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西夏戦役・広域概略図
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戦場周辺概略図
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### 四年目四月二十六日 朝 武林陣
夜明け前から、人が集まっていた。
趙活の指揮天幕の前には、平らな土がある。
昨日までは荷を置き、伝令が馬を下り、疲れた者が腰を下ろすだけの場所だった。今朝はそこを空け、門派ごとに立つ場所を決めてある。
青城。
峨嵋。
嵩山。
點蒼。
それぞれの先遣を率いる者が前へ出た。
その後ろには唐門の古参、中小門派の代表、名を持たない侠客たちがいる。全員を集めたわけではない。前哨、水場、村道、夜番を空にすることはできなかった。
集まったのは、名と責任を預かる者だけだった。
趙活は天幕の前に立っていた。
杖は、もう持ってきていない。
歩くことに支障はない。短く走る程度なら、もう傷にも響かなかった。立ち続けているだけなら、傷を悟られることもなくなった。
ただし、強く内力を巡らせ、急な切り返しを重ねれば話は別だった。護身の数手ならともかく、高手を相手に戦える体ではない。
龍湘が半歩後ろにいる。
葉雲舟は少し離れたところにいる。今朝は、立っているだけの趙活を止める理由もなかった。
宋悲が一枚の紙を持って進み出た。
今日は朝廷の役人として武林へ命じるために来たのではない。
州を越えて罪人を追い、江湖と官府の両方を知る捕役として、誰が何を言ったかを残すために立っている。
「始めよう」
声は大きくない。
それでも場は静まった。
宋悲は紙を見ずに言った。
「ここで決めるのは、武林盟主の位ではない。各派が誰へ膝を折るかでもない」
何人かの肩から、わずかに力が抜けた。
反対に、物足りなさそうな顔もあった。
「西夏軍が迫り、極楽教徒と千灯楼が人と名を乱している間、軍陣の外で武林の諸派を誰がまとめるか。その一点だ」
宋悲は趙活を見た。
「唐門趙活は、これまで臨時総帥を名乗って動いた。だが六大派の名代が揃う前のことだ。今朝、改めて諸派の意向を問う」
最初に前へ出たのは、懷素真人だった。
「青城の先遣は、すでに趙小友の差配を受けておる」
真人はゆっくりと一同を見た。
「軍の水を守り、民の道を分け、功を焦る者を前へ出さなんだ。わしらが来るより前から、必要な役を果たしておる。鄒博掌門がお着きになるまで、青城は趙小友を臨時総帥として認めよう」
続いて、峨嵋の狄傲が拱手した。
「峨嵋の先遣も異存はない。ただし峨嵋の門人をどう組むかは、峨嵋で決める」
「当然です」
趙活は答えた。
各派の中まで、自分の手足にするつもりはない。
趙活が決めるのは、どこを守り、何を止め、どこから先へ出ないかである。誰と誰を組ませるか、どの技を使わせるかは、その門を率いる者の仕事だった。
范破牙が腕を組んだまま言う。
「でもさ、うちの親父が来たら、また話が変わるかもよ」
「あんた、黙ってな」
狄傲がたしなめた。
「その時は、また話してください。今ここにいない人の返事まで、俺が取ることはできません」
「分かったよ。向掌門がお着きになったら、改めて話す」
嵩山の福韞が合掌した。
「嵩山も同意いたします。ただ、一つ確かめたい」
「何でしょう」
「臨時とは、いつまででしょうか」
もっともな問いだった。
敵がいる間。
本隊が来るまで。
戦が終わるまで。
どれも便利で、どれも曖昧だった。
趙活が答える前に、宋悲が紙へ目を落とした。
「文案では、各派本隊の代表が揃い、正式な軍議を開くまでとしている。ただし敵襲の最中に権限が切れることはない。戦闘が終わり、報告を揃えた時点で改めて問う」
福韞は微笑んだ。
「戦っている最中に、時が来たので総帥をやめます、と言われては困りますからね」
「俺も困ります」
「趙施主は逃げたがると聞きましたが」
「誰から聞いたんですか」
「唐門の方は、よくお話しになります」
唐惟元が目を逸らした。
場に小さな息が漏れた。
笑いになる一歩手前で、福韞は表情を戻した。
