活俠傳 西夏戦役   作:ボブの卵かけご飯

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第三話

### 四年目四月十一日 朝 村はずれの祠

 

夜が明けても、祠の前には血の匂いが残っていた。

 

記録役は昨日の死者の名を書き、兵たちはそれを黙って見ていた。武林の者も、そこへ余計な口を挟まなかった。

 

それでよかった。

 

軍には軍の死者がいる。武林の者が横から義侠だ、功だと飾るものではない。ただ、その名が紙に残されるまで、誰も軽口を叩かなかった。その沈黙だけで十分だった。

 

「起きてたっスか」

 

唐惟元が祠の影から出てきた。

 

いつものように、背中には荷がある。戦場へ来ても荷がある。商売道具なのか、暗器なのか、薬なのか、ただの布なのか、外からは分からない。唐惟元は、それを分からなくするのが上手い。

 

「寝てるように見えたか」

 

「死体よりは動いてるっスね」

 

「縁起でもない」

 

「戦場に来て縁起を気にするなら、最初から来ないほうがいいっスよ」

 

唐惟元は趙活の横へ腰を下ろした。朝霧の中で、彼の横顔はいつもより少しだけ硬い。笑う時は笑う。軽口も叩く。だが、目は動いている。祠の外、兵の配置、青城四人の寝場所、捕虜を縛った小屋、葉雲舟がいる仮の治療場、唐衫が若弟子を見張っているあたり。

 

商人の目ではない。

 

唐門の目だった。

 

「昨日の捕虜、二人のうち一人はまだ吐かないっス」

 

「もう一人は」

 

「腹の中に毒筒。やっぱり死んだっス。あれは時間をかけて助けるより、殺して毒を出させないほうが被害が少ない」

 

「唐衫は見てたか」

 

「見てたっス。顔色は変えたけど、手は止まってないっス」

 

趙活は頷いた。

 

唐衫は、こういう場で崩れる男ではない。だまされていたとはいえ唐門へ刃を向けたことだけは、今も胸に刺さっている。だが、外道を相手に手を汚すことを恐れる性分ではなかった。必要なら、必要なだけ汚れる。そうしてでも唐門の側に立とうとする男である。

 

「若いのは」

 

「そっちが問題っスね。一人は吐きそうになってた。もう一人は吐かなかったけど、寝られない顔っス」

 

「武林大会や東西武林とは違うからな」

 

「信念と信念がぶつかる戦じゃないっス。毒を吐かせないために殺すとか、死体から印を剥ぐとか、そういう話っスからね」

 

「見ておいてくれ」

 

「わかってるっス」

 

唐惟元はそう言って、懐から小さな紙片を出した。

 

油紙に包まれている。昨日、唐衫が死んだ女から取った灯の印だ。祠の弱い光に照らすと、黒い灯の線が浮く。千灯楼の印としては、あまりにも小さい。小さいから、逆に本物らしかった。

 

「偽造の可能性は」

 

「当然あるっス。でも偽造するなら、もっと見せびらかすっス。これは持ち主だけが分かればいい印。少なくとも、そう見えるように作ってる」

 

「つまり、どちらにしても灯の筋か」

 

「そういうことっス」

 

唐惟元は紙片を戻した。

 

「それと、捕虜の一人が変なことを言ってたっス。崆峒の名を汚すだけじゃなく、軍の中に『江湖人は水を毒にする』って声を入れろって」

 

「軍だけじゃないな」

 

「村々もっスね」

 

「民にそれを言わせるつもりだ」

 

趙活は祠の外を見た。

 

昨日、井戸の水は守った。村人に大きな被害は出なかった。だが、噂はもう走っているだろう。唐門の者が来た。青城の道士が井戸を封じた。軍兵が水を運んだ。唐門が毒を見た。極楽教徒が香を撒こうとした。

 

事実を並べても、人の耳は勝手に物語を作る。

 

千灯楼は、そこへ火を入れる。

 

「楊将軍は、これをどう見るかな」

 

「疑うっスね」

 

「だろうな」

 

趙活は笑った。

 

唐惟元が眉を上げる。

 

「何で笑うんスか」

 

「疑うなら、まだいい。何も見ないで信じる奴よりは」

 

「師弟も言うようになったっスね」

 

唐惟元は少しだけ笑った。だがすぐに、表情を戻す。

 

「楊景略は堅い男っス。こっちを信用してない。けど、昨日の件は効いてる。兵の前で見たものは、消しにくいっスから」

 

「彼には悪いが、そうさせてもらう」

 

「それと、宋悲総指揮使が来るらしいっス」

 

「もう?」

 

「仕事人っスからね。軍と武林の間に立つなら、あの人が一番いいっス」

 

宋悲。

 

趙活は、あの男の顔を思い出した。

 

捕役総指揮使。役人でありながら、妙に江湖の空気を知っている男。趙活を見て、顔で笑うより先に人を見た。冗談も言う。だが礼を外さない。

 

彼が来るなら、楊景略との場は少し動く。

 

ただし、動きすぎても困る。

 

軍が武林に頭を下げる形になれば、楊景略の兵は納得しない。武林が軍に従う形になれば、江湖の者は面子を失う。今必要なのは、どちらかが上に立つことではない。

 

同じ敵を、それぞれの場所から斬ることだ。

 

「四師兄」

 

「どうしたっスか」

 

「唐門の弟子たちに、今日から軍の兵糧や水には絶対近づくなと言っておいてくれ。頼まれても触るな。触る時は、軍の記録役と青城か嵩山の第三者を立てる」

 

「唐門が毒を入れたって言われないためっスね」

 

「それもある。だが、敵は俺たちに入れさせたい」

 

「入れさせたい?」

 

「毒じゃなく、手をだ」

 

趙活は指を軽く曲げた。

 

「唐門の手が軍の水桶に触れた。その事実だけで、あとから何でも言える。毒が出ても出なくても、唐門が触ったと言える。だから、触らない。触るなら全員の前で触る」

 

唐惟元は、少し黙った。

 

「師弟」

 

「何だ」

 

「面倒な戦っスね」

 

「そうだな」

 

「殴って勝てるほうが楽っス」

 

「四師兄がそれを言うのか」

 

「商売でも、殴ったほうが早い時はあるっス」

 

趙活は今度こそ笑った。

 

胸が痛む。

 

唐惟元はそれを見て、少しだけ目を逸らした。

 

「笑うなとは言わないっス。でも、倒れたら唐芳師姉に僕まで怒られる」

 

「その時は一緒に怒られてくれ」

 

「勘弁してほしいっス」

 

朝の白みが少しずつ増していった。

 

祠の前では、青城の四人が起き始めている。碧波子は足首を回しながら文句を言い、清虛子はその文句を聞かない顔で水を飲んでいる。裴紅臘は昨日の記録を読み返し、高和は肩の傷を確かめてから、何事もないように剣を拭いた。

 

唐門の古参弟子は、若弟子たちを軍の杭から少し離して並べ、注意事項を述べていた。その中に一人、顔色の悪い若弟子がいる。昨日の死体を見たせいだろう。唐衫はそれに気づいているようだが、すぐに古参師兄のほうへ目を戻した。

 

葉雲舟は、仮の治療場から出てきた。昨日助けた兵の世話を、軍医の横で手伝っていたのだろう。包帯を替え、水を運び、脈の変化を報告する。薬の知識は唐門で鍛えられつつあるが、医者としての実務はまだ見習いだ。目元に疲れがある。だが足取りは乱れていない。

 

龍湘は、木の上にいた。

 

なぜ木の上なのか、趙活には分からない。だが彼女は当然のように枝に腰を掛け、干し肉ではなく焼いた饅頭を食べている。どこで手に入れたのか聞くのは、もう誰もやめている。

 

「湘姉」

 

趙活が呼ぶと、龍湘は枝からふわりと降りた。

 

音が少ない。

 

戦う時ほどではないが、彼女の体は軽い。錦香宮の剣技と龍淵七絶の影が、その身にある。本人は剣に生きるつもりではなく、ただ美味い鶏腿と、困っている者を放っておけない性分を持っているだけなのだが、その身についたものは軽くない。

 

「今日は軍の偉い人と会うんだね」

 

「ああ」

 

「いい人だといいね」

 

「そうだな」

 

「弟は人を見る目、あるからね。きっと大丈夫だよ」

 

「買いかぶりさ」

 

「そうかな? 私は弟を信じてるよ」

 

趙活が少しだけ困った顔をすると、龍湘は明るく笑った。

 

「何かあれば呼んで。私は近くにいる」

 

「そこは頼りにしてる」

 

「どんと任せて」

 

龍湘は素直に頷いた。

 

人を疑うことに慣れていないわけではない。江湖を歩けば悪人はいる。彼女はそれを見てきた。だが、龍湘の判断は真っ直ぐだ。悪なら止める。善なら守る。迷う者は、迷いごと抱えて見守る。

 

その真っ直ぐさは、軍との折衝には向かない。

 

だが戦場には必要だ。

 

人が多くなればなるほど、言葉は濁る。面子、命令、陣形、疑い、責任、記録。どれも必要だ。だがその中で、ただ「民を害する者を止める」と思える人間がいることは、趙活にとってありがたかった。

 

「湘姉は、会見の時は俺の後ろにいてくれ」

 

「護衛?」

 

「それもある。あと、変な気配があったら教えてくれ」

 

「気配なら葉雲舟のほうが細かいよ」

 

「湘姉の勘も欲しい」

 

龍湘は少し嬉しそうにした。

 

「役に立てるかわからないけど、弟がそこまで言うなら、見ておくね」

 

「ただし、剣は抜かない」

 

「敵がいなければ抜かないよ」

 

「敵かどうか分からないうちは」

 

「抜かない」

 

「助かる」

 

「弟は細かいね」

 

「細かくしないと、俺が死ぬ」

 

「それは困る」

 

龍湘は真顔で言った。

 

その真顔に、趙活は少しだけ息を止めた。

 

龍湘は、人の生死を軽く扱わない。悪人を斬る時でさえ、斬るべきだと思ったから斬るのであって、血を喜んでいるわけではない。

 

昨日もそうだった。名も知らなかった兵が死んだ時、彼女は泣いていた。戦場で初めて会った相手の死に、目を赤くしていた。

 

趙活はそれを覚えておくことにした。

 

やがて、陸紹文が来た。

 

彼は朝から鎧を整えていた。昨日よりも顔が硬い。楊景略の幕僚として、今日の会見を整える役目を負っている。武林側へ一歩寄りすぎれば軍に疑われ、軍側へ寄りすぎれば昨日見たものを無視することになる。

 

彼もまた、難しい場所に立っていた。

 

「趙総帥」

 

「陸副将」

 

「楊将軍は、午の刻より前に軍陣外の石標で会うと言っている」

 

「石標」

 

「民道の終わり、軍陣へ続く道の手前だ。石標を越えれば軍の領域。越えなければ外だ」

 

村外れの祠から伸びる民道には、村とも呼べぬ小さな家のまとまりが点々とあった。数戸の家、畑番の小屋、水汲み場の近くに寄った家々。その民道が軍陣へ続く道に変わる手前に、石標が立っている。

 

分かりやすい。

 

軍の内と外を、まず線で分ける男なのだろう、と趙活は思った。

 

「こちらの人数は」

 

「趙総帥を含めて五名までだ。唐門の随行を二名、護衛を一名、記録役を一名。それ以上は石標の手前で待機させろ。青城の道士たちも、石標の民道側に置く。武林側の人間を多く出すな」

 

陸紹文は、唐惟元の名も、葉雲舟の名も、龍湘の名も出さなかった。

 

当然である。

 

