? 肉は食べたか? 粥ばかりでは力が出ないぞ」
「食べてるよ」
龍湘は大笑いした。
唐芳の目が冷たくなる。
「笑わせないでください。傷に響きます」
「それは、すまない。だが弟は、生きて飯を食って笑っているほうがいい」
「それはその通りです」
「だろう?」
龍湘は素直に胸を張った。
この素直さが、かえって厄介だった。
「聞いたよ。西夏が来るみたいだね。極楽教徒もいるかもしれないのだろう」
「まだ確定では」
「いるなら、困っている者を助ける」
唐芳がため息をついた。
趙活は言い方を探した。
「龍姉。今回は、剣だけで終わりじゃないと思う」
「そうなのか」
「民がいる。兵がいる。敵の中にも、操られている者や、知らずに使われている者がいるかもしれない」
「悪い者なら、止めなければいけない」
「そこは否定しない」
龍湘は少し意外そうに趙活を見た。
趙活は続ける。
「ただ、悪人かどうかを見極める前に動くと、敵が喜ぶことがある」
龍湘の目が細くなった。
笑いが消える。
その瞬間、空気が変わった。
唐芳も口を閉じる。通りがかった若弟子が、思わず足を止めた。
龍湘の戦う顔は、普段の彼女とまるで違う。剣を抜いていなくても、背筋がすっと伸びる。悪を止めると決めたとき、彼女は迷わない。そのまっすぐさは頼もしさであり、時に敵につけこまれる隙でもある。
「敵が、私に飛び出させたい者を前に出すということを言ってるの」
「はい」
「卑怯だね」
「極楽教徒なら、やります」
龍湘は干し肉を袋へ戻した。
「分かった。弟が見る前に飛び出すのは控えるよ」
「ありがとう」
「だが、本当に民を傷つける者なら、私は止めるぞ」
「その時は頼むよ」
龍湘は満足そうに頷いた。
唐芳が小声で言う。
「あなた、本当に人を使うのがうまくなりましたね」
「今のは使ったんじゃなくて、お願いしただけです」
「同じです」
趙活は否定しようとしたが、胸が痛んだのでやめた。
その日の夕方、唐門の内院に出陣組の名が貼り出された。
紙は三枚。
一枚目は、前線へ向かう者。
趙活。唐惟元。唐衫。葉雲舟。龍湘。古参弟子の数名。若弟子の数隊。
二枚目は、留守を守る者。
唐陞。唐芳。雲裳。許大鯨。薬舗、医館、煉丹部屋、外堡の担当。
三枚目は、後方支援と連絡。
丐幇への使い。青城への使い。南宮家への使い。嵩山、全真、峨嵋、點蒼、崆峒への別便。さらに名のない数本の線が、唐陞の筆で細く引かれている。
その名のない線を見て、趙活は二師兄のことを思った。
口には出さない。
出せない。
だが、千灯楼の内部にしかない情報が必要になる時が必ず来る。その時、誰かが灯の奥から紙片を投げるかもしれない。
唐門は、それを待つ。
待つが、頼りきりにはしない。
影から来る情報は、影のように形が崩れやすい。掴んだと思えば、指の間から消える。だからこそ表に立つ者が、血と足で確かめなければならない。
正心堂の前で、若弟子たちは張り紙を見てざわついていた。
「俺も前線だ」
「俺は後方だ」
「若いからって外されたわけじゃない。後方も大事だ」
「分かってる」
分かっている声ではなかった。
古参弟子が横から言った。
「死にに行きたいなら一人で裏山にでも行け。戦場は、死にたい奴が行く場所じゃない」
若弟子は黙った。
古参は続ける。
「生きて帰って、次に行く奴へ教える。それができないなら、前線に出る意味は半分になる」
その言葉は重かった。
古参弟子たちは、趙活の昔を知っている。顔を笑われ、雑用を押しつけられ、外弟子として扱われ、それでも山に残り続けた趙活を知っている。大師兄とふざけ、三師兄に叱られ、四師兄に金を巻き上げられ、小師妹を甘やかしていた姿を知っている。
若弟子たちは知らない。
彼らが知っている趙活は、眉山の英雄であり、瑞笙と並んだ男であり、唐門を救った男だ。
だからこそ、古参は時々、若弟子の目を苦く見る。