「嵩山は認めます」
點蒼の徐光輝と盛鴻年は、互いに一度だけ顔を見合わせた。
「我らは名代ではない」
徐光輝が言った。
「観雲客掌門と聴海生師叔が来るまで、先着した點蒼の者を預かっているだけだ」
「それでも、今ここにいる點蒼の返事はできる」
盛鴻年が続けた。
「外敵を前に、各々が勝手に剣を振るうよりはよい。ただし、唐門の傘下へ入るつもりはない。この戦に限り、點蒼の先着組は趙総帥の全体方針に従う」
中小門派の者たちが警戒していたのも、そこだった。趙活へ従うことと、唐門の下へ入ることは同じではない。
「それで構わない」
趙活は頷き、返した。
同じ敵へ、同じ時に剣を向けてくれればよい。
六大派のうち、過半の先遣が言葉を立てた。
唐門は初めから趙活の後ろにいる。
崆峒の名代は、この場にいない。
山道で戦っている。
丹霞子は以前、崆峒が疑われた折、自ら弁明する代わりに、その説明を趙活へ預けた。その一事を、勝手に崆峒全体の承認へ膨らませることはできない。
だが無かったことにもできなかった。
宋悲はそこを空白のまま紙へ残した。
「異論のある者は」
中小門派の並ぶ側から、手が上がった。
痩せた剣客だった。
「大派だけで決めるのか」
声には怒りより警戒があった。
「我らも人を出している。夜番に立ち、負傷者を運び、西夏兵とも刃を交えた。六大派が頷けば、あとは従えというのか」
趙活はその顔を覚えていた。
三日前、若い侠客が追撃線を越えそうになった時、襟を掴んで戻した男だ。
「違います」
趙活は言った。
「六大派の承認は、俺が唐門の名だけで皆を動かしているのではないと確かめるために要ります。ですが、皆の働きを六大派の名へ入れるつもりはありません」
「なら、我らの言葉はどこへ行く」
「各組から一人、毎朝の方針を伝えた後に残ってください。持ち場の不都合も、前へ出たい理由も、そこで聞きます。戦の最中は各組の責任者から伝令を出してください」
「聞くだけでは」
「採らない時は、理由を返します」
趙活は一度、並ぶ顔を見渡した。
「全部を採るとは言えません。皆が前へ出たいと言った日に、全員を出せば後ろが消えます。ですが、誰の言葉で決めたか分からない命令にはしません」
痩せた剣客は、すぐには座らなかった。
宋悲がその男へ言う。
「名を」
「記録するのか」
「異論を言った者としてではない。中小門派の取次を務めた者としてだ」
男は少し驚き、それから名を告げた。
宋悲は紙へ書かせた。
反対の声まで残す。
それでようやく、男は下がった。
その時、中小門派の列から別の男が立った。
粗い灰衣を着た、三十半ばほどの侠客だった。腰の刀は古く、肩には新しい包帯が巻かれている。名の通った門派の者ではない。
「拙者は眉山にいた」
男は言った。
「あの日、あの場所にいた者にとって、両公子の武功は今さら問うまでもないだろう」
場が静まる。
「拙者から見れば、お二人とも雲の上の強さだ。だが、武功が高いというだけなら、それを誇る高手はほかにもいる。重要なのは、そこではない」
男はぐるりと一同を見渡した。
「片や己らの信じる正義を、片や世の中のための大義を、一身に背負ってあの場所に立ち、英雄を論じた。どちらも、もはや立っていることさえおかしい傷だった。それでも二人は退かなかった」
眉山にいた者たちの間で、いくつかの拳が固く握られた。
「瑞笙公子が負けを認めた時、趙活公子は首を取らなかった。勝った名へしがみつきもせず、西夏から国を守れと言った。あの時、正義と大義は同じ方角を向いたのだ。……拙者は六大派の名で従うのではない。自分が見たものに従う」
灰衣の侠客は、趙活へ拱手した。
「拙者は、趙総帥の命を聞く」
別の場所から、短い声が上がった。
「俺も異存はない」
「眉山は見ていない。だが、この十日の働きは見た」
我が派も。
俺も。
私たちも。
ざわざわと、同意の声が重なっていった。
六大派が上から押さえた返事でもない。
中小門派と名のない侠客の側から、自分たちの理由で置かれた言葉だった。
趙活は灰衣の男へ礼を返した。
「お名前は」
「名は、勝ってからでいい」
媚びる様子はなかった。
ただ、見たものを曲げられたくないという顔だった。
それでも、まだ一人が納得しなかった。
「判断の話は分かった」
