### 四年目四月二十六日 夕刻 武林陣
指揮天幕の中には、疎林の丘を描いた地図が広げられている。
正確なものではない。
木の密度。
丘の傾き。
西夏兵が置いた盾と弩。
斥候が戻るたび、書き足してきた。
それでも、木の一本一本までは分からない。
現地へ入れば、地図と違う場所はいくらでもある。
その周りには、別の紙も積まれていた。
この十日ほどに起きた小競り合いの記録である。
誰が、どこまで近づいたか。
西夏兵は何人出たか。
弩を向けたか、軽騎を回したか、盾を並べたか。
こちらが退いた後、どこまで追ったか。
趙活は同じ報告を何度も読み返した。
西夏兵は、唐門の斥候を見つけると軽騎を回した。
青城の道士が二、三人で川筋へ出ても、遠くから弩を向けるだけだった。
中小門派の侠客が腹を立て、五人で丘へ近づいた時には、散兵を追い払うように十騎を出した。
相手は一度も、武林の者を一つの隊として受けていない。
一人ずつ腕の立つ者が混じっていることは知っている。
だが、軽功で軍陣の間へ入り、門派ごとに異なる武功を重ねる集団を、兵種としては見ていないのではないか。
趙活は地図の丘へ指を置いた。
「西夏兵は、俺たちを分かっていないのかもしれません」
徐光輝が眉を上げる。
「武林を知らんと?」
「知識としては知っているでしょう。高手が一人で兵を何人も倒すことも、暗器や軽功があることも。ただ、軍陣の前へ百人の侠客が出た時、何ができるかは知らない」
趙活は報告の一枚を徐光輝へ渡した。
「こちらが少人数で出るたび、斥候か散兵として扱っています。腕を確かめようともしていない。追い払えば済む者として兵を出している」
盛鴻年も別の紙を取った。
「知らぬのではなく、まだ見る機会がなかっただけではないか」
「そうです。だから使えるのは、おそらく最初の一度だけです」
點蒼の先遣八十人。
弓箭社十二人。
中小門派と個人侠客から、三十六人。
明朝、丘へ入る者たちだった。
南渓は、そのどの組にも入れないことにした。
「南渓女侠には、崩れた場所を外から見てほしい。手が足りなくなったところへ入ってください」
「分かった。必要な場所は、自分で見る」
誰かの列へ加えるより、そのほうが南渓には合っていた。
対する西夏兵は、見張り所と疎林の内側を合わせて百五十ほど。
斥候が姿を数えたのは百二十余り。
木陰と交替中の兵を含め、趙活たちは百五十と見積もっていた。
西夏軍が大きく宋境へ入ったのは、二十年近く前になる。
当時の兵が残っていても、もう前哨へ立つ若者ではない。
今、疎林の丘を守る兵の多くは、武林の者と戦ったことがない。
軽装。
盾なし。
隊列なし。
軍兵の目には、散兵か斥候に見える。
個々に腕が立つかどうかも、まだ分からない。
「正面から行けば、弩で止まる」
徐光輝は言った。
「横へ回れば、外縁の見張りに見つかる」
盛鴻年が続けた。
「ですが、見つかった者が二人か三人なら、敵は大軍が来たとは考えないかもしれない」
趙活は二人を見た。
「この考えが合っているとして、どう入りますか」
答えを持っていないふりではない。
仮説は出せる。
だが點蒼の足をどう使うかは、二人のほうがよく知っている。
「朝になって百人で進めば、さすがに分かります」
趙活が言う。
「百人で進まなければよい」
盛鴻年の指が、疎林の外縁へ触れた。
「夜明け前、二人か三人ずつ入る。間を空ける。見つかっても、斥候が増えたようにしか見えん」
「弩の射程へ入ります」
「弩は、一人を射るために全員で構えるものではない」
徐光輝が答えた。
「見張りが敵襲と判断し、銅鑼を鳴らすまでに近づく」
「銅鑼を鳴らされたら」
「弓箭社が止める」
十二人の弓使いが、天幕の端にいた。
門派ではない。
猟師。
護送の用心棒。
山道を守る村の若者。
それぞれ別の生業を持ちながら、戦があれば集まる寄り合いである。
揃いの服もない。
揃っているのは、弓を持った時の目だけだった。
その中の一人が言った。
「銅鑼だけでいいのか」
「見張り。銅鑼。旗」
盛鴻年が指を三本立てる。
「三つを同時に落とせるか」
「見えれば」
「木へ上がれば見えるか」
「木が低すぎなければ」
弓箭社の者は、断言しなかった。
実際の木を見ていないからである。
「四人が上。四人が地上。残り四人は、丘の奥を見る」
「奥を?」
「見張りを射れば、奥から増援が来る。盾が並ぶ前に見つける者が要る」
趙活は地図の丘奥を見る。
疎林の向こうには、西夏の予備兵がいる。
弓箭社が高い木から射れば、位置を見つけられる。
弩手を伴う軽装歩兵に回り込まれれば、弓を持ったまま乱戦へ入ることになる。
「一度射った木へ残らないでください」
趙活が言う。
「言われなくても残らん」
「失礼しました」
「だが、降りる場所を狙われることはある。下に一人つける」
二人一組。
上で見る者。
下で周りを見る者。
射った後は一緒に移る。
矢は一人三十六。
木へ登るため、持てる数にも限りがある。
「見張りが落ちたら、點蒼が入る」
徐光輝が言った。
「先に二十四人。盾を取る前へ入る」
「残りは」
「我らが中で剣を合わせた後だ。外から見ても、どこが敵でどこが味方か分からなくなってから入れる」
「中小門派も一緒に?」
混成組の列から声が上がった。
「先頭には出さない」
徐光輝は答えた。
「點蒼が道を開ける。お前たちは、その道から入って乱戦を広げろ」
「點蒼だけで功を取るつもりではないか」
「點蒼だけで取れるなら、お前たちを呼ばん」
言葉は荒い。
だが筋は通っていた。
點蒼は同門で動ける。
同じ足運びを知っている。
誰が右へ避け、誰が左へ入るか、声を出さずとも分かる。
混成組には、それがない。
最初から一緒に忍び込めば、互いの足を邪魔する。
しかし一度乱戦になれば、刀、棍、槍、拳、それぞれの強みを使える。
「我らが中へ入った後、西夏兵に陣を作らせるな」
盛鴻年が混成組へ言う。
「盾を並べようとする者を止める。弩手を槍兵の後ろへ戻さない。奥へ追う必要はない」
「その三十六人は、私が預かろう」
天幕の入口から、瑞笙が言った。
白衣の剣客が地図の前へ進むと、混成組の者たちが道を空けた。
東武林盟主として戦った名がある。
眉山で趙活と最後まで立ち合った武功も、ここにいる者は知っている。
同門の足運びまでは揃えられなくとも、誰が前へ出すぎた時に止めるべきか、誰の言葉なら三十六人が聞くか。その役には足りた。
「私が皆の武功へ指図するつもりはない。點蒼が開いた場所へ入り、陣を作らせず、決めた線を越えない。それだけは揃えてほしい」
異を唱える者はいなかった。
瑞笙は趙活を見る。
「だが、退く時は誰が決める」
三人の目が趙活へ向く。
「途中の進退は、徐殿へ任せます」
趙活は言った。
「俺が決めるのは、始める時と、全部を終わらせる時です」
「終わらせる時とは」