伝説は人を奮わせる。
同時に、人を見えなくする。
その夜、趙活は雲裳に手を引かれて、掌門の部屋へ行った。
唐中翎はまだ眠っている。
痩せた顔。白く伸びた髭。かつて唐門の頂に立ち、葉兄妹を庇護し、朝廷が敵になろうとも守ると言った男。今は静かな呼吸だけが、彼がまだこの世にいる証だった。
部屋の灯は暗い。
唐陞は先に来て、寝台の横に座っていた。彼は毎日ここへ来る。用があってもなくても来る。掌門が聞いているかどうか分からないまま、唐門のことを報告する。
「掌門」
唐陞が言った。
「西北に動きがあります。西夏、極楽教徒、千灯楼。まだ形は見えませんが、風が悪い」
趙活は寝台の前に膝をついた。
膝をつくと胸が痛んだ。だが、ここで立ったまま話す気にはなれなかった。
「掌門」
声を出すと、喉が少し掠れた。
「俺は、まだ武林盟主になるつもりはありません。でも今だけ、東西武林の調停役として動きます。唐門の名を背負って、武林の刃を少しでも同じ方向へ向けます」
眠る掌門は答えない。
趙活は続けた。
「唐門を守ります。できるなら、民も守ります。できるなら、江湖も。全部できるとは言いません。でも、できるところまでやります」
雲裳が、少し離れたところで聞いていた。
唐陞は目を閉じている。
「だから」
趙活は一度息を吸った。
「行ってまいります」
その言葉に、掌門の指が動いたように見えた。
本当に動いたのか、灯の揺れか、誰にも分からなかった。
雲裳が息を呑んだ。
唐陞は目を開けたが、何も言わない。
趙活も、何も言えなかった。
ただ深く頭を下げた。
石の床は冷たかった。
その冷たさが、妙に現実だった。
それより四日前。
### 四年目三月十一日 夜 岷州前哨
岷州の前哨では、別の灯が燃えていた。
風の強い夜だった。
西北の風は、蜀の山風とは違う。乾き、砂を含み、火を細く長く伸ばす。寨の外に立つ兵は、襟を締め、槍を握り直した。遠くで馬が嘶く。西夏の騎馬が近いという噂は、もう兵卒の耳にも入っている。
兵たちは、西夏を恐れていた。
それは恥ではない。
騎馬は怖い。弓は怖い。地を揺らして迫る蹄の音は、剣客の名乗りよりずっと現実的に人の腹を冷やす。武林の侠客がどれほど強かろうと、広い野で騎馬の波に飲まれれば、ただの肉になる。兵たちはそれを知っている。
だが、その夜に来たのは西夏の騎馬ではなかった。
火だった。
最初に燃えたのは、兵糧置き場の端だった。油を吸わせた布が、隙間から投げ込まれた。火は小さい。だが風がそれを舐める。見張りが叫ぶより早く、別の場所で馬が暴れた。
馬房の綱が切られていた。
軍馬が二頭、首を振って外へ飛び出す。兵が押さえようとした瞬間、煙が流れた。普通の煙ではない。喉が焼ける。目が霞む。兵は咳き込み、膝をついた。
「敵襲!」
声が上がる。
しかし敵の姿は少ない。
闇の中で、黒い影が三つ動いた。ひとつは屋根を渡り、ひとつは柵の影へ消え、ひとつはわざと見える場所を走った。
その影の腰に、崆峒の符のようなものが揺れていた。
「崆峒だ!」
誰かが叫んだ。
その叫びは、火より早く広がった。
襲撃そのものは長く続かなかった。
火は消し止められた。馬は一頭が戻り、一頭は足を折って斃れた。兵糧は全体の一部を失っただけだ。死者は二人。重傷一人。軍としては耐えられる損害である。
だが、夜明け前の軍議で、空気はすでに変わっていた。
### 四年目三月十二日 未明 岷州軍帳
「崆峒派の仕業だ」
そう言ったのは、若い校尉だった。
彼の目は赤い。死んだ兵の一人は、彼の部下だった。
「現場に符が残っていた。火器も崆峒のものに似ている。兵も見たと言っております」
軍帳の中には、煙の匂いがまだ残っていた。
楊景略は上座に座り、地図を見ていた。