若い侠客が進み出る。
「だが総帥は、敵から狙われる。眉山で強かったことと、今も戦えることは別だ。傷が治っていないという話も聞いている」
龍湘の目が細くなった。
葉雲舟も口を開きかける。
趙活は先に言った。
「つまり、今の俺に命を預けられるか、それを確かめたいんですね。受けましょう」
「趙兄」
趙活は、葉雲舟にだけ聞こえる声で言った。
「内力比べはしない。まともには受けない。傷へも響かせないよ」
若い侠客は剣へ手を置いた。
「本当にいいのか」
「どうぞ」
互いに三歩離れる。
若い侠客の踏み込みは悪くなかった。
腰を回し、抜く勢いのまま横へ薙ぐと見せる。だが、刃が鞘を離れた途端、手首が返った。肘が上がり、横へ走るはずだった剣が肩口より高く持ち上がる。
次の一歩とともに、刃は斜めに落ちた。
横薙ぎを避けて退いた者を、そのまま追う袈裟斬りだった。試すための一手だが、寸前で止められるほど甘くもない。
趙活は退かなかった。
腰を落とし、斜め前へ半歩入る。
剣の勢いへ逆らわず、花をひねるほどの軽さで手首へ指を添え、落ちてくる力を殺さず外へ送る。刃が趙活の左脇を斜めに抜けた時には、若い侠客の肩は前へ流れ、腕は伸びきっていた。
空いた掌を肘へ落とせば、そこで折れる。
趙活はそうしなかった。
肩口へ掌を置き、踏み込んできた勢いのまま一歩先へ送る。
若い侠客は剣を持ったまま、地面へ膝をついた。
手首を導いていた指は、いつの間にかその首筋へ添えられていた。
拈花の一手だった。
強い内力も、軽巧も必要なかった。
答えは返された。
趙活は手を離し、一歩退いた。
若い侠客は首筋へ触れ、しばらく呆然としていたが、やがて剣を収め、深く拱手した。
「無礼をした」
「確かめる必要はありました」
見ていた者たちの間に、低いざわめきが広がった。
他に手は上がらなかった。
宋悲が文案を読み上げる。
外敵との戦が差し迫る間、武林各派は唐門趙活を臨時総帥として認める。
趙活は軍陣外における武林側の全体方針、担当区域、進退、伝令の規則を定める。
各派の内務と門人の編成は、それぞれの責任者が預かる。
捕縛、毒、暗器、民への被害は記録し、軍と捕役の立会いを受ける。
各派本隊の代表が揃った後、改めて軍議を開く。
一つずつ、確認された。
最後に宋悲が問う。
「趙活。受けるか」
逃げるなら、ここだった。
趙活は拱手した。
「受けます」
風が、各派の旗を揺らした。
歓声は起きなかった。
起こさせなかった。
これは戴冠ではない。
今日から、失敗した時に誰の判断だったかを曖昧にしないための約束だった。
宋悲の捕役が、文の末尾へ時刻を書き入れる。
その筆が紙から離れた時、陣の南がざわめいた。
白い衣が、人の間を進んでくる。
瑞笙。
彼は一人だった。
供も旗もない。
携えているのは、小さな旅荷と一振りの宝剣だけである。
眉山で負った傷は、少なくとも外からは跡形もなかった。歩みに濁りはなく、呼吸は深い。あの血戦から戻った傷人ではなく、これから戦場へ入る剣客の姿だった。
趙活が移動の振動と仕事に回復を削られていた間、瑞笙は東武林の後始末を終え、運行と調息を重ねてきたのだろう。
瑞笙が現れると、東武林側の何人かが無意識に姿勢を正した。
威風堂々と人の間を進む姿を、趙活はどこか他人事のように眺め、絵になる男だと思った。
彼は、場のあちこちから集まる視線を受けたまま、先に宋悲へ礼をし、次に各派の名代へ礼をした。
最後に趙活を見る。
「間に合ったか」
「今、終わったところだ」
「そうか」
瑞笙は、記録された文を見た。
「なら、やり直す必要はない」
ざわめきが止まる。
瑞笙は皆へ向き直った。
「眉山で、私は敗北を認めた。対外の危難において、東武林は西武林の号令を尊ぶとも言った」
声は静かだった。
言い訳も、飾りもない。
「その言葉を変える気はない。この戦場では、私も趙活の方針に従う」
東武林盟主が、そう言った。
趙活が得たばかりの権限へ割って入るのではない。
すでに置かれた文の下へ、自分の名を置いた。
「ただし」
瑞笙は趙活を見る。
「誤っていると思えば言う」
「言ってくれ。そのために来てもらった」
「承知した」
短いやり取りだった。
東西の間に残っていた細い割れ目が消えたわけではない。
