活俠傳 西夏戦役   作:ボブの卵かけご飯

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第二話

### 四年目三月二十日 朝 唐門山道

 

唐門の山を下りる道は、平時ならば静かなものだった。

 

山門を離れてしばらくは、石段と土の坂が交互に続く。木々の根が道を押し上げ、雨の跡が細く筋を作り、ところどころに古い車輪の跡が残っている。山の上では唐門の建物が霧に沈み、少し下れば、外堡へ続く道と町へ向かう道とがゆるく分かれた。さらに先には、小さな村落、茶屋、義田へ続く畦、成都方面へ抜ける広い道がある。

 

地図で見れば、まだ唐門を離れたばかりである。

 

だが傷は、思った以上に体を痛めつけていた。

 

趙活は、初めから小さな輿に座らされていた。

 

馬には乗らなかった。

 

乗れなかった、というほうが近い。

 

傷の位置が悪い。馬上で揺られれば胸の奥が裂けるように痛む。唐芳は出立の朝、薬包を渡しながら、馬に乗るならその場で気絶させて寝台に戻すと言った。彼女は冗談を言う顔ではなかった。

 

輿と言っても、偉い人間を運ぶための立派なものではない。唐門で薬材や怪我人を運ぶために使っていた木枠に、布を張り、背凭れを付けただけのものだ。見栄えは悪い。だが揺れは馬より少ない。唐惟元が一目見て「これなら売れるっスね。病人用の高級品として」と言い、唐芳に睨まれて黙った。

 

趙活はその木枠の上で、胸に巻かれた布の下に傷が熱を持つのを感じていた。

 

痛みは、まだ体の中にいる。

 

瑞笙と戦い傷ついた体は、命を拾っただけで元に戻ったわけではない。内力を回そうとすれば、途中でひっかかる。深く息を吸えば、肋の奥が軋む。拳を握れば、指先に遅れて力が届く。

 

唐芳は「戦えると思わないでください」と言った。

 

戦わずに済むなら、それが一番いい。

 

だが、この道の先にあるものは、戦わずに済むものではない。

 

山の空気は、下りるほどに変わっていった。唐門の山中にある薬草と湿った土の匂いが薄れ、田の水の匂い、人の住む家の煙の匂い、牛馬の匂いが混じる。朝のうちは静かだった道も、昼に近づくと人影が増えた。

 

村の者がいた。

 

荷を背負った商人がいた。

 

丐幇の者らしき子供が、遠くから一行を見て、すぐに走り去った。

 

唐門の旗を見た者は、自然に道を空ける。

 

恐れからではない。

 

いや、恐れもある。

 

唐門は毒と暗器の門派である。蜀の人間なら、唐門の名を知らぬ者はいない。助けられた者もいる。粥を施された者もいる。義田のおかげで冬を越した者もいる。だが同時に、唐門に狙われた者は夜明けを見ない、という噂もある。茶屋で杯を取っただけで指先が痺れ、笑っていた相手が次の瞬間には舌を噛んで死ぬ、という話もある。どこまで本当で、どこからが誇張か、町の者には分からない。

 

分からないから、空ける。

 

唐門の列は、静かに進んだ。

 

先頭は古参弟子二人。道の左右を見ながら、何気ない足取りで歩いている。だが彼らの袖の中には奪志鏢があり、腰には短い刃があり、口の中には最後の毒がある。唐衫は若い弟子の列を整え、遅れる者がいれば声をかける。葉雲舟は薬籠を持ち、歩きながら周囲の呼吸を見ていた。龍湘は列に入らず、少し前へ出たり、後ろへ下がったり、時には道端の果物売りを覗いたりしている。

 

戦に向かう列としては、いささか締まりがない。

 

だが唐門の古参は、それでよいと思っていた。

 

整いすぎた列は、狙いやすい。

 

見た目に緩みがあるほうが、敵の目を誘える。

 

道の脇に、数人の侠客がいた。

 

年は若い。

 

十四、五に見える者もいれば、十八、九ほどの者もいる。二十を越えた者はいないだろう。衣はまちまちだが、剣も靴も新しく、顔には疲れより先に昂ぶりがあった。

 

腕に覚えはあるのだろう。

 

門派の中では褒められ、同輩には一目置かれ、師父からも一度や二度は名を上げてこいと言われた顔である。だから怖さを知らない。知らない怖さを、勇気だと思っている。

 

彼らは唐門の列を見た。

 

そして、輿の上の趙活を見た。

 

「あれが瑞公子と戦った唐門の英雄か?」

 

「まさか。ただの怪我人だろう」

 

「いや、旗の位置を見ろ。あれが中心だ」

 

「嘘だろ、妖怪みたいじゃないか」

 

「馬鹿、声を抑えろ。相手は唐門だぞ」

 

唐門の若弟子の肩が揺れた。

 

唐衫の目が動く。

 

龍湘はもう、若者たちのほうを見ていた。

 

趙活は手を上げた。

 

誰も動くな、という合図だった。

 

古参は止まる。唐衫も止まる。葉雲舟は静かに息を吐く。龍湘だけが不満そうに眉を寄せたが、剣には手をかけなかった。

 

趙活は若い侠客たちを見た。

 

彼らは、趙活の目を見て少しだけ怯んだ。

 

顔だけなら笑える。

 

だが目は笑えない。

 

趙活は輿の上から、穏やかに言った。

 

「眉山の英雄を探しているなら、今は山の上にはいない」

 

若者の一人が、ばつが悪そうに言う。

 

「では、どこに……」

 

「怪我をして、薬臭い輿に乗っている」

 

自分で言った。

 

唐門の若弟子が息を呑む。

 

相手の若者たちは、一瞬どう返せばよいか分からなくなった。つい口をついて出てしまった雑談を、当人に拾われたのである。

 

趙活は続けた。

 

「俺の顔が瑞公子に引っ張られたのだろう。実物はこんなものさ」

 

唐惟元が後ろで「あの顔っスもんねえ~」と笑い、龍湘がよくわからない顔をして、葉雲舟に尋ねていた。

 

その空気に、若い侠客の一人が乗ってしまった。

 

「なら、その実物の腕も噂ほどではないのでは?」

 

趙活は彼を見た。

 

若い。

 

剣を腰に佩いている。鞘は新しい。柄巻きもまだ汚れていない。手の皮は硬いが、節に血の染みた跡が少ない。道場では強いのだろう。門派の中では期待されているのかもしれない。だが人の死ぬ臭いを十分に吸ってはいない。

 

趙活は、自分も昔はこういう若さを羨んだことを思い出した。

 

きれいな剣。

 

きれいな名。

 

きれいな顔。

 

自分にないものばかりだ。

 

だからこそ、怒りは湧かなかった。

 

「腕を確かめたいなら、俺ではなく戦場で確かめてくれ」

 

「噂の英雄は、腕試しも受けないのか」

 

唐衫が一歩出かけた。

 

唐惟元がその肩を軽く叩いて止める。

 

趙活は首を振った。

 

「今ここで剣を抜けば、君は唐門に喧嘩を売ることになる。俺は若者の軽口に本気で応じた器量なしとなる。どちらにとっても面白くない」

 

若者は言葉に詰まった。

 

趙活は少しだけ息を吸う。

 

胸が痛い。

 

だが声は崩さない。

 

「名を上げるなら、弱った俺を相手にすることじゃない。君が義侠を通せば、喝采があるだろう。俺を笑いたいのなら、戦場で見てからにすればいい」

 

趙活は、もう一言だけ続けた。

 

「ただし、戦場で人を笑う余裕は持たないほうがいい。笑うなら、生きて帰ってからだ」

 

それだけ言って、趙活は合図した。

 

唐門の列が動き出す。

 

背後で若い侠客たちが何か言い合っていた。謝る者はいなかった。だが先ほどのような浮ついた雰囲気は消えていた。

 

龍湘が趙活の横へ来た。

 

「弟、あれは放っておいてよかったの?」

 

「剣を向ける相手じゃない」

 

「私はちょっと腹が立ったよ」

 

「面倒な相手を斬らずに済ませるのも、たぶん大事だ」

 

「悪人なら迷わなくていいんだけど」

 

「湘姉……」

 

「な、なによ!そんな目で見ないで!」

 

龍湘の慌てた声に、趙活は少し笑った。

 

笑った途端、胸が痛んだ。

 

輿の横を歩いていた葉雲舟が、すぐに気づいた。

 

「趙兄」

 

「大丈夫だ」

 

「顔色があまりよくありません」

 

「もともとだよ」

 

「そういう冗談でごまかすと、唐芳師姉に怒られます」

 

「葉兄、厳しくなったな」

 

「医術を学ぶと、無茶をする人に厳しくなるようです」

 

葉雲舟の声は穏やかだったが、その目は医者のものだった。

 

趙活は苦笑し、背凭れに体を預けた。

 

山を下りるほどに、人の気配は濃くなる。

 

小さな村落の手前で、一行は一度止まった。

 

道が詰まっていた。

 

荷車が横倒しになり、袋が破れ、雑穀が道に散っている。牛が一頭、足を折って倒れていた。その傍で女が泣き、老人が立ち尽くし、数人の男が荷を戻そうとしている。盗賊に襲われたわけではない。荷車の車軸が折れただけだ。

 

だが今は、それだけでも人の心を荒らす。

 

後ろには武林へ向かう者がいる。前には戦の噂がある。西夏軍が来るという話は、もう山麓まで届いていた。極楽教徒の名も、灯の怪談のように広まり始めている。人は、見えない敵より見える邪魔に怒る。

 

荷車を避けようとした旅人が怒鳴る。

 

「どけろ!」

 

「どうやってどけるんだ!」

 

「知るか、戦が始まるんだぞ!」

 

「こっちだって逃げてるんだ!」

 

声が重なる。

 

一人が荷袋を蹴った。

 

袋からこぼれた雑穀が泥に混じる。

 

女の泣き声が強くなった。

 

趙活は輿から下りようとした。

 

葉雲舟が止める。

 

「僕が行きます」

 

「俺も見ます」

 

「歩けますか」

 

「少しなら」

 

「少しの基準が趙兄はおかしい」

 

趙活は返さず、輿の縁に手をかけた。

 

足を地面につけた瞬間、胸だけでなく腹の奥にも痛みが走った。冷や汗が出る。だが立てないほどではない。葉雲舟が横から支えようとしたが、趙活は手で制した。

 

こういう時、支えられている姿を見せすぎるのはよくない。

 

今の自分は、まだ名だけが先に歩いている。

 

その名が、最初から誰かの肩に寄りかかっていてはならない。

 

趙活はゆっくり歩いた。

 

唐門の弟子が前を空ける。周囲の者が、唐門の列から出てきた醜い男を見て、またざわついた。

 

「唐門の人か」

 

「医者を呼べるか」

 

「牛がもう駄目だ」

 

「雑穀が」

 

「どけるのが先だろう」

 

趙活はまず、倒れた牛の足を見た。

 

骨が折れている。助からないことはないが、この道中で治すのは難しい。痛みで暴れれば人が怪我をする。車軸は折れているが、荷台自体は使える。雑穀は泥に混じったものは捨てるしかないが、袋の中に残った分はまだ多い。

 

問題は、誰も順番を決めていないことだった。

 

こういう混乱は、戦場の小さな縮図だ。

 

誰も悪くない。

 

だからこそ揉める。

 

趙活は声を出した。

 

普通に叫んだだけではない。

 

胸の奥に残る内力を、喉の震えへ薄く乗せる。龍吟功、と名を呼ぶほど大げさに使ったわけではない。だが声は、周囲のざわめきの底へ沈み、そこから一つずつ人の耳を叩いた。

 

「荷を蹴った人」

 

誰も動かなかった。

 

趙活は続ける。

 

「蹴った分は、拾って袋へ戻してください。泥に混じったものは捨てる。袋の中身は生かす。牛の足を見る人は一人でいい。車軸を見る人は二人。道を空ける人は三人。怒鳴る人は要りません」

 

静かになった。

 

命令ではない。

 

だが命令のように聞こえる。

 

声に込めた力はほんの少しだった。深く使えば胸が裂ける。だが、混乱の表面を押さえるには足りた。

 

蹴った男が、ばつの悪そうな顔で雑穀を拾い始めた。

 

唐衫がすぐに若弟子へ目で合図する。若弟子たちが道の整理に入る。葉雲舟は牛へ近づき、痛みを抑えるための処置を始めた。唐門の弟子が薬を出す。龍湘は、何をすればいいか分からない顔で立っていたが、やがて荷台を片手で支えた。

 

「これを上げればいいのか」

 

「湘姉、ゆっくりだ」

 

「分かった」

 

ゆっくり、と言いながら、彼女は成人男二人分ほどの力で荷台を持ち上げた。

 

周囲から低いどよめきが起きる。

 

唐惟元はその隙に、折れた車軸を見ていた。

 

「完全に折れてるっスね。応急なら竹と縄で縛れるっスけど、長くは持たないっス」

 

「近くの村まで持てばいい」

 

「それなら、まあ。代金は」

 

唐衫がじっと唐惟元を見た。

 

唐惟元は口を曲げた。

 

「冗談っスよ。戦場へ行く途中で小銭取ってどうするんスか」

 

「四師兄」

 

「何スか」

 

「助かった」

 

「礼なら後で出世払いでいいっス」

 

やはり取るのか、と若弟子が顔に出した。

 

唐惟元はそれを見て笑った。

 

「命が助かった後なら、いくらでも値切れるっスよ」

 

それが彼なりの善意だと、趙活は知っている。

 

唐惟元は、自分が善人に見られることを嫌う。

 

だから善を売る。

 

売ることで、相手に借りではなく取引だと思わせる。

 

弱い者にとって、恩は時に重い。返せない恩は、膝を折らせる。唐惟元はそれを知っている。だから銭の話をする。出世払い、投資、値引き、損得。そういう言葉で包んで、人を立たせる。

 

唐門の若弟子たちは、まだその全部を理解していない。

 

だが、少しずつ分かるだろう。

 

そうでなければ、唐門はただの暗殺者集団になる。

 

いや、暗殺者集団ではある。

 

だが、それだけではない。

 

荷車の整理が終わるころ、先ほどの若い侠客たちも近くに来ていた。

 

彼らは手伝ってはいない。

 

見ていただけだ。

 

趙活は責めなかった。

 

戦うことを学んだ者が、荷車を直すことを知らないのは珍しくない。人を助けることは、剣を抜くより難しい時がある。

 

ただ、そのうちの一人が、低い声で言った。

 

「……今の声、何かあるな」

 

「内力を乗せたのか」

 

「そんなふうには見えなかった」

 

「でも、耳に刺さった」

 

「唐門の術か何かか」

 

唐門の技ではない。

 

だが、外れてもいない。

 

ただの声に、ほんの少しだけ内力を混ぜた。龍吟功と呼ぶほどのものではない。混乱した人の耳へ、言葉を少し深く届かせただけだ。

 