四十を少し越えた男である。髭は短く整えられ、目は派手ではないが深い。甲冑を着ても威を誇らず、文官のように静かに座る。だが彼の前に立つ兵は、皆背筋を伸ばす。怒鳴らない者ほど、怒らせたときが怖いことを兵は知っている。
「断じるな」
楊景略は言った。
声は低い。
「ですが将軍」
「断じるなと言った」
校尉は口を閉じた。
楊景略は地図から顔を上げた。
「崆峒がやったと決めれば、楽だ。怒りの向け先ができる。だが楽な答えは、敵が置いた餌かもしれん」
幕僚たちは黙っている。
楊景略は続けた。
「しかし、疑わぬ理由もない」
その言葉に、軍帳の空気が固まった。
「江湖の者は、軍令に入らぬ。昨日まで味方と言い、明日には義のためと称して勝手に動く。こちらの兵糧を守ると言いながら、別の門派の私怨で火をつけることもある。私が恐れるのは、崆峒一派ではない。武林という名の、命令の届かぬ刃だ」
誰も反論できなかった。
反論できる者が、一人だけいた。
陸紹文である。
楊景略の副将兼幕僚。三十代半ば。武官にしては線が細く、文官にしては目が据わっている。彼は地図、補給、書簡、折衝を扱う。兵からは少し理屈っぽいと思われているが、彼の立てる道程は滅多に外れない。
陸紹文は一歩進み、拱手した。
「将軍。疑うのは正しいと存じます」
「続けろ」
「ですが、疑うだけでは敵の策中です。もし崆峒の符が偽であれば、我らは西夏が来る前に武林を遠ざけることになる。もし真であっても、崆峒全体を敵に回せば、前線で最も近い助力を失います」
「では信じろと」
「信じる必要はありません。使う道を細くするべきです」
楊景略は陸紹文を見た。
「細く」
「はい。軍陣の内には入れない。兵糧庫にも近づけない。水源にも近づけない。ただし軍陣の外で、襲撃者の跡を追わせる。江湖の者が江湖の者を嗅ぎ分けるなら、その働きだけを見ます」
校尉が顔をしかめた。
「それではまた背後を」
「背後に入れなければいい」
陸紹文は静かに返した。
「こちらの目が届く範囲で動かす。使えるなら使う。使えないなら切る。それだけです」
楊景略はしばらく黙った。
軍帳の外で、負傷兵の呻きが聞こえる。夜襲は軽微だった。だが死者二人の重みは、数字ではない。二人には名がある。家がある。上官がいる。隣で飯を食った兵がいる。
楊景略は、その重みを軽く扱わない。
だからこそ、武林を軽く信じない。
「趙活」
楊景略がその名を口にした。
軍帳の何人かが目を動かす。
眉山の一戦は、すでに風聞として届いている。だが、それはまだ形の定まらない噂だった。東西武林の争いを止めた男。瑞笙と戦った男。唐門の男。醜い男。医術も毒も剣も拳も使う、よく分からない男。
英雄という噂は、軍では信用にならない。
むしろ危うい。
「その男を、陸紹文、お前はどう見る」
陸紹文は少し考えた。
「会っておりません」
「では噂では」
「噂だけなら、信用しません」
楊景略の目が少しだけ動いた。
陸紹文は続ける。
「ただし宋悲総指揮使が名を挙げています。道法将軍も認めている。瑞笙殿も、眉山の後に彼を軽んじていない。眉州、岷州の知県も証言しています」
「証人が多いな」
「多すぎるほどです」
「多すぎる証人は、かえって胡散臭い」
「その通りです」
陸紹文は苦笑しなかった。
「ですから、会ってみます」
楊景略は地図に視線を戻した。
地図には、岷州の道、寨、川、山道、兵站の線が書かれている。赤い印は西夏の動き。黒い印は宋軍。まだ空白の場所が幾つもあった。そこに極楽教徒が入り込む。名も分からぬ江湖の影が潜る。江湖の門派が勝手に動けば、地図はすぐに意味を失う。
だが、動かなければ埋まらない空白もある。
「武林へ招集は出さぬ」
楊景略は言った。
「こちらから呼べば、こちらの責任になる。来た者が軍令を乱せば、宋軍が江湖を引き入れたことになる」
陸紹文は頷いた。
「では、知らせだけを」