だが、少なくとも今日、別々の号令で走り出すことはなくなった。
「それと、襄陽から預かってきたものがある」
瑞笙は懐から封書を出し、宋悲へ渡した。
封には、襄陽守将、趙方の名がある。
「こちらへ発つ前に、東武林の後始末を済ませた。その後、襄陽へ寄った。趙将軍は、西夏軍が崆峒へ出たことをすでに掴んでいた」
宋悲が封を改め、文を開く。
「軍報は朝廷へ上げたそうだ。諸路の有司に命じ、西方へ兵糧、矢、薬を回すこと。福建路では、沿海の豪家と幇会から車馬と人夫を募り、陸路の輸送へ加えることも求めている」
名は書かれていない。
だが、福建で豪家と幇会を併せて動かせる者となれば、限られる。
上官隼。
上官家の家主にして、滄幇の人と車馬を動かせる朝廷の命官である。
武林の者だけでは運べない量を運び、軍だけでは拾えない道を繋げられる。
瑞笙は続けた。
「もう一つ。西夏兵が境を越えた今、江湖の争いを抑え、武林への招撫と働きかけを西辺の守りへ向けるべきだとも書いた」
「返事は」
宋悲が問う。
「待っていない。待てば、ここへ着くのがさらに遅れる」
この軍報が通れば、江湖へ向けられていた人と物も、先に西へ回される。
西夏が来ている時に、宋の武人同士で斬り合うなと書いただけだ。
趙活は頷いた。
瑞笙は東武林の後始末を投げてきたのではない。自分の側を収め、襄陽へ走り、軍と朝廷へ次の道を繋いでから来た。
知己を頼っただけで通る話ではない。言い方を誤れば、敗れた東武林盟主が朝廷を借りて唐門を庇ったと取られる。
瑞笙は、かなり危うい橋を渡ってくれたのだろう。
この働きに、応えなければならない。
そのとき、南の街道を見張る哨所から、鋭い呼子が鳴った。
長く一度。
味方の帰還。
続けて、短く二度。
負傷者。
人垣が割れる。
最初に見えたのは、血だった。
肩を貸す侠客が二人。
その間を、男が歩いてくる。
左腕は動いていない。
脇腹を布で固く巻いている。布は乾く間もなく赤黒く染まり、右手だけが腰の刀から離れていなかった。
金翅刀、左思。
宝刀は残っている。
連れていった者は、半分も見えなかった。
趙活が前へ出る。
葉雲舟も同時に動いた。
「左思殿」
「趙総帥」
左思は礼をしようとした。
体が傾く。
「礼はいい。座ってください」
「先に、報告を」
「傷を」
「報告が先です」
声は掠れていたが、譲らなかった。
趙活は葉雲舟を見た。
葉雲舟は左思の顔色と布の染みを見て、短く言う。
「立ったままは駄目です。座らせて、押さえながら」
地面へ敷物が置かれた。
左思は膝をつき、最後には腰を落とした。葉雲舟と唐門の古参が布を切り、傷を押さえる。
集まった名代は、そのまま残った。
宋悲が捕役へ合図する。
筆が新しい紙へ移る。
「崆峒山道は、破られました」
左思は言った。
誰も声を挟まない。
「昨日の昼過ぎ、農地側にいた赫連鉄槍が、山道へ回った」
趙活の脳裏に、騎馬が槍を振るう姿が浮かんだ。
宋軍の列へ三度入り、楊景略の武器を飛ばし、それでも深追いせず戻った男。
あれが、今度は崆峒へ向いた。
「馬で山道を登ったのか」
趙活が問う。
「いいえ。徒歩でした」
左思は続けた。
「ですが、赫連一人に崩されたのではありません。山道攻めを率いる西夏将、仁多阿骨の兵が先に盾を重ね、弩を上へ向けていた。旗と、捕らえた兵の口から名を確かめています」
仁多阿骨。
趙活は、その名を頭へ刻んだ。
「火龍仙君殿が押し返しに出たところへ、赫連が入った」
「火龍仙君殿は」
瑞笙が問う。
「生きています」
一瞬だけ、空気が戻る。
左思は続けた。
「三手でした。火龍仙君殿も反撃したのです。恐るべき火巧で、確かに赫連を捉えた。しかし、あの男は火をものともせず、その上から……。意識はありましたが、もはや戦えないかと」
三手。
楊景略と同じだった。
いや、よく三手目まで耐えたというべきかもしれない。
「その後は」
「赫連は火を浴びた後も立っていました。見る限り、動きも衰えていなかった。ですが、それ以上は追わず、兵の後ろへ下がりました」
左思は息を継いだ。
「雷謙掌門が人を出し、火龍仙君殿を引き上げました。我らも退く者を支えた。だが、道の中段は保てなかった」
左思は一度、息を詰まらせた。