「敵が陣を作り直した時。予備兵が丘へ入った時。赫連がこちらへ向かった時。それから、朝廷軍が退いた時」
「どれか一つで退くのか」
「いいえ。見えたものを合わせて決めます」
徐光輝が眉を寄せた。
「曖昧だな」
「まだ敵を見ていませんから」
趙活は答えた。
「ただし、退き鐘が二度鳴った後は、理由を探さず戻ってください」
「聞こえなければ」
「旗を二本上げる。碧波子にも声を出してもらう。鐘、旗、声の二つを確認したら戻る」
声だけでは動かさない。
旗だけでも動かさない。
木と煙の中では、どちらも偽られるかもしれない。
二つを重ねる。
「趙総帥はどこへ」
瑞笙が問う。
「最初は疎林の外です。點蒼が外縁を取ったら、中へ入ります」
葉雲舟が顔を上げた。
趙活は先に言う。
「馬を使う。走らない。戦わない。湘姉をつける」
「まだ何も言っていません」
「顔が言ってる」
「趙兄に言われたくありません」
龍湘が横から言う。
「弟はあたしが見るよ」
「お願いします」
「葉兄まで」
「趙兄が聞かないからです」
趙活は咳払いをした。
「俺は、點蒼へ剣の振り方を命じません。弓箭社へ誰を射るかも命じない。各組から上がる報せと、朝廷軍の動きを繋ぎます」
徐光輝が問う。
「主隊は誰が見る」
「懷素真人と狄傲殿にお願いします。青城と峨嵋の先遣をまとめながら、武林陣から出さない。唐門も後ろに残します」
瑞笙が混成組を率いても、主隊が空になるわけではない。
明日、瑞笙は一人で敵陣へ穴を開けるために出るのでもなかった。
三十六人が互いの功を争って散らないよう、その中心に立つ。
「瑞笙公子」
「何だ」
「前へ出れば、皆があなたを追います。追わせないでください」
「承知した。明日は、私の剣を見せるための戦ではない」
答えに迷いはなかった。
その後、趙活は徐光輝、盛鴻年、瑞笙を伴って朝廷軍の前哨へ出た。
武林だけで丘へ入ることはできる。
だが、その時に軍が何をするかを決めずに始めれば、二つの戦が隣り合うだけになる。
楊景略は前哨の後ろに立ち、陸紹文から地形の報告を受けていた。
陸紹文の左腕には、まだ布が巻かれている。
傷は治りきっていないが、歩みも声も戻っていた。自ら槍を振るうのでなければ、兵を連れて前へ出られるところまで来ている。
趙活が明朝の案を話す間、楊景略は一度も口を挟まなかった。
點蒼が先に疎林へ入ること。
弓箭社が見張りと合図を射ること。
中小門派は乱戦になってから続くこと。
丘を取り続けることより、西夏軍に兵を回させることを重く見ること。
最後まで聞いてから、楊景略は問うた。
「丘を取った後は」
「敵の出方を見ます。陣を作り直す前なら押す。予備兵が形を整えて来るなら、軍の前哨が固まり次第退きます」
「固まらなければ」
「早く退きます」
徐光輝の眉がわずかに動いた。
趙活はそれを見たが、言葉を変えなかった。
明日の目的は、武林だけの勝ちではない。
楊景略は陸紹文を見る。
「百五十を出せるか」
「盾五十、槍六十、弩二十。残りを工兵と伝令に。前哨から先へは追わせません」
「杭は」
「今夜のうちに削らせます。縄と土嚢も運べます」
軍が何を出せるかは、軍が決める。
趙活には、百五十人へ必要な荷も、交替の時刻も分からない。
楊景略は地図の軍側へ新しい線を引いた。
「武林が丘へ入ったら、こちらも一つ進める。ただし、丘へ兵は回さぬ。援護の弩も届かん」
「承知しています」
「西夏が武林へ寄せた兵を、そのまま軍の横へ向けるなら、こちらは前進を止めて迎える」
「その時はこちらも、丘を捨てます」
「誰が決める」
「全体の退きは俺が。丘の中での進退は徐殿が決めます」
楊景略は初めて徐光輝へ目を向けた。
「軍の太鼓を聞き分けられるか」
「数度聞いた。進め、止まれ、退けの三つなら」
「明日はそれ以外を使わぬ」
徐光輝が拱手する。
「助かる」
陸紹文が言った。
「武林が退く境へ白布を張ります。そこより丘側へ軍兵は出ません。戻れば、こちらの弩の後ろです」
「白布まで退けば、軍が守ってくれると?」
瑞笙が問う。
「追ってきた西夏兵を射る。お前たちを守るために列を崩すことはしない」
言い方は冷たい。
だが、できることとできないことが明らかだった。
「それで十分です」
趙活は答えた。
軍は武林を助けるため、丘へ飛び込まない。
武林も軍を助けるため、軍列へ混じらない。
互いの退路と時間を作る。
明日は、その形を初めて試す。
話が決まった時、南の街道から騒がしい声が来た。
花二爺と李富貴が、丐幇の先遣を連れてきた。
七十余人。
すでに周辺へ散っている者を集めれば、明日には百に近い。
揃いの衣もない。
竹杖、短刀、鍋、縄。
軍から見れば、先ほど話していた武林の寄り合いをさらに崩したような一団だった。
だが、彼らには目と耳がある。
趙活は明朝の民列と、南の村道を頼んだ。
「お、俺たちは民列へつけばいいのか」
李富貴が問う。
「前で音を立てるので、後ろを見る者が要ります」
花二爺が頷く。
「敵も同じことを考える」
「はい」
「極楽教徒か」
「何もなくても、人は動きます。家へ戻る者、逃げる者、盗む者もいる」
「分かった。こちらは任せろ」
李富貴は、南の街道へ目を向けた。
「ち、趙兄弟が後ろを頼むなら、そっちで働く。腹を空かせた奴も、歩けない奴もいるだろ」
花二爺が竹杖で背を叩いた。
「少しは分かってきたな」
「ま、前から分かってる」
丐幇が来たことで、嵩山の僧を民列そのものへ厚く置ける。
青城は川筋と合図を見る。
峨嵋は主隊を警備し、山道へ出る次の役へ備える。
唐門は崆峒山道から戻る者と、追手の有無を確かめる。
瑞笙は混成組。
點蒼と弓箭社は丘。
中小門派は乱戦。
丐幇と嵩山は民。
皆が同じ場所へ行かなくてもよい。
同じ方角へ働けばよい。
夜、趙活は運行と調息の時間を削らなかった。
明日は戦わない。
だが、判断する前に疲れてはならない。
内力を細く巡らせる。
胸の傷へ負荷をかけず、肩、腕、腹、脚へ通す。
呼吸を深くする。
外では、弓箭社が矢羽を確かめている。
點蒼は二人一組で疎林へ入る順を決めている。
中小門派の者たちは、誰が前へ出るかでまだ揉めている。
唐惟元が、明日の名簿を作っている。
戦いは、剣を抜く前から始まっていた。
### 四月二十七日 寅の刻 武林陣
崆峒山道へ出した斥候は、四人のうち三人だけ戻った。
唐門の古参弟子が一人。
中小門派の軽功使いが二人。
残った一人は、西夏の見張りを別の方向へ引いたという。
「生きている」
古参弟子は先に言った。
「戻る道も知っている。夜明けまでに来なければ、登山口へ迎えを二人置く。上へは行かない」
趙活は頷いた。
地図へ報告が置かれる。
西夏兵は山道の中段より下まで降りた。
盾を三重に置く場所がある。
弩は左右の高み。
工兵が崩れた道を直している。
見えた数で百二十。
上を含めれば二百ほど。
赫連は見えない。
馬は十数。
誰の馬かは分からない。
「峨嵋を出しますか」