「そうだ。唐門の趙活へ、崆峒の符号が残されたことを伝えろ。軍陣へ近づくなとも添えろ。来るなら、軍の外で勝手に跡を追え。功を求めて兵糧、水源、伝令線へ近づく者は敵と見る」
「承知しました」
「呼ぶのではない」
楊景略は念を押した。
「来るな、とも言わぬ。ただ、軍はまだ武林を信じていない。それだけ伝えろ」
軍帳の外で、朝日が上がる。
焼けた兵糧の匂いが、まだ風に混じっていた。
その匂いを嗅ぎながら、陸紹文は思った。
敵はうまい。
西夏の騎馬が来る前に、宋軍の心へ楔を打った。崆峒の名を汚し、武林を疑わせ、これから来る援軍を足手まといに変えようとしている。もし唐門の趙活という男が、噂ほど頭が回るなら、この意図に気づくはずだ。
気づいた上で、どう動くか。
それを見なければならない。
唐門へ向かう文は、昼前に出た。
それは招きではない。
疑いと、警告と、わずかな余地を同じ紙に載せたものだった。
### 四年目三月十二日 昼前 岷州から唐門へ
その頃、岷州からさらに北西の荒れた道では、黒い衣の男が一人、石の上に座っていた。
彼の前に、膝をついた男がいる。
崆峒の衣を着ている。
だが崆峒の者ではない。
「火は?」
黒衣の男が尋ねる。
「消されました」
「馬は」
「一頭斃れ、一頭戻りました」
「死者は」
「二名」
「少ないな」
膝をついた男は、わずかに震えた。
黒衣の男は笑った。
「怒っているわけではない。二名で十分だ。多すぎれば軍は本気で調べる。少なすぎれば噂にならぬ。二名。よい数だ」
風が吹く。
黒衣の袖の内側に、灯の刺繍が見えた。
三炷香。
千灯楼の中では高すぎず、低すぎない。派閥の内へ潜り、火種を置き、名を汚すにはちょうどよい位だった。彼は無相祖師の死を聞いてから、何度も夢を見た。灯が倒れる夢。顔のない主が笑う夢。誰も命じないのに、誰もが勝手に火を点ける夢。
千灯楼は乱れている。
乱れているからこそ、今がよい。
上の命令を待つ者は遅い。新しい主を探す者は迷う。だが、火を点ける者だけが先へ行ける。
「崆峒は怒るだろう。軍は疑うだろう。武林盟は焦るだろう」
黒衣の男は、山の向こうを見た。
「趙活は、どう動くかな」
その名を口にしたとき、彼の声には微かな嫌悪が混じった。
醜い男。
唐門の男。
無相祖師を死へ追いやった者の一人。
千灯楼の中には、趙活を軽んじる者もいた。顔が悪い。出自が低い。唐門の外弟子。継ぎ接ぎの武功。だが、無相祖師が死んだ。瑞笙が負けを認めた。東西武林が止まった。
軽んじてよい相手ではない。
ならば、正面から殺す必要はない。
背負わせればいい。
疑いを背負わせ、死者を背負わせ、救えなかった民を背負わせ、盟主ではないと言いながら盟主の仕事を背負わせる。
人は刃で死ぬ。
だが、荷でも潰れる。
「次は青城だ」
黒衣の男が言うと、膝をついた男が顔を上げた。
「青城にも?」
「唐門に近い。趙活に近い。道士は清い顔をしているが、人が多い門派は隙が多い。崆峒だけでは足りぬ。軍と武林を疑わせるには、二つ目の火が要る」
「全真は」
「遠い。末端に少しでよい」
「唐門は」
黒衣の男は、そこで初めて露骨に嫌そうな顔をした。
「唐門には入るな」
「なぜ」
「あそこは毒と疑心の巣だ。入り込んだ者が戻らぬ。戻ったとしても、何を吐かされたか分からぬ」
「點蒼は」
「剣に狂っている。名声は利用できるが、中へ潜っても旨味が少ない」
黒衣の男は立ち上がった。
「狂っている門派は扱いづらい。善良な門派のほうが腐らせやすい」
その言葉は、風に流れた。
誰も聞いていない。
だが、その通りに火は広がる。
### 四年目三月十六日 深夜 唐門
痛みで眠りが浅い。
隣では雲裳が座ったまま舟を漕いでいた。見張ると言って、本当に見張っていたらしい。膝の上には薄い布があり、そこに未完成の小さな札が置かれている。札には星が描かれ、その横に、まだ途中の線で何か文字が書きかけられていた。