葉雲舟が傷口を押さえる手へ力を加える。
「俺が連れていった者は、九人死にました。重傷が七人。歩けぬ者は門内へ入れた。段総炉鍛長ら火炎山剣閣も、鉄拳門と共に中へ」
残りを問う前に、左思が続けた。
「動ける者は、俺と戻りました。別の道へ散らした者もいる。追われてはいません。追う必要がなかったのでしょう」
その言葉が重かった。
西夏軍の目的は、逃げる侠客の首ではない。
崆峒を山へ押し戻すことだった。
「門は」
「閉じました」
誰かが息を呑んだ。
崆峒は落ちていない。
だが、外へ出る門を閉じた。
山道から朝廷軍へ回せる兵も、武林盟へ合流できる門人も、門の内側へ閉じ込められた。
「丹霞子殿へは」
「知らせられていません。最後は、狼煙を上げる余裕もありませんでした」
左思は懐へ手を入れようとした。
腕が動かない。
付き添った侠客が代わりに、血のついた竹片を出した。
「門が閉じる前に、雷謙掌門から」
宋悲が受け取り、趙活へ渡す。
文字は短かった。
山門を閉じる。
負傷者を収める。
外の者は、戻るな。
崆峒は、まだ戦える。
助けを求める言葉はなかった。
それがかえって、門の内側の苦しさを示していた。
趙活は竹片を握った。
つい先ほど、臨時総帥を受けた。
最初に届いた報告は、助けへ送った者の死と、閉じた門だった。
責任というものは、名乗る前から待ってはくれない。
「左思殿」
「はい」
「報告、確かに受け取りました。連れて帰ってくださって、ありがとうございます」
左思の顔が、わずかに歪んだ。
「全員ではありません」
「それでもです」
功を焦る者へ、戻れと言える人が要る。
そう言って送り出した。
左思は、自分が傷ついても、生きた者と報告を連れて戻った。
「今は治療を受けてください」
左思は目を閉じ、ようやく刀から手を離した。
葉雲舟たちが担架へ移す。
運ばれていく背を見送り、趙活は振り返った。
集まった者の顔が、先ほどまでとは違う。
承認の言葉は終わった。
次は、命令だった。
「懷素真人」
「聞こう」
「青城は川筋と山側の合図を見てください。清虛子と碧波子は俺のところへ。声と鐘の届く範囲を、今日中に測ります。裴紅臘と高和は、嵩山と一緒に民列と後送路をお願いします」
「承知した」
「狄傲殿。峨嵋は主隊警備を。中央の動きに備えながら、今日は兵を休ませてください。崆峒山道へ出る時は、改めてお願いします」
「任せろ」
「福韞和尚。嵩山は民列の後ろと後送路を。騒ぎが起きたら民を落ち着かせてください。崆峒から負傷者が来るかもしれません。道は空けておいてください」
「承知いたしました」
「徐殿、盛殿。點蒼は今日、前哨の交替を厚くしてください。弓箭社にも、明朝動けるよう支度を頼みます」
徐光輝の眉が動いた。
「攻めるのか」
「明朝、前哨を一つ進めたいと思っています」
趙活は地図の疎林へ指を置いた。
「崆峒を門内へ押し込んだ以上、山道にいる西夏兵はいずれこちらへ戻ります。その前に、少し強く踏み込みたい」
盛鴻年が問う。
「ならば、今日のうちに出たほうがよいのではないか」
「軍の射界も、前哨をどこまで動かせるかも確かめていません。ここで勝手に出れば、敵より先に味方の弩へ射られます」
趙活は二人を見た。
「今日は前へ出る支度だけを。楊将軍と話をつけてから、改めて命じます」
徐光輝と盛鴻年は顔を見合わせた。
「分かった。待とう」
「唐門は、今の持ち場を変えない。唐門は、崆峒山道の登山口を見張り、戻る者と追手の有無を確かめる。それと陣内と医療列の警戒を続けてくれ。明朝の疎林への前進にも加えない」
唐門側から、承知の声が返った。
「それと、俺が軍との話や前の様子を見に陣を離れる時は、瑞笙公子にここをお願いしたい。持ち場を大きく変えず、急な襲撃があれば人を戻す。その範囲です」
各派の名代に異論はなかった。
瑞笙も頷く。
「その時は、私が見よう」
中小門派のうち、民道を見てきた組には村道と南の街道へ人を出してもらう。
中小門派は持ち場を変えず、新しい命令が届くまで前へ出さない。
命令が各派の責任者へ渡る。
そこから門人へ分かれていく。
以前なら、趙活が一人ずつ顔を見て言わなければ動かなかった。
今は、名代がいる。
その代わり、誤れば一門ずつ誤る。