彼らの視線は、趙活の顔から、唐門の弟子たちの動きへ移り、龍湘の力へ移り、葉雲舟の手当へ移り、最後にもう一度趙活へ戻った。

 

その目から侮りは薄れていた。代わりに、もっと見定めてやろうという若い意地が残った。

 

趙活はそれで十分だと思った。

 

最初から全員に信じられるわけがない。

 

信じろと言うほうが傲慢だ。

 

信は、足で稼ぐ。

 

それが処世であり、虚飾をまとって生きてきた自分の、数少ない本物の手段だった。

 

村で水をもらい、牛の処置を終え、荷車を仮に直してから、一行は再び道へ出た。

 

そこからの道は、地図の線より長かった。

 

蜀の山道を西北へ進む。輿を使う趙活の歩みに合わせ、急げるところは急ぎ、休ませるべきところは休ませた。唐門の古参は道を選び、唐衫は荷と人を見て、青城の四人は先の音と後ろの気配を拾った。

 

三月の末を越え、四月に入っても、列は止まらなかった。

 

四月九日の夕刻、彼らは前線に近い山麓の茶屋へ着いた。

 

### 四年目四月九日 夕刻 山麓の茶屋

 

茶屋は、昔より少し賑わっていた。

 

賑わっている、というより人が溜まっている。

 

戦の気配が、人を道の途中に留めていた。行くべきか戻るべきか決められない者。武林の集結に紛れて商いをしようとする者。噂を拾う者。逃げてきた者。逃げる途中で足を痛めた者。どの顔にも、落ち着きがない。

 

茶を煮る湯気の向こうに、青い道袍が見えた。

 

「おう、趙活!」

 

聞き慣れた声が飛んでくる。

 

碧波子だった。

 

相変わらず、声が大きい。しかも相手が誰であろうと、距離を詰めるのが早い。

 

その隣に清虛子がいる。顔は渋いが、碧波子の袖を引いて止めるのは手慣れている。少し離れたところで裴紅臘が本を抱えて立ち、高和が腰に剣を下げて、妙に涼しい顔でこちらを見ていた。

 

青城の四人。

 

趙活にとって、珍しく顔を見ても逃げなかった道士たちである。

 

いや、逃げなかっただけではない。

 

顔を妖怪のようだと思いながら、茶を飲み、本の話をし、くだらない話をし、時には雲裳の悪戯に巻き込まれて一緒に困った。

 

あの療養の日々は、痛かった。

 

だが、孤独だけではなかった。

 

趙活は輿から少し身を起こした。

 

「碧波子」

 

「お前、死にかけたそうじゃないか」

 

「死にかけてない」

 

「高和からも聞いたぞ。眉山で瑞笙とやり合って、最後は鬼が立っていたと」

 

「誰が鬼だ」

 

清虛子が横から言う。

 

「声が大きい」

 

「事実だろ」

 

「事実でも、怪我人の前で言うものではない」

 

裴紅臘が本を閉じた。

 

「趙活、本当に顔色が悪いな。ちゃんと薬は飲んでるのか」

 

「飲まされてる」

 

「その言い方だと、飲みたくないように聞こえるな」

 

「苦い」

 

「良薬は口に苦し、と言うだろ」

 

「作る側で言うのはいいが、飲む側だと辛い」

 

裴紅臘は少し笑った。

 

その横で、高和が趙活をじっと見ていた。

 

趙活は嫌な予感がした。

 

高和は、以前から趙活を妙な目で見る時がある。悪意ではない。侮りでもない。むしろその逆に近い。趙活の顔を見ても付き合いを変えない、ありがたい友人ではある。だが、ありがたいことと、危険がないことは同じではない。

 

高和はゆっくり頷いた。

 

「更にいい面構えになったな」

 

趙活は少し身を引いた。

 

「高和、その言い方はやめてくれ」

 

「魂が鍛えられると、顔つきにも出るものだ」

 

「顔は相変わらず悪いだろ」

 

「顔の造作と、男の良し悪しは別だ」

 

碧波子が吹き出した。

 

清虛子が額を押さえる。

 

唐門の若弟子たちは、初めてみる趙活の姿を見て反応に困っていた。

 

唐惟元は完全に面白がっていた。

 

「師弟、青城でも苦労してたんスね」

 

「四師兄、助けてください」

 

「君の珍しい姿見るほうがいいんで無理っス」

 

龍湘は干し肉を噛むのをやめ、ぽかんとした顔で言った。

 

「弟がこんなに気安く話してるのなんて、初めて見たかも」

 

青城からきた四人は佇まいを直し、龍湘へ挨拶をした。

 

「龍女侠、東西武林戦以来です。あの時は挨拶しそびれましたが、改めてお目にかかれて光栄です」

 

「えっ、ああ、うん。よろしく」

 

趙活は青城へ留学していた頃を思い出し、男ばかりだったことを思い出した。

 

「おまえら道心はどこにいった……」

 

碧波子が言う。

 

「仕方ないだろ!こういうときぐらいしかないんだぞ。しかもとんでもない美人ときた」

 

清虛子も頷き。

 

「こればかりは碧波子が正しい」

 

裴紅臘も合わせた。

 

「我々もあの時一緒に戦っていたんだ。挨拶するぐらいおかしくはないだろ。それに、道心は山へ帰ったら思い出せばいいのさ」

 

高和は、本人には聞こえないほどの声で呟いた。

 

「前にも思っていたが、まるで天女のようないでたちだ。あーダメダメ、道心が乱れる」

 

趙活は顔に手をやり天を仰いだ。

 

高和は悪びれない。

 

「それは置いといて、だ。鄒掌門より、我ら四名、先行して武林の集結地へ向かい、趙活に協力せよとの命を受けている」

 

その言葉で、場の空気が少し変わった。

 

鄒博掌門は、来られない。

 

無相祖師との戦いで傷を負い、なお青城を守らねばならない。出られるなら出ただろう。だが掌門が無理をすれば、青城の中が揺れる。趙活はそれを分かっていた。

 

「鄒掌門は」

 

「元気、とは言い難いな」

 

清虛子が答えた。

 

「だが、目は鋭いままだ。趙活へ、無理をするな。それと、わしも体が治り次第向かうから、悪党は少し残しておけ。だとさ」

 

趙活は苦笑した。

 

「それを青城から言われると、逆らえないな」

 

「雲裳姑娘のことも、少し気にしておられました」

 

碧波子が横から口を挟む。

 

「気にしているというか、恐れているというか。あの悪戯娘が落ち着いたと聞いて、信じていいのか迷っていたな」

 

「雲裳は落ち着きました」

 

趙活は即答した。

 

唐門の古参の数名が、少しだけ目を逸らした。

 

唐惟元が小さく咳をした。

 

葉雲舟が微妙な顔をした。

 

龍湘は首を傾げた。

 

「そうか?」

 

趙活は聞こえなかったふりをした。

 

裴紅臘が少しだけ笑う。

 

「趙活がそう言うなら、そういうことにしておこう」

 

「信じてないな」

 

「今までの所業を思い返してみろ」

 

「ぐうの音も出ない」

 

青城の四人が揃うと、唐門の列の空気は少し軽くなった。

 

だが茶屋の空気は、完全には軽くならない。

 

奥の席に、別の武林の者たちがいた。

 

こちらを見ている。

 

青城と唐門が親しく話すのが気に入らない者もいる。趙活の顔を見て眉をひそめる者もいる。眉山の戦いを見ていない者にとって、趙活は噂の中の怪物であり、目の前の醜い病人であり、唐門が担ぎ上げた都合のよい看板でもある。

 

趙活はそれを感じながら、茶屋の隅に座った。

 

輿から椅子へ移るだけで、息が乱れる。

 

この時代に椅子は珍品ではないが、誰もが当たり前に使うものでもない。茶屋には低い腰掛けと長椅子があり、旅人が足を休めるには十分だった。趙活は背を壁につけ、胸を庇うように座る。

 

茶が出た。

 

飲む前に、唐門の古参が確認する。

 

毒ではない。

 

だが趙活は、茶碗の縁についた薄い粉を見た。

 

毒ではない。

 

少なくとも、即座に人を殺すものではない。

 

しかし、妙な香りがした。

 

薬草ではない。

 

香木でもない。

 

祈祷に使う香の残り香に、苦いものが混じっている。

 

趙活は茶碗を置いた。

 

「飲むな」

 

声は静かだった。

 

唐門の弟子たちが、一斉に動きを止める。

 

青城の四人も茶碗を止めた。

 

茶屋の主人が顔を青くした。

 

「だ、旦那、何か」

 

趙活は茶碗を指で示した。

 

「この茶を淹れる前、同じ釜で別のものを煮ましたか」

 

主人は慌てて首を振る。

 

「いえ、そんな」

 

嘘ではない。

 

趙活は主人の手を見た。爪の間に茶葉の色はある。だが香の粉はない。

 

「では、この茶碗を洗った水は」

 

主人の顔が変わった。

 

「裏の桶です。朝、旅の坊さんが水を汲んでくれて」

 

坊さん。

 

福韞和尚なら、こういう時に嫌な笑みを浮かべながら、坊主だから善人とは限りません、と言いそうだ。

 

趙活は立とうとした。

 

葉雲舟が支える。

 

「僕が見ます」

 

「一緒に」

 

「趙兄」

 

「見るだけだ」

 

見るだけ、という言葉ほど信用ならないものはない。

 

葉雲舟はそれを分かっていたが、止めきれなかった。

 

茶屋の裏には、水桶が三つ並んでいた。

 

一つは井戸水。もう一つは洗い水。最後の一つは、客へ出す茶碗をすすぐための水だ。趙活は桶の縁を見た。ごく薄い灰色の粉が付いている。水面にはほとんど浮いていない。

 

毒ではない。

 

だが人の心を少し浮かせ、眠りを浅くし、夜に悪夢を見せる類のものだ。

 

極楽教徒の香。

 

直接人を殺すよりも厄介な場合がある。

 

旅人の疲れた心へ染み込み、不安を増やし、噂を信じやすくする。眠れぬ夜に聞いた言葉は、朝には自分の考えのように思えてくる。戦の前にこういうものを撒けば、道端の小さな揉め事が刃傷沙汰になる。

 

趙活は指先で粉を少し取り、匂いを嗅いだ。

 

唐門で暮らしていなければ、分からなかったかもしれない。

 

いや、唐門で暮らし、医術を学び、毒も薬も扱い、雲裳を救うために内力を命の底まで流し込んだ経験がなければ、この微かな違和感を拾えなかった。

 

「極楽香の薄いものだ」

 

葉雲舟の顔が固くなる。

 

「ここでですか」

 

「ここで、だからだ」

 

茶屋は戦場ではない。

 

だから効く。

 

兵がいる場所なら警戒する。門派の宿なら毒見をする。だが茶屋は、喉が渇いた者が入る。逃げる者が立ち止まる。噂を聞く。怒りを育てる。

 

趙活は桶を見た。

 

「すぐ捨てる。井戸も確認する」

 

葉雲舟が頷く。

 

「主人には」

 

「責めない。利用された」

 

茶屋の前に戻ると、唐惟元がすでに客を見ていた。

 

彼は茶を飲んでいない客、飲んだ客、飲んだふりをした客を分けている。唐門の商人としての目は、金だけを見るわけではない。誰が何を買い、何を避け、どの席に座り、どの入口を気にしたか。そういうものを数える。

 

唐惟元は趙活を見ると、顎で奥を示した。

 

「あの灰色の頭巾、茶は飲んでないっス」

 

「見ていましたか」

 

「商売人っスから。飲み物に手をつけない客は気になるっス」

 

灰色の頭巾の男は、すでに席を立とうとしていた。

 

唐衫が動く。

 

だが男の動きは早かった。

 

戸口へ向かうふりをして、袖から何かを投げる。小さな丸い粒。煙か、毒か、火か。唐門の弟子たちが散る。客が悲鳴を上げる。

 

趙活は反射で口を開いた。

 

喉に力を乗せる。

 

「伏せろ!」

 

龍吟功の響きが、茶屋の梁を叩いた。

 

声を聞いた者の体が、考えるより先に低くなる。

 

粒は床へ落ち、割れた。

 

白い粉が散る。

 

石灰。

 

目を潰すための粉だ。

 

唐門の石灰粉ほど練られたものではない。だが狭い茶屋では十分だ。客がまともに浴びれば、目を押さえて暴れ、混乱の中で男は逃げられる。

 

しかし誰も立っていなかった。

 

立っていたのは、動きを読んでいた者だけだ。

 

唐衫が右を塞ぐ。

 

清虛子が左の逃げ道へ入る。

 

碧波子が机を蹴って、男の足を乱す。

 

裴紅臘は後ろの客を下げた。

 

高和は、静かに剣へ手をかけた。

 

男は短刀を抜いた。

 

灰色の頭巾が落ちる。

 

若い顔だった。

 

若いが、目が若くない。

 

灯を見すぎた者の目だ。

 

「邪魔をするな」

 

声が掠れている。

 

趙活は、その口元を見た。

 

舌の下に何かある。

 

毒を噛むためのものか。

 

あるいは、口中暗器か。

 

趙活は核棗釘を知っている。口に含み、言葉の間に飛ばす小さな暗器。人は手を見れば武器を警戒する。だが口を警戒する者は少ない。趙活自身、読んで覚え、試し、何度か舌を切りかけた。だから分かる。

 

この男は、舌の下に何かを隠している。

 

「口だ」

 

趙活が言った瞬間、高和の剣が動いた。

 

速い。

 

青城四人の中で一つ抜けて強い、と趙活は知っている。内力は乗りきらない。だが踏み込みが力強く、剣の線が迷わない。普段はどこか柔らかな目をしている男が、戦う時だけは声も顔も変わる。

 

高和の剣は男の顎先を掠めた。

 

殺してはいない。

 

だが口を閉じる動きを崩した。

 

そこへ唐衫が下から踏み込む。

 

唐門の歩法は軽い。正面から斬り結ぶためではなく、視界の端へ滑り込み、相手の判断を半拍遅らせるための足だ。唐衫は剣ではなく短い刃で、男の手首を叩いた。短刀が落ちる。

 

男は舌の下のものを飛ばそうとした。

 

その瞬間、趙活は机の上の箸を一本、指で弾いた。

 

暗器と呼ぶには粗末すぎる。

 

だが角度は正確だった。

 

箸は男の頬を打ち、口の中の動きをずらす。小さな釘が、床に落ちた。黒く濡れている。毒が塗られている。

 

清虛子が背後から男の肘を取る。

 

碧波子が足を払う。

 

高和が剣の柄で首筋を押さえた。

 

男は床に沈んだ。

 

殺してはいない。

 

唐門なら、この場で殺してもおかしくない。

 

だが茶屋には民がいる。

 