趙活はしばらくそれを見ていた。
雲裳は昔から、こういう小さな遊び道具を作るのが妙にうまい。
小師妹なら紙を折る。黙って、形を作る。雲裳は違う。札に絵を描き、字を書き、いつの間にか遊びの規則まで作る。何でもすぐ覚える。琴も、札も、悪戯も、人の心を揺らすことも。
「おにいちゃん?」
雲裳が目を開けた。
「起こしたか」
「寝てないわ」
「寝てただろ」
「目を閉じて考えていただけ」
「何を」
「おにいちゃんが逃げない方法」
「逃げないって言っただろ」
「戦場からじゃないわ」
雲裳は少し身を寄せた。
「自分から」
趙活は黙った。
雲裳は、膝の上の札を持ち上げた。
「これ、星」
「分かる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんって何よ。裳がこんなにきれいに描いたのに」
「きれいだよ」
雲裳は少しだけ目を逸らした。
褒められると、意外と弱い。
「持っていく?」
「いいのか」
「うん。死地へ行く人には、星が要るでしょう」
「また死地か」
「死地よ。おにいちゃんが行くところは、だいたい死地になるもの」
「ひどい言い方だ」
「事実でしょう」
否定できない。
趙活は手を伸ばし、紙の星を受け取った。
指先が触れた。
雲裳は、そのまま指を離さなかった。
「おにいちゃん」
「何だ」
「裳は、留守なのよね」
その声は、思ったより静かだった。
「ああ」
「唐門を守るのよね」
「頼む」
「頼まれるわ」
雲裳は微笑んだ。
しかし、その目は笑っていない。
「でも、裳は怒ってる」
「何に」
「置いていくこと」
「連れて行けない」
「知ってる」
「危ない」
「知ってる」
「君がいたら、俺が冷静でいられない」
雲裳の目が少しだけ丸くなった。
趙活は言ってから、自分でも少し驚いた。
今のは、かなり正直だった。
雲裳は顔を逸らしながら言った。
「そういうこと、もっと普段から言いなさいよ」
「普段から言ったら」
「わたしが調子に乗るわ」
「だろうな」
「でも言って。蜂蜜に砂糖を溶かし込むぐらい甘くして」
「難しい注文だ」
雲裳は指を離した。
「裳はね、おにいちゃんが背負うものを全部代わりに持てるとは思ってない」
「ああ」
「でも、おにいちゃんが何を背負ったか、見てることはできる。忘れそうになったら言うこともできる。逃げそうになったら袖を引くこともできる」
「逃げたら?」
「噛む」
趙活は少し笑った。
「くさいんじゃなかったのか」
雲裳は一瞬だけきょとんとして、それから笑った。
「くさいわよ」
「ひどい」
「昔から、薬と丹薬の匂いがするもの。裳は苦い薬が嫌いだったの」
「じゃあ、今も駄目か」
「おにいちゃんの匂いなら、少しまし」
「それは褒めてるのか」
「褒めてるわ。裳の好きな匂いになってきたってこと」
趙活は返答に詰まった。
「ほら、また負けた」
「何の勝負だ」
「わたしがおにいちゃんを困らせる勝負」
「勝負になってない」
「わたしの勝ちだから?」
「俺が弱すぎるからだ」
「知ってる」
雲裳はそう言って、星の札を趙活の手に押し込んだ。
「持っていって」
「ああ」
「でも、帰ってきたら返して」
「返すのか」
「うん。帰ってきた証拠にする」
趙活は星を見た。
小さな星の札。
戦場には何の役にも立たない。刃を受けることも、毒を防ぐことも、馬を止めることもできない。
だが、こういうものが人を生かすこともある。
趙活はそれを、懐にしまった。
「返す」
雲裳は頷いた。
「約束して」
「約束だ」
その翌朝、岷州からの使者が唐門へ到着した。
### 四年目三月十七日 朝 唐門
使者は疲れ切っていた。
馬も同じだった。途中で何度も替えたのだろう。それでも最後に乗っていた馬は、口から白い泡を吹き、足を震わせていた。