権限が増えるとは、速く動かせることだった。
同時に、間違いを遠くまで届かせることでもあった。
「宋悲殿」
「楊将軍のところだな」
「はい」
全員で軍陣へ押しかける必要はない。
懷素真人と狄傲は武林陣に残す。
今日は瑞笙を楊景略へ引き合わせ、趙方の軍報も説明してもらわなければならない。二人が戻るまで、武林陣は懷素真人と狄傲へ預ける。
合同軍議へは、瑞笙と宋悲を伴う。
「こっちは僕が見とくっス」
唐惟元が先に言った。
「決まったことを帳面へ落とす者が、こっちにも要るっス」
「お願いします」
「帰ってきたら、決まったことを先に僕へ寄越すっスよ。口で広げる前に」
「分かってます」
唐惟元はもう筆を動かしていた。
捕役が写しておいた趙方の封書を携え、趙活たちは指揮天幕を出た。
臨時総帥として初めて向かう先は、勝ち戦ではなかった。
敗報を持って、軍と次を決める場所だった。
### 四月二十六日 巳の刻 朝廷軍主陣
楊景略は、左思の報告が届く前から地図を開いていた。
山道側で、定刻の狼煙が上がらなかったことを、軍も見ている。
陸紹文はその横にいた。
腕はまだ固く巻かれているが、もう命令を書き取るだけではない。兵の出入りを捌き、前哨から届く木札を順に地図へ置いていた。
趙活たちが入ると、楊景略は挨拶を短く切った。
「報告を」
宋悲が、左思の口述と雷謙の竹片、それに趙方の封書の写しを差し出す。
楊景略は一度読み、陸紹文へ渡した。
「火龍仙君は生存。ただし戦闘不能。崆峒は閉門」
「はい」
「赫連鉄槍は」
「山道側です。今も残っているかは分かりません」
趙活は答えた。
そこで楊景略は、趙活の隣に立つ白衣の剣客へ目を向けた。
「その者は」
「孤雲山の瑞笙公子です。東武林をまとめ、眉山で俺と戦った方です」
「名は聞いている。襄陽の趙方殿から軍報を預かってきたのも、お前か」
「はい」
「ここでは、どういう立場にある」
「この戦場では、趙総帥の方針に従います」
趙活も続けた。
「俺が陣を離れる時は、瑞笙公子に武林盟を預けます。ただし、すでに決めた方針を保つ範囲です」
「承知した」
楊景略の指が、農地と山道の間を動く。
「西夏の先遣には、少なくとも二人の指揮官がいる」
楊景略は農地側の木札を指した。
「正面を預かるのは野利震山。ここ一週間、歩兵と弩を崩さず進め、取った高みを柵で固めてきた男だ。赫連が我らへ突っ込んだ時も、その走路を開け、退いた後の農地を保持したのは野利の兵だった」
指が山道へ移る。
「仁多阿骨は山道を押す。盾、弩、工兵を使い、道を一本ずつ取る。赫連はどちらの配下でもない。必要な戦線へ入り、保たれていた均衡だけを壊す」
陸紹文が言った。
「山道を破ったなら、次は正面へ戻せます」
「あるいは丹霞子殿の六百です」
趙活が言う。
川筋上手に残る崆峒勢は、山門が閉じれば孤立する。
南へ抜ける狭所は西夏兵が警戒している。山へ戻る道も、山道側の戦況次第では使えない。
「丹霞子殿を潰せば、崆峒は外の目を失います」
「だが赫連一人を六百へ入れれば、囲まれる」
楊景略が言った。
「あの男も、それくらいは知っている」
「はい。だから単独では行かない。山道を押した兵を一部回すか、狭所の警戒を厚くして動けなくするだけかもしれません」
楊景略は地図の山道へ目を戻した。
「戻るとしても、すぐではない」
陸紹文が問う。
「山道へ残すと」
「崩すことと、取った場所を保つことは別だ。仁多阿骨の兵が負傷者を下げ、盾を上げ、弩を置くまでは、崆峒の反撃を警戒する。赫連を置くか、少なくとも近くへ控えさせる」
楊景略は、地図上の木札を一つ山道へ寄せた。
「半日から一日」
「その程度は、山側へ残ると思います」
趙活も同じように見た。
赫連が正面へ戻るまで、わずかな間がある。
その間に朝廷軍が攻め上がれるか。
答えは、すぐには出ない。
楊景略が先に言った。
「主陣は動かさぬ」
楊景略は構わず続ける。
「崆峒を助けるため斜面へ上がれば、農地の先遣に側面を晒す。山門は閉じた。こちらから門前まで押すには、道を一つずつ取らねばならん。半日の隙で届く距離ではない」
陸紹文が木札を動かす。
「前哨は一つ戻したまま維持。山道寄りの弩を三十増やします。槍兵は交替を早め、赫連が戻った場合に備える」