彼が確かに知っているのは、眉山の一騎打ちで立った男が趙活である、ということだけだ。唐門の内情も、葉雲舟がどのような立場で唐門にいるかも、龍湘がどれほどの剣を持つかも、軍の側から見ればまだ曖昧な影にすぎない。

 

ならば、誰をその五名に入れるかは、こちらで決める。

 

四師兄。葉雲舟。龍湘。古参師兄。

 

唐衫は外で待機。青城の四人は石標の民道側。

 

趙活はそう割り振った。

 

「宋悲殿は」

 

「道中にいる。間に合えば同席する」

 

「丹霞子殿は」

 

陸紹文の顔が少し歪んだ。

 

「道法将軍本人は、まだ軍の前には出ていない。だが、崆峒の先触れは来た」

 

「怒ってましたか」

 

「先触れは怒っていた。道法将軍本人の文は、短い」

 

「何と」

 

「崆峒の名を騙って人を害した者を、崆峒が捨て置く理由はない、と」

 

丹霞子自身は分かっているはずだ。

 

これは崆峒を怒らせ、軍に疑わせるための手だと。

 

だが、分かっていても腹は立つ。

 

何より、崆峒の若い者たちは黙れない。

 

門派の名で兵が死に、その名で疑われたのだ。

 

怒るなと言うほうが無理だった。

 

趙活はゆっくり立ち上がった。

 

胸が痛む。

 

葉雲舟がすぐに来る。

 

「輿で行きましょう」

 

「歩ける」

 

「石標まで歩いたら、会見中に倒れます」

 

「そこまでは」

 

「倒れます」

 

葉雲舟は、唐芳に言われたことをそのまま守る顔で断言した。

 

趙活は言い返せなかった。

 

趙活は息を吐いた。

 

「陸副将へ伝えてくれ。石標までは輿で行く。担ぎ手は石標の手前で退かせる」

 

葉雲舟が頷き、外へ出た。

 

しばらくして戻る。

 

「許可が出ました。ただし、覆いは掛けないこと。石標の三十歩手前で輿を下ろし、担ぎ手は退くように、と」

 

「当然だな」

 

唐惟元が横で笑う。

 

「唐門の輿なんて、軍から見たら箱型暗器っスからね」

 

輿が用意される。

 

石標へ向かう道は、祠から半里ほどだった。

 

道の両側には、低い草と、ところどころに灌木がある。軍道の脇に、古い石標が立っていた。石標の根元には新しい縄が張られ、粗い木札が打たれている。そこから先が軍の領域なのだと、言葉より早く分かった。

 

石標の向こうには宋軍の外郭が見える。柵、槍、旗、見張り台。遠くには主陣の布幕があり、兵が忙しく動いている。

 

その全てが、武林の者を拒んでいた。

 

拒んでいるからこそ、整っている。

 

武林の者は強い。強い個人がいる。だが軍は、強い個人ではなく、同じ方向を向いた多くの者で出来ている。槍の列。盾の幅。伝令の速度。炊煙の数。馬の繋ぎ方。荷車の向き。そこには、江湖とは別の理があった。

 

趙活はそれを見た。

 

戦術の本で読んだものが、目の前にある。

 

趙活は、読んだことのある一冊を思い出した。

 

楊家練兵操。

 

体操と名はついていた。だが中身は、兵が戦場で死なないために足腰と間合いを叩き込むものだった。棍操、一百零八陣操、銅錘十八打。書の上ではただの名に見えたものが、石標の向こうで槍を持つ兵の膝と肩に残っている。

 

楊景略がその法をどこまで継いでいるかは分からない。

 

少なくとも、兵はただ立っているのではない。槍で突くためだけでもない。列で押し、半歩で穴を埋め、倒れた者の隙間を別の者が塞ぐための立ち方だった。

 

だが本の中の陣は、汗をかかない。目の前の兵は汗をかき、趙活の顔を見て眉をひそめ、唐門の旗を見て槍を握り直す。

 

そこまで読まなければ、戦術は使えない。

 

石標の手前に、簡素な机が置かれていた。

 

椅子は一つだけ。

 

楊景略が座っている。

 

その右に陸紹文。左に軍の記録役。後ろには槍兵が四人。石標の向こうには弩兵が見える。隠していない。隠さないことで、これは軍の場であると示している。

 

楊景略は四十前後に見えた。

 

背は高くない。だが厚い。目は細く、頬に古い傷がある。派手な鎧ではない。実用の鎧で、擦れた跡が多い。髭は整えているが、文人のような柔らかさはない。

 

この男は、戦で何が失われるかをよく知っている。

 

趙活は、そう思った。

 

楊景略の目が、趙活の顔に止まる。

 

醜さを見た。

 

次に、輿を見た。

 

次に、胸の包帯の下に隠された傷を見ようとするように、趙活の姿勢を見た。

 

最後に、周囲の者を見る。

 

龍湘。葉雲舟。唐惟元。唐門の門派人。少し離れた青城四人。さらに後ろに唐衫。

 

楊景略は、そこでようやく口を開いた。

 

「唐門趙活」

 

「はい」

 

「お前が、東西武林の調停役、臨時総帥を名乗る者か」

 

「名乗らされている者です」

 

陸紹文の眉が動いた。

 

楊景略は表情を変えない。

 

「椅子は一つだ」

 

「では、立って話します」

 

葉雲舟が一歩出かけた。

 

趙活は手で止める。

 

楊景略はそれを見た。

 

「病人を立たせて話す趣味はない。輿に座ったままでよい」

 

「ありがとうございます」

 

趙活は輿の上で軽く礼をした。

 

その一礼が、場の空気を少しだけ変えた。

 

趙活は怒らない。

 

侮られても、まず怒らない。相手が礼を失っているかどうかより、その礼の失い方が何を狙っているかを見る。楊景略は、試している。武林の面子を刺激し、こちらが怒るかを見る。怒れば、軍陣に入れる必要はないと言える。

 

だから怒らない。

 

反発は、もっと正しい場所へ向ける。

 

楊景略は机上の地図に指を置いた。

 

「昨日、村外れの水汲み場で、極楽教徒と思しき者を捕らえた。これは陸紹文より聞いている」

 

「はい」

 

「その前日、我が前哨は崆峒の符を残した者に襲われた」

 

「聞いています」

 

「武林の者は、これを千灯楼の仕業と言う」

 

「少なくとも、そう見ています」

 

「証拠は」

 

趙活は唐惟元を見た。

 

唐惟元が油紙を出し、記録役へ渡す。記録役はそれを受け取り、楊景略の前へ置いた。

 

灯の印。

 

崆峒の符に似せた紙。

 

井戸の石蓋の裏から削り取った香の粉。

 

捕虜の衣から出た小さな針。

 

それらは、どれも決定的ではない。

 

決定的でないからこそ、楊景略の顔は険しい。

 

「これで崆峒の潔白を証明できると?」

 

「できません」

 

趙活は即答した。

 

軍の記録役が筆を止める。

 

陸紹文も趙活を見た。

 

楊景略だけが、少しも動かなかった。

 

「では何を持ってきた」

 

「疑い方です」

 

「疑い方」

 

「崆峒を疑うなら、崆峒の全員を遠ざけるのは敵の狙い通りです。千灯楼を疑うなら、崆峒の中に潜む者を見つける必要があります。軍を疑うなら、兵糧と水へ武林を近づけないのが筋です。武林を疑うなら、軍陣へ武林を入れないのが筋です」

 

趙活は、少し息を整えた。

 

胸の奥が痛む。眉山の傷はまだ塞がりきっていない。昨日、声に内力を乗せたことも響いていた。

 

だが、声は落とさない。

 

「ですから、軍陣内へは入りません。軍の水にも、兵糧にも、唐門は触れません。触れる時は軍の記録役、青城か嵩山など第三者、そして軍医を立てる。崆峒は前線に近い。いきなり軍と同じ陣には入れない。ですが敵の動きを知るには必要です。疑いを消すのではなく、疑ったまま使える形にしてください」

 

楊景略は黙った。

 

風が石標の横を通る。

 

風音が、妙にはっきり聞こえた。

 

兵たちは趙活を見ている。

 

醜い顔の男が、唐門の毒ではなく、軍の規律を口にしている。それは彼らの想定と少し違ったのだろう。江湖の者は、もっと己の武を誇り、面子を叫び、自由を求めるものだと思っていたのかもしれない。

 

楊景略は、ゆっくり言った。

 

「軍令に従うと言うのか」

 

「軍陣の中では」

 

「外では」

 

「武林の理もあります」

 

「都合がいいな」

 

「はい」

 

趙活は否定しなかった。

 

「都合よく分けなければ、互いに潰れます」

 

楊景略の目が、ほんの少し鋭くなった。

 

「お前は武林盟主ではないのか」

 

「違います」

 

「瑞笙殿に勝ったのだろう」

 

「彼が負けを認めました」

 

「結果は同じだ」

 

「結果だけなら、そう見えるかもしれません」

 

趙活は地図を見た。

 

西夏軍の進路を示す赤い印。黒い印がある。宋軍の布陣。空白がある。そこを埋めるのが、武林の足か、極楽教徒の火かは、まだ決まっていない。

 

「ですが俺は、正式な盟主ではありません。東西武林の争いを止めた責任で、今は調停役と臨時総帥を引き受けています。だから軍の将軍と席を争うつもりはありません。俺が見るのは、軍の陣の外側です」

 

楊景略は椅子の肘に指を置いた。

 

「外側には、何がある」

 

「街道側には民の水、避難路、村、祠、茶屋。山側には川筋、疎林、崆峒へ続く細道。軍が陣として押さえるには細かすぎて、武林の者なら足を入れられる場所です」

 

「それをお前が見ると」

 

「俺一人では無理です」

 

趙活は首を振る。

 

「崆峒には地勢があります。青城には耳がある。唐門には毒を見る目がある。軍がまとめて押さえるには細かすぎる場所でも、武林なら手が届きます」

 

「随分と欲張りだ」

 

「惜しんで勝てる相手ではありません」

 

楊景略は、そこで初めて口元を少し動かした。

 

「率直ではある」

 

「曖昧にして得をする場ではありませんので」

 

陸紹文が一瞬、目を動かした。

 

軍の記録役が筆を止めかける。

 

「飾らぬのだな」

 

「飾れば、疑いも飾られます」

 

「疑われることを嫌わぬのか」

 

「嫌います。ですが、嫌うことと、目を逸らすことは別です」

 

楊景略は地図へ視線を戻す。

 

「では聞く。唐門趙活。お前なら、敵は次にどこを突く」

 

試験だった。

 

趙活は地図を見る。

 

そこへ、持っている報せを重ねる。

 

唐門の先行した古参師兄が拾った痕跡。唐惟元が道中で集めた話。丐幇から回った噂。そして陸紹文が示した軍側の事実。どれも欠けている。だが欠けているものを重ねれば、敵の手癖だけは見えた。

 

西夏軍の圧は、正面から来る。だが正面だけを見ていれば、外側を崩される。

 

退く民。荷駄。水汲み。破れた小隊。伝令。そこに極楽教徒が紛れれば、混乱が生まれる。

 

さらに千灯楼が手を入れれば、毒も偽装も痕跡も、朝廷と武林の間へ亀裂を入れる道具になる。

 

趙活は指を伸ばさず、目だけで地図を辿った。

 

それに、軍の地図へ不用意に手を置くのは避けるべきだ。

 

「この民道です」

 

趙活は目で示し、陸紹文が代わりに指を置いた。

 

「街道沿いの村から、軍陣の外へ伸びる道です。主道からは外れていますが、水場、茶屋、小さな家のまとまりがある。退く民や荷駄がここへ寄れば、軍の外側が詰まります」

 