使者はまず外堡へ駆け込んだ。封の印を確かめた外堡の弟子が顔色を変え、すぐに山門への道を開く。馬はそこで預けられ、唐門の若弟子が水を持って走った。別の弟子が、使者を内門まで先導する。
使者は礼をしようとしたが、その前に膝をついた。
「岷州軍、楊景略将軍より」
彼は封を差し出した。
唐陞が受け取る。
趙活はまだ寝台から完全には離れられないため、正心堂の奥で待っていた。使者はそこへ通された。唐門の内院に入ることを許された軍の使者は、落ち着かない様子だった。毒の門派。暗器の門派。
だが、唐門の弟子たちは彼に水を与え、馬の世話をし、薬を差し出した。
使者はそのことに少し戸惑っていた。
唐陞が封を開く。
文は短い。
武林盟が独自に襲撃者の跡を追うことは妨げない。
ただし、軍陣内への立ち入りは認めない。
崆峒派に対しては、事実確認が済むまで軍の兵糧・水源・馬房への接近を禁ずる。
唐門趙活には、軍陣外にて襲撃者の跡を追うことを許す。
許す。
その言葉に、唐門の古参の数人が目を細めた。
唐惟元はにやりと笑った。
「ずいぶん上から来るっスね」
唐陞は封を畳んだ。
「軍から見れば当然でしょう」
唐衫が少し拳を握った。
「崆峒を疑ったままですか」
「疑う理由を作られたのです」
葉雲舟は黙っていた。
龍湘は少しだけ眉を寄せていた。軍だの禁ずるだの、言葉が硬すぎる。だが、怒っているというより、困っている者同士がなぜ最初から手を握れないのか、不思議に思っている顔だった。
「弟よ」
「はい」
「この楊景略という男、いい人だといいね」
趙活は少し瞬きをした。
「龍姉らしいですね」
「そうか?」
「俺は先に、疑う理由のほうを考えていました」
「それも大事だ。だが、これから背を並べるかもしれないのだろう。いい人のほうがいい」
龍湘は当然のように言った。
趙活は苦笑した。
「たぶん、真面目な人です」
「なら、なおさらいい。真面目な者は、約束を守る」
「真面目な者ほど、扱いを誤れぬのだな」
「俺もたぶん、そう思われています」
「あんたは真面目にやりすぎだ」
「そうかな」
唐陞が咳払いした。
場が静まる。
「この文に、どう返しますか」
全員の視線が趙活に向いた。
まだ病み上がりの男。
胸に傷があり、歩けば息が乱れ、唐芳に半刻以上の机仕事を禁じられている男。
だが、今この場で答えを出すのは趙活だった。
趙活は文を受け取り、もう一度読んだ。
楊景略の文には、怒りがある。疑いがある。だが、感情に任せてはいない。崆峒を断罪していない。唐門を拒絶してもいない。軍陣内には入れないが、外で動くことは許す。これは信用ではない。
最低限の使用許可だ。
だが、最低限があるなら十分だった。
「受けます」
趙活は言った。
「師弟」
唐陞が見る。
「軍陣の外で動けるなら、十分です。むしろ最初から軍陣に入るほうが危ない。敵は軍と武林を疑わせたい。なら、距離を置いて始めたほうがいい」
「崆峒は」
「面子を立てます。丹霞子殿には、こちらから別便を。軍に怒るなとは言えません。でも、怒る先を間違えないように伝えます」
「どう伝えますか」
趙活は少し考えた。
丹霞子は怒っている。崆峒の名を汚されたのだから当然だ。だが彼は戦場を知っている。兵が疑う理由も、楊景略が疑う理由も、頭では分かるはずだ。
だから、慰めはいらない。
必要なのは、同じ敵を見る言葉。
「崆峒に疑いをかけたやつを、一緒にぶちのめしてやる、と」
唐惟元が口笛を吹きかけ、唐陞に見られてやめた。
唐衫の目が強くなる。
龍湘は満足そうに笑った。
葉雲舟は静かに頷いた。
唐陞はしばらく趙活を見てから、ゆっくりと頷いた。
「よいでしょう」
その日のうちに、唐門から幾つもの使者が出た。
南宮家へ。
瑞笙へ。
宋悲へ。
青城へ。
崆峒へ。
丐幇へ。
嵩山、全真、峨嵋、點蒼へ。
そして、表には記されない幾つかの道へ。
出陣は三日後と決まった。