「盾も増やせ」
「二列にします」
「重ねすぎるな。あの槍は固まった場所を狙う」
「承知しました」
軍のことは、二人の間で進んでいく。
趙活は口を挟まない。
どの兵を何人出し、どの列へ盾を置くかは、軍の領分だった。
楊景略が今度は趙活を見る。
「武林は」
「主隊の警備に峨嵋、前哨に點蒼、後送路に嵩山を置きました。青城には川筋と合図を見てもらいます。唐門は崆峒山道から戻る者と、追手の有無を確認します」
「赫連が来れば」
「単独で出ることを禁じます」
「止まるか」
「今日、各派から承認を取りました。昨日よりは止められます」
「全部とは言わぬのだな」
「言えません」
楊景略はそれ以上追わなかった。
軍もまた、命令を破る者が一人もいないとは言えない。
違うのは、破った後に裁く法が初めからあることだった。
武林には、それを今から作らなければならない。
「もう一つ、相談があります」
趙活は疎林側の前哨を指した。
「明朝、點蒼と弓箭社を使い、武林側の前哨を一つ進めたい。中小門派からも、命令を聞ける者を選んで加えます」
「どこまで行く」
楊景略が問う。
「疎林の丘までです。取れれば前哨を置く。ですが、その先までは追いません」
「取れなければ」
「退きます。兵を減らしてまで、あの丘へしがみつくつもりはありません」
楊景略はすぐには答えず、陸紹文へ目を向けた。
陸紹文が、軍の前哨と疎林の間へ指を走らせる。
「丘の中までは、軍の弩の射界が通りません。武林が奥へ入れば、こちらからは援護できない。それに武林が丘へ寄れば、軍の前哨との間が開く。西夏兵にそこへ入られれば、二つに分断されます」
「槍兵を一隊、前へ出す」
楊景略が決めた。
「武林が丘を突くのに合わせ、軍の前哨も一つ進める。ただし、丘へは入らぬ。武林が退いても、その前哨を守れる場所までだ」
趙活は頷いた。
「お願いします」
「礼はまだ早い。陸紹文、今夜のうちに射界を決めろ。境へ白布を立て、武林側にも見せる」
「承知しました」
「退き鐘は」
「二度で総退却とします」
趙活は答えた。
「赫連が武林側へ現れた時も、二度です。朝廷軍側へ向かった時は、こちらの持ち場を捨てて追いません。疎林への攻めを続けるか退くかは、その時の西夏兵の動きを見て俺が決めます」
楊景略は地図を見たまま言った。
「赫連一人に全員の目を奪われるな、ということか」
「はい。あの男が軍へ入った時こそ、疎林の兵が薄くなる可能性があります。ただし、誘いなら退きます」
「よい。だが軍の列が崩れれば、こちらの退き鐘を待たずに武林も下げろ」
「承知しました」
軍と武林が同じ場所を攻めるのではない。
互いの前進が、互いの側面を空けないように時を合わせる。
宋悲が問う。
「崆峒への使いは出すか」
「門前へは出せん」
楊景略が答えた。
「西夏の山道陣を抜けねばならない。死なせるだけだ」
「門前へ使いを出すつもりはありません。ただ、登山口から先がどうなっているかは見たい」
趙活は地図の山道を指した。
「武林から、軽功のある者を三、四人出します。敵の数と、どこまで道を押さえられているかを見るだけです」
楊景略は陸紹文を見る。
「登山口の兵へ、出る者の名と服を知らせろ。戻る時刻も決めさせろ」
「承知しました」
「斥候が戻り、道がまだ使えるようなら、明日以後、峨嵋に一度強く突いてもらいたい。唐門からも少数を付けます」
「報告を見てからだ」
「はい。今日は支度だけさせます」
「丹霞子殿へは」
趙活が言う。
「声も文も通りません。決めていた狼煙だけです」
「なら、その狼煙を増やすな」
陸紹文が言った。
皆が見る。
「決めていない合図を後から足せば、敵も味方も好きな意味を載せる。今ある合図だけを使うべきだ」
趙活は頷いた。
「同意します」
分からない時ほど、合図を増やしたくなる。
だが増やした分だけ、偽物が入り込む。
「丹霞子殿には、こちらが崩れていないことだけを見せます。いつもの時刻に、いつもの狼煙を上げる。それ以上はしない」
「それでよい」
宋悲が記録させた。
次に楊景略は、地図の南側を見た。
村。
茶屋。
街道。
まだ民が残っている。
四月十二日から、避難は始めていた。
先に逃げた者もいる。
勧められて荷をまとめた者もいる。