唐門の若弟子が問う。
「今日は出さない」
趙活は答えた。
「狄傲殿に道を見てもらってからです」
「崆峒は待っている」
「待っていると思う」
「なら」
「届かない助けは送れない」
言葉が少し強くなる。
趙活は息を整えた。
「二百が盾と弩を置く細道へ入れば、先頭しか戦えない。後ろは矢と石を受ける。まず、どこへ触れば敵の工事を止められるかを見る」
助けるとは、すぐ剣を抜くことではない。
それを自分へも言い聞かせる。
斥候の報告を終える頃、南で民列が動き始めた。
老人。
子供。
病人。
荷車。
牛。
家を捨てられず、まだ振り返る者。
李富貴が鍋を三つ抱えた老婆と揉めている。
最後には自分で二つ持たされていた。
丐幇は列の外を見る。
嵩山は列の中を見る。
裴紅臘は捕役の名簿と列を見比べ、高和は遅れた者が出るたび、列の外から迎えに戻った。
宋悲の捕役は、残る家と人数を記す。
福韞和尚が、立ち止まった子供へ言った。
「戻るために、今は進むのです」
いつ戻れるとは言わない。
嘘はつかない。
子供は納得していない顔で、それでも母親の手を取った。
趙活は第一の民列を見送り、軍から借りた栗毛へ乗った。
速くない。
大きな音にも驚かない。
戦う馬ではなく、今の趙活を運ぶ馬だった。
龍湘が横につく。
碧波子と清虛子。
三人の伝令。
唐門、點蒼、中小門派から一人ずつ。
自分の側へ話を持ち帰れる者である。
趙活の一声で、百人が兵卒のように動くわけではない。
言葉は各派の者へ渡り、そこで自分たちの言葉へ変わる。
それでよかった。
### 四月二十七日 夜明け前 疎林外縁
點蒼の門服は、夜明け前の地面へよく馴染んだ。
くすんだ緑の半袖上衣。
その下に白い長袖。
白い袖には暗い布を巻き、泥と草汁で色を落としている。
最初の二人が疎林へ入った。
しばらくして、次の三人。
さらに離れて二人。
隊列には見えない。
一つの方向へも進まない。
斥候が木を移るように、少しずつ丘へ近づく。
西夏の見張りは気づいていた。
木々の間から、こちらを見る影がある。
だが銅鑼は鳴らない。
数が少ない。
盾もない。
旗もない。
互いの間隔も揃っていない。
軍へ攻め寄せる部隊には見えなかった。
西夏兵は、散兵か斥候と見た。
その判断が間違いだと、まだ知る材料がなかった。
二十年前の戦を知る者なら、足運びに何かを感じたかもしれない。
だが今、丘の外縁へ立つ若い兵にとって、侠客は噂の中の存在だった。
剣を持った者が一人強いことと、百人が軍陣へ入ることは、別の話である。
弓箭社は、點蒼より先に散っていた。
四人が木へ上がる。
高い枝ではない。
盾の後ろを見られる高さでよい。
四人は地上。
残りは丘奥の増援路を見る。
一人の射手が、木の上から指を二本立てた。
見張り。
別の木から一本。
銅鑼。
三本目の合図は、旗だった。
三つが見えた。
盛鴻年が手を下ろす。
弦が鳴った。
音は一つではない。
ほとんど同時に四つ。
見張りの喉。
銅鑼へ伸びた腕。
旗持ちの肩。
その隣にいた兵の腿。
西夏兵が倒れる。
銅鑼が地面へ落ちた。
音はした。
だが警報の音ではない。
見張り所の兵が振り返る。
その時、點蒼が走った。
先行二十四人。
散っていた緑衣が、一斉に同じ場所へ向かう。
西夏兵の目には、突然増えたように見えただろう。
點蒼の弟子は、甲を着ていない。
くすんだ緑衣の下に厚い布を重ね、手首を守る程度である。
弩矢をまともに受ければ、それで終わる。
槍の穂先が腹へ入っても終わる。
正面からぶつかれば、鉄札を綴った甲と大盾を持つ西夏兵のほうが強い。
だから、正面へ立たなかった。
盾を取ろうとする。
間に合わない。
徐光輝が最初の兵へ届く。
槍が伸びきるより早く、半歩だけ外へ入る。
剣は鉄札へ当てない。
槍の柄を上へ送り、その下を抜ける。
西夏兵が向き直ろうとした時には、徐光輝はもう肩の横にいた。
甲は胸と腹を守る。
肩も守る。
だが、重い甲を着た体ごと、横へ半回転させてはくれない。
徐光輝の剣柄が兜の下へ入った。
首を守る札が持ち上がり、その隙へ掌が当たる。
兵が膝をつく。
次の點蒼弟子は、盾を持ち上げようとした腕の外へ回った。
刃で籠手を斬ろうとはしない。
肘の裏へ剣の峰を当て、盾の重みごと腕を折り畳む。
別の弟子が膝裏を蹴る。
三人目は弩手の懐へ入り、巻き上げた弩を下から蹴った。
弩は強い。
だが、胸へ押しつけられる距離では射線を作れない。
軍陣ができる前へ入った。
西夏兵が叫ぶ。
奥の兵が起き上がる。
だが、どちらへ並ぶか分からない。
旗は落ちている。
銅鑼役も倒れている。
見張り所の中へ、點蒼がいる。
盾兵、槍兵、弩兵。
本来なら互いを支える兵種が、互いの動きを邪魔する距離まで踏み込まれていた。
弩兵は射てない。
味方が前にいる。
盾兵は並べない。
横に味方がいない。
槍兵は引けない。
後ろに弩兵がいる。
西夏兵の甲は弱くなったのではない。
點蒼の剣が、鉄を紙のように裂いたわけでもない。
正面へ向いている限り、刃も矢も止める強い甲だった。
ただ、横から肩を押され、背後から膝を払われ、懐へ入った相手へ向き直るには重すぎた。
一人の兵が二人の侠客に挟まれる。
前へ盾を向ければ、後ろから足を取られる。
後ろを振り返れば、前の剣が脇の継ぎ目へ入る。
隣の兵が助けようとしても、その間へ別の緑衣が滑り込む。
甲冑は、隣と肩を並べて初めて隙を補える。
今は、その隣へ届かなかった。
武林の強さは、軍陣を正面から押し潰すことではなかった。
重い甲を着た兵より先に場所を変え、軍陣になる前の隙へ入り、そのまま陣を作らせないことだった。
盛鴻年の組が右から入る。
見張り所の外へ逃げた兵を、奥へ戻さない。
弓箭社が木を移る。
一射。
降りる。
次の木へ。
盾を取ろうとした兵を射る。
新しい旗を上げようとした者を射る。
強い者を選んでいるのではない。
西夏兵が一つの組へ戻るために必要な者を射ている。
盛鴻年の旗が上がった。
道が開いた。
瑞笙が剣を抜く。
「皆、行こう」
中小門派の三十六人が入った。
返事は一つに揃わなかった。
鬨の声を上げる者。
武器を掲げる者。
黙って瑞笙の背を追う者。
それでも足は揃った。
眉山で趙活と戦った東武林盟主が、自分たちの先頭にいる。
名も小さな門派の者にとって、その背と同じ丘へ入ること自体が功名だった。
點蒼に道を譲られたことへの不満も、待たされた鬱屈も、前へ出る力へ変わっていた。
誰一人、足を鈍らせなかった。
先頭の西夏兵が、瑞笙へ槍を突き出した。
瑞笙の白衣が、穂先の横を抜ける。
剣が一度だけ光った。
槍の柄が半ばから落ちる。
返す剣で兜の縁を打ち、兵の体を横へ送る。
倒しきる前に次へ入った。
二人目の盾を斜めに滑らせ、その裏にいた弩手の弦を断つ。
三人目が腰刀を抜く前に手首へ峰を当てる。
一人へ一手。
足を止めない。