唐芳は激怒した。
「三日後?」
彼女の声に、部屋の薬棚が震えた気がした。
「三日後に歩く? 馬に乗る? 山道を下る? あなたは自分の体を何だと思っているんですか」
「唐芳師姉」
「答えなさい」
「……唐門のものです」
唐芳は一瞬だけ黙った。
それは、ずるい答えだった。
趙活も分かっていた。
唐芳は唇を引き結び、薬箱を乱暴に開けた。
「では唐門のものとして、壊れないように扱います。三日で最低限動けるようにします。痛みは消しません。消すとあなたは無茶をする。熱は下げます。血は補います。傷は塞ぎます。ですが忘れないでください」
彼女は趙活を睨んだ。
「あなたは治ったのではありません。壊れた器を、外から布で巻いているだけです」
「はい」
「返事だけはいい」
唐芳は薬包を積み上げた。
「内息は薄く巡らせなさい。半刻に一度、傷の周りへ血を集めて、淤血を散らす。侠客なら、それで治りを早めることぐらいはできます。ですが大きく運行すれば裂けます。武功ではなく養生としてやりなさい」
「はい」
「今の返事は信用しません」
「葉師弟」
「はい」
「あなたも行くなら、医療班の荷を覚えなさい。戦場で格好よく剣を振るうだけなら、犬でもできます」
葉雲舟は真面目に頷いた。
「覚えます」
「唐衫」
「はい」
「若弟子に止血を叩き込みなさい。毒の対処より先に血を止める。死ぬ者は毒より先に血で死にます」
「承知しました」
「四師兄」
「何スか」
「薬を値切らないでください」
唐惟元は目を逸らした。
「戦場価格というものが」
「ありません」
「原価が」
「ありません」
「少しぐらい」
「ありません」
唐惟元は肩を落とした。
「唐芳師姉、強くなったっスね」
「昔からです」
その場にいた若弟子たちは、笑っていいのか分からず、真顔で耐えた。
唐門の出陣準備は、こうして進んだ。
雲裳は表立って口を出さなかった。
ただ、夜になると趙活の部屋へ来て、地図を見た。
地図は粗い。山、川、道、寨、町。実際の距離は歩かなければ分からない。道の良し悪しは雨で変わる。橋が落ちれば一日延びる。馬が疲れればさらに延びる。だが全体の形を見るには十分だった。
雲裳は指で道をなぞった。
「ここ」
「岷州への道か」
「うん。敵が西夏なら、軍はここを見るでしょう。でも極楽教徒が混じるなら、こっち」
彼女の指は、少し南の細い道へ動いた。
「避難する人が通るところ」
趙活は息を止めた。
「軍の道じゃなく、民の道」
「うん。兵は軍道を使う。荷も軍道を使う。でも逃げる人は、怒鳴られない道を選ぶわ。子供が歩ける道。水がある道。村がある道。極楽教徒が人を集めるなら、そっちのほうがいい」
「……そうか」
趙活は地図を見た。
軍と武林だけを見ていれば、見落とす線だった。
民の道。
泣く子供、荷を背負った母親、年寄りを支える若者、家財を捨てきれない者。そういう人々は、地図の上では一本の線にならない。だが戦が始まれば、その線こそ最も脆く、最も狙われる。
「おにいちゃん」
「ああ」
「敵は、弱いところから来るわ」
「分かってる」
「違う。おにいちゃんが思う弱いところじゃない」
趙活は雲裳を見た。
雲裳は、地図の上に指を置いた。
「兵糧でも、城でも、門派でもない。誰かが、ここは戦じゃないって思いたい場所」
その言葉は、趙活の胸に残った。
戦じゃないと思いたい場所。
そこが、戦になる。
三日間、趙活はただ寝ていたわけではない。
唐芳に定められた刻限ごとに目を閉じ、細い内息を胸の傷の周りへ巡らせた。敵を打つための運行ではない。自分の体を、内側から少しずつ縫うような作業だった。功を急げば布の下が裂ける。力を抜きすぎれば血が沈む。だから趙活は、苛立つほどゆっくりと息を回した。
薬を飲み、眠り、目を覚まし、また運行する。
それでようやく、立てるところまで来た。
三日後。