だが、麦の色を見て留まった者がいる。牛を手放せず、老人を動かせず、家へ戻った者もいる。
前線が一つ破られた今、残せなかった。
「陸紹文」
「はい」
「前線寄りの村へ、退去を命じる。勧告ではない。残った戸を改め、明日から後方へ移せ」
陸紹文は一瞬だけ地図を見た。
必要な兵、荷車、道の幅を数えたのだろう。
「三日あれば、前線側の村は空にできます。ただし病人と老人、家畜で列が詰まります」
「列を一つにするな。茶屋跡の南へ集結所を置け。そこから街道へ送る」
「承知しました」
宋悲が続ける。
「捕役を戸ごとに回す。里正と組ませよう。誰を出し、誰が残ったかを記す」
「軍兵だけで回るより、話は通ります」
趙活は言った。
「嵩山派に人を出してもらいます。里正と捕役に同行し、家の中まで確かめてもらう。村の外と林は、ほかの武林の者に見せます」
「なぜだ」
楊景略が問う。
「武器を持った知らない侠客が家へ入れば、隠している麦も家畜も奪われると思います。嵩山の僧なら、里正と捕役が一緒なら戸口を開けてもらえるでしょう」
牛を置いて行けと言われて、素直に頷ける者は少ない。
「持ち出せる家畜は連れていく。荷車へ繋げぬ牛は、後で軍が徴発するのではなく、先に値を書け」
宋悲が言った。
「戻らぬ時の補償か」
陸紹文が問う。
「紙が銭になるかは、後の役人次第だ。それでも何も残さず連れていけば、奪ったのと同じになる」
楊景略はしばらく黙り、記録役へ命じた。
「家畜と荷車は戸主の名、数、傷、毛色を記せ。軍が使った分は別にする」
「はい」
命令が一つ、形になった。
これで民が喜んで出るわけではない。
だが、ごねる理由の一つを減らせる。
「武林側は、最初の民列に青城の碧波子道士をつけます」
趙活は言った。
「声?」
「碧波子道士は、遠くまで声を通せます。まずは号令の代わりではなく、列の後ろまで同じ言葉を届けるために使う。止まれ、道を空けろ、子供がいる。その程度から慣らします」
楊景略は少し考えた。
「軍の号令と混ぜるな」
「はい。軍の進退は鐘と銅鑼。碧波子道士の声だけで兵は動かさない。武林側でも、声と旗を合わせます」
「なら試せ」
許可だった。
万能の伝令ではない。
だが、最初の一歩にはなる。
陸紹文が木札を三つに分けた。
軍。
捕役と村。
武林。
同じ民を動かすにも、役目を重ねない。
「今日中に道を測ります」
陸紹文は言った。
「軍兵二十で街道と集結所を確認。捕役には戸数を出してもらう。武林側は林と脇道。夕刻までに一度戻し、明朝から移送を始めます」
楊景略が頷く。
趙活も異論はなかった。
軍議が終わる前に、外から馬の声がした。
伝令が入る。
「報告。農地の西夏軍、天幕を一部畳んでおります。山側へ動く兵と、正面へ下る兵に分かれています」
楊景略の目が細くなる。
「数は」
「まだ読めません。騎馬は少数。歩兵と弩が多く見えます」
赫連が戻るのか。
山道を固めるのか。
両方かもしれない。
地図上では、木札を二つに分ければ済む。
実際の兵は、森と斜面の陰にいる。
「第三哨へ伝えろ。敵が下っても射程へ入るまで撃つな。山道寄りの前哨は、退路を空けたまま柵を補強」
楊景略が命じる。
「陸紹文、お前が行け」
「はい」
陸紹文はすぐに地図を離れた。
腕が万全でなくとも、前哨を動かす役へ戻った。
「趙総帥」
楊景略が呼ぶ。
今度の名は、試す響きではなかった。
「武林の前を乱すな」
「乱しません」
「赫連が見えてもだ」
「各派へ伝えます」
「お前自身もだ」
趙活は一拍遅れて答えた。
「承知しました」
軍議を出ると、朝の光はすでに高かった。
武林陣の旗が見える。
その向こう、山側には煙が細く残っている。
崆峒の門は、もとよりここから見えない。
だが昨日までは、人と報せの通う道があった。
その道が、一夜で消えた。
だが、消えた道ばかり見てはいられない。
南では、まだ家を離れられない民がいる。
前では、赫連が次にどちらへ現れるか分からない。
武林陣には、承認したばかりの者たちが命令を待っている。
趙活は歩き出した。
走ることも、身を守ることもできる。
だが高手と刃を交えるには、まだ足りない。
それでも今日は、昨日より遠くまで自分の言葉を届かせなければならなかった。