ここで血を撒けば、極楽教徒の望む噂が生まれる。唐門が茶屋で人を殺した。青城道士が客を斬った。戦へ向かう者たちはやはり恐ろしい。そういう噂は、毒より早く道を走る。

 

趙活は椅子に戻りながら、息を整えた。

 

たったこれだけで、胸が熱い。

 

額に汗が滲む。

 

葉雲舟がすぐ横に立つ。

 

「趙兄」

 

「大丈夫だ」

 

「大丈夫ではありません」

 

「あとで怒ることにしてくれ」

 

「今も怒っています」

 

葉雲舟の声は静かだった。

 

だが静かだからこそ、少し怖い。

 

唐惟元は捕らえた男の口を布で押さえ、舌の下、奥歯、襟、帯、袖、爪の間まで確認していた。動きに迷いがない。商売の荷を改めるように、人の体から危険を取り出していく。

 

「三炷香か、その下っスね」

 

「分かりますか」

 

「道具が安いっス。腕は悪くないけど、持たされてるものが雑っス」

 

男は布の下で何か呻いた。

 

唐惟元は顔を近づける。

 

「何スか。言いたいことあるなら、あとでゆっくり聞くっス。ここじゃ客が多いんで」

 

その言い方は軽い。

 

だが男の目が恐怖に変わった。

 

唐門は尋問を知っている。

 

優しくはない。

 

必要なら、無事では済ませない。

 

茶屋の客たちは、息を殺していた。

 

先ほどまで趙活の顔を見ていた者たちも、今は床に落ちた黒い釘を見ている。石灰粉の白さを見ている。灰色頭巾の男がどれほど自然に客に紛れていたかを思い出している。

 

敵は、戦場だけにいるのではない。

 

その事実が、茶屋の空気を冷たくした。

 

裴紅臘が桶の水を調べ終え、戻ってきた。

 

「井戸は無事だった。桶だけのようだ」

 

「なら、主人は白だな」

 

趙活が言うと、茶屋の主人がその場に膝をついた。

 

「た、助かります。旦那、私は」

 

「分かっています。今後、客が汲んだ水は使わないでください。善意に見えても、戦の前は善意が一番使われます」

 

主人は何度も頷いた。

 

その言葉を聞いて、旅人たちの中にざわめきが広がった。

 

善意が使われる。

 

それは誰にとっても嫌な言葉だった。

 

だが、今この場で最も必要な言葉でもあった。

 

趙活は灰色頭巾の男を見た。

 

「四師兄。ここでは聞かないでくれ」

 

「分かってるっス。場所を移すっス」

 

「殺さずに」

 

「一人目は、っスね」

 

唐門の若弟子の顔が強張る。

 

唐惟元はそれを横目で見た。

 

「何スか。戦場へ行くんスよ。敵を全部生かして縛って運べると思ってるなら、荷車をあと十台用意するっス」

 

若弟子は何も言えない。

 

趙活も何も言わなかった。

 

唐惟元の言葉は、冷たい。

 

だが間違ってはいない。

 

人を生かすにも手間がいる。見張りがいる。薬がいる。水がいる。縄がいる。運ぶ者がいる。敵が毒を含んでいれば、その危険も背負う。余裕がある時なら全員を捕らえればよい。情報は多いほどよい。だが余裕がなければ、一人で足りる。あるいは二人。残りをどうするかは、戦場が決める。

 

唐門は、その判断を濁さない。

 

趙活はそれを知っている。

 

自分も、いざとなればそうする。

 

だが若弟子の前で、その事実を言葉にするのは重い。

 

唐惟元は、あえて言った。

 

若弟子が戦場で初めて知って固まるより、ここで顔を青くしたほうがいい。

 

「覚えておいてくれ」

 

趙活は若弟子へ言った。

 

「殺すことを軽く見る必要はないが、殺さないことを綺麗なことだと思いすぎてもいけない。」

 

若弟子は唇を噛んだ。

 

その横で、唐衫が静かに頷いていた。

 

彼はもう、血を見ている。

 

自分の過ちも知っている。

 

だからこそ、若弟子の青さを笑わない。

 

茶屋での一件は、すぐに道へ広まった。

 

広まらないようにすることはできない。

 

ならば、広める形を整えるしかない。

 

趙活は茶屋の主人に、何が起きたかを短く言わせた。唐門が毒を撒いたのではない。青城が客を斬ったのではない。灰色頭巾の男が水桶に香を入れ、石灰粉で逃げようとし、毒釘を口に隠していた。唐門と青城が止めた。

 

言葉は証拠ほど強くない。

 

だが、言葉がなければ証拠は走らない。

 

丐幇の子供が、いつの間にか戻っていた。

 

趙活はその子を呼び、短い紙片を渡した。

 

「花二爺に」

 

子供は趙活の顔をじっと見た。

 

怖がっている。

 

だが逃げない。

 

「あんたが、趙大侠?」

 

趙活は少し迷った。

 

大侠と呼ばれるには、まだ慣れない。

 

しかし今、否定すれば紙片の重みも落ちる。

 

「趙活です」

 

子供は頷いた。

 

「顔、噂より変」

 

唐門の若弟子がぎょっとする。

 

趙活は笑った。

 

「噂がまた遠慮したんでしょう」

 

子供は少しだけ笑い、紙片を懐に入れて走り去った。

 

趙活はその背を見送る。

 

こういう子供たちが道を走る。

 

丐幇は情報の血管だ。

 

だが血管に毒が入れば、全身に回る。

 

だから、丐幇にも灯は入り込む。

 

花二爺は信用できる。李富貴も、吃音で言葉は詰まるが義侠はある。沙長老も張長老も、それぞれの筋を持つ。だが丐幇は広すぎる。すべてを同じ色にはできない。

 

日が暮れる前に、一行は茶屋を出た。

 

捕らえた男は唐門の古参が縛り、口を塞ぎ、目隠しをした。薬で眠らせることもできたが、今は眠らせない。眠りの中で死ぬ仕掛けがあるかもしれないからだ。唐門は自分たちが使う手を知っている。だから同じ手を警戒する。

 

山道を抜け、町道へ出るころ、空が赤くなった。

 

遠くに煙が見えた。

 

炊事の煙ではない。

 

少し黒い。

 

趙活は輿の上で目を細めた。

 

「あれは」

 

唐衫が前へ走る。

 

しばらくして戻ってきた。

 

「軍の前哨ではありません。道沿いの小さな倉です。すでに火は落ちています。人は……」

 

言葉が止まる。

 

趙活は続きを促さなかった。

 

唐衫の顔を見れば分かる。

 

死んでいる。

 

少なくとも、何人かは。

 

その倉は、村の共同倉だった。

 

兵糧ではない。

 

民の穀を入れていた。

 

燃やした者は、兵糧と間違えたのではない。

 

分かって燃やした。

 

民の穀を焼けば、村は飢える。飢えれば人は動く。逃げる者が増え、道が詰まり、軍の補給が遅れ、武林への不満が増える。なぜ守ってくれなかった。また崆峒が火を出したのではないか。そういう声が生まれる。

 

極楽教徒は、人の腹を狙う。

 

腹が空けば、心は簡単に折れる。

 

趙活は倉の焼け跡を見た。

 

黒い柱。

 

焦げた穀。

 

泣き崩れる老女。

 

顔を煤で汚した少年。

 

そして、地面に倒れた男が二人。

 

一人は村の者。

 

もう一人は、見張りのために残っていた若い侠客だった。

 

名は知らない。

 

朝、趙活の顔を笑った者たちの一人ではない。だが似た年頃だった。きれいな剣を持ち、きれいな名を欲し、戦が始まる前に、民の倉で死んだ。

 

彼の剣は抜かれていた。

 

血もついている。

 

戦ったのだ。

 

勝てなかっただけだ。

 

趙活は輿から下りた。

 

葉雲舟は止めなかった。

 

今は止める場面ではないと分かったのだろう。

 

趙活は焼け跡の前へ行き、膝をついた。

 

胸が痛む。

 

だが、その痛みは生きている者の痛みだ。

 

死んだ若者には、もうない。

 

趙活は手を合わせなかった。

 

仏門の者ではない。

 

道士でもない。

 

儒者として礼を尽くすほどの立場でもない。

 

ただ、頭を下げた。

 

唐門の弟子たちも続く。

 

青城の四人も頭を下げる。

 

龍湘だけは、しばらく死体を見つめていた。

 

その目が、戦う時のものへ変わっている。

 

「弟よ、これは悪人だな」

 

「ああ」

 

趙活は答えた。

 

今度は迷わなかった。

 

「これは、斬ってでも止める相手だ」

 

龍湘は頷いた。

 

笑わなかった。

 

夜になる前に、村の者をまとめ、焼け残った穀を分け、怪我人を手当てした。

 

趙活は手を出しすぎないようにした。

 

葉雲舟と青城の裴紅臘が傷を見た。唐門の弟子が薬を出す。唐惟元が焼けた倉の周りを調べ、火の回り方を見た。唐衫は村の若者を集め、周囲の見張りを置いた。

 

趙活は地面に膝をつき、炭の中から小さな欠片を拾った。

 

火薬の匂いが薄い。

 

崆峒の飛天門なら、もっと火が立つ。

 

これは火を見せるための火ではない。

 

穀を殺すための火だ。

 

燃やした者は、派手な炎を好む者ではない。むしろ火を道具として見ている。丹霞子や顔疆の火とは違う。金烏上人の粗暴な陽の火とも違う。

 

灯の火。

 

人の心を照らすふりをして、影を伸ばす火。

 

趙活は炭を布に包んだ。

 

「証拠になりますか」

 

唐衫が聞く。

 

「証拠にするさ」

 

「作るのではなく?」

 

趙活は唐衫を見た。

 

唐衫は、冗談で言ったのではない。

 

唐門なら、証拠がなければ作る。

 

そういう門派である。

 

趙活も否定しない。

 

だが今は、作るより先に拾うものがある。

 

「本物があるうちは、本物を使う」

 

「なければ」

 

「必要なら、作ることもあるんじゃないか」

 

唐衫は頷いた。

 

その顔は少し硬い。

 

趙活は続けた。

 

「でも、作った証拠は、いつか自分たちの足に絡む。唐門の面子を守るために使うなら、絡んでも切れるようにしておかないといけない」

 

唐惟元が少し離れたところで笑った。

 

「師弟、言うようになったっスね」

 

「四師兄の悪影響だな」

 

「僕はもっと悪辣に教えるっスよ」

 

短い軽口だった。

 

だが、その場の若弟子たちは笑えなかった。

 

焼けた倉の匂いが、喉の奥に残っている。

 

笑いは、まだ早い。

 

その夜、一行は村の外れで野営した。

 

### 四年目四月九日 夜 村外れの野営

 

村の中に入れば、村人は安心するかもしれない。だが敵がまた来た時、村を巻き込む。だから外に張る。道と倉と村を見渡せる、少し高い場所。唐門の古参が罠を置き、青城の四人が方角を分け、龍湘は一番暗い木陰に座った。

 

趙活は輿ではなく、低い敷物に座って地図を広げた。

 

火は小さい。

 

大きな火は狙われる。

 

灯りを消しすぎても、味方が動けない。

 

火の大きさ一つにも、戦場の理屈がある。

 

趙活は地図に石を置いた。

 

唐門。

 

山麓の町。

 

茶屋。

 

焼けた倉。

 

岷州方面。

 

崆峒方面。

 

宋軍前哨。

 

楊景略の本陣。

 

そして、西夏軍の進むであろう道。

 

丹霞子がいれば、兵の疲れ方や馬の餌場まで含めて、もっと具体的に読むだろう。趙活にはそこまでの実地感覚はない。だが道を見ることはできる。人がどこを通りたいか。どこを避けたいか。どこで噂が溜まり、どこで恐怖が水のように流れるか。

 

雲裳の声を思い出す。

 

民の道。

 

戦う者が、戦場ではないと思いたがる場所。

 

敵はそこを突く。

 

趙活は小さな石を、村の共同倉の位置に置いた。

 

これが偶然ではないなら、次も倉か、水か、祠か、橋だ。

 

人が集まる場所。

 

人が信じる場所。

 

人が通らずにはいられない場所。

 

「趙兄」

 

葉雲舟が近づいてきた。

 

手には薬碗がある。

 

「唐芳師姉から、日暮れ後に必ず飲ませるよう言われています」

 

「逃げ道は」

 

「ありません」

 

「ないか」

 

趙活は薬碗を受け取った。

 

苦い。

 

苦いが、唐芳の薬は効く。

 

飲み下すと、胸の奥に少し熱が広がった。痛みが消えるわけではない。だが痛みの輪郭が鈍くなる。

 

葉雲舟は地図を見た。

 

「趙兄は、次にどこが狙われると思いますか」

 

「橋か水場だろうか」

 

「軍の補給路ですか」

 

「それもあるが、それより民の水場だな」

 

葉雲舟の目が細くなる。

 

「民を動かすために」

 

「ああ。村人が逃げれば道が詰まる。道が詰まれば軍が苛立つ。軍が苛立てば武林を邪魔者に見る。武林が怒れば軍を臆病者と見る」

 

「そこに極楽教徒が言葉を入れる」

 

「そうだ」

 

葉雲舟は黙った。

 

彼は戦術家ではない。

 

だが、逃げる者の心理を知っている。

 

追われる者の恐怖を知っている。

 

妹を連れて、宝の噂に群がる者たちから逃げ続けた時間が、彼の中にある。だから、民を動かすという言葉の重さを理解できる。

 

「止められますか」

 

「全部は無理だ」

 

趙活は正直に言った。

 

「だが、止めた場所から信が生まれる。軍も、民も、武林も、最初から一つにはならない。まず一つずつ、敵の灯を消すしかない」

 

葉雲舟は頷いた。

 

「僕は、どこへ立てばいいですか」

 

「葉兄は、點蒼の人たちと会うことになると思う」

 

葉雲舟の表情が、少しだけ動いた。

 

「……そうですね」

 

「嫌か」

 

「嫌ではありません。ただ、難しい」

 

「分かるよ」

 

趙活は、葉雲舟の横顔を見た。

 

葉雲舟は唐門にいる。

 

だが、剣は點蒼である。

 

唐門の戦場へ立てば、唐門の一員として見られる。點蒼の者と並べば、裏切り者にも、帰ってきた者にも、利用できる駒にも見える。彼自身がどこに立ちたいかだけでは済まない。周りが、彼をどこへ置きたがるかが問題になる。

 

「無理に唐門の顔をしなくていい」

 

葉雲舟が趙活を見る。

 

「趙兄」

 

「葉兄の剣は點蒼だ。唐門にいるからといって、それを隠す必要はない。むしろ、今はそれが要る。點蒼の剣が唐門の側に立つ。それを見せることに意味がある」

 

「僕が、點蒼と唐門の間に立てると」

 

「ああ」

 

「趙兄は、いつも難しい場所へ人を置きますね」

 

「すまない」

 