瑞笙が通った後だけ、西夏兵の持つ武器と向きが崩れていた。
そこへ三十六人が入る。
瑞笙は一人で全員を倒そうとしているのではない。
後ろの者が戦える形へ、一手ずつ敵を崩して渡していた。
「白衣を止めろ!」
西夏兵の誰かが叫んだ。
二人が同時に瑞笙へ向く。
その分だけ、隣が空く。
長刀と棍が、その空いた場所へ入った。
白衣だけを見れば、別の侠客に懐へ入られる。
見なければ、瑞笙が先頭を崩す。
まだ陣を作れていない西夏兵には、どちらも選べなかった。
その白衣を見て、徐光輝が門人へ声を飛ばした。
「點蒼の者ども! あちらばかり目立たせるなよ!」
応じる声が、いくつも重なった。
盛鴻年を先頭に、點蒼の緑衣が左右へ広がった。
誰の剣が誰を斬ったか、外からはもう見分けられない。
ただ、白衣が正面を崩した場所から、緑の刃が枝分かれするように走った。
槍が上がる。
盾が傾く。
弩が地面へ落ちる。
一つの兵へ刃を重ねず、空いた場所へ次々と入る。
徐光輝と盛鴻年の剣を追うように、點蒼の弟子たちが崩れた西夏兵の列を切り刻んでいった。
白衣だけを止めればよいのではない。
西夏兵がそれに気づいた時には、見張り所の内側まで緑衣が入り込んでいた。
瑞笙に続いた三十六人は、點蒼のように静かではない。
刀が鳴る。
棍が盾を叩く。
怒鳴り声が上がる。
だが、もう静かである必要はなかった。
乱戦を広げる。
西夏兵が五人で盾を並べようとすれば、その間へ刀が入る。
弩手が後ろへ下がろうとすれば、棍が足を払う。
槍兵が間合いを取ろうとすれば、拳を使う者が懐へ入る。
長刀は甲を断とうとせず、盾の上から兜を叩いた。
棍は胸甲を打ち抜こうとせず、足首と膝を狙った。
拳を使う者は札甲の裾を掴み、兵が踏み出す時だけ横へ引いた。
倒れれば、甲の重さはそのまま起き上がる邪魔になる。
そこへ二人、三人と群がる。
武器を落としただけの兵が、また立とうとする。
後から入った侠客が、その脇の継ぎ目へ刃を入れた。
一度倒した兵を背後へ残せば、次には自分たちが斬られる。乱戦へ入った以上、打ち倒すだけでは終わらなかった。
一人を倒しきることへ固執せず、武器を奪い、列へ戻れない向きへ転がして次へ行く。
軽装だから、同じ相手の周りを何度でも回れた。
木の根を飛び越え、倒れた盾を踏み、別の兵の背後へ出る。
西夏兵が振り返る間に、最初にいた場所にはもう誰もいない。
個々の技は揃っていない。
だから西夏兵も、同じ受け方を続けられない。
點蒼の速い剣へ盾を向けた直後、横から重い棍が来る。
棍を受ければ、低い蹴りが来る。
乱れた戦場では、中小門派のばらばらさも一つの強みになった。
西夏兵の一人が、落ちた旗へ走った。
瑞笙の組にいた槍使いが追う。
だが旗の前へ、別の兵が身を投げた。
槍を腹に受けながら、旗竿を後ろへ蹴る。
さらに後ろの兵が拾う。
旗は上がらない。
それでも奥へ運ばれていく。
一人を斬っても、役目は次へ渡る。
侠客なら、技を破られた者はそこで負ける。
軍兵は、倒れた者の代わりを隣が務める。
徐光輝は旗を追わなかった。
目の前の槍を剣で外し、後ろの弟子へ言う。
「奥を見るな。足元を取れ」
點蒼の若い弟子が、倒れた盾を蹴って裏返した。
盾の列へ戻せないよう、木の根へ挟む。
別の弟子は、弩そのものではなく弦を斬った。
武器を奪って使おうとはしない。
西夏兵の道具を、西夏兵が使えなくする。
盛鴻年の側では、逃げる兵を二人だけ通した。
三人目が続こうとした時、足元へ剣が入る。
完全には塞がない。
逃げ道がなければ、兵は死ぬまで戦う。
細く残せば、押された者から後ろへ流れる。
その流れが、奥から出ようとする兵とぶつかった。
西夏兵同士の肩が当たる。
ほんの半息、前後が止まった。
弓箭社の矢は、その半息へ入った。
奥で太鼓の桴を上げた者が倒れる。
予備の旗手が腕を押さえる。
弓は弩より軽い。
一射の強さだけなら、巻き上げた弩と大きく変わらない。
だが射手は枝を移り、地面へ降り、走りながら次の矢を番えられる。
西夏弩兵が狙いを定めた時、もう同じ場所にはいない。
十二人しかいない。
矢も限られている。
それでも今だけは、丘のどこから射られるかを西夏兵に分からなくさせた。
「押せるぞ!」
混成組から声が上がった。
前へ出ようとする者が増える。
瑞笙の声が通った。
「見張り所を越えるな! 越えて得た功は、記録へ残さない!」
功を餌にして、功を欲しがる者を止める。
趙活の決めた境を、瑞笙は侠客たちへ通じる形に変えていた。
不満げな顔はあった。
それでも足は止まった。
最初の目的は果たした。
丘の外縁に、西夏軍が使えない空間ができた。
丘奥へ逃れた西夏兵は、三十ほどだった。
残る者は、疎林の中へ倒れている。
すでに動く者はいなかった。
弓箭社が合図を断ち、點蒼が陣形の前へ入り、瑞笙と三十六人が退路と合流を切った。
百五十いた守備兵のうち、百二十が丘へ残された。
甲冑が弱かったのではない。
甲冑を強さへ変える隊列を、一度も作らせてもらえなかった。
趙活はまだ疎林の外にいた。
木の向こうから、剣戟と叫びだけが聞こえる。
見えない。
最初の成功も、見張り所の中で誰が倒れたかも見えない。
伝令が走ってくる。
點蒼の若い弟子だった。
「外縁を取りました。徐師兄が、入れます、と」
趙活は朝廷軍を見る。
楊景略の旗が上がっている。
武林側の奇襲が始まったことを、軍も確認した。
朝廷軍の太鼓が鳴る。
盾兵が前へ出る。
軍も自分たちの前哨を一つ進め始めた。
「行きます」
趙活は馬を出した。
龍湘が横につく。
清虛子、碧波子、三人の伝令も続く。
白布を越える。
疎林へ入る。
丘の中央までは行かない。
點蒼が取った外縁の内側。
浅い窪みがあった。
正面の旗。
右の木立。
朝廷軍の旗。
三つが辛うじて見える。
「ここだ」
馬を止める。
龍湘が周りを見る。
「敵が近いよ」
「知ってる」
「弟は戦わないんだよね」
「戦わない」
「あたしが斬る?」
「俺のところへ来た相手だけ」
「分かった」
趙活がここから動かすのは、點蒼の剣ではない。
情報だった。
右の木立に軽装歩兵が見えた。
朝廷軍との間へ、西夏歩兵が寄ろうとしている。
丘の奥で新しい旗が上がった。
一つずつ、各組へ渡す。
「徐殿へ。丘の奥に新しい旗」
點蒼の伝令が走る。
「盛殿へ。右の木立に歩兵。まだ五人。弩が混じっています」
清虛子が旗を振り、別の伝令を出す。
「瑞笙公子へ。軍との間へ西夏歩兵。左が空きそうです」
命令というより、見えたものを渡す。
どう使うかは、現場の三人が決める。
徐光輝は前を押した。
盛鴻年は軽装歩兵へ弟子を回さず、弓箭社の警戒組に任せた。
瑞笙は槍と長刀を使う者から五人を選び、左へ置いた。自分は残りと乱戦を続けた。
それぞれ違う判断だった。
だが、互いを壊さない。
見張り所の西夏兵が崩れる。
丘の奥へ退く。
點蒼は追わない。
徐光輝が剣を上げて止める。