楊景略は地図を見る。

 

「そこは細い」

 

「細いからです」

 

「理由は」

 

「大きい道は軍が見る。細い道は、誰も責任を持ちにくい。そこに火がつけば、人は大きい道へ逃げる。逃げた先で、軍の道を塞ぐ」

 

陸紹文が目を細めた。

 

楊景略は黙っている。

 

趙活は続ける。

 

「それに、敵が民を殺し、そこへ武林の痕跡を残せば、軍は武林を疑う。民は朝廷を疑う。武林は疑いを晴らすために勝手に動く。西夏軍が押す前に、こちらの足が乱れます」

 

「崆峒の符と同じ手だと」

 

「はい。ですが次は崆峒だけでは済まないでしょう。唐門の毒でも、青城の札でも、中小門派の何かでもいい。痕跡は何にでも変えられます」

 

楊景略の指が止まった。

 

「では、お前はどう動かす」

 

「青城と唐門を、民道と水場へ回します。崆峒については、道法将軍が来てから詰めます」

 

「今は使わぬと」

 

「使えません。崆峒の名で動かすなら、崆峒の口が要ります。俺がここで勝手に決めれば、それこそ疑いを増やす」

 

「では崆峒の使者は」

 

「隠しません。来た者は軍の目が届く場所で受ける。裏で会えば、また火種になります」

 

楊景略は地図へ視線を落とした。

 

「街道は」

 

「軍に固めてもらいたい」

 

楊景略の目が、そこで趙活へ戻った。

 

「お前は軍を動かすつもりか」

 

「いいえ。軍を動かすのは将軍です」

 

趙活は即座に答えた。

 

「俺が言えるのは、武林の者が邪魔にならずに働ける場所だけです」

 

「だが、街道を固めろと言った」

 

「固めてもらえなければ、武林の者がそこへ近づくことになります。そのほうが危うい」

 

楊景略は、しばらく趙活を見返した。

 

醜い顔。

 

薬の匂い。

 

病み上がりの体。

 

だが、目は逃げない。

 

その時、石標の民道側から馬の音がした。

 

一騎ではない。

 

数騎。

 

軍兵が槍を構える。

 

青城の四人が同時に動いた。碧波子は前に出かけ、清虛子が襟を掴んで止めた。高和は剣に手をかけず、道の端へ立つ。裴紅臘はすでに後ろを見ている。

 

唐衫も動いた。

 

趙活は手を上げた。

 

「まだ」

 

龍湘が目を細める。

 

「敵ではない」

 

彼女がそう言った。

 

少し遅れて、旗が見えた。

 

捕役の印。

 

その先頭に、宋悲がいた。

 

馬を下りる動作に無駄が少ない。武林の軽功とは違う。役人として、捕り物の現場をいくつも踏んだ者の動きである。彼は石標へ近づく前に、まず楊景略へ礼をした。

 

「楊将軍」

 

「宋総指揮使」

 

「遅れた」

 

「遅れてはいない。まだ疑っているところだ」

 

「それでいい。疑うのは職務だ」

 

宋悲はそう言ってから、趙活へ向き直った。

 

「趙大侠」

 

その呼び方が、場に響いた。

 

趙活は少し困った。

 

「宋悲殿。その呼び方は、少し重いです」

 

「軽く呼べる名ではなくなった」

 

宋悲の声は真面目だった。

 

だから、趙活はそれ以上茶化せない。

 

楊景略が宋悲を見る。

 

「総指揮使は、この男を大侠と呼ぶのか」

 

「呼びます」

 

「理由を聞こう」

 

「眉山を見た者なら分かる。見ていない者なら、昨日の祠の記録を読めばよい。死んだ兵の名も、助かった兵の名も、そこに残っている。聞いてなお足りぬなら、これから見ることになるでしょう」

 

「役人らしからぬ言い方だ」

 

「では、役人として申します。趙活は軍令を乱さず、武林の者を動かし、民の水場を守り、証拠を損なわず残した。捕役の目で見ても、今この場に必要な人間です」

 

楊景略は宋悲を見た。

 

宋悲は逃げない。

 

宋悲は軍人ではない。だが御前帯刀を許された捕役総指揮使であり、江湖と官府の両方を見ている。楊景略にとって、その言葉は武林側の自賛とは違う重さを持つ。

 

「宋総指揮使」

 

楊景略は言った。

 

「お前は軍の指揮に口を出すか」

 

「出しません」

 

「ならば、何をする」

 

「軍と武林が互いの背を刺さぬよう、目を開けておきましょう」

 

「捕役らしい」

 

「それが役目です」

 

宋悲はそう言い、趙活へ少しだけ視線を向けた。

 

その視線には、冗談がない。

 

趙活は、小さく頷いた。

 

宋悲が来たことで、場は少し形を得た。

 

軍。

 

武林。

 

朝廷の捕役。

 

三つの目が揃う。

 

まだ足りない。

 

崆峒が、自分の名で立つ必要がある。

 

その必要は、間もなく現実になった。

 

民道の側ではなかった。

 

石標から離れた川筋の上手で、鳥が散った。

 

疎林の影から、人影が四つ現れる。川沿いを下ってきたのだろう。衣の裾は濡れ、靴には泥がついている。水音に足音を紛らせ、木と草の影を選んで来た者の歩き方だった。

 

だが、石標の近くまで忍び寄ったわけではない。

 

四人はまだ遠いところで、あえて姿を見せた。

 

軍にも見える。武林にも見える。西夏の目からだけは外れる。

 

そういう距離だった。

 

道法将軍。

 

軍兵の中から、誰かが小さく言った。

 

先頭に立つ男は、丹霞子だった。

 

東西武林の場で見た彼は、もっと豪快だった。声は大きく、笑えば場が動き、策を言う時でさえ、刃の細さより山を動かすような力があった。

 

だが今は違う。

 

声がない。

 

笑いもない。

 

大きな男が、音を落として歩いてくる。それだけで、崆峒がどれほど悪い場所に立たされているか分かった。

 

丹霞子は、石標の三十歩ほど手前で足を止めた。

 

後ろの三人も止まる。

 

一人は飛天門の火護法、顔疆だろう。もう一人は同じ飛天門の供回り。最後の一人は、奪魄門の者らしく、影の中に半歩沈むように立っていた。

 

丹霞子は拱手した。

 

「崆峒丹霞子。楊将軍に見えるところまで来た。軍陣には入らぬ」

 

楊景略の目が細くなる。

 

「道法将軍」

 

呼び名は丁寧だった。

 

だが、声は硬い。

 

「用件を聞こう」

 

「疑いを晴らしに来たのではない」

 

丹霞子は静かに言った。

 

顔疆の眉が動いた。だが丹霞子は振り返らない。

 

「崆峒の名は、崆峒が取り戻す」

 

軍兵の間に、低いざわめきが走った。

 

疑われたことに怒っているのではない。

 

いや、怒っていないはずがない。

 

だが丹霞子は、その怒りを軍へ投げなかった。崆峒の名を汚した者へ、まっすぐ向けている。

 

楊景略はしばらく丹霞子を見ていた。

 

「崆峒は、軍に潔白を証明できるか」

 

「今はできぬ」

 

顔疆が一歩出かけた。

 

「丹霞子殿!」

 

「顔疆」

 

丹霞子の一言で、顔疆は止まった。

 

それだけで、誰がこの四人を率いているかは十分だった。

 

楊景略は一歩前へ出た。

 

軍人として、前線を知る相手への礼。あるいは、崆峒の名を疑っているからこそ、最低限の礼を崩さないという意思。

 

丹霞子はその礼を受けた。

 

「疑うのはよい」

 

楊景略も、少し目を細める。

 

丹霞子は続けた。

 

「戦場で疑いを捨てる者は、先に死ぬ。だが、疑うなら目を開けて疑え。耳に入れられた声だけで疑うな」

 

楊景略は頷かない。

 

楊景略は地図へ目を落とした。

 

「ならば今、崆峒は何をしている」

 

「崆峒の一部を率い、崆峒山の向かい、川筋上手、疎林の奥の山側に手勢を置いている」

 

丹霞子はさらに続けた。

 

「飛天門と奪魄門を主に六百。西夏の先遣はすでに農地へ出た。軽騎も混じっている。重い騎馬と荷駄は、一度には森を抜けられぬ」

 

「数は」

 

丹霞子は地図の農地側を見た。

 

「農地へ抜けた先遣は千を越える。多く見れば千五百」

 

その目が、山側の奥へ移る。

 

「森の手前に溜まっている後続は、その倍では済まぬ。見える者は数えた。見えぬ分は、天幕と炊煙、繋いだ馬の数で読んだ。あの溜まり場は、まだ膨らんでいる」

 

「それが本隊か」

 

「いや。今見えている後続も、本隊ではないだろう」

 

楊景略の目が細くなる。

 

「なぜ分かる」

 

「荷が薄い。旗の数も足りぬ。前を探り、道を開くための軍だ。腰を据えて押す構えではない。本隊まで来ていれば、俺たちはここに立っていない」

 

軍兵の間に、低いどよめきが走った。

 

丹霞子は続けた。

 

「まだすべては通れていない。道が狭く、森が邪魔をしている。軽騎は抜ける。重騎は抜けぬ。だから今は、勝つために戦っているのではない。道を塞ぎ、足を鈍らせ、朝廷軍と武林が布陣する時を稼いでいる」

 

楊景略は黙った。

 

疑いを晴らす言葉ではない。

 

だが、戦況の言葉だった。

 

丹霞子は、次に趙活を見た。

 

その目が一瞬、趙活の胸元へ落ちる。

 

だが、何も言わなかった。

 

今は労わる場ではない。

 

「趙小侠。お前はどう見る」

 

この場で振るのか。

 

趙活は内心で少し苦笑した。

 

丹霞子は、怒っている。だがただ怒っているだけではない。自分が言えば崆峒の弁明になる。趙活に言わせれば、第三の目になる。彼はその程度のことを考えずに動く人ではない。

 

東西武林の戦で、二人は互いの目を見ている。

 

丹霞子は、趙活が戦の盤面を読める男だと知っている。

 

趙活は、丹霞子が戦場の呼吸を知る男だと知っている。

 

実戦の泥を踏んだ数なら丹霞子が上だ。戦術の知識を積み、複数の門派を一枚の盤に置くなら趙活が上だ。

 

だからこそ、丹霞子はこの場の説明を趙活に預けた。

 

「崆峒の名を使った千灯楼の仕掛けだと見ています」

 

「証拠は薄い」

 

「はい」

 

「なら、どうする」

 

「崆峒を隠しません」

 

趙活はそこまで言って、声を止めた。

 

「楊将軍」

 

「何だ」

 

「ここから先は、聞く耳を減らしてください」

 

楊景略の目が細くなる。

 

だが、すぐに手を上げた。

 

兵が下がる。槍の列が石標の外へ退き、他の者たちも声の届きにくい距離まで数歩退いた。残ったのは楊景略、陸紹文、宋悲、記録役、丹霞子、顔疆、そして趙活だけだった。

 

趙活は、そこで初めて地図の農地側へ目を落とした。

 

「道法将軍の手勢は、川筋上手、疎林の奥。そこから動かさない。崆峒が動くなら、必ず石標へ報せる。報せなく崆峒を名乗る者が民道、水場、避難路へ出たなら、偽物として扱えます」

 

丹霞子の口元が、ほんの少し上がった。

 

「こちらの名を、逆に札にするか」

 

「はい。敵が崆峒の名を使うほど、動きにくくなるようにします」

 