「責めてはいません」

 

葉雲舟は静かに笑った。

 

「妹を助けてもらった恩を、少しずつ返せるなら、それでいい」

 

趙活は言葉に詰まった。

 

恩。

 

まただ。

 

助けたつもりはある。

 

だが恩を積ませたつもりはない。

 

雲裳を助けたかったから助けた。葉雲舟を庇ったのも、唐門がそうすべきだと思ったからだ。けれど受け取った側には、恩が残る。恩は人を動かす。人を救うこともある。人を縛ることもある。

 

趙活は、葉雲舟が自分の人生を歩き始めたことを嬉しく思っている。

 

だからこそ、その足を恩で縛りたくない。

 

「葉兄」

 

「はい」

 

「返すためだけに戦わないでくれよ」

 

葉雲舟は少し黙った。

 

火の音が小さく鳴る。

 

遠くで、龍湘が誰かに「鶏モモはないのか」と言っている声がした。

 

葉雲舟は、やがて頷いた。

 

「では、生きるために戦います」

 

「それがいい」

 

「そして、必要なら助けます」

 

「そのときはお願いするよ」

 

その時、闇の中で鳥が飛んだ。

 

一羽ではない。

 

数羽が同時に枝を離れた。

 

唐門の古参が、声を出さずに手を動かす。

 

左。

 

三。

 

低い。

 

趙活は地図を畳んだ。

 

葉雲舟は薬碗を置き、剣に手をかける。

 

龍湘の気配が消えた。

 

青城の四人は、それぞれの位置で動かない。高和は剣を半分抜き、清虛子は息を整え、碧波子は口を閉じた。裴紅臘は背後の村へ目を向ける。

 

夜は、昼より広い。

 

昼なら見えるものが、夜には見えない。だが夜には、音がある。草を踏む音。布が擦れる音。息を止めようとして止めきれない音。唐門の者はそれを聞く。

 

敵は五人。

 

いや、六人。

 

一人は木の上。

 

趙活は動けない。

 

立って戦うには、まだ体が足りない。

 

ならば、動ける者を動かす。

 

彼は声を出さず、指を二つ動かした。

 

唐衫が見る。

 

青城にも合図を回す。

 

趙活は、同舟剣法を思い出していた。

 

同じ船に乗る。

 

相手と同じ方向を見る。

 

同じ揺れを受け、同じ波を読む。

 

剣法の名ではある。だが、その本質は剣だけではない。人の呼吸を合わせること。自分の技を押しつけるのではなく、相手が作る半歩に乗ること。葉雲舟の速さに合わせ、青城の堅さに合わせ、唐門の毒の間合いに合わせること。

 

趙活は今、剣を振れない。

 

だが、呼吸は合わせられる。

 

低い声で言う。

 

「碧波子、右の草」

 

碧波子が頷く。

 

「清虛子、二歩待ってくれ」

 

清虛子は目だけで返す。

 

「高和、上」

 

高和の剣が、音もなく抜けた。

 

敵が来る。

 

黒衣ではない。

 

農夫のような衣。旅人のような笠。だが足が違う。土を踏む重さが、人を殺すための足だ。

 

一人目が草むらから飛び出した瞬間、碧波子が横から受けた。

 

青城の剣は、山の水のように流れる。

 

碧波子は普段よく喋る。だが剣を握ると、言葉の代わりに足が喋る。相手の短刀を受け流し、押し返さず、右へ流す。そこへ清虛子が二歩遅れて入った。

 

遅れではない。

 

趙活が待てと言った二歩。

 

相手が碧波子の流れに乗って足を踏み替えた瞬間、清虛子の剣がその膝前を封じる。斬らない。止める。止められた相手は、体を捻るしかない。

 

その捻りへ、唐門の暗器が入った。

 

古参の奪志鏢である。

 

肩に刺さる。

 

毒は薄い。殺す毒ではない。力を抜く毒だ。

 

二人目は、唐衫が受けた。

 

唐衫は正面から入らない。相手の視線が碧波子へ向いた瞬間、腰の低い踏み込みで懐へ入る。短刃が手首を撫で、次の瞬間には相手の指が開いた。

 

三人目は、葉雲舟の前に出た。

 

速い。

 

普通の刺客ではない。

 

葉雲舟の剣が抜ける。

 

音が薄い。

 

點蒼の剣は、夜でも白い線を残す。相手の短刀が喉を狙った時、葉雲舟は半歩下がらず、半歩斜めへ入った。切っ先が相手の袖を裂く。袖の中から小さな針が落ちる。

 

針。

 

毒。

 

唐門の若弟子が息を呑む。

 

葉雲舟は針を踏まず、相手を殺さず、腕だけを切った。

 

医術へ寄った剣だ。

 

命を奪わず、戦闘能力を奪う位置を選ぶ。

 

だが四人目は、その隙を狙った。

 

木の上から降る。

 

趙活の喉を狙っていた。

 

輿に座る総帥。

 

病み上がり。

 

動けない。

 

最も弱い点。

 

敵はそこを突いた。

 

趙活は動かない。

 

動けないのではない。

 

動けば傷が開く。

 

だから、動かずに済む位置へ味方を置いていた。

 

「上」

 

それだけで、高和が跳んだ。

 

青城の軽功は小師妹の天地無聲勢には及ばない。葉雲舟の速さとも違う。だが地を蹴る力が強く、上へ伸びる剣が真っ直ぐだった。

 

高和の剣と、刺客の短刀が空中でぶつかった。

 

火花が散る。

 

高和は押された。

 

相手は強い。

 

少なくとも、青城の一般道士一人で楽に勝てる相手ではない。

 

だが一人ではない。

 

高和が押された瞬間、趙活は左手で小さな包みを弾いた。

 

石灰粉。

 

唐門のものだ。

 

ただ撒くのではない。

 

風の向き、火の位置、相手の落下角度。すべてを見て、相手の顔ではなく視界の端へ散らす。まともに目へ入れれば相手は暴れ、誰かを巻き込む。端でよい。一瞬、目を細めるだけでよい。

 

刺客の瞬きが遅れた。

 

高和の剣が、その一瞬を逃さない。

 

柄で顎を打つ。

 

刺客が地面へ落ちる。

 

龍湘がそこへ踏み込んだ。

 

剣は抜いている。

 

戦う顔だった。

 

「生かして聞くのだな」

 

「ああ。まだ殺さない」

 

趙活が言う。

 

龍湘はぴたりと止まった。

 

剣先は刺客の喉から紙一枚のところにある。

 

刺客は動けない。

 

その間に、五人目が逃げようとした。

 

唐惟元が待っていた。

 

毒煙が、低く流れる。

 

夜の草に紛れるような、薄い煙だった。派手ではない。吸った者がすぐ倒れるほど濃くもない。だが足が鈍る。視界が狭まる。逃げるための一歩が半歩になる。

 

その半歩を、唐門は見逃さない。

 

古参の縄が飛び、五人目の足に絡む。

 

最後の六人目は、戦わなかった。

 

闇の奥で、笛のような音を一つ鳴らし、姿を消した。

 

追うか。

 

唐衫が趙活を見る。

 

趙活は首を振った。

 

「追わない」

 

「ですが」

 

「罠だ。こちらの配置を見に来た。追えば、村から離れてしまう」

 

唐衫は歯を噛み、頷いた。

 

夜の戦いは、短かった。

 

だが短いほど、後に残るものが濃い。

 

村人は息を殺していた。火の向こうで、子供が泣きかけ、母親に口を塞がれている。茶屋で趙活を見た旅人たちも、遠くからこちらを見ていた。昼に道で知り合った若い侠客たちもいた。そのうちの一人は、剣を抜いたまま立ち尽くしている。

 

戦いに入れなかったのだ。

 

一瞬で始まり、一瞬で終わった。

 

自分が名を上げるために思い描いていた戦とは違う。

 

敵は名乗らない。

 

卑怯で、速く、民の近くに来る。

 

趙活は捕らえた刺客たちを見た。

 

二人は気を失っている。

 

一人は毒で動けない。

 

一人は口を噛もうとして、唐惟元に顎を外された。

 

龍湘がその様子を見て、少し眉を寄せた。

 

「痛そうだな」

 

「死ぬよりましっス」

 

唐惟元は淡々と言った。

 

「こいつらは情報を持ってる。死なせるほうがもったいないっス」

 

もったいない。

 

命をそう呼ぶ。

 

残酷な言い方だった。

 

だが、唐門らしい。

 

趙活は深く息を吸った。

 

胸が痛い。

 

今の石灰粉だけでも、体に響いた。内力を乗せた声も、何度も使えない。戦えたわけではない。ただ座って、合図して、ほんの少し手を出しただけだ。

 

それでも、視界が白く滲む。

 

葉雲舟がすぐに腕を取った。

 

「もう休んでください」

 

「まだ聞くことが」

 

「四師兄がいます」

 

「俺も」

 

「趙兄」

 

葉雲舟の声が、少し強くなった。

 

「ここで倒れれば、明日、軍と会えません」

 

趙活は黙った。

 

痛いところを突かれた。

 

自分が前に出ることだけが責務ではない。

 

倒れないことも責務だ。

 

それが今の趙活には、ひどく難しい。

 

「分かったよ」

 

趙活はようやく頷いた。

 

その時、村の入口から馬の音がした。

 

唐門の古参が一斉に構える。

 

青城の四人も剣を向ける。

 

だが来たのは、軍の騎兵だった。

 

五騎。

 

その先頭に、甲冑を着た男がいる。三十代半ばほど。顔は鋭いが、目に無駄な怒りはない。軍人の目だ。敵を見る目。地形を見る目。自分の部下がどれだけ疲れているかを数える目。

 

男は馬を止め、焼けた倉、縛られた刺客、唐門と青城の者たち、そして輿のそばに立つ趙活を見た。

 

顔を見ても、笑わなかった。

 

だが、信じたわけでもない。

 

「唐門趙活か」

 

「はい」

 

趙活は一歩前へ出ようとして、葉雲舟に支えられた。

 

男の視線が、その支えへ動く。

 

病人を見る目ではない。

 

戦力外かどうかを測る目だ。

 

「私は楊景略麾下、陸紹文。副将として、軍陣外の折衝を預かる」

 

陸紹文。

 

趙活はその名を、宋悲からの書簡で読んでいる。

 

楊景略の副将。地図と補給に明るく、武林へ完全な不信を持つ楊景略よりは話が通じるかもしれない男。ただし、武林側ではない。軍の人間だ。

 

趙活は姿勢を正した。

 

「唐門趙活です。東西武林の調停役として参りました」

 

「総帥、と聞いた」

 

「臨時です」

 

「臨時でも総帥は総帥だ」

 

陸紹文の声は硬い。

 

背後の騎兵たちは、唐門を警戒している。青城も、龍湘も、葉雲舟も、まとめて信用していない。無理もない。彼らにとって武林の者は、軍令に入らず、勝手に動き、時に大きな功を立て、時に大きな禍を起こす者たちだ。

 

趙活は、まず頭を下げた。

 

「共同倉が焼かれました。村人二名、見張りの侠客一名が死亡。茶屋では水桶に極楽香が混ぜられていました。刺客四名を捕縛、一名逃走。死体と証拠は保存しています」

 

陸紹文の目が少し動いた。

 

趙活は続ける。

 

「崆峒の火ではありません。火薬と香の性質が違います。捕らえた者から、確認を取ります」

 

「尋問するのか」

 

「必要なら」

 

「軍へ引き渡せ」

 

唐門の古参の空気が冷えた。

 

唐惟元が笑っていない。

 

青城の清虛子も眉を寄せる。

 

趙活は陸紹文を見た。

 

「軍へ渡せば、軍の情報になります」

 

「当然だ」

 

「ですが、武林内部の灯の線は、軍だけでは追えません。逆に、軍内部の事情は我々だけでは追えない」

 

「つまり」

 

「共同で聞きます。場所は軍陣外。軍の記録役を置いてください。こちらは唐門と青城から一名ずつ。必要なら宋悲総指揮使にも写しを送る」

 

陸紹文は返事をしなかった。

 

騎兵の一人が低く言う。

 

「唐門の尋問など信用できるか」

 

声に棘がある。

 

趙活はその兵を見た。

 

若い。

 

だが若い侠客とは違う。

 

この兵は、すでに死体を運んだことがある顔をしている。

 

「信用しなくて構いません」

 

趙活は言った。

 

「だから記録役を置いてください。あとで違うと言えるように」

 

兵は黙った。

 

陸紹文が少しだけ息を吐く。

 

「口は回るな」

 

「顔で損する分、口で得を取るようにしています」

 

陸紹文は笑わなかった。

 

だが、怒りもしなかった。

 

「楊将軍は、武林の者を軍陣に入れぬ」

 

「承知しています」

 

「だが軍陣外で動くことは許す、と文に書いた」

 

「はい」

 

「その許可を、今夜取り消す理由は見当たらない」

 

趙活は頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

「礼は早い。信用したわけではない」

 

「分かっています」

 

「分かっているならよい。明朝、軍陣外の村道側、古い祠の前へ来い。捕虜も連れてこい。こちらの記録役を置く」

 

「分かりました」

 

陸紹文は馬首を返しかけ、ふと止まった。

 

「唐門趙活」

 

「はい」

 

「眉山で瑞笙と戦った男だと聞いた」

 

「戦いました」

 

「見た者は、英雄だったと言う」

 

「そう見えたなら、場所がよかったのでしょう」

 

陸紹文は初めて、ほんのわずかに眉を動かした。

 

「場所か」

 

「眉山は高いので」

 

「今は低い村だ」

 

「はい」

 

「ここで何を見せる」

 

趙活は焼けた倉を見た。

 

村人の泣き声。

 

縛られた刺客。

 

茶屋から道へ漏れ出した不安の囁き。

 

そして、まだ自分を信じていない兵たち。

 

「武林の人間の力を」

 

陸紹文はしばらく黙っていた。

 

「唐門だけの話ではない、と」

 

「はい。唐門は毒と火を見る。青城は音と気配を拾う。侠客は兵が入りにくい場所へ足を入れることができます。軍陣の中では邪魔になるかもしれません。ですが、外で拾えるものはあります」

 

「できるか」

 

「できるところまで。できないところは、すぐ軍へ渡します」

 

陸紹文は今度こそ馬首を返した。

 

「明朝だ」

 

騎兵たちは去っていった。

 

馬の音が遠ざかる。

 

唐門の若弟子が、ようやく息を吐いた。

 

「あれが軍」

 

古参が言う。

 

「そうだ。剣で勝てば言うことを聞く相手じゃない」

 

若弟子は頷く。

 

その顔には、昼より少しだけ戦場が入っていた。

 

夜はまだ終わらない。

 

捕虜の尋問を始めるには、場所を整える必要がある。村人を遠ざけ、火を小さくし、逃げた一人が戻る可能性も見る。青城の四人は、唐門と軍の間に立つように配置された。龍湘は、次に民を害する者が来れば逃がすまいと、闇を見ている。