瑞笙の組から一人、逃げる兵を追おうとした。
瑞笙がその襟を掴んだ。
「線までだ!」
戦う前の約束が生きている。
西夏の小旗が倒れる。
弓箭社が縄を射切った。
歓声が上がった。
武林は丘の外縁を取った。
朝廷軍の旗も一つ前へ移る。
工兵が杭を打つ。
縄を張る。
盾を置く。
武林が西夏兵を乱戦へ縛っている間に、軍は地面へ形を残していく。
趙活は息を吐いた。
龍湘が問う。
「勝った?」
「最初だけ」
「まだ続く?」
「続く」
西夏の丘の奥で、低い太鼓が鳴った。
今度は銅鑼一つではない。
後方の陣へ届く太鼓だった。
西夏軍が、ようやく武林を敵の一隊として見た。
### 四月二十七日 辰の刻 疎林の丘
最初の西夏兵は、武林を知らなかった。
次に来た兵は、もう知っていた。
盾を取る前へ入られる。
木の上から弩手を射られる。
旗と銅鑼を潰される。
一度の敗北で、それだけを知った。
奥の太鼓は、弓の届かない場所へ移されていた。
旗手は一人ではない。
低い旗が盾の後ろへ三本並ぶ。
一本を射られても、残り二本が同じ動きを伝える。
先ほど逃げた兵から聞いたのだろう。
緑衣は速い。
木上に弓がいる。
ばらばらの武器を持つ者が、乱戦になってから増える。
それだけ分かれば、対処を考えるには足りた。
丘の奥から、新しい盾列が進んでくる。
逃れた三十人の後ろから、新手が百八十ほど入った。
先ほどの守備兵より多い。
しかも百二十の死体を見た後で、なお列を崩さず進んでくる。
走らない。
外縁の乱戦へ、そのまま入らない。
前列は大盾と重い札甲。
その後ろに長槍。
さらに後ろへ弩。
最初に丘へいた兵と、身につけている甲が急に変わったわけではない。
変わったのは、甲を着た兵の間に隙がないことだった。
盾を置く。
弩が射る。
三歩進む。
また盾を置く。
盾の端と端を重ねる。
一人が木を避ければ、隣の兵も同じ幅だけ動く。
木と盾の間には、槍の穂先が置かれる。
横へ回る道は、軽装歩兵が塞ぐ。
點蒼が踏み込める半歩を、どこにも残さない。
散った兵を、無理に救いへ行かない。
逃げ戻る者は盾の間から通す。
追う侠客だけを弩で射る。
武林の速さへ、速さで付き合わなかった。
徐光輝が剣を届かせようとする。
盾列は止まる。
槍を出す。
一枚の盾だけなら、徐光輝は横へ抜けられる。
二枚でも、木を蹴れば上を越えられるかもしれない。
だが着地する先にも盾がある。
その後ろには、穂先を揃えた槍がある。
一人の懐へ入っても、左右の兵が槍を短く持ち替えて突く。
背後へ回ろうとすれば、二列目が前列の肩越しに穂先を向ける。
先ほどは兵一人の周りを二人で回れた。
今は、列全体が一つの大きな甲冑になっていた。
點蒼が下がれば、弩を上げる。
先ほどの兵とは違う。
正規の形を作ってから来た。
徐光輝の剣が盾の縁を叩く。
鉄の音がする。
盾は揺れた。
だが、その後ろの兵は倒れない。
足を踏ん張り、隣の肩と後列の手に支えられている。
正面から受ける限り、重い甲と盾は強かった。
侠客の軽巧は、空いた場所へ入る技である。
空いた場所そのものを消されれば、速さだけでは前へ進めない。
弓箭社の一人が木へ上がる。
盾の後ろを見る。
弩手へ一射。
同時に、西夏弩兵が木の根元を射た。
射手は枝を離れている。
だが降りた場所へ二本目が来る。
地上の仲間が射手を引いた。
矢は肩口を掠め、衣を裂いた。
血は出たが、腕は動く。
木上射撃は、もう知られていた。
同じ枝へ二度立たなくても、降りる場所を待たれる。
弓箭社は木へ上がる者を二人へ減らした。
地上から盾の横を狙う。
西夏の軽装歩兵が右へ出る。
五人ではない。
十五。
弩手を挟み、木上の射手と地上の援護役を丘の外へ追い出すための数だった。
盛鴻年が弟子を八人回す。
右が薄くなる。
西夏盾兵が、その場所へ寄った。
こちらが一人動けば、その分だけ形を変える。
速くはない。
だが、間違えない。
趙活のところへ伝令が来る。
「盛師兄、右は半刻なら保てる」
「徐殿へ伝えてください。右は半刻。敵の予備は、見えるだけでさらに一列。軍の柵はまだ半分」
答えを命じない。
事実を渡す。
徐光輝は、その報せを聞いて一度前へ出た。
攻めるためではない。
若い弟子を先に下げるためだった。
點蒼が交互に退く。
二人が戦う。
一人が下がる。
次の三人が前へ出る。
同門だからできる交替だった。
瑞笙の混成組は、退かなかった。
點蒼が交替を始めても、瑞笙の周りでは刀も棍も前を向いていた。
士気は落ちていない。
むしろ瑞笙が盾列を止めるたび、まだ押し返せると前へ出ようとする者がいた。
だが、負傷者が出た。
一人が倒れる。
二人が助けへ止まる。
誰が穴を埋めるか、一瞬迷う。
逃げたのではない。
同じ門派から来た仲間を、置いて進めなかった。
その情の厚さが、混成組の列には穴を作った。
西夏の盾が、その一瞬へ入った。
五人分の場所が押される。
瑞笙が自分で穴へ立つ。
剣が三つの穂先を続けて外す。
盾の縁へ掌を当て、先頭の一枚を半歩だけ押し戻す。
白衣が盾列の前で翻る。
西夏兵の一人が、先ほどの叫びを覚えていた。
「白衣へ一人で出るな! 盾を離すな!」
声は後ろへ渡った。
低い旗が一度振られる。
瑞笙の正面へ盾が二枚。
左右には槍。
一人を倒そうとはしない。
白衣の剣客が右へ動けば、盾列も右へ幅を詰める。
左へ移れば、二列目の槍が先にその場所を塞ぐ。
西夏軍は瑞笙を破ろうとせず、強い一人として列の正面へ縛った。
だが、その後ろの兵は倒れない。
二列目が背を支え、左右の盾がすぐ隙間を埋める。
瑞笙なら、兵一人は破れる。
二人目も倒せる。
それでも三十六人分の穴を、一人では埋められなかった。
今度は脇へ回る余地もない。
瑞笙の右後ろで、倒れた侠客を庇う者が止まった。
一人分の穴が開く。
そこへ槍が入った。
南渓が横から踏み込んだ。
剣が槍の穂先を斬り上げる。
返す柄で盾兵の肩を打ち、倒れた侠客を後ろへ蹴るように送った。
だが、負傷者を送った分だけ、南渓の右が空いた。
盾の陰から、二本目の槍が伸びる。
南渓が向き直るより先に、瑞笙の剣がその穂先を外した。
「礼は言わんぞ」
南渓は瑞笙を見ずに言った。
「ああ、構わない」
瑞笙も正面を見たまま答えた。
言葉はそれだけだった。
瑞笙は開いた穴を塞ぎ、南渓は負傷者の前へ一歩残る。
二人は、別の敵へ剣を向けた。
南渓は次の槍を斬り払い、さらにその奥の兵へ向く。
清虛子が旗を一度上げる。
注意。
碧波子が声を通す。
「南渓女侠、戻れ!」
南渓はもう一人を下げた。
それから趙活を見る。
趙活は後ろを指す。
南渓が下がる。
任せられた者は、最後には戻る。
西夏の太鼓が三度鳴った。
前の盾兵が下がる。
新しい盾兵が出る。
こちらに、新しい點蒼はいない。
弓箭社の矢も減っている。
瑞笙の組は、負傷者を出すたび薄くなる。
兵の厚みが違った。