「静まれと言うよりは、性に合うな」

 

丹霞子は短く笑った。

 

その笑いは、戦場の笑いだった。

 

甘さはない。だが、頼もしさはある。

 

楊景略が問う。

 

「道法将軍は、それでよいのか」

 

「よい」

 

「軍陣には入れぬ」

 

「入れてもらうつもりはない。軍の陣は軍のものだ。崆峒は崆峒の道を行く」

 

「ならば、勝手に動くな」

 

「勝手に動かぬよう、ここに来た」

 

丹霞子の声に、少しだけ怒りが戻った。

 

「だが、崆峒の名を汚した者が見えた時、俺たちは遅れんぞ」

 

楊景略はその言葉を受け、地図を見る。

 

「遅れぬ足は、時に陣を乱す」

 

「だから、趙小侠に間を見てもらう」

 

場の視線が、また趙活へ集まった。

 

趙活は、少しだけ頭が痛くなった。

 

期待は体に悪い。

 

本当に悪い。

 

だが、ここで逃げれば、もっと悪い。

 

「道法将軍は前線を見ています。楊将軍は軍を見ています。俺はその間を走る、江湖の足を見ます」

 

趙活はそこまで言って、石標の外へ目を向けた。

 

「ここからは、動く者にも聞かせた方がいい。唐惟元師兄を呼んでください」

 

楊景略が頷く。

 

少し離れていた唐惟元が戻ってきた。

 

「まず三つに分けましょう。軍の主陣、武林の外縁、民の避難路。この三つを混ぜない。連絡だけを通す。連絡役は、宋悲殿と陸副将。武林側は俺か、俺が動けない時は唐惟元師兄」

 

楊景略は唐惟元を見た。

 

「唐惟元殿か」

 

「はいっス。唐中翎掌門の四番弟子に当たるっス」

 

「戦えるのか」

 

唐惟元は笑った。

 

「戦えない唐門弟子は、唐門弟子ではないっスよ」

 

その声は軽い。

 

だが、軍の前で浮かれているわけではない。立つ位置も、目線も、退く間合いも心得ていた。

 

楊景略はそれ以上問わなかった。

 

趙活は地図を見た。

 

「今日、日が高いうちは動きません。動くなら夕刻から夜です。敵は昨日失敗した。次に早く動けば雑になります。遅く動けば、こちらの警戒が整う。だから夕刻、兵が飯を考え始め、武林の者が己の持ち場に不満を覚え始める頃に、別の火を入れる」

 

「どこへ」

 

楊景略が問う。

 

趙活は地図上の小村を見た。

 

「ここか、ここです」

 

陸紹文が印を置く。

 

一つは避難路の細い村。

 

もう一つは、川筋に近い水汲み場だった。

 

丹霞子が地図を覗き込んだ。

 

「水汲み場か」

 

「はい」

 

「西夏の斥候なら、そこまでは来ぬ。来るなら農地から少し出て、軍の目を引く」

 

「そうです。馬は目を引くため。火を入れるのは極楽教徒です。二つが同じ刻に動くなら、本命は水辺です」

 

「理由は」

 

「水と道が近い。逃げる民、運ぶ兵糧、偽の知らせを、全部混ぜられます。軍が馬を見る間に、水辺が薄くなる」

 

丹霞子は頷いた。

 

「前線の場数は少ない割には、筋が通る」

 

「本で読みました」

 

「本だけでは人は動かん」

 

「なので道法将軍にお聞きしたい」

 

趙活は素直に言った。

 

丹霞子の目から、わずかに険が薄れた。

 

「なら、聞いてくれ」

 

「夕刻、水辺へ手を回すなら、何人を、どこへ置くべきでしょうか」

 

丹霞子は地図を見た。

 

その目は、趙活とは違う。

 

趙活は線と意図を見る。敵がどこへ火を入れたいか、どの噂がどの道を走るか、誰が勢いで前へ出るか、その足をどこへ向ければ陣が崩れないかを見る。

 

丹霞子は、人を見る。

 

この道をどれだけ走れば息が切れるか。夜の川辺で槍を持つ兵がどこまで見えるか。青城の道士が川沿いでどこまで足を保つか。唐門の弟子が毒を見つけるまで、誰が場を支えられるか。

 

「多くは出さぬ」

 

彼は言った。

 

「多いと民が怯える。軍も警戒する。少数で、目が利く者を置け。水辺には青城。石標には、壁になる者を置く。嵩山がいればよいが、まだ来ていないなら軍の盾兵を借りる。崆峒は名を隠さぬ。敵意を見せてよい。だが追う役は別だ」

 

「追う役は」

 

「唐門にやってもらいたい」

 

唐惟元が目だけで笑った。

 

「うちっスか」

 

「逃げる者を追うなら、足音を消せる者がいるほうがいい。毒を持つ者の後を不用意に踏むな。唐門なら多少は分かるだろう」

 

「多少どころじゃないっスよ」

 

「ならやってもらおう」

 

唐惟元は笑った。

 

丹霞子はさらに言う。

 

「趙小侠は動かさぬ方がよい。動けば目立つ。倒れれば場が崩れる。地図の前に置け」

 

楊景略は趙活を見た。

 

「異論は」

 

趙活は一度だけ口を開きかけ、閉じた。

 

「ありません」

 

「ならば、そうする。唐門趙活は石標に残り、武林側の報せを受けろ。勝手に前へ出るな」

 

「承知しました」

 

その時、石標の向こうから別の兵が走ってきた。

 

彼は楊景略の前で膝をつく。

 

「報告! 農地を見張る小寨より狼煙。農地にいた西夏の軽騎、そのうち五十余騎が農地を離れ、軍陣側へ動きました」

 

場の空気が、一段張り詰めた。

 

楊景略は地図へ視線を落とす。

 

「向きは」

 

「定まりません。二度ほど進路を変え、こちらの哨を窺っています」

 

丹霞子の報せと重なる。

 

先遣に軽騎がいる。

 

その言葉が、今度は宋軍の狼煙によって確かめられた。

 

楊景略が問う。

 

「本隊に動きは」

 

「見えません」

 

「位置を示せ」

 

兵が地図を指した。

 

農地の南端から、疎林と平地の境をなぞるように動いている。こちらへ攻め込む足ではない。距離を測り、哨の配置を探り、どこまで出れば軍が動くかを見ている。

 

趙活は水辺へ目を移した。

 

先ほど話していた通りなら、馬は本命ではない。

 

軍の目を農地側へ向けるための足だ。

 

楊景略は即座に命じた。

 

「第三哨を農地側へ出せ。姿だけ見せ、追うな。狼煙を二段。主隊は動かすな」

 

「はっ!」

 

兵が立ち上がり、石標の向こうへ走る。

 

丹霞子は何も言わなかった。

 

ただ、地図の上で軽騎の進路を追っている。

 

楊景略もまた、丹霞子の報せを疑う言葉を口にしなかった。

 

疑いが消えたわけではない。

 

だが、崆峒の目が捉えたものと、軍の目が捉えたものが、初めて同じ形を結んだ。

 

趙活は地図を見た。

 

西夏の軽騎。

 

極楽教徒の水場工作。

 

千灯楼の証拠偽装。

 

別々の手に見えて、同じ盤の上にある。

 

敵は一度にすべてを崩そうとしているのではない。軍の目を動かし、武林の足を散らし、その隙へ別の手を入れる。小さな亀裂を重ね、最後にこちらの線を断つ。

 

趙活は息を吐いた。

 

「楊将軍」

 

「分かっている」

 

楊景略は地図から目を上げなかった。

 

「馬に目を奪われるな、だったな」

 

「はい。動くなら今です」

 

楊景略が即座に命じる。

 

「陸紹文」

 

「はい」

 

「第三哨は先ほどの命令どおり。水汲み場へ盾兵二十。記録役を一人つけろ。軍医は後方で待機させる」

 

「承知しました」

 

楊景略は、そこで初めて趙活を見た。

 

「武林側は誰を出す」

 

趙活はすぐには答えなかった。

 

人を選ぶ。

 

その重さが、喉に引っかかる。

 

自分が行ければ楽だった。自分で危険を引き受ければよい。だが、それは今の趙活に許された動きではない。

 

総帥は、自分の身を投げ出す者ではない。

 

人を選び、人を危険へ送り、それでも戻せるように考える者だ。

 

「青城から清虛子道士と碧波子道士。唐門から唐衫と、古参の師兄を一名。崆峒からは、同行している二人のうち、道法将軍が選ぶ一名。龍女侠には、俺の護衛として石標に残ってもらいます」

 

丹霞子は供回りの二人を見た。

 

「奪魄門の者を出す」

 

一人が前へ出た。

 

夜巡と緝凶を担う門の者である。水辺で人の気配を拾い、逃げる者を追うなら、飛天門よりも適している。

 

「承知しました」

 

趙活は頷いた。

 

出発の支度は早かった。

 

唐衫は腕の布を締め直し、古参弟子と短く確認する。清虛子と碧波子は川筋までの道を確かめ、奪魄門の男は丹霞子から二言三言の指示を受けた。

 

軍の盾兵二十が、楊景略の命令で整列する。

 

彼らは武林の者をまだ信用していない。だが、命令には従う。盾の並び、槍の角度、足の幅。武林の者とは異なる形で、彼らも戦う術を身につけていた。

 

趙活はその隊を見送った。

 

胸の奥が重い。

 

また、人を行かせる。

 

葉雲舟が隣に立つ。

 

「趙兄」

 

「分かってる」

 

「まだ何も言っていません」

 

「任せたなら、任せろだろ」

 

「はい」

 

「頑張ってみるよ」

 

遠く、水汲み場へ向かう隊が土煙の中へ消えていく。

 

その背を見ながら、趙活は思った。

 

大侠になりたいと願った時、自分はもっと華やかなものを想像していた。

 

剣戟の中で名乗りを上げ、悪を倒し、人々に喝采される。眉山の頂で瑞笙と立ち合った時、たしかにその一部はあった。

 

だが今、目の前にある仕事は、誰をどこへ行かせるかを決めることだ。

 

死ぬかもしれない道へ、自分ではなく他人の足を向けることだ。

 

期待は、体に悪い。

 

責任は、もっと悪い。

 

それでも、引き受けた者の責務だと思う自分がいる。

 

その自分が、少しだけ憎らしい。

 

「趙小侠」

 

丹霞子が声をかけた。

 

趙活は振り向く。

 

「丹霞子殿」

 

「眉山の傷は、まだ相当重いようだな」

 

「ええ。こうして、ずっと見張られている程度には」

 

葉雲舟の視線が刺さる。

 

龍湘が横で頷く。

 

「まだまだ弟に戦いはさせられないね」

 

「湘姉まで」

 

丹霞子は趙活の目を見た。

 

「恥じるな。あの眉山を見た者で、おぬしを笑える者などおらん。今は動ける者を動かせ。戦は、個人の武功だけで決まるものではない」

 

「分かっています」

 

「分かっていても、という顔だな」

 

趙活はまた言い返せなかった。

 

丹霞子は、少し声を低くした。

 

「拙者は何度も見た。自分が走れば助かったかもしれないと思って走り、走ったせいで別の場所を失った者を」

 

丹霞子は、民道の先へ目を向けた。

 

「お前が今走れば、皆がお前を見る。お前が倒れれば、皆が揺れる。だから座れ」

 

言葉は厳しい。

 

だが、その厳しさには経験があった。

 

趙活の学識では届かない場所で、丹霞子は人の死を見てきた。

 

「はい」

 

今度は素直に答えた。

 

丹霞子は頷き、楊景略の地図へ戻った。

 