 

趙活は敷物へ戻された。

 

強制に近かった。

 

葉雲舟が脈を見る。

 

「熱があります」

 

「少しだ」

 

「少しではありません」

 

「葉兄、唐芳師姉に似てきたな」

 

「褒め言葉として受け取ります」

 

趙活は苦笑した。

 

その時、懐の中で紙が触れた。

 

雲裳が折った紙星。

 

出立の朝、彼女はそれを趙活の手に握らせた。返して、と言った。約束を守るための形にするつもりなのだろう。雲裳らしい。甘く、賢く、少しずるい。

 

趙活は紙星を取り出さなかった。

 

触れただけで十分だった。

 

雲裳は唐門にいる。

 

正心堂の近くで、三師兄や唐芳と共に、留守を守っている。

 

どう、裳の予想、当たってたでしょ。

 

想像の中の雲裳が、毛皮外套を両手でちょこんと持ち上げ、得意げに笑っていた。

 

趙活は目を閉じ、頭の中の雲裳を隅へ追いやって、明日からの動きを考えることにした。

 

楊景略は、まだ会っていない。

 

陸紹文は、こちらを試す。

 

丹霞子は怒りと共に来る。

 

崆峒は疑われている。

 

青城は灯を抱えているかもしれない。

 

全真にも、丐幇にも、南宮にも、どこかに小さな灯が紛れている。

 

西夏軍はその外から来る。

 

騎馬と槍と弓で、朝廷軍の陣を叩く。

 

武林の者がいかに強くとも、騎馬の波を正面から受ければ呑まれる。槍の林は、剣客の華やかな一閃を嫌う。馬の速度は、軽功とは別の理屈で人を殺す。兵は個々では侠客に劣るかもしれない。だが百、千と揃えば、そこには別の武功が生まれる。

 

戦は、門派の比武ではない。

 

趙活はそれを知識として知っている。

 

まだ骨身には足りない。

 

丹霞子のように経験を積んでいない。

 

自分一人で全部はできない。

 

それを認めることも、今の趙活の仕事だった。

 

外で夜営の火が、低く爆ぜた。

 

その音に混じって、捕虜の低い呻きが聞こえる。

 

唐惟元の声が続く。

 

軽い。

 

ひどく軽い。

 

「じゃあ、まず名前からいくっスか。嘘をつくなら、嘘の値段も決めておくっスよ」

 

返事はない。

 

少しして、短い悲鳴が上がった。

 

村人には聞こえない程度。

 

だが唐門の者には聞こえる。

 

青城の清虛子が目を伏せた。

 

碧波子は唇を結んだ。

 

裴紅臘は本を抱える手に力を入れた。

 

高和は何も言わず、周囲を見ている。

 

これは武侠の戦いだ。

 

剣を交え、名を名乗り、大義を語るだけの戦いではない。

 

夜に水桶へ香を入れる者がいる。

 

民の倉を焼く者がいる。

 

捕らえた者から、次の火種を吐かせなければならない。

 

義侠とは、綺麗な言葉だけでは届かない場所へ手を突っ込むことでもある。

 

趙活は目を開けた。

 

星は見えない。

 

雲が出ている。

 

だが、星がないわけではない。

 

見えないだけだ。

 

翌朝。

 

### 四年目四月十日 朝 軍陣外の祠

 

霧が薄く残る中、趙活は軍陣外の古い祠へ向かった。

 

捕虜は三人。

 

一人は夜明け前に死んだ。

 

自死ではない。

 

唐惟元が殺した。

 

舌の奥に仕込まれた毒袋を噛む前に顎を外したが、体内に別の仕掛けがあった。腹の内側に小さな毒筒を飲み込んでいたのである。助けようとすれば周囲に毒を撒く。吐かせるには時間が足りない。唐惟元は判断し、心臓を止めた。

 

若弟子の一人は、それを見て吐いた。

 

唐惟元は何も言わなかった。

 

唐衫はその若弟子の背を叩き、後で水を飲ませた。

 

趙活は、その死体を見た。

 

敵である。

 

民の倉を焼いた者かもしれない。

 

それでも死体は重い。

 

軽く扱えば、自分の中の何かが少しずつ削れる。

 

だが重く見すぎれば、次の判断が遅れる。

 

趙活は、その均衡をまだ探していた。

 

古い祠の前には、すでに陸紹文がいた。

 

軍の記録役が一人。

 

兵が六人。

 

陸紹文は捕虜を見た。

 

「一人減っている」

 

「毒筒を飲んでいました。周囲へ撒かれる前に処置しました」

 

「処置とは」

 

「殺しました」

 

言葉を濁さない。

 

陸紹文の背後の兵が、目を細める。

 

「勝手にか」

 

趙活はその兵へ向き直る。

 

「はい」

 

「軍へ引き渡す前の捕虜だ」

 

「毒が撒かれれば、村人と兵が死にました」

 

「証拠は」

 

唐惟元が布包みを出した。

 

中には、死体から取り出した小さな筒がある。割れてはいない。だが表面に黒い薬が塗られている。

 

記録役が顔をしかめた。

 

陸紹文はそれを見て、兵を黙らせた。

 

「記録する」

 

記録役が筆を走らせる。

 

趙活は、少しだけ息を吐いた。

 

ここで揉めれば、すべてが遅れる。

 

陸紹文は不信を持っている。

 

だが、見たものを見なかったことにはしない。

 

それは大きい。

 

尋問は祠の裏で行われた。

 

軍の記録役。

 

陸紹文。

 

唐門から唐惟元。

 

青城から清虛子。

 

趙活は同席したが、椅子に座らされた。葉雲舟が後ろに立っている。立つだけで圧になる男だが、今は医者の目で趙活の呼吸を見ている。

 

最初の捕虜は、名を言わなかった。

 

唐惟元は急がなかった。

 

唐門の尋問は、叫ばせることだけではない。痛みは確かに使う。毒も使う。恐怖も使う。だが一番大事なのは、相手が何を守りたいかを見極めることだ。死を恐れない者に死を見せても意味は薄い。痛みに強い者へ痛みだけを与えても、時間の無駄になる。

 

唐惟元はまず、捕虜の衣を見た。

 

縫い目。

 

靴底。

 

爪。

 

歯。

 

耳の後ろ。

 

そして、手首の筋。

 

「二炷香っスね」

 

捕虜の目が動いた。

 

唐惟元は笑う。

 

「三炷香のふりをしてるけど、手入れが雑っス。上から使われてる側っスね。昨日の茶屋の水は誰がやったんスか」

 

捕虜は黙る。

 

唐惟元は、机の上に三つの小さな包みを置いた。

 

「一つ目。痛いけど死なない。二つ目。痛くないけど舌が動く。三つ目。高いから使いたくない」

 

陸紹文の眉が動く。

 

「三つ目は何だ」

 

「商売道具っス」

 

「答えになっていない」

 

「高いんスよ」

 

清虛子が小さく息を吐いた。

 

趙活は、あえて止めなかった。

 

唐惟元は露悪的だが、無駄なことはしない。

 

捕虜は三つの包みを見た。

 

恐怖はある。

 

だが、まだ口を開かない。

 

趙活は捕虜の目を見た。

 

怯えの奥に、確信がある。

 

救いを信じている目ではない。

 

死後を信じている目でもない。

 

誰かが見ている、という目だ。

 

「見られていると思っていますね」

 

捕虜の視線が趙活へ飛ぶ。

 

趙活は続けた。

 

「灯の上の者が、あなたの沈黙を見ている。吐けば消される。吐かなければ、まだ使われる。そう教えられた」

 

捕虜の喉が動いた。

 

唐惟元がちらりと趙活を見る。

 

趙活は声を低くした。

 

龍吟功ほどではない。

 

だが、言葉の重さを少しだけ増す。

 

「それで黙っていれば灯に尽くしたことになるのか。ずいぶん安い灯だな」

 

捕虜の眉が震えた。

 

「それを見ている灯があるなら、その灯は何を照らしているんですか」

 

捕虜は黙る。

 

だが沈黙の質が変わった。

 

怒りではない。

 

迷いだ。

 

趙活は、仏学の言葉を借りてもよかった。儒学で責めてもよかった。道学で虚妄を突いてもよかった。だが、深く語りすぎれば専門家には笑われる。趙活の学は広いが、頂ではない。

 

だから、目の前の事実だけを置く。

 

腹が空く。

 

子供が泣く。

 

それでも、その灯は何を照らす。

 

「名前は要りません」

 

趙活は言った。

 

「次に狙うものだけでいい。兵糧か。道か。水か」

 

捕虜の喉が、そこで小さく動いた。

 

唐惟元が包みを一つ、そっと引いた。

 

「水っスね」

 

捕虜は黙った。

 

黙ったまま、視線だけが一瞬、地図の端へ流れた。

 

唐惟元が笑う。

 

「言わなくていいっス。今ので十分っス」

 

「場所は」

 

「まだ断定できません」

 

趙活は言った。

 

「ですが軍の水ではない。軍の水なら、ここで顔が変わる。村か、下流か、避難民の集まる場所です」

 

陸紹文が地図へ目を落とした。

 

軍の主補給路から外れ、なお人が集まり、水を頼る場所は多くない。楊景略の本陣から半日ほど離れた村が一つある。避難民が集まれば、軍陣外から街道へ抜ける道が詰まる。さらに、そこは青城から来る道士たちの一部が通る可能性もあった。

 

陸紹文が立ち上がった。

 

「兵を出す」

 

「少数で」

 

趙活が言う。

 

陸紹文の目が細くなった。

 

「なぜだ」

 

「大勢で動けば、相手は逃げます。逃げれば、また別の水へ行く。武林の者を混ぜてください。青城四名と唐門二名、軍の兵を十名。村には官の名で入り、井戸を封じる理由を民に説明する」

 

「指図か」

 

「提案です」

 

「同じだ」

 

「では、提案として聞き流して、軍令として採用してください」

 

陸紹文は一瞬、言葉に詰まった。

 

唐惟元が横で笑いかけ、こらえた。

 

清虛子は目を閉じている。

 

葉雲舟は、少しだけ口元を緩めた。

 

陸紹文は趙活を見た。

 

「お前、本当に口が回るな」

 

「ありがとうございます」

 

「ほめたわけではない」

 

陸紹文は短く息を吐いた。

 

笑いではない。

 

だが、少しだけ緊張が解けた音だった。

 

「よい。採用する。ただし軍令として出す。武林の勝手働きではない」

 

「そのほうがいいです」

 

「青城四名、唐門二名。誰を出す」

 

趙活は即座に答えた。

 

「青城は四人全員。唐門は師兄と唐衫。俺は行きません」

 

龍湘が外で声を上げた。

 

「私はなにをすればいい?」

 

趙活はそちらを見ずに答えた。

 

「湘姉は、俺の護衛だ」

 

「分かった。弟を守るのも大事な役目だな」

 

陸紹文は、趙活を測るように見る。

 

「自分の手柄にしないのか」

 

「俺が動けば遅れます」

 

「病み上がりだからか」

 

「はい」

 

「それを認めるのか」

 

「認めるしかないでしょう、俺が遅れれば死ぬ人が増えます」

 

陸紹文は黙った。

 

軍人は、こういう言葉を嫌わない。

 

強がりだけで兵を殺す者より、動けないことを認める者のほうが使える。少なくとも、陸紹文はそういう目をした。

 

「分かった」

 

彼は兵に命じた。

 

軍の動きは早かった。

 

武林の者が個々の体で動く速さとは違う。命令が出て、兵が走り、馬が用意され、記録役が紙を畳み、伝令が本陣へ戻る。そこには、個人の強さではなく、組織の強さがある。

 

趙活はそれを見ていた。

 

武林は強い。

 

だが軍は大きい。

 

この二つを合わせなければ、西夏軍と極楽教徒の二つを同時に捌くことはできない。

 

その日の昼前、青城四人と唐衫たちは水場へ向かった。

 

### 四年目四月十日 昼前 水場

 

出立前、趙活は青城の四人と唐衫を呼んだ。

 

軍兵十名はすでに馬の傍で待っている。陸紹文は兵を選ぶ時、若すぎる者を避けた。古参ばかりでもない。足が動き、命令を聞き、かつ武林の者を見て余計な口を叩かない者。そういう兵を十人である。軍は、武林の者をまだ信用していない。だが、信用しないまま使うための段取りはできる。

 

趙活はそこに、唐門の古参を一人加えた。

 

名を前に出さない弟子だった。年は趙活より上。昔から唐門にいて、江城の戦役も、東西武林の戦いも見ている。額の脇に古い傷があり、左の袖口がいつも少し重い。奪志鏢をそこに仕込んでいるのだと、唐門の弟子なら知っている。

 

唐衫はその古参に一礼した。

 

古参は返礼しなかった。

 

ただ、軽く顎を動かした。

 

それで十分だった。

 

唐衫は、まだ唐門の中で完全に昔からの一員ではない。今の彼は唐門の弟子であり、門のためなら何でもする男だが、かつて唐門を襲った側にいた過去は消えない。古参の中には受け入れた者もいれば、受け入れた顔をしながら距離を置く者もいる。

 

今日、その距離は戦場に持ち込まれる。

 

趙活はそれを見て、あえて何も言わなかった。

 

無理に仲良くさせても、背中は預けられない。

 

背中を預けるには、まず同じ方向を見る必要がある。

 

「碧波子」

 

「何だ、趙活。俺を真っ先に呼ぶとは分かっているじゃないか」

 

「少し声を抑えろ」

 

「これが抑えた声だ」

 

清虛子が横から言った。

 

「嘘をつくな」

 

碧波子は肩をすくめた。

 

趙活は笑わず、地面に小枝で線を引く。村と井戸と祠。水は祠の下を抜け、細い溝を通って畑へ流れる。村人が汲む井戸は二つ。片方は古い。片方は新しい。古いほうは石蓋があり、新しいほうは木蓋である。

 

「相手が狙うなら、古井戸だ」

 

裴紅臘が線を見る。

 

「なぜだ」

 

「村人が信じているからだ。古い井戸は、よく効く水だと言われている。病の者や子供に飲ませる。旅人もありがたがって飲む。毒を入れた時、広がるのが早い」

 

高和が眉を寄せた。

 

「信仰に近いものを使うわけか」

 

「ああ」

 

清虛子が小さく息を吐く。

 

「腹の立つ話だな」

 

「腹が立つ時ほど、足を止めてくれ」

 

趙活は高和を見る。

 

「特に高和だ。怒って踏み込む人間を、相手は待ってる」

 

高和は一瞬だけ目を細めた。

 

普段の彼は落ち着いている。だが非道を見た時だけ、その落ち着きが危うくなる。怒りに身を任せ、ただ刃の向く先だけを決めてしまう。

 

「分かった」

 

高和は言った。

 