赫連はいない。
それでも丘が削られていく。
西夏軍は、高手へ高手を当てなかった。
徐光輝が一人で前を保てば、盾を二枚向ける。
その横を、別の兵が進む。
倒そうと集まらない。
高手一人を二枚の盾へ縛り、残りで丘を取る。
武林なら、強い者へ強い者を当てる。
軍は、相手の強さへ付き合わない。
甲を着た兵も、一人で侠客を追わなかった。
點蒼の弟子がわざと一歩下がっても、盾列から出ない。
中小門派の者が横から罵って誘っても、顔だけを向けない。
追えば囲まれると、もう知っている。
槍の届く正面だけを戦場にし、届かない場所へ敵が行けば、次の盾列に任せる。
武林側は西夏兵を一人ずつに分けたかった。
西夏軍は最後まで、一人にならなかった。
その上、前列だけが押しているのではなかった。
後ろでは負傷者を引く者と、盾を渡す者が分かれている。
倒れた盾兵の場所へ、次の盾兵が入る。
槍が折れれば、後ろから新しい槍が来る。
弩手は二列で交替し、片方が射る間に片方が弦を巻く。
一人一人を見れば、點蒼の弟子より遅い。
瑞笙よりはるかに弱い。
南渓の前へ出れば、一合も保たない者もいる。
だが、一人の敗北を列の敗北にしない仕組みがあった。
甲の重さも、列の中では弱みにならない。
急に振り返る必要がない。
遠くまで走る必要もない。
前へ三歩進み、止まり、正面から来る刃と矢を受ければよい。
疲れた者は後ろへ下がり、同じ甲を着た次の兵が入る。
重さを一人で背負わず、隊列全体で使っていた。
武林側には、その仕組みがまだない。
負傷者を下げるたび、知り合いが肩を貸す。
門派が違えば、誰が代わりへ入るか声を掛け合う。
その一声の間に、盾は半歩進む。
半歩。
さらに半歩。
速くはない。
だが丘の地面が、少しずつ西夏へ戻っていく。
趙活は朝廷軍を見る。
柵が繋がった。
杭。
縄。
盾。
槍兵も入った。
軍は前哨を一つ、地面へ残した。
目的は達した。
丘を守る理由は、もうない。
「清虛子」
「見えている」
二本目の旗を持つ。
「碧波子」
「いつでも」
退き鐘が一度鳴った。
旗が二本上がる。
碧波子の声が疎林を抜ける。
「全部戻れ! 丘を捨てろ!」
徐光輝が剣を上げる。
點蒼が下がる。
盛鴻年の組も右の歩兵から離れる。
弓箭社は残った矢で、追う者だけを射る。
瑞笙が混成組を数える。
二人足りない。
瑞笙は一歩、丘へ戻りかけた。
二度目の鐘が鳴る。
旗も二本、まだ上がっている。
瑞笙は丘を見た。
歯を食いしばる。
それでも戻った。
二度鳴った後は、理由を探さない。
戦う前に決めた。
徐光輝と南渓が左右の殿へ立つ。
盛鴻年も戻る。
瑞笙は中央へ残った。
四人の高手が揃う。
追ってきた槍が、瑞笙の前で二本続けて逸れた。
白衣の袖に矢が触れる。
瑞笙は剣の腹で流し、退く侠客の背後へ落とす。
前へ出て勝ちを取り返そうとはしない。
混成組の最後の一人が白布へ届くまで、同じ歩幅で下がった。
西夏軍は、四人を倒すために兵を投げなかった。
弩を上げる。
離れて射る。
三人も下がる。
白布を越えた。
朝廷軍の旗が下がる。
弩矢が、西夏兵との間へ突き刺さった。
軍の弩は丘まで届かない。
だが、決めた境まで戻れば退路を守れる。
追撃が止まる。
丘へ西夏の旗が戻った。
盾列の後ろで、若い西夏兵が白布の向こうを見ていた。
名は知らない。
どの門派かも知らない。
ただ、白衣の剣客が混じっていたこと。
槍を続けて外し、崩れかけた侠客をまとめ、最後まで中央を退かなかったこと。
若い兵は、白衣の剣客が白布の向こうへ消えるまで目で追っていた。
### 四月二十七日 未の刻 武林陣
唐惟元の前へ、名前が運ばれる。
點蒼。
死者七。
重傷十一。
軽傷二十三。
中小門派と個人侠客。
死者六。
重傷九。
軽傷十二。
弓箭社。
死者なし。
重傷なし。
軽傷五。
いずれも矢傷は浅い。手当てと休養を挟めば、十二人全員が次の戦へ出られる。
行方不明二。
最後に見た場所。
一緒にいた者。
捕らえられた可能性。
死んだ可能性。
どちらも書く。
徐光輝は腕を縫われていた。
葉雲舟が軍医を手伝う。
武林側の重傷者も、軍の医療列へ運ぶことを許された。
軍医が武林陣へ来たのではない。
患者を軍側へ運び、記録を通し、そこで診る。
境は残る。
だが道は通った。
盛鴻年は額へ布を巻いている。
南渓は無傷だと言い張った。
袖に血がついている。
「返り血だ」
「腕を見せてください」
葉雲舟が言う。
「傷はない」
「見せてください」
「ない」
趙活が呼ぶ。
「南渓女侠。お願いするよ」
南渓は少し黙った。
袖を上げる。
浅い傷が一本あった。
「洗います」
「これくらいで」
「浅い傷ほど、後で膿むことがあります」
南渓は不満そうに座った。
徐光輝が笑う。
「趙総帥の言葉なら聞くのだな」
「任せると言った者の言葉は聞く」
「俺も任された」
「なら、縫われていろ」
徐光輝は黙った。
周囲へ小さな笑いが広がる。
死者の名を書いている場所だった。
それでも、呻き声だけを残すよりよかった。
一人だけ、笑わない男がいた。
行方不明になった二人のうち、一人と同じ門派の年嵩の侠客だった。
弟分を見捨てたと思っている。
男は趙活の前へ来る。
「鐘が早かった」
「そうかもしれません」
趙活は否定しなかった。
「あと少しあれば、二人を探せた」
「その少しで、西夏の新しい盾列が入っていました」
「見たのか」
「見えた分だけです」
「見えない場所に、二人はいた」
「はい」
男の拳が震える。
趙活へ怒っている。
自分へも怒っている。
戻ったことへ。
戻って生きていることへ。
「戻らず探せ、と命じればよかったですか」
男は答えない。
「俺には、二人の場所が見えませんでした。生きているかも分からなかった。見えたのは、敵の予備と、朝廷軍の柵です」
「だから捨てた」
「全部を退かせました」
「言葉を変えただけだ」
「そうかもしれません」
正しかったと言い切れば、二人を軽くする。
間違えたと言えば、次に鐘を鳴らせない。
「二人は行方不明で残します。捕虜が出れば聞く。夜に丘の周りも見ます。ただし、取り返しには出しません」
「俺一人なら」
「止めます」
「総帥の権でか」
「今日、あなたも認めた権で」
男は趙活を睨む。
「鐘を聞いて戻ると決めたのは、私だ」
瑞笙が二人の間へ来た。
白衣にも血がついている。
自分のものではない。
混成組の負傷者を下げる時についた血だった。
「趙総帥が丘の外から退きを命じた。だが、目の前に残った者を見ながら、それでも組を戻したのは私だ」
「瑞笙公子を責めているのではない」
「ならば私を外して、趙総帥だけを責めることもできない」
声は静かだった。
威圧したわけではない。
それでも、男は次の言葉を飲み込んだ。
瑞笙は続ける。
「二人を軽んじてはいない。だが戻れば、さらに何人も残った。私はそう見た」
男は瑞笙を見た。