楊景略は、そのやり取りを見ていた。

 

「道法将軍」

 

「何だ」

 

「その男は、命令を聞くのか」

 

「聞かせる」

 

「誰が」

 

「ここにいる皆でだ」

 

丹霞子は当然のように言った。

 

宋悲が口元をわずかに緩める。

 

「趙大侠は、人に囲まれているほうが強いようだな」

 

「囲まれすぎると、逃げ場がありません」

 

「逃がさん」

 

宋悲は笑いを隠さずいう。

 

趙活は苦笑した。

 

配置の確認が終わると、楊景略は記録役に命じて軍令を書かせた。

 

丹霞子と顔疆は、地図を挟んで陸紹文と細部を詰めている。

 

会見が一区切りつき、趙活の輿が石標の脇へ移された時、仮の治療場から戻ってきた若い兵が、足を止めた。

 

「……鬼面郎中」

 

趙活は振り向いた。

 

年は二十前後。頬には、まだ少年の丸みが残っている。若い兵は自分が声を漏らしたことに気づき、慌てて口を閉じた。

 

楊景略が眉を寄せる。

 

兵は硬直した。

 

趙活は彼を見て、少しだけ首を傾げる。

 

「どこかで会ったか」

 

「い、いえ。俺ではありません。江陵で、妹が診てもらったそうです」

 

「俺に?」

 

「はい。鬼の面のような若い郎中が脈を取り、薬を出して、痰を出す時には背のどこを叩けばよいか教えたと……」

 

そこまで言って、若い兵は自分が何を口にしたのか気づいた。

 

「す、すみません! 無礼を申しました」

 

「いや、間違ってはいない」

 

趙活は言った。

 

趙活は記憶を探った。

 

江陵。

 

二師兄に勧められ、医館へ出入りしていた頃がある。

 

初めは薬を運び、包帯を替え、診察を手伝うだけだった。だが、いつしか軽い傷や、咳、熱、腹の不調なら、自分で脈を取り、薬を選ぶようになっていた。

 

分からない病は医館の郎中へ回した。

 

分かる病まで、人任せにはしなかった。

 

顔を見て泣く子供もいた。

 

顔を見て逃げる母親もいた。

 

だが、病は顔を選ばない。咳も、熱も、傷も、趙活の顔を見て止まってはくれなかった。

 

鬼面郎中。

 

患者たちは、いつからかそう呼んだ。

 

良い名なのか悪い名なのか、当時もよく分からなかった。

 

「妹御は、治ったのか」

 

若い兵は頷いた。

 

「はい。今は嫁に行きました」

 

「それはよかった」

 

趙活は心から言った。

 

兵は、そこで少し泣きそうな顔をした。

 

「昨日、劉成が背負ってきた兵の脈を取る手を見て……妹が話していたのと、同じだったので」

 

言葉が途切れる。

 

楊景略は黙っていた。

 

宋悲も、丹霞子も、何も言わない。

 

若い兵は深く頭を下げた。

 

趙活も、黙ってその礼を受けた。

 

兵は顔を上げると、仮の治療場へ戻っていった。

 

鬼面郎中。

 

その名が、その場にいた兵たちの間を小さく揺らした。

 

眉山の英雄という名は遠い。

 

武林の臨時総帥という名も遠い。

 

だが、江陵で一人の妹を診た郎中なら、少し近い。

 

楊景略は趙活を見た。

 

「医術も修めているのか」

 

「医を生業にしているわけではありませんが、多少は」

 

葉雲舟が横から言った。

 

「趙師兄の医術は、多少ではありません」

 

「葉兄」

 

「こういうことは、正しく伝えるべきです」

 

趙活は困った。

 

龍湘が、嬉しそうに口を開いた。

 

「弟はすごいんだよ。唐門の辺りでも、辣眼郎中って呼ばれてたんだから」

 

「湘姉、その言葉だけだと褒めてるように思えないぞ」

 

気恥ずかしい。

 

だがそれ以上に、龍湘が軍兵の前で得意げに言い広めることのほうが恥ずかしかった。

 

「ああ、ごめん。でも謙遜しなくていいよ。弟はあたしの自慢なんだから」

 

龍湘は胸を張った。

 

楊景略は、そのやり取りを黙って聞いていた。

 

楊景略の表情は崩れない。

 

だが、その視線から、先ほどまでの硬さがわずかに薄れていた。

 

人を助けた名は、時に武功よりも早く壁を越える。

 

江湖と軍の間にある壁を、その名が越えていく。

 

趙活は、それを初めて目の前で見た。

 

昼に近づく頃、水汲み場へ向かった隊から第一報が来た。

 

伝令兵は、まず陸紹文へ報告した。

 

「敵影なし。桶と縄にも異常はありません。ただ、川辺の草から油の匂い。村の者とは異なる靴跡が二人分。清虛子道士と奪魄門の者が追っています」

 

「向きは」

 

「川下へ。一度、水際へ入っています」

 

「足跡を消したか」

 

「おそらく」

 

陸紹文は記録役へ目を向けた。

 

「水汲み場から村道側へ印を置け。追跡中の二人には、村道を越えて追うなと伝えろ。盾兵はその場を動かすな」

 

「はい」

 

そこで陸紹文は楊景略を見る。

 

「楊将軍。現状、水汲み場への襲撃はありません。油と足跡のみです」

 

楊景略は頷き、趙活へ目を向けた。

 

「どう見る」

 

「こちらの配置を見て、引いた可能性があります」

 

趙活は言った。

 

「ですが、油を見つけさせるところまで敵の手かもしれません。こちらの目を水辺へ縛るために」

 

楊景略は、地図に置かれた新しい印を見た。

 

「水汲み場は当たりか」

 

「まだ分かりません」

 

「油がある」

 

「火種はあります。ですが、本命が火とは限りません」

 

「ならば、何を見る」

 

「この後の人の動きです。避難する者が急に増えるか。反対に、人がいるはずの小村から誰も出てこないか。茶屋や村道で、同じ噂を口にする者が現れないか」

 

宋悲が口を開いた。

 

「捕役を回そう」

 

「お願いします」

 

「丐幇にも伝手は回してある。だが、返事はまだない」

 

「来てくれれば、目が増えます」

 

宋悲は頷き、配下へ短く命じた。

 

捕役たちが、茶屋と村道へ散っていく。

 

それから半刻ほどして、一人が戻ってきた。

 

裾に泥をつけ、手には油紙で包んだ小さな椀を持っている。

 

宋悲が問う。

 

「何があった」

 

「民道を下る者たちの中に、施しをしている者がいます。粥へ薬草を混ぜ、よく眠れると言って配っていました」

 

趙活の目が細くなる。

 

薬。

 

眠り。

 

避難する民。

 

「場所は」

 

「水汲み場から川下。村道が民道へ合流する辺りです。潰れた茶棚を使っています」

 

「粥を食べた者は」

 

「今のところ、倒れた者はいません。ただ、食べた者の何人かが、ひどく眠そうにしています」

 

捕役が油紙の包みを差し出した。

 

「残っていたものを持ち帰りました」

 

趙活は手を出しかけ、止めた。

 

「四師兄」

 

唐惟元の顔から軽さが消えた。

 

「分かってるっス。まず匂いを見る。口には入れないっスよ」

 

「極楽教徒だと思うか」

 

宋悲が問う。

 

「まだ決められません」

 

趙活は答えた。

 

「眠りを助ける薬草なら、施しとして不自然ではない。疲れた民を休ませるためかもしれません」

 

「だが、場所と時が悪い」

 

「はい。今、民を眠らせれば、避難の足が止まる」

 

唐惟元が包みを受け取った。

 

「善意なら薬。人を留めるためなら餌っスね」

 

「そこを調べてくれ」

 

唐門も粥を施す。

 

義田を作り、薬を配り、民を助ける。

 

だからこそ、敵が同じ形を使えば見分けにくい。

 

善意の形を借りた毒ほど、厄介なものはない。

 

丹霞子の顔が険しくなる。

 

「本当に極楽教徒なら、粥に何を入れた」

 

「強い毒ではないでしょう。死人が出れば、施した者が先に疑われる」

 

趙活は油紙の包みを見た。

 

「眠らせ、足を止める薬。あるいは、繰り返し欲しがらせる何かです」

 

「極楽か」

 

「まだ分かりません。ですが、調べる必要はあります」

 

楊景略が言った。

 

「兵を出す」

 

「大勢で囲めば、施しを禁じる軍に見えます」

 

趙活はすぐに言った。

 

楊景略の目が鋭くなる。

 

「では、放置しろと」

 

「いいえ。先に医者と捕役を入れます」

 

「お前が行くのか」

 

葉雲舟が口を開きかけた。

 

「俺は行きません」

 

趙活が先に答えた。

 

葉雲舟は口を閉じる。

 

丹霞子が一度だけ頷いた。

 

「葉師弟に行ってもらいます。軍医の補佐としてです。唐門から薬に明るい者を一人。軍からは軍医と記録役、それに護衛を少数。先ほど戻った捕役に案内してもらいます」

 

趙活は一度、葉雲舟を見た。

 

「葉師弟は點蒼で剣を修め、東西武林の戦も抜けています。医者としては修業中ですが、自分と患者を守るだけの武功はあります。護衛の足を引くことはありません」

 

趙活は楊景略を見た。

 

「診察と処置は軍医に従います。ただ、江湖の毒や唐門、千灯楼の秘薬となれば話は別です。葉師弟は唐門の薬棚の匂いを知っている。もう一人、薬材の見分けに慣れた唐門弟子を添えれば、軍医の目を補えます」

 

楊景略は軍医へ目を向けた。

 

「どうだ」

 

軍医は少し考え、答えた。

 

「異存ありません。毒であるなら、見慣れぬ者の知恵も借りるべきでしょう」

 

楊景略は頷いた。

 

「よい。陸紹文、護衛を五名つけろ。施しを止めるな。まず粥を調べ、食べた者を診ろ」

 

「はい」

 

葉雲舟は趙活を見た。

 

「僕ですか」

 

「医者の手伝いとして。剣客としてじゃない」

 

「分かりました」

 

返事は短かった。

 

頼もしい。

 

「趙兄」

 

葉雲舟が言った。

 

「診立ては軍医に従います。ですが、患者に刃が向けば、僕も剣を抜きます」

 

「分かってる」

 

葉雲舟はわずかに間を置いた。

 

「點蒼で学んだ剣を」

 

趙活は、先ほどの若い剣客の言葉を思い出した。

 

點蒼の技を、唐門の名の下に振るうのですか。

 

その問いは、まだ葉雲舟の中に残っている。

 

「誰の名で振るうかは、葉兄が決めればいい」

 

趙活は言った。

 

「今は、民を害する者の反対側に立てば、それで十分だ」

 

葉雲舟は少しだけ目を伏せ、それから頷いた。

 

「はい」

 

高和が横から言った。

 

「私も行こう」

 

「薬を見るのか」

 

「薬は見られない。だが、札と香なら多少は分かる」

 

高和の目は笑っていなかった。

 

「極楽教徒が施しだけで人を集めるとは限らない。祟りを説き、夢を救いと呼び、得体の知れない札を持たせるかもしれない。薬は医者に任せる。私は、その周りを見る」

 

趙活は頷いた。

 

「民を怯えさせずに調べられますか」

 

「祟りを恐れる者に、まず人の仕業を疑えと言うのも、道士の仕事だ」

 

青城の道士は内功が深く、耳が利く。高和は薬を見分けられなくとも、施し手の言葉を聞き、その腹を探る役には向いている。

 

「分かりました。ただし、怪しいというだけで斬らないでください」

 