碧波子が横から口を挟む。

 

「俺は?」

 

「碧波子は、先に喋ってくれ」

 

「喋るなと言われると思ったが」

 

「喋って相手を見てくれ。相手が怒るか、笑うか、黙るか。そこに癖が出る」

 

碧波子はにやりとした。

 

「俺の口も役に立つわけだ」

 

「役に立つ範囲で」

 

「余計な一言を足すな」

 

裴紅臘が小さく笑った。

 

「清虛子は、音を拾ってくれ」

 

清虛子が趙活を見る。

 

「音か」

 

「水場で人が動けば、必ず余計な音が出る。桶の底、縄の擦れ方、足音の重さ。毒を入れる者は、水を見る前に周りを見る。そこに間ができる」

 

清虛子は頷いた。

 

「目ではなく、耳で見る」

 

「そうだ。碧波子が喋って揺らす。清虛子がその揺れを聞く」

 

趙活はさらに線を引いた。

 

「裴紅臘は後ろだ。水そのものじゃなく、風上と荷を見てくれ。毒や香なら、水に入れるだけとは限らない。水汲みに来る人の籠、井戸端の縄、石蓋の裏、祠の香炉。そういう場所だ」

 

「分かった」

 

裴紅臘は頷く。

 

「高和」

 

「ああ」

 

「一番強い相手は、おそらく逃げる側じゃなく、止めに来る側だ」

 

高和の目が少しだけ変わった。

 

「俺がそれを受ければいいんだな」

 

「ああ。ただ、無理に倒さないでくれ。止めて、目を向けさせてくれ。唐衫が入る」

 

唐衫が趙活を見る。

 

「私がですか」

 

「唐衫は、相手が高和だけを見た瞬間に踏み込め」

 

「承知しました」

 

唐衫の返事は迷いがない。

 

趙活は最後に、軍兵十名を見た。

 

兵たちは、武林の者たちの会話を聞いていた。

 

理解できない部分も多いだろう。青城だの唐門だの、同じ江湖の者同士で微妙な空気を交わしている。軍の者からすれば、厄介でしかない。

 

趙活は彼らへ向き直った。

 

「皆さんは、村人を下がらせてください」

 

兵の一人が言う。

 

「敵と戦うのではなく?」

 

「戦う場面もあります。でも、村人が井戸に集まったままだと、青城の方々も唐門も手を出せません」

 

兵たちは黙る。

 

「村人を退かせ、井戸端を空け、怪しい者が混じれば槍で囲む。道を作ってほしいのです。これは軍にしかできません」

 

軍兵の顔が、少し変わった。

 

武林の者は、軍を足手まといに見ることが多い。

 

軍の者は、武林を無秩序な刃物として見る。

 

だが趙活は、軍にしかできないと言った。

 

それはお世辞ではない。事実である。

 

十人の兵は、それぞれ短く頷いた。

 

唐衫が趙活に一礼し、青城四人が続く。

 

道を曲がった瞬間、足音が変わった。

 

軽く、低く、静かになる。

 

碧波子の大きな声も、森に入る頃には消えていた。

 

青城の道士は、ただの騒がしい友人ではない。

 

山を知り、風を読み、剣を持つ者たちである。

 

水場へ向かう道は、村の裏手を通っていた。

 

畑の畦は細く、ところどころ水に沈んでいる。春の土は柔らかい。踏み込みを誤ると足を取られる。軍兵は最初、武林の者たちの速さについていけずに息を乱したが、高和が何も言わず足を緩めると、碧波子が舌打ちしながらも歩幅を合わせた。

 

唐衫はそれを見ていた。

 

青城の四人は、性格がばらばらだ。

 

だが歩く時、四人の距離が崩れない。

 

一人が速くなれば、別の一人が自然に線を引き戻す。誰かが足音を消せば、残りも一拍遅れて沈む。正式な陣名はないのかもしれない。だが日々同じ山で暮らし、同じ飯を食い、同じ掌門に叱られた者たちの呼吸がある。

 

唐門にも、それはある。

 

古参の袖が重くなる時、別の古参は半歩横へずれる。毒煙を撒くなら風下を避ける。暗器を投げる前に味方の肩を叩く。何も言わない。言葉にすれば遅い。

 

唐衫は、まだそこに混じりきれていない。

 

だから趙活は、自分を青城へ置いたのだと分かった。

 

唐門のために死ぬのではなく。

 

青城と軍と一つの役目を果たすために動け、と。

 

それは彼にとって、少し苦しい命令だった。

 

唐門のためなら、身を投げるのは簡単だ。

 

だが村の水のために、他派の呼吸を読み、軍兵を待ち、成果を自分のものにしないまま帰る。そちらのほうが難しい。

 

唐衫は胸の奥に熱を感じた。

 

不満ではない。

 

むしろ、嬉しい。

 

難しい役目を任されたことが、嬉しかった。

 

「顔が硬いぞ」

 

碧波子が前を見たまま言った。

 

唐衫は驚く。

 

「見ていましたか」

 

「見なくても分かる。真面目な奴は、足音も真面目になる」

 

「足音が真面目とは」

 

「面白くない音だ」

 

清虛子が横から言う。

 

「お前の足音はうるさい」

 

「俺の足音は景気づけだ」

 

裴紅臘が小さく手を上げた。

 

会話が止まる。

 

彼は畦の端にしゃがみ、土を指で触れた。水気がある。足跡がある。村人の足跡ではない。草鞋の編み目が違う。さらに、その足跡が井戸のほうではなく、祠の裏へ向かっている。

 

「二人」

 

裴紅臘が低く言う。

 

「片方は軽い。もう片方は荷を持っている」

 

高和が頷く。

 

「風は祠の裏から、井戸端のほうへ流れています。」

 

清虛子が空を見る。

 

「香を使うなら、井戸端より祠の裏だな」

 

碧波子が唇を曲げた。

 

「村人が祠で頭を下げる時に吸わせる気か」

 

「あるいは、祠の香炉に混ぜる」

 

唐衫は周囲を見た。

 

村は近い。

 

子供の声が聞こえる。

 

井戸端では、女たちが桶を置いて話している。老人が石蓋の上に腰をかけ、煙管を吸っている。そこに敵がいる気配はない。だが、気配がないということ自体が、逆に危うい。

 

「兵を二つに分けます」

 

唐衫は言った。

 

青城の四人がこちらを見る。

 

唐衫は続ける。

 

「五人は村人を井戸から離してください。理由は、軍の検分で水を一時封じる、と。残り五人は祠の表へ。敵が裏から逃げたら槍で止めてください。ただし、近づきすぎない」

 

兵の組頭が頷いた。

 

「お前が指揮するのか」

 

唐衫は一瞬だけ迷った。

 

自分が指揮する。

 

唐門に来る前なら、そう言えただろう。

 

しかし今、彼の言葉は唐門の名を背負う。

 

それでも、止まれない。

 

「趙総帥の段取りです。僕は、その場を預かります」

 

組頭は、趙活の名を聞いて眉を動かした。

 

あの醜い病人の名が、軍兵の足を動かす。

 

まだ信頼ではない。

 

だが命令の筋になる。

 

それで十分だった。

 

兵が動く。

 

村人は最初、当然騒いだ。

 

「なぜ井戸を封じる」

 

「病でも出たのか」

 

「うちの子が水を汲みに来ている」

 

兵が槍を立てる。

 

武林の者が言えば反発が増えたかもしれない。だが官軍の兵が言えば、村人は文句を言いながらも足を下げる。青城の道士がそこへ加わり、清虛子が穏やかに説明した。

 

「水脈を調べます。しばし離れてください。祠の水を先に使ってください」

 

祠へ誘導するのではない。

 

祠の表へ視線を集め、裏を動く者を焦らせる。

 

碧波子は井戸の縁に立ち、わざと大きく鼻を鳴らした。

 

「ん? 何だ、この匂いは。誰か変な香でも焚いたか?」

 

村人がざわつく。

 

祠の裏で、微かな気配が揺れた。

 

高和は動かない。

 

本当はすぐにでも動きたいが、まだ確信を得ていない。

 

剣を抜けば一瞬で距離を詰められる者ほど、抜かずに立っているのが難しい。高和は少しだけ目を閉じ、ただ風を受けていた。怒りを鎮め、その時が来た瞬間に迷わず踏み込むためである。

 

裴紅臘は荷の跡を辿る。

 

唐衫は祠の柱の影へ入り、袖の中の暗器を確かめた。

 

唐門の暗器は、人を殺すためだけにあるわけではない。

 

目を潰す。手を止める。逃げ道を塞ぐ。毒を使うなら殺す。使わないなら捕る。状況に応じて選ぶ。あの時見た唐錚なら、もっと美しくやるだろう。唐惟元なら、もっと安く済ませるだろう。趙活なら、きっと相手の心まで読もうとする。

 

唐衫はそこまでできない。

 

だから、今できることをする。

 

敵の一人が、裏から動いた。

 

灰色の衣。

 

村人に見えないこともない。だが腰が低すぎる。手の位置が悪い。右手は袖の中。左手は胸元。逃げる者の手ではない。何かを撒く者の手だ。

 

碧波子が叫んだ。

 

「おい、そこの鼠! 祠の裏で何を拝んでる!」

 

敵が走った。

 

清虛子が半歩出る。

 

だが追わない。

 

追えば、もう一人が出る。

 

その読み通り、祠の屋根の陰から細い影が落ちた。

 

刃ではない。

 

細い管だった。

 

吹き矢。

 

狙いは碧波子。

 

碧波子は声を張った分、目立つ。相手は当然そこを消す。青城の四人を知らぬ者でも、一番うるさい者を黙らせれば場が乱れると思う。

 

吹き矢が飛ぶ。

 

清虛子の袖が翻った。

 

剣ではない。

 

木札だった。

 

道士が符を書いた木札を投げるように、彼は薄い板で吹き矢を弾いた。矢は井戸の石に当たり、小さな音を立てる。碧波子はその音を聞いて、ようやく自分が狙われていたことを知った。

 

「おい、今のは俺か」

 

「黙れ」

 

清虛子の声は低い。

 

碧波子は黙らない。

 

「黙れと言われて黙る俺ではない!」

 

彼は叫びながら、しかし体は横へ滑らせた。

 

声は派手。

 

動きは軽い。

 

そこに唐衫は感心した。

 

碧波子は口で敵を集め、自分は集めた場所にいない。喋りながら、足は別の場所にある。青城の悪戯好きな若道士たちの中で揉まれた結果なのか、あるいはもともとの才なのか。少なくとも、ただのおしゃべりではない。

 

屋根の影が二度目の吹き矢を構える。

 

高和が動いた。

 

抜剣は静かだった。

 

力任せではない。

 

だが踏み込みだけが重い。

 

内力が十分に乗りきらない剣だと趙活は言った。だが、それでも高和の剣には骨がある。剣先が屋根の端を掠め、瓦を二枚割った。敵は屋根を蹴って跳ぶ。

 

距離が足りない。

 

普通なら届かない。

 

高和はそこで、さらに一歩出た。

 

無理に剣を伸ばしたのではない。肩を捨て、腰を送り、足裏で瓦を噛む。青城の剣は山道で育つ。平らな道だけを歩く者の剣ではない。

 

半寸。

 

その半寸を、体ごと前へ出した。

 

敵の袖が裂けた。

 

血が散る。

 

敵は着地と同時に、口を開いた。

 

唐衫の背筋が冷えた。

 

口。

 

趙活の言葉が蘇る。

 

口だ。

 

核棗釘、毒針、あるいは噛み潰す毒。

 

唐衫は考えるより先に動いた。

 

奪志鏢では遅い。

 

彼は足元の小石を蹴った。

 

唐門の正統な暗器ではない。だが蹴られた小石は、敵の顎を下から打った。口が閉じる。毒を噛むには角度が悪い。敵の目が唐衫へ向いた。

 

その瞬間、高和の柄頭が敵の鳩尾に入った。

 

敵は崩れた。

 

唐衫はすぐに口へ布を詰め、顎を縛る。殺さない。吐かせるために捕る。

 

祠の裏では、裴紅臘がもう一人を追っていた。

 

彼は派手に走らない。

 

足跡を見て、相手の逃げる先を先に読む。灰色の衣の男は、畑の畦を越え、村の外へ抜けようとした。そこには軍兵が五人。だが相手は兵を侮った。武林の者でない兵なら、香を撒いて動揺させれば抜けられると思ったのだろう。

 

男は袖から白い粉を撒いた。

 

石灰か。

 

毒か。

 

兵たちは一瞬、怯んだ。

 

だが趙活は出立前に言っていた。

 

白い粉を見たら、目を閉じて下がるな。槍を前へ出し、顔を袖で覆い、相手の足を見ろ。粉は目を潰すためにある。目で追わず、槍の線で止めろ。

 

兵たちはその通りにした。

 

粉が舞う。

 

槍が並ぶ。

 

男は驚いた。

 

その驚きの一拍に、裴紅臘が追いついた。

 

彼の剣は速くない。

 

だが、相手が止まった一拍へ正確に落ちる。

 

刃が男の手首を打ち、竹筒が落ちた。

 

男は呻き、膝をつく。

 

碧波子が遠くから叫んだ。

 

「捕れ! そいつ、喋りそうな顔だ!」

 

「顔で分かるのか」

 

清虛子が言う。

 

「分かる。俺は人を見る目がある」

 

「お前が見ているのは面白いかどうかだ」

 

「それも人を見る目だ」

 

軽口を交わしながら、二人は別々の場所へ動いていた。

 

井戸端である。

 

石蓋の裏。

 

趙活の読みは当たっていた。

 

石蓋を持ち上げると、裏に薄い油のようなものが塗られている。水に直接溶ける毒ではない。井戸を開け閉めする者の手に付着し、桶の縄に移り、少しずつ水へ落ちる。さらに、石蓋の縁には香灰が詰められていた。村人が蓋を動かすたびに、微かに粉が落ちる仕掛けである。

 

碧波子の顔から、冗談が消えた。

 

「陰気な真似をしやがる」

 

清虛子は、祠のほうを見た。

 

「神仏を語る者が、水を穢すか」

 

「だから止める」

 

碧波子は剣を抜いた。

 

「まだいる」

 

井戸の反対側、村人の中に一人だけ動かなかった女がいた。

 

いや、女に見える。

 

背を丸め、頭巾を深く被っている。腕には水桶を抱えている。だが桶が軽すぎる。水が入っていない。村人のざわめきが広がる中で、彼女だけが碧波子を見ていない。

 

高和が捕虜を縛り終え、顔を上げた。

 

唐衫も気づく。

 

女は桶を投げた。

 

中身は水ではなかった。

 

黒い虫。

 

小さな蠱のようなものが、桶から溢れて地面を這う。村人が悲鳴を上げる。兵が槍を構える。虫は水場へ向かうのではなく、人の足へ向かった。噛むのか、刺すのか、あるいはただ恐怖を広げるためか。