それから、もう一度丘を見る。
やがて拳を開いた。
「分かったとは言わん」
「構いません」
「だが勝手には出ない」
「ありがとうございます」
総帥の仕事は、全員を納得させることではない。
納得していない者にも、今は動かないと決めてもらうことだった。
陸紹文が武林陣へ来た。
靴に土が厚くついている。
「楊将軍からだ。軍は、進めた前哨を今夜保つ」
「西夏は」
「丘へ兵を増やしている。二百を越えた。夜には三百近くなる」
狙い通りだった。
丘を一度奪い、西夏の予備を引き出し、その間に朝廷軍の前哨を一つ進めた。
最後に丘を取り返されたことまで含め、定めた目的は果たしている。
趙活は顔を曇らせなかった。
死者の名を軽く扱うつもりはない。
だが、勝って戻った者の前で、総帥が敗れた顔をするわけにもいかなかった。
唐惟元が損害を読み上げる。
軍側は死者五。
重傷十三。
軽傷二十七。
武林より少ない。
だが軍は丘へ入っていない。
代わりに、退いた後も残る前哨を作った。
「西夏側は」
陸紹文が問う。
唐惟元は別の紙を見る。
「西夏兵の死者、百二十。丘を押さえていた間に遺体を数え、各組の記録とも合わせたっス」
趙活は、総帥の顔を作った。
胸にあるものを隠すためではない。
今、皆へ見せるべき顔を選ぶためだった。
声を武林陣へ通す。
「今日の戦は、こちらの勝ちだ。丘を持ち続けることが目的ではない。軍の前哨は進み、西夏は丘へ兵を戻した」
負傷者も、血のついた武器を置いた者も、顔を上げる。
「丘へ入った者。旗と銅鑼を射た者。負傷者を運んだ者。鐘を聞いて退き、持ち場を守った者。皆、よく働いてくれた」
歓声を求めた言葉ではない。
勝ちを勝ちとして、そこにいる者へ返すための言葉だった。
「死者の名は残す。行方の分からぬ二人も、死んだものとして片づけない。傷を診てもらい、食べて、休め。次の戦は、今日の働きの上にある」
唐衫の後ろで、若弟子たちが趙活を見ていた。
眉山の英雄が、自分たちの働きを勝ちとして受け取った。その目には、ますますそう映ったのだろう。
唐門の古参たちは、少し違う顔をしていた。
外弟子だった頃から知る男には、ずいぶん似合わないことをしている。だが、誰も案じてはいない。趙活なら、似合わないなりに最後まで何とかする。その程度のことは、とうに信じていた。
唐惟元は何も言わず、次の記録を待って筆を構えた。
葉雲舟は、趙活の声が止んだ後も、その顔をしばらく見ていた。
龍湘だけは険しい顔で見ていた。
それから唐惟元を見る。
「得たものも、失ったものも、どちらも記録してくれ」
「首は」
中小門派の一人が聞いた。
「持ち帰ってないっス」
「なら、功をどう証す」
唐惟元は筆の柄で紙を叩いた。
「誰と入ったか。どの見張り所へ入ったか。何を壊したか。誰が見たか。今日はそれで記すっス。首だけ数えたら、旗を落とした弓箭社の働きが消える」
「敵を斬った者と同じ功か」
「同じとは言ってないっス。違う働きを、違うまま残すんスよ」
場が少しざわつく。
武林では、名のある敵を倒すことが分かりやすい功になる。
だが今日、最初の隙を作った矢は、名のある者を射ていない。
銅鑼を鳴らす兵。
旗を上げる兵。
弩を構える兵。
一人ずつなら、誰も江湖で名を知らない。
その名のない働きを止めたから、點蒼が丘へ入れた。
「軍の記録にも、見張り所の旗と銅鑼を先に潰したと入れる」
陸紹文が言った。
「ただし敵兵の死者数は、確認できた分だけだ」
「それでお願いします」
趙活は答えた。
大きく見せる必要はない。
小さく消す必要もない。
次に同じ丘へ入る者が、何が効き、何が効かなくなったかを読めればよい。
「今日の武林は、軍からどう見えました」
趙活が問う。
陸紹文は考えた。
「速い」
やがて言う。
「速すぎる。列がない。崩れたのか、散ったのか分からん。だが散った者が、別の場所で急に一つになる」
「軍へ混ぜられますか」
「邪魔だ」
正直だった。
「だが、軍の列が届かない場所へ先に入るなら使える。今日も、お前たちが丘を騒がせた間に前哨を作れた」
「武林から見ると、軍は遅いです」
「知っている」
「でも、退いた後にも柵が残った」
「そのために遅いのだ」
互いにできることが違う。
協力とは、その違いを消すことではない。
違うまま、同じ敵へ重ねることだった。
### 四月二十七日 申の刻 朝廷軍前哨
趙活は、新しい前哨を見に行った。
遠くから見れば、柵が一本増えただけだった。
近くへ来ると、地面へ短い段が削られている。
水を逃がす溝。
盾を置く場所。
槍を立てる穴。
弩兵が膝をつく土盛り。
負傷者を後ろへ運ぶ細道。
今日作ったため、どれも粗い。
だが、何のためにあるかは分かる。
夜番へ入る兵は、これを作った兵ではない。
それでも同じ穴へ槍を置き、同じ場所を守れる。
人が替わっても、働きが残る。
楊景略は柵の外を見ていた。
「辛気臭い顔だな」
「元からですよ」
「見ろ。これはなんだ?」
足元の柵を示す。
「朝廷軍が進めた前哨です」
「そうだ。分かっているじゃないか」
「……そんなに分かりやすかったですか?」
「分かる奴には分かる」
趙活は丘を見る。
西夏兵が盾を運び上げている。
「最初の兵は、こちらを軽く見ていました」
「軽く見たのではない」
楊景略は言った。
「知らなかったのだ。知らぬものを、知っている散兵へ当てはめた」
「同じことでは」
「違う。侮っただけなら、次も侮る。知らなかった者は、一度見れば改める」
今日の西夏軍は、実際に改めた。
木上の弓を狙った。
點蒼の速さへ付き合わなかった。
軽装歩兵と弩手を弓箭社へ回した。
高手を倒すために集まらなかった。
「野利震山は、次から最初からあの形で来る」
「はい」
「明日も丘へ入るか」
「入りません」
「武林の者は不満を言うぞ」
「もう言われました」
「止まるか」
「勝手には出ないと言いました。見張りも置きます」
楊景略は鼻から息を吐く。
「軍兵も見張らねば抜ける」
「そうなんですか」
「人だぞ」
軍服を着れば、恐れなくなるわけではない。
帰りたい者もいる。
功を欲しがる者もいる。
違うのは、命令を破った時の法と、それを見る役が初めからあることだった。
「今日、赫連がこちらへ出ていたら」
趙活が問う。
「この前哨も捨てた」
「作ったばかりでも」
「必要なら」
兵が血を流して作った場所である。
それでも捨てる。
場所を守るために軍があるのではない。
軍を残すために場所を使う。
「武林側へ赫連が出ても、軍は助けに行かぬ」
楊景略は続けた。
「列を崩して丘へ入れば、野利震山が正面へ来る。赫連を止められず、正面も失う」
「だから、こちらは自分で退く」
「そうだ」
互いを助けるため、同じ敵へ集まらない。
趙活は地図の上では知っていた。
今日、初めて地面の上で理解した。
「明日は山道を見ます」
「報告を見てから動け」
「はい」