「民を害していると分かるまでは抜かない」

 

「分かった後も、できれば捕らえてください」

 

高和はわずかに間を置いた。

 

「努めよう」

 

葉雲舟と高和を加えた一隊が、捕役の案内で茶屋跡へ向かう。

 

水汲み場。

 

茶屋跡。

 

農地から軍陣側へ出た軽騎。

 

軍陣の外側へ、三つの線が伸びていく。

 

趙活はその中心に座ったまま、動けない体で地図を見ていた。

 

昼を過ぎると、風がさらに乾いた。

 

遠くで狼煙が上がる。

 

一段。

 

発見。

 

続いて、二段。

 

接敵。

 

軍の兵がざわめく。

 

楊景略が立ち上がる。

 

だが主陣は動かさない。

 

彼は堪えている。

 

堅い男だ。

 

趙活はその堅さを、少しだけ信じた。

 

やがて、民道のほうから丐幇の小者が走ってきた。

 

泥だらけで、息が上がっている。軍兵に止められると、懐から汚れた紙片を出した。

 

「唐門の趙活へ。花二爺から返事だ」

 

宋悲が前へ出る。

 

「ここから先は軍の境だ。私が改める」

 

小者は一瞬ためらったが、趙活が頷くと紙片を渡した。

 

宋悲は外側を確かめ、趙活へ回す。

 

「妙な仕掛けはない。受け取れ」

 

趙活は竹片へ目を通した。

 

花二爺からの返事は短い。

 

近くの者へ声を回す。見聞きしたことは、そちらへ届けさせる。

 

趙活が顔を上げると、小者が続けた。

 

「それと、茶屋跡から急ぎの報せだ……です。粥を食べて眠った者が三人。葉少侠が診ています。高和道士が施し手の男を押さえました。ただ、連れの女が一人、川下の灌木へ逃げた」

 

小者はそこで宋悲の顔を見て、慌てて付け足した。

 

「……逃げました」

 

「葉兄は」

 

「追ってません。眠った三人から離れてないそうです」

 

正しい。

 

趙活は頷いた。

 

「高和道士は」

 

小者は、わずかに言いよどんだ。

 

「押さえた男に、妙なことを言われたそうです」

 

「何と」

 

「あの顔の男に従うとは、目が腐っているのか、と」

 

趙活は黙った。

 

龍湘の指が、剣の鍔へ触れた。

 

丹霞子は顔疆を見た。顔疆は何も言わなかったが、眉間の皺が深くなっている。

 

楊景略だけが、変わらぬ声で問うた。

 

「高和道士は、その男を殺したか」

 

「いいえ。生かして押さえてます」

 

趙活は小さく息を吐いた。

 

「よく堪えてくれた」

 

龍湘の目はまだ冷たい。

 

「ねえ弟。逃げた女は追うの?」

 

趙活は地図を見る。

 

茶屋跡から川下へ。

 

灌木へ入ったのなら、足跡を隠すためか、その先に合流する相手がいる。だが報せがここへ届いた時点で、すでに間は開いている。

 

大勢を出せば、残った跡まで潰してしまう。

 

「追い詰めません。跡だけ追います」

 

趙活は近くに控えていた唐門の古参弟子を見た。

 

「師兄、もう一人連れて川下へ。逃げた女の跡を見てください。追い詰める必要はありません」

 

古参弟子は短く頷いた。

 

「どこまで追う」

 

「跡が切れたら、そこで戻ってください」

 

「合流先が見えても踏み込まん。数と場所だけ持ち帰る」

 

「お願いします」

 

趙活は楊景略へ向き直った。

 

「楊将軍。川下から村道へ戻る口を、軍に見てもらえますか。追わせる必要はありません。通った者の数と向きだけ分かれば十分です」

 

楊景略は陸紹文を見る。

 

「四人出せ。道を塞ぐな。姿を見せず、戻る足だけ数えろ」

 

「承知しました」

 

陸紹文が兵を選ぶ。

 

軍兵四人が川下へ走り、唐門の古参弟子二人は、それより先に姿を消した。

 

命令が通る。

 

先ほどより、わずかに早い。

 

趙活の言葉が軍の動きへ混じり始めている。

 

信用が増えるほど、外した時の反動も大きくなる。

 

だから、外せない。

 

しばらくして、川下へ出した兵から合図が上がった。

 

一度。

 

人影を発見。

 

続いて、二度。

 

一人ではない。

 

陸紹文が目を細めた。

 

「逃げた女のほかに、もう一人いる」

 

川沿いの灌木が揺れた。

 

小さな影が村道へ飛び出す。

 

子供に見えた。

 

だが違う。布を被り、背を丸めた小柄な男だ。背には籠がある。

 

「湘姉」

 

龍湘は、趙活が言い終える前に動いた。

 

抜刀はしていない。

 

その足は剣の抜き道に似ていた。見る者が進路を読んだ時には、すでにその線から消えている。

 

小柄な男が籠を投げた。

 

蓋が外れ、黒い粉が風へ舞う。

 

「風上へ退け! 口と鼻を覆え!」

 

趙活が叫ぶ。

 

龍湘は粉へ入らず、横へ流れた。

 

剣鞘が男の手首を打つ。男の体が半ば回ったところへ、宋悲の縄が飛んだ。

 

捕役の縄は華やかではない。

 

だが、逃げる足を正確に取った。

 

男が倒れる。

 

龍湘はその傍らに立った。剣はまだ抜いていない。

 

陸紹文が兵を止める。

 

「近づくな! 粉が落ちるまで待て!」

 

地面へ落ちた粉は黒い。

 

毒か、香か。それとも、別の何かか。

 

趙活にも、遠目だけでは分からない。

 

「唐門の者が戻るまで触らせないでください。風下を空けて、吸った者がいないか確かめてください」

 

「分からないのか」

 

楊景略が問う。

 

「分からないものを、分かったふりはできません」

 

楊景略は即座に陸紹文を見る。

 

「聞いたとおりにしろ」

 

「はい」

 

宋悲が縄を締める。

 

小柄な男は、地面へ頬を押しつけられながら笑っていた。

 

影の布が剥がされる。

 

小柄な男だった。

 

顔は若い。だが、目だけが妙に冷えている。

 

極楽教徒か、千灯楼の手の者か。今はまだ分からない。

 

男の喉が動いた。

 

「飲み込ませるな」

 

宋悲が顎を押さえる。

 

石標に残っていた唐門弟子が駆け寄り、細い木片を歯の間へ差し込んだ。口内を改めると、奥歯の脇から蝋で封じた小さな包みが出てきた。

 

「毒か」

 

「まだ分かりません。ですが、飲ませないほうがいい」

 

楊景略は、その一連の動きを見ていた。

 

軍兵だけでは、粉へ近づいていたかもしれない。

 

武林の足だけでは、宋悲の縄ほど確実に捕らえられなかったかもしれない。

 

捕らえるだけならできても、その口に隠されたものまでは見落としたかもしれない。

 

それぞれに、見えるものが違う。

 

その目が重なって、ようやく一人を生かして捕らえた。

 

趙活はそれを見て、ようやく少し息ができた。

 

「楊将軍」

 

彼は言った。

 

「これが、軍陣の外です」

 

楊景略は、倒れた男と黒い粉を見た。

 

しばらく、何も言わない。

 

やがて、短く命じた。

 

「記録しろ」

 

記録役が筆を取る。

 

「軍陣外、川下の村道脇にて不審者一名を捕縛。黒粉を散布。御前捕役および武林側の協力により、現時点で死傷なし」

 

被害なし。

 

その四文字が書かれた時、趙活は目を閉じた。

 

昨日は書けなかった言葉だ。

 

今日は書けた。

 

それだけで、勝ちだった。

 

小さな勝ちである。

 

だが小さな勝ちを積まなければ、大きな戦は必ず崩れる。

 

昼下がり、葉雲舟たちが戻った。

 

茶屋跡の粥には、弱い眠り薬が混ぜられていた。

 

直ちに命を害する量ではない。だが疲れた者が繰り返し口にすれば、眠気と酩酊で判断が鈍る。そこへ施し手の言葉を重ねれば、人を誘導することも難しくない。

 

軍医の手は確かだった。脈を取り、舌を見て、体温と呼吸を確かめる。その動きに迷いはない。

 

葉雲舟は問診を引き受け、眠った者が粥を口にした時刻と量、それ以前に飲んだ薬の有無を聞き取った。診立ては軍医に任せ、自分は必要な事実を揃える。医者としての実務はまだ見習いでも、何を勝手に決めてはならないかは分かっていた。

 

ただ、粥の底に残った甘い苦みと、焦げた草のような残り香に最初に眉を動かしたのは、唐門の側だった。

 

軍医は一般の毒と薬なら見分けられる。だが、江湖の暗い流れに出回る秘薬となれば、軍の薬箱にも書物にもないものがある。

 

「似たものを見たことがあるか」

 

葉雲舟は少し考え、首を横に振った。

 

「同じものは知りません。ただ、この甘い苦みは唐門で扱う鎮静薬に似ています。殺す量ではありません。眠らせ、動きを鈍らせるためのものだと思います」

 

薬に詳しい唐門弟子も、その見立てに異を唱えなかった。

 

軍医はそれを聞いたうえで処置を決めた。

 

葉雲舟は指示に従って水を含ませ、腹を冷やさぬよう布を当てる。その横で、脈を見る位置や、意識の浅い者へ水を飲ませる角度を目で追った。

 

軍医は一度だけ、葉雲舟の手首の取り方を直した。

 

高和は施し手の男を捕らえた。

 

男は口内に毒を仕込んでいたが、高和が顎を打ち、葉雲舟がすぐに押さえたため、飲み込ませずに済んだ。

 

逃げた女は捕まらなかった。

 

だが、その逃走に呼応して動いた小柄な男を、石標の近くで生け捕りにした。

 

二人が同じ筋に属する証拠は、まだない。

 

それでも、線は繋がりかけている。

 

唐惟元の尋問が、また必要になる。

 

葉雲舟は戻るなり、趙活の顔を見た。

 

「趙兄」

 

「俺は動いていない」

 

「動かなくても、顔色は悪くなります」

 

葉雲舟は薬包を開き、傍らの湯で溶いた。

 

「飲んでください」

 

「今か」

 

「今です」

 

趙活は薬碗を見た。

 

龍湘が傍らに立っている。葉雲舟も退く気はない。

 

抵抗するだけ無駄だった。

 

趙活は薬碗を受け取り、一息に飲んだ。

 

苦い。

 

葉雲舟は趙活の脈を取り、しばらく指を離さなかった。

 

「しばらく、そのままでいてください」

 

「もともと動くなと言われている」

 

「なら、守ってください」

 

趙活は答えず、薬碗を返した。

 

その様子を見ていた楊景略が、陸紹文へ低く言った。

 

「あの男は、周囲に止める者がいるうちは無理を抑えられるらしい」

 

「止める者がいなければ、傷を抱えたまま前へ出るのでしょう」

 

「指揮を執る者の振る舞いではない」

 

「ですが、そういう男だから従う者もいるのかもしれません」

 

楊景略は答えなかった。

 

だが、その目は先ほどより趙活を一人の武人ではなく、人を率いる者として見ていた。

 

夕刻、三つの報告が揃った。

 

農地から出た西夏の軽騎は、宋軍第三哨と小競り合いになった後、深追いせず引いた。こちらの反応を見る動きだった。死者なし、負傷者三名。

 

水汲み場では、川辺の草から油が見つかった。火はつかなかった。清虛子と奪魄門の者が川下まで跡を追ったが、村道を越える前に引き返した。唐衫たちは水汲み場を守り、異常のない桶と縄まで記録して戻った。