 

唐衫は判断を迷った。

 

虫を暗器で潰すには数が多い。

 

毒煙を使えば村人も巻き込む。

 

火はあるが、井戸端で火を使えば混乱が増す。

 

一拍の迷い。

 

その一拍に、清虛子が前へ出た。

 

彼は剣を抜かない。

 

袖から取り出した小瓶を地面へ投げた。

 

瓶が割れる。

 

強い酒の匂い。

 

碧波子がすぐに火打石を投げた。

 

火花。

 

地面に細い火の線が走る。

 

虫は火を避けて散った。

 

散った先へ、兵の槍の石突が落ちる。突くのではない。叩く。潰す。武林の華やかな技ではないが、確実に数を減らす。

 

女はその隙に逃げようとした。

 

高和が追う。

 

だが女の動きは見た目より速い。

 

足腰が若い。

 

頭巾が脱げ、短い髪が見えた。顔は平凡に作られている。薬で頬を膨らませ、眉を変え、村女に見せていたのだろう。だが目は違う。極楽教徒の目というより、千灯楼の目だ。自分の死に価値を置き、他人の死を道具にする目。

 

高和の剣が背を捉えかける。

 

その前に、女が振り向いた。

 

針が三本。

 

高和は剣で二本落とした。

 

一本が肩を掠める。

 

血が滲む。

 

毒か。

 

高和の顔色は変わらない。

 

だが足が半歩遅れた。

 

女は笑った。

 

その笑いが、唐衫の胸の中の何かを刺した。

 

唐門を襲った夜。

 

自分が小師妹を森へ誘導した時、傷つけたくないと言い訳をしながら、それでも唐門の混乱を利用した。あの時の自分にも、こういう笑いがあったのではないか。目的のためなら、相手の大事なものを踏む。その足音を聞かないふりをする。

 

唐衫は踏み込んだ。

 

死にに行く踏み込みではない。

 

趙活に言われた言葉が、足首に残っていた。

 

村の水を守る踏み込み。

 

彼は女の逃げる先ではなく、女が逃げるために使う木の根を切った。短い刃が根元の蔓を払う。女の足が絡む。ほんのわずか、体勢が崩れる。

 

そこへ碧波子の声が飛んだ。

 

「高和! 右じゃない、下だ!」

 

高和は剣を下げた。

 

剣先が女の足首を掠める。

 

深く斬らない。

 

腱を切らない。

 

だが逃げ足を止めるだけの痛みを入れる。

 

女が倒れかける。

 

唐衫がその背に膝を落とし、腕を取った。

 

女は口を開く。

 

また口。

 

唐衫は今度は迷わない。

 

布を突っ込む。

 

だが女は、歯ではなく舌の下で何かを押した。

 

顎を縛るより早い。

 

頬の内側が黒くなる。

 

唐衫は顔色を変えた。

 

「高和!」

 

高和がすぐに女の首筋を押さえる。

 

清虛子が駆け寄り、小瓶を取り出す。

 

裴紅臘が針を抜く。

 

だが女の毒は速かった。

 

目が濁る。

 

喉が鳴る。

 

死ぬ。

 

捕れない。

 

唐衫は歯を食いしばった。

 

ここで殺すのは簡単だ。

 

死なせるのも簡単だ。

 

だが捕るために来た。

 

唐衫は女の顎を押さえたまま、もう片方の手で胸元を探った。小袋。硬い。紙片。油紙に包まれた符。そこには小さな灯の印がある。

 

女は死んだ。

 

証言は取れない。

 

だが証拠は残った。

 

唐衫はその紙片を握った。

 

手が震えている。

 

怒りではない。

 

悔しさだ。

 

「捕れませんでした」

 

高和が肩を押さえながら言う。

 

「君は捕った。相手が先に死を選んだだけだ」

 

「でも」

 

「趙兄弟なら、そう言うだろう」

 

唐衫は息を吐いた。

 

それは少しずるい言い方だった。

 

趙活の名を出されると、唐衫は反論しづらい。

 

だが、その言葉で足元の崩れが止まったのも事実だった。

 

兵の一人が叫ぶ。

 

「こっちに怪我人!」

 

井戸端の混乱で、村の老人が倒れていた。虫に噛まれたわけではない。転んで頭を打ったのだ。葉雲舟はいない。趙活もいない。医者は、この場にいない。

 

裴紅臘が駆け寄る。

 

青城の道士も手当ては多少できる。唐衫も唐門で薬に触れてきた。しかし、唐芳や趙活のようにはいかない。手が足りない。兵が布を出し、碧波子が水を持ってきかけて、すぐに止まった。

 

水は封じている。

 

碧波子は自分の水筒を投げた。

 

「これを使え。俺は喉が強い」

 

清虛子が言う。

 

「喉ではなく頭の問題だ」

 

「黙れ。今は良いことをしている」

 

「だから黙ってしろ」

 

そのやり取りを聞いた村人の一人が、泣き笑いのような顔になった。

 

恐怖はまだ消えない。

 

だが、人の声が戻ってきた。

 

それは大事だった。

 

極楽教徒は、恐怖の中に声を入れる。水が穢れた、役人が隠した、武林が毒を撒いた、唐門が村を実験に使った。そういう声は、火より速く広がる。だから、先にこちらの声を置く必要がある。

 

唐衫は立ち上がった。

 

腕に切り傷がある。女を押さえた時に、袖の中の刃で切られたらしい。血が流れている。毒はない。少なくとも、すぐに痺れは来ない。

 

彼は村人の前へ出た。

 

演説は得意だ。

 

かつて唐門を襲った時、彼は大勢の前で声を張った。あの時の言葉は間違っていた。いや、自分の願いは本当だったが、向ける先を間違えていた。

 

今度は、間違えたくない。

 

「皆さん、井戸に触らないでください」

 

声は大きくない。

 

だが通る。

 

「水はまだ調べます。毒か香か、今ここで断言はできません。ただ、村の方を害するものが仕掛けられていました。官軍の兵がここを守ります。青城の道士が祠を清めます。唐門は、この証拠を持って戻ります」

 

村人たちは唐門の名に怯えた。

 

唐衫はそれを見た。

 

怯えは当然だ。

 

唐門はそういう名を持つ。

 

だから、言葉を足す。

 

「唐門は、今日この水を飲ませません。飲ませないために来ました」

 

それだけで十分だった。

 

長い美辞麗句はいらない。

 

村人の一人、赤子を抱いた若い女が、震える声で聞いた。

 

「なら、今夜の水は」

 

軍兵の組頭が答えた。

 

「川筋の上手から運ぶ。俺たちが見張る。桶を出せ」

 

唐衫は組頭を見た。

 

組頭は目を逸らした。

 

それは彼の判断だった。

 

唐衫は礼を言わなかった。

 

礼を言えば、軍兵の面子を変に動かす。

 

ただ頷いた。

 

組頭も頷いた。

 

少しだけ、同じ方向を見た。

 

同舟。

 

趙活の言葉が、ここで形になった。

 

やがて白い狼煙が上がった。

 

発見。

 

戦闘。

 

被害軽微。

 

狼煙を上げる時、碧波子が「もっと派手に上げよう」と言い、清虛子に止められた。高和は肩の毒を見て、裴紅臘に簡単な処置を受けた。毒は強くない。痺れを誘うだけのものだった。だが戦いの最中なら、それで十分に命を落とす。

 

唐衫は腕の布を巻き直した。

 

痛みはある。

 

だが、痛いだけだ。

 

生きている。

 

村の水も、ひとまず生きている。

 

帰って報告することがある。

 

それが、何より大きかった。

 

一方、古い祠に残った趙活は、狼煙が上がるより前から落ち着かなかった。

 

動けない。

 

それは体の問題だけではない。

 

総帥として、すべての場へ出ることはできない。分かっている。分かっているからこそ、人を出した。青城四人を信じた。唐衫を信じた。軍兵も使った。段取りとしては正しい。

 

それでも、胸の奥がざわつく。

 

自分が行けば、何か一つ余計に拾えるのではないか。

 

自分が見れば、相手の仕掛けをもう一つ早く見つけられるのではないか。

 

そういう考えは、総帥の驕りでもある。

 

同時に、仲間を死なせたくない者の恐れでもある。

 

趙活は地図から目を上げた。

 

葉雲舟がそばに立っている。

 

「趙兄、顔に出ています」

 

「そんなにかな」

 

「僕にはそう見えますね」

 

趙活は苦く笑った。

 

葉雲舟に表情を読まれることが増えてきた。

 

困るような、助かるような。

 

「行かせたのは俺で、死なせたら、俺の責任なんだ」

 

葉雲舟はすぐには答えなかった。

 

風が祠の紙垂を揺らす。

 

遠くで軍馬が鼻を鳴らす。

 

集まり始めた武林の者たちが、趙活をちらちらと見ている。醜い顔。病み上がり。輿で運ばれた男。だが周りの青城や唐門の者が一目置いている。何者なのか測りかねている顔だ。

 

葉雲舟は、その視線を背で受けながら言った。

 

「責任は、趙兄だけのものではありません」

 

「俺は前に立つ役なんだ」

 

「なら、僕たちは何ですか」

 

趙活は黙った。

 

葉雲舟は続ける。

 

「趙兄が一人で全部背負うなら、僕たちはただの荷物です。そう扱われるのは、少し不本意ですね」

 

珍しく、刺す言葉だった。

 

趙活は葉雲舟を見る。

 

葉雲舟の顔は穏やかだった。

 

だが、穏やかなだけではない。

 

彼もまた、背負われることを嫌う。

 

妹を守り続けた人間は、誰かの荷物でいることに耐えられない。

 

「すまない」

 

「謝るところではありません」

 

「では」

 

「任せたなら、任せてください」

 

趙活は息を吐いた。

 

傷が痛む。

 

だがその痛みが、少しだけ自分を座らせてくれる。

 

「難しい」

 

「趙兄ならできます」

 

「どうしてだ」

 

「できないことを認められる人だからです」

 

趙活は苦笑した。

 

「褒めているのか、それ」

 

「はい」

 

「素直に喜びづらい」

 

「それも趙兄らしいと思いますよ」

 

その時、祠の前にいた先遣の一人が、葉雲舟へ近づきかけた。

 

點蒼の本隊ではない。観雲客と聴海生の返書を携え、先に走ってきた若い剣客が数人、軍営の端で待たされていたのである。

 

葉雲舟の空気が変わる。

 

ほんの少し。

 

剣客は足を止めた。

 

近づくだけで分かる格というものがある。葉雲舟は声を荒げない。睨みもしない。だが、剣を持つ者なら、彼が腰を上げる前に自分の間合いが崩れていることを感じる。

 

若い剣客は、意地で口を開いた。

 

「葉小侠」

 

葉雲舟は静かに答える。

 

「はい」

 

「あなたは、點蒼の剣を、唐門のために使うのですか」

 

周囲の空気が止まる。

 

趙活は、その問いを止めなかった。

 

いつかは出る。

 

今出ただけだ。

 

葉雲舟は、若い剣客を見る。

 

「今は、民を害する者の反対側に立っています」

 

「破門同然の身で」

 

若い剣客の声には怒りがあった。

 

それ以上に、悔しさがあった。

 

武林大会で傷ついた名は、まだ乾いていない。東西武林の戦いで葉雲舟一人を抑えきれなかったことも、點蒼の若い者たちには刺のように残っている。葉雲舟が唐門にいるという事実は、彼らにとって、ただの縁談話や門派間の事情ではなかった。

 

自分たちが磨いたと思っている剣が、自分たちの外で輝いている。

 

それは誇らしいことではなく、まず痛かった。

 

「點蒼の技を、唐門の名の下に振るうのですか」

 

葉雲舟は、少しだけ目を伏せた。

 

「僕の剣は、點蒼で学んだものです」

 

「唐門にいても?」

 

「はい」

 

短い答えだった。

 

若い剣客は何かを言おうとして、言えなかった。

 

その横で別の剣客が、趙活を見る。

 

「唐門の旗の下にいる以上、あなたの差配ではないのですか」

 

「差配はします。ですが、葉兄の剣まで俺のものにはしません」

 

若い剣客は眉を寄せた。

 

趙活の顔を見て、少しだけ嫌悪が浮かんだ。隠しきれなかった。だがその嫌悪の上に、言葉をどう返すべきか迷う色が重なる。

 

顔が悪い。

 

だが言葉は粗くない。

 

唐門の者。

 

だが葉雲舟を縛っていない。

 

噂と目の前の人間が合わない。

 

そういう時、人はしばし黙る。

 

趙活はそれでよいと思った。

 

名声など、一度で定まらなくていい。

 

黙らせるだけなら簡単だ。

 

難しいのは、考えさせることである。

 

その沈黙の後、昼過ぎ、水場へ向かった組から狼煙が上がった。

 

### 四年目四月十日 昼過ぎ 水場からの狼煙

 

黒ではない。

 

白に近い。

 

発見。

 

戦闘。

 

被害軽微。

 

趙活は立ち上がりかけた。

 

葉雲舟が肩を押さえた。

 

「座っていてください」

 

「見に」

 

「行けません」

 

「葉兄」

 

「行けません」

 

言葉が短い。

 

趙活は諦めた。

 

しばらくして、伝令が戻った。

 

青城四人と唐衫、軍兵十名は、水場で香を撒こうとしていた二人を捕らえた。さらに一人を斬った。村人に被害なし。井戸は封じ、別の水場へ誘導中。唐衫が軽傷。碧波子が足を捻ったが問題なし。高和が一人を生け捕りにした。

 

陸紹文は報告を聞き、すぐに記録させた。

 

「早いな」

 

「青城の四人は、足並みがいいです」

 

趙活は言った。

 

「碧波子道士が崩し、清虛子道士が締め、裴紅臘道士が後ろを見て、高和道士が斬る。四人で一つの陣に近い」

 

「青城にそのような小陣が?」

 

「正式な名は知りません。ですが、長く一緒にいる者の呼吸です」

 

「お前が指示したのか」

 

「少しだけ」

 

陸紹文は趙活の顔を見た。

 

今度は、醜さを見ているのではない。

 

使えるかどうかを見ている。

 

それでも十分だ。

 

まずは駒としてでもよい。

 

駒として使えると思われれば、次に言葉が届く。

 

夕刻、水場組が戻った。

 

### 四年目四月十日 夕刻 祠

 

碧波子は足を少し引きずっていたが、口は元気だった。

 

「趙活、お前の言う通りだったぞ。井戸の石蓋の裏に香を塗ってやがった」

 

「大声を出すと傷に響くぞ」

 

「俺の声でお前の傷が開くなら、それはもう俺の武功だ」

 

「掌門ならできそうだな……」

 

清虛子が横から言う。

 

「静かにしろ」

 

碧波子は黙らなかったが、声量は少し落とした。

 

唐衫は腕に布を巻いていた。

 