楊景略は軍兵へ向き直った。
話は終わりだった。
趙活も前哨を下りる。
途中で振り返った。
丘は西夏にある。
前哨は宋軍にある。
その間には、今日倒れた者の血がある。
どれか一つだけを見て、今日を決めることはできなかった。
### 四月二十七日 酉の刻 武林陣南口
最後の山道斥候が戻ったという報せと、南から新しい旗が来たという報せは、ほとんど同時だった。
斥候は生きていた。
右脚を傷めている。
西夏兵が道の中段へ柵を作り、弩を崖側へ置いたことを伝えた。
横へ抜ける岩道はある。
だが二人並べない。
上から射られる。
狄傲は地図を見て言った。
「今夜、私が道を見るわ」
唐門の古参弟子が言う。
「俺が案内する」
趙活は戻る時刻を決めた。
夜半まで。
過ぎても迎えを上へ出さない。
登山口で待つだけにする。
「夜半を過ぎてもあたしたちが戻らなければ、それでも迎えを山へ出さないのか」
狄傲が問う。
趙活は少し黙った。
「出したくなります」
「正直だな」
「だから、その時は俺一人で決めません。登山口の軍指揮役と瑞笙公子にも聞きます」
「それでいい。あんたが何でも一人で決めるもんじゃない」
二人が夜へ備える間、南宮家が武林陣へ入ってきた。
丐幇とはまるで違う姿だった。
衣が揃う。
荷車の幅が揃う。
護衛の歩幅まで揃う。
薬。
乾飯。
矢。
布。
筆と紙。
何を積んだ車か、札が下がっている。
南宮家の先遣、八十余。
少し後ろには、滄幇の先行組もいた。
滄幇の先行組については、唐惟元が別に名と人数を改めていた。
南宮偉は馬へ乗らず、先頭を歩いている。
武林陣の入口で捕役に止められる。
名簿を求められる。
南宮家の書記が、すぐに出す。
軍の記録役が荷を改めようとすると、護衛が眉を寄せた。
南宮偉が止める。
「立会いの下で開けてください。疑われることも含めて、ここへ来たのです」
趙活が戻った時、南宮偉は臨時総帥の承認文を読んでいた。
本文。
各派の名。
時刻。
立会人。
順に確かめる。
「南宮偉殿」
「趙総帥」
呼び方に、からかいはない。
「遅くなりました」
「来ていただけただけで助かります」
「その言い方は、頼み事を増やすおつもりのようですな」
「顔に出ましたか」
「出したのでしょう。私へ断りにくくさせるために」
「少しだけ」
南宮偉は承認文を持ち上げた。
「どなたが書かれましたか」
「宋悲殿と唐惟元師兄が文案を作り、各派の名代にも見てもらいました」
「悪くはない。じゃが、このままでは後から揉めるでしょう」
軍陣外という言葉が広すぎる。
朝廷軍が進めば、外も動く。
今日だけで前哨が一つ進んだ。
軍と合意した協働区域。
武林陣。
民列。
後送路。
武林が置く前哨。
分けて書く必要がある。
境が動けば、軍と武林双方の記録へ時刻を入れる。
もう一つ。
各派本隊が来た後、改めて軍議を開くとある。
では本隊が来れば、今日までの命令を全部覆せるのか。
「そのつもりはありません」
「おつもりだけでは、文として弱い」
南宮偉は言う。
「本隊到着後の軍議は、それ以後の権限を決めるためとする。それまでに行われた命令と、そこから生じた功罪は後から消さない」
趙活は意味を考えた。
自分の命令を守る文だった。
同時に、自分の失敗も消せなくする文である。
「厳しくなりますね」
「権限だけをお望みですか」
「いいえ」
「でしたら、よろしい」
南宮偉は文を畳む。
「南宮家は、この承認へ名を加える」
周囲がざわめいた。
三大名家の一つ。
南宮家が、後から既決の文へ名を置く。
「ただし、南宮家が唐門の傘下へ入る意味ではない」
「點蒼にも言われました」
「当然じゃろう」
「そこだけは皆、よく揃いますね」
「趙総帥が初めに分けておかなかったからです」
南宮偉は丘を見る。
西夏の火が増えている。
「道中、負傷者とすれ違いました」
「今日、丘を攻めました」
「取れましたか」
「一度は。取り返されました」
「何を得ましたか」
「軍の前哨が一つ進みました。西夏は丘の守りを増やしています。それから、武林も西夏軍も、互いを一度知りました」
「損害は」
趙活は数字を答えた。
南宮偉は顔を変えない。
「多いですな」
「はい」
「ですが、数を言えた」
「唐惟元師兄と宋悲殿のおかげです」
「それも、趙総帥の仕事です」
「俺は書いていません」
「何もかも自分でする者は、上に立つべきではありません」
趙活は黙った。
誰かへ任せた仕事を、自分の働きだとは思えない。
だが自分とは関係ないと言えば、責任から逃げることになる。
「早く慣れろとは言わん」
南宮偉は言った。
「慣れすぎるよりはよい。じゃが、迷うたびに立ち止まってはいけません」
「肝に銘じておきます」
趙活は怪我をおして眉山の決戦を見に来ていた悪友のような男を思い出す。
「ところで、深殿の容態はいかがですか」
南宮偉は額へ手を置き、困った顔をした。
「それがのお。若も、まだ傷が治っておらぬというのに、こちらへ来たがってな。押し留めるのに苦労したのじゃ」
「それはそれは……。問題なさそうですな」
「そのように残念そうな顔をなさいますな。その御顔でされては、こちらまでつい笑ってしまう」
南宮偉は、すでに笑っていた。
「ご安心召されよ。若の分、いや、唐三俠の分まで、わしが果たしてみせましょう」
「もう笑ってますよ、偉殿」
南宮家の荷が四つへ分けられる。
軍。
武林陣。
民列。
医療列。
人も三つへ分かれた。
医療列の警備。
炊事場と兵糧の出入り。
そして武林主隊の警備である。
南宮家の門人は鉄扇を帯び、肩を守る甲を着けている。肩を重ねて盾列を作る装いではない。だが、守る場所を定めて数人ずつ置けば、刃を外し、踏み込んだ敵を剣で止められる。
普段は三か所を守り、陣内へ敵が入った時だけ集まって穴を塞ぐ。南宮偉はその形で人を割った。
上官家からの荷も一部混じっていた。
趙方の軍報が朝廷を通った結果ではない。
そこまで早くはない。
瑞笙が襄陽へ向かったという話を受け、南宮家が先に動かせるものを動かした。
命令が来てから荷を集めれば遅い。
命令が来ると見て、積めるものを積む。
正式な命が来れば、後続を増やす。
趙活の見えないところでも、人は動いていた。
日が沈む。
疎林の丘には西夏の火。
朝廷軍の新しい前哨にも火。
武林陣には南宮の旗。
丐幇は南の道へ散っている。
狄傲と唐門の古参弟子は山道へ出る。
崆峒の門は閉じたまま。
丹霞子の六百とは、まだ声も文も通らない。
一日で、互いに一つずつ知った。
西夏軍は、武林が軍陣の外から押す敵ではないと知った。
武林は、西夏兵が一度破れば崩れ続ける相手ではないと知った。
次は、どちらも今日と同じ間違いをしない。
趙活は地図へ印を置く。
西夏が取り返した丘。
朝廷軍が進めた前哨。
崆峒山道の柵。
南へ進んだ民列。
南宮家の到着。
最初の半息は、もう戻らない。
だから次は、別の半息を作らなければならない。