 

茶屋跡では、眠り薬を混ぜた粥が止められた。口にした三人は命に別状なし。施し手の男は生きて捕らえた。逃げた女の行方は分からない。その後、川下の村道脇で黒粉を撒いた男を一人捕らえたが、女との繋がりはまだ証明されていなかった。

 

楊景略は、それらを一つずつ記録させた。

 

記録は、戦場の骨である。

 

骨がなければ、人の働きは噂の中で形を失う。

 

趙活はその筆先を見て、朝より少しだけ楊景略という男を信じた。

 

好きになる必要も、親しくなる必要もない。

 

この男は、感情に任せて事実を消さない。武林が働いたことも、軍が警戒したことも、崆峒が疑われたことも、極楽教徒が民の粥を使ったことも、紙へ落とす。

 

紙へ落ちれば、次に使える。

 

「趙総帥」

 

楊景略が言った。

 

今度の総帥は、さきほどより少しだけ違う響きだった。

 

「明日より、軍陣外三里を武林との協働区域とする」

 

場が静かになる。

 

「軍令は軍に属す。武林の者は許可なく軍陣へ入らぬ。協働区域では、民の避難、水汲み場、茶屋、村道、祠、倉の監視を認める。捕らえた者は、軍と宋総指揮使の双方で記録する。毒、香、暗器の類は唐門が調べてよい。ただし、必ず軍か捕役の者を立ち会わせろ」

 

趙活は輿の上で礼をした。

 

「承知しました」

 

「まだ信用したわけではない」

 

「はい」

 

「使うだけだ」

 

「それで十分です」

 

趙活が答えると、楊景略は少しだけ眉を寄せた。

 

「本当にそれでよいのか」

 

「はい。最初から信じろと言われても、将軍も困るでしょう」

 

「困るな」

 

「なら、困らない形からで」

 

楊景略は鼻で息を吐いた。

 

笑ったのか、呆れたのかは分からない。

 

だが、その場の兵たちは分かった。

 

昨日より、石標の距離が少し縮んだ。

 

まだ石標は越えていない。

 

だが、石標の手前で言葉は通った。

 

日が沈む頃、空は赤くなった。

 

西夏の砂を含んだ風が、その赤を少し濁らせる。遠い山際には、狼煙の残りが細く流れていた。

 

祠の前では、昨日からの二人に、今日捕らえた二人を加えた四人の捕虜が、間を空けて縛られている。唐惟元は宋悲の捕役と軍の記録役を立ち会わせ、尋問の準備をしていた。

 

唐衫は水汲み場から戻り、腕の傷を巻き直している。清虛子と碧波子は、川下で途切れた足跡について奪魄門の者と話していた。

 

葉雲舟は、眠り薬を口にした者の様子を軍医と確かめている。

 

高和は、捕らえた施し手を見ていた。

 

碧波子が声を落として言う。

 

「高和、隠せてなかったぞ」

 

高和は答えなかった。

 

粥を施すふりをして、疲れた民の判断を奪う。そういう者を前にして、彼は怒りを隠しきれなかった。

 

それでも斬らずに捕らえた。

 

清虛子も、碧波子も、その意味を分かっていた。

 

だが、おそらくこれで終わりではない。

 

自分たちでさえ、腹の立つことばかりだ。

 

この先も同じものを見せられて、高和がどこまで堪えられるか。

 

二人は、少しだけ気にしていた。

 

龍湘は、捕役に囲まれた男を一度だけ見た。

 

生きて帰ろうとする者の目ではなかった。

 

嫌な目だと思った。

 

斬られることまで、誰かの策に入っているように見える。

 

だが、それを考えるのは自分の役目ではない。

 

龍湘は趙活の傍らへ戻り、石標の外へ目を向けた。

 

夜が来る前に、宋悲が趙活の横へ来た。

 

「趙大侠」

 

「宋悲殿からそう呼ばれると、背中がむず痒くなります」

 

「早く慣れるといい」

 

「難しいですね」

 

宋悲は少し笑った。

 

「今日、まず一つ勝ったようだな」

 

「小さい勝ちです」

 

「小さい勝ちを軽んじる者は、大きい負けに気づかん」

 

「喜ぶべきなのでしょうか」

 

「喜べるうちに喜んでおけ。気を張り続けるだけでは、身が持たん」

 

趙活は地図を見たまま、少し黙った。

 

「そうしてみます」

 

「それがいい」

 

宋悲は、遠くの山際へ目を向けた。

 

「もっとも、喜んでいられる時間は長くなさそうだがな」

 

西夏軍は、まだ本隊を見せていない。

 

極楽教徒は民の水と粥へ手を伸ばし、千灯楼は崆峒の名を使って軍と武林の間へ疑いを入れた。

 

敵の全体は、まだ見えない。

 

それでも、今日一日で分かったことがある。

 

軍と武林は、互いを信用しきれなくても動ける。

 

見ているものが違うからこそ、重ねれば防げる被害もある。

 

希望と呼ぶには頼りない。

 

だが、次の一日へ持ち越すには十分だった。

 

その十分を失わずに翌日へ渡すには、見聞きしたものを人の記憶だけに残してはならない。

 

日が沈み始める頃、石標での役目はいったん終わった。

 

宋悲との話が終わった後、趙活の輿は、軍陣外の祠へ戻された。

 

その日の報告を散らしたままにしないため、祠の軒下には低い机が三つ並べられた。

 

一つは軍の記録。

 

一つは捕らえた者の口供。

 

もう一つは、軍陣外で起きたことを武林側からまとめるための机だった。

 

軍の机には陸紹文の配下が座り、口供の机には宋悲の捕役がついた。唐門の古参弟子が、その少し後ろに控える。

 

最後の机には、唐惟元が座らされていた。

 

趙活の輿は、その机の斜め後ろへ置かれている。三つの机を見渡せるが、筆を執る者たちの邪魔にはならない位置だった。

 

唐惟元は、ひどく不満そうな顔をしていた。

 

「師弟」

 

「何だ、四師兄」

 

「これ、僕が一番損する役じゃないっスか」

 

「四師兄が一番その辺細かいじゃないか」

 

「最近の君、人使いが荒いっスよ」

 

「一人じゃ回らないんだ」

 

「分かってるっス。だから損な役なんスよ」

 

言いながら、唐惟元の筆は速い。

 

彼は商売の帳簿をつける時と同じ手つきで、人の名と物の名と場所の名を分けた。誰が何を見たか。誰が何を触ったか。どの薬包を誰が開けたか。どの捕虜の縄を誰が結び、誰が見張ったか。毒と香を扱う唐門にとって、証拠は刃より重い。証拠を握れば人を動かせる。証拠を握られれば、唐門ほど危うい門派もない。

 

唐門だけなら、こんな机を三つも並べる必要はなかったかもしれない。

 

捕らえた者を奥へ運び、毒を調べ、知っていることを吐かせる。得られたものを門内で確かめ、それで済ませることもできた。

 

二師兄なら、もっと早く、もっと深く聞き出しただろう。

 

だが今は、それだけでは足りない。

 

軍がいる。

 

民がいる。

 

宋悲がいる。

 

そして趙活は、唐門の弟子であると同時に、武林の臨時総帥としてここにいる。

 

唐門らしさを失ってはならない。だが唐門らしさだけで動けば、ここに来た意味がなくなる。毒を扱う手を見せながら、毒を盛ったのではないと証明する。暗器を知る目を使いながら、暗殺を仕掛けたのではないと示す。その面倒臭さこそ、今の趙活が背負うものだった。

 

眠り薬を口にした者たちの様子を確かめ終え、葉雲舟が趙活の輿のそばへ戻ってきた。

 

手には、軍医に書いてもらった短い記録を持っている。

 

「三人とも目を覚ましました。今のところ、脈にも呼吸にも異常はありません」

 

「分かった。四師兄の机へ回してくれ」

 

葉雲舟は記録を唐惟元へ渡し、再び趙活のそばへ戻った。

 

「葉兄、お疲れ様。唐門にいると、面倒なことばかりだろ」

 

「趙兄に頼まれるなら、どんな面倒だってこなしますよ」

 

「それはそれで怖いな」

 

趙活は頬を掻いて苦笑した。

 

葉雲舟は少しだけ笑い、避難民の方へ戻っていった。

 

捕虜の一人が、口封じを解かれた。

 

男は笑った。

 

笑い声は乾いていた。西夏の砂を含んだ風よりも、なお乾いている。

 

「聞いても無駄だ」

 

宋悲の捕役が、表情を変えずに筆を置いた。

 

「名は」

 

「無い」

 

「生まれは」

 

「無い」

 

「所属は」

 

「無い」

 

捕役は一度も怒鳴らなかった。

 

その静けさに、男の笑みが少しだけ薄くなる。怒鳴られれば、笑い返せる。殴られれば、痛みを教義へ変えられる。だが、名を聞かれ、紙に空白を置かれると、男は自分がまだ何者でもないことを突きつけられる。

 

唐惟元が、武林側の机からその様子を見ていた。

 

その目は笑っていない。

 

「四師兄。どう見る」

 

「長引かせると、自分の物語に酔う手合いっスね」

 

「どう崩す」

 

「物語にさせないことっス」

 

唐惟元は男ではなく、捕役の置いた紙を見た。

 

「年を聞く。昨日どこで飯を食ったか聞く。草鞋をどこで替え、誰から粥と油を受け取ったか聞く。祈りの言葉じゃなく、歩いた道を吐かせる」

 

「それで話すか」

 

「人は英雄のつもりなら死ねるっス。でも、昨日食った粥の値段を聞かれると、案外ただの人間に戻る」

 

それは商人の目だった。

 

金を追う者の目であり、人がどこで腹を空かせ、どこで迷い、何と引き換えに自分を差し出すかを知る者の目だった。

 

「捕役へ伝えてくれ」

 

「また損な役っスね」

 

そう言いながら、唐惟元は筆を置いて立った。

 

捕役の横へ行き、低い声で二、三言を交わす。捕役は一度だけ眉を寄せたが、人の口を割ることなら唐門にも理があると思ったのか、すぐに頷いた。

 

机の上の問いが変わる。

 

所属ではなく、飯。

 

教義ではなく、道。

 

大義ではなく、草鞋を替えた場所。

 

男の笑みが、さらに薄くなった。

 

趙活はその様子を見て、唐門はやはり唐門だと思った。

 

丹霞子が改めて趙活の前へ来たのは、その少し後だった。

 

顔疆を伴っている。二人とも、もう川筋上手へ戻る支度を整えていた。

 

顔疆は趙活を見ると、わずかに顎を上げた。

 

これが噂の眉山の英雄かと、確かめるような目だった。こうして言葉の届く距離で向き合うのは初めてに近い。礼としては荒いが、敵意ではない。

 

丹霞子は、趙活の前で足を止めた。

 

「趙小侠」

 

「丹霞子殿」

 

「明日から、うちの名はさらに疑われるな」

 

「はい」

 

顔疆が眉を吊り上げた。

 

だが丹霞子は怒らない。趙活が取り繕わなかったからだ。

 

「疑われたまま動けというのだから、難しい話だ」

 

「申し訳ありません」

 

「謝らなくてよい。おぬしがいなければ、崆峒は疑われたまま、軍と背を預け合う道もなかった」

 

丹霞子は地図を見た。

 

軍の地図である。山道、村、川筋、水汲み場、倉、古い祠、細い民道が簡略に描かれている。

 

「ここだ」

 

指が、川筋から少し離れた窪地を叩く。

 