「軽傷です」

 

「無理は」

 

「していません」

 

唐惟元が横から言った。

 

「した顔っスね」

 

唐衫は少しだけ視線を逸らした。

 

「必要な踏み込みでした」

 

「必要と無茶は親戚っスよ」

 

「覚えておきます」

 

「覚えるだけなら」

 

「ただ、ですね」

 

唐衫が先に言ったので、唐惟元は少し面白くなさそうにした。

 

高和は捕虜を引き渡しながら、趙活へ微笑んだ。

 

「趙兄弟の読み通りだ」

 

「雲裳の読みです」

 

「あの雲裳姑娘の?」

 

「はい」

 

青城の四人が一瞬、何とも言えない顔をした。

 

青城にとって、雲裳悪戯で山中を騒がせた小悪魔である。彼女の名が出てくると、どうにも脳が追いつかないらしい。

 

裴紅臘が慎重に言う。

 

「雲裳姑娘は、昔から人の心を見るのが上手でした」

 

碧波子が頷く。

 

「悪戯する場所を間違えなかったからな。いや、間違えていたか。全部ひどかった」

 

清虛子が咳払いする。

 

高和は少し笑った。

 

「では、趙兄弟の奥方となる方は、戦場の外からも敵を見ているわけだ」

 

「奥方はまだだ」

 

「婚約者」

 

「それも、まだ正式には」

 

「なら、身につけるものを受け取ったという話も、まだ正式ではないのか」

 

趙活は一瞬だけ止まった。

 

「誰から聞いた」

 

趙活は黙った。

 

青城の四人がにやりとした。

 

戦場の空気が、ほんの少しだけ緩む。

 

その緩みが、今は必要だった。

 

人は、殺し合いの話だけでは立っていられない。

 

誰かが帰る場所を持っている。

 

誰かが待っている。

 

誰かがからかう。

 

そういう小さなものが、夜の前に火種とは違う温度を残す。

 

だが、その温度は長く続かなかった。

 

日が傾き始めた頃、祠の前へ別の兵が駆け込んできた。

 

馬ではない。

 

人の足だった。

 

鎧の肩紐が片方切れ、額から血を流し、息は肺の奥で引っかかっている。彼は陸紹文の兵ではない。本陣へ戻るはずだった伝令の一人で、途中で小さな隊と合流し、山道の脇で襲われたらしい。背中にはもう一人を背負っていた。背負われている兵は、意識がなかった。

 

祠の前の空気が、また張り詰めた。

 

陸紹文の兵が走る。

 

唐門の弟子も動く。

 

葉雲舟は趙活より先に駆け寄った。

 

「下ろしてください」

 

声は静かだったが、急いでいる。

 

背負われていた兵が地面へ寝かされる。胸当ての下が赤い。矢傷ではない。刃でもない。細い金属片が三本、肋の間へ入っている。暗器に近い。だが唐門のものではない。作りが粗く、重さが合っていない。殺すためというより、深く刺さって抜きにくくするためのものだ。

 

葉雲舟は傷を見て、すぐに顔を上げた。

 

「趙兄」

 

趙活は立ち上がった。

 

葉雲舟の呼び方だけで分かる。

 

これは、手が要る。

 

龍湘がすぐに寄る。

 

「歩けるか」

 

「歩ける」

 

「嘘だな」

 

「少しだけならな」

 

龍湘は答えを聞かず、趙活の脇に肩を入れた。趙活は抵抗しなかった。抵抗する時間が惜しい。彼は龍湘に支えられ、兵の傍へ膝をつく。

 

胸の傷が叫んだ。

 

自分の傷が痛む。

 

だが目の前の傷は、今開いている。

 

趙活はそれを見る。

 

医術は、読むだけでは身につかない。

 

だが趙活は読み、覚え、試し、怒鳴られ、また覚えた。二師兄の雑用、唐芳の叱責、李先生の手つき、葉雲舟との問答。人の体の理は、本の文字だけではなく、痛む体、熱を持つ肌、死へ向かう呼吸の中にある。

 

「葉兄、三本目は抜かないでくれ」

 

「分かっています」

 

葉雲舟はもう、手を止めていた。

 

一本目は浅い。

 

二本目は肋に当たっている。

 

三本目が問題だった。刃が細く、内へ入り、抜けば血が一気に溢れる。今抜けば死ぬ。だが入れたままでも、息が浅くなる。

 

陸紹文が近づく。

 

「助かるか」

 

趙活は答えなかった。

 

答えられない時に、安易な言葉を出せば人を殺す。

 

「布。酒。火。細い鉗子。唐門の薬包、青い紐のもの」

 

「青い紐?」

 

唐門の若弟子が慌てる。

 

唐惟元が横から薬包を投げた。

 

「これっス」

 

「ありがとうございます」

 

「高いっスよ」

 

冗談の声だった。

 

だが顔は笑っていない。

 

趙活は薬包を開く。匂いで確かめる。止血、痛み止め、気付け。唐芳が用意したものだ。強い。使い方を誤れば毒にもなる。唐門の薬はそういうものが多い。

 

葉雲舟が兵の手首を取る。

 

「脈が落ちています」

 

「少し支えます」

 

「趙兄の体では」

 

「息を合わせるだけです」

 

葉雲舟が一瞬、反論しようとした。

 

だが言わなかった。

 

今は止める場面ではない。

 

趙活は兵の胸元へ手を置いた。

 

九轉輪迴大法の名は出さない。

 

人に言えないものは、人前ではただの手当てに見せる。息を合わせ、相手の体がまだ拒んでいない道へ、ほんの細い内息を添える。死に向かう体を押し戻すのではない。崩れかけた橋に、一瞬だけ板を渡す。

 

兵の喉が鳴った。

 

浅い息が、少し深くなる。

 

陸紹文の目が変わった。

 

軍人は、内力の妙を細かく知らない。

 

だが今、死にかけた兵の息が戻ったことは分かる。

 

「葉兄、今」

 

葉雲舟は二本目を抜いた。

 

血が出る。

 

趙活が薬を押さえる。

 

兵が呻く。

 

龍湘が趙活の肩を支えた。趙活自身が崩れかけている。だが手は離さない。手を離せば、血が漏れる。血が漏れれば、兵は戻らない。

 

唐衫が水場から戻ったばかりの疲れた顔で、黙って布を裂いた。

 

青城の裴紅臘が横から酒を渡す。

 

高和は肩の傷を押さえながら、周囲の野次馬を下げた。

 

碧波子は珍しく黙っていた。

 

清虛子は祠の前で短く祈った。

 

その光景は、奇妙だった。

 

唐門の醜い男が、軍の兵の胸を押さえる。

 

點蒼の剣客が、その手元を助ける。

 

青城の道士が酒を渡し、峨嵋の者が遠巻きに見て、嵩山の僧が念仏を小さく唱える。軍の兵は槍を立て、村人は息を殺し、龍湘は剣を持つ手ではなく、趙活の体を支えている。

 

誰も、そこに綺麗な英雄の姿を見なかった。

 

汗と血と薬の匂いがあるだけだ。

 

趙活の身から漂う淡い薬の香りは、今は兵の血と混じり、祠の古い木の匂いと混じっていた。

 

やがて、三本目を動かす時が来た。

 

葉雲舟は小さく息を吸う。

 

「趙兄」

 

「抜きます」

 

「はい」

 

「抜いたら、すぐ押さえてくれ」

 

「分かっています」

 

二人の会話は短い。

 

医者同士の言葉ではない。

 

だが、互いの手が何をするかは分かっている。

 

三本目が抜けた。

 

血が噴いた。

 

趙活の掌が沈む。

 

内息を添えすぎれば、自分が倒れる。

 

入れなければ、兵が死ぬ。

 

その間の細い道を探る。

 

昔なら、そんな道は見えなかった。

 

今は少し見える。

 

雲裳を救うために、死の淵まで踏み込んだ経験が、ここで別の命へ繋がっている。あの地獄を、何度も思い出したくはない。だが、思い出したくない経験ほど、体は忘れない。

 

兵の体が震えた。

 

葉雲舟が薬を押し込む。

 

唐衫が布を渡す。

 

陸紹文が、無意識に拳を握った。

 

時間にすれば、短かった。

 

だが周囲には長く感じられた。

 

やがて兵の息が、細く安定した。

 

助かった。

 

少なくとも、今すぐは死なない。

 

趙活は手を離した。

 

その瞬間、自分の体が傾いた。

 

龍湘が支える。

 

「あんた、大丈夫?」

 

「大丈夫」

 

「大丈夫な顔じゃないよ」

 

「顔は元からだ」

 

龍湘は少し怒った顔をした。

 

趙活は笑いかけたが、笑いきれなかった。

 

胸が痛む。

 

視界が少し暗くなる。

 

葉雲舟がすぐに薬碗を差し出した。

 

「飲んでください」

 

「ありがとう」

 

短いやり取りに、周囲の緊張が少しだけ緩んだ。

 

だが、その緩みはすぐに別の重さへ変わった。

 

背負ってきた伝令兵は、もう一人いた。

 

彼は自分の足で来た。

 

額から血を流しながら、背の兵をここまで運んだ。

 

その彼が、今になって膝をついた。

 

葉雲舟が駆け寄る。

 

趙活も見た。

 

腹。

 

脇腹に黒い染み。

 

矢傷が深い。

 

来た時には、すでに持っていなかったのだろう。背負った兵を下ろすまで、気力だけで立っていた。趙活が最初に見た時、彼はまだ話せた。だから後回しにした。後回しにするしかなかった。

 

今、その代償が目の前にある。

 

葉雲舟の手が止まった。

 

医術を学んだからこそ、嫌な見当がついてしまった。

 

趙活も分かった。

 

助からない。

 

陸紹文が低く言う。

 

「どうした」

 

誰も答えない。

 

伝令兵は、自分でも分かったらしい。

 

口元に血を浮かべ、笑おうとした。

 

「副将」

 

陸紹文が膝をつく。

 

「喋るな」

 

「届けました」

 

「黙れ」

 

「背の奴は」

 

葉雲舟が答えた。

 

「今は、息があります」

 

伝令兵は目を細めた。

 

「なら、よかった」

 

その声に、武林の者たちは黙った。

 

軍の兵士が、仲間を背負って走った。

 

それだけの話である。

 

だが、それは武林の義侠と何が違うのか。

 

名にもならない。

 

武功にも数えられない。

 

江湖の噂になることもないだろう。

 

それでも、彼は背負って走った。

 

趙活は、息を吸った。

 

言葉は出さなかった。

 

その言葉は、自分の口から出すものではない。

 

伝令兵は陸紹文の袖を掴んだ。

 

「楊将軍に」

 

「……聞こう」

 

「武林の連中、使えるかもって」

 

陸紹文の顔が歪んだ。

 

「伝えよう。お前はよくやった。休むといい」

 

伝令兵は微笑み、それきり目を閉じた。

 

葉雲舟が脈を取る。

 

首を横に振る。

 

祠の前に、沈黙が落ちた。

 

陸紹文はしばらく動かなかった。

 

「名を記せ」

 

記録役が筆を取る。

 

「劉成。岷州軍前哨伝令。任を果たして死亡」

 

筆が紙を擦る音がした。

 

趙活はその音を聞いていた。

 

人の死が、文字になる音。

 

戦場では、それが必要なのだろう。

 

記録しなければ、死は消える。

 

だが記録しても、生き返らない。

 

趙活は膝の上で拳を握った。

 

大きく深呼吸し、息を整える。

 

武林の者たちが自分を見ている。

 

軍の者たちも、自分を見ている。

 

醜い顔。

 

薬臭い体。

 

病み上がりの総帥。

 

だが今、その手は一人を引き戻し、一人を看取った。

 

それだけが事実だった。

 

陸紹文は立ち上がった。

 

趙活へ向き直る。

 

「趙総帥」

 

初めて、彼はその肩書を迷わず言った。

 

趙活は顔を上げた。

 

「はい」

 

「明日、楊将軍に会う時、このことも報告する」

 

「俺のことは」

 

「お前のことではない。劉成のことだ」

 

陸紹文の声は硬い。

 

「だが、その場にお前がいたことは言う」

 

趙活は小さく頷いた。

 

「お願いします」

 

「礼を言うのは軍のほうだ」

 

その言葉に、周囲がまた少し静かになった。

 

陸紹文自身も、言った後で少し驚いたような顔をした。おそらく、そんな言葉を出すつもりはなかったのだろう。だが出た。出てしまった言葉は、もう戻らない。

 

助かった者がいて、死んだ者がいた。

 

その事実だけが、祠の前に残った。

 

趙活は目を閉じた。

 

今ここで、軍の死者へ武林の言葉を重ねるべきではない。

 

だから黙った。

 

その日の夜、陸紹文は再び趙活の前に来た。

 

### 四年目四月十日 夜 祠

 

「楊将軍へ報告した」

 

「はい」

 

「明日、軍陣外で会う」

 

ついに、楊景略が出る。

 

趙活は頷いた。

 

「承知しました」

 

「ただし、まだ軍陣内ではない」

 

「分かっています」

 

「武林の者は、軍の外で戦う。軍令を乱せば、即座に排除する」

 

「当然です」

 

陸紹文は、少しだけ怪訝な顔をした。

 

「腹を立てないのか」

 

「立てても、得がありません」

 

「得で考えるのか」

 

「性分でして」

 

唐惟元が遠くで「師弟らしいっス」と言った。

 

陸紹文はそちらを見て、また趙活へ戻した。

 

「お前は、随分と腹の中で物を量る」

 

「我を通すのは、譲れないものがあった時だけです」

 

陸紹文は、しばらく趙活を見た。

 

「覚えておく」

 

「お願いします」

 

そこで話は終わった。

 

譲れないものが軍令とぶつかったら。

 

趙活は、その問いを胸の内で転がした。

 

自分のことだけでは済まない。

 

唐門のことだけでも済まない。

 

臨時とはいえ、自分はまとめ役を買って出たのだ。

 

その時が来ないことを願うしかない。

 

願うだけで済ませるつもりもなかった。

 

翌日、楊景略に会う。

 

軍の不信は、そこで一度、形が決まる。

 

西夏軍の影は近づき、極楽教徒の囁きは染み込み、千灯楼の灯も大きくなろうとしている。

 

一度できた形を崩すには、言葉だけでは足りない。

 

これから積み上がる、血と証拠と、助かった命の数を必要とする。

 

趙活は、夜の祠の前で目を閉じた。

 

眉山では、ただ必死だった。

 

信じたものに従って動いただけだった。

 

その結果、自分は大侠だと称された。

 

苦悶の顔をした瑞笙の言葉が浮かぶ。

 

自分がなりたかったのは、こんな人間じゃない。

 

自分もいつか、そうなるのだろうか。

 

村は守られた。

 

楊景略と会えることにもなった。

 

一歩進んだはずなのに、足取りはひどく重かった。

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