### 四年目三月二十日 朝 唐門山門
唐門の山門に、出陣組が並んだ。
朝は薄く曇っていた。雨はまだ降らない。山の木々が湿った匂いを含み、石段の隙間に朝露が残っている。正心堂の前には唐陞が立ち、階段の下に趙活たちが並ぶ。昔、団練で弟子たちへ指示を飛ばした場所だ。今は、戦場へ向かう者を見送る場所になっている。
趙活は、まだ万全ではない。
唐芳が巻いた布の下で、胸の傷が熱を持っている。内力を大きく回せば、どこかで裂ける気がする。軽功で一気に走ることなどできない。馬に揺られるだけでも傷に響く。
だが立っていた。
それだけで、若弟子たちの目が変わる。
趙活はその目を見て、少しだけ苦しくなった。
期待は重い。
だが、背負わないとはもう言えない。
唐陞が一歩前へ出た。
「今回の出陣は、唐門一門の戦ではありません。西夏の兵、極楽教徒、千灯楼の影。敵は一つではない。味方も一つではない。ゆえに、己の門派だけを見て動けば、必ず敵の策に落ちます」
弟子たちは静かに聞いている。
「唐門の者は、唐門の面子を守りなさい。ですが面子とは、ただ勝つことではない。やるべきことを見誤らぬことです。殺すべき者を殺し、生かすべき者を生かし、守るべき者を守る。そこに汚れがあるなら、唐門の者として背負いなさい」
唐惟元が、珍しく真面目な顔で聞いていた。
唐衫は拳を握っている。
葉雲舟は静かに目を伏せた。
龍湘だけは、空を見上げていた。だが聞いていないわけではない。
唐陞は最後に、趙活を見た。
「師弟」
「はい」
「唐門を頼みます」
その言葉は、おかしい。
唐門を頼むと言いながら、唐陞は山に残る。趙活は外へ行く。だが、その意味は全員が分かった。
外で唐門の名を背負う。
東西武林の間で、唐門を沈ませない。
そして、生きて戻る。
趙活は拱手した。
「行ってきます」
雲裳は、少し離れたところに立っていた。
泣いてはいない。
笑ってもいない。
ただ、趙活を見ている。
瞬きせずに。
趙活は彼女へ歩み寄った。
人目がある。
だから近づきすぎない。
雲裳も、それを分かっている。
それでも彼女は、一歩だけ前へ出た。
「おにいちゃん」
「ああ」
「星、忘れてない?」
趙活は懐に手を当てた。
「ある」
「ちゃんと返してね」
「返す」
「絶対よ」
「絶対だ」
雲裳は頷いた。
それから、ほんの小さな声で言った。
「裳は、ずっと思ってるからね」
趙活は、眉山の朝を思い出した。
彼女が震えながら送り出してくれた声。
眉山を越え、帰ってきた。
だが、また死地へ向かう。
趙活は笑った。
優しい笑顔を作ろうとしたのではない。
自然に、そうなった。
「帰ったら、一緒に甘いものでも食べに行こう」
雲裳の顔が、少し歪んだ。
けれど泣かなかった。
「忘れないでね、約束よ」
出陣の列が動き出す。
山道を下り、外堡の近くを通り、麓の町へ出る。そこから各地へ散った使者の足跡を追うように、西へ、西北へ、戦の匂いが濃くなる方へ。
唐門の弟子たちは、静かに進んだ。
彼らの袖には暗器があり、荷には薬があり、懐にはそれぞれの恐れがある。
趙活は振り返らなかった。
振り返れば、雲裳がまだ見ているのが分かってしまう。
分かってしまえば、足が重くなる。
だから前を見た。
前には、まだ会ったことのない軍人がいる。
楊景略。
武林を信用しない男。
その不信は、敵が仕込んだものでもあり、軍人として当然のものでもある。趙活はその両方をほどかなければならない。
西夏軍は来る。
極楽教徒は動く。
千灯楼は火を点ける。
そして武林は、まだ一つではない。
趙活は胸の痛みを押さえながら、山道の先を見た。
大侠になりたいと思っていた少年は、もういない。
だが、その少年が見ていた星は、まだ消えていない。
ならば、歩くしかない。
たとえその道が、軍の不信と、民の悲鳴と、灯の影の中へ続いているとしても。