「敵がもう一度こちらの目を散らすなら、ここへ火を入れる。火そのものではない。煙を使う。軍の視界を切り、民を動かし、武林の者を走らせる。その間に水汲み場か馬糧を狙う」

 

趙活も、似た場所を見ていた。

 

「人を置きますか」

 

「近くには置け。だが、火を待っていると悟らせるな。顔疆」

 

顔疆が地図を覗き込む。

 

「お任せください」

 

丹霞子は頷き、地図から手を離した。

 

伝えるべきことは、それで終わりだった。

 

それぞれの持ち場へ出ていた青城の四人が祠へ揃ったのは、机が並べられてしばらく後だった。

 

碧波子が先に入ってきて、開口一番に言った。

 

「腹減った」

 

清虛子がすぐに眉をひそめる。

 

「第一声がそれか」

 

「腹が減ったものは腹が減ったんだよ」

 

裴紅臘は抱えていた記録を机へ置き、上に積まれた紙を見た。

 

「記録、増えたな」

 

「増えた」

 

趙活が答える。

 

高和は肩に包帯を巻いていた。毒の痺れは抜けたらしいが、動きは少しだけ鈍い。顔だけは相変わらず妙に涼しい。

 

「趙活」

 

「何だ、高和」

 

「明日も俺を使うなら、肩を見てくれ」

 

「葉兄に見てもらえ」

 

「お前がいい」

 

碧波子がむせた。

 

清虛子が目を閉じた。

 

裴紅臘が本を閉じた。

 

趙活は額を押さえた。

 

「高和、その言い方はやめろ」

 

「何がだ」

 

「分かってて言うな。……仕方ないな。包帯を少し緩めろ」

 

高和は素直に肩の布を緩めた。

 

趙活は身を乗り出し、包帯の上からではなく、肩の端と鎖骨の下、腕を上げる時に引きつる筋の具合だけを確かめた。じっくり診る必要はない。毒の痺れが残っているか、骨に響く痛みがあるか、明日剣を振れるか。それだけ分かればよかった。

 

「痺れは」

 

「もうほとんどない」

 

「上げてみろ」

 

高和が腕を上げる。途中で少しだけ眉が動いた。

 

「痛むな」

 

「少しだ」

 

「嘘をつくな。肩で止めるな。明日は受けるより、足で外せ。剣を振るなら小さく振れ」

 

「俺を後ろへ下げるのか」

 

「下げない。だから無駄に壊すなと言ってる」

 

高和は少し笑った。

 

「分かった。お前の見立てに従おう」

 

「珍しく素直だな」

 

「無辜の民を守る前に、肩を壊すわけにはいかないからな」

 

「分かってるならいい」

 

戦の初日の夜である。

 

死者も出た。捕虜もいる。民は怯え、軍は疑い、武林はまだまとまりきらない。それでも青城の四人がこうして軽口を叩くと、趙活の胸の奥に青城の山の風が少しだけ戻る。療養の日々。痛みと屈辱と、雲裳の悪戯。読んだ本。盗まれた菓子。道士たちの遠慮のない声。

 

あの頃も、趙活は必死だった。

 

けれど今よりは、まだふざける隙があったのかもしれない。

 

碧波子が机を覗き込んだ。

 

「で、明日は何すりゃいい」

 

「まだ決めきってない」

 

「珍しいな」

 

「戦場は俺の頭だけで決める場所じゃない」

 

裴紅臘が頷いた。

 

「丹霞子殿の見立てを入れるのか」

 

「入れる。楊景略の軍の都合も入れる。宋悲殿の捕役の線も入れる。青城の四人には、民の水と道を見る役を続けてもらうかもしれない」

 

「地味だな」

 

碧波子が言う。

 

清虛子が横から言った。

 

「派手に死ぬよりいい」

 

碧波子は黙った。

 

その一言で、場の空気が少し変わる。

 

趙活は、清虛子を見た。清虛子はいつも渋い顔をしている。碧波子に小言を言い、裴紅臘の読書に呆れ、高和の妙な視線に眉をひそめる。だが真面目一辺倒ではない。必要ならふざけにも乗り、必要ならその場を締める。四人の中で、場の傾きを最初に読むのは彼だった。

 

今日も、彼は水辺に残された油と足跡を見落とさなかった。

 

派手ではない。

 

だが、派手な勝利より尊い時がある。

 

「頼む」

 

趙活が言うと、四人はそれぞれ違う顔をした。

 

碧波子は鼻を鳴らし、清虛子は頷き、裴紅臘は少しだけ目を細め、高和はまた余計なことを言いそうな顔をした。

 

しばらく、とりとめのない話が続いた。

 

青城にいた頃と変わらない声だった。

 

その声が、祠の暗さを少しだけ払った。

 

唐衫は、その輪には入らなかった。

 

彼は少し離れた場所で、若弟子たちを集めていた。水汲み場で軽傷を負った腕には布が巻かれている。痛むはずだが、顔には出さない。

 

真面目な男である。顔もよく、才能もあり、度胸もある。手を汚すことも厭わない。

 

ただ、唐門に対してだけは、今も自分を証明しようとするところがあった。

 

趙活は輿の上から、その姿を見た。

 

「唐衫師弟。若弟子たちも連れて、こちらへ来てくれ」

 

唐衫はすぐに若弟子たちを伴い、趙活の前へ来た。

 

「唐衫」

 

「はい」

 

「今日、よく踏みとどまった」

 

唐衫の目が少しだけ揺れた。

 

褒められるとは思っていなかったのだろう。

 

「俺は、まだ」

 

「まだ、何だ」

 

「もっと早く捕れたかもしれません」

 

「捕れたかもしれないな」

 

若弟子たちが息を呑む。

 

趙活は続けた。

 

「でも、早く捕ろうとして死んでいたかもしれない。敵を殺して、証拠を潰していたかもしれない。若弟子を置き去りにしていたかもしれない。今日のお前の役は、誰より早く走ることじゃない。後ろを連れて戻ることだ」

 

唐衫は唇を結んだ。

 

彼には、唐門の役に立ったと示したい気持ちがある。

 

唐門に憧れながら、騙されてその門を襲う側へ立った。その過去だけは、今も消えない。だから唐門の名で働く時ほど、功を焦る。

 

趙活は、その気持ちを責めなかった。

 

焦りを咎めるだけでは、唐衫は黙って耐え、次にはもっと無理をするだろう。

 

「功を立てるなとは言わない」

 

趙活は言った。

 

「でも、功を立てるなら、唐門の功にしろ。お前一人が輝く功じゃない。後ろの若いのが生きて戻り、軍の記録に唐門が民を守ったと残り、捕らえた敵の口から出た手掛かりが、明日の被害を止める。そういう功を立てろ」

 

唐衫の喉が動いた。

 

「承知しました」

 

趙活は彼らを見回した。

 

若弟子たちの背が、少しだけ伸びる。

 

「明日からは、今日よりきつくなる。怖ければ、怖いと言ってくれ。分からなければ、分からないと言ってほしい。勝手に前へ出ないでくれ」

 

若弟子の一人が、握っていた拳をほどいた。

 

「生きて戻ってくれ。それが一番だ」

 

唐衫が、もう一度礼をした。

 

「肝に銘じます」

 

「頼む」

 

唐衫は若弟子たちを伴い、下がろうとした。

 

その時、若弟子の一人が足を止めた。

 

「趙師兄」

 

趙活は輿の上から顔を上げる。

 

「何だ」

 

「明日も、生きて戻ります」

 

趙活は少しだけ目を細めた。

 

「それが一番いい」

 

大仰な言葉ではない。

 

だが、若弟子は深く頷いた。

 

唐衫たちが下がると、祠の軒下には報告をまとめる者だけが残った。

 

日中に出た報告を整理し、明日の持ち場を詰める作業は、月が出るまで続いた。

 

楊景略はすでに本陣へ戻っていたが、軍と武林の報告を突き合わせるため、陸紹文を連絡役として祠へ遣わしていた。

 

武林の言葉は曖昧だ。

 

気配。殺気。妙な香り。足の置き方。呼吸の乱れ。

 

軍の記録には残しづらい。だが、残しづらいからと捨てれば、極楽教徒の手を見落とす。

 

「殺気では、記録に残せません」

 

陸紹文が言う。

 

「では、見張りへ斬りかかる構えを見せた」

 

「何をもって、そう判断したのです」

 

「右の袖だけが重く垂れていた。左足は退く向きではなく、前へ踏み込む向きだった。呼吸が短く、目は井戸ではなく、見張りの喉を追っていた」

 

陸紹文の筆が止まった。

 

「最初から、そう言ってください」

 

「武林では、それを殺気と言うんです」

 

「軍では、分けて記します」

 

「面倒ですね」

 

「お互い様です」

 

趙活は少し笑った。

 

陸紹文は何も返さず、筆を動かした。

 

この男は、まだ趙活を信じていない。

 

だが、趙活の言葉を使える形へ変える気はある。

 

今夜は、それで十分だった。

 

捕虜の一人が、ようやく口を開いたのは、月が雲へ隠れた頃だった。

 

口にしたのは、教団の名でも、仲間の居場所でもない。

 

「明日の朝、牛が鳴く」

 

それだけだった。

 

捕役が聞き返しても、男はもう何も言わなかった。

 

宋悲は、その言葉を趙活と陸紹文へ伝えた。

 

「牛か」

 

趙活は地図を見た。

 

本当に牛を使うのかもしれない。牛車か、家畜を放って騒ぎを起こすのか。あるいは、ただこちらの目を牛へ向けるための符丁かもしれない。

 

今の一言だけでは、決められない。

 

「陸副将。明朝、軍の牛と牛車を改めてもらえますか。数だけではなく、怪我や餌の食べ方も」

 

「民の牛はどうする」

 

「村の者に頼みます。軍兵が一軒ずつ回れば、余計な騒ぎになります」

 

陸紹文は頷き、記録役へ命じた。

 

「武林側にも伝えます。明朝、牛の声がしても、すぐには追わない。声へ目を向けさせ、別の場所へ手を入れる可能性があります」

 

唐惟元が、そのまま記録へ書き加えた。

 

「清虛子道士には、朝の風を見てもらいます。火や煙と合わせるかもしれません」

 

「伝えとくっス」

 

唐惟元は、牛、風向き、追跡禁止、と並べて記した。

 

符丁の意味は、まだ分からない。

 

分からないものを、分かったつもりで埋めるほうが危うい。

 

趙活は地図の余白に、牛、とだけ記させた。

 

輿に座ったまま、一息つく。

 

外弟子の頃にしていた雑用とは違う。人と人を繋ぎ、散らばった報せを集め、人を動かして事を収める。

 

疲れる役目だった。

 

日々、掌門や三師兄がこうしたことを引き受けていたのかと思うと、恐れ入るばかりである。

 

雲裳が今の自分を見たら、何と言うだろう。

 

お兄ちゃんには、全然似合わないわ。私に氷糖葫蘆を恭しく差し出しているほうがお似合いってことよ。

 

そんなところだろうか。

 

そう考えて、趙活は少し笑った。

 

だが、今日は水を守った。

 

粥に混ぜられた薬を止め、捕らえた者を生かしたまま、起きたことを紙へ残した。

 

小さな勝ちだった。

 

明日は、西夏の馬がさらに近づく。

 

極楽教徒は、もっと深く入り込む。

 

千灯楼も、今日捕らえた者たちを惜しみはしないだろう。

 

それでも、こちらには今日一日で繋いだ線がある。

 

趙活は目を閉じた。

 

祠の外で、夜番の兵が槍を立てる音がした。

 

そのさらに向こう。

 

農地の奥、山際の闇で、馬が一度だけ嘶いた。

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